紅の屋敷に来て、一カ月が過ぎていた。
色もニコも芯もいなくなった屋敷には、紅と蒼だけが住んでいる。 二人で暮らすには広すぎる屋敷だが、この生活にも少しずつ慣れてきた。蒼には、以前から不思議に思っていることがあった。
「この家の家事って、誰かやってるんだろう」
部屋に入れば準備されている食事も、いつも綺麗に整えてある着物も、ふかふかの布団も、誰がやってくれているのだろう。
(屋敷の中には紅様の気配しかないし、それらしい妖怪や人間の姿も見ない)
霊元が開いてから、気配で相手がわかるようになった。
人間か妖怪かは勿論、会った相手なら妖気や霊気で識別できる。「霊力ってすごいな。本当に魔法みたいだ」芯の言葉を思い出して、クスリと笑んだ。
蒼は自分の部屋から外を眺めた。 瑞穂国に来てから晴れた日しか知らない。 陽射しの暖かさも風の心地よさも土の匂いも、今なら感じられる。(きっと紅様のお陰だ)
霊力とか魔法ではなくて、紅が愛してくれるから。
命と生活の保障があって、愛してくれる人がいる。 蒼の心が満たされて豊かでいられるのは全部、紅のお陰だ。(餌として売られたのに、こんな生活が送れるなんて、思ってなかった)
一カ月前の自分に今の話をしても、きっと信じないだろう。
何だか不思議な気分だった。「そろそろ昼餉の時間かな」
紅は蒼と同じ食事をしない。
時々には食べたりもするが、真似事らしい。 基本は蒼が食事している姿を見て楽しんでいる。 ちゃんと食事をしないと心配するから、決まった時間になったら食事処に行くようにしている。いつもなら屋内の廊下を歩くのだが、今日は風が心地よいから縁側を通った。
客間に続く縁側の辺りに、誰かいる。 蒼の足が止まった。真っ黒な髪と黒い着物。
耳と尻尾があるように見える。(黒い妖狐かな。紅様と気配
しばらくして、火産霊が数冊の本と紙と筆を持って戻ってきた。「色々持って来たぞ。蒼愛はどれがいい?」 火産霊が見せてくれたのは、現世にもある昔話の簡単な本から、ちょっと難しそうな幽世の本まで色々あった。 その中の一冊に、蒼愛は手を伸ばした。「これ、瑞穂国のお話ですか?」 タイトルには『瑞穂国創世記』と書いてある。「ああ、そうだ。瑞穂国ができた時の話だ。漢字が多いから勉強にもなるぞ」「これが良いです! 漢字、覚えたいです!」 蒼愛はぴょんと起き上がった。 途端に体中が痛くて、隣に腰掛ける火産霊の膝にぱたりと倒れた。「無理して起き上がんな。横になって読もうぜ。うつ伏せになれば、読めんだろ。漢字も書ける」 火産霊が笑いながら横たわった。 ちょっと行儀が悪い気もしたが、神様が良いというのだから、と思って蒼愛も横になった。「神様の名前も沢山出てくるから、そうだな。先に俺らの名前を書けるように練習するか」「火産霊様の? この本には、火産霊様も出てくるんですか?」「当然だろ。この国を作った時の話だぜ。今の神々は皆、出てくるよ」 蒼愛は、呆然とした。 言われてみればその通りなのだろうが。 ぽやっとしている蒼愛の額を、火産霊が突いた。「急にぼうっとして、どうした?」「だって、現世じゃ、国を作った神様には普通、会えないし。会ったことのある相手が神話に出てくるとか、感覚がよくわからないというか」「瑞穂国でだって、普通はそうそう会えるモンじゃねぇぞ」 火産霊の言葉が余計に理解できなかった。「蒼愛は色彩の宝石で、紅優の番だから神様に会ってるだけだ。普通に地上に住んでる妖怪は、生きてる間に会う機会もねぇ。下手したら神様の存在すら信じてねぇとか知らねぇ奴もいるんじゃねぇか」 火産霊の説明には違和感しかなかった。「え? え? でも、紅優も黒曜様も普通に神様に会っているし。蛇々だって、神様の宮にわざわざ僕の話をしに来ていたんですよね?」
次の日の朝、体中が痛くて重くて、蒼愛は起き上がれなかった。 空が白みがかるような時間まで紅優に愛されていたので、睡眠もほとんどとれていない。(紅優、お腹空いてたのかな。いつもよりいっぱい食べられた……) 蒼愛も、いつもより沢山紅優の妖力を喰った。 最近は紅優の妖力で空腹が満たされるので、人間のような食事の頻度が減った。(人じゃなくなるって、こういう感じなのかな。日美子様にも、人と同じように成長しないし、する必要がないって言われたけど) 自分が人間という存在であり続けることに執着はない。 そもそもが人間の扱いを受けずにきた命だ。(ご飯を食べられなくなるのは、ちょっと悲しいかも。美味しいもの食べると幸せな気持ちになれるし) 空腹だからこそ、飯が上手い。 そういう美味しいを感じられなくなるのは、勿体ない気もする。(この発想自体が贅沢だ。空腹を満たせなくて飢えていた頃だってあったのに) あの頃は、腹なんか空かなければ良いのにと思っていた。(僕、どんどん贅沢になってる気がする。そのうち贅沢だとも思わなくなるのかな。それはちょっと、怖いな) 今の幸せに慣れて、どんどん贅沢になる自分を想像したら、怖くなった。 大切な何かを見失ってしまう気がした。「蒼愛、大丈夫かぁ」 声と同時に扉が開いて、火産霊が入ってきた。「火産霊様、すみません。いつまでも寝ていて……」 起き上がろうとする蒼愛を火産霊が止めた。「寝ていて構わねぇよ。紅優がやり過ぎたって言っていたからなぁ。今日は一日、寝ていろよ」「やり……」 かっと顔が熱くなった。 何でも話せる仲良し兄弟なのかもしれないが、そういう話はできれば内緒にしてほしい。「蒼愛が佐久夜を一緒に愛そうって言ってくれたのが、嬉しかったんだってよ。俺も嬉しかったぜ。前の番にまで愛情を向けるなんてなぁ、そうできるもんじゃね
夕餉を終え、風呂でさっぱりして、蒼愛は紅優と床に就いた。 ずっと耳が寝っぱなしの紅優を胸に抱いて眠った。 いつもは蒼愛が紅優に抱いてもらって眠るのに。大きな紅優を包み込んでいるような気持になれて嬉しかった。(紅優にとってはとても大事な話で、打ち明けるのにも勇気がいる過去だったんだ) 黙っておくことも出来なくて、話さなくても話しても辛くて。 そんな気持ちだったんだろう。 (どうしたら、紅優の気持ちが楽になるかな。忘れられなくても、せめて辛くないように、僕に出来ること、何かないかな) 紅優に喰われずに、共に生き続けること。 それがきっと一番だ。 しかし、すぐには証明できない。(僕が紅優をいっぱい愛していて、溶けないくらい力もあるよって、わかってもらえればいいのかな。ちょっと違う気がする) 蒼愛の気持ちも霊力も、紅優はきっと蒼愛よりよく知っている。(後悔してるのかな。佐久夜様と番になったこと。好きじゃ、なかったのかな) そういえば、紅優の答えを聞いていない。 蒼愛は腕の中の紅優を眺めた。蒼愛の胸に顔を寄せる紅優は、穏やかに寝息を立てている。(僕より先に眠っちゃうなんて、珍しい。御披露目、紅優も疲れたのかな) 紅優の白い耳をそろりとなぞる。 狐の耳は柔らかくて、触れていると気持ちいい。「どんな気持ちだったか、前より知りたくなったよ、紅優」 話を聞くまでは、ただの過去だと思っていた。 けど今は、佐久夜がどんな神様だったのか、気になった。「ん……」 小さく声を漏らして、紅優が蒼愛にぴたりと抱き付いた。「ぁ、ごめん。起こしちゃった……」「好きだったよ」 紅優が寝言のように呟いて、蒼愛は言葉を止めた。「あの時は、好きだって思ってた。けど、全然足りなかったんだ。好きって気持ちも、神様の番になる覚悟も、あの時の俺には足りてなかったんだよ」
「俺の前の番はね、火ノ神、佐久夜(さくや)。火産霊の前に瑞穂国の神様だった、火産霊の弟だよ」 蒼愛は目を見開いた。「妖怪と神様も番になるんだね。だから火産霊様と紅優は友達というか、兄弟みたいなの?」 もう一度、火産霊を見上げる。 火産霊が珍しく眉を下げた顔で頷いた。 「佐久夜はもういねぇが、俺にとっちゃぁ紅優は永遠に弟だ。何よりな、佐久夜が死んだのは紅優のせいじゃねぇ。まして、食い殺したわけじゃぁねぇ。あれぁ、佐久夜の方に問題があったんだ」 火産霊の説明は納得できたし、蒼愛も理由があったのだろうと考えていた。 理研の子供たちをあれだけ優しく喰って見送ってくれた紅優が、理由もなく番を食い殺すとは考えられなかったから。「クイナに瑞穂国の火ノ神を頼まれたのは、最初は俺だった。だが現世での役目があってな。代わりにこの幽世に来たのが佐久夜だった。けど、佐久夜は神力が弱くてな。そもそもが人と神の間の子だ。そういう存在は強くなるか弱くなるか、極端に分かれるんだ」 ぼんやりと火産霊を見上げる。 やはり蒼愛にとっては、日本の神話を聞いている気分だ。 何より話している火産霊の表情が気になった。いつもの明るさや豪胆さが抜け落ちて、肩が下がっている。「佐久夜の神力を強化する目的もあって、俺は番になったんだ。この幽世に来る前から、現世ではそれなりに名の知れた妖狐だったし、妖力も強かったからね。現世に居た頃から佐久夜を知っていて、この幽世にも側仕として来たんだよ」 黒曜も紅優も「現世には長くいた」と以前に話していた。 神に仕える妖狐なんて、強いに決まっている。 強くて美しい紅優が側仕になるのは、不思議じゃなかった。「それでね、蒼愛はもう、わかると思うけど。番になると体を繋げて食事をする。霊力や妖力を交換するでしょ。あれは、力が対等でないと、相手を飲み込んでしまうんだ」 紅優の顔が俯く。 言葉が途切れた。「つまり、紅優が佐久夜を飲み込んじまった。神力も魂も、体ごと喰っちまったんだ。佐久夜の神力より、紅優の妖力の
案内された部屋には、既に食事の準備が整っていた。 大きな膳に乗り切らないくらいの贅沢な和食が並んでいた。 感動している蒼愛を、火産霊が満足そうに眺めた。「蒼愛は和食とか和菓子が好きなんだろ。好きなだけ喰えよ。喰って、もっとでっかくなれ」 頭をわしゃわしゃと撫でられる。 仕草は雑なのに、その手つきはやっぱり優しい。「いただきます。僕の好み、紅優に聞いたんですか?」 食事を始めながら、聞いてみる。「いいや、淤加美に聞いた。火ノ宮に逗留させるつもりなら、蒼愛を傷付けないように大事に扱えってな」「御披露目の直後か……」 紅優が何かを思い出した顔で頷いている。「淤加美は、よっぽど蒼愛を気に入ったんだなぁ。蒼玉だし当然といやぁ当然だが。番だ神子だと、持っていかれなくて良かったな」 火産霊が悪戯な視線を向ける。「本当にね。良かったと思ってるよ」 紅優が素直に安堵の息を吐いていた。 火産霊が紅優に杯を差し出した。「ともあれ、お前ぇらは番になったんだ。さっき、蒼愛にも火の加護を与えたからな。紅優と同様に、俺の兄弟だ」 火産霊が嬉しそうに紅優と献杯する。 浮かれる火産霊の姿を眺める紅優も、なんだかんだ喜んでいるように見えた。 「火産霊様は……」「火産霊でいいぞ。敬語もいらねぇ。兄弟なんだから、気楽に話せよ」 蒼愛の言葉に火産霊がとんでもない要求を被せてきた。 神様を呼び捨てにするのはハードルが高い。 紅優に様付けと敬語を止めた時だって、気持ち的にはかなりの覚悟が必要だった。「えっと、火産霊……は、その……」 テンパり過ぎて、話が続かない。 自分が何を話そうとしていたのかも忘れてしまった。「ごめんなさい、ムリです。今は無理なので、もう少し時間をください」 恐縮する蒼愛を
紅優に抱かれたまま、蒼愛は火産霊が飛んで行った岩山を呆然と眺めた。(そういえば、ここはどこなんだろう。なんで火産霊様がいたんだろう) しかも紅優が割と本気で火産霊を攻撃していた。 あれは、大丈夫なんだろうか。「紅優、あの……」「痛ってぇなぁ。もうちっと優しく止めらんねぇのかよ。番を喰ったのは悪かったけどよ、やり過ぎだろうが」 いつの間にか、火産霊が戻ってきた。 体や服が所々煤けて黒いが、怪我をしている様子もない。「強引に連れてきて、突然喰った火産霊が悪い。蒼愛の魅了はあれくらい衝撃を与えないと解けないみたいだから、仕方ないよ」 紅優が大変不機嫌な顔で、そっぽを向いた。 同時に蒼愛の体を、ぎゅっと抱き締めた。「魅了? 蒼愛は、そんな術も使えんのか? いつの間に使ったんだ?」 紅優の不機嫌な様子など気にも留めずに、火産霊が興味津々な顔を向けてきた。「霊力を喰われると、喰った相手が魅了にかかっちゃうみたいで。僕も、その、発情しちゃうんですけど。紅優にシてもらわないと、収まらなくて」 淤加美は月詠見に殴られただけで正気に戻ったから、岩山に投げつけるほどの衝撃は必要なかった気もするが。「なるほどなぁ。そういうのは先に教えとけよ」「教える前に勝手に喰ったんでしょ。喰っていいなんて許可は出してないし、加護を与えるなら与えるで、それこそ先に教えてほしかったよ」 紅優が火産霊を睨みつけた。(さっきから紅優が子供みたいだ。御披露目の時みたいに敬語も様付けもしてないし。兄弟みたいな感じ、なのかな) 月詠見や日美子とは、また違う距離感だと思った。 友達より近いような、遠慮がないような、不思議な感じだ。「だってよ、そんだけ良い匂いさせてたら、喰ってみたくなるだろ。予想以上に極上の美酒だったぜ。あの霊力が喰えるんなら、魅了くらい構わねぇな。相手は蒼愛だし、好きになっても愛してもいいだろ」 火産霊が爽やかに笑った。 ちょっと