ここからの二、三日間、玲奈はずっと首都スマート交通プロジェクトの準備に追われていた。自分の構想に一切のミスがないようにと、実地での視察にも何度か足を運んだ。そして、締切直前に無事、入札書類を提出することができた。その知らせを受け取った礼二は笑って、玲奈にメッセージを送った。「お疲れさま」彼もこの数日、非常に忙しくしていた。会社全体の調整と藤田グループとの協業をこなす傍ら、ふたつのレセプションにも参加していたのだ。そのおかげで、今では複数の無人運転企業の代表たちから連絡が相次いでいる。彼はまずは各社の現状を詳しく調べてから、次のステップを考えるつもりだった。このところ、長墨ソフトと藤田グループの提携は非常に順調に進んでおり、現在はすでに次の協業段階へと進んでいた。その成功を祝して、智昭は彼ともうひとつの協力先を食事に招いていた。玲奈にメッセージを返したときには、ちょうど食事も終盤に差しかかっていた。礼二は智昭のことを好いてはいなかったが、それでも藤田グループが国内でも有数の大手テック企業であることは認めざるを得なかった。優秀な技術者が揃っていて、彼らとの作業は実際のところかなりやりやすかった。とはいえ、常に快適というわけではない。大森家や遠山家の面々と顔を合わせてしまう可能性も、どうしても避けられなかったからだ。礼二は挨拶ひとつ交わすことなく、その場をさっと後にした。彼の背中を見送りながら、結菜は得意げな笑みを浮かべ、そっと優里の耳元で囁いた。「お義兄さんの会社と長墨ソフトが提携してから、あの女、まるで自分がいないとプロジェクトが回らないみたいに、しょっちゅう藤田グループに出入りしてたんだから。でも、ここ二、三日はまったく姿を見せてないのよ?もしかして、精神的に参っちゃったのかもね」彼女の言う打撃とは、当然のことながら、智昭が優里に譲った藤田総研の無人運転技術が急成長し、業界内で大きな注目を集めている件のことだった。智昭も会場を後にしたあと、結菜はまたにこにこと言った。「玲奈がどれだけ努力したって無駄なんだよ。あいつがどれだけ頑張っても、礼二が彼女に千億円規模の会社をくれるなんてこと、絶対にないんだから!ねえ見てよ、あの女ったら策略で義兄と結婚して、何年も一緒に暮らして子どもまで産んだ
玲奈はその問いには答えなかった。その問いなら、ずっと前に、彼女はすでに何度も自分に問いかけていたのだから。しかも、一度や二度ではない。けれど、世の中というものは、結局のところ不公平なものだ。その現実は、彼女にとってとうの昔に理解済みのことだった。だからこそ、彼女はずっと前に、その問いを口にするのをやめていた。ただあの頃は、どうすることもできなかっただけ。でも今は——。都市のスマート交通プラットフォームのプロジェクトについては、玲奈も礼二も把握していた。それは確かに、非常に魅力的な案件だった。けれど、今や長墨ソフトは国内で一躍有名となり、すでに進行中の大規模プロジェクトをいくつも抱えていた。そのため、当初は彼女も礼二も、このプロジェクトの入札に参加するつもりはなかった。だが、今となっては……電話を切ったあと、玲奈はネットでこのプロジェクトの詳細を改めて丁寧に調べた。このプロジェクトは、AIアルゴリズムによって都市の混雑区域の交通調整を最適化し、監視システムや信号制御ネットワークを統合するというものだった。これらのモジュールに関連する技術的内容は、他の企業にとっては時間をかけて精査し、綿密な戦略を練らなければならないものだった。だが、彼女にとっては特に難しいことではなかった。藤田総研の無人運転車の開発進展についても……玲奈はしばらく沈黙しながら考え込んだ。そして、静かに席を立ち、礼二のオフィスへと向かった。礼二は話を聞き終えると、ふっと笑って言った。「まさか首都の交通プロジェクトだったとはな。大森家の背後に誰か指南役がついてて、もう勝てる気でいるってわけか?元々うちは参加するつもりなかったけど、大森家が絡んでるってんなら、ここで手を引くわけだいだろ」そう言ってから、彼は続けた。「君がやりたいなら、もちろん俺としても全力で応援する。でもその分、しばらくは相当ハードになるぞ」玲奈は首を横に振り、揺るぎない目で言った。「辛いのなんて、怖くないよ」そう言い終えると、話題はそのまま藤田総研の無人運転車についてに移った。ひと通り彼女の話を聞いたあと、礼二が尋ねた。「何か策があるのか?」「うん」と玲奈は頷いた。「エンジン関連でも、操作系のAI技術でも、私がある程度の技術支援はできる。だから先輩
静香の治療方針は、そう簡単に決まるものではなかった。翌日、玲奈は病院に立ち寄ってから、いつも通り会社に出勤した。重野社長がわざわざ地方から足を運び、玲奈と礼二に会いに来ていた。昼になり、玲奈と礼二は重野社長を外に連れ出して食事に招待した。両社の協業はすでにほぼ合意に至っており、移動中に礼二は重野社長の滞在予定を確認した。重野社長は笑って言った。「今回は二日ほど滞在する予定です。実は明日、もう一件の案件があるものでね」礼二が興味深そうに訊いた。「ほう?どんな案件です?」「藤田総研との協業ですよ」その言葉に、玲奈と礼二はふっと笑みを引いた。だが重野社長は、彼らの表情の変化には気づいていなかった。長墨ソフトと藤田総研の間に過去の確執があることも知らなかった。彼は続けて言った。「藤田総研が数日前に技術面で大きなブレイクスルーを達成したそうで、今では業界全体がその将来性に注目していると聞きました。昨日、藤田総研の大森社長から電話があって、協業の話を持ちかけられたんですが、内容もなかなか良さそうだったので、承諾したんですよ」玲奈と礼二はここ最近ずっと多忙で、そういった情報に目を通す余裕すらなかった。突然の話に、ふたりの表情は曇った。礼二は玲奈に一瞥を送り、それから言った。「そうですか……」そうこう話しているうちに、目的地に到着した。食事を終えて店を出ようとしたところ、ちょうどエレベーター前で優里たちと鉢合わせた。「大森さん」優里と正雄たちの姿を見つけると、重野社長はにこやかに歩み寄り、声をかけた。優里と正雄たちも、重野社長や玲奈たちと鉢合わせるとは思っていなかった。重野社長に声をかけられ、正雄と優里は微笑んで挨拶した。ひと通り挨拶を交わしたあと、重野社長は玲奈と礼二に目を向けて言った。「大森さん、こちらのおふたりは――」礼二は穏やかに微笑んで言った。「紹介は結構です、私たちは顔見知りなんで」重野社長は笑って言った。「そうそう、前回お邪魔したときにお会いしましたね。いやあ、私としたこと、まったく記憶がポンコツで」そして思わず褒め言葉が漏れた。「大森社長も、大森さんも、今や会社の成長ぶりが目覚ましくて、本当に羨ましい限りです」その言葉に、優里と正雄は笑みを返した。ここ数日、藤田総
中島は藤田おばあさんとも面識があった。軽く藤田おばあさんと挨拶を交わしたあと、視線を玲奈へ向け、にこやかに言った。「あなたが玲奈かい?」玲奈は中島と会うのは初めてだった。彼女は礼儀正しく答えた。「はい」中島は満足げにうなずき、ほめるように言った。「なんて綺麗なお嬢さんだね」静香の容体については、中島は病院へ来る前にすでにある程度把握していた。だが、いきなり治療方針を出すことはせず、まずは静香の様子を見てから判断することにしていた。玲奈と青木おばあさんたちは、初診に立ち会ってから昼食を兼ねて中島をもてなそうと考えていた。しかし中島は、「治療方針が決まったらまた連絡するから」と言って、彼女たちに先に帰るよう促した。「食事のことはね」中島は玲奈を見ながら微笑んだ。「またいくらでも機会はあるさ。焦ることじゃないよ」中島にそこまで言われては仕方なく、玲奈と青木おばあさんたちは病院を後にした。病院を出たあと、玲奈は会社に戻り、藤田おばあさんは青木おばあさんを青木家まで送り届けた。その夜、玲奈が仕事を終えて青木家へ戻ると、藤田おばあさんはまだいた。夕食後、帰ろうとする藤田おばあさんは玲奈の手を軽く叩き、ため息をついた。玲奈と智昭が数日前、役所で離婚の手続きを進めたことは、彼女も知っていた。二人が決めたことなら、もう無理に引き止めるつもりはなかった。それに、無理に引き止めたところで、言うことを聞く相手でもない。離婚して仕切り直す。それは玲奈にとって、案外いい選択かもしれない。そんな思いを胸に、藤田おばあさんは優しく声をかけた。「自分のこと、大事にするんだよ」玲奈はうなずいた。「うん、そうします。おばあさまも、体に気をつけてね」藤田おばあさんが本宅へ戻ると、リビングに座っていた思いがけない人物に足を止めた。「何しに戻ってきたんだい?」振り返った智昭が肩をすくめた。「昨日、急に怒鳴られたからさ。てっきり、俺の顔が見たくなったのかと思って」老夫人は「ふん」と鼻を鳴らし、そばの執事に尋ねた。「いつからここに?」「六時頃にいらっしゃいました。ご報告しようとしたのですが、智昭様がおばあさんの邪魔をしないで、と……」そのとき、階段の上から茜が駆け下りてきた。「ひいおばあちゃん!」茜の姿を見ると、老
「別に」優里は笑ってそう言うと、さらりと腕時計を確認して口にした。「そろそろ時間ね、行きましょう」「うん」彼は会議室の皆に軽く挨拶してから、優里とともにその場を後にした。玲奈はそのまま藤田グループの技術スタッフたちと仕事を続けていた。静香の容体が悪化して以来、玲奈は青木おばあさんの体調も心配で、ずっと青木家に滞在していた。その夜、玲奈は藤田グループでの仕事を終えたあと、青木家に戻って夕食をとった。食事を終えた直後、スマホに未読メッセージが届いた。差出人は瑛二だった。【明日、基地に戻る】玲奈はメッセージを見て返信しなかった。瑛二はそれを予想していたのか、しばらくしてまたメッセージが届いた。【一ヶ月後、会おう】つまり、それは彼女が正式に離婚したあと、改めて想いを伝えるという宣言だった。玲奈はその意図を理解していたが、それでも返信はしなかった。スマホを置いて机の上の本を手に取ろうとしたとき、また着信があった。今度は、藤田おばあさんからだった。玲奈が電話に出ると、すぐに藤田おばあさんの声が飛び込んできた。「玲奈、静香のこと、私もう聞いたのよ。こんな大事なこと、なんであなたもあなたのおばあさんも私に一言も言ってこないの?」玲奈は言葉に詰まり、しばし沈黙した。藤田おばあさんは焦ったように尋ねた。「古賀先生――静香の療養院の主治医から聞いたの。あなたのおばあさん、静香の体調異変を知ってから、急に身体が弱ったって。今どうなの?」「おばあちゃんは、ここ二日くらいで少し落ち着いてきました。前よりは気力も戻ってきてます」藤田おばあさんは安堵の息をついて言った。「それならよかった」そう言いながら、すぐに玲奈に向けて付け加えた。「玲奈、心配しないで。静香のことは、私がなんとかするから。最高の先生を探してあげる」「ありがとうございます、おばあさま」玲奈はそう言ってから、続けた。「でも私も、すでに専門の先生にお願いしていて、明日こちらに来て母の状態を直接診てくれる予定なんです」「そうなのか。なら、まずは様子を見てみましょう」「はい」そのあとは、電話口でしばらく沈黙が続いた。藤田おばあさんの声は、少し湿っていた。「お母さん、本当に……」運が悪すぎる。玲奈は、その言外の思いをすぐに察したが、ま
玲奈は何も言わず、ふたりの脇を通り抜けて会議室へ入っていった。玲奈と智昭がドア前で言葉を交わす場面は、会議室内の多くの人の目に入っていた。だが、誰も玲奈と智昭の関係を知らないため、ただの挨拶程度に思われ、特に気に留める者はいなかった。けれど、礼二だけは事情を知っていた。彼女が戻ってくるなり、小声で尋ねた。「ケンカでもしたのか?」玲奈は首を振った。「してない」ふたりの関係が最悪だった時期ですら、まともに言い争いになることはなかった。まして今となっては、言葉をぶつけ合う気力すらなかった。現在、長墨ソフトと藤田グループの本格的な協業が始まっており、そのため玲奈はその日一日、藤田グループの社内で過ごしていた。午後五時を少し過ぎた頃、会議室にどよめきが走った。「マジかよ、成功した!」「ん?何があったの?」「以前作ってたモデル、玲奈さんに指摘されたじゃないですか?先週みんなで再検討して、この数日間、アルゴリズムからデータ、そしてモデル構造まで見直したんです。その結果、今さっき精度が一気に向上して!ここ二年近く悩まされてた壁が、まさかこんな形で突破されるとは!」別の技術者も興奮気味に言った。「ずっと頭抱えてたモーダルアライメントの問題も、新しいヒントが見えてきたんです。いやぁ、玲奈さんって、本当にすごいっす!」藤田グループは国内屈指の大手企業であり、集まっている人材も当然その中でも一流と呼ばれる者ばかりだ。つまり、自他ともに認める実力者ばかりだった。それでも彼らは、今まさに「上には上がいる」と痛感していた。興奮冷めやらぬ藤田グループの技術スタッフのひとりが、玲奈に歩み寄り、手を取って言った。「長文生成の論文の筆頭著者、やっぱり只者じゃないっすね!玲奈さん、マジで神です!」玲奈は控えめに笑いかけ、何かを言おうとしたその瞬間、背後に立つ優里の姿が目に入った。笑みが一瞬だけ揺らぐ。ちょうどそのとき、興奮気味だった藤田グループのスタッフたちも彼女の存在に気づいた。「大森さん?いつの間に来てたんですか?」優里はまだ何も答えていなかったが、咲村教授が代わりに微笑みながら言った。「大森さんはもう少し前からいらしてたよ。みんなが熱中してて気づかなかっただけさ」優里は微笑んだ。ただ、よく見れば、その微笑みが