鈴木が扉を開いて、中に入る。
晴翔と理玖が続いた。入る前に國好と目を合わせる。
「扉のすぐ外にいます」
小さく告げて、國好が扉の脇に立った。
「折笠先生、向井先生と空咲さんが来てくれました。……折笠先生?」
鈴木の声色が変わった気がして、部屋の中を覗き込む。
先に中に入った晴翔が顔色を変えて駆け込んだ。
晴翔の慌てた様子に気が付いて、理玖も急いで部屋に入る。
「折笠、先生……」
鈴木が小さく呟いて立ち尽くす。
折笠がソファに座ったまま、目を閉じている。
背もたれに全身を預けた姿から、脱力しているように見える。
投げ出した手にかろうじてコーヒーカップが引っ掛かっている。
中身が衣服と床に零れていた。
「折笠先生! 聞こえますか? 折笠先生!」
晴翔が折笠の肩を揺らして大きな声を掛けた。
指に引っ掛かっていたコーヒーカップが床に転がった。
小さな悲鳴を飲み込んで、鈴木が後ろに下がった。
その肩を押しのけて、理玖は折笠に寄った。
首に触れるが、頸動脈の脈打ちがない。手首の橈骨動脈も触れない。
口元に耳を近づける。
呼吸音も呼気も感じられない。
胸に耳を押し当てるが、心拍が聞こえない。
「晴翔君、救急車を呼んで。國好さん、AEDを持ってきてください。折笠先生が心停止しています」
ドアの外で國好が駆けだした気配がした。
「心停止って、そんな……」
鈴木がその場
月曜日に出勤すると、警備員姿の國好と栗花落が普通に研究棟の二階にいた。 てっきり立場を明かして警察官として介入するものだと思っていたので、驚いた。「國好さん、栗花落さん……」 小走りに駆け寄って声をかけた理玖に向かい、國好がしっと人差し指を口元に添えた。「お話があります。時間をください。大学にも許可を得ています」 小さな声で早口に言われて、理玖は頷いた。 部屋に入ろうとドアノブに手を掛けた瞬間に、隣の部屋の扉が開いた。「あ、向井先生、おはようございます」 人懐っこく柔かな笑顔が理玖を見ている。 どこかで見たような、既視感がある顔だが、思い出せない。 何より、誰も入っていないはずの隣の部屋から人が出てきて驚いた。「おはよう、ござい、ます」 カクカクした挨拶をした理玖より、晴翔が半歩、前に出た。「おはようございます、|臥龍岡《ながおか》先生。もしかして、お引越しですか?」 晴翔の営業的な王子様スマイルが臥龍岡に向けられる。「仮住まいです。第二研究棟の三階が慌ただしくなったでしょ。隣だったので追い出されてしまって。落ち着くまで第一研究棟に御厄介になることになりました」 隣とは、折笠の部屋の隣という意味なんだろう。 警察が現場検証に入っていたはずだが、いまだに立ち入り禁止なのだろうか。「それはまた気の毒に……」 第二研究棟に比べたら、第一研究棟はタイムスリップしたレベルで古い。リノベーションされていても、トイレなどの共同スペースは昭和のままだ。
「リサーチ目的なら普通はそれくらいするよ。第二の性を調べたいなら、フェロモンで煽るのが最も早い。rulerであるかを調べたいなら猶更だ。でも君は、そうしなかった。それどころか僕は、新年度になるまで、晴翔君をnormalだと信じ込んでいた」 それはつまり、晴翔が神経質なまでに阻害薬や抑制剤を使用してフェロモンを調節してくれていた証拠だ。「俺だって、最近まで理玖さんはnormalだって思ってましたよ。去年は全然、理玖さんのフェロモンを感知しなかったから、まさかフェロモン量が多いrulerだなんて思わなくて。親父にもnormalかもって報告しちゃったくらいでした」 理玖は戸棚からゴソゴソと救急箱を出した。 中には、only用の抑制剤とother用の阻害薬と抑制剤のサンプルが入っている。「僕も晴翔君と同じでね。日本の処方薬じゃ全く薬効がない。だから北欧から薬を取り寄せているんだ。留学していた頃からお世話になっている主治医にオンライン診察してもらってる。空輸が間に合わない時も多くて、日本の処方薬を気休め程度に間に挟んで飲んでいるけどね」 海外に五年以上居住していた日本人は、本人処方に限り住んでいた国の診察と処方が受けられる。締め付けがキツい日本のWOに対する薬事法の法規的措置だ。 四月になってから空輸が遅れる時期が続いて、日本の病院で処方を出してもらう時も多かった。(弁当の窃盗や報告書の頃は、日本の処方薬を飲んでいたから、余計に晴翔君のフェロモンを感知して発情したのかな) 或いは既にaffectionフェロモンが作用していたのかもしれない。四月の頃はとっくに、花の蜜の香りを感じ取っていた。 理玖は箱の中から薬の容器を一つ、取り出した。「これ、僕の頓服の抑制剤なんだ。オブラートシート型の口内吸収薬なんだけど、ロンドンでは割とメジャーなんだよ」
真剣みを帯びた声に、理玖は振り返った。 晴翔の強張った顔が真っ直ぐに理玖を見詰めている。 怯えているようなのに、決意が籠った目だ。 理玖は体ごと振り返って、晴翔に向き合った。「晴翔君の話は、全部聞くよ」 晴翔が座り直して正座になった。「俺には……、父親が、二人います。親父と、父さん」「それは、onlyのお父さんとotherのお父さんという意味? もしかして、spouse?」 晴翔が頷いた。「生まれた時から父親が二人いて、だから、男同士の恋愛も、男が子供を産むのも、疑問に思ったことなんかなかった。自分がotherなのも、別に特別じゃなかった」 それは稀有な環境だと思った。 ただでさえ少ないWOの、しかも男性カップルで、spouseになり得た上に、子供までもうけた。北欧では珍しくない家庭だが、日本ではまだまだ珍しがられるケースだ。 しかし、そういう環境で育てば、それを普通と感じるのは当然だ。「第一次性徴で俺の第二の性がわかってから、父さんたちも俺がotherだって隠さなかった。だからって言ったら言訳だけど、保育園児だった五歳の時、好きだった男の子に、……キス、しちゃって」 晴翔が俯いた。 理玖は黙って、晴翔の次の言葉を待った。「そしたら、興奮、しちゃって、その子を押し倒して、怪我させた。あの時は悪いことだとも思っていなくて、otherってそういうモンだと思ってた」 晴翔が唇を噛む。 後悔なのか、幼かった自分への怒りなのか、顔が険しい。「その後は多分、父さんたちが色々大変だったんだと思う。小学生までは家で過ご
「僕の推論でしかないけど、多分、鈴木君でもない。利用されただけじゃないかな」 晴翔の顔が険しくなった。「僕は、水曜のあの時、鈴木君に初めて会ったけど。折笠先生を敬愛しているのは充分感じ取れたし、僕らが心肺蘇生をしている時も、怯えて動けなかった」 医療現場に身を置いていたり、慣れていない限り、死んでいるかもしれない人間を前に冷静な行動をとるのは難しい。 晴翔ですら、あの時は理玖の指示に従って動くのがやっとだった。 経験などない文学部の学生である鈴木圭の反応は、むしろ一般的と言える。鈴木にとって折笠の急変は怯えるほどの不測の事態だったのだろう。「その分、折笠先生に近い存在であるのは、確かだ。僕が折笠先生を自殺に見せかけて殺すなら、鈴木君を利用しようと考える」 Dollの狩場であるかくれんぼサークルのサークル長を任せられているくらいだ。 他にもいるであろう折笠の愛人の中で、最も信頼を得ているのが鈴木なんだろう。「鈴木君は純朴で可愛らしい青年だけど、リーダーシップをとれるタイプではなさそうだ。サークル長向きじゃないけど、折笠先生にとっては扱い易い人間だったろうと思う。同じように犯人にとっても利用しやすい人間だった」 晴翔が思い出した顔をした。「Highly Sensitive Person?」 晴翔の問いに、理玖は頷いた。「僕が見た限りでは、鈴木君にもHSPの傾向がありそうだ。だから容易に鈴木君に近付いて取り込めた。本人に抵抗なく洗脳して取り込むなら……、君だけを見てくれる折笠先生にできるよ。とかかな」 晴翔の顔が蒼褪めた。「それって、折笠先生を狙ったのは、RISEってことですか?」&n
「テーブルに置いてあったノートPCに表示された言葉。あれが一番、引っ掛かる」「言葉って、贖罪と懺悔ですか? 確かに、折笠先生らしくないですけど」 晴翔の指摘通り、言葉そのものでもある。 だが、あのタイミングで表示された事実が、理玖の中で引っ掛かっていた。「夢中だったからよく覚えていないけど、部屋に入ってすぐは、あのノートPCは開いていたけどスリープか、電源が切れていて画面は暗かったと思うんだ」 仮に最初からあの文字が表示されていたら、目に入ったはずだ。 心肺蘇生のためテーブルを動かした時は気が付かなかった。「俺がテーブルに肘をぶつけて、その反動でPCが動いて、起動した感じでしたよね」 晴翔が思い出しながら話す。「あの時は、そう思った。だけど、PCの起動をタイマーや、或いは遠隔にしていたら、どうだろう。PCの文字と、コーヒーカップを持って心停止している折笠先生を見付けたら」「咄嗟には、服毒自殺だと思っちゃいますね」 晴翔が、ごくりと息を飲んだ。「あれはスタート画面で、壁紙だ。折笠先生が選ぶとは思えない。別の誰かが設定した可能性がある。もしかしたらPCの中に遺書が残っているのかも。それも偽造の可能性が高いけど」 折笠の研究室は、三日経った今でも警察の現場検証が入っていて、立ち入り禁止だ。証拠品は押収されて、PCの内容までは開示されていない。「やっぱり、時間《タイマー》かな。僕らは予定より早めに折笠先生の部屋に着いた。あの画面は十四時に表示される設定になっていたのかもね」 PCを確認すれば、タイマー設定の痕跡は残っているかもしれない。「もしくは発見した振りをして鈴木君が遠隔起動した、と
病院に救急搬送された折笠は、救急車の中で息を吹き返したらしい。 命は繋いだものの、虚血状態が長く続いたために意識が戻らず昏睡状態が続いている。 特に脳へのダメージは深刻と考えられた。 目を覚ましても、これまで通りの生活を送るのは絶望的、というのが医師の見解だった。「心臓が止まるまで昏睡状態か、覚醒しても自力で動く生活は難しいだろうね」 ぎりぎり繋いだ命だが、長くないだろう。 発見時の理玖たちの初動の速さが功を奏したに過ぎない。「自殺……、それとも、事故なんですかね」 晴翔が、ぽそりと呟いた。 現時点での警察の見解は『自殺未遂』あるいは『不慮の事故』だ。 心停止の原因は、カフェイン中毒だった。 日頃からの常用でカフェインの血中濃度が高い上に、短時間に高濃度のカフェインを摂取したことによる心停止とされた。「いつもブラックコーヒー飲んでいるし、昔からエナジードリンクとか好きだった印象はあるけどね。平均的にコーヒー1杯のカフェイン含有量が60gと考えて、七杯目くらいから過剰摂取だけど。そんなに飲んでたのかな」 日々の蓄積などもあるのだろうが。 コーヒーやエナジードリンクを煽るほど飲んでいるイメージはない。「マムシ的なヤツとか海外の錠剤とか、市販の興奮剤とかも試してるって、本人が冗談めかして話していたから、合計すれば過剰摂取になりそうではあるけどね」 興奮剤には大抵、カフェインが含まれる。 加えて濃い目のコーヒーを摂取すれば、過剰摂取には成り得るが。心臓が止まるほどの摂取を、慎重な折笠がするとも思えない。「興奮剤を間違って多めに飲んじゃったとか? 持っていても不思議じゃないですもんね」