その名前を耳にした途端、ヴィンセントの表情がわずかに変わった。
瞳がわずかに揺れ、そこに潜む獣のような鋭さが一瞬、顔を覗かせた。
「......その言葉、二度と口にするな」
歯を食いしばりながら、若子の顔をぐいっと掴む。
その力の強さに、骨がきしむような痛みが走った。
―このマツって人、彼にとってよほど特別なんだ。
次の瞬間、ヴィンセントは若子の顔を放し、胸を押さえながら数歩よろめいて後退した。
助けようと手を伸ばしかけた若子だったが、さっきの乱暴な態度を思い出して、すっと手を引っ込める。
「......まだ飯、残ってんだ」
ヴィンセントはふらふらとダイニングのほうへ向かっていく。
若子は深く息を吐いた。
その場に座り込みそうになりながらも、なんとか堪える。
しばらくして気持ちを立て直すと、床に散らばったものを拾い集め、バッグにしまった。
ダイニングの方向を見やると、ヴィンセントはすでに席に着いていた。
その隙を突いて、彼女はそっと玄関へ向かい、扉に手をかける。
......びくともしない。
「無駄だ」
背後から、ヴィンセントの冷たい声が響く。
「俺の指紋がないと、開かないよ」
若子は小さくため息をつく。
出るのに指紋が必要なんて、聞いてない。
仕方なく、バッグを置いてダイニングへ戻ると、彼の向かいに座った。
「一万ドルと一週間。あなたの世話と食事の準備だけなら、引き受けるわ」
もう他に選択肢はなかった。
百億円なんて持ってるはずがないし、西也に頼ることもできない。
借りたって返せないし、命を落とすわけにもいかない。
だったら、これしかない。
ヴィンセントは何も言わず、黙々と昼食を平らげると、再び部屋へ戻っていった。
若子は後片付けをし、食器を洗い終えると、携帯を取り出して西也に電話をかけた。
「西也、ごめん。ちょっとの間、一人になりたいの」
「若子......どうしたんだ?」
「大丈夫。ただ、少しだけ冷静になりたくて。たぶん、一週間くらいで戻るよ」
しばらく沈黙が続いた。
「......若子、もしかして、帰ってくるつもりないのか?」
「違うの!」
誤解されるのが怖くて、若子は慌てて否定する。
「西也、信じて。私は絶対に戻る