心臓を、白崎に捧げる。
私は顔を上げ、鼻の奥の痛みをこらえながら、部屋を出ようとする幸也に声をかけた。
「ちょっと待って」
幸也が振り返る。私は淡い笑みを浮かべながら続けた。
「ちょっとだけ待ってて!」
そう言い残し、階段を駆け上がる。そして、小さなギフトボックスを手に急いで戻ってきた。
「これ、幸也に。ネクタイだよ」
胃が捩れるような痛みが押し寄せたが、表情には一切出さなかった。
幸也は箱をちらりと見て冷たく言う。
「今日のスーツには合わないな」
私は首を横に振る。
「いいの。後でつけてくれれば。これからは、もうこういうのを贈る機会もないと思うから......」
彼は一瞬動きを止めた。以前なら迷わずその場で捨てていたはずなのに、今日はゆっくりと箱を受け取り、深い瞳で私を見つめる。
その視線に耐えきれず、私は目を伏せた。その瞬間、彼は一瞬だけ躊躇いを見せたが、すぐに身を翻し、去っていった。
第三病院のベッドに横たわる私は、わずか半月で骨と皮ばかりになってしまった。
スマホが鳴り、看護師が手渡してくれる。画面に表示された名前に、私は思わず微笑む。
――幸也。
3年以上ぶりに彼からの電話だった。
私は震える手で酸素マスクを外し、必死に彼の声を聞こうと電話に出た。
通話が終わり、スマホが手から滑り落ちる。
看護師が慌てて酸素マスクを再びつけてくれたが、視界がぼやけ、天井が揺れるように感じる。
病室のそばで手を強く握り、涙を堪えている律先輩が目に入る。
私は力なく苦笑しながら呟く。
「先輩......明日の朝日が見たいな......もう一度、彼から電話をもらいたかった......」
でも、そんな願いはもう叶わないとわかっている。
突然、体が軽くなり、自分の魂が体を抜け出して天井に漂っているのを感じる。
下を見下ろすと、律先輩が骨のように痩せ細った私の体を抱きしめ、声を上げて泣いている。
「桜......行かないでくれ。お願いだから、行かないで......俺、まだ言えてないんだ......」
次の瞬間、声を聞きつけた医師たちが駆け込み、律先輩を引き離した。
私の体はストレッチャーに乗せられ、手術室に急いで運ばれる。
同時に、美羽も別の手術室に運び込まれた。手術中を示す白熱灯が眩しく輝いている。
ああ、もう行く時間なんだな。この人生、なんて不器用だったんだろう。
娘としても妻としても失敗ばかりで、自分自身すら大事にできなかった。
本当は幸也と一緒に小さな家庭を築きたかった。可愛い子供を二人授かって、家族みんなで雪山を探検する――そんな夢を抱いていた。
そして子供が成長する姿を見届け、一緒に歳を重ねていく。そんな未来を望んでいたのに......
私がいなくなれば、幸也はきっと自分の願いを叶えるだろう。心から愛する人と結ばれ、幸せな人生を歩んでいくはず。
お願いだから、次の人生では彼と出会いませんように......
……
俺の名前は神崎幸也。神崎グループの社長だ。
満開の花の下、初めて佐々木桜を見たとき、心が奪われた。
彼女の一挙一動が美しく、俺は彼女を死ぬまで愛し続けると誓った。
だが、神崎グループが崩壊しかけたとき、愛を誓ったはずの彼女は裏切り、城之内とともに公海での遊覧へと向かった。
様々な理由があったにせよ、最終的に俺は彼女と結婚した。
だが、その愛は心の奥底に深く埋められ、互いを傷つける日々が続いた。
それでも、心のどこかでは忘れられなかった。若い頃に抱いた深い愛情が根を張り、いつしか大樹となっていたのだ――
美羽の体が持たない状況で、病院から連絡が入った。絶症の患者が心臓を提供する意向を示し、彼女と適合しているという。
俺は狂喜した。美羽が助かる――
その患者に感謝を伝えたいと思ったが、病院は個人情報を開示しないという。それならと納得し、ただ心臓の提供を待つことにした。
俺は美羽を愛しているわけではない。ただ、彼女が俺のためにこうなった以上、責任を取らなければならないと感じている。
一方で、桜――あの女の裏切りだけは決して許せない。
......
ヨーロッパの事業で問題が発生し、1か月ほど現地に滞在して自ら対応する必要があった。美羽のことは助手に任せることにした。
......
「神崎社長、奥様のご尊父の容体があまり良くありません」
会議室から出ると、秘書の岩田陸(いわた りく)が俺の前に立って報告してきた。
「いくら必要なんだ?」
俺は少し苛立ちながら尋ねる。
「病院の見積もりでは、1000万円ほど必要です」
「病院に送金しておけ」
ホテルに戻り、ソファに横になって休んでいたが、なぜか心にぽっかりと穴が空いたような気がした。
スマホを開き、桜とのメッセージを見返す。
今回F国に来て以来、桜から一度も連絡がなかった。
過去のやり取りをスクロールしてみると、彼女の日常の他愛もない話がほとんどで、俺が返信した回数はごくわずかだ。
今は父親が重病だというのに、彼女から何の相談もない。
眉間に皺を寄せながらチャットを閉じ、家に電話をかけた。
「桜は?」
使用人が丁寧に答える。
「奥様は数日前にご実家に戻られました。旦那様が帰国されるまで戻らないとおっしゃっていました」
俺は軽く息をついた。
桜はとても臆病な人間だ。雷や暗闇、痛みを嫌い、一人で大きな家にいるのを怖がる。
F国滞在15日目、病院が手術の方針を決定した。
美羽も複数の検査を受け、手術が可能な状態であることが確認された。
その際、彼女に心臓を提供する人が非常に重篤な状態で、あと半月も生きられない可能性があると聞かされた。
念のために尋ねたところ、医師はその患者が深刻な腸癌を患っていると教えてくれた。
その瞬間、胸がざわめいた。腸癌――
以前、桜の検査結果にも同じ病名が書かれていた。
そんな偶然が気になり、すぐに桜に電話をかけた。
何度かコール音が鳴った後、ようやく彼女が出た。短い沈黙の後、俺は静かに話し始めた。
「俺は来月7日に帰国する。その日に家に戻っておけ......ああ、市役所に行く」
「わかったわ」
彼女があまりにもすんなりと答えたことに違和感を覚えた。
「幸也、すごく眠いの。もう少し寝てもいい?」
電話越しの桜の声は弱々しく、俺は時計をちらりと見る。国内では朝の7時だ。
きっと彼女はまだ眠いのだろうと、特に疑問を持たなかった。
その時、不思議と怒りが湧かなかった。普段なら冷たく当たるところを、自然と優しい声が出てしまう。
「わかった。また後でかける」
どうにも胸騒ぎが収まらなかった。
本来なら半月かかる予定の仕事を1週間で片付け、最短の便で帰国する準備を進めた。
空港に向かう前に、ふと桜がくれたネクタイのことを思い出した。
スーツケースから取り出したそれは、宝石のような青い色をしていた。今日のスーツに完璧に合う。
そのネクタイを締め、飛行機に乗り込む。
機内で電源を切る直前、病院からのメッセージを受け取った。
「神崎様、ドナーの容体が急変しました。白崎様の心臓移植手術を開始します」