Chapter: 第41話 当番表が消えた日三月の半ば、冷蔵庫から当番表が消えました。気づいたのは朝です。マグネットだけが四つ、何も挟まずに貼りついていました。八月の終わりから、あの紙はずっとそこにありました。幸也くんの字で、月曜から金曜までが書いてあって、角がだんだん丸くなっていた紙です。ないだけで、冷蔵庫の扉がこんなに広いのだと知りました。「お母さん、あれ」「ああ、昨日の夜ね。結城さんとこの子が取りに来たのよ」母は、洗い物をしながら言いました。「新太くんだったかしら。長いことお世話になりましたって、わざわざ頭下げて」あの人は、そういうことをします。やめるときほど、きちんとやる人です。母は何も気づいていませんでした。当番が終わったのだと思っています。◇学校に着くと、四人は普通でした。幸也くんは朝から喋っていたし、新太くんは鞄に手を伸ばしかけて、途中でやめました。久遠くんは半歩前にいませんでした。和樹くんは、私の顔を見て、少しだけ笑いました。一つずつは、たいしたことではありません。四つ重なると、全部が違って見えました。昼休みに、幸也くんが言いました。「澪ちゃん、しばらく送るのやめるわ」「……どうしてですか」「んー、まあ、いろいろ」いつもの調子でした。いつもの調子で、いちばん大事なところを飛ばす言い方です。「いろいろって、何ですか」「俺たちの問題」それだけでした。◇その日から、四人と過ごす時間がなくなりました。教室では話します。挨拶もするし、授業の話もします。廊下ですれ違えば手を上げてくれます。でも、放課後になると四人はいなくなります。四人だけで、どこかへ行くのです。一度、校門の外で四人を見かけま
Last Updated: 2026-10-18
Chapter: 第40話 見えるだけの人間「新太が怒るのを二か月やめて、自分を見つめ直した」久遠くんは、ノートを持ったまま言いました。「幸也が三日寝ず、笑わせない自分の存在意義を確かめた。和樹は名前の由来を調べた。結論は皆同じだ。だが、俺はそんなことをしなくても分かっていた」「……はい」「いつからだと思う」私は、答えられませんでした。「正月に模造紙を作った日だ」久遠くんは、静かに言いました。「あの日、四人分の記憶を並べた時点で、俺は気づいていた。四人とも、記憶が一種類しかない。新太は守る記憶、幸也は笑わせる記憶、和樹はただ一緒にいる記憶。そして俺は、見ている記憶だ」「それは前に」「言った。君に言った。だが、あいつらには言わなかった」「二か月、黙っていた」風が、ドラム缶の縁で鳴りました。「新太が自分で気づいて、自分で数えて、自分で拳を傷つけた。幸也が自分で気づいて、三日眠らずに倒れた。和樹が自分で気づいて、自分の名前を疑った」久遠くんは、そこで一度、息を吐きました。「全部、俺が先に知っていたことだ」「……止めたと、言っていました」「三回止めた。嘘じゃない」久遠くんは、こちらを見ました。「だが、本気じゃなかった」「本気で止めるなら、方法はいくらでもあった。母に言えばいい。父に言えばいい。担任でも、医者でもいい。幸也が三日寝ていないと言えば、あの家の誰かは必ず動く」久遠くんの手の中で、ノートの角が曲がりました。「しなかった」「どうして」「見ていたかったからだ」私は、言葉が出ませんでした。「新太がどう壊れるのか、知りたかった。幸也がどこで折れるのか、知りたかった。和樹がどこまで自分を疑うのか、知りたかった」久遠くんの声は、淡々としていました。「面白いと思った瞬間が、たしかにある」「兄弟が壊れていくの
Last Updated: 2026-10-17
Chapter: 第39話 燃やそうとした人幸也くんの熱が下がったのは、三日後でした。学校に戻ってきた幸也くんは、前より少しだけ静かになっていました。喋ることは喋ります。ただ、途中で止まれるようになっていました。新太くんは、怒るようになりました。相変わらず、私のことでばかり怒ります。幸也くんが寝込んでいた三日間、新太くんは毎日、様子を見に行っていたそうです。誰にも言わずにです。言わなかったことを、幸也くんが後から笑いながら話していました。和樹くんは、当番に戻ってきました。木曜日だけ、また二人で歩くようになりました。替わってもらっていた分を、和樹くんは何も言わずに戻しました。理由も言いませんでした。三人とも、少しずつ元に戻っていったのです。元に戻った、というのは正しくないかもしれません。三人とも、壊れる前より少しだけ静かになりました。一度自分の底を見た人の静かさです。残ったのは、久遠くんでした。この人は、何も変わりませんでした。それが、いちばん不気味だったのです。新太くんが二か月怒りをやめたときも、幸也くんが三日寝なかったときも、久遠くんは同じ顔をしていました。同じように半歩前を歩き、同じように短く喋り、同じように半分だけ振り返りました。崩れないのではなく、崩れるところを見せないだけだと、私はどこかで思っていました。思っていて、聞けませんでした。この人には何を聞いても、先に見透かされてしまう気がしたからです。三月に入って、私は資料室に行きました。久遠くんに用があったわけではありません。ただ、あの部屋に行けばあの人がいる、というのが当たり前になっていたのです。誰もいませんでした。長机の上に、資料が一つも出ていません。この二か月、ここにはいつも何かが広げてありました。窓を背にした席の椅子が、きちんと机の下に入っていました。
Last Updated: 2026-10-16
Chapter: 第38話 俺には何が残る次の日、私は結城家に行きました。お母さんが「二階よ」と言って、少しだけ声を落としました。「あの子、熱があるのに寝ないのよ。誰か来ると喋りだして」「……はい」「澪ちゃんが来たら、余計に喋るかもしれないけど」お母さんは、困ったように笑いました。「でも、来てくれてよかった」◇幸也くんの部屋は、思っていたより片づいていました。布団の中で、幸也くんは天井を見ていました。私が入ると、首だけこちらに向けました。「やあ」「熱は」「八度五分。下がった。優秀」声が、かすれていました。喉をやられているのが分かりました。「喋らないでください」「無理。それだけは無理」「幸也くん」「あのさ、知ってる? 風邪のとき喋ると治りが遅くなるらしいよ」「知ってて喋ってるんですか」「知ってて喋ってる」幸也くんは、笑いました。かすれた、ひどい笑い方でした。私は、椅子に座って、下を向きました。涙が、勝手に落ちました。「……あー」幸也くんの声が、止まりました。「泣かせちゃった」布団の中で、幸也くんは天井に戻りました。「俺、失敗だ」「失敗じゃありません」「失敗だよ」声が、少し低くなりました。「俺の仕事は、澪ちゃんを笑わせることなんだよ。泣かせたら、俺は何もしてないのと同じだろ」「仕事じゃありません」「仕事だよ」幸也くんは、目を閉じました。「新太、怒るのやめたんだって?」「……はい」「二か月やって、それでも残ってたって言ってた。鞄持ったり、車道側歩いたりするのは、やめられなかったって」
Last Updated: 2026-10-15
Chapter: 第37話 止まらない人新太くんが怒りを取り戻したころ、今度は幸也くんがおかしくなりました。逆の方向にです。二月の終わりから、幸也くんはよく喋るようになりました。もともとよく喋る人です。それが、三倍になりました。朝、教室に入ってきた瞬間から喋っています。授業の合間も、昼休みも、放課後も。誰かが席を立てば声をかけ、誰かが笑えば次の話を始めます。声が、少しずつ大きくなっていました。教室の端まで届く声です。そこまで届かせる必要のない話でも、そうなっていました。クラスの子たちは、最初のうち笑っていました。三日目くらいから、少しずつ困った顔をするようになりました。誰かが話を切り上げようとしても、幸也くんは次の話を始めます。相手が笑わないと、もう一つ重ねます。それが面白いかどうかではなく、笑わせるまでやめないという意志だけが伝わってくるのです。「幸也くん」「ん?」「今日、何回喋ってますか」「数えてないなあ。千回くらい?」「喉、痛くないんですか」「痛い」あっさり認めました。認めて、また次の話を始めました。幸也くんは笑いました。目が、笑っていませんでした。三組は、文化祭の喫茶店をやったクラスです。幸也くんは、あのときの中心にいました。みんな、この人が明るいことを知っています。知っているからこそ、今の明るさが変だと分かるのです。◇結城家に行ったときも、同じでした。お母さんが台所にいる間ずっと喋り、お父さんが新聞を読んでいる横で喋り、新太くんに「うるさい」と言われても喋り続けました。お母さんが「幸也、ちょっと座ったら」と言いました。幸也くんは座りました。座って、そのまま喋りました。新太くんが、途中で黙りました。怒鳴りません
Last Updated: 2026-10-14
Chapter: 第36話 借りてるだけだ翌日の放課後、私は新太くんを呼び止めました。「川に行きませんか」「……なんで川」「なんとなくです」二月の川は、夏とはまるで違う顔をしていました。水が少なくて、石がたくさん出ていて、風が冷たくて、長くはいられません。堤防の斜面に、二人で座りました。「新太くん」「言うな」早かったです。「久遠に聞いたんだろ。あいつ、ほんと余計なことしかしねえ」「私が聞きました」「……そうかよ」新太くんは、鞄から折り畳んだ紙を出しました。模造紙のコピーです。しわだらけで、何度も開いて閉じたのが分かりました。「見ろよ」広げた紙の、自分の段だけを指しました。「俺と澪の記憶、四十七個ある。数えた」几帳面な字で、番号が振ってありました。この人が一つずつ数えたのだと思うと、胸が痛みました。「はい」「そのうち四十一個が、庇ったとか、怒ったとか、守ったとかだ」風が、紙の端を鳴らしました。「残りの六個も、送ったとか、荷物持ったとかだ」新太くんは、自分の段を指で叩きました。「俺、お前と笑った記憶が一個もねえんだよ」私は、何も言えませんでした。昨日の夜、私も同じ結論に辿り着いていたからです。「幸也の段を見ろよ」新太くんは、隣の段を指しました。「全部、笑ってる。遊んでる。ふざけてる。あいつ、お前と真面目な話した記憶がほとんどねえ」「久遠は、見てる記憶ばっかだ。気づいた、分かった、見抜いた。和樹は……ただ一緒にいる記憶ばっかだ。飯食った、歩いた、座ってた」紙を畳みながら、新太くんは言いました。「俺たち、一人ずつ一個しか持ってねえんだ」「分かっちまったんだよ」新
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第66話 誰も、倒れない――――ドルフ視点――――先頭の騎馬が、俺の十歩ほど手前で止まった。砂埃が、ゆっくりと晴れていく。その向こうに、隊列が広がっていた。槍を持つ者、剣を提げる者、粗末な革鎧をまとった者。統一されていない装備が、彼らが正規軍でないことを物語っている。だが、数だけは確かに千を超えていた。「――そこをどけ、老いぼれ」騎馬の男が叫んだ。指揮官らしい風体だった。「どかん」俺は短く答えた。「死にたいのか」「死ぬ気はねえ。あんたらを殺す気もねえ」その言葉に、男が眉を寄せた。前列の兵たちが、顔を見合わせている。刃のない鉄棒を担いだ老人が何を言っているのか、理解できずにいるのだろう。「――正気か。一人で、この数を止められると思っているのか」「そんなもん知るか」俺は、鉄棒を肩から下ろした。地面に石突を突き、両手で柄を握る。「だが、やらねばならん」*最初に動いたのは、前列の三人だった。槍を構えて、同時に突進してくる。訓練された動きではない。勢いだけの、素人の突撃だ。俺は半歩だけ横に動き、最初の槍をやり過ごした。そして、鉄棒を振った。狙ったのは、人ではない。槍の柄だ。乾いた音が響き、三本の槍が、まとめて中ほどから折れた。持ち主たちが、たたらを踏んで後ろへ下がる。「な――」誰かが息を呑む声が聞こえた。俺は、追撃しなかった。ただ、元の位置に戻り、再び石突を地面に突いた。三十五年、ひたすらに鉄を打ち続けてきたのだ。どこを叩けば折れるか、どの角度で当てれば砕けるか。鉄の性質は、俺の身体が誰よりも知っている。*そこからは、同じことの繰り
Last Updated: 2026-10-18
Chapter: 第65話 鍛冶場を出る――――ドルフ視点――――その日の朝、俺はいつものように炉に火を入れた。三十五年、変わらぬ手順だった。炭を積み、種火を移し、風を送る。炎が育っていく音を聞きながら、鉄を選び、槌を握る。この繰り返しの中に、俺の今世のすべてがあった。だが、その朝は違った。炉の火が安定しきる前に、村の若い衆が息を切らして駆け込んできたのだ。「ドルフさん、大変だ。街道の向こうに、大勢の兵が」俺は槌を置いた。手の中に残った鉄の冷たさが、やけにはっきりと感じられた。「どのくらいだ」「分からねえ。だが、砂埃がすごい。何百、いや、もっとかもしれねえ」若い衆の声は震えていた。無理もない。この村で、そんなものを見た者は誰もいない。*村の外れの高台から、俺は南の街道を見下ろした。確かに、砂埃が上がっている。だが、それは村へ向かってくるものではなかった。街道を西へ、帝都の方角へ、迂回するように動いている。その動きを見て、俺は前世の記憶が呼び起こされるのを感じた。あれは、正面の守りを避けて、手薄な側面に回り込む動きだ。「――西門か」呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。帝都の西門。守備の主力は南と東に回されていると、先日行商から聞いた。ならば、あそこは今、がら空きに近い。背後で、村人たちのざわめきが聞こえる。俺はしばらく、動けずにいた。*家に戻ると、妻が心配そうな顔で待っていた。土間には、まだ湯気の立つ朝食が並んでいる。息子は奥の間で、まだ寝息を立てていた。妻は俺の顔を見るなり、何かを察したようだった。長年連れ添った相手には、隠し事ができない。「あんた。何かあったのかい」「――ああ」俺は
Last Updated: 2026-10-17
Chapter: 第64話 手の届かない、四つの戦場三日目の朝、私たちは総本山を望む丘の上にいた。眼下に広がる街は、想像していたよりもずっと大きかった。白い石造りの建物が斜面に沿って幾重にも連なり、その中心に、天を突くような大聖堂の尖塔がそびえている。朝の光を受けて、街全体が眩しいほどに白く輝いていた。美しい光景だった。その美しさが、かえって不気味だった。「――謁見の申請は」アルヴィス様が、傍らの騎士に尋ねた。「昨日のうちに、先触れを出しております。ですが、まだ返答がございません」「意図的に、遅らせているな」「おそらくは」その短いやり取りだけで、状況の厳しさが分かった。私たちは、この街の外で、ただ待たされている。その間にも、時は刻一刻と過ぎていく。*昼前、二人目の伝令が到着した。帝都からの、二日ぶりの報せだった。伝令は昨夜からほとんど眠っていないらしく、目の下に濃い隈を作っていた。差し出された書状には、ゼルの筆跡で、四方の戦況が詳細に記されている。「読み上げます」アルヴィス様が、書状を広げた。「東門。ガイル率いる守備隊が、教会派の民兵およそ千二百と交戦中。防衛線は保持しているが、消耗が激しい」その一行を聞いただけで、ガイル様の疲れ切った顔が目に浮かんだ。彼は、いつも最前線で無理をする人だった。「北門。守備隊長の判断で、市街地への侵入を防ぐ布陣を敷いている。|膠着《こうちゃく》状態」「西門は」私が問うと、彼は書状の続きに目を落とした。「西門は、最も手薄だ。守備隊の主力が、南と東に回されている」その言葉に、私は息を呑んだ。「では、そこが破られたら」「帝都の中枢まで、遮るものがなくなる」*私たちは、丘の上に張られた天幕の中で、書状を囲んでいた。風が布地を絶えず打ちつけ、その音が話し声に重なる。
Last Updated: 2026-10-16
Chapter: 第63話 罠は、すでに出立から二日目の朝、私たちは国境を越えた。帝国の田園とは、まるで景色が違った。乾いた赤茶けた土に、低い灌木がまばらに生えている。空はよく晴れていたが、風は砂を含んで乾いており、頬に当たると微かに痛んだ。街道を行き交う人の姿は、驚くほど少ない。「――静かすぎますね」馬車の窓から外を眺めながら、シェラが呟いた。「本来なら、この時期は巡礼者で賑わうはずの街道でございます」「人払いがされている、ということかしら」「あるいは、皆が何かを察して、家に籠っているか」その言葉に、私は背筋が冷えるのを感じた。静けさは、平穏の証ではない。むしろ、その逆であることを、これまでの経験が教えていた。アルヴィス様は、地図を膝の上に広げたまま、じっと窓の外を見ていた。「総本山まで、あとどれくらいですか」「順調にいけば、明日の夕刻には着く」「順調に、いけば」「――そうだな」彼は、そこで言葉を切った。その短い沈黙が、私たちの誰もが抱えている不安を、そのまま表しているようだった。*昼を過ぎた頃、後方から馬蹄の音が近づいてきた。一騎だけの、猛烈な速度だった。護衛の騎士たちが即座に警戒態勢を取ったが、その旗印を見て、すぐに緊張を解いた。帝国の伝令旗だった。「殿下、火急の報せにございます」泥まみれの伝令が、馬から転げ落ちるように降り立った。喉が渇き切っているのか、その声はひどく掠れていた。アルヴィス様が、馬車を降りて彼のもとへ向かう。私も、後を追った。「何があった」「帝国国境の四方に同時に、武装勢力が現れました」その一言に、周囲の空気が凍りついた。「四方、というのは」「南、東、北、そして西でございます。すべて、同じ日の未明に動き出しました」私は、思わず
Last Updated: 2026-10-15
Chapter: 第62話 追う者の、覚悟翌朝は、灰色の雲が空を低く覆っていた。昨日のあの晴天が嘘のように、風は冷たく、庭の木々を重く揺らしている。私は夜明け前に目を覚まし、まだ薄暗い部屋で、旅の支度を進めていた。窓の外から聞こえるのは、風の音だけだった。「お嬢様。お支度、お手伝いいたします」シェラが部屋に入ってきた。彼女もまた、一睡もしていないような顔をしていた。「あなたも、休めていないのね」「あの者のことを考えますと、どうにも」その声には、苛立ちと心配が入り混じっていた。前世からの仲間が、また一人で危険に飛び込んでいく。彼女にとっても、それは決して他人事ではないのだろう。「シェラは、ネフィリスのことが嫌い?」「――いいえ」彼女は、旅装を丁寧に整えながら、静かに答えた。「腹立たしくはございます。ですが、あの者なりの理屈は、分かってしまうのです。それが、余計に厄介で」*朝議の間に、主だった者が集まったのは、日が昇り切る前だった。卓の上には、昨夜のうちに準備された書状の束が積まれている。アーデルハイド王国への入国許可願い、聖教会への謁見申請、そして使節団の名簿。ゼルとガイル様が、夜通しで整えたものだった。「使節としての体裁は、これで整いました」ゼルが、書類を私の前に押し出した。彼の目の下には、はっきりと隈が浮かんでいる。「名目は、婚約成立の正式な報告と、両国関係の改善に向けた協議。これなら、教会も表立って拒めません」「ありがとう。よくここまで」「当然のことでございます」彼は短く答えたが、その声には、いつもの余裕がなかった。五歳の身体に、この二日の緊張は重すぎたのかもしれない。「随行者は、最小限といたします」ガイル様が続けた。「殿下、ヴィオレット様、シェラ殿、そして護衛の騎士を十名。それ以上は、かえって警戒を招きます」
Last Updated: 2026-10-14
Chapter: 第61話 置き手紙翌朝は、よく晴れていた。朝の光が、宮の白い石壁に跳ね返って、廊下をまぶしいほどに照らしている。庭の木々からは、季節外れに元気な小鳥の声が、絶え間なく聞こえてきた。あまりに穏やかな朝だったせいで、私はその報せを聞いたとき、しばらく理解が追いつかなかった。「お嬢様。ネフィリスの姿が、どこにも見当たりません」シェラが私の部屋の扉を叩いたのは、朝食を済ませた直後だった。「見当たらない、というのは」「昨夜のうちに、宮を出たようです。門番も、誰一人、気づいておりません」その言葉に、私は昨夜の不安が、そのまま形を取ったのだと悟った。あれほど言葉を尽くしたつもりだったのに、届いていなかった。「部屋は」「調べました。荷物はそのままです。ただ」シェラは、一枚の紙を差し出した。粗末な紙だった。あの日、彼女の私室に置かれていたのと、同じ質の紙。「これが、寝台の上に」私はそれを受け取った。指先が、かすかに冷たくなっていくのを感じた。*流れるような、美しい筆跡だった。『魔王様へ』『先日のお言葉、確かに承りました。一人で背負うな、と。仲間と共に考えよ、と』『そのお心を、疑うつもりはございません。ですが、あたしには、どうしても待てないことがございます』『村が焼かれました。次は、また別の村でしょう。そのたびに、魔王様は苦しまれる。あたしは、それを見ていることが、できません』『ですから、根を断ちに参ります』その一文で、私の指が止まった。『バルドウィン大司教。あの方さえいなくなれば、この争いの多くは、収まるはずです』『魔王様の御手を汚さぬために。あたしが、参ります』『どうか、お怒りにならないでくださいませ。これは、裏切りではございません。あたしなりの、忠誠でございます』そして、最後の一行。『ネフィリス』私は、そ
Last Updated: 2026-10-13