瀬戸未玖(せと みく)は、これが何度目になるのか――もう、数えるのをやめてしまった。
夫である瀬戸海斗(せと かいと)が求める反応を、返してあげられないことへの無力感に、未玖はただ打ちひしがれていた。
押し付けられた海斗の体温は、痛いほどに熱い。瞳の奥で渦巻く暗い欲望も、荒くなる吐息も。
応えたい、という想いはある。けれど、聴力を失ってから長く閉ざされていた喉の奥で空気が潰れたような、意味をなさない音が漏れるだけだ。
海斗の瞳から、欲望の色が急速に褪せていく。未玖はそれを、ただ見つめることしかできなかった。
やがて彼は身を起こし、手話で淡々と告げる。
「書斎で片付けなきゃいけない仕事がある。先に寝ててくれ」
額にキスを落とし、部屋を出ようとする海斗。
未玖は慌てて起き上がり、その手を掴んだ。どうしても、伝えたいことがあったからだ。
今日の検診で、医師は確かにこう言ってくれた。治療の効果が現れ、聴覚神経が回復し始めていると。間もなく、音の世界は完全に戻ってくるだろう、と。
もうすぐ、また普通に話せるようになる。もう二度と失望させたり、興醒めさせたりせずに済む――!
希望に胸を震わせ、未玖は口を開いた。けれど、喉から最初の声が漏れた途端、海斗は不快そうに眉をひそめた。
「先に寝てて。な?おやすみ」
冷たく言い残し、彼は足早に去っていく。
未玖は胸を締め付けられるような申し訳なさを抱えながら、それでもこのいい知らせを伝えたくて、書斎へと彼を追った。手話ならば、正確に伝えられるはずだから。
書斎の扉は、わずかに開いていた。
手をかけて押し開けようとした、その時だ。
扉越しに、くぐもった音が聞こえた。海斗の声だ。パソコンに向かい、「声を聞かせてくれよ」と甘えている。
画面が眩しく発光していた。隙間から覗き込むと、そこには女の姿があった。
露出の多い、薄いキャミソールを身に纏い、唇に妖艶な笑みを浮かべている。
「かしこまりました、海斗さん~。専属声優の荻野香奈(おぎの かな)、今日はたっぷりとご奉仕させていただきますね」
海斗の手が、熱を帯びた自身へと伸びている。その瞳には、未玖が一度も向けられたことのない、生々しい情欲が宿っていた。
「俺の名前を呼んでくれ!」
「海斗さん、あぁ、海斗さん……っ!」
甘く、脳髄を痺れさせるような甘い声が、何度も何度も耳にこびりつく。全身の血が逆流し、足元の床が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
「あぁ……やっぱりお前の声は、あいつなんかよりずっといい」
「奥様、お耳が聞こえなくなってからは声も出せなくて、満足させてあげられないんですものね」
香奈が甘えた声で囁くのが聞こえる。
「どうせ私、もう海斗さんの秘書ですし、海斗さん専属の声優なんですから。画面越しじゃ物足りないでしょう?今なら会社、誰もいませんよ……?」
その瞬間、未玖の中で全てが繋がった。この女は、海斗がつい最近採用したばかりの秘書・荻野香奈だ。
そういうことだったのか。学歴も高くない彼女を、破格の待遇で秘書に据えた理由は。
「彼女には一芸がある。チャンスを与えたい」などと海斗は言っていたが、その一芸とは、この喘ぎ声のことだったわけだ。
「海斗さ~ん、そんなに大変そうなら、今すぐ来てくれてもいいのよ?私、海斗さんの上で、いっぱい声出してあげるから」
「お前、本当に小悪魔だな。待ってろ、すぐ行く」
欲望を吐き出し終えた海斗は、パソコンを閉じて立ち上がろうとしたその時、扉の前に立ち尽くす未玖と、目が合った。
一瞬、海斗の顔に動揺の色が浮かぶ。
けれど次の瞬間、彼は思考を切り替えたようだった。彼女には聞こえていないはずだ。何をしていたかなんて、分かるはずがない、と。
彼は表情を戻し、手話で告げてくる。
「先に休めって言っただろ?何の用だ?」
血の気の引いた顔で夫を見つめる未玖は、震える指でパソコンを指差し、掠れた声を振り絞った。
「今……何してたの?」
「何でもない。急ぎの用事ができたんだ。これから会社に行く。早く寝ろ」
海斗は傍らの上着を掴むと、信じがたいことに、スマホを取り出し、未玖の目の前で臆面もなく香奈に電話をかけた。
「こんな遅くに来たら、奥様に悪いんじゃないですか?」
「今さら何を。いつものことだろ。会社に行くと言えばそれで済む、疑いやしないさ。たとえ本当のことを知ったとしても、どうってことない。今のあいつの状態で、俺以外の誰が欲しがるんだ?」
口では未玖を貶める言葉を吐きながら、海斗はその顔に優しげな笑みさえ浮かべている。
出かける間際、彼は未玖を抱きしめた。そして手を振り、バイバイと告げて部屋を出て行った。
未玖は彼の背中を見送りながら、声もなく笑った。瞳からは、堰を切ったように涙だけが流れ落ちる。
二人は幼馴染の夫婦だった。中学、高校、大学と、人生のすべてを共に歩んできた。
誰もが言ったものだ。二人は最高のカップルだと。もしこの二人が別れるようなことがあれば、もう愛なんて信じられないと。
海斗が起業した時も、未玖は献身的に彼を支え続けた。
わずか二年で、海斗は事業で大成功を収めた。無名の青年が、一転して気鋭の社長となったのだ。
本来なら、二人の生活は幸せに満ちているはずだった。あの突然の事故が、未玖から聴力を奪ってしまうまでは。
三年前、海斗が会社の工事現場を視察していた時のことだ。未玖は彼に弁当を届けに行っていた。
そこで偶然、制御を失ったクレーンから鉄パイプの束が、海斗めがけて落下してくるのを目撃してしまった。一瞬の躊躇いもなく、未玖は駆け出し、彼を突き飛ばした。
背中に走った激しい衝撃。けれど、もっと致命的だったのは、鉄パイプが降り注いだ時の、鼓膜をつんざくような衝撃音だった。無数の鋼鉄の針が、鼓膜を直接貫くような破壊的な音。
その瞬間、未玖の世界は死のような静寂に沈んだ。
医師の診断は、騒音性難聴。回復の見込みは限りなく低い。
聴力の損傷が深刻すぎて、当面は補聴器さえも使えないという絶望的な宣告だった。
悲嘆に暮れる未玖を、海斗は強く抱きしめた。そして親族たちの前で誓ったのだ。一生愛し続けると。この人生で決して裏切らないと。
それからの数年間、海斗は確かに良き夫だった。
彼は未玖をとても大切にしてくれた。彼女とスムーズに意思疎通ができるよう、激務の合間を縫って手話教室に通い続けた。
耳が聞こえなくなってから、未玖は発声を避けるようになった。それでも海斗は根気強く、何度も何度も語りかけてくれた。
「今日は何していたの?
俺のこと、恋しかった?
俺はすごく恋しかったよ。
聞こえなくても大丈夫。これからは俺が、お前の耳になるから」
結婚五周年の記念日。海斗は会社の全社員の前で、手話でこう伝えてくれた。
「未玖、愛してる。生まれ変わっても、俺は必ずお前を見つける!」
深く妻を愛する夫という評判は、多くの顧客からの称賛を呼び、数え切れないほどの大型契約をもたらした。
なのに。
あの日から、まだ三ヶ月しか経っていない。
ベッドで魅惑的な声を出せないから、思うような反応が返せないからという理由だけで、彼は他の女を抱いたのだ。
未玖には、精神的な潔癖さがあった。裏切りなど、到底受け入れられるものではない。
離婚しよう。そう決めた。
彼女は棚の奥から、三年前――あの事故の日に海斗が署名済みの離婚協議書と離婚届を取り出した。
当時、障害を負った自分が海斗の足枷になりたくなくて、未玖は離婚を申し出た。だが海斗は首を縦に振らず、その場でこの協議書と離婚届を作成し、署名したのだ。
「未玖、お前は俺の足を引っ張ってなんかいない。俺が自分から望んで一緒にいるんだ。これが俺の愛の証だ」
協議書には、はっきりと明記されている。もし海斗が未玖を裏切ることがあれば――
彼は一切の財産を放棄し、すべてを未玖に残す、と。
海斗は信じて疑わなかったのだろう。未玖がこの協議書と離婚届にサインすることなど絶対にないし、自分のもとを離れることなど永遠にないのだと。
けれど、彼は間違っていた。
今度こそ、未玖は去る。