偽りの婚約者と金色の誓い ~一億円の婚約の真実~ のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 5

5 チャプター

プロローグ:橋の上で

 十一月の深夜、隅田川に架かる橋の上で、水瀬凛は欄干に手をかけていた。 冷たい金属の感触が掌に食い込む。東京の夜景が眼下に広がっているが、その煌めきは彼女にとって何の意味も持たなかった。むしろ、あの光の一つ一つが彼女を嘲笑っているように見えた。 二十八年間の人生で、凛はこれほど静かな夜を経験したことがなかった。車の音も、人の声も、全てが遠い。まるで世界が彼女を置き去りにして、先に進んでしまったかのようだった。 ハンドバッグの中には、離婚届と破産通知書。それだけが、彼女の全財産だった。「……いいのよ、もう」 誰にともなく呟いた声は、風に溶けて消えた。 欄干に足をかけようとしたその時、背後から男の声が響いた。「待ってください」 振り返ると、闇の中から一人の男が歩いてきた。黒いコートを纏い、整った顔立ちの男。その瞳は、街灯の光を反射して琥珀色に輝いていた。「誰……?」「名前はまだ明かしません。でも、あなたを止めるために来ました」 男は静かに、しかし確信を持って言った。「あなたには、まだ価値がある」 その言葉に、凛の体が硬直した。「価値」――夫が最後に言った言葉と同じだ。ただし、意味は正反対だった。「私に……価値?」 凛は笑った。乾いた、空虚な笑い。「私には何もない。お金も、家も、夫も、友人も。全部失ったの。私に価値なんて――」「あなたの目を見れば分かります」 男は一歩近づいた。「その目は、美しいものを見分ける目だ。そして、美しいものを創り出す力を持っている。それは、誰にでもある才能じゃない」 凛は戸惑った。この男は一体何を言っているのだろう。「一つ、提案があります」 男はコートの内ポケットから、一枚の名刺を取り出した。月明かりの下で、エンボス加工された文字が浮かび上がる。『黒澤玲於 MAISON NOIR Asia Representative』「私と契約してください。一年間、私のビジネスパートナーとして。報酬は、一億円です」 凛の心臓が、久しぶりに強く鼓動した。
last update最終更新日 : 2025-12-02
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第一章:絶望の深淵

 三ヶ月前――水瀬凛の人生は、まだ形を保っていた。 父が創業した中堅アパレル商社「水瀬商事」は、彼女が二十五歳で結婚した夫・拓海に経営を任せていた。凛自身はデザイン部門で働き、小さいながらも充実した日々を送っていた。 南青山のマンション。毎朝のジョギング。週末の美術館巡り。 平凡だが、確かな幸福があった。 それが崩れ始めたのは、七月の終わりだった。「凛、ちょっと話がある」 その夜、拓海は珍しく早く帰宅した。しかし彼の表情は硬く、目は凛を見ようとしなかった。 リビングのソファに座り、拓海は淡々と言った。「会社が、危ない」 凛の手から、持っていたワイングラスが滑り落ちそうになった。「どういうこと?」「ここ半年の売上が急落してる。取引先からの支払いも滞ってて……銀行からの融資も、もう限界だ」 拓海の声には、諦めが滲んでいた。「でも、先月の報告書では黒字だって――」「粉飾だよ」 その一言で、凛の世界が揺れた。「何を言ってるの? 粉飾って……それって犯罪じゃない」「分かってる。でも、そうしないと取引先が離れていくんだ。もう後戻りできない」 拓海は顔を手で覆った。「お前の父さんの会社を、俺が潰してしまった」 凛は立ち上がり、拓海の肩に手を置いた。「まだ何とかなるわ。私も働く。私のデザインで何か――」「無理だ」 拓海は凛の手を振り払った。「お前のデザインなんて、趣味レベルだ。それで会社が救えるわけがない」 その言葉は、凛の心臓に突き刺さった。 それでも凛は、希望を捨てなかった。夜遅くまでデザイン案を練り、取引先に営業の電話をかけ、できる限りのことをした。 しかし、運命は容赦なかった。 八月の中旬、主要取引先が一斉に契約解除を通告してきた。理由は「経営状態への懸念」。 九月に入ると、銀行が融資の即時返済を求めてきた。 そして九月の終わり――会社は破産を申請した。 父が三十年かけて築いた会社は、三ヶ月で消滅した。 だが、本当の悪夢はそこからだった。 破産手続きが進む中、凛は拓海の異変に気づいた。彼は夜遅く帰宅し、携帯電話を肌身離さず持ち歩き、凛の目を見て話さなくなった。 ある夜、拓海が寝た後、凛は彼の携帯電話をこっそり見た。 そこには、彼の秘書・倉持美咲とのメッセージが大量に残っていた。『今夜も会える?
last update最終更新日 : 2025-12-02
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第二章:運命の契約

「一億円……?」 凛は呆然と、黒澤玲於という男を見つめた。「冗談でしょう? 私に何ができるっていうの」「冗談ではありません」 黒澤は真剣な表情で続けた。「私は欧州の名門ラグジュアリーブランド『MAISON NOIR』のアジア代表を務めています。来年、東京に新しいフラッグシップストアをオープンする予定です。そのプロジェクトに、あなたの力が必要なんです」「私の……力?」「はい。具体的には、あなたに三つの役割を担っていただきます」 黒澤は指を折った。「第一に、ストアのテキスタイルデザインの監修。第二に、日本市場向けの限定コレクションのデザイン。そして第三に――」 彼は一瞬、躊躇するように間を置いた。「私の婚約者として、社交界に同行していただきます」「婚約者……?」「正確には、偽装婚約です。契約期間は一年。その間、あなたは私のパートナーとして公の場に現れ、MAISON NOIRのブランドイメージを体現していただく。もちろん、実際の結婚義務はありません」 凛は混乱した。この男は一体何を言っているのだろう。「なぜ、私なの? デザイナーなら他にいくらでもいるし、婚約者役だって――」「あなたでなければならない理由があります」 黒澤は凛の目を真っ直ぐ見た。「三年前、銀座の画廊で、あなたのテキスタイル作品を見ました。『夜明けの反射』というタイトルの、シルクスカーフのデザイン。覚えていますか?」 凛の目が見開かれた。 あれは、彼女が唯一、自分の名前で発表した作品だった。父の会社で働く前、美大時代の卒業制作を、小さな画廊が展示してくれたのだ。「あのデザインを見た瞬間、私は確信しました。この人は、色と光の本質を理解していると。単なる装飾ではなく、人の感情を動かす『何か』を持っている」「でも、あれは三年も前の――」「才能は消えません」 黒澤は断言した。「あなたは今、自分に価値がないと思っている。でも、それは間違いです。あなたの目、あなたの感性は、お金では買えない財産です」 凛の目に、涙が滲んだ。 誰も、そんなことを言ってくれなかった。夫も、友人も、誰も。「考える時間をください」 凛は声を絞り出した。「こんな夜に、こんな状態で決められない」「分かりました」 黒澤は名刺をもう一枚差し出した。「これが私のプライベートな連絡先です。三
last update最終更新日 : 2025-12-02
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第三章:セレブ社会の門

 契約から二週間後、凛は初めての「公務」を迎えた。 六本木ヒルズで開催される、ラグジュアリーブランド合同展示会。日本の富裕層と、海外からのバイヤーが集まる、年に一度のイベント。「緊張しないでください」 玲於が、リムジンの中で凛に言った。「あなたは私の隣にいて、笑顔でいればいい。会話は私がリードします」「でも、私みたいな人間が、あんな場所に――」「あなたはみたいな人間ではありません」 玲於の声は厳しかった。「あなたは水瀬凛。MAISON NOIRのクリエイティブ・ディレクター補佐であり、私の婚約者です。自信を持ってください」 凛は深呼吸をした。 今日、彼女が身につけているのは、シャンパンゴールドのイブニングドレス。首元には、MAISON NOIRの最新コレクションから選んだ、ダイヤモンドとサファイアのネックレス。髪は専属のスタイリストがアップにし、メイクも完璧だ。 鏡の中の自分は、もはや三週間前の自分ではない。 会場に到着すると、フラッシュの嵐が待っていた。「黒澤さん! こちらを向いてください!」「お隣の方は、どなたですか?」 玲於は落ち着いて、凛の腰に手を回した。「私の婚約者、水瀬凛です」 その一言で、会場がざわめいた。 MAISON NOIRのアジア代表、黒澤玲於の婚約者――その情報は、瞬く間に広がった。「はじめまして」 凛は笑顔で会釈した。心臓は激しく鼓動しているが、表面上は穏やかに。 会場内に入ると、そこは別世界だった。 シャンデリアの光。クリスタルのグラスを持つ人々。ピアノの生演奏。空気さえも、どこか違う匂いがした。高級な香水と、富の匂い。「玲於!」 金髪の女性が近づいてきた。完璧なまでに洗練された美しさ。彼女は流暢な英語で話しかけた。「久しぶりね。これが噂の婚約者?」「ああ。凛、紹介しよう。彼女はイザベル・デュラン。パリ本社のマーケテ
last update最終更新日 : 2025-12-03
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第四章:才能の開花

 デザインの仕事は、凛が想像していたよりも遥かに厳しかった。 広尾のアトリエで、凛は毎日十時間以上、デザインに没頭した。 MAISON NOIRの東京フラッグシップストアは、表参道の一等地に建設中だった。地上三階、地下一階の独立した建物。建築家は、日本とフランスの伝統を融合させた大胆なデザインを提案していた。 凛に与えられた使命は、その空間に調和するテキスタイルデザインの創造。 ストアの壁面を飾るシルクのタペストリー。各フロアのテーマカラー。そして、オープニングコレクションのための限定スカーフデザイン。「難しいわ……」 凛は何度目かの試作を破り捨てた。 MAISON NOIRのブランドアイデンティティは明確だ。「夜の美学」「洗練された官能性」「東洋と西洋の融合」。 だが、それを形にすることは、想像以上に困難だった。 単に美しいだけではダメ。ブランドの歴史を理解し、日本市場の特性を考慮し、そして何より、見る人の心を動かさなければならない。「行き詰まりましたか?」 アトリエのドアが開き、玲於が入ってきた。彼は週に一度、凛の進捗を確認しに来る。「すみません……なかなか、納得できるものができなくて」「見せてください」 玲於は凛のスケッチブックを手に取った。そこには、何十枚ものデザイン案が描かれていた。「どれも、悪くありません」 玲於は言った。「技術的には完璧です。色彩理論も理解している。構図も美しい」「でも?」「でも、何かが足りない」 玲於は凛を見た。「これらのデザインは、頭で考えたものです。完璧すぎる。あなたの『夜明けの反射』にあった、あの生々しい感情が感じられない」 凛は悔しさで唇を噛んだ。「じゃあ、どうすれば――」「理論を捨ててください」 玲於は断言した。「今夜、私と一緒に来てください。あなたに、あ
last update最終更新日 : 2025-12-04
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