十一月の深夜、隅田川に架かる橋の上で、水瀬凛は欄干に手をかけていた。 冷たい金属の感触が掌に食い込む。東京の夜景が眼下に広がっているが、その煌めきは彼女にとって何の意味も持たなかった。むしろ、あの光の一つ一つが彼女を嘲笑っているように見えた。 二十八年間の人生で、凛はこれほど静かな夜を経験したことがなかった。車の音も、人の声も、全てが遠い。まるで世界が彼女を置き去りにして、先に進んでしまったかのようだった。 ハンドバッグの中には、離婚届と破産通知書。それだけが、彼女の全財産だった。「……いいのよ、もう」 誰にともなく呟いた声は、風に溶けて消えた。 欄干に足をかけようとしたその時、背後から男の声が響いた。「待ってください」 振り返ると、闇の中から一人の男が歩いてきた。黒いコートを纏い、整った顔立ちの男。その瞳は、街灯の光を反射して琥珀色に輝いていた。「誰……?」「名前はまだ明かしません。でも、あなたを止めるために来ました」 男は静かに、しかし確信を持って言った。「あなたには、まだ価値がある」 その言葉に、凛の体が硬直した。「価値」――夫が最後に言った言葉と同じだ。ただし、意味は正反対だった。「私に……価値?」 凛は笑った。乾いた、空虚な笑い。「私には何もない。お金も、家も、夫も、友人も。全部失ったの。私に価値なんて――」「あなたの目を見れば分かります」 男は一歩近づいた。「その目は、美しいものを見分ける目だ。そして、美しいものを創り出す力を持っている。それは、誰にでもある才能じゃない」 凛は戸惑った。この男は一体何を言っているのだろう。「一つ、提案があります」 男はコートの内ポケットから、一枚の名刺を取り出した。月明かりの下で、エンボス加工された文字が浮かび上がる。『黒澤玲於 MAISON NOIR Asia Representative』「私と契約してください。一年間、私のビジネスパートナーとして。報酬は、一億円です」 凛の心臓が、久しぶりに強く鼓動した。
最終更新日 : 2025-12-02 続きを読む