Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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monologue

 十年経っても俺と結婚したいと思ってくれる?  オトナにならないと、結婚することはできないんだよ。 ――幼かったあたしは、彼の言葉を鵜呑みにすることしかできなかった。 オトナになる、彼のオンナになる、その意味すら理解せずに。  結婚したらめでたしめでたしだと思っていた。  読み聞かせで何度もせがんだお姫様と王子様の物語みたいに。  だから十年、彼を好きでいつづけようと、幼心に誓った。  ただ、アカネに負けたくない、それだけの気持ちで。「うん。あたし……――ちゃんのお嫁さんになる!」 その一方的な宣言が、彼の足枷になることすら、そのときのあたしは気づいていなかった。  いや、気づいていて、無邪気に気づいていないふりをしていたんだ。  恋する少女はときに残酷で、狡猾な表情を魅せるものだから。  だからたぶん、罰が当たったんだと思う。 あたしは約束の十年を貫けないまま、死んだ。 そこで一瞬、すべてが途切れた。 意識も記憶も感情も、ぜんぶがバラバラになった。 けれども彼は、彼らはつぎはぎして、あたしを不完全ながらも取り戻してしまった。 そして黄泉還って初めて目の当たりにした、ほんとうの恋。  届かない月に手を伸ばすような、叶わない、叶えられない恋。  あまりに痛くて、苦しくて。  逃げるように、求めてしまったぬくもり。  それは、十年間好きでいようと想いつづけた彼ではない、別の男性だった。  不誠実だって、理解していたけれど。 「あなたなしでは生きていけないの」  その言葉を、ほんとうに捧げなくてはいけない相手が、誰なのかわからないまま。  かよわき花は散らされ、新たな罪を犯していく。  恋なんて得体の知れない感情に溺れたくない、けれども身体は心とは裏腹に、意地悪なのにやさしい彼を求めて蜜を溢れさせる。  このままじゃ壊れてしまう。けれど壊れてしまえばもうなにも怖いものはない。  解離するふたつの思惟はぶつかりあいながら、自身に潜む本音を探りつづけ、白日の下へ晒すべく、ふたりの異性に向けて醜い姿を暴いてゆく。彼らが何を求めているのか、理解できないまま、ただひたすら溺れることしかできなくて。 このドロドロした感情も”恋”と呼ばれるものなのだろうか。庇護を受けることでしか生きていけない彼女は、信じることができずにいる。
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chapter,1 + 1 +

 無意識のうちに身体が動いていた。兄のように慕っていた彼から、目の前に迫り来る真っ赤な乗用車を斥けるために。  精一杯のちからで、彼を押しやった。「小手鞠!」 けれどもちいさな身体はあっけなくはね飛ばされて宙を舞う。濃紺のセーラー服を着た少女が頭から地面へ墜落していく。  目撃者の悲鳴と、ぐしゃりという不快な衝撃音。同時に黒板にフォークをつきたてて引っ掻いたときに鳴り響くような不協和音が世界を覆う。それが車のブレーキの音であることすら、自由には理解できなかった。  目の前の光景を嘘だと、夢だと思いたかった。  いつもふたりで通るアスファルトに血溜まり。胸元を飾っていた真っ白なリボンタイは禍々しいほどの臙脂へと色を変え、触れたらとけてしまいそうなふわふわの黒髪にはべったりと血が付着している。とくとくと流れ出る赤い液体をとめようと、彼ははね飛ばされた少女の前へ駆け込み、着ていたジャケットを脱いで止血を試みる。麻でできた萌黄色のジャケットはみるみるうちに赤黒く染まっていく。  無力だ。たとえ救命処置についての知識を知っていても実践できるわけではないと自由は思い知る。ぎりぎりと歯を食いしばる。悔しい。なぜ彼女がこんな目に合わなければならない?  少女の名を呼ぶ。小手毬、何度も何度も何度も呼びかけても、彼女は応えない。頭を強打したのか、ぴくりとも動かない。けれど、素人がむやみに動かすものではない。 目撃者が呼んだのだろう、遠くからサイレンの音が聞こえる。小手毬の前でしゃがみ込んで抜け殻のようになっていた自由は顔をあげ、死んだ魚のような瞳で、佇んでいた女性を見眇める。  真っ赤な車を運転していたのは、自由より少し年上の、二十代後半の女性のようだ。レースのシルクブラウスとグレーのタイトスカートを着た彼女は、会社帰りのОLに見えなくもないが、少し浮世離れした感じがある。  きれいな、ひとだ。  自分がしてしまったことにうろたえ、立ちすくんでいる。彼女は取り乱していた。少女をはねてしまった事実に打ちのめされていた。  自由はその様子を見て醒めてしまった。あなたが取り乱していても、小手毬が治るわけではない。彼女は現に、あなたにはねられてしまったのだから。  サイレンが間近まで迫り、静かになる。  救急車と、パトカーが現場に到着し、それぞれ救
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chapter,1 + 2 +

   * * * 「今、縁起でもないこと考えただろ?」  ミントグリーンの術着を着た若き医師は救急車から運び込まれた患者を一目見て、息を飲んだ周囲の人間を一蹴する。「匙投げるなよ!」 怒鳴りながら、手術室へ駆け込み、バタンと扉を閉める。ペールグリーンの術着を纏い、待機していた医師、早咲が彼を確認して頷く。無言で合図を出す。  パッと手術中のランプがあかく、点灯をはじめる。  陸奥は麻酔を施し、患者の状態を改めて見やる。そこで、救急隊員が諦めた表情をしていたことに理由がいった。  ……確かにこのままだと、十中八九、死ぬな。  運ばれてきた十六歳の少女は意識不明の重体だった。頭部を強く打ったらしく、外傷性くも膜下出血、脳挫傷、急性硬膜下血腫が認められる。頭蓋骨は折れていないようだが、危険な状態に変わりはない。MRIで脳の中心部である脳梁、中脳、大脳基底核各部に損傷が見られたことからも、意識障害が重篤であることが理解できる。手術後もこの状態が続くようならびまん性軸索損傷の診断もできそうだな、と陸奥は考える。 だが、彼女はまだ生きている。最善を尽くせ。無為に死なせたりするな。諦めたら終わりだ。 考えながらも動かす手は止まらない。眩しすぎる灯りの下、早咲が頭を開いていく。鉗子を操る彼の行為をひとつひとつ見やりながら、陸奥は次にすべきことを即座に組み立てていく。 一刻も早く開頭手術を行い、血腫を取り除かなければ彼女は助からない。ちいさな頭蓋は陥没こそしていないものの、傷だらけだ。損傷後の脳浮腫、挫傷性出血で脳内の圧力はかなり高い。腫れあがる脳を鎮めるため、脳圧を下げるべく薬を選択する。  血腫を取り除き、早咲は縫い合わせ作業に入る。ここまでくると、固唾を飲んで見守ることしかできない。  はじまりからおわりまでいつも以上に苦しい、はちきれそうな緊張感が続いていた。たいした時間ではないはずなのに、一日の半分以上を費やしてしまったような、そんな大手術だった。  やがて早咲が手を止める。 息を飲む。  手術室からストレッチャーに乗せられた少女が前を遮り、集中治療室へ移送されていく。  両目を充血させ、患者の無事を祈っていた家族の縋るような視線が早咲に向く。 「たったいま、娘さんの手術が終わったところです」  そして、早
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chapter,1 + 3 +

   * * *  小手毬の昏睡状態は続いている。「人形みたいな女の子ね」 毎日、花束を持って病室に見舞いにくる女性を、自由は無表情で見つめつづけた。  最初のうちは言葉を交わすのも嫌だった。  あまりに子どもじみているとは思う、だが自由は彼女を許すことができずにいる。剥き出しの憎悪を吐き出して更に惨めになるよりは、自分の殻に閉じこもって外部からの接触を遮断した方が無難だと、そう考えたから無視していた。  だが、時間の経過とともに、自由も冷静になった。  いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。彼女が目覚めることを信じて、優しく見守りたいと、そう思ったから。  加害者を許すことはできない。それでも、無言の逢瀬を二ヶ月ほど続けたある日、会話をするようになった。  小手毬も、彼女を責めるようなことを望んではいないだろう。彼女はそういう子だ。 「授業はよろしいの?」 「夕方になったら戻りますよ」  自由は共働きの小手毬の両親に代わって、大学の授業の合間にちょくちょく小手毬を見舞っていた。幸運にも、そういうことができる環境だった。それに、経験が浅い彼は彼女のためにできることが、なかった。見舞うことしかできなかった。  彼が「亜桜小手毬」と記された個室に行くと、高い確率で、彼女と会う……小手毬をはねた事故の加害者と。 加害者である女性は坂猪優璃と名乗った。  事故の責任は自分にあると、誠意を込めて小手毬を見舞っていた。加入していた自動車保険だけでは償いきれないと、若い頃から貯めていた結婚資金をすべて、小手毬の治療費に捻出してくれた。個室を準備してくれたのも彼女だ。  病室には毎日、異なる花が飾られる。赤と白の絞り模様がのぞく八重のカーネーションに、赤、白、黄、緑、紫、桃、橙色と、グラデーションが豊かな七色のチューリップ、気高い女王のように凛と佇むオールドローズに鮮やかな色彩を抱くリガールリリィ……自由の知らない花もたくさんあった。 冬だというのに、彩り豊かな花々が、眠りつづける小手毬を包み込む。まるで病室自体がガラスの棺のようだと自由は苦笑する。それでも、無機質な病室に彼女をひとりきりにさせるよりはマシだと優璃は呟く。 「でも、あなたがいるから、淋しくはないのかもしれないわね」  交通事故の傷跡
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chapter,1 + 4 +

   * * * 徹夜で論文を書いていて判断力が鈍っていた自分にも非がある。 あのとき小手毬に手をひっぱられていなかったら、小手毬に庇われていなかったら、優璃の車にはね飛ばされていたのは小手毬ではなく、自由だったかもしれない。 毎日、毎日、病室に通う。 毎日、毎日、人工呼吸器に繋がれた少女の寝顔を見る。 毎日、毎日、毎日、毎日。「あれ、君……」 どのくらい、毎日が続いただろう。 ぼんやり、病棟に続く廊下を歩いているときに、呼び止められた。 白衣の胸ポケットに「医師 陸奥」と書かれた名札がついている。 ムツと読む人間が多いからか、ミチノクとフリガナがついている。 見たところ、自由より少し年上の、二十代後半から三十代前半のようだ。医師としては若手に入るのだろう。整った顔立ちに、しわひとつない白衣がさまになっている。 どこかで見たような顔だと思ったが、毎日のように病院に通っているのだから見たことがあるのは当然かと考え直す。自由は院内でも有名人になっている。眠り姫に会いにくる王子様として。 ……ただし、目覚めさせることのできない王子様だけどな。「たしか、亜桜さんの」 みなまで言わさず、自由は遮るように挨拶する。自由は小手毬の兄ではない。それなのに誰もがふたりを兄妹だと認識する。あくまで自由は小手毬にとって兄みたいなもの、である。 自由は小手毬を妹以上の大切なひとだと思っているが。「お世話になってます」「また来たのか」 呆れたように言われ、ムッとする。 事故から半年が過ぎようとしていた。小手毬は植物人間として障害者認定を受けた。自慢だったふわふわのロングヘアも今ではベリーショートに切り揃えられている。 点滴と酸素吸入だけが彼女を生かしている。 状況は絶望的だった。 職場復帰を果たした優璃の見舞いは月に一回のものへ変わっていた。相変わらず季節の花を絶やすことなく飾ってくれる彼女は、病院関係者から「オソザキ」と呼ばれるようになった。自分は遅咲きの花だからと笑いながら、眠りつづける小手毬に花を届ける優しい加害者。病室の花瓶には今、大輪の向日葵が生けられている。 それでも自由は毎日小手毬を見舞っていた。 大学は夏休みに入っていたから、単位に悩まされることもなかった。 それに、いつだって自由は小手毬に会いたい。たとえ眠
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chapter,1 + 5 +

   * * * 「ジユウだろ?」 そして冬のはじまり。いつものように、面会終了時間まで小手毬の穏やかな寝顔を見つめていた自由は、呼び止められて首を傾げる。  自由をジユウと呼ぶ、懐かしい女性はひとりしかいない。「……赤根先輩」 「お久しぶり。やっぱり君だったんだ、少女の騎士は」 小手毬のことを言っているのだろう。そういえば彼女は幼い頃の小手毬と面識があったはずだ。小手毬は覚えていないだろうけど。「ドイツから戻られていたんですね」 自由とさほど変わらない女性にしては高い背丈、身につけているのはオレンジに近いピンク色の白衣、そして髪型はボーイッシュなショートカット。彼女の外見は、大学時代と変わっていない……白衣を慣れたように着ているのを除いて。「まぁな。ところでジユウ、気づいてないのか?」 「はい?」 「結婚したから苗字変わったんだよ。アカネからナラシノに」 そう言って、胸ポケットにつけている名札を見せる。確かに、「医師 楢篠」と記されている。「け、結婚……?」 冷静に応えると、楢篠はぷぃと顔を背ける。どうやら怒らせてしまったようだ。「言葉のあやよ。揚げ足とるんじゃないの」 「……はい」 しょんぼりしてしまった自由を宥めるように四つ年上の先輩は呟く。「まったく。君は変わらないね」 「そうですか?」 カツン、カツンとリノリウムの床にふたりぶんの足音が響く。窓の向こうは橙色に染まり、西の空は真っ赤に燃え上がっている。まるで火事のように。アスファルトの上に流れた小手毬の血のように……「少しはいい男になってるかと思ったけど、全然駄目だ」 「厳しいですね」 それでも楢篠は糾弾をやめない。苦笑を漏らす自由に、打ちのめすような言葉を返す。「いつまで彼女に拘る? あの女の子がジユウにとって大切だってのはわかっているが、個人的な感情で物事を左右しつづける生活を送りつづけていたら」 真顔になって、続ける。「近い将来、破滅するぞ」 楢篠の警告を、自由はさらりと受け流す。「知ってます。でも、今だけですから」 植物人間の小手毬の傍にいられるのは、今しかないと、自由は力説する。「あと半年も猶予はないけどな。それでもいいなら好きにしな」 楢篠はそう言って、連絡口から外へ出て行く。それ以上、聞いてくることはな
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chapter,1 + 6 +

   * * *  チョコレートコスモス。  名前の由来どおり、チョコレートの香りのする、焦げ茶色の花。  眠りつづける小手毬の周囲には、初冬だというのに、相変わらず花に見守られている。  花瓶の水を入れ替えて、優璃はチョコレートコスモスを生けていく。ふんわりと甘く、ほろ苦いガトーショコラのような香りが鼻孔をくすぐる。  飾り棚に花を置いて、優璃は眠りつづける少女をじっと見つめる。 自分が傷つけてしまった少女。自分が時間を止めてしまった少女。  せめて見ている夢が素敵なものであればと、彼女は見舞いに行く都度、花を贈る。きつい匂いのものや、縁起の悪い花は避けて、誰からも好かれるようなパステルカラーの小花を添えて、四季折々の花を贈る。今日はさし色が焦げ茶のチョコレートコスモスなので、いつもより大人びたアレンジになった。周囲には儚げなベージュに近い白のカスミソウが散らされている。 「今日も綺麗ですね」  優璃が顔を向けると、少女の主治医である早咲俊彦が開けっ放しの扉から、顔をのぞかせていた。四十代前半の彼は、優秀な脳神経外科医として病院内外からも評価されているという。  彼が小手毬の手術を執刀したから、彼女は今も生きているのだという噂すら聞く。だから優璃は彼と顔を合わせるたび、救われた気分になる。「こんにちは」 「こんにちは、オソザキさん。いつもありがとう」 そして早咲も、彼女が少女に送る花に癒される。「わたしにできるのは、これくらいしかないですから……」 しどろもどろになる優璃を、早咲は優しく諭す。「あなたは、よくやってくれています。むしろ、自分を責めすぎているようなきらいがあります」 「でも」 自分がしっかりしていれば、事故は起こらなかったはずだ。  車道と歩道の境界がほとんどない道路で起きた事故は、どちらにも責任があったということで落ち着いた。被害者の両親から訴えられ、刑事告発されることもなかった。優璃は免停処分になり、罰金を払うことで釈放された。被害者には多大な額の賠償金を支払い、誠意を持って尽くしていたからか、トラブルになることもなく和解が成立した。 呆気なく、もうすぐ事故から一年が経過する。  自分は少女の人生を壊してしまっただけの罪を犯したのに、ほんとうにこれでいいのだろうかと優璃は常に焦燥感にかられている。
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chapter,1 + 7 +

「もう、一年になるんですね」 しみじみと、早咲が呟く。優璃も頷く。「先生」 「なんだい?」 「正直におっしゃってください、彼女は……亜桜さんは、ずっとこのままなんでしょうか」 凛とした表情で、覚悟を決めた優璃が問う。  沈黙。  早咲は、首を横に振る。「わからん」 眠りつづける少女から顔を背けて早咲は応える。救急車で運ばれてきたときは、いつ死んでもおかしくないと思えるほどの状態だった。それが、今、半植物人間になってはいるものの、生命活動を続けている。彼女の両親が脳死判定を求めず、治療費なら捻出するから時間の許す限り治療をつづけてほしいと必死の形相で訴えたこともあるだろうが、早咲はそのこと自体珍しいことだと説明していた。このまま目を覚ますことなく永遠に瞳を閉じてしまうのか、それとも再び光ある世界に戻れるのか、彼自身も自信を持てずにいる。だから素直にわからないことを告げた。  そこにいたのが加害者だったから、かもしれない。被害者の家族には「奇跡が起こるかもしれません」なんて嘯いて偽善者ぶる早咲なのに。  優璃は首を傾げる。「先生でもわからないんですか」 「ひとの命は、いくつ向き合っても理解できないよ」 自嘲するような笑みを浮かべ、早咲は優璃に向き直る。「僕が、いくじなしだからかもしれませんけどね」 「そんなことないです!」 咄嗟に口をついてでた言葉が、怒鳴るような口調になってしまい、優璃は顔を真っ赤にする。恥ずかしい。「どうして?」 それでも、穏やかな表情で早咲は優璃の言葉の続きに耳を傾ける。「だって……たくさんのひとの生命を、先生は救っていらっしゃるのですから。わたしには、絶対にできないことです」 「そうか」 「いくじなしじゃなくて、謙虚なんです」 そう言って優璃は笑う。チョコレートコスモスの花のように綻ぶ微笑。早咲はそんな優璃を抱きしめたくなる衝動に駆られ、震える腕に力を込める。「……あなたは、不思議なひとですね」 まるで早咲に対抗するように、遅咲きの花と名乗り、病院関係者からそう呼ばれるようになった不思議な女性。そして眠りつづける少女に花を贈りつづける寡黙なひと。「そうでしょうか?」 「僕を謙虚だなんて言い切ったのは、あなたがはじめてですよ」 「それは光栄です」 「それに」 早咲が、一呼吸間を置いて、告
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chapter,1 + 8 +

  * * *  病院の連絡通路口を抜けると、そこは中庭だった。  落葉樹の枯れ葉を清掃員が集めている。常緑樹が濃緑の肉厚な葉を見せてはいるものの、周囲は閑散としている。十二月のこの時期にベンチで休憩する物好きもいないらしい。 ……いや、ひとりいるか。 自由はおもむろにベンチに腰掛けた先輩を見て、溜め息をつく。「なんだ? 寒いか?」 「いえ、先輩の方が薄着じゃないですか」 「へいきへいき。ところで」 きょとんとした自由の顔を見て、楢篠は楽しそうに話を切り出す。「こんなところで油売っていていいのかい?」 自由が考えることを先送りしていたことを、彼女は当然のようにきいてくる。「……単刀直入ですね」 「危機感はあるんだ」 「ないわけではない、かな」 「茅野ちゃんから聞いたよ、学内三位だってね、模試」 「けど、本番で力が出せなければ意味ないですよ。それに、先輩に言わせてみれば今の僕は油を売ってるんですよね」 「そう見えるってだけさ」 呆れたように楢篠は後輩を見つめる。  大切な少女が眠りについてしまってから、彼は見ているこっちが恐ろしくなるくらいに、頭角を見せはじめた。まるで少女の眠りを否定するかのように。 「ジユウ。それが終わったらどうするつもりなんだい?」  わかっていて、楢篠は聞く。  彼が自分にとってもっとも過酷である道を選ぶことを。「決まってるじゃないですか」 そして、自由も彼女が想像したとおりに応える。「……わかりきったことだったな」 「先輩はわかっていて、聞いているんですよね。だったら言うまでもありません」 くすりと微笑む自由に、楢篠は首を傾げつつ、呟く。「それはつまり、逃げないってことか?」 自由の選択を愚かだと罵りも嘆きもせず、楢篠は零す。「いえ。それ自体が、現実逃避なんです」 自由はそう言って、淋しげな中庭を眺める。太陽は地平線へ吸い込まれそうな位置で、辛うじて光を放っている。黄金色に染まる視界の向こうに、自分の受け入れなければならない未来があることに、自由は気づいていて気づかないふりをしている。  彼が遠くへ思いを馳せている間、楢篠は何も言わずに瞼を閉ざす。「……先輩?」 「ジユウが考えることって哲学的すぎてわかりずらいんだよ。禅問答じゃあるまいし」 「そういう
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chapter,1 + 9 +

   * * *  珍しくその日は朝から雪が降っていた。  窓の向こうでちらちらと舞う粉雪を横目に、陸奥はしんと静まりかえった病室に足を踏み込む。  毎日のように病室に訪れていた騎士のような青年も、抱えきれないほどの花を持ってきていたオソザキと呼ばれる女性も、今はいない。 適度な室温に保たれて入るが、その部屋の主は酸素吸入器をつけたまま眠っている。  窓際の飾り棚には、オソザキが持ってきたのだろう、水仙の鉢植えが並べられている。白い清楚な花が、ほのかに香る。薫香が、周囲にまとわりつくように陸奥へ届く。 常に花に囲まれた個室。ひとり眠りつづける少女。どこか現実離れした雪景色。  奇跡が起きるなら、こんな日じゃないかと陸奥は考える。けれど彼女が完全な状態で復活できる可能性はゼロに等しい。  ……けれど、諦めないと誓った。  陸奥は少女を大切に想う青年と対峙したときのことを思い出し、苦笑を浮かべる。 早咲の話によると、彼は少女の兄ではないらしい。けれど兄のようなものだろうと陸奥は一蹴した。もしかしたらそれ以上のつながりがあったのかもしれない。それは陸奥にしてみれば他人事で気にするほどのことでもない。だからそれっきり聞くことはなかった。彼が何をしようとしているかも興味がなかった。だから彼を責めるようなこともしなかった。  彼が姿を消してしまっても。 年が明けると同時に、毎日足を運んでいた自由の姿が消えた。  大晦日の午前中に見舞いに来ていたようだが、陸奥は見ていない。ついに諦めたのか、見捨てたのかというナースたちのくだらない会話も最初のうちだけで、今では何事もなかったかのように、眠りつづける少女の世話をしている。  毎月決まった曜日に顔を出すオソザキは彼の姿が消えたことを残念がったが、それは仕方のないことだと妙に納得していた。なぜ納得していたのか陸奥は知らない。たぶん、大学の後期試験に追われているとか就職活動とか卒論の締め切りが近いとかそういった類のことなのだろう。  そして早咲は「気にするな」とだけ言った。まるで彼の事情を知っているかのような口調だった。少女の担当医なのだからその辺のことも詳しいのだろう。  事故から一年と三ヶ月。  亜桜小手毬は、十六歳のまま、時間を止めている。周りにいた人間が、次々と新しい世界へ進んでいくのを知らず
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