FAZER LOGIN恋の痛みを和らげてくれるお薬をください。 辛くて苦しいと訴える心を慰めてくれるお薬を。 * * * 亜桜小手毬(あさくらこでまり) 十六歳の初夏に、交通事故に遭う。 目覚めたとき、十八歳になっていた。 × 諸見里自由(もろみざとさだよし) 小手毬と結婚の約束をしていた医大生。 事故に遭った彼女を救うため、茨の道へ。 * * * 恋に怯える乙女と、約束を忘れた彼女を一途に愛する男。 彼女にはじめての恋を教えた男は、無垢な心に罅を入れた。 そして、彼女を救おうとする男は代償に痛みと、 それを上回る快楽を教え込む――? どこまでも一途で危険なヒーローと、破滅的なヒロインが織りなす、ビターでありながらざらりとした甘さが残る背徳的な物語。
Ver mais十年経っても俺と結婚したいと思ってくれる?
オトナにならないと、結婚することはできないんだよ。――幼かったあたしは、彼の言葉を鵜呑みにすることしかできなかった。
オトナになる、彼のオンナになる、その意味すら理解せずに。
結婚したらめでたしめでたしだと思っていた。 読み聞かせで何度もせがんだお姫様と王子様の物語みたいに。 だから十年、彼を好きでいつづけようと、幼心に誓った。 ただ、アカネに負けたくない、それだけの気持ちで。「うん。あたし……――ちゃんのお嫁さんになる!」
その一方的な宣言が、彼の足枷になることすら、そのときのあたしは気づいていなかった。
いや、気づいていて、無邪気に気づいていないふりをしていたんだ。 恋する少女はときに残酷で、狡猾な表情を魅せるものだから。 だからたぶん、罰が当たったんだと思う。あたしは約束の十年を貫けないまま、死んだ。
そこで一瞬、すべてが途切れた。
意識も記憶も感情も、ぜんぶがバラバラになった。
けれども彼は、彼らはつぎはぎして、あたしを不完全ながらも取り戻してしまった。
そして黄泉還って初めて目の当たりにした、ほんとうの恋。
届かない月に手を伸ばすような、叶わない、叶えられない恋。 あまりに痛くて、苦しくて。 逃げるように、求めてしまったぬくもり。 それは、十年間好きでいようと想いつづけた彼ではない、別の男性だった。 不誠実だって、理解していたけれど。 「あなたなしでは生きていけないの」 その言葉を、ほんとうに捧げなくてはいけない相手が、誰なのかわからないまま。 かよわき花は散らされ、新たな罪を犯していく。 恋なんて得体の知れない感情に溺れたくない、けれども身体は心とは裏腹に、意地悪なのにやさしい彼を求めて蜜を溢れさせる。 このままじゃ壊れてしまう。けれど壊れてしまえばもうなにも怖いものはない。 解離するふたつの思惟はぶつかりあいながら、自身に潜む本音を探りつづけ、白日の下へ晒すべく、ふたりの異性に向けて醜い姿を暴いてゆく。彼らが何を求めているのか、理解できないまま、ただひたすら溺れることしかできなくて。このドロドロした感情も”恋”と呼ばれるものなのだろうか。庇護を受けることでしか生きていけない彼女は、信じることができずにいる。
――やめて。これ以上、愛さないで。 「どうかあたしに麻酔をかけて。これ以上、恋なんかできないように……!」
* * * チョコレートコスモス。 名前の由来どおり、チョコレートの香りのする、焦げ茶色の花。 眠りつづける小手毬の周囲には、初冬だというのに、相変わらず花に見守られている。 花瓶の水を入れ替えて、優璃はチョコレートコスモスを生けていく。ふんわりと甘く、ほろ苦いガトーショコラのような香りが鼻孔をくすぐる。 飾り棚に花を置いて、優璃は眠りつづける少女をじっと見つめる。 自分が傷つけてしまった少女。自分が時間を止めてしまった少女。 せめて見ている夢が素敵なものであればと、彼女は見舞いに行く都度、花を贈る。きつい匂いのものや、縁起の悪い花は避けて、誰からも好かれるようなパステルカラーの小花を添えて、四季折々の花を贈る。今日はさし色が焦げ茶のチョコレートコスモスなので、いつもより大人びたアレンジになった。周囲には儚げなベージュに近い白のカスミソウが散らされている。 「今日も綺麗ですね」 優璃が顔を向けると、少女の主治医である早咲俊彦が開けっ放しの扉から、顔をのぞかせていた。四十代前半の彼は、優秀な脳神経外科医として病院内外からも評価されているという。 彼が小手毬の手術を執刀したから、彼女は今も生きているのだという噂すら聞く。だから優璃は彼と顔を合わせるたび、救われた気分になる。「こんにちは」 「こんにちは、オソザキさん。いつもありがとう」 そして早咲も、彼女が少女に送る花に癒される。「わたしにできるのは、これくらいしかないですから……」 しどろもどろになる優璃を、早咲は優しく諭す。「あなたは、よくやってくれています。むしろ、自分を責めすぎているようなきらいがあります」 「でも」 自分がしっかりしていれば、事故は起こらなかったはずだ。 車道と歩道の境界がほとんどない道路で起きた事故は、どちらにも責任があったということで落ち着いた。被害者の両親から訴えられ、刑事告発されることもなかった。優璃は免停処分になり、罰金を払うことで釈放された。被害者には多大な額の賠償金を支払い、誠意を持って尽くしていたからか、トラブルになることもなく和解が成立した。 呆気なく、もうすぐ事故から一年が経過する。 自分は少女の人生を壊してしまっただけの罪を犯したのに、ほんとうにこれでいいのだろうかと優璃は常に焦燥感にかられている。
* * * 「ジユウだろ?」 そして冬のはじまり。いつものように、面会終了時間まで小手毬の穏やかな寝顔を見つめていた自由は、呼び止められて首を傾げる。 自由をジユウと呼ぶ、懐かしい女性はひとりしかいない。「……赤根先輩」 「お久しぶり。やっぱり君だったんだ、少女の騎士は」 小手毬のことを言っているのだろう。そういえば彼女は幼い頃の小手毬と面識があったはずだ。小手毬は覚えていないだろうけど。「ドイツから戻られていたんですね」 自由とさほど変わらない女性にしては高い背丈、身につけているのはオレンジに近いピンク色の白衣、そして髪型はボーイッシュなショートカット。彼女の外見は、大学時代と変わっていない……白衣を慣れたように着ているのを除いて。「まぁな。ところでジユウ、気づいてないのか?」 「はい?」 「結婚したから苗字変わったんだよ。アカネからナラシノに」 そう言って、胸ポケットにつけている名札を見せる。確かに、「医師 楢篠」と記されている。「け、結婚……?」 冷静に応えると、楢篠はぷぃと顔を背ける。どうやら怒らせてしまったようだ。「言葉のあやよ。揚げ足とるんじゃないの」 「……はい」 しょんぼりしてしまった自由を宥めるように四つ年上の先輩は呟く。「まったく。君は変わらないね」 「そうですか?」 カツン、カツンとリノリウムの床にふたりぶんの足音が響く。窓の向こうは橙色に染まり、西の空は真っ赤に燃え上がっている。まるで火事のように。アスファルトの上に流れた小手毬の血のように……「少しはいい男になってるかと思ったけど、全然駄目だ」 「厳しいですね」 それでも楢篠は糾弾をやめない。苦笑を漏らす自由に、打ちのめすような言葉を返す。「いつまで彼女に拘る? あの女の子がジユウにとって大切だってのはわかっているが、個人的な感情で物事を左右しつづける生活を送りつづけていたら」 真顔になって、続ける。「近い将来、破滅するぞ」 楢篠の警告を、自由はさらりと受け流す。「知ってます。でも、今だけですから」 植物人間の小手毬の傍にいられるのは、今しかないと、自由は力説する。「あと半年も猶予はないけどな。それでもいいなら好きにしな」 楢篠はそう言って、連絡口から外へ出て行く。それ以上、聞いてくることはな
* * * 徹夜で論文を書いていて判断力が鈍っていた自分にも非がある。 あのとき小手毬に手をひっぱられていなかったら、小手毬に庇われていなかったら、優璃の車にはね飛ばされていたのは小手毬ではなく、自由だったかもしれない。 毎日、毎日、病室に通う。 毎日、毎日、人工呼吸器に繋がれた少女の寝顔を見る。 毎日、毎日、毎日、毎日。「あれ、君……」 どのくらい、毎日が続いただろう。 ぼんやり、病棟に続く廊下を歩いているときに、呼び止められた。 白衣の胸ポケットに「医師 陸奥」と書かれた名札がついている。 ムツと読む人間が多いからか、ミチノクとフリガナがついている。 見たところ、自由より少し年上の、二十代後半から三十代前半のようだ。医師としては若手に入るのだろう。整った顔立ちに、しわひとつない白衣がさまになっている。 どこかで見たような顔だと思ったが、毎日のように病院に通っているのだから見たことがあるのは当然かと考え直す。自由は院内でも有名人になっている。眠り姫に会いにくる王子様として。 ……ただし、目覚めさせることのできない王子様だけどな。「たしか、亜桜さんの」 みなまで言わさず、自由は遮るように挨拶する。自由は小手毬の兄ではない。それなのに誰もがふたりを兄妹だと認識する。あくまで自由は小手毬にとって兄みたいなもの、である。 自由は小手毬を妹以上の大切なひとだと思っているが。「お世話になってます」「また来たのか」 呆れたように言われ、ムッとする。 事故から半年が過ぎようとしていた。小手毬は植物人間として障害者認定を受けた。自慢だったふわふわのロングヘアも今ではベリーショートに切り揃えられている。 点滴と酸素吸入だけが彼女を生かしている。 状況は絶望的だった。 職場復帰を果たした優璃の見舞いは月に一回のものへ変わっていた。相変わらず季節の花を絶やすことなく飾ってくれる彼女は、病院関係者から「オソザキ」と呼ばれるようになった。自分は遅咲きの花だからと笑いながら、眠りつづける小手毬に花を届ける優しい加害者。病室の花瓶には今、大輪の向日葵が生けられている。 それでも自由は毎日小手毬を見舞っていた。 大学は夏休みに入っていたから、単位に悩まされることもなかった。 それに、いつだって自由は小手毬に会いたい。たとえ眠
* * * 小手毬の昏睡状態は続いている。「人形みたいな女の子ね」 毎日、花束を持って病室に見舞いにくる女性を、自由は無表情で見つめつづけた。 最初のうちは言葉を交わすのも嫌だった。 あまりに子どもじみているとは思う、だが自由は彼女を許すことができずにいる。剥き出しの憎悪を吐き出して更に惨めになるよりは、自分の殻に閉じこもって外部からの接触を遮断した方が無難だと、そう考えたから無視していた。 だが、時間の経過とともに、自由も冷静になった。 いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。彼女が目覚めることを信じて、優しく見守りたいと、そう思ったから。 加害者を許すことはできない。それでも、無言の逢瀬を二ヶ月ほど続けたある日、会話をするようになった。 小手毬も、彼女を責めるようなことを望んではいないだろう。彼女はそういう子だ。 「授業はよろしいの?」 「夕方になったら戻りますよ」 自由は共働きの小手毬の両親に代わって、大学の授業の合間にちょくちょく小手毬を見舞っていた。幸運にも、そういうことができる環境だった。それに、経験が浅い彼は彼女のためにできることが、なかった。見舞うことしかできなかった。 彼が「亜桜小手毬」と記された個室に行くと、高い確率で、彼女と会う……小手毬をはねた事故の加害者と。 加害者である女性は坂猪優璃と名乗った。 事故の責任は自分にあると、誠意を込めて小手毬を見舞っていた。加入していた自動車保険だけでは償いきれないと、若い頃から貯めていた結婚資金をすべて、小手毬の治療費に捻出してくれた。個室を準備してくれたのも彼女だ。 病室には毎日、異なる花が飾られる。赤と白の絞り模様がのぞく八重のカーネーションに、赤、白、黄、緑、紫、桃、橙色と、グラデーションが豊かな七色のチューリップ、気高い女王のように凛と佇むオールドローズに鮮やかな色彩を抱くリガールリリィ……自由の知らない花もたくさんあった。 冬だというのに、彩り豊かな花々が、眠りつづける小手毬を包み込む。まるで病室自体がガラスの棺のようだと自由は苦笑する。それでも、無機質な病室に彼女をひとりきりにさせるよりはマシだと優璃は呟く。 「でも、あなたがいるから、淋しくはないのかもしれないわね」 交通事故の傷跡