Semua Bab キズモノのシェフ 〜フレンチからファミレスへ、再起のレシピ〜: Bab 1 - Bab 6

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その店の名は“ラ・ベラ・ヴィータ”

凶刃は私の体に傷を刻んだ。それは私の“美しい人生”をも切り裂いた。私に残されたのは、料理だけだった。照明は暖色系、黄色みを帯びた柔らかい光が店内を暖かく照らして明るい。テーブルには真っ白いクロスがかけられ、並ベラれた銀のカトラリーは丁寧に磨き上げられて曇り一つない。テーブルについているのは畠山海斗と、その愛人である向坂淳美、そして本日海斗が取引を持ちかけようとしている海道物産の社長、海道恒吉であった。本日のアミューズが並ベラれ、ワインが注がれる。海道はワイングラスを揺らしながら満足そうに言った。「ここが噂の“ラ・ベラ・ヴィータ”……いい店ですな」海斗がにっこりと笑う。それは営業用の胡散臭い笑顔ではあったのだけれど、海道は気にする風もなかった。「しかし、私は他の連中とは違いますよ、胃袋で商売に手心を加えるようなことはしない、どんな料理を出されても、契約なんかしませんよ」「ははは、その話は後で、まずは料理を楽しんでください」アミューズは小さなパンにアボカドとエビを乗せて軽く炙りをかけたもの。アボカドの優しい緑とエビの赤が美しい目にも美味しい一品だ。サクッと音を立ててそれを齧った海道は、軽く目を見開いた。「ほう、これは……」パンはトーストされてカリカリとした歯応えが楽しい。作り置きなどせず、食べる直前に組み上げたからこその歯応えだ。えびには少し強めの下味がつけられ、口中でアボカドと合わさった瞬間の味がきちんと計算されている。海道の口元が静かに綻ぶ。これを見た向坂淳美は、満足そうに微笑んだ。「いかがですか、いい店でしょ、うちの海斗はこの店の出資者だからいつでも予約が取れるんです、お気に召したなら、またご招待しますよ」まるで海斗の妻であるかのような態度だが、この場の誰もそれを咎めない。海斗自身が彼女のそうした振る舞いを普段から許容しているからであり、世間ではこの向坂淳美こそが彼の妻だと思われているのである。その頃、畠山海斗の本当の妻である畠山咲希は、この店の厨房にいた。「村上、オードブルを出してきてちょうだい、宮下はスープの仕上げをはじめて、時島、次のワインを用意して」二人の弟子とギャルソンに指示を出しながら、咲希は本日の“メインディッシュ”の鍋をかき混ぜている。弟子が恐る恐る首をすくめながら聞く。「あの、シェフ、本
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この店だけが私の存在証明

微かに冷蔵庫のモーター音が聞こえる。海斗は厨房の入り口にもたれたまま、不機嫌そうに腕を組んでいる。彼の靴先がコツコツと地面を叩く音が、その苛立ちを無言のうちに語っていた。咲希はレシピ帳から顔も上げずに答える。「考えてみたわ」床を叩いていた音がふいに止まる。咲希はさらに静かな声で続けた。「離婚には応じる」海斗の顔に喜色が浮かんだ。だが、その喜びが形になるよりも早く、咲希は顔を上げて強い眼差しを海斗に向けた。「だけど、この店は渡さない」海斗の表情が一気に落胆に変わる。「そんなことを、まだ言うのか」「慰謝料はこの店だけでいい、そうすれば離婚には応じる」「咲希、よく聞け……」「入らないで!」厨房の中へと足を踏み出す海斗を、咲希は声だけで押し留めた。「ここは関係者以外立ち入り禁止よ、話があるならそのままどうぞ」「俺は君の夫で、ここの出資者だが、それでも関係者じゃないというのか」咲希は鼻先で笑って答えない。今や彼女にとってこの男は、他人よりもよそよそしい存在だ。そして海斗にとっても、咲希はもはや尊重する必要のない相手であった。「君の手腕ではこの店の経営を維持することはできないだろう、たかが料理に、君はこだわりすぎなんだ」「それがあなたに何の関係があるというのかしら」「関係はあるだろう、出資した以上、利益は戻してもらわなきゃならない」「利益ね、あなたにとって大事なのは、それだけなのね」この店——ラ・ベラ・ヴィータの店舗自体の資産価値はさほどでもない。1日5組に限定して、原価を考えず高級食材をふんだんに使うスタイルだから、売り上げもほとんどない。それでも利益至上主義の海斗が、なぜこの店の所有権にこだわるのか。それは、この店の知名度が十分に価値あるものだからだ。「俺ならば、この店をもっと大きくすることができる」「大きくするつもりはないわ」「それだよ、そのこだわりがこの店を潰す、だから君にこの店は渡せない」咲希は黙ってレシピ帳を閉じ、立ち上がった。「仕込みがあるの、どうぞお帰りください」「咲希、あまり頑固だと、後悔することになるぞ」海斗は大袈裟に踵を返して立ち去る。遠ざかってゆくその足音を聴きながら、咲希は無意識のうちにコック服の襟元を指先でなぞった。そこには古い傷痕がある。首元を起点に、胸を通って脇腹まで
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暖かい厨房

まさか、こんなに苦戦するとはーー咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。——それでもこの結果か。咲希はスマホを置いて立ち上がった。開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。最初に出勤してきたのは村上だった。彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。「先生、大丈夫ですか」この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。だが、彼らは若くて後ろ盾もない。せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」「カルパッチョですか?」「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」「刺身ですか、フレンチなのに」「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」「また……オーナーに怒られますよ」「そうね、怒られるでしょうね」村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。彼の手元は繊細ではないが誠実だ。ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。次に出勤してきたのはギャルソンの時下。彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。「白身魚ですか、となると白ですね」咲希は頷く。「甘口のものを中心に準
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冷え切った家

畠山海斗は合理主義の男である。彼にとって食事とは生命維持のための栄養補給、そしてビジネスを円滑に進めるためのツール、それ以上でも以下でもなかった。だが、新しく愛人となった向坂淳美は、 新たな“食事”の価値を彼に教えてくれた。「飲食業って、手堅いビジネスだって言われてるのよ、だって食事をしない人はいないんだから常に需要はあるわけでしょ」料亭の個室で、卓上に並べられた料理の写真を撮影しながら、彼女は言った。向坂淳美はフォロワー数三万人を超えるインフルエンサーで、その主な活動は高級料理店や話題の店舗のグルメリポートである。「だけど、需要があるってことは、競合も多いってコト! つまりレッドオーシャンなのよ、お店を成功させるためには他店との差別化とブランディングが必要なの、つまり知名度って武器なのね」海斗は突き出しの小鉢に箸をつけながら、「なるほど」と頷いた。淳美の知識は底が浅い。しかし若さ故の直感的で大胆な発想は、海斗に新鮮なインスピレーションを与えてくれる。利益に貪欲なところも海斗と相性がいい。今まで付き合ってきた女たちとは違う“価値”が、淳美にはある。畠山海斗は合理主義の男なのだ。彼にとって"ラ・ベラ・ヴィータ"は、回収効率の悪い不良債権でしかなかった。そしてそれは、畠山咲希という女にも当てはまる。だから彼は利を取って、向坂淳美を選んだ。淳美はようやく撮影を終えて、料理の前に座った。箸をとるよりも先にスマホをいじり、撮ったばかりの動画を入念にチェックする。「ラ・ベラ・ヴィータは知名度あるお店だし、そこに私が企画として入ったら、それだけでもすごい話題になると思うのよ、でも今の経営スタイルじゃダメ、1日5組限定なんて、採算取れないでしょ」「なるほど」「だから、私が考えるコンセプトはこう! “あの有名店の料理を誰でも手軽に”!」「悪くないな」海斗は淡々と箸を進める。淳美は、まだスマホを置かない。どこからか、鹿おどしの跳ねる甲高い音が響いた。食事を終えた海斗は、久しぶりに"家"に帰った。パーティ向けの礼服が必要だったのだ。ドアを開けると、なんの匂いもしない空間が、そこにあった。例えば料理を作ってこびりついた油煙の匂いだとか、浴室に蓄積する水垢の匂いだとか——そうした生活臭は、この家にはない。締め切ったままのカーテンを開
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価値を知る男

ラ・ベラ・ヴィータには、初見のお客様がいらっしゃったら、必ず咲希自らが接客を担当するというルールがある。この日、二組目のお客様は、まさに“初見”の客であった。「ご予約のお客様、いらっしゃいました!」厨房に咲希を呼びに来た時下は、そのあと、少し歯切れ悪く言葉を続ける。「しかし、あの……」「なに、どうしたの?」店の入り口までお客様を迎えに出た咲希は、なるほどこれは時下も戸惑うはずだと思った。ラ・ベラ・ヴィータにドレスコードは存在しない。それでも、超高級店であるという格式に配慮して、客は皆きちんとした格好をしてくる。ところが店先に立つ男は、随分とラフな格好をしていた。 上は洗いざらしてゴワゴワになった白Tシャツ、下は擦り切れたダメージジーンズに、足元は安っぽいゴム草履。髪型ももっさりと前髪をだらしなく垂らして、無精髭も生えている。時下は咲希にそっと耳打ちした。「お断りしましょうか」しかし咲希は迷うことなく返す。「いいえ、きちんとご案内して」「しかし、うちの店の格を下げるんじゃ……」「そうね、確かに格式は下がるかもしれない。でも、お客様を見た目だけで判断するのは、お店の品格を下げる行為だわ」咲希は自らコック帽を脱ぎ、その客に向かって腰を折った。「ようこそ、いらっしゃいませ、ラ・ベラ・ヴィータへ」男はそんな咲希を値踏みするように、頭のてっぺんから爪先まで無遠慮に眺め回した。「あんたがここのえらい人?」「シェフを務めさせていただいてます、畠山咲希です」「ふうん、腰が低くていいじゃん、感心感心」その傲慢な口ぶりに時下は眉間に皺を寄せる。だが咲希は、彼の振る舞いに違和感を覚えた。店をやっているのだから、これまでにも無礼な客に行き当たったことはいくらでもある。軽薄さなら、身近に宮下という弟子もいて見慣れている。だけどこの男の振る舞いは、それらとは違って、どこか嘘くさい。だが咲希はそれを指摘するようなことはしなかった。彼女の料理に必要なのは客を見極めることであり、暴くことではない。「どうぞこちらへ」咲希はこの男を席へと案内する。彼が履いたゴム草履は、よく磨かれた床を踏むたび、ペタペタと楽しそうに鳴った。軽薄なのは演技かもしれないが、根は悪くなさそうだ、と咲希は思った。男は席につくとまず、ビールを注文した。「とり
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踏み荒らされる矜持

名刺には“谷崎隼人”と大きく書いてある。箔押しされた会社名は“谷崎ホールディングス”、肩書きは“取締役”だ。それをチラリと見た咲希は、納得した。「ああ、あなたが“谷崎の坊ちゃん”」谷崎グループの御曹司が破天荒な人物だというのは、業界内では有名な話だ。身分を隠して現場に紛れ込むような“悪戯”を好んでするのだとか。「ウチにきたのも“悪戯”の一つですか」咲希は深い感情もなく軽口のつもりで言ったのだが、隼人はこれに予想以上の狼狽を見せた。「いや、違うんだ、本当に、試すようなことをしたのは申し訳なかったが、決して悪戯ではないんだ、ここ見て」大慌てで隼人が指差したのは、所属として書かれた“新規ブランド開発本部長”の文字。「後継者修行の一環として、この部署を任されてね、そこで、君をスカウトしにきたんだ」咲希の口元が静かに引き結ばれる。その瞳の奥に侮蔑の色が浮かんだ。「つまり当店にお食事に来たのではなく、ビジネスに来たと」ラ・ベラ・ヴィータには知名度があり、高級料理店であるというステータスもある。店の売却を打診するために客を装って来店する投資家は今までにもいた。だが、彼らが欲しがるのはいつだって“ラ・ベラ・ヴィータ”という店そのものであり、咲希自身の価値が求められたことはない。咲希は無意識のうちに、傷を隠した襟元を指でなぞった。「この店は譲りません、お食事をなさらないなら、どうぞお帰りを」隼人は立ち上がり、傷をなぞろうとする咲希の手を握り止めた。「俺が欲しいのは店じゃない、君自身だ、君の才能が欲しいんだよ」「私には、そんな価値はありませんよ」「君は……」隼人の胸が僅かに痛む。彼はバックグラウンドチェックによって咲希の現状をある程度把握している。その情報には、夫と離婚寸前の関係であることも、その夫の無理解に傷つけられていることも書いてあった。だが、実際に傷を気にする姿を見ると……彼女は深く傷ついている。自分が無価値だと思いこむほどに。握った指先がひどく冷たいことが、隼人には耐えられなかった。「誰が価値がないなんて言った?」「誰って……」「傷の一つや二つで、人は無価値になったりしない、特に君は、傷ついてなお魅力的な才能を持っているじゃないか」「料理を作ることしか能のない女ですよ、私は」「十分じゃないか、俺は、その才能
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