伸は優しさと愛情に満ちた眼差しで鹿乃を見つめ、口元の笑みを抑えきれずに言った。
「成り行きに任せるつもりだ。できれば年末がいいな。男の子でも女の子でも、鹿乃が産んでくれるなら、どっちだって好きだよ」
鹿乃は目の前のケーキを見下ろし、数秒黙り込んだまま何も言わなかった。
伸は気を利かせてケーキを切り始めたが、そのとき突然、一人の男が店に入ってきた。
彼は伸に、自分の車がほかの車に擦られたことを告げて、確認に来るよう促した。
伸は眉をひそめ、不機嫌そうな表情になった。
「ちょっと見てくる。鹿乃、先に食べてて。すぐ片付けて戻ってくるから」
「飲みたいものがあれば自分で頼んでいいけど、冷たいものはダメだよ。明後日、生理が来るから」
この細やかな気遣いに、ケーキ屋の客たちはまたも羨望のため息を漏らした。
「すごい......生理の日まで覚えてるなんて、小笹社長って本当に完璧な男だわ......非の打ち所がないよ」
「羨ましい......私が新川さんだったら、どれだけ幸せだろう......」
オーナーの女性も、黙っている鹿乃を見て微笑んだ。
「新川さんは本当に運がいいわね。女にとって、自分を愛してくれる誠実な男に出会う確率は本当に低いだもの」
鹿乃は苦く笑った。
「そうですね......確率は低いです」
本当にね、自分は結局、そんな相手に出会えなかった。
鹿乃はこれ以上その話をしたくなくて、視線を外の窓に向けた。
伸は男に連れられて店を出た。
その男は俯きながら何かを小声で話している。
伸は軽く頷くと、大股で歩き、ベンテイガの隣に停めてあったピンク色のGクラスに乗り込んだ。
そのピンクのGクラス......鹿乃には見覚えがあった。
前回のパーティーで、深雪がこのピンクのGクラスで派手に現れたのだ。
ナンバーも、今目の前にある車と同じもの。
聞いた話では、それは伸が帰国祝いとして贈ったもので、6000万円近いとか。
今日、自分がもらったヌードピンクのマイバッハと、だいたい同じくらいの価格だ。
伸は平等に扱う達人だ。
元カノと現カノ、初恋と妻、そのどれに対しても、平等に扱う男。
車内の様子はよく見えなかった。
鹿乃は目を逸らし、その時、知らない番号から着信があった。
一瞬迷ってから出ると、聞き慣れた声が耳に届いた。
「うちの深雪もやっと賢くなったな。俺を呼び出す方法を覚えたか」
伸の声はかすれて、熱っぽい欲望と愛情が滲んでいた。
「秘書に俺の居場所を聞いたのか?さっき言っただろう。鹿乃が寝たら、そっちに行くって」
深雪は甘えた声で拗ねたように言った。
「だってつらいんだもん。伸があの女と記念日を過ごして、これから何かするかと思うと、気分悪くて」
男はくすりと笑い、彼女が嫉妬していることを察して、優しく宥めた。
「おいで。『エキス』はちゃんと君のところに届いただろ?今夜は鹿乃には指一本触れないって。2時間前にも3回も抱いたばかりで、まだ足りないのか?」
「うん、まだ欲しいもん。早くあの女に帰らせて、私のところに来て」
「この小悪魔。あとで車でついて来い。車の中でやろうか」
「もう!」
やがて、受話器の向こうからねっとりしたキス音が聞こえてきた。
鹿乃は震える手で通話を切った。
目の前のケーキを見つめていると、急に吐き気がこみ上げてくる。
心臓をわし掴みにされているようで、胸が苦しく、頭がくらくらして、全身が不快だった。
彼女はフォークを握りしめ、ケーキに飾られた「結婚5周年おめでとう」のチョコプレートをぐちゃぐちゃに刺し潰した。
30分ほどして、伸が戻ってきた。
鹿乃の前に、ほとんど手を付けていないケーキと、彼女の蒼白な顔を見て心臓がぎゅっと締めつけられた。
「どうした?顔色が悪いぞ。どこか具合悪い?今すぐ病院行こう」
男の声は焦燥でいっぱいだった。
鹿乃は顔をそむけて、その偽善的な顔を見たくなかった。
「気持ち悪いことを聞いたから、もう食欲がない」
「何を聞いたんだ?」
伸は眉をひそめ、不安でいっぱいの顔だった。
「伸には一生わからないことだよ」
鹿乃の目は赤く潤んでいた。
伸は訳が分からず、鹿乃を抱き寄せようとしたが、彼女は避けた。
鹿乃は立ち上がり、大股でケーキ屋を飛び出し、タクシーに飛び乗って、自宅へ向かうように指示した。
「鹿乃、待ってくれ!」
伸はタクシーを引き止められず、慌ててベンテイガに乗り込み、後を追いかけた。
鹿乃は後部座席でバックミラーを見た。
滑稽な光景だった。
ベンテイガがタクシーを追い、さらにその後ろをピンクのGクラスが追ってくる。
別荘地に着くと、鹿乃はタクシーを降りた。
伸も慌てて降り、彼女の手を掴んだ。
「鹿乃、どうして怒った?」
「さっき俺が車の件を処理してて、一緒にケーキを食べなかったからか?」
鹿乃は顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめた。
男の整った顔は心配と後悔でいっぱいで、浮気をした後の罪悪感のようなものは一切なかった。
「うん」
伸はため息をついた。
「俺が悪かったよ。次からは、どんなに車が壊れても、鹿乃のそばにいるから」
そう言って、彼は鹿乃の手を取り、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「さっき秘書から電話があって、ある大事な取引先が事故で落下して危篤状態だって......行かなくちゃいけないんだ。鹿乃、俺、行ってもいい?」
鹿乃は眉をひそめた。
その顔には無念さを装いながらも、期待と興奮が見え隠れしていた。
そこまでして会いに行きたいのか。
取引先が事故死しそうなんていう嘘までついて。
鹿乃は口元を引きつらせて、もう真実を暴く気力もなかった。
ただ「うん」と一言だけ。
ゆっくりと別荘の中へ向かうフリをして、入り口を通り過ぎ、そのまま駐車場に向かって歩いた。
そこで目にしたのは、ピンクのGクラスの中で激しく抱き合い、キスを交わす二人の姿。
車内で、深雪は色っぽい目で伸を見つめた。
「黒いストッキングは伸のために特別に穿いたものよ?中はノーパンなの。何年経っても、伸の性癖は変わらないのね」
伸の瞳は興奮で潤んでいた。
手が我慢できずに彼女のスカートの中へ伸びる。
「今夜、俺を搾り取るつもりか?もう我慢できないから、入れてもいい?」
深雪は彼の手を抑えて、欲望に溺れた男の表情を見て、赤い唇を上げた。
「場所を変えようよ。湖のほとりが好きなんでしょ?」
伸は口角を上げ、喉仏を上下させた。
「今夜は大胆だな」
「明日は私の誕生日だよ?これはご褒美だよ」
深雪はウインクした。
ピンクのGクラスはエンジンをかけ、地下駐車場から走り去っていった。
その瞬間、鹿乃のスマホが震えた。
伸からのメッセージだった。
開くと、そこには湖の位置情報が送られていた。