深夜、私は腹部にじんわりとした痛みを抱えながら、必死でベッドから起き上がった。痛みで額に冷や汗が滲み、病院に行こうと思ったものの、激しい痛みが波のように押し寄せ、立つことさえ困難だった。
その時、廊下から聞き慣れた足音が響く。幸也だ。
何故か分からないが、私はドアノブを強く握りしめ、思い切ってドアを開けた。
「幸也(ゆきや)......」
名前を呼ぶだけで胸が締めつけられる。
彼は立ち止まり、振り返った。冷たい視線が私に向けられる。
「帰ってきたのね。ご飯は食べた?」
私は震える声で問いかけた。彼を刺激しないよう、精一杯穏やかに振る舞うつもりだった。
だが、彼は私の言葉など聞こえなかったかのように無視し、そのまま歩き去ろうとした。その態度に、胸が鋭く刺されたような痛みが走る。
私はよろめきながら彼を追い、袖を掴んだ。唇を噛みすぎて血が滲み、腹部の痛みに息も絶え絶えだ。
「離せ!」
幸也の目は冷たい怒りで満ちていた。
私は力を緩め、指先だけで彼の服の端を掴む。
震える声で言った。
「幸也......お腹がすごく痛いの......夜も遅いし、病院に連れて行ってくれない?」
もし昼間だったなら、彼に頼むことはなかっただろう。
彼は振り返り、私をじっと見下ろした。すると、唐突に冷笑を浮かべた。
「桜(さくら)お嬢さん、演技が本当に上手くなったな。このために、どれだけ練習したんだ?」
そう言いながら、彼は私の手からゆっくりと袖を引き抜いた。そして私の顎を掴み、冷たく告げる。
「お前が俺を裏切った日、俺は誓ったんだ。この先、絶対にお前を許さないと......ただし」
彼の唇が残酷な笑みに歪む。
「お前が死んだ時だけだ」
その言葉に、全身の血が凍りついたようだった。震えが止まらない。
幸也はそれ以上何も言わず、振り返り寝室へ戻ると、ドアを激しく閉めた。
腹の中に刃物が突き刺さったような痛みが走る。私は床に膝をつき、必死にスマホを探り、救急車を呼んだ。
都心の病院。人々が行き交う中、私は検査結果を手にベンチに座り込んでいた。
結果は、末期の腸癌。
信じられず、大学時代の先輩であり、消化器科の専門医である朝倉律(あさくら りつ)のもとを訪ねた。
「律先輩......」
私は検査結果を握りしめ、涙目で訴える。
「医者が末期の腸癌だって......もう一度調べてもらえませんか?誤診かもしれないでしょ?」
律はすぐに検査結果を受け取り、眉をひそめながらも静かに言った。
「まず落ち着いて、桜。もう一度調べてみるよ。どんな結果が出ても、俺がついてるから安心して」
そして再検査が行われた。だが、結果は同じだった。腸癌末期。
私は呆然と座り込む。唇が震え、どうにか声を絞り出した。
「あと、どのくらい生きられるのですか?」
律は膝をついて私と目線を合わせ、肩を掴む。
「桜、俺が必ず救う」
彼の目には揺るぎない決意が宿っていた。それでも涙は止まらなかった。
「癌......これが癌なんですよ......」
私は顔を覆い、声を押し殺して泣いた。律はそっと頭を撫でてくれる。
暗い部屋の中、ソファに座り込む私は、電気をつける気力もなかった。
夜明け前、車の音が聞こえ、玄関のドアが開いた。幸也が帰宅する。
彼は部屋の電気をつけ、ソファで動かない私を見ても視線を逸らし、階段を上がろうとした。
「幸也」
私は彼を呼び止めた。
彼は足を止めなかった。
拳を握り締め、掌に爪が食い込むほど力を込める。彼の背中を見つめながら、私は静かに笑いながら言った。
「幸也、離婚しましょう」
その言葉に、彼はようやく足を止めた。
逆光に浮かぶ彼の表情は読めず、ただ冷たく感じられた。
私は愛したこの男を見つめる。この十年間の愛情が彼の嫌悪を買い、私を傷だらけにした。
「もう迷惑をかけないわ」
彼は嘲笑するように呟いた。
「一日でも芝居しないと死ぬのか?」
私はバッグから離婚届を取り出す。その際、中にあった痛み止めの瓶に触れ、少しの間手を止めたが、何も言わず書類を彼に差し出す。
「もう署名してあるわ」
感情を押し殺して微笑む。
「あなた、白崎と結婚したいんでしょ」
精一杯の笑顔で続けた。
「幸也、あなたのために身を引くわ」
彼が白崎美羽(しらさき みう)を愛していると分かっていれば、私はどんなことがあっても結婚しなかったのに......
私と彼の結婚は、もともと私の無限の期待だった。けれど、世の中は思い通りにならないもので、結局それは仕方なく、そして私一人の片想いに終わった。
Palawakin