Chapter: 後日談・二ヶ月後…… Page18「とはいっても、『君に降る雪』の方は加筆修正の必要はないので、先生の手を煩わせることはありません。なので、先生は新作の執筆だけに専念して下さい」「はあ、よかった」 私はホッと胸を撫で下ろした。手書き派の私には、一作分だけの仕事(プラス書店のバイト)だけでいっぱいいっぱいなのに、二作分の仕事をしなきゃいけないとなったらもうキャパオーバーだ。バイトだって辞めなきゃいけなくなるかもしれない。「ナミ先生が作家活動とアルバイトを両立できるように、新作の執筆以外はなるべく先生の負担を軽くしていくつもりなので。これでも僕、ちゃんと考えてるんですよ」「そうなんですね……。原口さん、ありがとうございます」 彼はSだけど、基本的に私には優しい。こうして、いつも私の事情を真っ先に考えてくれている。 もちろん恋人としてもそうだけど、編集者としても彼は私と相性がいいと思う。ケンカもするけど、一緒に組んでいてすごく仕事がしやすいし、何より楽しいし安心感がある。「――あの、私はそろそろ失礼します。新作の原稿、早く書き上げたいし。お茶、ごちそうさまでした」 私がソファーから立ち上がると、「下まで見送ります」と原口さんも立ち上がった。「……ねえ原口さん」 エレベーターに乗り込んでから、気まずい沈黙をかき消すように私から口を開く。「はい?」「私、あなたに出会えてよかったです。あなたが担当編集者でよかった。私の担当になってくれて、ありがとうございます」「……えっ、どうしたんですか? 急に改まって。まさか、〝作家辞めます〟フラグじゃ――」 彼が
Last Updated: 2025-05-04
Chapter: 後日談・二ヶ月後…… Page17「近石さん。……あの」「はい?」 作家にとって、自分の手で生み出した作品は我が子も同然(どうぜん)。だから……。「私の作品(ウチの子)を、どうかよろしくお願いします!」 我が娘(コ)を嫁に出すような想いで、私は近石さんに頭を下げた。原口さんはそんな私を見て唖然(あぜん)としているし、近石さんも面食らっているけれど。「……はい。お任せ下さい。必ず先生のご期待にお応えできるような、いい映画にします! では、僕はこれで」 頼もしく頷いて、近石プロデューサーは編集部を後にした。「――それにしても、『ウチの子』は大ゲサすぎませんか?」 二人きりになった応接スペースで、原口さんが笑い出した。「まだ結婚もしてないのに『ウチの子』って……」「ちょっと原口さん! 笑いすぎでしょ!?」 も
Last Updated: 2025-05-03
Chapter: 後日談・二ヶ月後…… Page16「バレました? 実はそうなんです。僕ももっと早く先生にお話しするつもりだったんですけど、先生が喜ばれるかどうか心配で。僕よりも映画のプロの口から伝えていただいた方が説得力があるかな……と」「はあ、なるほど」 私も自分が書いた作品の出来(でき)には自信があるけれど、「映画化するに値(あたい)するかどうか」の判断は難しい。そこはやっぱり、プロが判断して然(しか)るべきだと思うのだ。「僕は先生がお書きになった原作の小説を読んで、『この作品をぜひ映像化したい!』と強く思いました。それも、アニメーションではなく、生身(なまみ)の俳優が動く実写の映画にしたい、と。それくらいに素晴らしい小説です」「いえいえ、そんな……。ありがとうございます」 私は照れてしまって、それだけしか言えなかった。自分の書いた小説をここまで熱を込めて褒めてもらえるなんて、なんだかちょっとくすぐったい気持ちになる。それも、初対面の男性からなんて……。「――あの、近石さん。メガホンは誰がとられるんですか?」 どうせ撮ってもらうなら、この作品によりよい解釈をしてくれる監督さんにお願いしたい。「監督は、柴崎(しばさき)新太(あらた)監督にお願いしました。えー……、スタッフリストは……あった! こちらです」 近石さんが企画書をめくり、スタッフリストのページを開いて見せて下さった。「柴崎監督って、〝恋愛映画のカリスマ〟って呼ばれてる、あの柴崎監督ですか!?」 私が驚くのもムリはない。私と原口さんは数日前に、私の部屋で彼がメガホンをとった映画のDVDを観たばかりだったのだから。「わ……、ホントだ。すごく嬉しいです! こんなスゴい監督さんに撮って頂けるなんて!」「実は、主役の男女の配役ももう決まってまして。あの二人を演じてもらうなら、彼らしかいないと僕が思う演者(えんじゃ)さんをキャスティングさせて頂きました」 近石プロデューサーはそう言って、今度は出演者のリストのページを開いた。「えっ? ウソ……」 そこに載っているキャストの名前を見て、私は思わず声に出して呟いていた。「……あれ? 先生、お気に召しませんか?」「いえ、その逆です。『演じてもらうなら、この人たちがいいな』って私が想像してた通りの人達だったんで、ビックリしちゃって。まさにイメージにピッタリのキャスティングです」 こん
Last Updated: 2025-05-02
Chapter: 後日談・二ヶ月後…… Page15「いえ、僕もつい今しがた来たところですから」「あ……、そうでしたか」 TVでもよく見かけるイケメンさんに爽やかにそう返され、私はすっかり拍子抜け。――彼が敏腕(びんわん)映画プロデューサー・近石祐司さんだ。「先生、とりあえず冷たいお茶でも飲んで、落ち着いて下さい」「……ありがとうございます」 原口さんが気を利かせて、まだ口をつけていなかったらしい彼自身のグラスを私に差し出す。……私は別に、彼が口をつけていても問題なかったのだけれど。 ……それはさておき。私がソファーに腰を下ろし、お茶を飲んだところで、原口さんがお客様に私のことを紹介してくれた。「――近石さん。紹介が遅れました。こちらの女性が『君に降る雪』の原作者の、巻田ナミ先生です。――巻田先生、こちらはお電話でもお話しした、映画プロデューサーの近石祐司さんです」「巻田先生、初めまして。近石です」「初めまして。巻田ナミです。近石さんのお姿は、TVや雑誌でよく拝見してます。お会いできて光栄です」 私は近石さんから名刺を頂いた。私の名刺はない。原口さんはもう既に、彼と名刺交換を済ませているようだった。「――ところで原口さん、さっき『君に降る雪』って言ってましたよね? あの小説を映画化してもらえるってことですか?」 その問いに答えたのは、原口さんではなく近石さんの方だった。「はい、その通りです。
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: 後日談・二ヶ月後…… Page14「――どうでもいいけどさ、奈美ちゃん。早くお弁当(それ)食べちゃわないと、お昼休憩終わっちゃうよ?」「えっ? ……ああっ!?」 壁の時計を見たら、十二時五十分になっている。ここの従業員のお昼休憩は三十分と決まっているので、残りの休憩時間はあと十分くらいしかない! 慌ててお弁当をかっこみ始めた私に、由佳ちゃんがおっとりと言った。「奈美ちゃん、……喉つまらせないようにね」 * * * * ――その日の終業後。「店長、お疲れさまでした! 由佳ちゃん、私急ぐから! お先にっ!」 清塚店長と由佳ちゃんに退勤の挨拶をした私は、ダッシュで最寄りの代々木駅に向かった。 原口さんは、近石プロデューサーが何時ごろにパルフェ文庫の編集部に来られるのか言ってくれなかった。電車に飛び乗ると、こっそりスマホで時刻を確かめる。――午後四時半。近石さんはもう編集部に来られて、原口さんと一緒に私を待ってくれているんだろうか? 私は彼に、LINEでメッセージを送信した。『原口さん、お疲れさまです。今電車の中です。近石さんはもういらっしゃってますか?』『いえ、まだです。でも、もうじきお見えになる頃だと思います』 ……もうじき、か。神保町まではまだ十分ほどかかる。先方さんには少し待って頂くことになりそうだ。私が編集部に着くまでの間、原口さんに応対をお願いしようと思っていると。 ……ピロリロリン ♪『ナミ先生がこちらに着くまで、僕が近石さんの応対をします。だから安心して、気をつけて来て下さい』 彼の方から、応対を申し出てくれた。『ありがとう。実は私からお願いするつもりでした(笑)』 以心(いしん)伝心(でんしん)というか何というか。こういう時に気持ちが通じ合うって、なんかいいな。カップルっぽい。……って、カップルか。 ――JR山手線(やまのてせん)の黄緑色の電車はニヤニヤする私を乗せて、神保町に向かってガタンゴトンと走っていた。 * * * * ――それから約十五分後。 ……ピンポン ♪ 私は洛陽社ビルのエレベーターを八階で降り、猛ダッシュでガーネット文庫の編集部を突っ切っていった。「おっ……、遅くなっちゃってすみません!」 奥の応接スペースにはすでに原口さんと、三十代半ばくらいの短い茶髪の爽やかな男性が座っている。私は息を切らしながら、まずはお待た
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 後日談・二ヶ月後…… Page13「どしたの? 奈美ちゃん」「うん……。彼からメッセージが来てるの。えーっとねえ……、『お疲れさまです。このメッセージを見たら、折り返し連絡下さい』だって」 LINEアプリのトーク画面に表示されている文面はこれだけで、肝心(かんじん)の用件は何も書かれていない。「何かあったのかなあ? 返信してみたら? 『どんな用件ですか?』って」「返信より、電話してみるよ。その方が早いし」 私は履歴から彼のスマホの番号をタップし、スマホを耳に当てた。『――はい、原口です』「巻田です。なんかさっき、メッセージもらったみたいなんで折り返し電話したんですけど。たった今気がついて」『ああ、そうなんですか。――今日はお仕事ですか?』「はい。今はお昼休憩中なんですけど。――何かあったんですか?」『はい。えーっと、映画プロデューサーの近石(ちかいし)さんという方から、「巻田先生にお会いしたい」ってお電話を頂いて。今日の夕方に編集部でお会いすることになったんで、連絡したんです』「映画プロデューサーの近石さん……、あっ! もしかして、近石祐司(
Last Updated: 2025-04-29
Chapter: お仕事スタート! だけど…… PAGE3「みなさん、入社おめでとうございます。これから僕と一緒にこの会社を盛りたてて行きましょう」 村上社長もこの会社の社長なのに、まったく偉そぶっていなくて謙虚で好感が持てる人だ。そしてそれは、この会社の重役みなさんにも言えることだとわたしは感じている。常務でもある広田室長然(しか)り、専務でもある山崎人事部長もまた然り。 最後はこの会社とグループ全体のトップである絢乃会長にご挨拶するだけとなったのだけれど――。「すみません。会長はこの後阿佐間(あさま)先生と会食のご予定があるので、挨拶は手短にお願いしますね」 桐島主任が小川先輩にそう言って、会長室へ絢乃会長を呼びに行った。 ――〝阿佐間先生〟って誰だろう? 疑問に思ったわたしは小川先輩に訊ねてみる。「……小川先輩、〝阿佐間先生〟ってどなたですか?」「ああ、ウチのグループ全体の顧問弁護士の先生だよ。絢乃会長のお友だちのお父さまなんだって。会長も初めてそのお嬢さんから『ウチの父がお世話になります』って聞いた時は驚かれたそうよ」「へぇー……」 お嬢さんが会長と同級生だからコネで顧問になられたのかと思ったけれど、どうも違うらしい。「――みなさん、入社おめでとう。会長の篠沢絢乃です。よろしく」 わざわざ廊下でわたしたちを天使のような笑顔で迎えて下さった会長は、間近に見てもすごく可愛い人だった。お肌はツヤツヤだし、柑橘系の爽やかなコロンの香りがする。スーツの着こなしも上品で、全体から清潔感が漂っている。 そして、そんな彼女の左手の薬指には、小ぶりなダイヤモンドがあしらわれたシンプルなプラチナリングがはまっている。あれってもしかして……。「あの、会長。その指輪は……」「ええ、桐島さんからクリスマスに贈られた婚約指輪よ。――貴女(あなた)は……」「矢神麻衣と申します。突然ぶしつけな質問をしてしまってすみません!」「いえ、そんなにかしこまらないで。わたしの方が年下だから。別に貴女を咎めるつもりなんかないの」 分をわきまえないで失礼な質問をしてしまったと謝るわたしに、会長は優しく微笑んで下さった。「……わたし、実は不安なんです。秘書なんて重要な仕事がわたしなんかに務まるのか、って、なので、辞令を受けた時は信じられなくて」「それ、桐島さんも最初の頃はそうだったよ。『僕なんかに務まるかどうか分かりませ
Last Updated: 2025-05-02
Chapter: お仕事スタート! だけど…… PAGE2「〝取り柄〟っていうのは、仕事をするうえでの自分の売りってことかな? それがないっていう解釈で合ってる?」 小川先輩に訊ねられた彼女は「はい」と頷いたので、先輩はそのうえで返答して下さった。「私は、仕事に関係のない〝取り柄〟でも活かし方次第で仕事の売りになるんじゃないかって思ってます。たとえば、ここにいる桐島主任。彼の取り柄は美味しいコーヒーを淹(い)れるのがうまいことなの。一見、仕事には関係ない取り柄みたいに思うでしょ?」「……ちょっと小川先輩、その言い方は僕が他に何の取り柄もないみたいに聞こえるんで、やめてもらっていいですか」「ああ、ゴメンゴメン! そういう意味で言ったんじゃないよ!? あくまでたとえとして出しただけだから」 大学時代の先輩後輩だというお二人が漫才みたいなやり取りを始めたので、わたしたち新入社員は唖然となった。ハッと我に返ったらしい先輩方はお二人揃ってゴホン、と咳ばらいをして、小川先輩は質問の答えに話を戻される。「……えっと、話が逸れちゃってゴメンね。要するに、自分では『仕事とは関係ないな』っていう特技とか長所でも、どんな形で仕事の役に立つか分からないってこと。桐島くんの『美味しいコーヒーを淹れられる』っていう特技だって、今では大のコーヒー好きの会長にすごく喜ばれててちゃんと仕事の役に立ってるんだから。あなたにもそういうのがきっとあるはずだよ。だからみんなも、そういうことを伸ばして秘書の仕事に活かしていってほしいな」「「「「はいっ!」」」」 小川先輩からのエールに、わたしたち四人の新入社員はみんな元気よく返事をした。 &
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: お仕事スタート! だけど…… PAGE1「――えーっと、じゃあ、一人ずつ自己紹介をお願いします」 この場を仕切っている小川先輩に振られ、わたしたち新入りは名前のあいうえお順で、各々自己紹介をしていくことになった。わたしの苗字は矢神なので、四人の中でいちばん最後だ。「――じゃあ、最後は矢神さん。お願い」「はい。矢神麻衣です。四月十二日生まれのA型です。実は子供の頃から人見知りが激しくて、秘書の仕事も自分にできるかどうか不安ですが、できるだけ頑張ってみようと思いますのでよろしくお願いします」 元々の性格と緊張から、つっかえつっかえになりながらどうにか自己紹介を終えると、みなさんが温かい拍手を送って下さったのでわたしはホッと胸を撫で下ろす。わたしにとってはたったこれだけのことでも冷や汗もので、ハードルを一つ飛び越えたような達成感を味わえたと言っても過言ではないのだ。「じゃあ、何か質問のある人は手を挙げて下さい。答えられる限りはお答えしますから。ただし、個人的なことにはあんまり答えられませーん」 小川先輩がわたしたち新入りに向けて、質問コーナーを設けて下さった。けれど、最後の言葉にみんながドッと沸く。「あんまり」ということは少しなら答えてもいいという意味なんだろうか。「はいっ!」 真っ先に手を挙げたのはわたしだった。どうしてこんなに目立つことができたのか、自分でも信じられない。「矢神さん、どうぞ」「はい、あの……。秘書室で働くうえで、服装に決まりというのはあるんでしょうか?」「うん、これは非常に大事な質問ね。――我が篠沢商事には制服というものはなくて、基本的にはスーツかオフィスカジュアルで働いています。ですが秘書に関しては、あまりカジュアル過ぎても困るので男性はスーツにネクタイ、女性はキチッとしたジャケットスタイル、もしくはスーツが望ましいです。ボトムスはスカートでもパンツでもどちらでも大丈夫ですが。……という答えで大丈夫かしら、矢神さん?」「はい、大丈夫です。広田室長、ありがとうございます」 室長自らの丁寧な返答に、わたしはお礼を言った。「じゃあ、他に質問のある人」 はい、と別の子から手が挙がる。彼女は「自分にはこれといった取り柄がないのだけれど、それを秘書の仕事にどう活かせばいいか」という質問をした。それはわたしにとっても共通の悩みだったので、わたしももう一度質問しようと思ってい
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 入社初日、初めての友だち PAGE9 * * * * ――秘書室に配属された他の子たちと一緒に、エレベーターでこのビルの最上階・三十四階へ上がると、そこは重役フロアーだ。社長室、専務と常務それぞれの執務室、小会議室、そしてフロアーのいちばん奥には会長室があり、秘書室のオフィスは給湯室を挟んで会長室の隣に位置している。 今のところ人事部長が専務、秘書室長が常務を兼務されているため、専務と常務の執務室は使われていないらしいけれど。小川先輩の話では次の役員人事で室長が副社長、人事部長は常務になるそうなので、近々また使用される予定とのこと。そして次の専務はどうやら、桐島主任が就任するんじゃないかともっぱらの噂らしい。……それはさておき。「秘書室へ配属されたみなさん、入社おめでとう。私が室長の広(ひろ)田(た)妙(たえ)子(こ)です。よろしく」 わたしたち新入社員をにこやかに出迎えて下さったのは、パリッとした真っ白なスーツ姿で長い髪を一つに束ねた四十代前半くらいの女性。メタルフレームの眼鏡(メガネ)をかけているキャリアウーマン風の人で、一見厳しそうな印象を受けるけれど、小川先輩曰く茶目っ気もあって優しい人だよ、とのこと。「我々秘書の仕事は、一言でいえば上役のサポート役です。主な内容はスケジュール管理、来客の応対、その他業務の代行など。ですが難しく考えないで、自分にできることを誠心誠意務めるということがいちばん大切だと私は考えています。やり方は一人ひとり違っていいので、自分に合った仕事のしかたを見つけていって下さいね」「「「「はい」」」」 室長のお言葉で、「秘書の仕事って難しそう」と思って肩に力が入っていたわたしも少し気が楽になった。 そして室長の次に、爽やかに挨拶をしたのが――。「みなさん、入社おめでとうございます。僕が秘書室主任で、会長秘書も務めている桐島貢です。よろしくお願いします」 程よくガッシリした長身の体に紺色のスーツを着込み、赤い巣とストライプ柄のネクタイを締めた桐島主任だった。 わたしは彼に思わずポーッとなってしまう。この人は絢乃会長の婚約者で、彼女のことを心から愛しているんだと分かっているのに……。 ……これは恋じゃない。ただの憧れの感情だと自分に言い聞かせる。多分、アイツから逃げたいだけの現実逃避なんだと。
Last Updated: 2025-04-28
Chapter: 入社初日、初めての友だち PAGE8「――で、矢神さんはそういう相手いるの?」「いいい……っ、いえいえっ! いい……いないですよ、彼氏とか好きな人とかっ!」「矢神さん、どもりすぎ。そんなに動揺しなくても」 思いっきり動揺してどもりまくっていると、小川先輩に笑われた。何ていうか、社会人にもなって恥ずかしい……。「ごめんねー、私が悪かったね。彼氏にもよく言われるのよ。『お前は秘書なんだから、もうちょっと周りの空気読め』って」「……はあ」 確かに、周りの空気が読めないのは秘書として致命的じゃないかとわたしも思う。でも、キチンと守秘義務が守れる人なら多分問題はないはず。だからご自身で「空気が読めない」と自虐的に言えてしまう小川先輩だって、社長秘書という仕事が務まっているんだろう。「……って、私の話はどうでもよかったよね。じゃあさっきまで一緒だった男の子は? あのガタイのいい」「入江くんのことですか? 彼は高校から大学までの同級生で、友だちです」「えっ、そうなの? 二人って仲よさそうに見えたし、てっきり付き合ってるもんだと思ってた」 佳菜ちゃんにも言われたけど、やっぱりわたしと入江くんって周りの人の目からはそんなふうに見えるのか。でも正直なところ、わたしにとって彼がどういう存在なのか、自分でもよく分かっていないのだ。「はい。……多分、付き合ってはいないです。あ、ちなみに入江くんの配属先は総務課だそうですけど」「総務課か。そういえば、桐島くんも秘書室に来る前は総務にいたのよ。ちょうどパワハラがひどかった頃に」「えっ、そうなんですか?」 驚きの事実に、わたしは目をみはった。あれだけ会長秘書の仕事をバリバリやっていそうなあの人がかつて総務にいたことにもだけれど、その総務課でハラスメント被害に耐えていたことにも驚いた。「うん、そうなのよー。秘書室(うちのぶしょ)に来たのは先代の会長が余命宣告を受けて、絢乃さんが後継者になりそうだったからだったんだけど。つまりは愛の力ね。ちなみに、先代会長の秘書だったのが私」「へぇー……」「まあ、そんな彼にも秘書の仕事は務まってるんだから、矢神さんも『わたしには無理』とか思わないでね。この仕事はやる気と、ボスへの愛さえあれば務まるものだから。ウチでは秘書検定なんて持ってる人の方が少ないし。私も桐島くんも持ってないもん」「…………はあ」 〝ボスへの愛
Last Updated: 2025-04-25
Chapter: 入社初日、初めての友だち PAGE7「へぇー……、あの人主任さんなんですか。なんか真面目そうな人ですね。でも堅物(カタブツ)って感じでもなさそうですし。仕事もバリバリできそう」「そっか、矢神さんの目にはそう見えるワケね? 実際はそうでもないんだけどねー」 小川先輩は、まるで桐島主任のことをよくご存じみたい肩をすくめた。というか上から見ている感じ? どうしてだろう?「あの……、先輩は桐島さんとどういうご関係なんですか? あの人のことよくご存じみたいですけど」「ああ。私ね、彼とおんなじ大学の二年先輩なのよ。だから昔っから彼のことはよく知ってるの。プライベートな秘密とかもね」「…………はぁ、そうなんですか。わたしはてっきり、お二人が恋人同士なのかと」「んなワケないじゃない。私、同期に彼氏いるし。それに、桐島くんは絢乃会長と婚約してるんだよ。六月に挙式予定で、今は絶賛結婚準備中」「へぇーー…………、会長と……ですか」 見るからに美男美女カップルで、わたしの目からもお似合いな二人に見える。でも、お二人には八歳くらいの年齢差があると思うのだけれど、お知り合いになったキッカケは何だったんだろう?「……もしかして、桐島主任のお家もお金持ちだったりします?」「ううん、ごく普通の……でもないか。普通よりちょっと裕福なだけの家庭だよ。お父さまがメガバンクの支店長
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: エピローグ PAGE3「貴方は出会ってから、わたしに色んなことを教えてくれたよね。パパの余命を前向きに捉えることとか、悲しい時には思いっきり泣いていいんだってこと、緊張した時のおまじない、それから」「えっ、そんなにありましたっけ?」 彼はここで驚いたけれど、わたしがいちばん伝えたい大事なことはこの先だ。「うん。……それから、恋をした時の喜びとか苦しさも、わたしは貴方から教えてもらったの。だから、この先もずっと貴方に恋をし続けていくよ」「はい。僕も同じ気持ちです。あなたに一生ついて行きます」「だから、それって花嫁のセリフだってば」 わたしはまた笑った。「――絢乃、桐島くん。式場のスタッフが呼んでるわよ。『そろそろフォトスタジオにお越し下さい』って」 控室のドアをノックする音がして、オシャレなパンツスーツを着こなした母が一人の中年男性を伴って入ってきた。「はい、今行きます! ――絢乃さん、では僕は先に行っていますね。フォトスタジオでお待ちしています」「うん、分かった。また後でね」 控室を後にする彼を振り返ったわたしは、母と一緒に立っている人物に目をみはった。 父に顔はよく似ているけれど、父より少し年上の優しそうな紳士――。「やぁ、絢乃ちゃん。久しぶりだね。結婚おめでとう」「聡一(そういち)伯父さま……」 それは、アメリカから帰国した父方の伯父、井上聡一だった。伯父にも招待状を送っていて、出席の返事はもらっていたけれど、どうして母と一緒に控室を訪ねてきたのかは分からなかった。「今日は、来てくれてありがとう。……でも、どうしてわざわざ控室まで?」「加奈子さんに頼まれたんだ。源一の代わりに、絢乃ちゃんと一緒にバージンロードを歩いてほしい、って。私は父親じゃないが、君の親族であることに変わりはないからね」「…………伯父さま、ありがとう……。パパもきっと喜んでくれてるよ……」 伯父の優しさが心に沁みて、わたしは感激のあまり泣き出してしまった。「あらあら! 絢乃、泣かないで! せっかくキレイにメイクしてもらったのに崩れちゃうわ」「うん、……そうだね。こんな顔で行ったら貢がビックリしちゃうよね」 慌てる母に、わたしは泣き笑いの顔で頷いた。 その後母に呼ばれたヘアメイク担当のスタッフさんにお化粧を直してもらい、わたしはウェディングプランナーの女性に先導され、母
Last Updated: 2025-02-28
Chapter: エピローグ PAGE2 彼はブルーのアスコットタイを結んでいる。これは「サムシング・ブルー」になぞらえたらしいのだけれど……。「貢……、それって新婦側の慣習じゃなかったっけ?」 わたしは婿を迎え入れる側だけれど、とりあえずこの慣習を取り入れてイヤリングと髪飾りをブルーにした。でも、新郎側がこれを取り入れるなんて聞いたことがない。「まぁ、そうなんですけどね。僕も気持ちのうえでは嫁(とつ)ぐようなものなので」「……そっかそっか。まぁいいんじゃない? 今は多様性の時代だしね」 何も古くからのしきたりに囚(とら)われることはないのだ。これがわたしたちの結婚の形、と言ってしまえばそれまでなんだから。「ところで貢、知ってた? ママがこれまで断ってきた、わたしの縁談の数」「いいえ、僕は聞いたことありませんけど。……どれくらいあったんですか?」「聞いて驚くなかれ。なんと二百九十九人だって!」「えっ、そんなにいたんですか!? 逆玉狙いの男性が」 彼はわたしの答えを聞いて、愕然となった。彼の解釈は間違っていない。「ママね、わたしが小さい頃からずっと言ってたの。『絢乃には、本心から好きになった人と幸せを掴んでほしい』って。よかったよー、貢がその中に入らなくて」「そうですね。これが絢乃さんにとって、いちばんの親孝行ですよね」「うん。わたし、貢となら絶対に幸せになれると思う。やっぱり、貴方とわたしとの出会いは運命だったんだよ。貴方に出会えて、ホントによかった」「僕も、絢乃さんに出会えてよかったです。もう二度と恋愛なんてゴメンだと思ってましたけど、そんな僕をあなたが変えて下さったんです。ありがとうございます」 こうして向かい合って、お互いに感謝の気持ちを伝え合えるってステキなことだとわたしは思う。この先もずっと、彼とはこういうステキな夫婦関係を築いていきたい。「絢乃さん、こんな僕ですが、末永くよろしくお願いします」「……何かそれ、もう完全に花嫁さんのセリフだよね」 思いっきり立場が逆転しているなぁと思うと、わたしは笑えてきた。「でも、わたしたちって最初っから一般的なオフィスラブと立場が逆転してるんだよねぇ」「……まぁ、確かにそうですよね」 貢もつられて笑った。今日みたいないいお天気の日には、笑顔での門出が似合う。梅雨の時期なのに今日は朝からよく晴れていて、絶好の結婚式日
Last Updated: 2025-02-28
Chapter: エピローグ PAGE1 ――こうして、わたしと貢の関係は恋人同士から婚約関係となった。ちなみに、あの騒動のおかげでわたしたちの関係は世間的に公になったのだけれど、これは喜ぶべきだろうか? 真弥さんはあの日撮影した映像を、自分のアカウントでもXにアップしていて、その投稿は見る間に拡散したらしい。〈彼氏登場! いきなりハイキックとかカッコよすぎww〉〈彼氏、ヒーローすぎてヤバい〉 などなど、称賛のコメントと共に思いっきりバズっていた。 去年のクリスマスイブは彼と二人きりで過ごし、婚約指輪はそこでクリスマスプレゼントとして彼からもらった。小粒のダイヤモンドがはめ込まれたシンプルなプラチナリングで、多分価格もなかなかのものだったはず。彼の男気を感じて嬉しかった。 誕生日にもらったネックレスとともに、この指輪もわたしの一生の宝物になるだろう。 その夜は彼のアパートに泊まり、彼の小さなベッドの上で一緒に朝を迎えた。わたしの後から起きてきた彼と目を合せるのが照れ臭かったことが忘れられない。でも、それが結婚生活のリハーサルみたいに思えて、心躍ったのも確かだ。 三月の卒業式には、母と一緒に貢も出席してくれたので驚いた。母の話によれば、その日は一日会社そのものをお休みにしたんだとか。会長の新たな出発の日だから、社員一丸となってお祝いするように、と。「ママ……、何もそこまでしなくても」と呆れたのを憶えている。 四月最初の日曜日、両家顔合わせの意味も込めて我が家で食事会をした。料理は専属コックさんと母、わたしと史子さんで腕によりをかけて作り、デザートのイチゴのシフォンケーキもわたしが作った。桐島さんご一家のみなさんも「美味しい」と喜んで、テーブルの上にところ狭しと並べられた料理を平らげて下さった。 そこで、わたしと貢は驚くべき事実を知った。なんと、悠さんがお付き合いしていた女性と授かり婚をしたというのだ! 顔合わせの席にはその奥さまもお見えになっていて、お名前は栞(しおり)さんというらしい。年齢は貢の二歳上で、悠さんが店長を務められているお店の常連客だったそう。そこから恋が始まり、お二人は結ばれたというわけだった。……ただ、順番が違うんじゃないだろうかと思うのは考え方が古いのかな……。 そこから彼が我が家で同居することになり、二ヶ月が経ち――。 本日、六月吉日。愛する人と二人で選
Last Updated: 2025-02-28
Chapter: 大切な人の守り方 PAGE15「――絢乃さん、僕、覚悟を決めました。あなたのお婿さんになりたいです。僕と結婚して下さい。お父さまの一周忌が済んで、絢乃さんが無事に高校を卒業して、そうしたら。……で、どうでしょうか」「はい。喜んでお受けします!」 彼からの渾身のプロポーズに、わたしは喜び全開で頷いた。エンゲージリングはまだなかったけれど、気持ちのうえではもう、二人の結婚の意思は確固たるものになっていた。 思えば初めてわたしの気持ちを彼に伝えた時、子供っぽい告白になってしまった。でも今なら、彼にとっておきの五文字で想いを伝えられるだろうか。あの時から少し大人になったわたしなら……。「貢、……愛してる」「僕も愛してます、絢乃さん」 わたしたちは熱いハグの後、長いキスを交わした。「――ところで、絢乃さんは高校卒業後の進路、どうされるんですか? 僕、まだ教えて頂いてないんですけど」 帰り道、彼が器用にハンドルを切りながらわたしに訊ねた。……おいおい、今ごろかい。「わたしね、大学には進学せずに経営に専念しようと思ってるの。やっぱり好きなんだよね、会長の仕事とか会社が」「……なるほど」「ママは最初、大学に進んでもいいんじゃないか、って言ってくれたんだけど。最後には折れてくれたの。わたし、これまでよりもっともーっと会社に関わっていきたいから」「加奈子さん、絢乃さんに甘々ですもんね」「うん、まぁね。ちなみに、里歩は大学の教職課程取って、高校の体育教師目指すんだって。唯ちゃんはプロのアニメーターを志して、専門学校に進むらしいよ」 卒業後の進路はバラバラでも、わたしと里歩、唯ちゃんとの友情はこれから先も変わらない。きっと。
Last Updated: 2025-02-28
Chapter: 大切な人の守り方 PAGE14「――改めて、貴方には心配をおかけしました」 わたしはいつもの指定席である助手席ではなく、後部座席で彼に深々と頭を下げた。「ホントですよ。あれほど無茶なことはするなと言ったのに。ヘタをすれば、絢乃さん、アイツにケガさせられてたかもしれないんですからね?」 彼はまだご立腹のようだった。でも、それはわたしのことが本当に心配だったからにほかならない。「だーい丈夫だって。そのためにあの頼もしいお二人にも協力してもらったわけだし。いざとなったらボディーガードをしてもらうつもりで――。まあ、結局は貴方に助けられたわけだけど」「イヤです」「…………は?」 彼に唐突に話を遮られ、わたしはポカンとなった。「イヤ」って何が?「あなたが他の人に守られるなんて、僕はイヤなんです。あなたを守るのは僕じゃないとダメなんです。……すみません、ダダっ子みたいなことを言って」「ううん、別にいいよ。貴方の気持ち、すごく嬉しいから」 むしろ、ダダっ子みたいな貴方が可愛くて愛おしくて仕方がないんだよ、とわたしは目を細めた。「でも、今日ほどわたしは貴方に守られてるんだなって思ったことはなかったかも。ホントにありがと」 わたしはいつも、自分が彼を守っているんだと思っていた。でも、時々こうやって自分を顧(かえり)みずに無茶なことをしでかすわたしを助けてくれているのは貢だった。それは秘書としても、彼氏としても。「わたし、いつもこうやって貴方のことを助けてるつもりでも、結局のところは貴方に助けられてるんだね」 父の病気が分かってショックを受けた時、父が亡くなった時、親族から心ない罵声を浴びせられた時。それから会長に就任した時もそうだった。彼はいつもさりげなく、わたしの心の支えとなってくれていたのだ。彼の優しくて温かい言葉に、わたしはどれだけ救われてきたか分からない。「今ごろ気づかれたんですか? 僕の大切さが」「……うん、ごめん。でもありがと」「それにしても、僕を守るなら他に方法くらいあったでしょう? あえて僕と離れて、中傷の目を遠ざけるとか」「それは、わたしがイヤだったの。たとえ貴方を守るためでも、貴方と離れるなんてダメだと思った。だったら、一緒にいながら貴方を守る方法を取った方がいい、って。……まぁ、その分お金はかかったし、ちょっと危ない橋も渡っちゃったけど」 傍から見れば
Last Updated: 2025-02-28
Chapter: 大切な人の守り方 PAGE13 ――作戦は無事成功したものの、わたしは何だかワケが分からなかった。わたしもまたドッキリにかけられたような気持ち、というのか……。「……どうして貢がここに? 打ち合わせでは、あの場で登場するのは内田さんだったはずじゃ」「ああ、内田さんから連絡を頂いたんです。今日、絢乃さんが危ない目に遭うかもしれないから、新宿駅前に来てほしい、って」「相手が激昂してる時に、見ず知らずの男が現れたら事態が余計に悪化するかもしれないと思ってな。ここは格闘技を習得した彼氏に花を持たせてやった方がいいかな、って」「内田さん、そういうことは事前に教えておいてくれないと。わたしをドッキリにかけてどうするんですか!」 そういう問題じゃない気もしたけれど、わたしはとにかく一言抗議しないと気が済まなかった。「悪い悪い。でも、桐島さんが間に合ったんだからよかったじゃん」「そうですよ! 僕が間に合ったからよかったですけど、下手したら絢乃さん、本当に危ないところだったんですからね!?」 彼が怒っているのは、わたしのことを本気で心配してくれていたからだ。だからわたしは叱られているのに嬉しかったし、自分の無謀な行動を猛省した。「……ごめんなさい」「でも、無事でよかった……。本当によかった」 彼は深いため息をつくと、ここが公衆の面前だということもお構いなしにわたしをギュッと抱きしめた。「ちょっ……、貢……?」 彼はわたしを抱きしめたまま震えていた。泣いてはいないようだったけれど、それだけでわたしへの心配がどれくらいのものだったかが伝わってきた。 わたしは彼の背中に手を回し、そっと背中をさすった。父の葬儀の日、泣けなかったわたしに彼がそうしてくれたように。「ごめんね、貢。心配かけちゃって、ホントにごめん。……でも、心配してくれてありがと。もっと他に方法はあったはずなのにね。わたし、これくらいの方法しか思いつかなくて」 路上で抱き合っていると、周りが何だかザワザワと騒がしくなってきた。「……とりあえず、クルマに乗って下さい。話はそれからです」「そう……だね」 これ以上のイチャイチャは人目が気になるので、わたしたちは彼のレクサスへと移動することにした。「じゃあ、あたしたちもこれで撤収しまーす♪ あとはお二人でどうぞ♪」「絢乃さん、オレたちこれで五十万円分の働きはしたよな?」
Last Updated: 2025-02-28
Chapter: 渾身の一作と卒業の時 page9 * * * * 千藤家に到着して部屋で荷解きを終えると、愛美とさやかはさっそく多恵さんに農園へ連れてこられた。「――じゃあ、二人にはハウスで夏野菜の苗を植えるのを手伝ってもらうわね。ここはトマトのハウスで、あっちがキュウリ、その隣りはナスね」「はい。あたしのウチ、祖母が家庭菜園をやってて、高校の寮に入るまではあたしもよく手伝ってましたから」「そうなの? じゃあ、強力な助っ人が来てくれたわけね。助かるわぁ」「多恵さん、さやかちゃんをこき使う気満々ですよね」「あら、バレちゃった? なんてね、ウソよぉ。そんなに大きなハウスじゃないし、三人で協力してやれば早く終わるわ。その後は一緒にパンを作りましょ」「「は~い!」」 三人は力を合わせて苗の植付けを頑張った。さやかはさすが実家で祖母の菜園を手伝っているだけあって、慣れた手つきで苗を植えている。「珠莉ちゃんもここの作業を手伝ってたら、トマト嫌いも克服できるようになるかな。これだけ大変な工程を踏んで、美味しいトマトが実るんだって分かったら」「そうだね。珠莉はともかく、子どもたちの食育にはなるんじゃないかな。あー、あたしやっぱり教職課程選べばよかった!」「さやかちゃん、結局福祉学部に進むって決めたんだもんね。でも、児童福祉に関われるんだから」「……だね。後悔はしてないよ。けど、そっちの道もあったなぁって思ってるだけ」 さやかは進路を決める十一月ギリギリまで迷って、最終的に教育学部ではなく福祉学部を選んだのだ。そして将来的には児童福祉に関わる資格を取って、児童相談所などに就職するのだという。「わたしは応援するよ。進む学部は違うけど、大学に入ってからも、その後だってずっと親友だと思ってるからね。もちろん珠莉ちゃんも」「愛美……! うん、ありがとね」 三人は大学の寮でも同室になろうと決めているのだ。将来誰かが結婚して母親になっても、この友情は永遠に続いていってほしいと愛美は思っている。
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 渾身の一作と卒業の時 page8 * * * * というわけで、卒業式前の連休――というか厳密に言えば自由登校期間だけれど――の初日、二泊三日分の荷物を携えた愛美とさやかはJR長野駅の前に立っていた。「――愛美、あたしの分まで交通費全額出してもらっちゃって悪いね。でもよかったの?」「いいのいいの! わたし今、口座に大金入ってるから。ひとりじゃ使いきれないし、使い道も分かんないし」 冬休みに突然舞い込んできた二百万円というお金は、まだギリギリ高校生でしかも施設育ちの愛美にとってはとんでもない大金だった。作家として原稿料も振り込まれてくるけれど、さすがに百万円単位はケタが違う。印税でも入ってこない限り、そんな金額は目にすることがないと思っていた。「そっか、ありがとね」 多分、さやかもそんな大金はあまり見ないんじゃないだろうか。 そして、愛美に自分の分まで交通費を負担してもらったことを申し訳なく感じているだろうから、後で「立て替えてもらった分、返すよ」と言ってくるに違いない。その分を受け取るべきかどうか、愛美は迷っていた。 さやかの顔を立てるなら、素直に受け取るべきだろうけれど。愛美としては貸しにしているつもりはないので、返してもらうのも何か違う気がしているのだ。 それはきっと、もっと大きな金額を愛美に投資してくれている〝あしながおじさん〟=純也さんも同じなんだろうと愛美は思うのだけれど……。「――農園主の善三さんの車、もうすぐこっちに来るって。奥さんの多恵さんからメッセージ来てるよ」「そっか」 スマホに届いたメッセージを見せた愛美にさやかが頷いていると、二人の目の前に千藤農園の白いミニバンが停まった。助手席から多恵さんが降りてくる。「愛美ちゃん、お待たせしちゃってごめんなさいねぇ。――あら、そちらが電話で言ってたお友だちね?」「はい。牧村さやかちゃんです」「初めまして。愛美の大親友の牧村さやかです。今日から三日間、お世話になります」 さやかが礼儀正しく挨拶をすると、多恵さんはニコニコ笑いながら「こちらこそよろしく」と挨拶を返してくれた。「静かな場所で過ごしたくて、ここに来たいって言ったそうだけど、ウチもまあまあ賑やかよ。だからあまり落ち着かないかもしれないわねぇ」「いえいえ! 寮の食堂に比べたら全然静かだと思います。ね、愛美?」「うん、そうだね。多恵さん、ウ
Last Updated: 2025-04-25
Chapter: 渾身の一作と卒業の時 page7 ――今年の学年末テストもバレンタインデーも終わり、卒業式が間近に迫った三月初旬。さやかが思いがけないことを愛美に言った。「卒業式前の連休、あたしも一緒に長野の千藤農園に行きたいな。愛美、執筆の息抜きに行きたいって言ってたじゃん」「えっ、わたしは別に構わないけど……。さやかちゃん、急にどうしたの?」 部屋の勉強スペースで執筆をしていた愛美は、キーボードを叩いていた手を止めて小首を傾げた。彼女が「千藤農園へ行きたい」なんて言ったことは今まで一度もなかったから。「いやぁ、愛美がいいところだって言ってたし、あたしも前から一度は行ってみたいと思ってたんだよね。純也さんのお母さん代わりだったっていう人にも会ってみたかったしさ。っていうかぶっちゃけ、最近食堂がうるさくてストレスなんだわ」「あー……、確かに。会話もままならない感じだもんね」 さやかも言ったとおり、最近〈双葉寮〉の食堂では特に夕食の時間、みんなが一斉におしゃべりをする声が大きくこだましてやかましいくらいである。隣り同士や向かい合って座っていても、話す時には手でメガホンを作って「おーい!」とやらなければ聞こえないのだ。そりゃあストレスにもなるだろう。「分かった、わたしから連絡取ってみるよ。この時期だと……、農園では夏野菜の苗を植え始めたりとかでちょっとずつ忙しくなるだろうから、一緒にお手伝いしようね。あと、純也さんと二人で行った場所とかも案内してあげる」「やった、ありがと! 野菜育てるお手伝いなら、ウチもおばあちゃんが家庭菜園やってるからあたしもよくやってたよ。じゃあ、連絡よろしくね」「うん」 愛美のスマホには、千藤農園の電話番号はもちろん多恵さんの携帯電話の番号も登録してある。愛美から連絡したら、多恵さんはびっくりしながらも喜んでくれるだろう。ましてや、今回は一人ではなく友だちも一人連れていくんだと言ったら、大喜びで歓迎してくれるだろう。「じゃあ、原稿がキリのいいところまで書けたら、さっそく多恵さんに電話してみよう」 という言葉どおり、愛美は執筆がひと段落ついたところで多恵さんの携帯に電話した。
Last Updated: 2025-04-23
Chapter: 渾身の一作と卒業の時 page6 * * * * 部活も引退したことで執筆時間を確保できるようになった愛美は、本格的に新作の執筆に取りかかることができるようになった。「――愛美、まだ書くの? あたしたち先に寝るよー」 〝十時消灯〟という寮の規則が廃止されたので、入浴後に勉強スペースの机にかじりついて一心不乱にノートパソコンのキーボードを叩き続けていた愛美に、さやかがあくび交じりに声をかけた。横では珠莉があくびを噛み殺している。「うん、もうちょっとだけ。電気はわたしが消しとくから、二人は先に寝てて」 本当に書きたいものを書く時、作家の筆は信じられないくらい乗るらしい。愛美もまさにそんな状態だった。「分かった。でも、明日も学校あるんだからあんまり夜ふかししないようにね。じゃあおやすみー」「夜ふかしは美容によろしくなくてよ。それじゃ、おやすみなさい」 親友らしく、気遣う口調で愛美に釘を刺してから、さやかと珠莉はそれぞれ寝室へ引っ込んでいった。「うん、おやすみ。――さて、今晩はあともうひと頑張り」 愛美は再びパソコンの画面に向き直り、タイピングを再開した。それから三十分ほど執筆を続け、キリのいいところまで書き終えたところで、タイピングの手を止めた。「……よし、今日はここまでで終わり。わたしも寝よう……」 勉強部屋の灯りを消し、寝室へスマホを持ち込んだ愛美は純也さんにメッセージを送った。 『部活も引退したので、今日からガッツリ新作の執筆始めました。 今度こそ、わたしの渾身の一作! 出版されたらぜひ純也さんにも読んでほしいです。 じゃあ、おやすみなさい』 送信するとすぐに既読がついて、返信が来た。『執筆ごくろうさま。 君の渾身の一作、俺もぜひ読んでみたいな。楽しみに待ってるよ。 でも、まだ学校の勉強もあるし、無理はしないように。 愛美ちゃん、おやすみ』「……純也さん、これって保護者としてのコメント? それとも恋人としてわたしのこと心配してくれてるの?」 愛美は思わずひとり首を傾げたけれど、どちらにしても、彼が愛美のことを気にかけてくれていることに違いはないので、「まあ、どっちでもいいや」と独りごちたのだった。 高校卒業まであと約二ヶ月。その間に、この小説の執筆はどこまで進められるだろう――?
Last Updated: 2025-04-21
Chapter: 渾身の一作と卒業の時 page7 ――そして、高校生活最後の学期となる三学期が始まった。「――はい。じゃあ、今年度の短編小説コンテスト、大賞は二年生の村(むら)瀬(せ)あゆみさんの作品に決定ということで。以上で選考会を終わります。みんな、お疲れさまでした」 愛美は部長として、またこのコンテストの選考委員長として、ホワイトボードに書かれた最終候補作品のタイトルの横に赤の水性マーカーで丸印をつけてから言った。 (これでわたしも引退か……) 二年前にこのコンテストで大賞をもらい、当時の部長にスカウトされて二年生に親友してから入部したこの文芸部で、愛美はこの一年間部長を務めることになった。でも、プロの作家になれたのも、あの大賞受賞があってこそだと今なら思える。この部にはいい思い出しか残っていない。 ……と、愛美がしみじみ感慨にふけっていると――。「愛美先輩、今日まで部長、お疲れさまでした!」 労(ねぎら)いの言葉と共に、二年生の和田原絵梨奈から大きな花束が差し出された。見れば、他の三年生の部員たちもそれぞれ後輩から花束を受け取っている。 これはサプライズの引退セレモニーなんだと、愛美はそれでやっと気がついた。「わぁ、キレイなお花……。ありがとう、絵梨奈ちゃん! みんなも!」「愛美先輩とは同じ日に入部しましたけど、先輩は私にいつも親切にして下さいましたよね。だから、今度は私が愛美先輩みたいに後輩のみんなに親切にしていこうと思います。部長として」「えっ? ホントに絵梨奈ちゃん、わたしの後任で部長やってくれるの?」 いちばん親しくしていた後輩からの部長就任宣言に、愛美の声は思わず上ずった。「はい。ただ、正直私自身も務まる自信ありませんし、頼りないかもしれないので……。大学に上がってからも、時々先輩からアドバイスを頂いてもいいですか?」「もちろんだよ。わたしも部長就任を引き受けた時は『わたしに務まるのかな』ってあんまり自信なくて、後藤先輩とか、その前の北原部長に相談しながらどうにかやってきたの。だから絵梨奈ちゃんも、いつでも相談しに来てね。大歓迎だから」 「ホントですか!? ありがとうございます! でもいいのかなぁ? 愛美先輩はプロの作家先生だから、執筆のお仕事もあるでしょう?」「大丈夫だよ。むしろ、執筆にかかりっきりになる方が息が詰まりそうだから。絵梨奈ちゃんとおしゃべりして
Last Updated: 2025-04-19
Chapter: 渾身の一作と卒業の時 page6 それはともかく、わたしは園長先生から両親のお墓の場所を教えてもらって、クリスマス会の翌日、園長先生と二人でお墓参りに行ってきました。〈わかば園〉で聡美園長先生たちによくして頂いたこと、そのおかげで今横浜の全寮制の女子校に通ってること、そしてプロの作家になれたことを天国にいる両親にやっと報告できて、すごく嬉しかったです。 園長先生はさっそくわたしが寄付したお金を役立てて下さって、今年のクリスマス会のごちそうとケーキをグレードアップさせて下さいました。おかげで園の弟妹たちは大喜びしてくれました。まあ、ここのゴハンだって元々そんなにお粗末じゃなかったですけどね。 そしておじさま、今年もこの施設の子供たちのためにクリスマスプレゼントをドッサリ用意して下さってありがとう。もちろん、おじさまだけがお金を出して下さったわけじゃないでしょうけど。名前は出さなくても、わたしにはちゃんと分かってますから。 お正月には、施設のみんなで近くにある小さな神社へ初詣に行ってきました。やっぱりおみくじはなかったけど……。 もうすぐ三学期が始まるので、また寮に帰らないといけないのが名残惜しいです。やっぱり〈わかば園〉はわたしにとって実家でした。三年近く離れて戻ってきたら、ここで暮らしてた頃より居心地よく感じました。 三学期が始まったら、文芸部の短編小説コンテストの選考作業をもって文芸部部長も引退。そして卒業の日を待つのみです。わたしはその間に、〈わかば園〉を舞台にした新作の執筆に入ります。今度こそ出版まで漕ぎつけられるよう、そしておじさまやみんなにに読んでもらえるよう頑張って書きます! ここにいる間にもうプロットはでき上って、担当編集者さんにもメールでOKをもらってます。 では、残り少ない高校生活を楽しく有意義に過ごそうと思います。 かしこ一月六日 愛美』****
Last Updated: 2025-04-18