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第1072話

Penulis: 夏目八月
どれほど小さいかと言えば、小指ほどの長さしかない。

しかし紙のように薄く、試しに一枚投げてみると、刃は壁に完全に埋没してしまった。

通常の飛び刀ではこれほどの威力は出ないはずだが、柳の葉のような形状と薄さゆえ、内力を込めれば驚くべき破壊力を生み出せる。

さくらにとって、それほど驚くべきことではなかった。落葉や花びらさえ武器とする技は、彼女にも使えるのだから。ただし、殺傷力となると、この飛び刀の方が遥かに上だった。

梅月山で師匠が暗器を研究していた頃、三番目と七番目の叔父が訪ねて来たことを思い出す。その時、さくらは練習の最中で、扱いやすく、なおかつ強力な暗器があればいいのにと、二人に愚痴をこぼしたのだった。

突然、何かが頭を掠めた。さくらは顔色を変え、急いで腕輪を手に取り、筒から数本の針を取り出した。赤い宝石の穴に針を入れ、蓋を閉めて青い宝石を押す。シュッ、シュッという音とともに、信じられないほどの威力で二本の針が放たれ、梁に深々と突き刺さった。

手首を上に向けていたからこそ梁に刺さったが、もし敌に向けていれば……電光石火の速さで相手の体を貫き、反応する暇すら与えないだろう。

さくらは長い間、その光景から目を離せなかった。頬を伝う涙が止まらない。

かつて七番目の叔父に話したことがある。内力を使わなくても強力な暗器があれば、たとえ重傷を負って息も絶え絶えな状態でも、敵の命を奪うことができる、と。

叔父は本当にそれを作り上げたのだ。

当時は何気なく言った言葉だったのに。暗器の製作は困難を極める。まして装飾品に偽装するとなれば、なおさらのこと。

さくらは声を上げて泣いた。

外で待っていた玄武は、飛び刀の音は聞き取れたものの、飛針の音だけは全く気付かなかった。

「さくら、どうした?」さくらの泣き声が聞こえ、思わず声を上げた。

さくらは涙を拭うと戸を開け、玄武の前で腕輪を揺らめかせた。「これ、七番目の叔父上からの贈り物なの」

鋭い目を持つ玄武は、一目で腕輪の特異な造りに気付いた。亀裂に見えたものは実は可動式の留め金で、何らかの仕掛けが施されているようだった。

「鋼針を仕込めるの」さくらは興奮した様子で玄武を中に引き入れ、筒から数本の針を取り出して腕輪に装填し始めた。今度は収まるだけ詰め込んでみる。

二十本以上が収まった。

円形の腕輪に対し、鋼
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    高松内侍は涙を流しながら跪き、「公主様」と一声上げると、地面に伏して嗚咽を漏らした。しかし茨子は目を上げることもなく、まるで痴呆に陥ったかのように、何も見えず、何も聞こえていないようだった。しばらく泣き続けた後、高松内侍は重箱から菓子の盆を取り出した。新田が検査しようとしたが、粉蝶が制した。「親王様のお言葉です。菓子は検査不要とのこと」地面に跪いたまま、真っ赤な目で震える声を絞り出す。「公主様、一口だけでも召し上がってください。榮乃皇太妃様が特にお選びになった、公主様の大好きな甘菓子でございます。他にもお菓子がたくさんございます。ゆっくりとお召し上がりください」「榮乃皇太妃」という言葉に、茨子の目がようやく動いた。その顔は痩せ細り、垢で黒ずんでいた。目の周りまで灰色に汚れているが、その眼窩だけが赤く染まっているのが見て取れた。「そこに……置いて」歯を失った口からは不明瞭な言葉が漏れたが、皆には聞き取れた。「お召物もございます。お着替えのお手伝いを」高松内侍は着物を抱えながら近寄り、茨子の不潔な体も厭わず、その痩せた体を引き起こした。自分の体に寄り掛からせるようにして、ゆっくりと奥へ進んでいく。「このまま放っておいて大丈夫なのか?」新田は粉蝶と高松ばあやを見やった。「お任せしましょう」粉蝶はそう言いながら、さりげなく一つの菓子を袖に忍ばせた。新田は困惑の表情を浮かべたが、親王様と王妃の意向とあれば、黙るしかなかった。半刻ほどして、高松内侍は茨子を背負って現れた。新しい着物に着替えてはいたが、極度の痩せ衰えにより、まるで竹竿に掛けたかのようにだぶだぶとしていた。菓子の側に下ろされた茨子は、再び体を丸めた。布団や着物などの品々も中に運び込まれた。「もう良いでしょう。新田様のお立場もございますから」粉蝶が促した。高松内侍は涙を浮かべながら、最後に一度茨子を見つめ、名残惜しそうに立ち去った。茨子は彼らの後ろ姿を見つめ続けた。重い扉が閉じられ、その姿が完全に見えなくなった時、ようやく喉から嗚咽が漏れ始めた。粉蝶は菓子を薬王堂の青雀のもとへ持ち込み、劇毒の反応を確認してから、王様と王妃に報告に戻った。「食べたかしら?」さくらが尋ねた。「お暇する時にはまだでしたが、高松内侍様は毒の件をお伝えしたはずです

  • 桜華、戦場に舞う   第1165話

    有田先生の徹底的な調査により、数名の容疑者が浮かび上がり、密かな監視の目が向けられることとなった。だが、疑惑は表面的なものに過ぎず、確たる証拠は得られていなかった。無相が燕良州に戻って以降、淡嶋親王以外との接触は皆無で、沢村家への訪問もなかった。例の黒幕は、まるで深淵の底に潜む影のように、その正体を巧みに隠していた。最新の諜報によれば、私兵は牟婁郡に潜伏していたものの、突如として移動を開始。あまりの急な移動に、多くの物資を置き去りにしたという。しかし、その移動先はいまだ不明のままだった。一方、燕良州では以前まで統制を欠いていた勢力が、無相の帰還後、急速にまとまりを見せ始めた。地方官僚たちが燕良親王邸に頻繁に出入りし、宴席を共にする様子が目撃されている。これらの名簿は玄武の手を経て、清和天皇の御手に渡った。しかし、依然として首謀者不在の状態を示すのみで、淡嶋親王と無相を首謀者と断定するには至らなかった。天皇は玄武との協議の末、燕良親王を早急に燕良州へ戻す必要があるとの結論に至った。少なくとも、燕良親王の存在があの者の急速な勢力拡大を抑制できるはずだった。あの者が燕良親王から権力と資源を完全に奪うには、親王不在の今こそが好機だ。親王が戻れば、これまで築き上げた人脈や資源はすべて親王の手中に戻る。それを奪うには相当の手間と時間を要するだろう。天皇は燕良親王に勅を下した。傷の養生も十分であろうから、燕良州への帰還を命じる、という内容だった。燕良親王も今や矢も楯もたまらぬ様子だった。療養中もずっと燕良州の情勢を案じ、沢村家との関係修復に思いを巡らせていた。勅が下るや否や、榮乃皇太妃への暇乞いすら省き、家族を連れて都を後にした。肉体の不自由さと、あの方面での不能を抱えながらも、一時の落胆を経て、かえって闘志を燃やしていた。野心は昔からあったが、以前は体面を保ち、名分を重んじて天下を狙っていた。今では帰国早々にでも兵を挙げたい衝動に駆られていた。もちろん、時期尚早だと理解してもいた。今挙兵すれば、千々に引き裂かれる運命が待っているだけだ。だからこそ、まずは地盤の再構築に専念せねばならなかった。榮乃皇太妃付きの高松内侍は、恵子皇太妃に仕える高松ばあやを訪ね、母娘の情を繋ぐべく、影森茨子への品物を託すよう懇願した

  • 桜華、戦場に舞う   第1164話

    「そうだ」玄武は思い出したように言った。「以前、三姫子夫人から頼まれた件だが、五郎師兄は承諾したのか?」「お話はしたけど、まだ考えさせてほしいって言ってたわ」「この件を伝えてみてはどうだ?判断の材料になるはずだ。そもそも彼も三姫子が手放した資産を買い取っているのだから、西平大名家を助ける気はあるはずだ」さくらは一度頷いてから、首を振って訂正した。「西平大名家というより……彼を大切に思ってくれる人たち、そして子どもたちのためよ」日に日に新しい事実が明らかになるにつれ、さくらは当時の老夫人も親房展の計画に加担していたのではないかと考え始めていた。ただ、どこかで良心の呵責を感じ、楽章を訪ねたのだろう。そして楽章が焼死したと思い込み、その怒りを親房展に向けたのは、自身の罪悪感から逃れるためだったのかもしれない。それが、楽章と再会した時に作り話で許しを乞い、その後の境遇には無関心でいられた理由。補償を約束しながら、誰一人として様子を見に寄越さなかった理由。要は自分の心を慰めたかっただけで、手元で育てなかった子に対して、甲虎や夕美への愛情ほどの深い感情は持ち合わせていなかったのだ。「私が五郎師兄に会ってくるわ」さくらはそう告げた。話を聞き終えた楽章は冷ややかに吐き捨てた。「なんだと?邪馬台で贅沢三昧か?しかも子までできて、夫人だと?正室は何だ、世話女か?」「三姫子様はご存知だったからこそ、あのようなお願いをなさったのでしょう。五郎師兄、あとはあなたの判断次第よ」楽章は迷いなく答えた。「伝えてくれ。明日から始める。転換できる物は全て転換しろと。ことは表立って行う。大名家の出費が膨らみすぎて支えきれず、資産の売却に追い込まれたと、皆に知らしめるのだ」これで甲虎の本質が明らかになる。家族の生活など顧みず、側室との贅沢な暮らしに耽る男。これまで家から送られる金に頼り切り、今や家が立ち行かなくなり、先祖代々の資産まで手放さねばならなくなった、と。「分かったわ。すぐに粉蝶を遣わして伝えさせるわ」この手続きは、早くも遅くもなりうる事態だったが、役所に味方がいれば話は早かった。さくらは潤の叔父である沖田陽に助力を求めた。沖田が一声かければ、数日のうちに売買証書が手に入った。取引はすべて相場通りの価格で行われ、三姫子は帳簿も作らせた。売

  • 桜華、戦場に舞う   第1163話

    翌日になって、いわゆる「集合訓練」の正体が明らかになった。それは戦術訓練ではなく、農作業だった。九月は冬小麦の種蒔きに最適な時期。戦後の邪馬台では物資が不足し、度重なる戦乱で人手も少なく、兵士たちが農作業を手伝わねばならなかった。冬小麦の他にも、白菜、大根、瓜類も植えられた。「よい時期に来たな」許夫は守に言った。「農繁期の真っ最中だ」守は日の出から日没まで働き詰めだったが、それでも合間を縫って山田鉄男に手紙を書いた。京都では、その手紙を受け取った鉄男が首を傾げた。しばらく呆然と立ち尽くした後、頭を掻きながら考え込んだ。二人の仲がそこまで……手紙は三枚の紙にびっしりと埋め尽くされ、以前酒に酔った時の饒舌さを彷彿とさせる些細な出来事が綴られていた。元帥邸での様子が詳しく書かれ、その豪華さは親王家をも凌ぐほどだという。邸内は下僕たちで溢れ返り、まるで蟻の行列のように絶え間なく往来している。その中心には懐妊した女主人がいて、周りの者たちが蜜を運ぶ蜂のように世話を焼いているとのこと。その女主人の身の回りの品々は贅を極め、その装いは千金の価値があるという。農繁期の今は兵士たちが農作業に励み、訓練は後回し。皆が日に焼けて真っ黒になる中、元帥だけが豚のように白い肌を保っているとも。取り留めのない話の後に、西平大名夫人によろしくと伝えてほしいと書かれていた。そして自分も以前は同じ過ちを犯したが、他人が同じ轍を踏むのを見過ごせない、と延々と続いていた。鉄男はその底意を見抜いた。これらの情報を西平大名夫人に伝え、心の準備をさせようという魂胆だ。だが鉄男には余計なことに思えた。あの聡明な西平大名夫人が、甲虎の状況を把握していないはずがない。ただし、元帥邸の豪奢さと贅沢な暮らしぶりについては、上原殿に報告し、玄武様にお伝えいただく必要があるだろう。鉄男さくらに手紙を差し出すと、彼女は受け取らず「要点だけ話してください」と言った。鉄男は概要を説明し、続けた。「沢村夫人の件はさておき、元帥邸があれほどの贅沢な暮らしをしているのが気になります。西平大名家からの援助なのか、それとも軍費の……いや、まあ……民からの……その……」以前の率直さは影を潜め、狡猾な老狐のような物言いになっていた。さくらは特に何も言わず、すぐに玄武のもとへ

  • 桜華、戦場に舞う   第1162話

    甲虎は、おそらく守に十分な見せしめをしたと判断したのだろう。ようやく彼を呼び出した。邪馬台での二年に満たない月日で、甲虎は随分と体格が良くなっていた。肥満とまではいかないものの、虎の皮を敷いたひじ掛け椅子に座ると、二重顎が目立った。高みから守を見下ろす甲虎の眼差しには、威圧感が満ちていた。「夕美との一件は聞き及んでおる」甲虎は威厳に満ちた口調でゆっくりと語り始めた。「まあよい。お前のような凡庸な男は、わが妹には相応しくなかったのだ」守は目を伏せ、小さく返事をしただけだった。「ふん」甲虎は冷ややかに鼻を鳴らし、叱責を続けた。「まさかお前がこれほど役立たずとは。玄鉄衛副将の座すら失い、北條家には使い物になる者が一人もおらん。お前たちのような無能な屑どもの様を見たら、お前の祖父の御霊も浮かばれまい」守は黙ったまま額に青筋を浮かべた。「不服そうな面をするな。見てみろ、お前の将軍家からろくな者が出たためしがあるか?お前自身を見ても、一人の女にこれほどまでに翻弄されおって。三人の女に次々と手玉に取られ、男の面汚しよ」甲虎は今や意気揚々としていた。傍らには絶世の美女がおり、その腹には親房家の血を引く子が宿っている。それ以前も、この邪馬台の地では好みの女を思いのままに手に入れることができた。女たちが彼に取り入ろうとするばかりで、その逆などありえなかった。だからこそ、北條守など心底軽蔑できたのだ。十分に威厳を示したと思うと、甲虎は尋ねた。「都に何か大きな動きでもあったか?」「特にございません」甲虎は肘掛けをゆっくりと撫で、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。「そうか?ところで、お前は都を発つ前に三姫子に会ったか?」守は顔を上げた。「元帥様は西平大名夫人のことをお尋ねでしょうか?」甲虎は守を睨みつけ、その意図的な物言いを見抜くと、冷笑を漏らした。「なんだ?わが女をどう呼ぶかまで、お前に指図されねばならんのか?」「そのような意図はございません。ただ、『三姫子』とお呼びになる方を存じ上げませんでしたので、西平大名夫人のことかと確認させていただいただけです」「腰抜けめ。そこまで言っておきながら、認める勇気もないか」甲虎は心底軽蔑の念を込めて言った。だが、やはり西平大名家の様子は気になった。「そうだ、三姫子のことだ。親房家に何か

  • 桜華、戦場に舞う   第1161話

    ところが思いもよらぬことに、甲虎は守が邪馬台に来たことを知ると、自ら元帥邸の私兵として彼を指名した。元帥邸の私兵といえば、甲虎の外出時の警護や身辺の安全確保が主な任務だった。敵の刺客が主帥を狙って潜入することも少なくない。もっとも、親房の時代にはそのような事態は起きていなかったが、上原洋平や影森玄武が在任していた頃は、刺客の襲撃が絶えなかったという。甲虎は都にいる老夫人からの手紙で、北條守が親房夕美と離縁したことを既に知っていた。実の妹への思いはさておき、今の自分の立場からすれば、守のこの仕打ちは自分への挑戦であり、権威を蔑ろにする行為に他ならなかった。そこで守を呼び寄せ、水汲みや薪割り、掃除、庭の水やりといった雑用をさせ始めた。台所での配膳や給仕まで命じたのだった。守は無言で言いつけに従った。すでに塵にまで貶められた身、踏みにじられるような誇りなど何も残っていなかった。数日が過ぎ、元帥邸の隅々まで見て回るうちに、以前自分がいた頃とは様変わりしていることに気づいた。建物の外観こそ変わらないものの、中身は完全に様変わりしていた。かつては台所の女たち以外、ほとんどが男の職員で占められていた元帥邸。今では女官や侍女が数多く仕えており、さらには懐妊五、六ヶ月ほどの主母の存在も目にした。幾度か顔を合わせる機会があったが、元帥邸には人の出入りが多いため、彼女は薄絹の面紗を纏っていた。その面紗越しに覗く眸は魂を奪うような妖艶さを湛えていた。彼女の素性を詮索することはしなかったが、噂は自然と耳に入ってきた。屋敷の者たちの話によれば、彼女は元帥の平妻で、その座についてからは他の妾たちは皆追い払われ、元帥と共に邪馬台へ来た側室も何やら訳ありで亡くなったという。時折、下人たちの噂話に耳を傾けると、元帥が彼女を溺愛し、欲しいものは何でも与え、まるで天の月や星までも摘み取って捧げようとしているかのようだった。守は、彼女の身の回りの品々があまりにも贅を尽くしていることにも気づいた。高級な絹織物に身を包み、髪には豪奢な簪や玉飾りを煌めかせる彼女は、戦後の邪馬台にあって、贅沢な滋養品を水のように消費していた。つがいの燕の巣を朝夕二度も口にし、沐浴には羊乳と花びらを使い、それも毎日欠かさなかった。邪馬台では羊乳も花びらも手に入りやすいと

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