「小野さん。小野さんの退職届は社長に受理されたんですが、社長……それが小野さんのだとは気づいていないみたいで。一言伝えておきましょうか?」
電話越しに告げられたその言葉に、小野佳奈(おの かな)はゆっくりと視線を落とした。「結構です。そのままにしておいて下さい」
「でも、小野さんは4年も秘書として社長のそばにいたんですから、小野さんを一番信頼していたはずです。本当によろしいんですか?」
人事担当者がしきりに引き留めようとするが、佳奈はただ静かに微笑むだけだった。
「世の中に、どうしても一緒にいなくてはならない人なんていませんから。それに、実家の両親の体調も気になるし、お見合いの準備も進んでいるんです。このまま問題がなければ、1ヶ月後には引き継ぎが終えられるかと。お手数おかけします」
通話を終えると、佳奈は淡々と荷物の整理を再開した。
3年間この家で暮らしたが、生活必需品以外の物はほとんどない。
次第に物が無くなっていく部屋を眺めていると、昔の記憶が波のように押し寄せた。
8年前、田舎出身のどこにでもいるような女子大生だった佳奈は、H大学で東都の資産家令嬢である中川胡桃(なかがわ くるみ)と親友になった。
育った環境は違ったが、二人はすぐに打ち解け、授業も食事も買い物も、いつも一緒だった。
そうして胡桃によって彼女の暮らす世界に連れ込まれた佳奈は、胡桃の兄である中川英樹(なかがわ ひでき)と出会い、恋をした。
だが、その想いを佳奈は心の中にひっそりとしまっていた。
大学卒業後、胡桃は海外へ留学に行き、佳奈は英樹の経営する会社に就職し、秘書として彼を見守り続けた。
ある日、英樹が何者かに薬を盛られる事件が起きた。
すぐさま救急車を呼ぼうとした佳奈だったが、理性を失った英樹に壁際まで押され、深く情熱的な口づけを受けたのだった。
翌朝目を覚ますと、窓辺でタバコを燻らす英樹の孤独そうな横顔があった。
気配を察して振り返った英樹が、低く呟く。
「俺のこと、好きか?」
とっさに否定しようとする佳奈に対し、英樹は冷静に続けた。
「俺と会うたびに顔を赤くし、俺の好みを全部覚えていて、卒業と同時に秘書に応募……
偶然だとは言わせないぞ」
彼の言葉を聞いた瞬間、佳奈の顔は真っ赤に染まった。それが羞恥心からくるものなのか、自責の念からなのかは定かではないが。
沈黙の中で、英樹が一枚のカードを佳奈に差し出す。
「昨夜は事故だったし、俺には想っている相手もいる。だから君の好意には応えられないし、責任も取れない。それと、胡桃から君は経済的にあまり余裕がないと聞いている。この中には、不自由なく暮らせる分の金額は入れてある。わかるだろ?何もかも忘れろ」
呆気に取られている佳奈の脳裏に、昨晩英樹がずっと口にしていた女性の名が蘇る。
高木真白(たかぎ ましろ)。
胡桃によれば、真白は英樹が一生忘れられない初恋の相手だという。
たとえ真白が海外へ飛び去り、男を取っ替え引っ替えしていると聞いても、英樹は真白を信じ続け、その帰りを待っているのだ。
そんな英樹を、胡桃はかつてこう言っていた。
「うちの男たちは感情ってものを忘れたんじゃないかってぐらい、冷酷そのものなのに、なんでお兄ちゃんだけあんな一途なんだろうね。真白さん以外は妥協だなんて言って、本当に馬鹿みたい」
佳奈は改めてその言葉を噛み締め、立ち上がろうとする英樹の背中に叫んだ。
「お金なんていりません。だから、お願いです。チャンスをくれませんか?もし高木さんが帰って来なかったら……いや、帰ってきたとしても、まだあなたが彼女のことを忘れられないというのであれば……私は、ここから立ち去りますから」
まっすぐな愛に圧倒されたのか、英樹は数秒沈黙してから「勝手にしろ」とだけ告げて立ち去った。
それ以来、佳奈は昼間は有能な秘書として、夜は体の関係を持って、英樹を支え続けた。
社長室や高級車の中、そして邸宅の広いリビング。二人の影は数えきれないほど重なり合った。
4年が過ぎた。しかし、未だに誰一人としてこの関係を知らないまま、佳奈はただその幸せに浸りきっていた。
英樹の誕生日の前夜、佳奈はサプライズを準備して彼の帰りを待っていた。
しかし日付が変わっても帰ってこなかった英樹のインスタに、残酷な一文が投稿される。
【最愛の人が戻ってくるなんて、最高の誕生日プレゼントだ】
一度もインスタを更新したことがなかった英樹なのに、そこには花火を背景に真白とキスをする写真が載せられていた。
写真を見た瞬間、佳奈の顔からは血の気が引き、息も絶え絶えになった。
最後の希望を胸に、震える手で英樹に電話をかける。
電話はつながったが、聞こえてきたのは真白の声だった。
「ねえ英樹、小野さんって誰?英樹への電話だと思うんだけど、ずっと黙ってるの」
間もなくして、英樹の冷徹な声がスピーカーから響いた。
「どうでもいいやつだ。無視していいから。おいで、もう少し一緒に寝よう」
その瞬間、佳奈は自分が離れなければいけないことを悟った。
荷物もまとめ終わったので、この家から去ろうと思った矢先、玄関先で偶然にも英樹に鉢合わせた。
英樹とは毎日のように肌を重ねていたため、この家で暮らしていたが、真白が帰ってきた今、ここに残ることはもう許されない。
荷物を抱えた佳奈をじっと見つめ、英樹は引き止めることなく尋ねた。「家は決まったのか?」
「はい。1ヶ月だけ貸してもらえるように話をつけておきましたので、以前のアパートに戻ります」
英樹は眉をひそめた。「1ヶ月?なぜ?」
理由を言おうとした佳奈だったが、英樹はそれを聞くこともなく、素っ気なく言った。「送っていく」
断ろうとしても、英樹の意志は固かった。
「雪も酷いし時間も遅い。それに、君が何かあったら胡桃が悲しむからな」
佳奈は結局、車に乗り込んだ。
以前はあんなに求め合った場所なのに、今では別世界のようだった。
ぬいぐるみが溢れ、可愛い柄のカバーがかけられているうえに、あちこちにお菓子まで用意されている……
あの英樹が、恋人のためにこんな環境を許すなんて、佳奈は信じがたかった。
佳奈の驚きを察したのか、英樹は短く言う。
「真白の好みだ」
佳奈は少し黙ってから、消え入るような声で答えた。
「帰ってきてよかったですね。社長が嬉しそうで……何よりです」
予想外の反応だったのか英樹は目を細め、黙り込んだ。
道半ば、真白が英樹に「雪だるまを作りたい」と電話をかけてきた。
路肩でブレーキをかける英樹の目が、助手席の佳奈を見ながら迷っていた。
英樹が何に躊躇っているのか佳奈には分かっていたので、自らドアに手をかける。
「社長、私はタクシーで帰りますから」
英樹は頷くと、荷物の運び出しを手伝った。
佳奈の手が滑り、箱が落ちた。街灯の下に散らばった中身を見て、英樹は硬直する。
英樹宛ての渡せなかったラブレターの束、英樹を隠し撮りしたであろう写真、それに英樹が捨てたものまで……
これらを見られたことにより、佳奈はパニックになりながらも、それらを大急ぎで箱の中に戻した。
「すみません」
その後英樹は一言も発さず、車に乗り込んで去って行った。
極寒の夜の雪の中、タクシーは一台も捕まらない。
箱を抱えて歩き始めた佳奈だったが、不注意なバイクに撥ねられ倒れ込んでしまった。
足からは出血し、地面が赤く染まっていく。
走り去ったバイクを追いかける気力もなく、激痛と冷気の中ただ呆然と座り込んでいた。
足を引きずりながら、数時間かけてようやくアパートに辿り着いた。
処置を済ませスマホを見ると、英樹からラインが来ていた。
【誰か一人に執着するのはやめた方がいい。男なんていくらでもいるんだ。一人の男で人生を無駄にするな】
佳奈はその一文を、何度も繰り返し読んだ。
夜が明けた頃、佳奈は外に出ると、箱ごとすべての思い出を燃やした。
心を焦がし続けてきた8年分の熱い想いは、真っ白な灰へと消えていく。
英樹、あなたの望み通りにしてあげるから。