Home / ミステリー / 水鏡の星詠 / Chapter 31 - Chapter 40

All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 31 - Chapter 40

182 Chapters

声なき森と父母の行方 ④

 リノアとエレナが霧深い森を歩いていると、前方から杖をついた小柄な老婆が現れた。その隣に老婆に寄り添う形で、革鎧に身を包んだ背の高い女性戦士が腰に短剣を下げ、鋭い視線で周囲を警戒している。リノアと同じ年齢くらいだろうか。私よりは少し年上に見える。 老婆はリノアたちを見て立ち止まり、付き添う戦士もその動きに合わせて足を止めた。老婆の背は曲がり、濡れた白髪が顔に張り付いている。「お前たちも見に来たのかい? 森の変化を」 老婆のかすれた声が霧の中で響いた。 リノアはその言葉を聞いて、胸の奥にある違和感がさらに強くなるのを感じた。 森に足を踏み入れてからずっと森の異変を感じていた。耳を澄ましても、鳥や虫の声がまるで消え去ったかのように聞こえない。足音を立てても、それはすぐに霧に飲み込まれ、森に響くことはなかった。 リノアは足を止めて老婆を見つめた。 老婆の目には不安と鋭い洞察が宿っている。 付き添いの戦士は無言で手を短剣の柄に軽く添えている。しかし、それは二人を警戒しているからではないようだった。いつ周囲から何かが襲ってきても対応できるようにしている雰囲気を醸し出している。「うん、私たちも気づいてる。森の声が聞こえない。まるで沈黙しているみたいに……」 リノアと老婆が会話を交わすその隣で、エレナが弓を軽く握りしめながら周囲を見渡した。静寂に包まれた森は何かが潜んでいるかのような不気味さを帯びている。 エレナもだ。目の前の二人をまるで警戒していない。「こんなことは初めてじゃ。わしの村も周囲の村も森が沈黙し、人を狂わせ始めとる。いつもと異なることが起きる時、それは何かが動く兆しと思ったほうがええ」 その瞳には、長年生きてきた者だけが持つ深い知恵が宿っている。 老婆は言い終わると杖を突き、ゆっくりと歩き始めた。付き添う戦士がその後に続き、二人とも霧の中へと進んで行った。 老婆の姿が霧の中で不吉に揺らめき、戦士の革鎧が微かに軋む音が反響する。 「今の人たち、誰だろう? 村に行くみたいだけど」 リノアが呟いた。リノアの視線は霧の中へ消えていく老婆の背中を追っていた。「分からない……。でも何かを知っているみたいだったね」 エレナはわずかに首を傾げ、霧の向こうに目を向けた。その声には、どこか老婆の言葉が引っかかっている様子が滲んでいた。 霧の中を進
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

名家の宿命 ①

 霧を抜け、古びた門を潜った老婆と女性戦士はリノアの住む村へと足を踏み入れた。 二人が村の広場に差しかかると、見張り役のトランとミラがその姿を見つけ、すぐさま警戒の目を向けた。「何者だ! 止まれ!」 トランの若々しい声が響く。その言葉に老婆は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。「落ち着きなさい、若者よ。私はグレタだ。この村の村長であるクラウディアの古くからの友人だ」 かすれた声には落ち着きがあり、トランとミラは互いに視線を交わした。迷った末、ミラが広場の端に立つクラウディアのもとへ駆け寄った。「クラウディアさん、村に二人の訪問者がいます。一人はグレタと名乗り、もう一人は付き添いの戦士のようです」「グレタ……?」 クラウディアは眉をひそめた。「ミラ、二人をここに連れて来てちょうだい」 ミラの案内で、グレタと戦士の二人は村の広場を横切り、少し離れた位置に佇む古びた家へ向かった。道中、グレタは杖を頼りに足を進め、付き添いの戦士はその隣で一言も発さずに歩いた。「グレタさん、こちらです」 ミラがそう告げると、二人は家の前で立ち止まった。 クラウディアの家は他の村人の家と比べても特に造りが立派なわけではない。しかし、どことなく歴史を感じさせる。長年の風雨に耐えてきたのだろう。質素に見えるが、その空間に宿る厳かな存在感は他の家々とは異なるものがある。「クラウディアよ、出ておいで。話したいことがあるんじゃ」 老婆のかすれた声が扉越しに響いた。付き添いの女性戦士は無言のまま老婆の背後に立ち、鋭い視線を森の方に向けている。 沈黙の後、木戸がきしみながらゆっくり開いた。 中からクラウディアが姿を現す。七十歳ほどの年齢にもかかわらず、彼女の背筋はまっすぐ伸び、堂々とした姿には若々しさが感じられる。 クラウディアの顔立ちは、この村で生まれ育った者のものではない。特徴的な彫りの深さと異邦の香りをまとった表情は、彼女の過去に何らかの秘密があることを示唆していた。「クラウディア様、こちらの二人です。それでは失礼いたします」 ミラは軽く頭を下げた後、戦士に視線を移した。初めて戦士を目にした時からその雰囲気には圧倒されていたが、それが女性であることに気づいた瞬間、ミラはさらに戸惑いを覚えた。 女性戦士の表情には厳しさが刻まれ、その鋭い目つきがミラの心を突き刺す。
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

名家の宿命 ②

 グレタは杖を手にゆっくりと家の中へ足を踏み入れた。その背中には何かを解き明かさなければならないという強い使命感が漂っている。グレタは戦乱の後に村長を務めるようになった人物だ。「レイナ、お前は外で待っておれ」「はっ」 レイナは短く答えると、その場に足を固定したように立ち続けた。 レイナの動きには一切の無駄がない。いつでも動ける体勢が整っていることがはっきりと分かる。レイナの視線は依然として霧の中を鋭く見据えていた。霧の中で待機するレイナの影は静寂そのものと一体化しているかのようだ。 レイナの冷静さと緊張感が空気を引き締める中、家の中ではグレタとクラウディアの話が始まろうとしていた。 部屋は薄暗く、薬草の匂いが漂い、壁には古びた地図と乾いた薬草の束が無造作に掛けられている。 クラウディアがグレタの様子を伺っていると、グレタが低い声で切り出した。「わしの村では森の異変が人を狂わせ始めとる。星の光が弱まり、薬草の効能が薄くなってきた。植物が成長していないということじゃ」 グレタはクラウディアをじっと見据えたまま、言葉をさらに続けた。「あの戦乱の前もこんな感じじゃったな」「ああ、確かに似ている」 クラウディアは一言だけ返した。 グレタの目的が未だ見えない。目的が何なのか、それがはっきりと分かるまでは余計なことを話さない方が無難だ。「お前の村では名家の血を引く少女が動いとると聞いた。確かリノアと言ったな。シオンのことは……残念だった」 クラウディアはその言葉に反応し、表情を険しくした。「シオンの死まで他村に知れ渡っているとはね」「シオンは名家の子じゃ。それに村々での交流が続いておる。噂はすぐに広まるよ」 グレタの目は鋭く、クラウディアを探るようにじっと見つめている。 クラウディアは小さく息を吐いた。 村同士の繋がりが生む情報の流れ——それは理解している。腑に落ちないのは他村の者が訪れ、シオンの死を持ち出したことだ。「グレタ、何が言いたいの」 クラウディアはグレタをじっと見つめた。瞳の奥に宿る警戒心を隠そうともせず、わずかに顎を引いてグレタに問いかけた。 その声は冷静だったが、内に秘めた疑念がかすかに震えているようだった。クラウディアの視線はまるで一歩も引かない防壁のように鋭く、グレタの言葉の裏を探る意志が明確に表れていた。 クラ
last updateLast Updated : 2025-04-05
Read more

名家の宿命 ③

 クラウディアはテーブルの縁を強く握り、指先が白くなるほど力を込めた。 グレタの顔にためらいの表情が浮かぶ。グレタは静かに息を吐き、杖を握った手を緩めた。「『龍の涙』を狙う動きがあると聞いたんじゃ」 グレタは杖を地面に軽く突き、背を伸ばしてクラウディアを見据えて言った。「『龍の涙』は伝説に過ぎないと笑う者もおる。だが、わしはそうは思ってはおらん。シオンが死んだ事と、『龍の涙』を狙う動きが繋がっておるのではないか——わしはそう感じておる。わしがこの村の状況を探りに来た一番の理由が、それじゃ」 グレタの声には老いた声とは裏腹の揺るぎない力強さが宿っている。グレタは間を置かず。畳みかけるように続けた。「森が沈黙し、村々に異変が広がっておる。わしの村では木々が黒く枯れ、夜空から星が一つ、また一つと消え始めとる。人々は夢の中で叫び、目覚めても正気を失う。リノアとやらの星詠みの力が本物なら——その答えに近づけるかもしれん。この危機の中心に何があるのか、突き止めて欲しいのじゃ」 クラウディアはグレタの言葉を静かに受け止めながら、その真意を探る視線を向けた。 クラウディアの表情には緊張感が漂っている。内心で慎重に考えを巡らせている様子がうかがえる。「『龍の涙』だと? シオンの死がそのような言い伝えと繋がっていると言うのか?」 クラウディアの声が室内に鋭く響いた。 声の震えと共に滲み出る感情は抑えることのできない困惑と怒りを映し出している。その姿は、村の守護者である彼女の心の葛藤を如実に表していた。 グレタは目を細め、クラウディアの動揺を受け止めるように視線を合わせた。「そうじゃ。もはや『龍の涙』はただの言い伝えではない。わしの村を含め、いくつもの村でそれに纏わる異変が起きておる。シオンの死が直接それと結びついているとはまだ断言できん——じゃが、シオンはいつも森で研究しておった。関わっていないはずがないじゃろう」 その声には冷静さと確信が込められ、隠そうとしない姿勢がうかがえた。 クラウディアは拳を握りしめ、息を深く吸い込んだ。唇の震えを抑えながら、鋭い視線をグレタに向けた。「シオンが森で命を落としたことが、村の運命を変えた。それを否定するつもりはない。でもリノアを無理に動かそうというのなら、私には反対する理由がある。私は償うために、この村にやってき
last updateLast Updated : 2025-04-06
Read more

名家の宿命 ④

「償い? まあ、いい。お前にも背負うべきものがあるのは分かっておる。じゃが、その想いだけで未来を縛りつけることがあってはならぬ。それは、お前も分かっておるはずじゃ」 そう言ってグレタは眉をひそめ、次の言葉を慎重に選びながら考え込んだ。ランプの揺れる光が二人の表情を曖昧に映し出している。 グレタは目を細め、杖を握る手に再び力を込めた。「巻き込むつもりはない。だが森の異変は名家の血と切り離すことはできん。リノアがどんな力を持っているか、それを知らずに、この状況に目を背けておれば、いずれこの村も他の村も滅びることになろう」 クラウディアの視線がグレタを貫き、グレタの瞳が静かにその挑戦を受け止める。二人の間に漂う緊張が霧が濃さを増すように部屋を満たしていく。「クラウディアよ」 グレタが立ち上がり、ゆっくりと杖を動かした。「この異変はお前の村だけの話ではないんじゃ。シオンが亡くなったことで状況は、より急を要しておる。シオンが誰に殺害されたのか、『龍の涙』を狙っている者は誰か——それを知る必要がある。どうじゃ、力を貸してくれんか」 二人の会話を聞いていたかのように家の外で風が唸り声を上げ、窓枠を激しく揺らした。この対話の結論を森が待ち望んでいる......。 クラウディアは目を細め、考えを巡らせるようにグレタを見つめた。グレタの言葉は明瞭だ。嘘はついていない。 グレタの視線は揺るぎなく、クラウディアの反応を伺ったままだ。揺れるランプの光が陰影を作り出し、クラウディアの動揺を一層浮き彫りにした。 張り詰めた空気の中。クラウディアは深く息を吐き、そして窓の外に目をやった。心の奥底にある不安が波紋のように広がっていく。「シオンの死については……まだ不確かな部分が多い」 クラウディアは慎重に言葉を選びながら口を開いた。しかし思考の中にわずかに停滞が見られた。「勘の良いお前のことだ。何か思い当たる節がありそうじゃな」 グレタはクラウディアの動揺を見逃さない。杖で身体を支えながら、低い声で問いを投げかけた。 クラウディアは黙り込んで額に手を当てた。その沈黙は部屋の空気をさらに重くし、二人の間に漂う緊張感を一層深めていった。 窓越しに見える霧が、まるで森全体を覆いつくそうとしているかのように揺れている。それは静かに、しかし確実に二人を取り巻く状況の深刻さを強
last updateLast Updated : 2025-04-07
Read more

名家の宿命 ⑤

「思い当たることが、ないわけではない……」 その声は沈み、重みを持って部屋に響いた。言葉の端に滲むためらいが、クラウディアの内なる葛藤を露わにしている。 クラウディアは窓の外に視線を移し、揺れる霧をじっと見つめた。その霧の奥には、あの日シオンが命を落とした森が広がっている——血の染みたスカーフが風に揺れ、彼の最期の叫びが木々に吸い込まれたあの場所が。 グレタは杖に体重を預け、じっとクラウディアを見つめた。グレタの姿勢は穏やかだが、そこには次に紡がれる言葉を一言も聞き逃すまいとする執念が漂っている。老いた体に宿るその気配は、まるで猟犬が獲物の匂いを追うような鋭さを持っていた。 クラウディアはゆっくりと手を額から下ろし、深く息を吸い込んだ。彼女の目の奥に宿る迷いは消えてはいない。むしろ霧のように濃さを増している。「シオンの死の裏には……確かに何かが隠されている。だが、それを口にすれば、この村に更なる影が落ちる。深く絡まった闇を解きほぐすことが、この地にどのような影響を及ぼすのか。その危険を想像するだけでも恐ろしい。もう私たちの村は戦えるだけの戦力はないのだ……」 クラウディアの声は、まるで空気そのものを緊張で満たすかのように部屋に染み渡った。 グレタは杖を握る手に力を込め、険しい表情で口を開いた。「お前が恐れとるのはシオンを狙った者の影だったんじゃな。戦力がないのは、わしらの村も同じじゃよ。そして恐らく他の村もな。あの戦乱の後、戦力を削がれたのは、お前の村だけではないのだ」 グレタは杖を握り直し、その目をクラウディアへ鋭く向け、そして続けた。「クラウディアよ。お前の気持ちは良く分かる。だが、目を背けたところで、その影が消えるわけではないじゃろう。 影を恐れるだけでは、森の奥で立ち尽くすだけじゃ。わしらは進むべき道を見定めなければならん、それがどんなに険しくてもな……」 グレタの声は霧を切り裂く刃のようだった。 霧の向こうに浮かぶ森の影が、クラウディアの記憶を抉るように揺れている。 シオンが亡くなったあの日、クラウディアの目に焼きついたのは、シオンの遺体が横たわる静寂の中に漂う、戦いの激しさと無念さだった。 その光景を目にした時、クラウディアはシオンが村を守るために命を落としたのだと直感的に悟った。その確信は、シオンの最期を思い描くたびに鮮明
last updateLast Updated : 2025-04-08
Read more

名家の宿命 ⑥

「名家の者たちは『龍の涙』を巡って争っておるが、一部の賢い者は気づき始めとる。村同士で争えば、互いに疲弊するだけじゃとな。誰かが名家の力を削ごうとしとるのかもしれん」 グレタは眉間にしわを寄せて言葉を紡いだ。 クラウディアはグレタの言葉を聞いて、考えを巡らせた。「争いの混乱に乗じて、誰かが更なる力を得ようとしている。村同士の争いを好む者たちがいるのは確かだ……。グレタ、私はあなたもその一部だと思っている」 クラウディアは拳を握りしめ、冷たい瞳でグレタを見据えた。その声には底知れない冷ややかさが滲んでいる。 グレタは一瞬眉をひそめ、顔を硬くしたが、すぐに冷静さを取り戻して反論した。「わしが争いを望んえいるとでも思っておるのか? 長きにわたってこの目で見てきたのは、争いがいかに村を弱らせるかじゃ。わしはそれを止めるために動いとる」「本当にそうかしら。名家の力を削ぐなどと口にしながら、リノアを巻き込もうとするなんてね」 クラウディアの声が鋭く響き、部屋の空気が張り詰める。「リノアの力を必要としとるのは事実じゃ。しかし、決してリノアを利用するという意味ではない!」 グレタは杖を強く突きながら声を張り上げた。その瞳には真剣さと苛立ちが宿っている。グレタが続ける。「お前もわかっておろう、森の異変にこのまま目を背けておれば、村の全てが危機に瀕することを。なのに、お前は何もしないつもりか!」「何もしないわけではない。私の行動が村全体をどう変えるのか——それを熟考してから動くつもりだ」 シオンを失った今、リノアまで失うわけにはいかない。事は慎重に進めなければ……。「そんな悠長なことを言っとる場合か。時間は刻一刻と迫っておるんじゃ」「村人たちのため。そう言えば聞こえは良いが、結局、権力を持った者たちがこれまでしてきた事と何一つ変わらないわね。あの戦乱で一体、どれだけの人たちの命が奪われ、傷ついたと思っているの。行方不明になった人も多い」 リノアの両親も未だに行方が分からないままだ。「わしは老いぼれた。もう先は長くはない。利益なんぞ欲してはおらん。リノアがこの村だけではなく、わしらの未来を握っていることは紛れもない事実なんじゃ」 グレタは杖を強く握りしめ、クラウディアを真剣なまなざしで見つめた。「未来? その未来を決めるのはリノア自身よ。あなたの言葉
last updateLast Updated : 2025-04-09
Read more

名家の宿命 ⑦

 クラウディアの言葉は鋭く、まるで刃のようにグレタに突き刺さった。 緊張感が頂点に達しようとしたその時、不意に家の外から女性の声が響いた。「グレタ様、どうかなさいましたか?」 グレタとクラウディアは互いの視線をぶつけ合ったまま黙り込み、その言葉の主に意識を向けた。声の主はレイナだ。家の外で待機していたレイナが部屋の中の不穏を感じ、声を掛けてきたのだ。 革鎧の軋む音が霧に溶け、緊迫した空気が一瞬だけ緩む。「レイナ、心配はいらん。少し下がっておれ」 グレタはレイナの方へ視線を向けずに言った。グレタの声にはまだ怒りの余韻が残っている。 部屋に沈黙が広がり、霧の向こうで風が木々を揺らす音だけが聞こえる。レイナは足音も立てずその場から離れる気配を見せない。 レイナはグレタの命令に従うように見せつつも、ドアからは完全には離れず、何かあれば即座に介入できるよう身構えている。クラウディアはそう感じた。 外で待機するレイナの存在が張り詰めた空気にさらなる重圧を加える。 しばらくして、クラウディアが口を開いた。声は先ほどより落ち着いており、どこか疲れを含んでいる。「グレタ、あなたの言う危機は重々、理解している。私も森の異変を感じているからね。だが、リノアを危険に晒すような決断は、まだ下すことはできない」 裏で動く存在の挑発に乗るのは、まだ早い。相手は私たちを動かそうとしているのだ。「相変わらずじゃな。自分が納得しない限りは、決して動こうとはしない。お前らしいとは思う。わしには問題を先送りにしているようにしか見えんがな。クラウディア、いずれその重さに耐えきれなくなる日がきっと来るぞ。わしはわしで単独で動かせてもらう」 そう言って、グレタは杖を手にして、クラウディアから背を向けた。「勝手にすればいい。私がリノアを守る意志は変わらない。それだけは覚えておくことね」 グレタは振り返ることなく、杖を突きながら歩いて扉を開けた。「行くぞ、レイナ。時間は待ってくれん」 レイナは扉を閉める前にクラウディアを見ると、軽く頭を下げた。その仕草にはクラウディアに対する敬意が込められている。 扉が閉まる音が部屋に小さく響き、霧の気配が再び静寂を満たした。レイナは迷いなくグレタの後ろへ歩を進め、そして周囲に目を走らせた。 血気盛んな戦士にしては珍しいタイプだ。動作一つ一
last updateLast Updated : 2025-04-10
Read more

名家の宿命 ⑧

 一人残されたクラウディアは、部屋の片隅に目を遣った。そこにはシオンとの思い出の品々が並んでいる。今となっては、どれも大切な形見だ。 シオンは人に恨まれるような人間ではなかった。それなのに彼は殺された。シオンは間違いなく誰かに殺されている。 シオンの死がもたらしたものは、想像以上に大きい。クラウディアは改めてその重さを痛感した。 グレタの言葉が頭から離れない。『リノアが未来を握っている』『名家の力を削ごうとする存在』『龍の涙』が絡むなら、この村だけの問題では済まない。このままでは一方的に蹂躙されるだけだ。「私は何をすべきか……」 呟きが静寂の中に消えていく。「星詠みの力……」 クラウディアは心の中でリノアを思い浮かべた。「リノアの力はいずれ必要になる。私が道を指し示すべきか。それとも……」 道を誤れば、リノアの未来も村々の未来も揺らいでしまう。そのことを考えると胸の奥に疼くような痛みが走る。しかし目を背けるわけにはいかない。 クラウディアは目を閉じ、思考を巡らせた。 エレナも立派に育っている。今のエレナならリノアを支えることができるのではないか。しかもシオンが生きていた頃から二人の絆は深い。あの二人なら、きっと大丈夫だ。 薬草の香りが微かに漂う中、ランプの炎が揺らぎ、壁にかかる古い地図に影を落とした。 森が私たちに語りたがっているもの——それを理解しなければならない。迷っている時間はもうない。すでに事態は動き始めている。 この流れを止めることは、もはや誰にもできないのだ。 窓の外で霧が揺れ、森の奥から低く唸るような音が響いた。クラウディアの耳にその音が届き、背筋に冷たいものが走る。 クラウディアは息を深く吸って、気持ちを整えた。窓の外に広がる薄暗い空を見つめながら、ゆっくりと考えを巡らせる。 あの戦乱の最中、私は命からがら追ってから逃げた。仲間を見捨てて……。 リノアの両親がどこへ消えたのか、このまま曖昧にしておくわけにはいかない。きっと、今もどこかで生きているはずだ。名家の血が運命の歯車を動かすというのなら、私も動こう」 クラウディアは拳を軽く握りしめた。 クラウディアは立ち上がると、壁に掛けた厚手のコートに手を伸ばした。しっかりとした作りのそのコートは、冬の冷たい空気を遮る頼もしさを持っている。 クラウディアはコー
last updateLast Updated : 2025-04-11
Read more

名家の宿命 ⑨

 冷たい風が吹き抜ける中、クラウディアは足元の霜を踏みしめながら広場へと進んだ。視線の先には森をじっと見据え、森を見張っているトランとミラの姿がある。 戦乱が終わって以降、村人たちは自然の調和に守られながら穏やかに暮らした。その為、この村では森を見張る習慣はなくなっていた。しかし、それはシオンが亡くなる数週間前までの話だ。 シオンが亡くなる少し前から起こり始めた森の異変……。 村人たちは当初、単なる季節の移り変わりだと思っていた。しかし成熟する前に果実がしぼみ、井戸水の味が変わり始めた頃には、目の前で起きる現実を無視することができなくなった。 森には得体の知れない気配が漂い始め、森の奥深くからは唸り声にも似た不気味な音が聞こえる。その音は森そのものが苦しみを訴えているかのようであり、村人たちの間では「あれは亡霊の叫びだ」という噂が瞬く間に広がった。 村のあちこちで家畜が突然暴れ出すことや、夜空を貫くような雷鳴が響き渡ることに関しては、それまでも時折、起きていたことではあった。しかし、それすらも現実の外側からやってくる何者かの仕業とされた。 それでも誰もそれを確かめに行こうとはしなかった。変化の兆しを感じても、村人たちはただ不安に囚われ、遠巻きに森を見つめるだけ。ただ、シオンを除いては……。 森の奥深くに入ったシオンが何を見たのか、そして何を知ったのか、今となっては誰にも分からない。 危機感を抱いたクラウディアは、村の広場に見張り役を立てるよう指示した。森の異変に村が脅かされている現状に対し、何かが侵入してくる可能性を考慮せざるを得なかったからだ。 思考が過去の出来事を振り返る中、クラウディアは冷たい風に頬を撫でられ、意識を現実に引き戻した。 張り詰めた空気の中でクラウディアは改めて視線を広場に戻し、まるで見えない手が村の中心を押さえつけているような圧迫感を感じ取った。気温は低く、肌を刺す冷たさが身にしみる。 クラウディアは広場の端に立つ見張り役の二人、トランとミラのもとへ歩み寄った。霧がわずかに晴れ、薄光が広場を淡く照らしている。「クラウディア様、グレタさんは村を出る前、少し遠くを見て、何かを考えているようでした。そのまま来た道を戻るのかと思っていたら、別の方向に……」 トランが一歩前に出て、慎重な口調で答えた。「あのグレタって人、目的
last updateLast Updated : 2025-04-13
Read more
PREV
123456
...
19
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status