幼い頃、森で過ごし、自然との深い結びつきを感じていたリノア。しかし成長と共に、その感覚が薄れていった。ある日、最愛の兄、シオンが不慮の事故で亡くなり、リノアの世界が一変する。遺されたのは一本の木彫りの笛と星空に隠された秘密を読み解く「星詠みの力」だった。リノアはシオンの恋人エレナと共に彼の遺志を継ぐ決意をする。 星空の下、水鏡に映る真実を求め、龍の涙の謎を追う。その過程で自然の多様性に気づくリノアとエレナ。 希望と危険が交錯する中、彼女たちは霧の中で何を見つけ、何を失うのか? 星が導く運命の冒険が今、動き出す。
View Moreリノアは幼い頃、初めて自然の声を聞いた。それは母親と一緒に森を訪れた日のことだった。森の奥深く、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む場所で、リノアの母はリノアの手を引きながら歩いていた。
「リノア、ここで少し待っていて。お母さんが戻るまで動かないでね」
母の声は優しかったが、どこか切迫した響きを帯びていた。母はリノアを太古から存在するオークの木の根元に座らせ、膝に手を置いて微笑んだ。
「お母さん、どこに行くの?」
リノアが尋ねると、母は首を振って答えた。
「すぐ戻るから、ここで待っていて。約束だよ」
そう言って、母はリノアに背を向け、木々の間へ消えていった。背中が遠ざかるにつれ、リノアの小さな胸に不安の波が寄せ始めた。
リノアはその言葉を守り、静かに待ち続けた。
太陽が少しずつ傾き、森に長い影が伸び始める。オークの木の根はごつごつしており、苔の柔らかな感触が彼女の手をくすぐった。
鳥のさえずりが遠くに聞こえ、心地よく感じる。しかし母が戻って来ないことで、リノアの心の中に不安の感情が芽生え始めた。
「お母さん、どこ?」
リノアが小さな声でつぶやく。
涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、リノアは周囲を見回した。森は静かで、ただ風が木々を揺らす音だけが響いている。母の気配はない。
「お母さん!」
我慢しきれず、リノアは立ち上がり、母が消えた方向へ駆け出そうとした。その瞬間、耳元で声が響いた。
「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」驚いたリノアは足を止め、辺りを見回した。
「誰?」
姿が見えない。風の音と川のせせらぎなど、自然の音だけが聞こえる。
聞いたことのない声だ。だけど温かくて、どこか懐かしい響きがする。
「もう少しだけ、ここにいて」
声が再び森に響き渡った。姿は見えないが、確かにそこにいる。リノアは目を細めて周囲を見回したが、やはり何も見つけることはできなかった。
「どうして? お母さんのところに行きたい」
リノアが訴えると、声は静かに答えた。
「ここにいたら安全だから。僕たちが君を守ってあげる。お母さんも心配しなくて良いよ」
その言葉にリノアは不思議な安心感を覚え、彼女は再びオークの根元に座り込んだ。
目の前には小さな川が流れ、水面が陽光を反射してキラキラと輝いている。
リノアは手を伸ばし、水にそっと触れた。ひんやりと冷たく、柔らかな感触が指先に広がっていく。
「あっ」
小さなリスが木の陰から顔を出している。一緒に遊びたいのかもしれない。リノアをじっと見つめている。リノアの唇に小さな笑みが浮かんだ。
「大丈夫みたいだ。ここでお母さんを待ってよう」
彼女はそう呟いて、身体を自然にゆだねた。木々のざわめき、川のせせらぎ、風のそよぎ―― それら全てがリノアを優しく包み込んだ。
風が、まるで歌を唄うような音を立てている。
だが、その平和な時間は突然の異変によって破られることになった。村の方角から火の手が上ったのだ。黒い煙が空に広がっていく。
苔の上に残された足跡は、小道の外れで唐突に途切れていた。周囲に踏み荒らされた気配はない。だが、空気がわずかに淀んでいる。その微かな違和感をリノアは見逃さなかった。風が止み、葉が揺れるのも止めている。森がひっそりと呼吸を引き取ったような沈黙──リノアは足を止めて、耳を澄ませた。足音すら音を拒むほど、空気が張り詰めている。──何かがいる。その気配は確かに、そこにある。だが姿を見せない。リノアは心を静め、その何かへ意識を深く沈めた。音でもなく、振動でもない。リノアが探っているのは、場に潜む歪みだ。森が沈黙を抱えている中、ある一点──空気の流れが不自然な箇所がある。周囲と同じ静寂に包まれているはずなのに、そこだけが異質だ。流れに逆らうように、空気がわずかに淀み、そこに気配の渦が巻いている。目に見えない緊張が張られた膜……リノアの意識が膜に触れた瞬間、気配が動いた。──相手もこちらの存在に気付いている。動物的な察知というよりは、もっと深い領域……葉の間で空気が揺らいだ。森の静けさが反転し、静寂に隠れていた何かが蠢き出す。騒めき立つ森たち──姿は見せずとも、その存在感は空気を押し分けるほど鮮やかだった。相手はもう隠れる気はない。お互いの呼吸が自然と重なり、気配の間合いがゆっくりと詰まってくる。リノアの立つ領域へと、ゆっくりと確かに。リノアは一歩も動かず、じっと相手の出方を伺った。相手も、どこかからこちらを見ている。沈黙の中、リノアがそっと腰に手を伸ばした。鉱石に指先が触れる──その冷たい感触がリノアの呼吸を静め、心を芯から研ぎ澄ませていった。手を握りしめたまま、リノアは視線を動かさない。その時、ひとひらの葉が音もなく舞い降りた。それが触れた地面の、ほんの僅かな震えが、気配の在処を告げる。──そこだ。リノアは目を開け、ゆっくりとその方向へ意識を向けた。視線の先、木々の狭間に黒い影が揺れた。どこからともなく冷気が滲み出し、リノアの足元を縛りつけるように広がっていく。その何かは音を立てずに現れた。まるで森の闇そのものが形を持ったかのように。リノアは鉱石を握る手に力を込めた。しかし、動くことができなかった。膝が震え、喉の奥に冷たい息が絡みつく。
リノアはゆっくりと立ち上がり、湿った空気の中に身を滑り込ませるようにして、苔の張りついた小径を進み始めた。 森と水路が織りなす迷路のような禁足地、フェルミナ・アーク。その深部で誰も知らない気配がまた一つ動き出していた。──エレナは一体、どこに行ったのだろう。 リノアは周囲を見渡した。 影に囚われていたはずのエレナが、どこにも見当たらない。 代わりに残されていたのは湿った地面に刻まれた足跡── この禁足地に私とエレナ以外の人間がいるとは考えづらい。これはエレナの足跡と見て良いだろう。──軽やかで、迷いのない足取りをしている。 リノアは残された足跡を見つめながら考えた。 影に囚われていたエレナ── 何らかの方法でその束縛から逃れたのだろうか。あるいは影を倒した後、新たな敵が出現し、追われでもしたか…… リノアは足跡を頼りに慎重に歩を進めた。 苔むした地面に残る微かな乱れ、湿った空気に溶ける人の気配。それらが誰かがここを通ったことを示している。「エレナ……」 リノアは何度も名前を呼んだ。 しかし、どこからも返事はない。声は枝葉の隙間をすり抜け、森の奥へと吸い込まれていくのみ。 残るのは、沈黙だけ…… 影に囚われていたエレナ──その光景が脳裏に焼き付いて離れない。 あの時に見たエレナの穏やかな表情。 安らぎに見えたそれは、実際には違っていた。 苦しみから目を背けさせるために巧妙に織られた幻想。影が見せた偽りの映像だ。 本当の幸せを掴んだわけではない。 エレナはその仮面を纏わされたのだ。 森は沈黙したまま、全てを呑み込んでいる。 エレナの声も、足音も、記憶さえも──そのすべてが、この場所では意味を失っているかのように…… そっと息を吐き、リノアは指先で湿った苔に触れた。 そのひんやりとした感触が、“今ここにいる”という失いかけている感覚を、ゆるやかに呼び戻してくれる。 過去の痛みも、哀しみも、まるで無かったことにするかのような都合の良い世界。 だけど、そこからエレナは抜け出した。 影が織り上げた仮初めの安息を振り払って、自らの足で踏み出したのだ。 それを証明するように、苔に刻まれた足跡が残っている。 迷いのない歩幅、ためらいを感じさせない軌跡。足跡の深さ、その向き、歩幅……そのすべてが物語っている。 誰かに導か
「グレタは村を統べる立場の者だ。その人物が禁足地に自ら赴くなど常識ではあり得ない。だがグレタは足を踏み入れた。そこまでして、果たさねばならない目的があったということだ」 男の言葉にアリシアが息を呑む。「肝心のグレタたちの足取りだが、残念ながら途絶えてしまった。グレタたちも足がつかないように様々な手を施しているということなのだろう」 男は少し間を置いた後、声の調子を変えて、再び言葉を発した。「ただヴィクターだけは別だ。こいつはどうも別行動を取っているみたいだな」 アリシアは地図に視線を落としたまま、男の言葉に思考を巡らせた。 グレタたちの足取りが途絶えたという報せは、耳にするだけでも冷たい不安を呼び起こす。だが、ヴィクターだけが別行動を取っている──その情報は、安心とは呼べないまでも、わずかに張りつめた感覚を和らげてくれた。 もしヴィクターが本当に別行動を取っているのなら、グレタの計画から距離を置いている可能性がある。 それだけでも、入り組んだ状況にほんの少し希望の光が差し込んだように感じられた。 危険の中心にいるのは、あくまでグレタ── ヴィクターの行方が明らかになれば、混迷する状況に手を掛ける糸口になるかもしれない。「そうなると、グレタは、またエクレシアに舞い戻ったのかもしれないってことね」 アリシアは誰ともなく言葉を漏らした。 アリシアの問いに、男はしばらく無言のまま思案を巡らせた。椅子に身を預けたまま、視線をどこにも向けず、言葉を選ぶように沈黙が落ちる。 しばらくして、男は何かを確かめるように口を開いた。「……仮に戻ったとしたら、厄介なことになりそうだな。グレタは目的を果たすために、より深部へ踏み込んだのかもしれない。エクレシアで何らかの手がかりでも得たか……」 その声には可能性を慎重に織り込む冷静さと、避けがたい予感が潜んでいる。 男の言葉を受けたアリシアは、胸の奥にじわりと広がる不安を感じた。冷たいものが胸元を這うように広がっていく。「最悪の展開として考えられるのは……グレタがラヴィナとの接触を試みている可能性だ。グレタの目的次第では状況が一変する。あらゆる均衡が一気に崩れ始めるだろう」 男は身じろぎもせず、視線を真っすぐに保ったまま言葉を続けた。その静けさの奥には、差し迫る危機を見据える鋭い緊張が潜んでいる。「既に
男はしばらく黙っていたが、短く息を吐いた後、言葉をこぼした。「そうか……すまんな。余計なことを聞いた。俺としても、この地を蹂躙するような連中を心良く思っちゃいない。協力はさせてもらう」 ほんの一拍置いてから、男は続けた。「それで……リノアとエレナってのは、腕は立つのか?」「それなりに戦えるはずよ」 エレナは弓を自在に操る腕前を持ち、遠距離からの精密な射撃で敵を翻弄する。彼女の視線は常に冷静で、狙った獲物を逃すことは滅多にない。恋人のシオンが森の奥深くの危険地域に足を踏み入れる時は必ず帯同していたほどだ。 その一方でリノアの能力は未知数だ。 本人も気づいていない特異な力が備わっているのは確かだが……。 時にリノアは周囲に奇妙な違和感を生じさせ、見る者の認識をかき乱した。 リノアと行動を共にし、それを肌で感じたことが何度かあったのだ。 ある日、風のないはずの森で、木々の葉が急にざわめいたことがあった。 何か、おかしいと思った次の瞬間、足元の土が波のように揺れ、目の前の視界に異様な光景が広がった。 風景の一部が別の層にずれたような錯覚——いや、錯覚と呼ぶにはあまりに確かな異常だった。 液体のように揺らめく空── 突如として数十もの蝶に変わり、空高く舞い上がった一頭の獣── その蝶たちは重力を拒むように空へ広がり、森の色彩さえ塗り替えていった。 あれは一体、何だったのだろう。森そのものが、リノアの存在によって再構成されているかのようだった…… リノアは何事もなかったかのように平然としていたが、あれは紛れもなく現実だった。幼い頃の体験とはいえ、あれが夢であるはずがない。 あの時、確かに私はリノアに何かを見せられた。「さっきも言ったが、ラヴィナはこのアークセリアにとって重要な位置を占めている人物だ。フェルミナ・アークに入ったすべての者が彼女に辿り着けるわけじゃない」 男は身体を椅子に預けたまま言葉を紡いだ。 その声は淡々としているようでいて、どこか警告のようにも聞こえた。「ラヴィナに辿り着くまでには、いくつもの試練が待っている。しかも屋敷に辿り着けたとしても、そう簡単に会えるわけではない。まずは召使いの一人に会って認められること。それがラヴィナと会うための最低条件となっている」 静寂が再びふたりの間に落ちる。 それは、道のりの険
「すでに動き出した者がいるが、あれは君たちの仲間か? 二人の女がフェルミナ・ア―クに入ったと報告を受けている」 空気の膜を押し破るように男が口を開いた。「ええ、そうよ」 アリシアは声色を変えずに答えた。 アリシアの動きは最小限だった。微細な表情の変化も、言葉を継ぐ間の沈黙も、すべてが意図的に抑えられている。 必要以上に情報を渡すつもりはない。アリシアの態度に、それは現れていた。「その二人はラヴィナに会いに行ったらしいな」 男は少し間を置いて話した。「ラヴィナ?」 その名に聞き覚えはなかった。 予想外の問い返しに、男の表情がごくわずかに変わる。「……何だ、知らないのか」 男はあざけたわけではない。意外そうな表情をしている。 鉱石に関心がない──。きっと、そう受け取ったのだろう。そして、フェルミナ・アークを巡る鉱脈の事情や、アークセリアに広がる自然破壊の問題についても、私がほとんど把握していないことが、男に伝わったはずだ。 アリシアは言葉を返さなかった。 実際にラヴィナの名も、アークセリアの成り立ちやその歴史も、実のところ詳しくは知らない。 思い返せば、ここに来るのは舞踏会の招待に応じる時くらいで、深く関わる機会もなかった。 そんな私の反応を男は意外に思ったのだろう。「ラヴィナってのはフェルミナ・アーク及び、その周辺を統括する管理者だ。この地に眠る希少鉱石の流通や保護について、誰よりも精通している。だから自然破壊には人一倍、敏感だ。今は気が気ではないだろうよ。彼女の判断一つがこの地域の均衡を左右すると言われている。それほどの影響力を持つ人物だ」 男は椅子にもたれたまま、正面に立つアリシアを見上げた。 視線に動きはない。だが言葉の一つ一つが、その眼差しと共に体温を奪うように響いてくる。「一つ聞いてもいいか?」 男の言葉の奥には、興味以上のものが含まれている。「君たちは自然に関心があるわけじゃなさそうだな。だったら、どうしてヴィクターを追うんだ? そいつが、ここで何しようが関係ないはずだが」 その声に感情はない。ただ論理の綻びを指摘するものだった。「関心がないわけではないけど、正直に言って、それが理由ではないわ」 アリシアは短く息を吐き、男の目を真っすぐに見返した。 懐かしさとも痛みともつかぬ感情が、その瞳の奥に宿る。
リノアの瞳はまだぼやけていて、意識の端には霧のような余韻が残っていた。 混乱は消えず、胸の奥には、まだ焼け焦げた記憶の残響が渦巻いている。 涙は流れず、身体の感覚もまだ鈍いままだ。だけど、この感覚は何だろう? 胸の奥を締めつけていた重苦しいものが消えている。 リノアは心が軽くなっていることに気付いた。 燃えたのは身体ではなく、記憶? …… もしかしたら私が見たのは、あの時の選択が導いた、もう一つの未来だったのかもしれない。 オークの木の下で待ち続けなかった、その先に広がっていた運命の断片…… 父と母は決して私を捨てたわけではない。 必死に、守ろうとしてくれていたのだ。 リノアは、ようやく気づいた。 あの時、母の言葉を守って待ち続けたという選択は、間違いではなかったということに。 幼い頃のあの日、母は確かにオークの木の下へ私を連れていった。 安全な場所に残して、ひとり静かに立ち去り、戻って来なかった、その理由── あの映像が示していたものが真実だとすれば、答えは明白だ。 母は父と共に何者かに捉えられていたのだ。 幼かった私は、それが見捨てられたことのように感じてしまった。けれど今は違う。 あれは母が私を守るために選んだ、最後の手段だった。あの選択の中に、どれだけの決意と苦悩が込められていたのか。今なら、分かる。 記憶の縁に浮かんでくるのは、両親を捉えたあの者たちの姿── 森を無残に切り裂いていた人影たちとは異なる。 彼らの纏っていた服には見覚えがあった。 くすんだ紋章、生地に刻まれた古びた意匠── それが何を意味するかを、物心ついてから学んだ書物や人々の語りの中で、リノアは知っていた。 それは、戦乱の時代に争った者たちの装束にほかならない。 彼らはかつて、猛威を振るい、多くの民に恐れられていた。 戦いが終わった後、彼らの勢力は拡大の途を遂げ、存続していくものと見られていた。 しかし、火種は外にはなかった──それは内側に潜み、静かに燻っていたのだ。 戦後、彼らの中で始まった激しい権力争いは、組織の骨を砕き、やがて崩壊へと導いていった。 権力争いに敗れて歴史から消えたはずの集団。 今となっては、誰もが彼らは滅びたと信じている。 しかし本当に、そうだろうか? 最近、森の奥に見かけるようになった人影。 ひと目では
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