Semua Bab 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。: Bab 11 - Bab 20

21 Bab

春樹と昭江、静かな再会

台所の奥、薄く翳った障子窓から斜めに光が差し込んでいた。冬の午後、陽が傾き始めると、空気の色も音の響きも、どこか柔らかさを帯びる。湯気の立つ急須に手を添えながら、昭江は静かにお茶を淹れていた。急須の蓋がわずかに鳴る。白い湯気が立ちのぼるたび、台所の中に煎茶の香りが広がっていく。湯呑を並べる動作もどこか慎重で、微細な動きのなかに、歳月が染み込んでいた。そこへ、足音もなく春樹が現れた。戸口に立ち、数秒だけ昭江の背中を見つめていたが、やがてふっと息を吸うと、無言のまま台所に入り、空いている湯呑のひとつに手を添えた。驚いた様子もなく、昭江はちらりと目をやる。それだけで、お互いの距離がわずかに近づいた気がした。「お茶、お好きでしたよね」春樹がそう言いながら、棚から茶托を取り出す。声はいつも通り低く、静かだったが、その響きにはどこか懐かしさが含まれていた。「春樹くんは……相変わらず、手がきれいね」昭江がつぶやいた。春樹は軽く笑った。その笑みには照れも驚きもなく、ただ静かな喜びがあった。湯呑を茶托にのせながら、春樹はふと視線を下ろすと、指先に意識を向けた。「先生、昔と変わらないですね」ほんのわずかの間を空けて、そう言った。昭江は、お湯を急須に注いでいた手を止め、わずかに息を詰めたように見えた。が、それを悟らせないようにするかのように、すぐに微笑む。「歳をとっただけよ。もう昔のように、二人分も三人分も音を聴き分ける耳は残っていないわ」「そんなこと……ないと思います」春樹の声は変わらず穏やかで、けれどその静けさの奥に、かすかな熱を含んでいた。それは言葉よりもずっと深く、敬意と愛着が滲んでいた。昭江は湯呑をひとつ春樹に手渡し、もうひとつを自分の前に置いた。ふたりは、しばらくそのまま台所に立ち尽くす。湯気の上がる湯呑の間で、言葉の代わりに、記憶の層が静かに重ねられていく。廊下の向こうから、畳の軋む
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-04
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智久の記憶、春樹の横顔

夜の空気は冷えていたが、縁側の板の間にはほのかに昼間のぬくもりが残っていた。外の闇は深く、山の端には雲がかかり、星のひとつも見えない。けれど、家の中から漏れる障子越しの灯りが、そこにふたりの影を薄く浮かび上がらせていた。七菜が寝静まった後、智久と春樹は缶ビールを手に縁側に並んで腰かけていた。昔からの癖で、こうして家の外に出て話すと、言葉が少しだけ素直になる気がした。缶のアルミが冷えきっていて、指先がじんと痺れる。けれど、口に含むと不思議とほっとする苦味だった。春樹は、手元の缶を軽く揺らしながら言った。「この時間、好きだな。音がなくなる感じ」智久はうなずいた。遠くで鳥の羽音のような風の音がするだけで、人の声も車の気配もない。「なあ……おれさ、小さい頃、あんまりピアノ、好きじゃなかったんだよ」ぽつりと、智久が言った。「知ってた」春樹は笑うでもなく、当然のように返す。「うちの母さんが先生だったろ。家でも練習しろって言われるし、叱られるのは恥ずかしいし、やるほど下手って言われてる気がしてさ。とくに、和音が……うまく指が届かなかった」「……覚えてるよ。智くんが、隣でめっちゃ黙り込んでた日」春樹の声は、少し低くなった。縁側の木に背を預け、遠くを見つめるその横顔が、灯りに照らされて輪郭をくっきりと映し出している。「連弾、あったよな。右手が春樹で、左手が俺。うまくタイミングが合わなくて、何度もやり直して……」「途中で笑い出したよな。先生に怒られてさ」「怒ったあとに、母さん……笑ってたよ。俺らが音の外で楽しそうにしてるの、ちょっとだけ許した顔してた」「わかる。先生ってさ、教えてるときは厳しいのに、そういうとこ、あった」静かに笑い合ったあと、ふたりの間に短い沈黙が流れた。風が軒下の竹をかすかに揺らし、遠くで猫の鳴き声が聞こえた。智久は、春樹の横顔に視線を戻した。薄く整った輪郭
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-05
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母の手、春樹の手

夜は深まり、家中が静寂に包まれていた。畳の上を歩く足音も響くほどの、濃い沈黙があった。昭江はすでに寝室に引き上げ、七菜も早々に布団に潜り込んで眠っている。けれど智久だけは、なぜか眠れなかった。廊下を抜け、和室の戸を開ける。古いピアノの蓋はまだ閉じられていなかった。昼間に開かれたままのそれは、夜の光に照らされて、少しだけ艶を帯びて見えた。月明かりではなく、廊下の電灯の淡い橙が、ふちを照らしていた。智久はそっと腰を下ろす。譜面台には何も置かれていない。けれど、その下の棚から、昼間見たあの古い譜面を取り出した。黄ばんだ紙に、赤鉛筆の丸がいくつも並んでいる。それを指でなぞると、すこしだけざらつきがあった。「ここ、昔、母さんが…」独り言のように呟いたが、それは声にもなりきらないまま、空気に溶けていった。指先で一音だけ、鍵盤を押す。ふっと低く、優しい音が響いた。昼間の調律のおかげか、音は驚くほどまっすぐだった。思いのほか静かなその響きに、自分自身が一番驚いた。「…いい音」その声に、智久は肩をわずかにすくめた。振り向かなくても、そこに春樹がいるとわかった。「眠れなくて?」「……ああ。なんとなくな」春樹はそのまま隣に座る。距離が近い。手が、ほんの少しでも動けば触れてしまいそうなほどだ。けれど、春樹はその距離を保ったまま、智久の押した鍵盤を見つめて言った。「この音、昔よりまっすぐになったね。調律だけじゃない。弾いた手が、まっすぐだった」「そんなの、わかるのか」「うん。たぶん、昔よりずっと迷ってない音。出すときに、変に構えてないっていうか…」智久は視線を鍵盤に落としたまま、小さく息を吐いた。「母さんの手、もっと強かったと思ってたんだ。怒ると怖かったし、叩かれるんじゃないかって思うくらい厳しかった。けど、今日久しぶりにこの鍵盤触って、思ったよ。あの人の手、ほんとは細かったなって」「先生、優しい音を出してた」春樹が、そっと言う。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-05
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昭江の寝室、ひとりきりの夜

昭江の寝室には、静けさだけがあった。家中の明かりが落ち、風の音さえ遠のいた深夜。壁にかかる古い時計の針の音が、唯一時間の流れを伝えていた。布団に入ってしばらく目を閉じていたが、眠りは訪れそうにないと感じた昭江は、ふと身体を起こした。年季の入った押入れの襖をそっと開ける。中には、整然と並んだ衣装ケースや古いアルバムが詰め込まれていた。その奥に、小ぶりな箱が一つある。昭江はそれを手に取って、布団の脇に座り直す。蓋を開けると、そこには黄ばんだ紙の束が詰まっていた。昔のレッスン帳。子どもたちの名前が書かれた出席表や、個別の記録、練習内容と一言コメントのメモ。手書きの文字は、かつての自分の筆跡のはずなのに、どこか他人のように感じられる。「春樹くん…変わらないのね」昭江はぽつりとつぶやいた。思わず漏れたその声が、部屋の中で吸い込まれるように消えていく。ページをめくると、「三輪春樹」の名が幾度も現れる。出席はほとんど皆勤。小さな丸印の横には、「表現力に伸び」「左手のリズムが自然に」などのメモが並ぶ。まだ子どもだった彼が、一心に鍵盤に向かっていた姿が、まざまざと蘇った。その名前の少し下に、「長谷智久」の欄も見つけた。最初の数ヶ月は並んでいた記録が、ある時期から突然、ぴたりと止まっている。その空白が、なによりも記憶を強く引き戻してくる。あの日のことは、はっきり覚えている。智久が、ふいに「やめたい」と言ったのだ。理由を尋ねても、「もういい」としか返ってこなかった。反抗期に差しかかったばかりの年頃、だがそれだけではない痛みが、あのときの声には混じっていた。春樹は、そのあとも黙って通い続けた。誰にも文句を言わず、淡々と、ひとつひとつの音に向き合っていた。隣にいた智久がいなくなったあとも、ピアノの前では変わらず真剣だった。昭江は、彼のその姿勢に、何度も励まされた記憶がある。月の光が障子越しに入ってきて、床の上に淡い影をつくっていた。譜面の紙にもうっすら光が乗り、インクの跡を際立たせる。記録された文字が、まるで呼吸を始めたかのように、昭江の記憶を刺激していく。「音楽はね、人のなかに残るのよ。形がなくても、思い出がなく
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-06
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鍵盤に触れる指先

和室の障子越しに、淡い陽射しが差し込んでいた。外はうっすらと曇っていて、庭の草木はじっと気配を潜めている。初夏の湿り気を含んだ空気が、畳の上にゆるやかに広がっていた。七菜が小さな背を伸ばしながら、ピアノの前に座っている。背筋をぴんと張ったその姿は、どこかぎこちないが、一生懸命さが伝わってくる。智久は彼女の右隣に座り、少し斜めからその様子を見つめていた。「もう一回、やってみる」七菜は自分に言い聞かせるように呟いて、指先を鍵盤に置いた。まなざしが真っ直ぐに音符カードへ向けられ、その視線の強さに、智久は少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。小さな指が、黒鍵と白鍵の境を慎重に辿るように動いていく。ひとつ、またひとつ、音が鳴る。だがそのリズムはどこか不安定で、曲の流れがふとよろけたように揺れる。「うまくいかない…」七菜が、唇をきゅっと結んだ。智久は少し身体を傾けた。左手で譜面台に置かれたカードを支えながら、右手をそっと七菜の手の上に添えた。「こうかな。リズムは、こことここの間が…もうちょっと、空けていいかも」言いながらも、自分の声が思っていたより低く柔らかいことに、智久自身が少し驚いた。娘の小さな手の上に、自分の指を重ねる。その温度は思っていたより細く、そして繊細だった。「ここから、こう動かす。……一緒にやってみようか」言ってから、指を鍵盤へと運ぶ。ド、レ、ミ。音が並ぶたび、少しずつ七菜の肩の力が抜けていくのがわかった。ふと、和室の反対側から視線を感じた。春樹が、少し離れた場所からこちらを見ていた。彼は正座を崩し、静かに膝を抱えるようにして座っていた。その眼差しは、優しくて、どこか遠くを見つめているようでもあった。春樹は何も言わない。ただ、表情ひとつ変えず、三人の間に流れる静かな空気を壊さないように、そっと佇んでいた。智久は視線を戻し、もう一度七菜の指に自分の指を重ねた。白鍵の上に、影が落ちていた。午後の淡い光が、障子越しにまどろむように注いでいて、その光が、ふたりの手を包んでいた。「少しずつでい
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-06
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台所の音

ふいに、畳の向こうから小さな音が聞こえた。チリチリと湯が沸き始める音だった。金属の急須が温まり、やかんの口から静かな湯気が立ち昇る音が、障子越しに淡く伝わってくる。音量はごくわずかで、日常の中に溶け込むようなものだったのに、それが不意に、部屋の空気を変えた。智久は、肩をわずかに揺らした。何かから解放されたような、あるいは、自分でも意識していなかった緊張の糸が、ぷつんと切れたような感覚があった。音が空気の膜を割り、そこに溜まっていた沈黙や熱がふっと逃げていく。視線を下ろすと、自分の膝に置かれた両手がかすかに震えていた。指先はもう春樹に触れていないのに、皮膚の奥に残った感触だけがそこにあった。あたたかく、柔らかく、けれど確かに、余韻を残すものだった。音ではなく、感触のほうが、むしろ記憶に近いところを撫でてくる。それがこわかった。春樹は何も言わず、隣で静かに座っていた。その横顔を見てはいけないと思った。見たらきっと、何かが決定的に変わってしまう。視線を交わすだけで、自分の中にしまっていた何かが、言葉になって漏れてしまう。そんな気がしていた。立ち上がろうとして、足元が一瞬だけふらついた。それに自分で驚いて、舌先が乾いた上顎に触れた。「七菜、迎えに行ってくる」声に出した瞬間、自分の声がわずかに掠れているのに気づいた。いつもの調子よりもわずかに高く、不自然な間がある。そのことを春樹に悟られたくなくて、言い終わると同時にその場を立ち上がった。腰を上げると、空気がゆっくりと肌から離れていくようだった。そこに残っていた温度が、一気に引いていく。春樹の視線を感じながらも、目を合わせることはできなかった。まっすぐ障子の方へ向き、歩き出す。歩幅が速くなるのを抑えようとするのに、身体は思うように言うことを聞かなかった。襖に手をかけて開けたとき、背中で気配が動いた。けれど、追ってくる足音はなかった。ただ、春樹はそこにいて、黙って見送っている。何も言わず、何も求めず。ただ、すべてを見届けるようなまなざしで。智久は、振り返らなかった。和室の外に出ると、台所の方から湯の沸く
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-07
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ふたたび和音が鳴る

夜がゆっくりと家の輪郭を包んでいた。外はすっかり暗くなり、窓の外に見える庭木は輪郭だけを残して沈黙している。風はなく、静かな晩だった。台所では、昭江がゆっくりと食器を布巾で拭いていた。湿った音も立てず、手際よく淡々と動くその指先は、まるでずっと昔からそうしているかのように迷いがなかった。そのときだった。奥の和室から、ふいにピアノの音が聴こえてきた。はじめの音は、探るようにぽつりと鳴った。続く音は、ほんの少し間を置いて重なった。ゆっくりと音が連なっていく。音量は控えめで、誰かに聴かれることを前提としない、内緒のような響きだった。昭江はふと手を止めた。拭いていた茶碗を布巾の上にそっと置き、音の方へ顔を向けた。目元にうっすらと笑みが浮かぶ。「七菜かしらね」呟くように言ってから、彼女はまたゆっくりと動き出す。けれど、その背筋はどこか嬉しそうに伸びていた。智久は洗面所の鏡の前で、手を拭いていた。娘を寝かせるつもりで、そろそろ布団の準備をしようとしていたところだった。けれど、その音が耳に届いたとき、無意識のうちに手の動きを止めていた。和室に向かう廊下の途中で足を止め、音のする方に顔を向ける。開け放たれた障子の隙間から、淡く灯る明かりが覗いていた。ピアノの音が、少し変わっていた。昼間に弾いていた曲と、旋律は同じなのに、運びに違和感があった。いや、違和感というには繊細すぎる変化だった。リズムの揺らぎ、指が滑るように抜けていくポイント、それがどこか柔らかく、大人びているように聴こえた。音を構成するものは、指だけじゃない。そのときの呼吸、心拍、身体の重さ。七菜がさっきまでとは違う音を出しているのは、明らかだった。智久は歩き出さず、その場でじっと耳を澄ませていた。廊下の壁にもたれるようにして、ただ、音の波に身を浸す。鍵盤の震えが、扉越しに、耳の奥の奥まで染み込んでくる。昼間、春樹が添えた指の運びを、七菜が覚えていたのだと思った。その使い方は、あのとき春樹が示したものと、まるきり同じだった。そのとき、胸の奥に妙な震えが生まれた。痛みではなかった。熱でもなかった。何かもっと、淡くて切実なもの。指ではなく、音に触れ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-07
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鍵盤に触れる指先

午後の光は、少し湿り気を帯びて和室の障子を透かしていた。春を過ぎたばかりの初夏、外ではまだ花の香りが残っているが、部屋の中は少しだけ涼しく、畳の匂いが空気をしっとりと包んでいた。七菜は、真新しい楽譜を前にピアノの椅子に座っていた。小さな背中はまっすぐで、膝の上に揃えられた手が緊張の輪郭を描いていた。視線は譜面ではなく、鍵盤の白と黒の間に注がれている。音を追うというより、まだ“位置”を探すような指の動きだった。智久は、そのすぐ後ろに膝を折って座っていた。和室の古いアップライトピアノ。母が昔使っていたその楽器には、時折きしむような音が混じる。それでも、今こうして音が鳴ると、どこか遠くで記憶が微かに波立った。「…ド、レ、ミ、ミ、ミ…?」七菜が鍵盤に指を置きながら、低い声で数える。右手の中指が思いのほか勢いよくミの鍵盤を叩いてしまい、音が少しだけ鋭く跳ねた。「あっ…」小さく声を上げて指を引く七菜。気まずさと戸惑いが混ざった顔をして、ちらりと智久の方を振り返った。智久は、軽く笑って首を横に振った。「うん、大丈夫。少しだけ、リズムが急ぎすぎたかもな」七菜は黙ったまま頷いて、再び前を向いた。その眉のあたりが、わずかにきゅっと寄っている。次こそ、という意志のある目をしていた。春樹は部屋の隅、障子の向こうに近い位置で静かに見守っていた。腕を組んだまま、姿勢は崩さず、ただ優しくその様子を見ている。彼のまなざしは、どこまでも穏やかで、干渉せず、しかし決して離れない。七菜が再び鍵盤に手を置いた。けれど、リズムを刻もうとする手が、また同じ位置でつかえてしまう。ミ、ミ、ミ…の反復で、どうしても速度が揃わなかった。「うーん…」小さく唸ったあと、彼女は口を尖らせて、もう一度鍵盤に手を置く。その様子を見て、智久はふと手を伸ばした。「ちょっと、貸してみ」七菜が小さく頷いたのを確認してから、彼はゆっくりと娘の右手の上に自分の手を重ねた。指が鍵盤に触れた瞬
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-08
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音の重なり、胸のざわめき

七菜が「ちょっとお水取ってくる」と立ち上がり、廊下の方へと小走りで姿を消したあと、和室にはふいに静寂が降りた。障子の向こうからは、台所で湯を注ぐ昭江の気配が、かすかに届くのみ。遠くからは風に揺れる木の葉の音がまばらに混じる。だが、部屋の中だけは時間が止まったように静かだった。智久は、まだ鍵盤の前に腰かけたまま動かなかった。春樹もまた隣に座っていたが、互いに視線を交わすことも言葉を発することもなく、そこに並んでいた。薄曇りの空を透かした淡い光が障子越しに差し込み、ピアノの黒く光る面に淡く映り込んでいる。沈黙の中、智久は自分の呼吸が浅くなっているのを意識した。何気なく両手を膝に置き、指先に少しだけ力を込めてみる。けれど、落ち着こうとする意識とは裏腹に、胸の奥が静かにざわついていた。春樹の手が、ほんの数分前に自分の指に重なっていたことが、皮膚の感覚としてまだ消えていない。その触れ方はあくまで教師としてのものだった。七菜の奏法を直すための、理にかなった自然な動き。それなのに、あの瞬間に感じた温度や、微かに響いた和音が、智久の中のなにかを揺さぶって離さなかった。ふと、隣にいる春樹の指先が視界に入った。細く、長い指だった。鍵盤に触れていたときの動きが、まだ残像として頭の中に浮かんでいる。その指が、鍵を押すときの微かな沈み。音が鳴る寸前の緊張と解放。すべてが、静かで、丁寧で、あたたかかった。智久は息を飲んだ。息苦しいほどではない。けれど、確かに胸が波立っていた。手のひらの下、膝の筋肉がじんわりと熱を持っている。「……また音に触れてくれて、うれしい」ぽつりと、春樹が言った。その声はまるで、光の届かない水面の底から立ち上ってきたように静かだった。余計な抑揚もなく、ただそこに在るものとして言葉が置かれた。春樹は鍵盤の向こうを見ていた。智久を見てはいなかった。それなのに、声の熱はまっすぐ胸の奥に届いてきた。智久は答えるまでに少し間を置いた。「……俺は、音楽をやめたから」自分の口から出たその言葉を聞いて、智久は心のどこかが少
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-08
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ふたたび和音が鳴る

夜がゆっくりと降りてきて、長谷家のまわりは、いつのまにか静かな帳に包まれていた。曇り空はそのまま、夕暮れの色をぼやかし、外の空気にひんやりとした湿気を含ませている。食事を終え、七菜は食器を片づける昭江の隣に立っていたが、「先に練習する」と言って和室へ向かった。その言葉を背中越しに聞きながら、智久は縁側の椅子に腰を下ろし、湯気の消えかけたマグカップを手に、ぼんやりと夜の庭を眺めていた。そのときだった。部屋の奥から、和音が鳴った。遠慮がちな、けれど明らかに意図をもった音の重なり。七菜の指が鍵盤に触れた瞬間の音だった。その音は、昼間に聴いたものとは違っていた。まだ不安定ではあるが、どこか整った流れが感じられる。音の運びに迷いがなく、ひとつひとつのタッチに小さな変化が宿っていた。「…変わったな」自分でも知らないうちに、そうつぶやいていた。廊下を通って台所に戻ると、昭江が流しに立ちながら、音のほうに顔を向けていた。音に合わせて包丁を置き、手を拭きながらゆっくりと振り返る。「春樹くん、いい指使いを教えたのね」穏やかな声に、智久は応えず、ただ頷いた。昭江の口調はどこまでも平らで、感情の起伏をほとんど表に出さない。だが、そのまなざしには確かなものがあった。息子の心を見透かしているような、何も言わずに背中を押すような、そんな視線だった。智久はもう一度、音のほうに耳を澄ませた。七菜の音が続いている。先ほどと同じ旋律だが、わずかにニュアンスが違う。春樹が添えたアドバイスが、彼女の指のなかで息づいているのがわかる。そしてふと、春樹の手が、また思い出された。あの午後、指の上に重なったやわらかい手のひら。過剰でもなく、不意打ちでもなく、ただ自然に触れてきた温度。なにかを主張するでもなく、ただそこにあるだけのぬくもりが、今も掌に微かに残っているような気がした。けれど、それを思い出したとき、自分が感じていたのは「手」そのものではなかった、とも思う。あのとき、自分の中に残ったものは、たったひとつの和音だった。指が重なって鳴った、あの小さな音。偶然のようで、どこか必然に近い、さ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-09
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