未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。

未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。

last updateLast Updated : 2025-09-12
By:  中岡 始Completed
Language: Japanese
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古びた和室に置かれたピアノが、止まっていた時間を静かに動かし始める――。 妻を亡くし、仕事と育児に追われながら心を閉ざしていた父・智久。 かつて幼なじみだった音楽教師・春樹。 そして、ふたりを繋ぐようにピアノの前に座る幼い娘・七菜。 過去と現在が交差する音の中で、誰も言葉にできなかった想いが、少しずつ輪郭を持ちはじめる。 伝えられなかった愛、選べなかった未来、それでも続いていく日常。 沈黙のなかに宿るやさしさ、和音のなかに息づく願いが、三人の関係を少しずつ変えていく。 これは、「家族」とは何かを問い直しながら、音を媒介に紡がれていく再生と赦しの物語。 ゆっくりと滲むように、心の奥に触れてくる――静かで切ない、大人のBLロマンス。

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Chapter 1

静かな玄関

午後三時を少し過ぎたころ、空はまだ曇っていて、雨上がりの匂いが町のあちこちに残っていた。湿った風が低く吹き、道路脇の植え込みからは、濡れた土のにおいが立ちのぼる。長谷智久はキャリーケースの取っ手を引きながら、小学3年生になる娘の七菜と並んで歩いていた。娘の足元がまだ乾ききっていないアスファルトを踏むたび、小さく水音がはねる。

「ここが…パパの家?」

七菜の声は、少しだけ上ずっていた。初めて見る家に対する好奇心よりも、緊張が勝っているのがわかった。

「うん。おじいちゃんと、おばあちゃんがいるから、ちゃんと挨拶しようね」

そう言って玄関の前に立ち止まったが、智久はすぐにはインターホンを押さなかった。目の前の家は、かつて自分が生まれ育った場所だったはずなのに、なぜかその輪郭がぼやけて見える。壁の色は思ったよりくすんでいたし、塀の上に這ったツタが、ここ数年放置されていたことを物語っていた。

ふと、七菜が隣で足を止め、真新しい靴の泥を気にしていることに気づいた。自分のズボンで足元を軽くこすろうとしている。

「そのままで大丈夫だよ。中で拭こう」

「…うん」

智久がやっとの思いでチャイムを押すと、しばらくして玄関の戸が開いた。そこに立っていたのは、母・昭江だった。昔よりも少し背が縮んだように見えたが、白いエプロンをつけた姿は変わらなかった。

「…おかえり」

昭江はそれだけを言って、扉を大きく開けた。けれどその表情は、ほんの一瞬、ためらいを含んだように見えた。目元が動いたのを、智久は見逃さなかった。

「ただいま…久しぶり」

声に力が入らなかった。少しだけ笑おうとしたが、うまく表情がつくれなかった。

「七菜です。こんにちは」

七菜が小さな声で挨拶すると、昭江の顔にようやく微笑みが戻った。

「まあ、七菜ちゃん。大きくなったわねえ…ようこそ」

昭江がしゃがみこむようにして七菜の顔をのぞきこむ。七菜はすこし戸惑いながらも、ぺこりと頭を下げた。

「上がって。雨、降ってたでしょう?タオルあるから」

靴を脱ぐとき、七菜は慎重にスニーカーを脱ぎ、靴のつま先を揃えて端に寄せた。赤いランドセルがない代わりに、小さなリュックが背中に重たそうに揺れていた。

「靴、きれいに脱げたね」

昭江がそう言うと、七菜はわずかに笑った。

「前の学校で、そう教わったから」

七菜の声はまだ遠慮がちだった。智久は自分の靴を脱ぎながら、やはりこの家に入る瞬間の空気の重さに、体がわずかに硬直するのを感じた。廊下の奥、和室の扉は閉じていて、その向こうにあるはずのピアノの気配が、ぼんやりと思い出された。

昭江がタオルを持ってきてくれた。七菜の髪の毛にそっと手を伸ばし、濡れた前髪を軽く拭う。七菜は身をすくめたが、すぐに身を任せた。

「ありがと…ございます」

「えらいわね。おばあちゃん、びっくりしちゃう」

柔らかな口調に、七菜の表情が少しだけ緩んだ。智久はその様子を見ながら、ようやく荷物を廊下の端に寄せる。昭江は何も言わず、その背中にタオルをそっと渡してくる。昔から変わらない手つきだった。

「とりあえず、荷物は部屋に置いて。お父さんはお仏壇の前ね…手を合わせておくといいわ」

「…うん」

声に出すと、喉の奥が少しだけ詰まった。妻の位牌が、今あの部屋にあるのだと思うと、足がすっと前に出なかった。だが七菜が振り返って父を見上げる視線に、智久は気づく。

「行こう、七菜」

「うん」

再び手をつないだ。玄関の扉が静かに閉まる音が、思った以上に重く響いた。どこかで、小さな水滴が落ちる音がした。外の雨はもう止んでいるのに、家の中の時間だけが、雨のあとのようにしっとりと滲んでいた。

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