LOGIN古びた和室に置かれたピアノが、止まっていた時間を静かに動かし始める――。 妻を亡くし、仕事と育児に追われながら心を閉ざしていた父・智久。 かつて幼なじみだった音楽教師・春樹。 そして、ふたりを繋ぐようにピアノの前に座る幼い娘・七菜。 過去と現在が交差する音の中で、誰も言葉にできなかった想いが、少しずつ輪郭を持ちはじめる。 伝えられなかった愛、選べなかった未来、それでも続いていく日常。 沈黙のなかに宿るやさしさ、和音のなかに息づく願いが、三人の関係を少しずつ変えていく。 これは、「家族」とは何かを問い直しながら、音を媒介に紡がれていく再生と赦しの物語。 ゆっくりと滲むように、心の奥に触れてくる――静かで切ない、大人のBLロマンス。
View More午後三時を少し過ぎたころ、空はまだ曇っていて、雨上がりの匂いが町のあちこちに残っていた。湿った風が低く吹き、道路脇の植え込みからは、濡れた土のにおいが立ちのぼる。長谷智久はキャリーケースの取っ手を引きながら、小学3年生になる娘の七菜と並んで歩いていた。娘の足元がまだ乾ききっていないアスファルトを踏むたび、小さく水音がはねる。
「ここが…パパの家?」
七菜の声は、少しだけ上ずっていた。初めて見る家に対する好奇心よりも、緊張が勝っているのがわかった。
「うん。おじいちゃんと、おばあちゃんがいるから、ちゃんと挨拶しようね」
そう言って玄関の前に立ち止まったが、智久はすぐにはインターホンを押さなかった。目の前の家は、かつて自分が生まれ育った場所だったはずなのに、なぜかその輪郭がぼやけて見える。壁の色は思ったよりくすんでいたし、塀の上に這ったツタが、ここ数年放置されていたことを物語っていた。
ふと、七菜が隣で足を止め、真新しい靴の泥を気にしていることに気づいた。自分のズボンで足元を軽くこすろうとしている。
「そのままで大丈夫だよ。中で拭こう」
「…うん」
智久がやっとの思いでチャイムを押すと、しばらくして玄関の戸が開いた。そこに立っていたのは、母・昭江だった。昔よりも少し背が縮んだように見えたが、白いエプロンをつけた姿は変わらなかった。
「…おかえり」
昭江はそれだけを言って、扉を大きく開けた。けれどその表情は、ほんの一瞬、ためらいを含んだように見えた。目元が動いたのを、智久は見逃さなかった。
「ただいま…久しぶり」
声に力が入らなかった。少しだけ笑おうとしたが、うまく表情がつくれなかった。
「七菜です。こんにちは」
七菜が小さな声で挨拶すると、昭江の顔にようやく微笑みが戻った。
「まあ、七菜ちゃん。大きくなったわねえ…ようこそ」
昭江がしゃがみこむようにして七菜の顔をのぞきこむ。七菜はすこし戸惑いながらも、ぺこりと頭を下げた。
「上がって。雨、降ってたでしょう?タオルあるから」
靴を脱ぐとき、七菜は慎重にスニーカーを脱ぎ、靴のつま先を揃えて端に寄せた。赤いランドセルがない代わりに、小さなリュックが背中に重たそうに揺れていた。
「靴、きれいに脱げたね」
昭江がそう言うと、七菜はわずかに笑った。
「前の学校で、そう教わったから」
七菜の声はまだ遠慮がちだった。智久は自分の靴を脱ぎながら、やはりこの家に入る瞬間の空気の重さに、体がわずかに硬直するのを感じた。廊下の奥、和室の扉は閉じていて、その向こうにあるはずのピアノの気配が、ぼんやりと思い出された。
昭江がタオルを持ってきてくれた。七菜の髪の毛にそっと手を伸ばし、濡れた前髪を軽く拭う。七菜は身をすくめたが、すぐに身を任せた。
「ありがと…ございます」
「えらいわね。おばあちゃん、びっくりしちゃう」
柔らかな口調に、七菜の表情が少しだけ緩んだ。智久はその様子を見ながら、ようやく荷物を廊下の端に寄せる。昭江は何も言わず、その背中にタオルをそっと渡してくる。昔から変わらない手つきだった。
「とりあえず、荷物は部屋に置いて。お父さんはお仏壇の前ね…手を合わせておくといいわ」
「…うん」
声に出すと、喉の奥が少しだけ詰まった。妻の位牌が、今あの部屋にあるのだと思うと、足がすっと前に出なかった。だが七菜が振り返って父を見上げる視線に、智久は気づく。
「行こう、七菜」
「うん」
再び手をつないだ。玄関の扉が静かに閉まる音が、思った以上に重く響いた。どこかで、小さな水滴が落ちる音がした。外の雨はもう止んでいるのに、家の中の時間だけが、雨のあとのようにしっとりと滲んでいた。
春樹が静かに手を伸ばし、ピアノの蓋に指先を添えた。指先はまだ微かにあたたかかった。鍵盤の感触がそこに残っていたのか、それとも朝の空気が、春樹の中に滞っていた何かをほどいたのかはわからない。ただ、動作のひとつひとつが、どこか名残惜しく、けれど確信を持っていた。蓋がゆっくりと閉じられる。カチリという音も立てず、まるで音楽の続きを邪魔しないように、そっと、音の気配が途切れた。それでも、誰も動かなかった。智久は入り口近くの畳の上に腰を下ろしたまま、膝に置いた手を組んでいた。まるで何かをこらえるように、指先にわずかな力がこもっている。その眼差しはすでにピアノを離れ、春樹の背中をゆっくりとなぞっていた。けれどそこに言葉はなかった。七菜は、春樹の隣で静かに座っていた。さっきまでかかっていた髪の一房が、彼女の頬をかすめて揺れている。それを払おうともせず、ただ、じっと正面を見つめていた。表情に特別な意味はない。ただ、朝の光が射し込むたびに、子どもの横顔はそのまま小さな命の輝きを帯びていた。春樹はもうピアノには触れていなかったが、その姿勢はまだ演奏を終えた直後の静けさを纏っていた。指先は膝の上に戻っていたが、ほんの少しだけ丸められているのは、まだどこかで余韻を掴もうとしているかのようだった。障子の外から、細い朝日が部屋の中へと差し込む。その光は、春樹の肩から、七菜の頬へ、そして智久の膝元へと移っていく。冬の終わりを思わせる、かすかに冷たいけれど柔らかな光だった。季節の移り変わりが、光のかたちで告げられるのだとしたら、それは今、確かに春へと傾き始めている。三人の影が、光のなかで重なる。動いていない。けれど、その静けさのなかにある何かが、たしかに三人をつないでいた。たとえばそれは、言葉にしようとすると消えてしまう種類の感情。もしくは、誰にも気づかれないまま、長い時間をかけて築かれていくもの。あるいは、家族という名の、まだかたちを持たない響きだったのかもしれない。春樹の指が、自分の膝の上でゆっくりほどけていく。その動作ひとつとっても、そこにはもう“距離”というものは感じられなかった。七菜はその気配をまるご
ピアノの音が、ふっと空気からすべり落ちるように消えた。最後の和音が静かに尾を引き、部屋の隅々まで染み渡っていくのが、肌でわかる気がした。春樹の指が鍵盤から離れ、手のひらが膝の上に戻る。もう弾いていないのに、部屋にはまだ音の残り香があった。三人のあいだに、しばらく沈黙が流れた。智久は座ったまま、その余韻のただ中に身を置いていた。何かを言いたくて口を開きかけたが、喉の奥で息がからまった。言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまうような気がした。だから、ただ唇がわずかに開いて、閉じられた。春樹は鍵盤を見つめたまま、一度深く息を吐いた。肩が少し上下し、それがようやくひと区切りついた合図のようだった。そしてゆっくりと身体をひねり、後ろを振り返った。視線が交わる。春樹と、智久と、七菜の三人。それぞれに、言葉を持たないまま、目が合った。その瞬間、七菜が、ぽつりと声を落とした。「それ…なまえ、あるの?」春樹の目がすこし見開かれたように見えた。だが驚きというよりも、自分の内側に深く触れられたような、そんな静かな反応だった。数秒の間、視線が宙を彷徨い、やがて、春樹は微笑みながら答えた。「まだ。でも…そうだな。未明のソナタ、って呼ぼうかな」その声には、ほんの少しだけ照れが混じっていた。けれど、それ以上に深いところに確信のような静けさがあった。たしかな響きだった。迷いを含んだままでも、どこかに根を下ろすような強さを持った声だった。智久のまぶたが、その瞬間、ふっと閉じられた。一瞬だけ、きつく。それは涙ではなかった。ただ、何かを押しとどめるように、あるいは言葉のかわりに全身で納得するように、深く、静かに目を閉じたのだった。七菜はというと、両手をきちんと膝の上で組んだまま、目を細めて笑った。その微笑みは、朝の光を受けた花のように、かすかに揺れながらも、確かなあたたかさを宿していた。障子の外では、日がゆっくりと昇りはじめていた。冬の空気の中に、かすかな春の匂いが混じっている。朝というにはまだ早い、けれど夜とはもう言えない、曖昧で、だからこそ愛おしいその時間に、三
廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。乾いたスリッパの音。規則的ではなく、どこか寝起きの身体がまだ夢を引きずるような、控えめな足取りだった。智久はその音に気づき、襖に添えていた手をそっと離した。指先に残る木の感触が、ほんの一瞬だけ現実に戻る手助けをする。和室の中ではまだ春樹が弾いていた。旋律は静かに続いており、まるで呼吸のように一定で、けれどどこか深く揺れていた。足音は止まり、襖の向こうで一拍、間が空いた。障子の端がわずかに動き、そこに小さな影がのぞく。七菜だった。まだ眠たげな顔のまま、髪は寝癖であちらこちらに跳ねている。一房が頬にかかり、まつげの先に触れそうなほど垂れていたが、彼女はそれを気にする素振りもなく、ただ前を見つめていた。開いた隙間から中を見渡すと、七菜はすぐに戸を大きく開けた。その仕草に、躊躇はなかった。静かに、けれど確かな足取りで和室に入り、春樹の背中に向かって歩いていく。春樹は視線を向けない。だが、彼の指先が一瞬だけ鍵盤の上で緩んだのを、智久は見逃さなかった。微細な揺れだった。けれど、それは確かに、彼が七菜の存在に気づいている証だった。七菜は、春樹の横に並ぶようにして、畳の上に膝を折った。何も言わず、ただ座り、視線をまっすぐにピアノの鍵盤へ向けていた。さっきまで眠っていたとは思えないほど、目は真っ直ぐにひらいていて、まだかすかに夢の残り香を帯びた空気のなかで、彼女の存在がただ穏やかにそこにあった。髪の一房が顔にかかったまま。それを払いもせず、七菜はじっと春樹の弾く手元を見つめていた。智久はその横顔を見て、少しだけ微笑みたくなった。けれど、彼自身もまだ余韻のなかにいた。言葉を発するには、少しだけ呼吸が整っていない。春樹の顔が、わずかに七菜のほうを向く。その横顔に、一瞬だけ、やわらかな笑みが浮かんだ。声には出さず、表情にも出しすぎない。それでも、春樹の表情の輪郭がわずかに緩んでいくのが見えた。智久もまた、和室の入り口近くに腰を下ろした。襖の枠にもたれかかることなく、背筋を伸ばして座った。春樹と七菜の様子を、少し離れた場所から見つめながら、音に耳を傾ける。けれど、彼の視線はただ鍵盤だけを追ってはいなかった。春
廊下はまだ、夜の名残を引きずっていた。薄明かりに照らされる床板には、かすかな光の線が走り、廊下の端に置かれた傘立ての影が長く伸びていた。外では鳥が鳴きはじめていたが、その声もまだ眠たげで、静けさを破るには至らない。智久は裸足のまま、その廊下を歩いていた。足音はなく、歩幅もいつもより狭い。まるで、音そのものを避けるように、慎重に畳に足を運ぶ。髪は乱れ、シャツの胸元にはわずかに寝癖の皺が残っていたが、それに気づく余裕はなかった。意識のほとんどが、先にある「音」に引き寄せられていた。和室のほうから、小さな旋律が漏れていた。鍵盤が奏でる音は、完全な楽曲ではなかった。むしろ、探るように重ねられる音たちが、ゆっくりと呼吸をしているように聞こえた。その響きに、足が止まる。智久は襖の前で立ち尽くし、しばらく身動きをとらなかった。そこには、踏み込んではいけないような、ひどく静かな領域が広がっている気がした。けれど、それを遠くで聴いていることも、彼にはもうできなかった。左手が自然と襖の縁に伸びる。指先がふれると、その冷たさにわずかに身体がこわばった。襖の木枠は朝の湿気を帯びていて、ぬるく、硬く、そしてどこか懐かしい。その手が、ほんの少し震えを見せた。深く息を吸い込むこともできず、智久は指先だけで、障子を数センチほど滑らせた。開かれた隙間から、視界が広がる。そこには、春樹がいた。ピアノの前に座る背中は、すっかり音に浸っていた。痩せた肩がゆっくりと上下しており、音とともに呼吸しているのがわかる。春樹は気づいていない。あるいは、気づいているのに、気づかないふりをしている。どちらにしても、その背中には、ひとつの穏やかさがあった。智久は思わず、襖の縁を少しだけ強く握った。胸の奥に溜めていたものが、形を失っていくのを感じた。迷い、恐れ、諦め。そういった曖昧な輪郭のまま残っていた感情が、目の前の旋律によって、音もなく溶けていくようだった。音は、静かだった。けれど、ただの静けさではない。そこには確かに「希望」の響きが含まれていた。誰かのために弾く音ではない。けれど、聴く誰かを拒むわけでもない。無理に伝えようとすることも、媚びることもなく、ただ「ここにいる