未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。

未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。

last updateHuling Na-update : 2025-09-12
By:  中岡 始Kumpleto
Language: Japanese
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古びた和室に置かれたピアノが、止まっていた時間を静かに動かし始める――。 妻を亡くし、仕事と育児に追われながら心を閉ざしていた父・智久。 かつて幼なじみだった音楽教師・春樹。 そして、ふたりを繋ぐようにピアノの前に座る幼い娘・七菜。 過去と現在が交差する音の中で、誰も言葉にできなかった想いが、少しずつ輪郭を持ちはじめる。 伝えられなかった愛、選べなかった未来、それでも続いていく日常。 沈黙のなかに宿るやさしさ、和音のなかに息づく願いが、三人の関係を少しずつ変えていく。 これは、「家族」とは何かを問い直しながら、音を媒介に紡がれていく再生と赦しの物語。 ゆっくりと滲むように、心の奥に触れてくる――静かで切ない、大人のBLロマンス。

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Kabanata 1

静かな玄関

リアンド・ボーモントと婚約して七年目、彼は亡き兄のすべてを継承した。

兄の妻――デイナ・フォウラーも含めて。

リアンドがデイナと夜を共にするたび、私を抱きしめてこう言った。

「ジェニー、もう少しだけ待ってて。デイナが妊娠したら、すぐに結婚式を挙げよう」

それが、西海岸最大のマフィア一族・ボーモント家が、リアンドを次期「ボス」に据えるための、唯一の条件だった。

帰国して半年、彼はデイナの部屋に五十九回足を運んだ。

最初は月に一度だったのが、今ではほぼ毎日――

そして六十回目。私の婚約者がデイナの部屋から戻ってきたその日、ついに朗報が届いた。デイナが妊娠したというのだ。

同時に届いたのは、リアンドとデイナの結婚発表。

「ママ、うちで誰か結婚するの?」

華やかに飾りつけられた部屋を見回しながら、幼い息子が無邪気に聞いてきた。

私は何の感情も浮かばないまま、彼を抱き上げて答えた。

「そうよ。あなたのパパが、好きな人と結婚するの。だから私たちは、もうここを出ていくの」

リアンドはまだ知らない。私の実家、ベリン家が、今やボーモント家に匹敵する新たなマフィア一族となったことを。

そして私は――ベリン家で最も愛されて育った末娘、ジェニー・ベリン。誰にも、ましてや結婚なんかに、縛られるつもりはない。

リアンドと出会ったとき、彼はボーモント家のカポ(幹部)だった。当時のボスは、彼の兄だった。

マフィア一族が一堂に会するパーティーでは、女性はみんな彼の兄に夢中だった。すべての女性が、ボスの女になることを夢見ていた。

けれど私は、ただ一人――隅で一人静かに酒を飲んでいたリアンドに気づき、手を差し出して、一曲踊った。

「計算高い」「家のために身体を差し出した女」――周りはそう言った。ベリン家がボーモント家に取り入るために、私が自分を売ったのだと。

でも私は、本気でリアンドを愛していた。

婚約の形だけでも、彼の子どもを産みたいと思ったほどに。

――ライアン・ボーモント。私たちの息子。

彼が次期ボスになるためなら、私は耐えた。六十回も、夜ごとデイナの部屋に通う彼を。

けれどリアンドとデイナの結婚報道を耳にしたとき、ようやく悟った。彼はもう、私を騙す気すらないのだと……

ライアンを寝かしつけたあと、私はバルコニーへ出て、携帯を開いた。国外行きのチケットを予約する。

発券画面を見つめながら、ふと手が止まった。七日後はクリスマス。そして――私とリアンドが婚約した記念日だった。

まるで、運命が皮肉な結末を演出しているかのようだった。

始まりも終わりも、すべて同じ日――

携帯を閉じた瞬間、私は誰かの腕に抱きとめられた。厚くて温かい胸板、そして鼻をつくほど濃いバラの香水の匂い。

リアンドだった。私を抱きしめ、バルコニーの手すりに押しつけると、彼は私の耳たぶに唇を寄せ、くぐもった声で囁いた。

「外は寒いよ。どうしてこんなところに?」

私は画面を閉じた携帯に目をやり、平然と答えた。

「星を見てただけよ」

私は子どもの頃から星を見るのが好きだった。私の故郷では、流れ星がよく見えたから。リアンドは、いつか毎晩一緒に星を見ようって、約束してくれた。でも、デイナが現れてからというもの、そんな子どもじみた約束はとうに忘れ去られていた。

彼の身体からは、いつもデイナの香水――あの強烈なバラの匂いが漂っていた。

私はその匂いに吐き気を覚え、彼の腕から身を引いた。

「先にシャワーを浴びてきて」

リアンドも自分の匂いに気づいたのだろう。気まずそうに私から離れ、言い訳めいた口調で言った。

「ジェニー、最近はお前のこと、少し放ってしまってたな。俺が悪い。……でも分かってくれ。全部、お前と子どもの未来のためなんだ」

――笑わせないで。あなたは自分の野心のためにやってるくせに。それを「私と息子のため」だなんて、よく言えるわね。

彼がシャワーを浴びて戻ってきたとき、上半身は裸で、腰にはバスタオルをゆるく巻いていただけだった。広い肩幅、引き締まった腰、そして視線を誘うように腰骨から下へと続く人魚線――

かつて私を夢中にさせたものすべてが、今ではただただ気持ち悪かった。

彼の腰のあたりには、いくつか赤い爪痕があった。

――たった今まで、どれほど激しかったかを物語っている。

私がその痕を見つめていると、リアンドは口元を歪めて近づいてきた。そして私に覆いかぶさるようにして囁いた。

「ジェン、今日はお前だけの夜にするよ。どこにも行かない」

聞き慣れた口調。でも私はもう分かっていた。目の前のリアンドは、もう私だけを見てくれる少年じゃない。

私は手を強く握りしめ、彼を突き飛ばしたい衝動を必死に堪えた。

ちょうどそのとき、ノックの音がして、リアンドの唇が私の首から離れた。

「カポ、デイナ様の具合が悪いとのことです。すぐにご確認を」

リアンドはすぐさま立ち上がり、焦った様子で歩き出した。その目には、不安と緊張が色濃く浮かんでいた。

「ちゃんと見てなかったのか?早く主治医を呼べ!もしデイナに何かあったら、お前ら全員ただじゃ済まないぞ!」

玄関に向かう途中、彼はようやく私の存在を思い出したように振り返った。

「デイナの様子を見てくる。兄貴と約束したんだ、彼女を守るって」

私はしばらく彼の目を見つめたまま、小さな声で呼びかけた。

「リアンド」

彼は一瞬、眉をひそめた。いつもなら、私が怒ったり拗ねたりすると、彼は少しは取り繕おうとした。今日もそのつもりだったのだろう。口を開きかけた彼を、私の行動が制した。

私は一枚のコートを彼の肩にかけ、はねた髪を整えてやった。

「もうすぐボーモント家のボスになるんでしょ?ちゃんと見た目にも気をつけなきゃ」

いつもと変わらない、気遣う「婚約者」の姿。そう見せることで、彼は安心し、私を部屋に置き去りにして、心置きなくデイナのもとへ行く。――私が、これまでと同じように大人しく待つと思い込んだまま。

でも今回は――違う。

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89 Kabanata
静かな玄関
午後三時を少し過ぎたころ、空はまだ曇っていて、雨上がりの匂いが町のあちこちに残っていた。湿った風が低く吹き、道路脇の植え込みからは、濡れた土のにおいが立ちのぼる。長谷智久はキャリーケースの取っ手を引きながら、小学3年生になる娘の七菜と並んで歩いていた。娘の足元がまだ乾ききっていないアスファルトを踏むたび、小さく水音がはねる。「ここが…パパの家?」七菜の声は、少しだけ上ずっていた。初めて見る家に対する好奇心よりも、緊張が勝っているのがわかった。「うん。おじいちゃんと、おばあちゃんがいるから、ちゃんと挨拶しようね」そう言って玄関の前に立ち止まったが、智久はすぐにはインターホンを押さなかった。目の前の家は、かつて自分が生まれ育った場所だったはずなのに、なぜかその輪郭がぼやけて見える。壁の色は思ったよりくすんでいたし、塀の上に這ったツタが、ここ数年放置されていたことを物語っていた。ふと、七菜が隣で足を止め、真新しい靴の泥を気にしていることに気づいた。自分のズボンで足元を軽くこすろうとしている。「そのままで大丈夫だよ。中で拭こう」「…うん」智久がやっとの思いでチャイムを押すと、しばらくして玄関の戸が開いた。そこに立っていたのは、母・昭江だった。昔よりも少し背が縮んだように見えたが、白いエプロンをつけた姿は変わらなかった。「…おかえり」昭江はそれだけを言って、扉を大きく開けた。けれどその表情は、ほんの一瞬、ためらいを含んだように見えた。目元が動いたのを、智久は見逃さなかった。「ただいま…久しぶり」声に力が入らなかった。少しだけ笑おうとしたが、うまく表情がつくれなかった。「七菜です。こんにちは」七菜が小さな声で挨拶すると、昭江の顔にようやく微笑みが戻った。「まあ、七菜ちゃん。大きくなったわねえ…ようこそ」昭江がしゃがみこむようにして七菜の顔をのぞきこむ。七菜はすこし戸惑いながらも、ぺこりと頭を下げた。「上がって。雨、降ってたでしょう?タオルあるから」靴を脱ぐとき、七菜は慎重にスニーカーを脱ぎ、靴のつま先を揃えて端に寄せた。赤いランドセルがない代わりに、小さなリュックが背中に重たそうに揺れていた。「靴、きれいに脱げたね」昭江がそう言うと、七菜はわずかに笑った。「前の学校で、そう教わったから」七菜の声はまだ遠慮がちだった。智久は自分の靴を
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和室の風景
廊下に漂う畳のにおいが、懐かしさよりも湿り気のある重さとして胸に残った。智久は居間の座卓に腰を下ろし、形式的なやりとりを交わす父と母の言葉に、ただ頷くばかりだった。久しぶりの帰郷とはいえ、再就職の話や娘の転校先についての会話は必要最低限に留まり、沈黙が早々に訪れた。七菜は話に加わることもなく、隣でお茶を持つ手を静かに膝に乗せていた。「疲れたでしょう。七菜ちゃん、ちょっと休んでおいで」昭江が優しく声をかけると、七菜は小さく「はい」と頷いて、椅子からそっと立ち上がった。廊下に出てからも、その足取りは音を立てないように気を遣っているようだった。智久はその後ろ姿を目で追いながら、自分がこの家にいたころのことを朧げに思い出していた。子ども部屋、縁側、夕飯の支度の匂い。そして、和室の隅に置かれていたあのピアノ。戸の向こうで、ぴたりと足音が止まった。わずかに開いた襖の隙間から、七菜がそっと覗き込むようにして中を覗いている。「パパ、これ…ピアノ?」遠慮がちにかけられた声に、智久は立ち上がった。「そうだよ。おばあちゃんが昔使ってたんだ」和室の戸を静かに開けると、部屋には午後の光が斜めに差し込み、淡く埃を照らしていた。障子の向こうから差し込む光が、畳の上に柔らかな格子模様を落としている。部屋の隅、壁際に置かれたアップライトピアノは、長い間使われていなかったことを示すように、鍵盤の蓋がうっすらと開きかけたままになっていた。木目の表面には細かい傷があり、時間の経過がそのまま刻まれていた。だが、どこか静かな品格を保っていた。七菜は戸口で立ち止まっていたが、やがて恐る恐る一歩、また一歩と畳を踏みしめて近づいた。小さな指先が、ためらうように白鍵の一つに触れた。かすかに、ぽつん、と音が鳴る。湿気を含んだ音は、軽く鳴っただけで消えていった。七菜は驚いたように手を引っ込め、智久の方を振り返った。「音、鳴った…」「うん、鳴ったね」智久はそれ以上の言葉を探せず、ただ笑おうとした。しかし頬は引きつり、声はかすれた。七菜は再び鍵盤に手を伸ばし、今度は人差し指と中指を使って二つの鍵を押した。和音にはならず、濁ったような不安定な音が部屋に残る。「このピアノ、調律してないんだ」ぽつりと智久が言うと、七菜は眉をひそめてもう一度、今度は白鍵と黒鍵を組み合わせて押してみた。少しずつ
Magbasa pa
声にならない時間
台所から、かすかに湯の沸く音が聞こえていた。笛吹きケトルが低く鳴り始めるその音に、智久は耳を傾けながら、和室の襖を半ば閉じた状態で廊下に腰を下ろしていた。襖の隙間から、七菜の背中が見える。小さな背中が、ピアノの前でじっと座り込んでいるのがわかった。七菜は、もうしばらくの間、一音も鳴らしていない。それでも椅子から立つことはなく、まるで音が向こうからやって来るのを待っているかのように、静かに身じろぎもしないで座っていた。鍵盤に手を置いているわけでもない。ただ、正面をまっすぐに見つめている。その姿が、妙に痛々しかった。智久は無言のまま、廊下の柱にもたれかかる。背中にあたる木の感触が冷たくて、少しだけ身を起こした。そのとき、後ろから足音がして、母・昭江が小さな盆に湯呑を三つ乗せてやって来た。緑茶の香りがふわりと広がる。けれど、なぜかその匂いにも、どこか遠い記憶の湿り気が含まれているように感じた。「熱いから、気をつけて」昭江が盆を智久の前の畳にそっと置いた。その動作の最中、手が一瞬、小刻みに揺れた。湯呑の縁から、お茶がほんのわずかにこぼれて、受け皿にしみを作る。「ありがとう」智久はそれだけ言って、湯呑に指をかける。指先が熱に触れたが、それを感じたのはほんの数秒だった。すぐに手のひらに空虚な感覚だけが残る。昭江は彼の隣に腰を下ろした。隣にいても、しばらくは何も言わなかった。代わりに、襖の隙間から見える七菜の背中を見つめていた。「…あの子、前にもピアノ、やってたんでしょう?」「うん。東京で、少しだけ」「好きそうね。音を、聴こうとしてるのよ。あの姿勢は…」そう言って、昭江は一口、お茶をすする。智久も続けて湯呑に口をつけた。舌に広がる温度は心地よいはずなのに、喉を通るたびに、なぜか胸の奥がざらついた。「もう、しばらく弾いてなかったんだけど」「そう。……お母さんがいなくなってから?」その言葉は、あまりにも自然な響きをもっていた。問いかけのようでいて、実際は答えなど必要としていないような口調だった。智久はうなずこうとして、言葉にならない何かが喉に詰まった。返事をする代わりに、視線を七菜に向ける。「…あの子、強いのか、弱いのか、わからなくなるときがある」ぽつりとこぼれた言葉は、智久自身の胸から離れた瞬間に、空中で薄く解けていくようだった。「弱さと、優
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部屋の匂い、昔の自分
障子を閉めると、和室の空気は急に音を失った。光もほとんど差し込まず、四隅に薄暗さが滲み、畳の上にかすかな埃が舞っているのが見えた。空気はひんやりしていて、雨上がりの湿り気と、古い木材のにおいが混ざり合っていた。智久は廊下から一歩中に入り、ふと足元に目を落とす。畳の縁がすこしほつれていて、その先にあるピアノの脚がどこか頼りなく立っているように見えた。漆黒のアップライトピアノ。壁に寄せられたその楽器は、今ではもう家族の誰にも触れられず、ただそこに置かれているだけの存在だった。けれど、近づくほどに、確かにそこに刻まれている記憶の粒が、じわじわと胸の奥に広がっていく。手を伸ばすと、鍵盤の蓋はすでに少し開いていた。そっと指をかけて持ち上げると、音も立てずに静かに開いた。鍵盤には、かすかに手垢のような跡が残っていた。昭江が最後に使っていたまま、磨かれることもなく、眠るように閉ざされていた鍵盤。智久はしばらくそれを見下ろしたまま、動けなかった。ほんの少しだけ、指を伸ばして、白鍵のひとつに触れる。指先に感じる冷たさは、今でも鮮明だった。鍵盤の重みが、そのまま時間の重みに思えて、息を飲む。そのとき、遠くから七菜の声がした。けれど声というよりは、空気に滲むようなささやきだった。「パパ、ひけるの?」振り返ると、七菜が襖の向こうから顔だけのぞかせていた。目は大きく見開かれていて、興味と少しの不安が入り混じったような表情をしていた。智久は軽く息を吐き、うなずきかけて、すぐに言葉を探した。「ちょっとだけ、昔にね」そう答えながら、また鍵盤に視線を戻す。指が動かない。いや、動かしたくないのかもしれなかった。何かを確かめるように、鍵盤の表面をなぞると、微かなざらつきが指に触れる。それは思い出の手触りそのもののようで、胸の奥が少しだけ、きゅっと締めつけられるような感覚に包まれた。…春樹の顔が、ふと浮かんだ。あれは、自分がまだ小学生の高学年だった頃。春樹は、三つ下のまだ声変わりもしていないような少年だった。隣に住んでいた彼は、当時から音楽が好きで、よく庭から聞こえてくる鼻歌が家の中まで届いて
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未来の余白
夕暮れが、和室の襖の隙間からゆるやかに差し込み始めていた。外はまだ完全に暗くはなっていないが、障子越しの光は淡くなり、部屋の隅にはすでに灰色の陰が伸びていた。風が止み、空気が妙に静まり返る。智久は、椅子に座ったまま鍵盤に触れていた手をそっと引いた。ほんの数音だけ弾いたそれらの音は、もう部屋の空気に溶けていたが、その余韻はまだ指先に残っている気がしていた。和室の奥では、七菜がピアノの横にしゃがみこみ、じっと鍵盤を見つめていた。彼女の小さな手が、何かを確かめるように鍵盤の表面をなでる。指先ではなく、掌全体をそっと当てるような動きだった。強く触れるでもなく、音を出すでもなく…まるでその下に眠っている何かを、自分の手のひらで聞こうとしているようだった。智久はその姿を黙って見つめていた。娘の横顔にはまだ、幼さが残っていた。けれど、指の動きだけが、不思議なほど丁寧で、静かで、大人びていた。目を伏せると、ささやかな後悔が胸の底で広がる。もっと早くこのピアノの存在を教えてやれればよかった。もっと早く、あの子の手が音と出会う時間をつくってやれれば…。「パパ」呼びかけに顔を上げると、七菜がこちらを振り返っていた。声はとても小さかった。問いかけのようで、でもその語尾はどこかためらいがちで…まるで自分でもそれを口にしていいのかどうかを量るような、慎重な響きだった。「また、ピアノ…やっても、いい?」智久は息を呑んだ。ほんの一瞬、胸の奥に温かい何かが広がるのを感じた。それが喜びだと気づくのに、時間はかからなかった。けれど、喜びだけで答えることができない自分がいた。言葉に詰まり、智久は視線を床に落とした。「…やりたい?」七菜は黙ってうなずいた。はっきりとした意思のある動きだった。「東京でのピアノは…楽しかった?」「うん。でも…先生がいなくなってから、あんまり弾かなくなった」「そうか…」答えながら、智久の胸にいくつもの
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雨音と決意の朝
朝の空は薄い灰色で、窓の向こうに見える庭木の葉が、しっとりと濡れていた。夜のあいだ降っていた雨はもうやんでいたが、空気のなかにはまだ、水の匂いが微かに残っていた。風はなく、時折、屋根から落ちる雨だれの音だけが、静かな音として響いていた。和室では、七菜が一人、ピアノの前に座っていた。まだ鍵盤には触れていない。小さな背中はまっすぐに伸びていて、首だけがややうつむき加減だった。畳にしみついた墨のような匂いと、古い木の軋むような気配が、部屋の隅にこもっている。智久は襖の向こうからその姿をしばらく見つめていたが、声をかけることはできなかった。朝食の支度をする音が台所から聞こえる。湯気のたつ味噌汁の香りが、廊下をゆるやかに漂ってくる。居間のテーブルには、炊きたてのごはんと、焼き魚、漬物がすでに並べられていた。昭江が箸を整えながら、何気ない声で呼びかける。「七菜。冷める前に、食べてちょうだい」和室から出てきた七菜は、まだぼんやりとした表情のまま、ゆっくりと畳を歩いて食卓についた。智久も続いて席につき、三人での静かな朝食が始まる。茶碗を持ち上げる音、味噌汁をすする音、そうした日常の音だけが、部屋の中に細く続いていた。七菜はほとんどしゃべらず、箸を動かしていた。智久もまた、会話を探しながらも、言葉を飲み込んでいた。そんな沈黙のなかで、不意に七菜が箸を置いた。「パパ」呼びかけは静かだったが、まっすぐに向けられた視線が強かった。智久は少し驚いて、顔を上げる。「うん?」「やっぱり、ピアノ、やりたい」言葉の間に迷いはなかった。その小さな声が響いたとき、昭江の箸がわずかに止まるのが見えた。智久は、一瞬だけ返事に詰まった。娘の気持ちが本気だとわかるからこそ、軽々しく答えることはできなかった。七菜は、少しだけ口元を結び直して、もう一度言った。「ちゃんと習いたいの。独りで弾いてるだけじゃ、うまくできないから」智久は、ごはんの湯気のむこうに見える娘の顔をじっと見た。いつのまにか、こんなにもはっきりと言葉にするようになっていた
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再会
玄関の戸を開けた瞬間、冷たい空気がふわりと流れ込んだ。午後の空はまだ晴れきらず、雲が低く垂れ込めていた。道沿いの家々の屋根はしっとりと濡れており、空気には朝の雨の名残が漂っている。風はなく、ただ湿った静けさだけがあたりを満たしていた。その中に、まるで時間の隙間から抜け出してきたように、ひとりの青年が立っていた。「こんにちは。三輪です」そう言って微かに頭を下げた男は、智久の記憶にある姿と、どこか違っていた。背はすらりと高く、白いシャツの上にグレーのニットを重ねたシンプルな服装。線の細い体つきに、切れ長の目。肌は透けるように白く、唇の色が淡く、まるで光を反射する素材のようだった。髪はやや長めで、前髪がまぶたにかかっている。その横顔に、どこか少年のままの面影を残しながら、全体としては静かな大人の輪郭があった。中性的というより、境界が曖昧だった。男でも女でもなく、そのどちらでもあるような、どこにも属さない美しさを纏っていた。智久は、その姿を言葉もなく見つめていた。懐かしさと、見知らぬ他人のような距離感とが、胸の中で同時に膨らんでいくのがわかった。名前を呼ばれても、すぐに応えることができなかったのは、その感情の渦が一瞬で整理できなかったからだ。「…久しぶり、ですね」春樹は静かに言った。その声は、耳の奥で柔らかく響いた。低くはないが、決して高くもない。硬さのない声だった。呼吸の音と溶けるような、調律前の弦のような、そんな曖昧な響きを持っていた。「……ああ」智久はようやく言葉を返したが、その声は少し掠れていた。唇が乾いていて、うまく舌が回らない。視線を春樹の顔に戻すのが怖くて、少しだけ彼の肩越しに空を見た。春樹は、笑わなかった。ただ、少しだけ目を細めて、智久を見ていた。視線に含まれるものは、感情というよりも、静かな確認のようだった。懐かしさでもなく、驚きでもない。そこにはただ、過去をなぞるような、均質な波のような眼差しがあった。「今日は、挨拶だけのつもりで来ました。お忙しいところ、すみません」「いや…全然。あの、ありがとう
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調律師の訪問
和室に夕方の光が差し始めていた。障子を透かして届く光は、白ではなく、やや赤みを帯びたやわらかな色をしていた。日が落ちかけているのだとわかるが、まだ空は晴れきらず、雲が陽射しを拡散しているせいで、部屋の中はほのかにぼやけた明るさに包まれていた。古びたアップライトピアノの前で、男がひとり膝をついていた。灰色の作業服を着た初老の調律師で、髪は短く刈られ、白が混じっていた。声は少なく、表情も乏しいが、道具を扱う指の動きは驚くほど丁寧だった。蓋を外されたピアノの中身が、むき出しになっていた。ハンマーや弦の並びが美しく整っていて、だがどこか埃の匂いが残っていた。「こっちは随分、下がってますね」「…やっぱり、長く使ってなかったですから」春樹がうなずいて答えた。彼は調律師の隣に座り、軽く手を差し伸べて、ハンマーの動きに合わせてペダルを押している。その動作は、まるで呼吸のように自然だった。智久は、少し離れた場所に腰を下ろし、その様子を黙って見ていた。背筋を伸ばしているつもりだったが、肩に力が入っていることにふと気づく。手のひらが、膝の上で汗ばんでいた。ピアノの奥から、調律師の叩く音が断続的に響いた。単調に聞こえるはずのその音が、なぜか妙に耳に残った。弦をたたくたびに、部屋の空気がわずかに震えるのが感じられた。小さな音のひとつひとつが、部屋の静けさを削るようだった。七菜がピアノの横で静かに座っていた。春樹の肩に視線を向けたまま、言葉を発することもなく、ただその手の動きを追っていた。小さな身体がじっとしているその様子が、今朝の和室の空気とは違って、何かに惹かれているように見えた。「このあたり、調子悪いところ全部、触れておきます。ちょっと時間がかかりますけど」「お願いします」春樹が頭を下げたとき、智久の胸の奥に、微かに疼くような記憶が浮かび上がった。昔、母の膝の上に座って、同じように調律の様子を見ていたことがある。鍵盤の蓋を開けたピアノの中身が、初めて機械のように見えたときの驚き。音がただ出るのではなく、重なり、震え、微妙な力加減でまったく違う響きを生むことを知った日のこと。そ
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調律後の音
障子の外が徐々に暗くなり、部屋の中に灯りがともった。天井の電球は少し黄みを帯びた光を放ち、古い和室の柱や畳の縁にあたって、温かな影を落としていた。夜の気配が静かに、けれど確かに近づいてきていた。調律師が帰ってからしばらく経ち、ピアノの蓋は再び開けられていた。春樹は椅子を少し脇にずらし、七菜がそこに座る。彼女は小さな手を膝の上に置いたまま、しばらく鍵盤を見つめていた。音を出すことにまだためらいがあるのか、それとも、調律後のピアノの“変化”を感じ取ろうとしているのか、その表情にはどこか緊張がにじんでいた。「七菜ちゃん、好きな曲でいいよ。覚えてるの、ある?」春樹が声をかけた。「うん…ちょっとだけ、弾けるのがある」七菜はそう答えると、慎重に指を伸ばして、鍵盤の上に置いた。まだ小さな手。白鍵と白鍵の間にすっぽり収まりそうなその指が、静かに最初の音を押した。ぽん、と和室の空気が一瞬だけ震えた。以前の音とは明らかに違う。やわらかく、まっすぐに響く。音が弦から放たれて、空気に乗り、壁に当たって返ってくる。その流れが、はっきりと伝わってきた。七菜の弾いたのは、子ども向けの短い練習曲だった。繰り返しの多い、素朴なメロディー。だが、指がつまずき、音を間違えたとしても、そこに流れるリズムは確かに「音楽」だった。まるで、ピアノそのものが新しい呼吸を始めたかのように、音はひとつひとつ、部屋の空気に溶けていった。春樹はそれを横で見守りながら、小さくうなずいた。「いい音がするね」声は低くも高くもなく、まるでその音自体が和音の一部のようだった。七菜は一瞬、指を止めた。「ほんとに?」「うん。ちゃんと伝わってきた」その言葉に、七菜の口元がふわりとゆるんだ。もう一度、最初から弾き直そうと鍵盤を見つめなおす。その姿を見て、智久は胸の奥に何かがじわりと滲むのを感じた。音がする。目の前で娘が奏でた音。その横で、春樹がそれを受け取っている。静かに、肯定し、包み込んでいた。娘に向けたまなざしの奥に、音そのものへの深い敬意がにじんでいた。
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午後の光と、譜面の書き込み
午後の光が静かに和室に差し込んでいた。障子越しの柔らかな陽が畳に長く影を落とし、時間の流れをほんの少しだけ遅らせているように感じられる。柱の木目には小さな埃が沈み、空気の中には乾いた冬の匂いが混じっていた。七菜は宿題を終えたノートをぱたんと閉じると、まっすぐにピアノへと向かった。まだ少し緊張を帯びた歩き方で、けれど迷いのない足取りだった。椅子に腰かけ、足をぶらつかせながら、鍵盤の蓋をそっと開ける。顔を横にして、鍵盤を見つめるようにして両手を置く。その仕草はどこか祈るようでもあり、音を出す前の沈黙に包まれていた。智久はその様子を、部屋の隅で眺めていた。自分の娘がピアノの前にいるという、ただそれだけの光景が、なぜこんなにも胸に迫るのか、うまく言葉にはできなかった。ふと、部屋の奥にある古い譜面棚に目を向ける。埃の被ったその扉を開くと、中には折れた角のまま重ねられた譜面の束があった。黄ばんだ紙の間から、一枚をそっと引き出す。それは、見覚えのある練習曲だった。昔、自分も少しだけ母に教わった曲。赤鉛筆でつけられた音符の丸、音を伸ばす指示、そして欄外に小さく書かれた「よくできました」の文字。「ここ、昔…母さんが、赤鉛筆で丸つけてたとこだ」ぽつりとつぶやいた声に、隣にいた春樹が顔を向けた。その横顔は静かだった。切れ長の目がほんの少しだけ細まり、譜面に目を落とす。手の甲に光があたり、白く透けるような肌の質感が、記憶のどこかに重なる。「…先生の丸、変わってないね」春樹が言った。声はいつも通り静かで、淡々としているのに、なぜかそこに含まれた一言が胸を打った。“先生”。それは、春樹がかつて昭江のもとでピアノを習っていた頃に使っていた呼び方だった。春樹の口からそれが自然に出た瞬間、智久の中で遠い記憶が音を立てた。障子の向こう、台所から戻ってきた昭江が、ふと足を止める。春樹の声が届いたのだろう。手にしていた茶托がわずかに揺れ、ふくらんだ袖の下でその手がかすかに震えているのが見えた。昭江は数秒だけ立ち止まり、視線を春樹
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