Semua Bab 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。: Bab 31 - Bab 40

89 Bab

家族のような午後

リビングから聞こえてくるテレビの音は、低く抑えられたまま流れていた。七菜が何かアニメ番組を見ているのだろう。笑い声や明るい効果音が、障子の隙間から和室へと柔らかく染みこんでくる。智久は、畳の縁に足を揃えて座っていた。背筋を伸ばすでもなく、崩すでもなく、ただ静かに。その横には、同じように春樹が膝を立てて、クッションを抱えるようにして座っていた。ふたりの間に言葉はなかったが、沈黙は重くはなかった。窓の外では風が枝を揺らしていた。カーテンは引いていないが、曇り空のせいで部屋の中には淡い灰色の光が広がっている。時間は、午後の三時を少し回った頃。休日の午後の空気は、どこか水のようにゆるやかで、誰もその流れを乱そうとはしなかった。春樹が、不意に小さく笑った。「こうしてるとさ、家族みたいだな」その声は、囁きに近かった。特別な抑揚もなく、何気ない雑談のように投げかけられた言葉。それなのに、智久の耳には、まるで水面に一滴落ちた小石のように、深く響いた。隣にいる春樹は、目線をテレビの方に向けたまま動かない。智久の顔を見ていたわけではなかった。けれど、そういうところにこそ、彼の本心が宿っていると智久は知っていた。答えはすぐには返さなかった。返せなかったというよりも、返したくなかったのかもしれない。智久の視線は、目の前の座卓の端に落ちていた。手の甲の上にもう一方の手をそっと重ねると、ほんのわずかに指先が冷たさを持っていることに気づいた。(家族)春樹の口にしたその言葉が、智久の心に不思議な重みを残していた。過去の記憶が浮かぶ。亡き妻と、まだ幼い七菜と、三人で囲んだ食卓。誰かが笑い、誰かがこぼした味噌汁を誰かが拭っていた。そんな些細な日々。幸せは、あのころ確かに形を持ってそこにあった。だが今、春樹の言葉に心が揺れるのは、あの時の記憶を壊されたからではなかった。むしろ、それを知った上でなお、この今が優しすぎるからだった。言葉にしてしまえば、何かが変わってしまいそうだった。そんな予感が、胸の奥でしずかに疼いていた。「……」口を開かず、智久はただ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-14
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音のなかの素顔

和室の障子を通して差し込む光は、まるで音の余韻のように、薄く、柔らかく床を照らしていた。午後の気配はゆっくりと流れ、外では遠くで誰かの洗濯物を叩く音が小さく聞こえる。春樹は、一人、静かにピアノの前に座っていた。七菜は、今日は友達と図書館に行くと出かけていた。智久は仕事部屋で何やら資料を広げており、家の中は珍しく静けさに包まれている。和室に置かれた黒いアップライトピアノの前で、春樹はしばらくのあいだ鍵盤に触れずにいた。指先は膝の上に軽く置かれたまま、肩の力も抜けているのに、心のどこかがまだ整わないまま、時間だけが過ぎていく。そして、ふいに。指先が白鍵に落ちる。薄く響いたのは、ほんの一音。次いで、ゆるやかに旋律が重なり始める。懐かしい旋律だった。春樹が中学生のころ、練習曲の合間にしばしば弾いていた、ドビュッシーの「アラベスク」。複雑ではないが、呼吸のようなやさしい曲線が続く音の連なり。彼は、一音一音をたしかめるように鳴らしていく。左手の動きはごく自然で、右手のメロディも、まるで誰かの言葉をなぞるような気配を含んでいる。それは、誰のためでもない音だった。ただ、誰にも見られていないと思える時間に、ようやく自分自身に戻ることができる、そんなささやかな解放のような。だが、実際には見られていた。廊下を掃いていた昭江は、玄関の土間を終え、掃除用具を抱えたままふと足を止めていた。和室からかすかに流れてくる音に、目を細め、立ち尽くしている。昭江の表情には驚きはなかった。むしろ、それは「懐かしさ」に近いものだった。春樹が、この家に入りびたりだった少年の頃も、ピアノの音は日常の一部だった。彼が弾くとき、音の端々に、誰かの心の奥をそっとなぞるような優しさがあった。それは今も変わっていない。廊下から和室を見ると、春樹はピアノの前で背を少し丸めながらも、音に身体を預けていた。首筋にかかる髪が、午後の日差しに照らされて薄く金を帯びて見える。その背中から、力んだところが見当たらなかった。障子の外、庭の紫陽花が風に揺れている。昨夜の雨のしずくがまだ花弁に残っており、それが風に吹かれて、ぽつりと地面に落ちる音が微かに聞こえた気がした。和室に響くピアノの旋律
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-15
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変わっていないね

演奏を終えた春樹は、鍵盤の上からゆっくりと手を下ろした。最後の音が和室の空気に溶けていき、静寂が戻る。風が障子の隙間を抜ける音と、庭の木の葉が揺れるかすかなざわめきが、それに取って代わった。彼の肩がわずかに上下し、息をひとつ、深く吸う。それは緊張からの解放ではなかった。むしろ、何か懐かしいものと向き合い、見つめ合ったあとの、静かな整理の呼吸だった。しばらくして、背後から気配が近づく。「…変わっていないね」その声は、とても小さく、しかしはっきりと耳に届いた。わずかにかすれていたが、声の芯にはゆるぎのない温かさがあった。春樹は驚いたように振り返った。昭江が、和室の縁に立っていた。掃除道具はすでに片づけたのだろう。両手を前に重ね、まるで来訪者を迎えるような穏やかな姿勢でそこにいた。「先生…」言葉がすぐには出なかった。春樹は、座っていた椅子を静かに引き、立ち上がると、ゆっくりと一礼した。頭を下げるその動作には、照れも、誇示も、何もなかった。ただ素直に、その言葉に心を差し出すように。「ありがとうございます」彼の声は、胸の奥に何かを噛みしめるような柔らかさを帯びていた。昭江はふと微笑んだ。目の端に刻まれた皺が少し深くなり、その笑みは、言葉よりも多くを語っていた。春樹がこの家にいた時間、その音、その心。母親として見ていたものは、決して色あせていないと伝えるように。「音のことじゃないよ」と、昭江はふと目を細めた。「…音ももちろん、素敵だったけどね。そうじゃなくて…」少しだけ言葉を探すように間をおき、再び彼を見た。「あなたの音の出し方。きっと、誰かのために弾いてるときの、あの感じ」春樹は目を伏せ、軽く息を吐いた。笑ったのか、切なさが混じったような表情だった。「…そう、ですかね」「うん。昔から、そうだった」春樹はもう一度、今度は深く頭を下げた。敬意でも礼儀でもない。それは、胸の奥にぽつりと落とされた言葉の温度に応
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-15
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妻の記憶と、今の時間

茶碗を洗う水音が、ゆるやかに流れる空気の中に響いていた。窓の外では、日が傾き始めていて、台所の壁に夕陽がうっすらと影を描いている。静かな午後の余韻のなか、昭江は流しに向かって立ち、春樹はその横で皿を布巾で拭いていた。会話があるわけでもない。けれど、それが不自然ではなかった。少し前までなら、春樹はこうした“家族のような場”に居る自分にどこか戸惑いを覚えていた。しかし今は、身体の奥に染みこむような落ち着きがあった。智久がこの台所に立ち、娘の好きな味を覚え、夕飯を作っていた時間。ここには、静かな積み重ねのようなものが、確かに流れていた。「智久ね」不意に、昭江が水を止めた。少しだけ背中を丸めていた肩が、わずかに動いた。「最近、顔が柔らかくなったと思わない?」春樹は手を止めて、ゆっくりと昭江の横顔を見た。その目元は笑っていたが、どこか遠くを見つめるような静けさがあった。「…そうですね」「昔は、あの子、頑固だったから。笑うのも、どこかぎこちなくてね。あの子の奥さん…明日香さんと結婚してから、少しずつ変わったんだけど」「……」「でも、彼女がいなくなってからは、また前みたいに閉じてしまってた。あの子の心、きっと、ずっと凍ってたんだと思うの」春樹は返事をしなかった。けれど、昭江の言葉は、春樹の胸の奥に、静かに沁みていった。「でも、最近ね…あなたと七菜ちゃんがいるときだけ、智久の顔に、昔の…その、明日香さんと一緒だった頃のあたたかさが戻るのよ」春樹は、指先に持っていた皿をそっと布巾の上に置いた。深く息をつきながら、ほんの少しだけ、視線を落とす。「それは…彼が、彼女のことをちゃんと忘れていないから、なんでしょうね」その言葉は、春樹自身の胸にも突き刺さるものだった。忘れられないものを抱えたまま、誰かと向き合うということ。その苦しさと、誠実さ。その両方が、いまの智久に確かに宿っていることを、春樹は知っていた。「そうかもしれないわね
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-16
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それでも、続いていく

縁側の硝子戸を隔てて、夜の庭が静かに息をしていた。雨上がりの草木は、月の光を吸い込んだかのようにしっとりと艶めき、葉の先から滴る水音だけが、時折、静寂を揺らしていた。昭江は、膝に薄手のひざ掛けをかけて、黙ってその風景を見ていた。縁側の木の床はすこしひんやりとしていて、季節の変わり目を足元から知らせてくる。湯気の立つ湯呑が傍らにあっても、その温もりは、どこか遠く感じられた。足音は、ふいに後ろから静かに届いた。戸を開ける音も、声もない。ただ気配だけがすうっと傍に寄り添ってくる。「…ありがとう」昭江の横に、もうひとつ湯呑が置かれた。智久だった。彼もまた言葉少なに、昭江の隣に腰を下ろした。二人の間には、湯気の立つ湯呑がひとつずつ。そして、庭の夜気。しばらく、何も言わなかった。昭江は視線を落としたまま、庭先にある紫陽花の葉の先に溜まった水滴を見つめていた。それが風に揺れ、ひとつ、またひとつ、静かに落ちていく。「春樹くん…今日は、よく弾いてくれてたね」昭江がぽつりとこぼした言葉は、雨のしずくよりも穏やかだった。智久は小さく頷いた。顔は上げず、庭の奥の黒い影に目をやったままだった。「…あいつがいて、七菜が笑ってくれる」湯呑に手を添えながら、そう呟いた声は、かすかに震えていた。喜びなのか、戸惑いなのか、自分でもはっきりしないまま言葉にしたようだった。昭江は、ふっと笑った。それは声にはならず、唇の端がごくわずかに持ち上がるだけの、微かな表情だった。「それでいいと思うよ」その言葉は、湯気とともに空気に溶け、智久の胸の中に静かに染みていった。風が、軒先の竹をかすかに揺らした。その音も、夜の静けさを際立たせるようだった。「…なんだか、まだ信じられないんだ。俺がまた、こうして誰かと一緒に日々を過ごしてるっていうことが」智久は言葉を絞り出すように続けた。「時間って、本当に勝手に進むんだなって思う。あの日から止まってたのに…七菜が笑った瞬間とか、春樹がふ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-16
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月影と残響

窓の外には雲ひとつなく、月が淡く庭を照らしていた。時計の針はすでに午前二時を回っている。家中が寝静まり、廊下の板のきしみさえも音を立てるのをためらっているようだった。智久は和室の隣にある小さな書斎にひとり、ローテーブルの前でうずくまるように座っていた。夜更かしの習慣はない。だが今夜だけは、どうしても眠れなかった。手元には、小さな録音機。七菜のピアノレッスンの記録用に、春樹が持参してきた機材の一部だ。USBに残された音源を整理しようとしていたはずなのに、指がふと、再生ボタンの上で止まった。そのまま、押さずに引き返すこともできた。だが、押した。一瞬の静寂が、部屋の空気を引き締める。そして、そっと音が流れはじめた。スピーカーから立ちのぼったのは、春樹のピアノだった。最初の一音が、部屋の空気を変えた。まるで透明な水が一滴、音もなく落ちたような、そんな感触だった。音の輪郭は柔らかく、けれど一音一音がくっきりと響く。七菜の練習のために選んだはずの短い小品。だがそこには、ただの教材以上のものが宿っていた。指先のうごめきすら感じるほどに、音は息をしていた。智久は膝の上に両手を置いたまま、じっと耳を傾ける。目を閉じると、ふいに昔の記憶がよみがえる。夜遅くまで響いていた連弾。鍵盤の上で交錯する音と音、その隙間にある、無言の会話。春樹の音は、あの頃から変わっていなかった。…いや、少しだけ、違っていた。あの頃よりも、やさしすぎる。音がやさしいということは、痛みを知っているということだ。聴いている者の傷をそっと撫でて、何も問わずにただそこにいるような、そんな音だった。ふいに、喉の奥が熱くなる。音楽から遠ざかっていた時間のぶんだけ、身体が忘れていた感覚がよみがえる。それは単に懐かしいというだけではなく、胸の奥に残っていた何かに静かに触れてくる、そんな感覚だった。「…変わってない、のに…」呟きにもならない言葉が、唇の裏にだけ残った。録音はまだ続いていた。春樹が七菜のために、一つ一つの音に意味を込めていたのがわかる。決して誇張せず
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-17
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記憶と重なる影

スピーカーから流れつづける春樹の音に、智久のまなざしは曖昧な焦点のまま滲んでいた。月明かりに照らされた書斎の一角で、時間はゆっくりと後ろに巻き戻っていくようだった。音の重なりは、風景を連れてくる。耳から入り、胸の奥で、記憶の扉をひらいていく。鍵をかけていたはずのその扉が、いとも簡単に、音の圧力で静かに開かれる。あの頃の春樹の笑顔が、不意に浮かぶ。中学の音楽室。午後の光が斜めに差し込んで、埃が光の筋のなかで舞っていた。放課後、誰もいない部屋に残って、ひとつの鍵盤をふたりで挟んで座った時間。春樹は当時、まだ小柄だった。けれど、手は驚くほど大きくて、指先はすでに音の輪郭を知っていた。「智くん、次のパート…ここ、こうしたらきれいだよ」そう言って笑った春樹の顔は、どこか無邪気だった。けれどその奥に、年齢には似合わないほどの集中と熱量があった。智久は、そんな春樹の音に助けられるようにして、何度も指を重ねた。あのとき、鍵盤の上で起きた“重なり”は、単なる音楽の連携以上のものだった。息を合わせるというよりも、息が共鳴していた。彼の音が自分のなかに入り込み、自分の音が彼のうちにほどけていく。その感覚が、くすぐったくもあり、なぜだか少し苦しくもあった。それは、今も変わっていない。智久は、胸の奥を押さえるようにして手を握りしめた。春樹の音が、どうしようもなく、優しすぎる。「…音が、優しすぎて…逃げ場がないんだよ…」小さく洩れた言葉は、自分でも驚くほどかすれていた。逃げ場。そうだ。自分はずっと、音からも、春樹からも、過去からも、逃げていた。音楽をやめたのも、音が好きすぎて、失うのが怖かったからだ。あの頃、ひとりになってしまう感覚が怖かった。春樹の音と離れて、自分の音が無力に感じられるのが、耐えられなかった。春樹が自分よりもずっと先に進んでしまう気がして、追いつけないと知っていた。けれど今こうして、再び耳にする彼の音には、あの頃よりも、もっと多くの感情が込められている。時
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-17
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言葉にできない熱

カップの中で、茶葉が静かに沈んでいた。智久はその小さな渦を見つめながら、口元まで持ち上げた湯呑をふいに止めた。春樹の音が、まだ部屋に残っている気がした。録音はとうに終わっている。スピーカーは無音のまま、まるで何事もなかったかのように沈黙している。けれど耳の奥には、旋律のかけらが残っていた。もはや音というより、質感。温度。あるいは…熱。再生ボタンを押してから、時間はどれほど経ったのだろう。時計を見ても針の意味がわからなかった。目に映るのはただの数字の配列で、そのあいだを通り過ぎた自分の時間には、名前がなかった。春樹の音は、変わっていないと思っていた。優しくて、まっすぐで、どこか無防備なところがあって、それでいて芯がある。あの頃、連弾をしていた時も、春樹は音でしか感情を語らなかった。言葉では追いつかない種類の想いを、彼は全部、指に込めていた。けれど今、その音には、別の“なにか”がある。同じ旋律のはずなのに、響きが違う。流れの途中でふと、間の取り方が変わった。指が揺れた。呼吸のように、迷いのように。そこに宿っていたものを、智久は知っていた。それは今この瞬間の春樹の、名指しの想いだった。智くん、と呼ばれる声が、どこかで重なった気がする。実際には何も聞こえていないのに、その響きだけが脳内で再生されるようだった。春樹の声は、音よりも柔らかい。けれど音のほうが、深く刺さる。智久は、湯呑をそっと机に戻した。春樹の音が変わった理由を、考える。時が経ったからか。人生を積んだからか。それとも——自分のせいなのか。そんなふうに思ってしまうのは、傲慢だろうか。それでも、あの旋律のなかに含まれていた“熱”は、曖昧な誰かに向けたものではなかった。少なくとも智久は、そう感じてしまった。感じてしまった——その事実が、すでに逃げ場を塞いでいる。胸の奥がざわついていた。言葉にならない波が、身体のなかでゆっくりと広がっていく。その中心にあるのが何なのか、まだ名付けられない。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-18
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孤独と寄り添い

夜の深さが一段階、濃くなったような気がした。空気の温度は変わっていないはずなのに、部屋の隅にまで沁みわたる静けさが、どこかで境界を越えたような感覚があった。一度切れた再生の音が、再びふいに流れ始めた。どうやら連続再生の設定がなされていたらしい。無造作に繋がれた録音ファイルのなかから、バッハのプレリュードが響き始める。智久はその最初の数小節を聴いた瞬間、思わず呼吸を止めていた。規則的な分散和音が、ゆっくりと空間にほどけていく。静かに、しかし確かに…春樹の指が、音に問いを含ませているのがわかった。それはただの練習の録音ではなかった。どこかで、この曲を通して“誰か”と対話しようとしているような、そんな雰囲気があった。問いかけている。…それは、俺にか?そう思った瞬間、胸の奥が不意にざわついた。誰かの孤独に対して、「わかるよ」と返すような、春樹のタッチだった。バッハの構造は理性的で均衡が取れている。それなのに、春樹の弾くこのプレリュードには、どこか湿り気を帯びた感情が潜んでいた。押しつけがましさはない。ただ、そっと差し出すように、音がそこにある。寄り添うための余白を残したまま、春樹の音が空気を震わせていた。智久は目を閉じた。どこかで、柱がきしむ小さな音がした。家の骨が、夜の静けさのなかで軋んでいる。誰もいない廊下。寝静まった部屋。冷たい窓ガラスの向こうに、見えない月の気配がある。その孤独のなかに、音だけが確かに存在していた。一音一音が、智久の内側を撫でる。ゆっくりと、丁寧に、まるで古い傷に触れるように。そのやさしさが、ときに残酷にさえ感じられた。優しさはときに、逃げ場を奪う。認めたくない感情を、ふいに照らし出す。春樹の音は、まさにそうだった。「…なあ、春樹」誰もいない部屋で、声が漏れた。返事はない。けれど、演奏の向こうから何かが確かにこちらを見ているような錯覚があった。見えないはずの瞳が、こちらの胸の奥を覗き込んでくるような、不思議な感覚。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-18
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声にならない返事

再生機器が静かに止まり、部屋のなかから音が消えた。けれど、智久の耳には、まだ微かな旋律が残響していた。まるで空気そのものに染みついているような、春樹の指先が紡いだ余韻。静寂は深く、そしてやけに濃かった。時計の秒針の音さえ聞こえない夜のなか、ただ身体のなかをゆっくりと流れていく春樹の音だけが、記憶と感情の奥を撫で続けていた。智久は、右手に置いた湯呑みを取ろうとして途中で止めた。指先がぴくりと震える。それが冷めた茶の重さに対してだったのか、それとも、心の奥にじんわりと広がっていくものの正体に対してだったのか、自分でもわからなかった。窓の向こうは、濃紺の空が広がっていた。遠くに街灯の明かりが、にじんで滲んでぼやけていた。雨は降っていないはずなのに、なぜか空気が湿って感じられた。やがて、智久は小さく息を吸い、ぽつりと呟いた。「…昔から……春樹の音は、あたたかすぎる」言葉にしてしまったその瞬間、胸の奥がじわりときしんだ。声はかすかに震えていた。言葉を吐くことは、心を開くことだ。普段は閉じたままでやり過ごせていた感情が、たった一文のなかに溢れてしまう。その余韻の中で、内心でそっと、続けるように思った。だからこそ、俺には…まぶしかった。まぶしくて、うまく見られなかった。まぶしさは光だけではない。過去の記憶も、未来への願いも、その中に溶けていた。春樹の音には、かつて自分が失ったものも、まだ失いたくないものも、すべてが入っていた。なのに、春樹はそれを押しつけてくることはなかった。あの音のなかには、強制も、哀れみも、後悔もなかった。ただ、そっと隣に寄り添うように置かれたぬくもりだけがあった。智久は目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、今日の春樹ではなかった。中学の音楽室。放課後。古びたアップライトピアノの前で、真剣な顔をして譜面を睨んでいたあの少年。――あれから、いったいどれだけの時間が流れたのだろう。春樹の姿は、この部屋にはいない。けれど、はっきりと&ldq
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