七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 691 - チャプター 700

715 チャプター

第691話

太一は出て行こうとする背中に声をかけようと口を開いたが、結局、無力感に襲われて言葉を飲み込んだ。ドアが閉まると、掛川が深い溜息をついた。「最悪のパターンだな。今の彼の精神状態は、過去最悪と言ってもいい」掛川の表情は、これ以上ないほど深刻だった。「あの頃……母親を亡くした直後も、彼は強い自殺願望に取り憑かれていた。だが、江崎さんとの出会いが彼をこの世に繋ぎ止め、母親の無念を晴らすという執念が彼を生かし続けてきたんだ」掛川は机の上で両手を組み、静かに続けた。「だが今、すべての復讐は終わり、唯一の光だった彼女とも完全に決別した。生きる目標も、心の支えも失った彼にとって、今の生は苦痛の延長でしかない。生きている意味を見失っているんだ」太一は、水を含んだ真綿を無理やり喉に押し込まれたような息苦しさを感じていた。柊也の友人として、己の無力さと無知が恥ずかしくてならなかった。長年の付き合いだと思っていた。だが、自分は彼のことを何一つ知らなかったのだ。母親の死後、彼が深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、何度も死の淵を彷徨っていたことも。誰にも言わず精神科に通い詰めていたことも。そして、亡き母の復讐のために七年もの歳月を費やし、自らの身を危険に晒してまで地獄へ飛び込もうとしていたことも……友達失格だ、と太一は唇を噛み締めた。ここ二年ほど、頻繁に面会に通うようになってようやく断片的な事実を知ることができたが、それすらも氷山の一角に過ぎないのだろう。彼の心の奥底にある本当の闇を、自分はいまだに理解できていない。掛川は重々しく太一の肩に手を置いた。「手遅れになる前に、なんとかして彼を説得してくれ。このまま放置すれば、遅かれ早かれ取り返しのつかないことになるぞ」その言葉は、太一の心をより一層深く冷たい底へと突き落とした。……午後、詩織は早めに仕事を切り上げると、ホテルへ小春を迎えに行き、そのまま実家へと車を走らせた。今夜の夕食は、初恵の手料理だ。豪勢なものではない、ごくありふれた家庭料理ばかりだったが、小春は「おいしい!」と目を輝かせ、嬉しそうに頬張っていた。食後、初恵が冷蔵庫からガラス瓶を二つ取り出してきた。飴色に透き通ったそれは、彼女がじっくりと時間をかけて煮込んだ自家製の『梨のハチミツ煮』だった。
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第692話

もともと届け物をしたらすぐに帰るつもりだったため、詩織たちの滞在は短いものだった。車のエンジン音が遠ざかっていくのを確認してから、二階のカーテンの陰から柊也が姿を現した。照明の落ちた部屋は漆黒の闇に包まれ、彼の輪郭を深い影の中に隠している。暗闇の中、彼は伏し目がちに立ち尽くしていた。握りしめた拳の手の甲には血管が浮き上がり、目元は微かに赤く潤んでいる。ノックの音が響き、松本さんの心配そうな声がドア越しに聞こえてきた。「柊也様、もう少し何か召し上がりませんか?さっき、ほとんど手をつけずに残していらしたでしょう」これ以上、彼女に心配をかけるわけにはいかない。柊也は短く返事をした。十分後、再び一階のリビングに降りてきた時、柊也の表情は能面のように静まり返っていた。松本さんは手早く食事を温め直してくれたが、やはり箸はほとんど進まなかった。重苦しい沈黙の中、松本さんが言い淀みながら口を開いた。「さっきね、詩織さんが来たとき……女の子を連れていたんです。自分の娘だ、って紹介されて」スープを口に運ぼうとしていた手が、ぴたりと止まった。「十歳……もう少し上かしら。少し痩せていて、とても可愛らしいお嬢さんだったわ。目がね、詩織さんにそっくりなの」そこから先、彼女が何を言っていたのか、柊也の耳にはもう入ってこなかった。嵐のように掻き乱されていた心が、さらに激しく揺さぶられ、思考が粉々に砕け散っていくようだった。「……帰るよ」彼は箸を置くと、上着を手に取って立ち上がった。「今夜は泊まっていかれないんですか?」「ああ」松本さんは何か言いかけたようだったが、それを遮るように、柊也はドアを開けて夜の闇へと消えていった。街灯の光が流線型を描いては後方へと飛び去っていく。柊也はアクセルを深く踏み込み、夜のアスファルトを切り裂くように車を走らせた。窓は全開にしてある。吹き込む夜風が荒々しく髪をかき乱し、車内を満たす轟音が思考を無理やり断ち切っているようだった。どれくらい走っただろうか。不意に車を止めたとき、そこは南山湖の畔だった。無意識のうちにハンドルを切っていたらしい。早秋の湖水は、まだ凍えるほどの冷たさではない。柊也は岸辺に降り立ち、両手で水を掬って顔を洗った。冷たい水が肌を打ち、混乱した頭の中にわずかな
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第693話

「探さなかったとでも思うか?」柊也の声には、深い虚無感が滲んでいた。「俺は、探したんだよ」あの日から二日も三日も、泥の中に手を突っ込んで探し続けた。そのせいで半月以上も高熱で寝込む羽目になった。今のように穏やかな気候ではなかった。骨まで凍てつくような冷たい水の中、必死でかき回した。けれど、結局何も見つからなかったのだ。太一はそれ以上何も言えず、最後は拝み倒すようにして、ようやく柊也を湖畔から引き剥がすことに成功した。「なあ柊也、実家に居づらいなら、俺んちに来ないか?部屋ならあるし」本当のところは、目を離せばまた消えてしまいそうな彼を監視しておきたかったのだ。しかし、柊也は考える素振りもなく首を横に振った。「住むところならある」「はあ?どこだよ?」太一は目を丸くした。今回の事件で、柊也名義の資産はすべて差し押さえられている。かつて詩織と暮らそうとしていたあの新居だって例外ではないはずだ。だが、太一の疑問に答えることなく、柊也は車に乗り込むとエンジンをかけた。「おい、待てって!だからどこに行くんだよ!」太一の叫び声だけが虚しく響き、柊也の車は土煙を上げて走り去っていった。……詩織は、帰国後すぐに会社の陣頭指揮を執ることに追われていた。会議に次ぐ会議で、すでに一週間が経過している。この日もコンコン、とオフィスのガラス戸がノックされた。顔を出したのは、アシスタントの密だった。「詩織さん、引っ越しの件について確認したいのですが」華栄キャピタルの新社屋は、今年の上半期すでに完成し、一部の部署はそちらへ移転を済ませている。しかし、肝心のトップである詩織の執務室がまだ旧オフィスのままだったため、会社としてのグランドオープンを宣言できずにいたのだ。すべては詩織のスケジュール次第で動いている。「ああ、前の予定通りに進めてちょうだい」詩織は手元の書類から目を離さずに答えた。密もすっかり板につき、今では安心して多くの権限を委ねられる頼もしい存在だ。「わかりました。それと、ここの社長室ですが、そのまま残しておきますね。今後もこの場所は支社として機能しますし、詩織さんがいらした時に使える場所があったほうが便利でしょうから」密の提案に、詩織は頷いた。実のところ、彼女はこのオフィスに愛着があった。人
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第694話

松本千代子――それは、賀来家で長年仕えている家政婦、松本さんのフルネームだ。ただの家政婦である松本さんが、これほどの巨額を用意できるはずがない。つまり、答えは明白だった。「詩織さん、どういうことですか?」傍らで不思議そうにする密の声も、今の詩織には遠くのざわめきのようにしか聞こえない。思考が千々に乱れ、ざわざわと胸が騒ぐ。「……ここの賃貸件、もう心配しなくていいわ。契約は二十年になってたから」「えっ、二十年?そんなに長くですか?」詩織は返事もせず、上着をひっつかんでオフィスを飛び出した。「詩織さん、どこへ行かれるんですか!」背後から投げかけられた密の問いかけも、耳には入らなかった。詩織は車を飛ばし、再び賀来邸の前へとたどり着いた。しかし、いざ重厚な門扉を前にすると、ブレーキを踏む足に力がこもった。ここに入れば、間違いなく今の均衡が崩れる。ようやく、本当にようやく、泥沼から這い上がり、手に入れた平穏な日々だ。その静けさを自ら壊しに行くような真似をしていいのか。過去の傷を掘り返す勇気も、覚悟も、今の彼女にはない。詩織はハンドルを切り返した。まるで最初からここになんて来なかったかのように、彼女は静かに車を発進させ、その場を離れた。華栄キャピタル本社移転の祝賀パーティー当日。会場のホテルには、江ノ本市の政財界の重鎮たちがこぞって顔を揃え、立錐の余地もないほどの盛況ぶりとなっていた。きらびやかなシャンデリアの下、詩織は懐かしい顔ぶれと再会した。譲の姿があり、智也の姿もあった。少し意外だったのは、智也が一人で現れたことだ。密が招待状を送った際、宛名は彼と奥様、夫婦連名にしていたはずなのに。とはいえ、何か事情があるのだろう。他人の家庭の事情に立ち入るほど、今の詩織は無神経ではなかった。予想外の来客があった。賢だ。一年ぶりの再会となる彼には、いよいよ官僚としての風格が備わっていた。噂によれば、また一つ出世の階段を上ったらしい。それからもう一つの噂――彼は未だに独身を貫いているらしい、とも。「江崎社長、ご移転おめでとうございます。華栄キャピタルのさらなるご発展と、輝かしい未来を心よりお祈り申し上げます」流暢な祝辞に、詩織はフォーマルな笑みで応える。「ありがとうございます、篠
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第695話

霜花との再会は、詩織にとって少々面倒なものだった。彼女の人懐っこさは昔と変わらない。良く言えば社交的だが、悪く言えば距離感が近い。夫の京介に伴われて挨拶に来たかと思うと、そのまま詩織を捕まえて話し込んでしまった。「詩織さん、また綺麗になったんじゃない?」「仕事も順調だし、素敵な婚約者までいて羨ましいわあ」褒め言葉もそこそこに、話題は自然とノロケ話へとシフトしていく。京介がいかに自分を大切にしてくれているか。自分がまだ若いからという理由で、子供はもう少し待とうと言ってくれていることなど、夫婦円満ぶりを滔々と語り始めた。他人の家庭事情、それも幸せ自慢に付き合わされるほど退屈なことはない。詩織が内心でうんざりしていたその時、タイミングよくスマートフォンが震えた。親友のミキからだ。詩織は救われた思いで、「ごめんなさい、友人を迎えに行かなくちゃ」と霜花に断りを入れ、足早にエントランスへと向かった。回転ドアを抜けて飛び込んできたのは、空港から直送で駆けつけたミキだった。ドレスアップはしていないものの、その洗練されたカジュアルな装いは、隠しきれない女優オーラを放っている。「詩織!間に合ったわよ、私ってすごくない!?」ミキは勢いよく詩織に抱きついた。「わざわざバカンスを切り上げてまで来ることなかったのに」「バカンスなんていつでも行けるけど、華栄キャピタルの移転パーティーは一生に一度きりでしょ?私だって一応、この会社の出資者なんだから!」調子の良いことを言うミキに、詩織は苦笑した。ふと、彼女の輪郭に違和感を覚える。「ミキ、あなた……少し太った?」「グハッ!いきなり殺傷力の高いセリフ吐かないでよ!」ミキが大げさに胸を押さえて後退る。「だって、前が痩せすぎだったから。少しお肉がついただけでも目立つのよ」「ま、まあね。海外のご飯はおいしいし、開放的になっちゃってさ。あっちのメンズも凄かったわよ~、詩織も一度くらい味わっとけばよかったのに」詩織は呆れて言葉も出なかった。その後、高村教授が到着し、詩織は彼を案内して貴賓室へ。一人残されたミキは、気ままに会場を散策し始めた。色とりどりのスイーツをつまみ、フレッシュジュースで喉を潤す。久々のパーティーの空気を楽しんでいた、その時だった。「なんであんたがここにいんの?」
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第696話

だが、その事実を知った途端、胸の奥で固く結ばれていた何かが、ふっと解けたような気がした。とにかく、無事に社会へ戻ってこられたのだ。それだけで十分だ。柊也について、それ以上の詮索はしなかった。それよりも、目の前のミキの憔悴ぶりが心配でならない。「ミキ、顔色が優れないわ。今日はもう先に帰って休んだほうがいい」詩織の心遣いに、ミキは素直に従うことにした。これ以上、あの不愉快なカップルと同じ空間に居続けるのは御免だった。ミキを見送り、会場に戻った詩織を待ち受けていたのは、その当事者たちだった。白彦と璃々子が、乾杯の挨拶の前に駆け寄ってくる。以前の詩織なら、この二人に含むところはなかっただろう。接点など皆無に等しい。しかし、つい先日、ミキが血の滲むような努力で勝ち取った映画のヒロイン役を、璃々子が白彦の威光を使って横取りした一件を知っている。だから、彼らに向ける詩織の眼差しは、どうしたって冷ややかなものにならざるを得なかった。挨拶を終え、演壇へと向かう詩織の背中を見送りながら、璃々子は眉を曇らせた。「ねえ白彦兄さん……今の江崎社長の態度、なんだかよそよそしくなかった?」「そうか?初対面なんだ、あんなものだろう」「ううん、違う。女の勘よ。私、嫌われてる気がする」璃々子には確信があった。ミキから奪ったあの役も、結局すぐに降板させられた。その理由を探ってみると、どうやら『華栄キャピタル』の上層部からの圧力があったらしいのだ。自分と華栄の社長には何の接点もないはず。それなのに、なぜ執拗に標的にされるのか。もしかして、ミキが華栄と繋がっている?一瞬そんな疑念が浮かんだが、すぐに否定した。そんなはずがない。あの女はただの身寄りのない小娘だ。白彦の祖母に気に入られているという、ただそれだけの理由で白彦の妻の座に居座っている寄生虫に過ぎない。そうだ、あのおばあ様だ。あんな女の何がいいのか、頑なに璃々子を受け入れようとせず、未だに「私が生きているうちは、絶対に離婚など許しませんよ」と白彦に圧力をかけ続けている。あの老婆の存在こそが、二人を隔てる最大の障害なのだ。「……おい、璃々子」白彦に呼びかけられ、璃々子はハッと我に返った。暗い思考の海に沈んでいたことに気づかれぬよう、瞬時に愛らしい微笑みを浮
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第697話

あのとき、『一度だけでいい、彼女の運転手として一番近くで見守らせてくれ』と懇願されて、渋々了承したのはつい先日だ。それなのに、まさか今日もまた、本来の運転手である湊と入れ替わっているなんて。「彼女の邪魔はしない。ただ送るだけだ」マスク越しの声は低く、くぐもっている。「もう邪魔をしてるじゃないですか!」密の鋭い指摘に、柊也は二秒ほど沈黙した。「……これが最後だ。約束する」その悲痛な響きに、密は唇を噛んだ。本来ならここで警備員を呼ぶべきだ。けれど、彼の目に見える絶望と懇願の色に、どうしても非情になりきれない自分がいた。「……本当に、最後ですよ」密はため息交じりにそう告げると、助手席へと乗り込んだ。車は夕闇に包まれた街を、滑らかに走り出した。華やかに灯る街灯と流線型のネオンが、バックミラーの中に次々と現れては消えていく。車内は至って静かだ。不意にスマートフォンが震えた。柊也は瞬く間に着信を切った。そして、緊張を滲ませながらバックミラーへと視線を走らせる。後部座席の詩織は、幸いにも目を覚ましてはいなかった。迅速な反応が功を奏したのか、あるいは深い眠りに落ちているのか。彼女の穏やかな呼吸は乱れることなく続いている。マンションの前に到着し、エンジンを切る。走行音が消え、静寂が訪れると、その変化を察知したのか、詩織がゆっくりと目を開けた。「……ん」「……ん」頭が重い。久々の深酒で、すっかり弱くなってしまったらしい。窓の外には見慣れた我が家のエントランスがあった。けれど、すぐに降りようとはせず、詩織はこめかみを軽く揉みほぐした。「まだ少し酔ってるみたい。……南山湖まで行ってくれる?風に当たって酔いを覚ましたいの」運転席の男の手が、強くハンドルを握りしめた。しかし、彼は何も言わず、再びエンジンを始動させた。静かに、けれど確実に、車は南山湖へと向かって走り出した。湖畔に到着しても、詩織は車から降りようとはしなかった。ただ窓を半分ほど開け、そこから吹き込む夜風を全身で受け止めている。季節は初秋。夜気は適度に冷たく、それでいてどこか優しさを含んでいた。火照った頬を撫でる風が心地よく、アルコールで麻痺した思考を少しずつクリアにしていく。詩織は窓枠に頭を預け、数分間、ただぼんやりと湖面を渡る風を感じていた。「も
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第698話

太一がようやく柊也を見つけた場所は、またしても南山湖のほとりだった。いつもと同じ、あの場所だ。「そんなに江崎がここに何を投げ捨てたか気になるなら、いっそ業者を呼んで湖の水を全部抜いて探させてやろうか?」言っている自分でも、その言葉の虚しさに呆れてしまう。そもそも詩織が具体的に何を捨てたのか、誰も知らないのだ。仮にそれが何か分かっていたとしても、あれから既に五年が経過している。広大な湖の泥底をさらって小さな何かを探すなど、雲をつかむような話だ。「なぁ、柊也。今どこに住んでるんだ?」太一はずっと気になっていたことを切り出した。心療内科医の掛川からは、一刻も早く柊也に専門的なセラピーを受けさせるよう忠告されていた。だが、治療を勧める以前に、まずは彼の居場所を把握し、いつ起きてもおかしくない自傷や自殺衝動を未然に防がなければならない。「聞いてどうする」柊也は水面を見つめたまま、頑として口を割ろうとしない。無理に聞き出すわけにもいかず、太一は話題を変えることにした。「それなら……『栞』に戻ってこないか?もともとあんたが作った会社だろ。あんたが復帰してくれれば、俺もようやく休暇が取れるってもんだ」「興味ない。それに、今の代表名義はお前だ。俺には関係ない」柊也の声は澱んでいて、生気がない。何に対しても関心を持てない、魂が抜け落ちたような状態だった。太一があの手この手で言葉を尽くしても、柊也の閉ざされた心を動かすことはできなかった。結局、彼が今どこで雨風をしのいでいるのかさえ聞き出せずに終わった。週が明け、月曜日。AIプロジェクト『ココロ』のチームが、定例報告のために華栄キャピタルを訪れた。しかし、会議室に現れたのはプロジェクトリーダーである技術者の智也ではなかった。現れたのは、智也の妻――そして『ココロ』の現副社長を務める、久坂真理子(くさか まりこ)だった。詩織の中に残っている真理子の印象は、まだ彼女が智也の秘書として働いていた頃のものだ。当時の彼女は、慎ましやかで分をわきまえた、実直な女性だった。だが今、ふんぞり返るように座っている目の前の傲慢な女は、かつての彼女とはあまりにかけ離れていた。同一人物だとは、到底信じ難い変貌ぶりだった。「何このコーヒー、ひどい味。まさかインスタントじゃないでしょ
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第699話

「いいえ。少なくともここでは、あなたは彼ではありません」詩織の言葉は冷たく、そして明確だった。結局、真理子は顔を真っ赤にして憤然と席を立ち、ヒールの音を響かせて会議室を去っていった。彼女の姿が見えなくなるや否や、密が怒りを爆発させた。「信じられません!あれじゃ恩を仇で返すも同然じゃないですか!自分を何様だと思ってるんですか、詩織さんにあんな口を利くなんて!」密の憤りは収まらない。「創業当初、『ココロ』に投資してもらうために詩織さんがどれだけ頭を下げて回ったか……どれだけ泥水をすすって、お酒を飲んで駆けずり回ったか!どうしてみんな、喉元過ぎれば熱さを忘れるんでしょうか!」「人間なんて、そんなものよ」詩織の声は淡々としていた。かつての自分なら、密と同じように怒り狂っていただろう。だが、あまりに多くの裏切りと喪失を経験した今の彼女には、他人の醜悪なエゴイズムになど何の期待も抱けなくなっていた。そんな詩織の諦念を感じ取ったのか、密がふと不安げに尋ねた。「……久坂さんご自身も、同じお考えなんでしょうか?」「さあ、ね。それよりも、真理子が最近誰と接触しているか調べて」密の仕事は迅速だった。午前中に指示を出したその日の午後には、既に調査結果がデスクの上に置かれていた。「……『栞』?」報告書にあるその社名を見た瞬間、詩織の胸になんとも言えないざわめきが走った。自分と同じ読みを持つ会社名。単なる偶然だろうか。聞き覚えは全くない。けれど、なぜか奇妙な既視感のようなものが肌にまとわりつくのを感じた。「ここ二年ほどで急激に成長してきたテック企業です」密が補足する。「主力は高温超伝導技術で、その完成度は驚異的だそうです。国内市場を独占するだけでは飽き足らず、海外の大手とも次々と提携を結んでいるとか」「へえ……」「ただ、ここの本当のオーナーは謎に包まれていて、まだ一度も公の場に姿を見せていないんです」提出された企業概要書には、代表者名として「村田」という五十代の男の名前が記載されているだけだった。 だが、その男の名義には他に何の関連企業も見当たらない。いわゆる『雇われ社長』の匂いがぷんぷんする。もし真理子が、この正体不明の急成長企業『栞』と手を組んでいるのだとしたら……華栄キャピタルにとって、決して看過できる事態ではない。時を同じ
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第700話

太一は一つの法則に気づいていた。詩織の話題を振ると、柊也は必ず反応する。だがそれ以外の話だと、大抵は無視するか、気のないそぶりを見せるだけだ。例えば、太一がこんな質問をした時もそうだった。「なぁ柊也。どうして新会社の名前を『栞(シオリ)』にしたんだ?やっぱり江崎から取ったのか?」「違う」柊也は即答した。「適当につけただけだ」適当につけた、だって?太一は心の中でツッコんだ。誰がそんなこと信じるかよ。彼は鮮明に覚えていた。かつて刑務所へ面会に行き、新会社の名前をどうするか相談した時のことを。あの時、柊也の瞳の奥を一瞬よぎった強い光。そして、『栞』という言葉を口にした時の、あの揺るぎない口調。前々から決めていたとしか思えないほど、迷いのない響きだった。ただ、その時はあえて突っ込んで聞く勇気がなかっただけだ。その後も太一は幾個か話題を振ってみたが、案の定、柊也からはまともな返事は返ってこなかった。それでも、太一は帰るわけにはいかなかった。柊也を一人にするのが怖かったからだ。「そうだ、明日の接待なんだけどさ……柊也、代わりに行ってくれないか?俺、どうしてもあの人だけは苦手でさ」太一は情けなくぼやきながら、明日の相手について愚痴り始めた。相手は『栞』社の重要な海外クライアントであるニーナという女性だ。もう五十近いのだが、会うたびに太一の体をベタベタと触ってくる。おかげで太一は、ニーナという名前を聞くだけで鳥肌が立つ体質になってしまっていた。ところが柊也は、そんな太一の悲鳴をすげなく切り捨てた。「問題に直面した時、解決しようとせずに逃げてばかりいたら、いつまで経ってもその壁は越えられないぞ」「だからって、対処法を覚える時間くらいくれたっていいだろ?」太一が恨めしげに反論する。「世渡りを手取り足取り教えてもらえる時間なんて、そんなに都合よくあるもんじゃない。人間ってのはな、過酷な環境に放り込まれて初めて成長するんだよ」言うが早いか、柊也は立ち上がり、コートについた埃をパンパンと払った。「俺は帰る。お前もさっさと帰って寝ろ」あっけにとられて、太一は開いた口が塞がらなかった。いやいや、ちょっと待て。俺は一晩中、この寒い中あんたに付き合って冷たい風に吹かれてたんだぞ?それなのに、そうや
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