太一は出て行こうとする背中に声をかけようと口を開いたが、結局、無力感に襲われて言葉を飲み込んだ。ドアが閉まると、掛川が深い溜息をついた。「最悪のパターンだな。今の彼の精神状態は、過去最悪と言ってもいい」掛川の表情は、これ以上ないほど深刻だった。「あの頃……母親を亡くした直後も、彼は強い自殺願望に取り憑かれていた。だが、江崎さんとの出会いが彼をこの世に繋ぎ止め、母親の無念を晴らすという執念が彼を生かし続けてきたんだ」掛川は机の上で両手を組み、静かに続けた。「だが今、すべての復讐は終わり、唯一の光だった彼女とも完全に決別した。生きる目標も、心の支えも失った彼にとって、今の生は苦痛の延長でしかない。生きている意味を見失っているんだ」太一は、水を含んだ真綿を無理やり喉に押し込まれたような息苦しさを感じていた。柊也の友人として、己の無力さと無知が恥ずかしくてならなかった。長年の付き合いだと思っていた。だが、自分は彼のことを何一つ知らなかったのだ。母親の死後、彼が深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、何度も死の淵を彷徨っていたことも。誰にも言わず精神科に通い詰めていたことも。そして、亡き母の復讐のために七年もの歳月を費やし、自らの身を危険に晒してまで地獄へ飛び込もうとしていたことも……友達失格だ、と太一は唇を噛み締めた。ここ二年ほど、頻繁に面会に通うようになってようやく断片的な事実を知ることができたが、それすらも氷山の一角に過ぎないのだろう。彼の心の奥底にある本当の闇を、自分はいまだに理解できていない。掛川は重々しく太一の肩に手を置いた。「手遅れになる前に、なんとかして彼を説得してくれ。このまま放置すれば、遅かれ早かれ取り返しのつかないことになるぞ」その言葉は、太一の心をより一層深く冷たい底へと突き落とした。……午後、詩織は早めに仕事を切り上げると、ホテルへ小春を迎えに行き、そのまま実家へと車を走らせた。今夜の夕食は、初恵の手料理だ。豪勢なものではない、ごくありふれた家庭料理ばかりだったが、小春は「おいしい!」と目を輝かせ、嬉しそうに頬張っていた。食後、初恵が冷蔵庫からガラス瓶を二つ取り出してきた。飴色に透き通ったそれは、彼女がじっくりと時間をかけて煮込んだ自家製の『梨のハチミツ煮』だった。
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