LOGIN江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
View More彼女がもう「いらない」と捨てたガラクタだとしても、俺は絶対に手放さない。なぜならそれは――ミキがかつて、確かに俺を愛してくれていたという、この世に残された『たった一つの証』なのだから。秘書の美奈子は、ゴミ集積所の入り口で呆然と立ち尽くしていた。目の前で繰り広げられる異様な光景に、彼女は息をするのも忘れて見入ってしまった。……ずっと、勘違いしていた。これまで美奈子は、社長である白彦の心の奥底にいる「特別な女性」は、幼馴染の璃々子なのだと固く信じて疑わなかった。無理もない。白彦の璃々子に対する扱いは、誰の目から見ても異常なほどの『特別待遇』だったからだ。璃々子の用事となれば、彼は妻であるミキとの約束を何度でも平気で反故にした。どれだけ重要な役員会議の最中であろうと。どれだけ遠方への出張中であろうと。璃々子から「助けてほしい」と連絡が入れば、白彦は躊躇うことなくすべての仕事を放り出し、彼女の元へ駆けつけていたのだ。その一方で、彼はミキとの婚姻関係を世間に公表することすら拒み続けてきた。社内で密かに囁かれている噂がある。『社長がミキさんと結婚したのは、先代の社長がミキさんの父親に命を救われた恩義からくる、ただの政略結婚に過ぎない』『二人がまだ離婚していないのは、亡き会長様の遺言書に縛られているからだ』――と。実は美奈子は、その遺言書の秘密を偶然知ってしまった一人だった。そして彼女は、その「真実」を知るや否や、誰よりも早く璃々子にこっそりと耳打ちしたのだ。どうせ近い将来、社長はミキさんと離婚して、璃々子さんと再婚するに決まっている。そう確信していたからこそ、未来の『社長夫人』に媚びを売り、自分のポジションを盤石にしておきたかったからだ。しかし今。この泥水とゴミにまみれた集積所の光景を見て、美奈子のその浅はかな確信は、音を立てて完全に崩れ去った。確かに、白彦は璃々子のことを気にかけていた。だがそれは、今思えばまるで『プログラムされた義務』を淡々とこなしているかのような、ひどく平坦で、安定しきった感情だった。それに比べて、今の彼を見てみろ。たった一つのカフスボタンのために、怪我で血を流しながら、なりふり構わずゴミの山を漁り狂うその姿。そこにあるのは、平静さの欠片もない。ただひたすら
だから俺が目を覚ました途端、逃げるように病室を出て行ったのか。……そこまで、俺のことが憎いのか?蓉子がさらに何かを言い募ろうと口を開きかけた時、白彦は重く瞼を閉じ、ひどく疲労しきった声で遮った。「……もういい。二人とも、出て行ってくれ。一人で静かにさせてほしい」蓉子は慌てて引き下がろうとした。「そ、そうね……じゃあ、璃々子だけ残して看病させるから――」「必要ない」白彦は冷たく一蹴した。「二人とも、帰ってくれ」璃々子は鼻の奥をツンとさせ、涙目で彼にすがりつこうとした。いつものように、幼馴染の特権を使って甘えれば、彼は許してくれるはずだ。しかし、彼女が甘ったるい声を出すよりも早く、白彦の口から低く、威圧的な怒号が爆発した。「出て行けと言っているだろうが!!」激しい怒りと共に心拍数が跳ね上がり、ベッドサイドのモニターがピピピピッとけたたましい警告音を鳴り響かせた。その音を聞きつけ、担当の看護師が血相を変えて病室に飛び込んでくる。「何事ですか! 患者様は術後で絶対安静の時期なんですよ! すみませんが、今すぐご退出ください。患者様の回復の妨げになります!」看護師の容赦ない叱責を受け、璃々子と蓉子は顔を真っ赤にして退室するしかなかった。二人が去り、病室には再び静寂が戻った。モニターの波形も、ゆっくりと元の穏やかなリズムを取り戻していく。しかし、白彦の心臓の奥底だけは、嫌な動悸が止まらなかった。……俺とミキは、本当にこれで終わってしまうのか。このまま、永遠に手が届かなくなってしまうのだろうか。どれほどの時間が経っただろうか。点滴のパックが空になり、看護師が針を抜きにやってきた時のことだ。ずっと死んだように目を閉じていた白彦が、不意に目を開き、かすれた声で尋ねた。「なあ……俺が病院に運ばれてきた時、右手に、カフスボタンを握りしめていなかったか……?」看護師はあっさりと頷いた。「ああ、それなら先ほど、元の奥様にお渡ししましたよ」その言葉を聞いた瞬間、白彦は全身の痛みを忘れてガバッと上体を起こした。縫合したばかりの腕の傷が引き攣れ、額から冷や汗が噴き出したが、彼はそれを気にする素振りすら見せなかった。「……ミキに渡した!?でもあいつはさっき、そんなもの見てないって……!」
白彦はゆっくりとベッドに背中を預け、ミキの後ろ姿をじっと見つめた。灰のように冷え切っていた彼の心に、一筋の希望の光が差し込んだような気がした。彼女が今ここにいるのは……本当は俺のことを心配してくれているからじゃないのか?でなければ、こんな夜更けまで病室に付き添うはずがない。俺の容体を、あんなに熱心に看護師に聞くはずがない……彼女がこうして俺のために動いてくれているということは、彼女の心の中に、まだほんの少しでも『俺の居場所』が残っている証拠ではないだろうか?たとえそれが、ほんの欠片ほどの情だとしても――しかし、次に振り返ったミキの口から放たれた言葉は、彼が抱いた淡い幻想を木端微塵に打ち砕くものだった。看護師から一通りの説明を聞き終えたミキは、白彦に向き直ると、一切の感情を排した声でこう告げたのだ。「もう命に別状はないみたいね。……それじゃ、私は帰るから」氷水を頭から浴びせられたような、容赦のない拒絶。彼が必死に縋ろうとした一縷の光は、その瞬間に無惨にも掻き消されたのだった。白彦の喉仏が、苦しげに上下に動いた。術後の鈍い痛みと、それとは比べ物にならないほど鋭く胸をえぐるような感情が、同時に彼を襲う。俺は彼女に、すがりつこうとしているのか……?認めたくはなかった。しかし、理性とは裏腹に彼の唇は勝手に動き出し、惨めなほど卑屈に掠れた声を絞り出していた。「……残って、くれないか」その痛切な響きに、ミキは一瞬だけ足を止めた。彼の瞳の奥に広がる、捨てられた子供のような懇願の光にも気づいていた。しかし――彼女の心は、決して揺らがなかった。ミキはあえて彼の視線を正面から受け止めず、伏し目がちに視線を外した。そして、心の奥底で一瞬だけよぎった不必要な感情の揺れを完全に握りつぶすと、椅子に置いていた自分のバッグを無造作に掴み上げた。これ以上ないほど明確な、決別の意思表示だった。ミキが踵を返し、病室を出ようとした、まさにその時である。「白彦兄さんっ!目が覚めたのね!よかったぁ……!!」バンッ!と無遠慮な音を立てて病室のドアが開かれ、璃々子と、その母親である蓉子がドタバタとやかましく雪崩れ込んできた。静寂に包まれていた病室の空気が、まるで土足で踏み荒らされたように一瞬でぶち壊される。
五年間という結婚生活の中で、ミキは自分が白彦のことを何一つ理解できていなかったのだと今更ながらに思い知らされた。――もっとも、今となっては彼を理解したいという気持ちすら、一ミリも残っていないが。ミキは無表情のまま袋の口を開け、そのカフスボタンを無造作に病室のゴミ箱へと放り捨てた。カラン、と乾いた音が底で響く。「……もっと早く、捨てるべきだったわね」彼女が捨てたのは、単なるカフスボタンのことだけではない。彼との思い出も、過去の執着も、すべてひっくるめての言葉だった。それから一時間が経過した頃、白彦の体に発熱の症状が見られ始めた。看護師によれば術後にはよくある正常な反応らしく、それほど心配はいらないが、定期的に体温を測って記録をつけるよう指示された。ミキは言われた通り、淡々と事務作業のように看病をこなした。しかし、三回目の検温を行おうとしたその時。突然、白彦の大きな手がミキの手首をきつく掴んだ。ミキは不快げに眉をひそめ、すぐに手を振りほどこうとした。だが、白彦は意識がないにもかかわらず、さらに強い力で彼女の手首を握り締め、苦しげにうわ言を漏らし始めた。「行かないでくれ……」「ミキ……頼む、行かないで……」彼はまだ夢の中にいる。きっと彼の脳内では、ミキが彼に冷酷な絶縁状を突きつけ、彼の元を完全に去っていったあの日の光景がリフレインしているのだろう。しかし次の瞬間、ミキの名前を呼んでいたはずの彼の口から、唐突に別の人物の名前が飛び出した。「飛ばないでくれ!葵(あおい)……!頼むから、飛ばないで!」葵。――それは、かつて彼の目の前で飛び降り自殺を遂げたという、彼の初恋の元カノの名前だった。白彦の顔が、目に見えて苦痛に歪んでいく。私に執着している夢を見ていたかと思えば、次は死んだ元カノのトラウマ?本当に、どこまでも救いようのない男ね。ミキは彼の個人的なトラウマなど知ったことかとばかりに、冷ややかな視線を下ろし、再び自分の手首を引き抜こうとした。しかしその瞬間。病床の彼が突然、火事場の馬鹿力のような力でミキの腕を猛烈に引き寄せたのだ。「きゃっ……!」不意を突かれたミキはバランスを崩し、彼の胸元に覆いかぶさるように倒れ込んでしまった。白彦はそのまま、すがりつくようにミキの
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