Masuk江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
Lihat lebih banyak祝賀パーティーがお開きになる頃には、詩織もごく薄っすらと酔いを感じていた。恩師や兄弟子たちから勧められた酒を、さすがに人に代わって飲ませるわけにはいかなかったからだ。ミキも今夜は相当なハイペースでグラスを空けていた。夜も更けてきたのにわざわざ自宅まで帰らせるのも億劫だろうと、詩織はホテルの上層階に部屋を取り、ミキをそのまま休ませることにした。一方、母の初恵を手配した車まで見送る。気品ある黒塗りの車に乗り込む直前、初恵が振り返って尋ねた。「あなたは今夜、帰ってくるの?」胸の奥でチクリと小さな罪悪感が跳ねたが、詩織は何食わぬ顔で答えた。「ミキがいっぱい飲んじゃって、一人にしておくのは心配だから。今日はここに残って様子を見るわ」「そう。分かったわ」初恵はまったく疑う様子もなく、いつものように詩織の肩にかかったストールを優しく直してくれた。「じゃあ、ミキちゃんをお願いね。あなたも明日頭が痛くならないように、ちゃんとお水をたくさん飲んで寝るのよ」「うん、分かってる」詩織は素直に頷き、母を乗せた車のテールランプが完全に夜の闇へと吸い込まれるのを見届けてから、ようやく長いため息をついた。三十歳にもなって、まさか母親相手にこんな見え透いた嘘をつく羽目になるとは。なんだかまるで……親の目を盗んでこっそり恋愛をしている高校生に戻ったような気分だった。少し熱を持った頬を両手で軽く叩き、気を取り直して柊也に電話をかけようとした、その時だった。どこに潜んでいたのか、音もなく不意に人影が現れた。驚いて顔を上げた詩織の視線が、見慣れた深い闇のような瞳とぶつかる。真冬の江ノ本市。刃物のように冷たいビル風が吹きすさぶこの場所で、柊也は丸々一晩中待ち続けていたというのか。「ずっと、ここで待ってたの?」口に出した直後に、愚問だったと気づく。詩織は小走りで駆け寄り、氷のように冷え切ったコートの襟首を乱暴に掴んだ。腹立たしさと胸の痛みが入り混じり、思わず声を荒げる。「あんた、バカなの!?幼稚園児だって雨が降ったらお家に帰るわよ?こんなに寒いのに、どうして車か家で待とうとしないのよ」柊也は抵抗もせず、されるがままになっていた。見つめ返してくるその目には、普段の冷静沈着なオーラなど微塵もない。寒さでかすれた低い声は、それでも一言一言
華栄の危機を最大限に利用し、桐生キャピタルの利益をごっそりと抜き取る。それどころか、詩織に「命拾いした」という特大の貸しまで作ることができるのだから。だが、千手先まで緻密に盤面を計算したつもりでも、序はたった一つだけ、決定的な読み違いをしている。この江崎詩織という人間が、見下され、盤上の無知な駒としていいように転がされることを何よりも嫌悪するという事実を。「小宮山社長のお気遣いには、心から感謝いたします」詩織はようやく口を開いた。硬質な水晶のように澄み切り、はっきりと場に響く冷ややかな声だった。「ですが、華栄の問題は私自身で解決できます。桐生キャピタルに関しましては……」そこで言葉を区切り、わずかに眉を寄せた序の顔を刃のような鋭い視線で射抜く。「当面の間、私たちが手を組む必要はないかと」言い捨てるや否や、詩織はもう序に一瞥もくれず、ミキを連れて兄弟子たちの集まるテーブルへと歩き出した。その場に取り残された序は、顔に貼り付けた作り笑いを引きつらせていた。まさかこれほどまでに、一切の余地を残さずすっぱりと拒絶されるとは計算外だった。ビジネスの複雑な裏事情など分からない遥でさえ、今の刺々しい会話から漂う不穏な空気は感じ取っていた。おそるおそる兄の袖を引く。「お兄ちゃん……今の、詩織さん怒ってた?」去り際に詩織の瞳の奥をよぎった氷のような冷たさを、遥は見逃していなかった。序は少し間を置いてから取り繕うように答えた。「いや、気にするな。勘違いだ」兄は否定したが、遥の胸元にはかすかな不安が残った。本当はもっと詩織と親しく話をしたかったのに、今はとてもそんな空気ではない。遥はその考えを泣く泣く胸に仕舞い込んだ。高村教授の弟子たちは皆、各界で第一線を張る多忙な人間ばかりだ。これほど全員が一堂に会する機会はめったにない。唯一心残りなのは、京介が急用で途中で席を外してしまったことくらいだ。それでも高村教授の機嫌は頗る良く、つい嬉しくてワインのピッチが上がっていた。高村教授が三杯目に手を伸ばそうとした瞬間、澪士がさっと横からグラスを奪い取った。「先生、俺たちに隠れてこんないい酒飲んでたんですか? ちょっと味見させてくださいよ」高村教授が止める間もなく、澪士はそのまま一気に飲み干してしまった。「バカモン
密が詩織の代わりに杯を空け続け、いよいよ限界が近づいたところでミキが交代に入った。今夜はとにかく招待客の数が多く、会場は異様な熱気にあふれている。ミキは少し呼吸を整えると、人の波の隙間を縫ってそっと詩織に耳打ちした。「正直、最初は全然人が集まらないんじゃないかってハラハラしてたのよ。昔のツテでキャスティングディレクターに連絡して、エキストラでも呼んでサクラにしようかと思ったくらい。完全に私の取り越し苦労だったわね」すると、詩織は冷静に会場の人間模様を見渡して返した。「でも、ここにいる何割かは私個人の顔を立てて足を運んでくれたわけじゃないわ」何を目当てにこれだけの人間が群がっているのか、詩織には痛いほど分かっていた。結局のところ、ビジネスという名のもとに集うこの社交界は、どこまでいっても利益がすべてなのだ。短い会話を交わしていると、序が遥を連れて歩いてきた。パーティー会場に入ってからというもの、遥はずっと詩織に話しかけるタイミングを図っていたのだ。しかし、本日の主役はあまりにも多忙すぎた。次から次へと名刺交換を求める人が押し寄せ、遥にはひたすら待つことしかできなかった。そしてようやく周囲の波が引いたのを見計らい、急いで兄の腕を引っ張ってやって来たというわけだ。詩織は遥に対しては良い印象を持っていたが、兄の序に向ける視線は少しだけ温度の低いものになった。遥は明るくあれこれとまくしたてた後、隣で黙りこくっている兄に気づいて急かした。「お兄ちゃん、詩織さんに話があるんでしょ? 早く言っちゃいなよ」妹に背中を押される形で、序が口を開く。「桐生キャピタルとして、以前から華栄と提携したいと考えていたんです。江崎社長、興味はありませんか?」その言葉を聞いて、詩織はぴくりと片眉を上げた。記憶が確かなら、序はここ最近、ずっと真理子のもとへ通って接触を続けていたはずだ。それが今になって、どういう風の吹き回しで華栄との提携を口にしているのか。もし真理子との一件がなければ、詩織も少しは前向きに検討したかもしれない。自ら扉を叩いてきたビジネスチャンスを、あえて突っぱねる理由など本来はないのだから。序は言葉の端々に真剣さを滲ませ、華栄キャピタルが直面している現在の危機を全力でサポートすると明確に申し出た。真理子の
足早にエレベーターホールに駆け込み、上りボタンを連打しながら、詩織は慌てて自分の身なりを整えた。だが、どう足掻いてもリップはすっかり落ちていた。柊也にすべて食べられてしまったのだ。おまけに唇は赤く腫れ上がっており、誰がどう見ても「激しいキスをされた直後」である。ああもう最悪、と頭を抱えたその時。ちん、と音を立ててエレベーターの扉が開いた。中にいたのは、初恵だった。「お母さん」詩織は心臓が早鐘を打つのを必死に隠し、平静を装って声をかけた。「どこに行ってたの?」初恵は怪訝そうに眉をひそめた。「みんな待っているのよ。主役がいつまでも席を外すなんて、失礼じゃない」「華栄の取引先の方に偶然会って、少し立ち話が長引いちゃったの。ごめんなさい」初恵はじっと、静かに彼女の顔を見つめた。信じたのか、それとも信じたふりをしたのかは分からない。「……それなら、早く戻りましょう。みんな探しているわ」詩織は平静を装って、初恵と共にエレベーターに乗り込んだ。宴会場の扉が近づいたその時、初恵が前を向いたままポツリと言った。「お化粧、直しなさいよ。リップが全部落ちてるわ」「……」結局、リップを塗り直してくれたのはミキだった。彼女は嬉々として詩織の顔を覗き込みながら、小声で茶化してきた。「あんたたち、またキスしてたわけ?」「……」「アイツ、どんだけ激しくがっついたのよ。唇、腫れちゃってるじゃない」詩織は聞こえないふりをして、ひたすら無言を貫いた。「絶対初恵さんに勘付かれてるわよ、これ」その一言に、詩織の心臓が再び嫌な音を立てる。「で、いつ初恵さんに打ち明けるつもりなわけ?」ミキの問いに、詩織は力なく首を振った。「まだ分からない。なんて言えばいいか……」初恵は、ミキとは状況が違うのだ。もし、彼女の身体に移植された腎臓のドナーが柊也だったと知れたら――初恵は間違いなく深く思い悩むだろう。『この男は、臓器を提供した恩を盾に娘の心を縛りつけようとしているのではないか』と。「……じゃあ、あんたはそう思ってるの?」ミキの真剣な問いに、詩織はきっぱりと答えた。「まさか」その声には、一切の迷いがなかった。「彼とやり直してからのこの数ヶ月で、ようやく分かったのよ。私たちがいかにすれ違い、
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