Se connecter江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
Voir plus京介の痛切な問いかけに対し、詩織の眼差しはどこまでも凪いでいた。感情の波一つ立たない、静かで、そしてどこか残酷なほどに穏やかな瞳だった。「いいえ」少しの間を置いて、彼女は真摯に言葉を紡いだ。「私は誰のことも、待ってなんかいません」それは強がりでも、嘘でもなかった。この数年、詩織だって新しい恋をしようとしなかったわけではない。ミキが口を酸っぱくして言っていたように、過去の呪縛を断ち切り、新たな出会いへと踏み出そうとした時期は確かにあった。実際、彼女の身の回りには好意を寄せてくれる優秀な男性たちもいた。しかし、どういうわけか、いつも最後にほんの少しの『縁』が足りなかったのだ。京介に対する感情も例外ではなかった。かつては確かに彼の優しさに心が揺らいだ瞬間があり、彼となら新しい人生を歩めるかもしれないと思ったことさえあった。けれど――結局は、ボタンの掛け違いのようにすれ違ってしまった。何度かのすれ違いを経験するうちに、彼女は誰かと道が分かれることに慣れてしまったのだ。他愛のない期待を抱くのをやめ、ただ自分のペースで、一歩ずつ前に進むことだけを選んだ。人生という道の上で、すれ違う人々はまるで走馬灯のように現れては消えていく。それでも詩織は、もう二度と誰かのために自分の足を止めることはなかった。それは、柊也に対しても同じはずだった。「でも、君はさっき、明らかに……!」京介は焦燥しきった声で、食い下がるように身を乗り出した。一拍置いて出かかった言葉を飲み込み、何とか別の表現を探り当てる。「……明らかに、彼を気にしていただろう」隣に座っていたからこそ、京介には彼女の微かな変化が痛いほどよく見えていたのだ。最初は柊也のことなど一瞥もしていなかったのに、学長と短い会話を交わした直後から、彼女の視線はどうしようもなく彼を追うようになっていた。「それでも、彼を待っていたんじゃないと言うのか?」悲痛な響きを帯びた追及にも、詩織は静かに首を横に振った。「ええ、待っていません」「……」「正確に言うなら――彼の方が勝手に先回りをして、私の行く先で待ち伏せしているだけです」その毅然とした一言に、京介は息を呑み、完全に言葉を失った。彼が先回りしているだけ。その事実を突きつけられ、
店主と一緒に路地へ戻ったとき、そこにはもう誰の姿もなかった。冷たいコンクリートの上に、詩織のリュックと上着だけがぽつんと取り残されていた。その夜の恐怖は、彼女の心に深い傷を残した。しばらくの間は夜の居残り勉強に出ることもできず、昼間に同じ道を通るときでさえ、言いようのない不安に襲われた。いつも誰かに後ろをつけられているような気がして、何度も振り返る。だが、そこには誰もいない。ただの思い過ごしか、恐怖が作り出した幻覚なのだと自分に言い聞かせるしかなかった。やがて事情を知った京介が、彼女の帰宅に付き添ってくれるようになった。ある日のこと、以前助けを求めた商店の店主に鉢合わせると、並んで歩く二人を見て、店主は「おや、彼氏かい?」と親しげに笑いかけてきた。ちょうどその時、店内にはあの工業高校の制服を着た男子生徒が買い物をしていた。詩織は変に絡まれるのを避けるため、つい「ええ。危ないからって、毎日迎えに来てくれるんです」と話を合わせてしまった。店主は京介に向かって、感心したように何度も頷いてみせた。「……それで、それが賀来社長とどう繋がるのですか?」須藤学長の声が、詩織の意識を現実へと引き戻した。「それが、大いに関係がありましてね」学長は懐かしむように話を続けた。「ある夜、その不良グループが一人の少女を執拗に追い詰めていたところを、賀来君がひとりで叩きのめしたんです」「彼もまだ十八か十九そこらの頃でしょう。八人を相手にたった一人で立ち向かったのだから、当然、無傷とはいかなかった。結局、半月ほど入院する羽目になりましたが、あのアバズレ共も相当こっぴどくやられたようでしてね」「生活指導主任だった私は、学校側の責任として謝罪や警察の対応に奔走しましたよ。それからは関係各所の厳しい監視の下、問題児の指導と周辺住民の安全確保のために、死に物狂いで警備体制を立て直したものです」学長のその言葉を聞いた瞬間、詩織は息を呑んだ。確かに思い返せば、あの事件の直後、学校の周辺には警察の防犯拠点がいくつも新設されていた。あんなに恐ろしかった暗い近道にも、等間隔に明るい街灯が立ち並び、防犯カメラまで設置され、見違えるほど安全な道へと変わったのだ。治安が劇的に改善されたことで、詩織はほどなくして京介の付き添いを断り、再び一人で帰宅す
詩織が張ったはずのバリアも、そのあまりに露骨な視線を前にしては、次第に揺らぎ始める。二人の間に流れる奇妙な空気には、事情を知る京介はもちろん、何も知らない須藤学長までもが気づき、不思議そうに二人を見比べた。「おや、お二人はお知り合いですか?」「いえ、あまり」「ええ、よく知っています」返ってきたのは、正反対の答えだった。学長は察しのいい男だ。苦笑まじりに、からかうような口調で柊也に向けた。「君が女性に対してこれほど興味を示すなんて、珍しいこともあるものだ」柊也は否定しなかった。ただ、ゆっくりと詩織の全身をなぞるように視線を滑らせる。そのねっとりとした眼差しは、まるで視線だけで彼女を愛撫しているかのようだった。ようやく式典が始まり、学長が壇上で祝辞を述べ始めると、詩織は密かに安堵のため息をついた。次いで、来賓として招かれた柊也の出番がやってくる。若き成功者として、在校生たちに起業の経験を語るためだ。彼が壇上へ向かうと、空いたその席に、今度は学長がちゃっかりと腰を下ろした。詩織との距離を縮めるための、彼なりの根回しなのだろう。地方からの赴任間もない学長にとって、人脈作りは急務であり、詩織がその理解を示して談笑に応じると、話題はやがて柊也のことになった。学長に彼との接点を尋ねると、彼は懐かしそうに目を細めた。「彼とはもう、十二、三年前からの付き合いになりましてね。当時、私はこの街の工業高校で生活指導の主任をしていたんですよ。そう、江ノ本第一高校の隣にある、あの酷く荒れた学校です」学長の話によれば、当時のその学校は問題児の掃き溜めのような場所だったという。「素行の悪い連中ばかりでしてね。ろくに授業も受けず、外の不良グループとつるんでは喧嘩や窃盗を繰り返す。挙句には女子生徒の後をつけるような不届き者までいた。連中、まだ未成年なものだから、こちらとしても扱いには本当に手を焼いたものですよ」十二、三年前、詩織は江ノ本第一高校に通っていた。当時の学校周辺は決して治安が良いとは言えず、不勉強な不良たちが常にうろついているような場所だった。あの一帯の空気には、今も苦い記憶が染みついている。詩織自身、執拗に後をつけられるという恐怖を味わったことがあるからだ。当時、放課後の居残り勉強を終えた彼女は、毎日欠かさ
加工じゃなくてマジでこの仕上がりなら、相当ヤバい肉体美じゃない!ミキは礼儀として、すかさずコメントを残した。【ちょっと、目の保養すぎるんですけど! 腹筋で大根おろせそう🤤💕 もっと全体見せてよー!】コメントを書き終えると、他の動画をスワイプして見始めた。しばらくして、「もう一回じっくり見よう」と思い出し、先ほどのページに戻ってみると……驚いたことに、その動画はすでに削除されていた。「はあ?ケチすぎない!?」まだ舐め回すように隅々まで堪能していなかったというのに!一方、個室に戻った詩織は、今夜はほとんどお酒を飲まずに済んでいた。主催者である坂崎社長から、事前の挨拶で「今夜は軽く嗜む程度にしましょう」と提案があったからだ。普段から彼と飲み歩いている経営者仲間たちは、その異例の宣言に戸惑い、ニヤニヤと冷やかした。「坂崎さん、さては奥さんから『飲みすぎ禁止令』でも出ましたか?」坂崎社長は苦笑して手を振った。「いやいや、そうじゃありませんよ。実は友人から特別に釘を刺されてましてね。『可能ならあまり飲ませないでやってくれ。女性陣に配慮してほしい』とね」この場にいる女性は、詩織ただ一人だ。同席者たちの興味津々な視線が、一斉に彼女へ注がれる。普段なら、こういう場面でも見事に話題を切り返して場を盛り上げるのが彼女の流儀だった。しかし今夜は、なぜか頬がカッと熱くなるのを止められなかった。詩織はグラスを手に取り、少しはにかみながら立ち上がった。「皆様の紳士的なお気遣いに感謝いたします。お言葉に甘えまして、今夜は一口だけ。……でも、感謝の気持ちはこのグラスにたっぷり込めておりますわ」会食が終わり、帰りの車に乗り込むと、ミキはようやく一日中張り詰めていた警戒を解いた。ふわぁ、と大きなあくびを一つする。「どうやら、あいつも諦めたみたいね!」ミキは勝ち誇ったように言った。「やっぱり男なんて、どうせみんな三日坊主なのよ!」詩織は手に持った絶妙な温度のレモンウォーターを一口飲みながら、いたたまれない気持ちで親友の横顔を盗み見た。……三日坊主、か。事情など何も知らないミキは、自分の『鉄壁のガード』が完璧に機能したのだと信じて疑わず、一人ご満悦の様子だ。自分が築き上げたはずのその強固な防壁が、とっくの昔に『敵』に内側から浸透され
そして――彼らの足が止まったのは、あろうことか詩織の前だった。先ほどの冷淡さが嘘のように、彼らは満面の笑みで詩織に話しかけている。高村教授が満足そうに頷きながら、詩織の肩をポンポンと叩く。まるで自慢の愛弟子を労うかのように。続いて海雲までもが、彼女のもう片方の肩に手を置いた。あの氷のように厳格な海雲の表情が、詩織の前では春の日差しのように和らいでいる。志帆は遠巻きにその光景を見つめるしかなかった。気づけば爪が掌に食い込み、痛みを感じるほど強く拳を握りしめていた。どうして……?それは、志帆がどれだけ渇望しても得られなかった、温かな眼差しと承認。太一が忌々しげに吐き
上機嫌で実家へ戻ると、珍しく父の長昭が帰宅していた。志帆は明るい声で挨拶を交わし、さりげなく『パース・テック』の審査状況について水を向けた。「ああ、昨日ちょうど市場監視局の村上さんと食事をしてね。上層部もあの案件にはかなり注目していると言っていたよ」立場上、長昭の口からはそれ以上の具体的な言及はなかった。だが、志帆にはそれで十分だった。上層部が注目しているということは、それだけ期待値が高い証拠だ。つまり、上場の可能性は限りなく高い。今日はなんていい日なの。まさに吉報続きね!志帆は心の中で祝杯を挙げた。……週末、詩織は小春に会うため、G市へと飛んだ。響太朗
本当に、彼女が呼んだのね……!一体どんな手を使ったのか、あの高村先生の態度を軟化させるなんて。ふと見ると、詩織の席の脇には分厚い資料の束が積まれているのが目に入った。何あれ。先生の前で勉強熱心なフリでもしてるわけ?よくやるわ。どうせ中身なんて理解できてないくせに。きっと、そういう小賢しい猿芝居で先生に取り入ったに違いない。「先生、いかがですか?」志帆は詩織から意識を切り離すように視線を戻し、改めて誠実さを装って高村教授を誘った。「いや、私は遠慮しておこう。身内だけで楽しんできたまえ」高村教授はやんわりと誘いを断ると、席に着いた詩織の皿へ、餡のかかった湯葉巻きをひ
詩織は智也のロードショーに三回ほど付き添ったが、彼のプレゼン運びが目に見えて上達しているのを確認すると、残りの日程はすべて彼に一任することにした。いずれは彼自身が独り立ちし、すべてを背負っていかねばならないことだ。それに、詩織自身も残された時間を大学院入試の勉強に注ぎ込む必要があった。試験まであと一ヶ月余り。猶予はほとんどない。もっとも、受験生になったからといって、業界の動向から目を離すようなことはしなかった。それは長年染みついた職業病のようなものだ。ここ最近、『パース・テック』に関する噂がいくつか耳に入っていた。結局、『千和キャピタル』からの出資は見送られたらしい。詳しい
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