LOGIN江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
View More太一が淹れた茶には、ついに一度も口をつけなかった。「あいつの性格は知っての通りさ。現実を受け入れるには、少し時間が必要なんだろう」京介は自ら新しい茶を淹れ直し、詩織の前に差し出しながら、不憫な従弟をフォローした。詩織は気にした風もなく、淡々と事実を指摘する。「衆厳の経営体質には致命的な欠陥があります。たとえ資金を注入したところで、今のままでは再生など不可能です」京介とて、その問題点は痛いほど理解していた。だが彼自身も自分の職務に追われており、実家の分家にあたる衆厳の再建にまで手を貸す余裕はないのが実情だった。その夜、太一は入院中の父・厳を見舞い、今日詩織と会った際の話をした。ベッドに横たわり、生気なくやつれていた厳だったが、話を聞くや否やガバリと起き上がった。「なんだと?江崎さんが衆厳への出資に同意したというのか!」「ああ。でも、とんでもない悪条件だ。株だけじゃなく、経営権まで寄越せと言ってきた」「ならくれてやればいいだろう!何を迷う必要がある!」厳は興奮のあまりベッドの縁をバンバンと叩き、その拍子に激しく咳き込んだ。太一が慌てて水を飲ませ背中をさすると、ようやく発作は治まった。落ち着きを取り戻した厳は、太一の手をガシッと掴んだ。「行くぞ」「どこへだよ、こんな夜更けに」「決まっているだろう、江崎さんのところだ!彼女の気が変わらないうちに、今すぐ会いに行く!私も連れていけ!」太一は窓の外の暗闇に視線をやった。「もう遅いよ。向こうだって寝てるかもしれないだろ」「なら明日だ!明日の朝一番で会いに行くぞ!お前、彼女の住所は知っているのか?」太一は首を横に振る。「知るわけないだろ」「ならさっさと調べてこい!」矢継ぎ早に急かされ、太一は仕方なく詩織の住所を調べる羽目になった。頭の中で人脈を検索し、詩織の自宅を知っていそうな人物を洗い出す。――思い当たるのは、柊也ただ一人だった。電話をかけて間もなく、柊也が出た。「二人でいるところ、邪魔しちまったか?」太一は声を潜めて気遣った。「いや。どうした、何かあったか」「あのさ……今、話しても大丈夫か?」詩織絡みの話題だ。もし志帆がそばにいて聞かれでもしたら機嫌を損ねかねない。二人の関係に波風を立てないよう、太一なりに気を遣ったのだ。「問題ない」
「何ぼけっとしてるんだ?ほら、さっさと江崎社長の椅子を引いて、お茶をお注ぎしろ」京介が太一に命じる。珍しく太一は反論もせず、殊勝な態度で立ち上がると、詩織のために恭しく椅子を引いた。「どーもありがと」その席に遠慮なく座ったのは、詩織ではなくミキだった。冗談じゃない。あの衆厳の御曹司、宇田川太一様が直々に引いた椅子だ。座らない手はないだろう。他の椅子と座り心地がどう違うのか、確かめてやろうじゃないの。太一の顔が一瞬にして曇り、怒号が飛び出そうになる。だが彼は寸前でそれを飲み込んだ。ようやく京介を通じて詩織に会うチャンスを得たのだ。ここで詩織の親友であるミキの機嫌を損ねれば、それはすなわち詩織を敵に回すことと同義だ。彼は奥歯を噛み締め、屈辱に耐えながら、改めて詩織のために椅子を引き直した。「ありがとうございます」詩織は何食わぬ顔で堂々と腰を下ろす。太一は休む間もなく、急須で茶を淹れ、湯呑みに注いで回る。その一杯を詩織に差し出そうとした瞬間、横からミキの手が伸びてきた。太一はこめかみに青筋を浮かべながらも、ここは我慢だと自分に言い聞かせる。ミキは一口すすると、しみじみと頷いた。「うん、いいお茶ねぇ!」本当に茶の味を褒めているのか、それとも何か別の意味を含んだ皮肉なのか。たとえ自分への当てつけだとしても、今の太一には気づかないフリをする以外の選択肢はない。彼は黙々と次の茶を注ぎ、今度こそ詩織の前に置いた。詩織はすぐには茶に口をつけず、そのままテーブルに置いたままにした。その沈黙を合図にするかのように、京介が太一に目配せをする。太一は意を決したように、衆厳メディカルが華栄キャピタルとの提携を希望していることを切り出した。しかし、詩織はそれを聞いても何の反応も示さない。焦りを募らせた太一は、すがるような視線を何度も京介へ送る。京介が助け舟を出した。「衆厳の内情については、君も耳にしているだろう。ここ数年、事業拡大に行き詰まっていてね。決して楽観できる状況ではないんだ」「そこまでおっしゃるなら、太一さんに単刀直入にお伺いしますけれど」詩織はゆったりとした口調で太一に問いかけた。「そのような状況にある衆厳と、華栄が手を組むメリットがどこにあるとお考えですか?」太一の顔色が変わる。まさか詩織がこれ
柊也の視線は、ずっとバックミラーにぶら下がっているお守りに注がれていた。長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。「それ、本当に効果あるのか」「なに?柏木さんにも一つ欲しいわけ?」柊也は黙り込み、それ以上何も答えなかった。病院の車寄せに車を停めると、詩織はエンジンをかけたまま、志帆に電話をかけるよう促した。本来なら、こういう時こそ婚約者である志帆が世話を焼くべきであり、部外者である詩織が出る幕ではない。ここまで送り届けただけでも、義理は十分に果たしたはずだ。助手席の柊也は、気怠げな瞳を伏せたまま、淡々と言い放った。「あいつに、余計な心配をかけたくない」その言葉に、詩織は一瞬、息を呑んだ。あまりにも聞き覚えのある台詞だったからだ。かつて、詩織自身も同じ言葉を口にしたことがあった。死の淵から生還し、意識を取り戻して最初にミキに頼んだ言葉がそれだった。「柊也には連絡しないで」と。彼を心配させたくなかったから。あの時、ミキはなんと言っていただろう。確か、「愛に突っ走る勇者」と呆れていたはずだ。今日、詩織はようやくその不名誉な称号を返上し、そっくりそのまま柊也に進呈することにした。「精々頑張ってちょうだい、愛に突っ走る勇者様」車を降りかけた柊也が足を止める。「付き添ってくれないのか」何を寝ぼけたことを、という冷ややかな一瞥だけくれて、詩織はアクセルを踏み込んだ。残された柊也は病院には入ろうとせず、じわりと血が滲む手の甲を眺め、声もなく笑った。残された柊也は病院には入ろうとせず、じわりと血が滲む手の甲を眺め、声もなく笑った。結局、彼は近くの花壇の縁に腰を下ろした。襲い来る倦怠感に抗うように眉間を揉みほぐすと、ポケットから煙草の箱を取り出し、一本くわえて火を点ける。元来、喫煙の習慣などなかったはずだ。だが近頃は、行き場のない感情を持て余すことが増え、こうして紫煙に頼ることでしか気を紛らわせなくなっていた。唇から吐き出された煙が、彼の本心を覆い隠すように揺蕩い、その表情を読み取ることは誰にもできない。「あんた、マジであいつを置き去りにしたの?」詩織が帰宅するや否や、ミキが待ちきれない様子で食いついてきた。詩織は事の一部始終を包み隠さず話した。柊也を病院の前に置き去りにしたというくだ
詩織はミキに電話をかけ、帰りが遅くなることを伝えた。お腹が空いたら先に何か食べていてほしい、自分を待つ必要はない、と。ミキは電話越しに何気なく尋ねた。「なに、残業?それとも接待?」「どっちでもないわ」詩織は呆れたように息を吐く。「あの恋愛ボケした賀来柊也の様子を見に行ってくるのよ」事の顛末を伝えると、ミキもまた呆れ返ったような声をあげた。「あいつも筋金入りねぇ。こんな状況でまだ柏木との婚約にこだわってるわけ?自分の会社の株価がどれだけ暴落してるか見てないのかしら。少しでも脳みそが残ってるなら、今は大人しくしてるべきでしょ。せめて婚約の日取りを延期するとかさ」詩織にとっては、もはや驚くべきことでもなかった。「彼にしてみれば、最愛の女性を勝ち取ったことを全世界に見せつけたくて仕方がないんでしょうね。会社の損得なんて二の次よ」皮肉なことに、志帆のおかげで詩織は思い知らされたのだ。自分と付き合っていた頃の、あの冷徹で理性的だった柊也とは全く別の顔があるということを。賀来家の本邸に到着すると、リビングでは松本さんが散らかった部屋を片付けているところだった。泣き腫らしたのか、その目は赤く充血している。詩織の姿を認めると、彼女は何か言いたげな表情を浮かべたが、言葉にはしなかった。「おじ様の様子は?」詩織が案じているのは、あくまで海雲のことだ。恋に溺れて自滅しかかっている柊也のことなど、知ったことではない。「部屋に閉じこもったきり、誰とも口を利こうとしないの」松本さんは悲痛な面持ちで訴えた。「詩織さん、お願いだから慰めてあげて。あんな調子じゃ、お体に障るわ」詩織は眉をひそめつつ、海雲の部屋へと足を向けた。その途中、書斎の前を通りかかると、荒れ果てた室内の惨状が目に入った。床には物が散乱し、その真ん中で柊也がしゃがみ込み、黙々と何かを拾い集めている。足音に気づいたのか、柊也がふと視線を上げた。その瞳は氷のように冷たく、何の感情も映していない。彼はこちらを半秒ほど見つめただけで、すぐに興味を失ったように視線を床に戻し、また片付け作業を続けた。詩織は足を止めることなく、そのまま書斎を通り過ぎて海雲の寝室へと向かった。ドアをノックし、中に声をかける。数秒の沈黙の後、扉が開いた。「こんな時間になんのようだ」
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