INICIAR SESIÓN江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
Ver más柊也の眉がピクリと跳ねる。「ああ」ためらいも、一瞬の思考さえも挟まない、完全な即答だった。――狂おしいほどに。病院での、あの未遂に終わった曖昧なキスの記憶が、ずっと彼の頭にこびりついて離れなかったのだ。彼女のその無防備な一言は、くすぶっていた導火線に直接火を放つようなものだった。だが、詩織の瞳に小悪魔のような光が走る。「でも、私さっきドリアン食べたばかりよ?あんたがいっちばん嫌いな匂いだけど」わざとらしく言ってのける姿に、からかわれたのだと悟り、柊也は思わず鼻で笑った。見事に彼女の掌の上で転がされ、煽り立てられた熱のやり場がない。確かに、ドリアンの匂いは反吐が出るほど嫌いだ。だが……それがどうした?仮に今、彼女が全身ドリアンまみれだったとしても、ためらわずにその唇を奪ってやる。詩織のしてやったりの表情は、しかし二秒と持たなかった。男の瞳の奥にどす黒い情欲が渦巻いているのを見て、詩織はハッとした。本能が危険を告げ、慌てて逃げ出そうとしたが、もう遅い。完全に獲物をロックオンした捕食者のごとく、彼の動きは容赦なかった。詩織が身を翻すより早く、大きな手が強引にその後頭部をホールドし、有無を言わさずその唇を塞ぐ。「んっ……!」詩織は反射的に唇をぎゅっと結んで抵抗したが、彼の圧倒的な力には到底敵わない。空いた左手で顎を掴まれ、くいっと指先に力を込められると、いとも容易く口内への侵入を許してしまった。容赦のない深い口づけに、詩織の喉から微かに甘い声が漏れる。そのか弱く無防備な響きは、柊也にとって何よりの媚薬だった。もはや理性のブレーキなど効くはずもない。――完全に、火遊びが過ぎた。甘い熱に溶かされ、思考が白く飛んでいく直前。詩織の脳裏をよぎったのは、そんな手遅れな後悔だった。柊也の腕の中にすっぽりと閉じ込められ、詩織の心臓は破裂しそうなほどに早鐘を打っていた。嵐のような激しい口づけは、やがて甘く微熱を帯びたものへと変わっていく。彼女の唇を食むように、執拗に、そしてねっとりと舌を絡ませる。だが、詩織が少しでも逃げようと身をよじると、再び牙を剥くように猛烈なキスが降ってきた。詩織に主導権など欠片もなかった。柊也はもはや、こんな上辺だけの接触では満足できなくなっていた。
詩織は潔く抵抗を諦め、手を洗って食卓についた。もっちりとしたうどんをすすりながら、釘を刺すように柊也に言う。「もう、うちには来ないで。……色々と不都合だから」「食事中は静かに」柊也は短く制した。これ以上、自分の聞きたくない言葉を彼女の口から出させないための、有無を言わせぬ大人の余裕と圧があった。詩織が平らげるのを見計らい、柊也は絶妙な温度の白湯が入ったグラスを差し出した。そして、薬を飲むのを目でしっかりと見張る。「だいぶ良くなったとはいえ、すぐに薬をやめちゃ駄目だ。念のため、あと三回はきちんと飲んで治しきること」詩織には、幼い頃から薬嫌いという困った癖があった。よほど限界に達しない限り薬に頼ろうとせず、少しでも症状が和らぐと、自己判断ですぐに飲むのをやめてしまうのだ。柊也は、彼女のその悪癖をよく知っていた。あれは以前、北の地方へプロジェクトの商談に行った時のことだ。記録的な大雪に見舞われ、二人は凍えるような寒さの中で一晩を明かす羽目になった。その後、詩織はひどい風邪をこじらせ、熱が上がったり下がったりを繰り返して一向に良くならなかった。柊也が問い詰めてようやく、熱が下がった途端に彼女が薬を飲むのをやめ、そのせいで症状がぶり返していたことが発覚したのだ。それ以来、柊也は彼女のこの悪癖をずっと覚えていた。詩織が体調を崩すたびに、きちんと薬を飲み終えるまで彼が必ずそばで見張るようになったのだ。ただ、もともと詩織は健康体で滅多に病気をしないため、彼がそこまで細かく気を配ってくれていることに当時は気がついていなかった。後に胃を悪くした時も、彼の仕事の邪魔になりたくなくて意図的に隠していたくらいだ。だからこそ、詩織は彼が自分のそんな些細な癖まで把握し、別れた今でも当たり前のように覚えていることに、内心ひどく驚き、そして揺さぶられていた。薬は昨日と同じもののはずなのに、今日はやけに苦く感じた。味覚が正常に戻ってきている証拠なのだろう。詩織が思わず顔をしかめたのを見て、柊也はくるりとキッチンへ戻り、湯気を立てる『柚子と生姜の黒糖葛湯』を運んできた。口の中に残る薬の苦味がどうしても耐えがたく、詩織はその甘い誘惑を拒みきれなかった。スプーンを手に取り、少しずつ口へ運ぶ。柚子の爽やかな風味と黒糖のコクのあ
「お手伝いの松本さんがね、私が家でひもじい思いをしないようにって、旅行に出る前に作り置きしてくれたのよ」詩織は迷わず嘘をついた。ミキに怪しまれる前に、すかさず話題をすり替える。「それより、味付けのコツを早く教えてよ。朝やってみたんだけど、どうにも味が変で」ミキの思考回路は基本的にシングルタスクだ。あっさりと見当違いの方向へ誘導され、先ほどの疑問などすっかり忘れた様子で、真面目に味付けの手順をレクチャーし始めた。だが悲しいかな、詩織のスキルポイントはすべて仕事に全振りされている。ほんの簡単な調味料の加減すら、彼女にとっては未知の領域だった。ちょうどマンションのエレベーターに乗り込んだところだった詩織は、いっそ諦めてこう言った。「もうすぐ家に着くから、電話はそのままで。帰ったら紙とペンでメモするわ」「オッケー」とミキが軽く応じる。玄関のドアを開けるなり、詩織はスマホに向かって声を張り上げた。「よし、着いたわ。じゃあ教えて。まずは……」その言葉は、キッチンから姿を現した長身のシルエットを目にした瞬間、ピタリと途切れた。「まずは白だしと薄口醤油を合わせて……」そんな事態になっているとは露知らず、電話口の向こうでミキがなおも真剣に手順を読み上げている。柊也は湯気を立てる海老しんじょうの温うどんをダイニングテーブルに置くと、玄関に立ち尽くす詩織に向かって、ひどく甘く穏やかな声をかけた。「ちょうどいいタイミングだったね。うどん、今できたところだ。手を洗って、熱いうちに食べなよ。キッチンに君の好きなおかずもいくつか用意してあるから、今持ってくる」詩織の思考回路が、完全にショートした。やがて、スマホのスピーカーから聞こえてきたミキの、地を這うような低い声が、彼女の意識を現実に引き戻した。「……ねえ、詩織。なんであんたの家に、賀来柊也がいるわけ?」「…………」言い逃れのできない状況に陥り、詩織は一瞬どう言い訳していいか分からず言葉に詰まった。「隠し事はなしよ。全部吐きなさい」ミキのドスを効かせた声に、観念して事情を打ち明けるしかなかった。「あのね、昨日から風邪で熱が出ちゃって、おまけに女の子の日も重なって、本当に死にそうだったの。それで密に薬を届けてもらおうとしたんだけど、あの子もダウンしてて……」「前置きはい
詩織はあえて何も聞かず、ただ静かに、少しずつ口に運んでいった。柊也はベッドの端に腰を下ろし、深く、静かな瞳で彼女を見つめている。美味しいものを食べさせてもらった手前、さすがにこれ以上冷たくあしらうのも気が引けた。詩織の口調は、先ほどよりもいくぶんか和らいでいた。「……うどん、ごちそうさま。もう大丈夫だから、帰って」柊也は彼女のこういう『用が済んだらポイ』という態度にすっかり慣れっこになっているらしく、動じる様子もない。「あと一時間したらもう一回薬を飲む時間だ。それを飲ませたら帰るよ」詩織が再び眉をひそめるのを見て、彼はすかさずなだめるように付け加えた。「二回目の薬を飲み終わったら絶対に出るって約束する。長居はしないから」これ以上拒絶されるのを恐れるように、彼はさっさと立ち上がると、空になった器を持って足早に部屋を出ていった。部屋に再び静寂が戻る。しかし、空気中に漂う彼のウッディで冷たい香水の名残だけは、どうしても消え去ってくれなかった。食事をして体力がつき、さらにたっぷりと汗をかいたおかげで、ようやく熱が引き始めた。時間ぴったりに薬を持って戻ってきた柊也は、詩織がしっかりと飲み下すのを見届けた。そして再び彼女の額に手を当て、もう熱がぶり返していないことを確認すると、ようやく安堵の息をついた。「汗をかいたから、着替えてから寝なよ。シャワーはまだ駄目だ。完全に熱が下がりきるまでは我慢して」彼は細々としたことまで丁寧に言い含めていく。「キッチンの鍋にうどんのつゆが温めてあるし、冷蔵庫のチルド室には下ごしらえした海老しんじょうも入ってる。もしお腹が空いたら、茹でて食べるといい。刻みネギと三つ葉もチルド室にあるから、仕上げに少し散らすともっと美味しくなる」「明日の薬も一回分ずつ分けて置いてあるからね。朝八時に飲むこと。胃が荒れるから空腹のまま飲んじゃ駄目だよ。それから、もし明日もまだお腹が痛むようなら鎮痛剤を飲むように。痛みがなければ飲まなくていい」あれこれと口うるさく世話を焼く彼に対し、詩織は一切相槌を打たなかった。「……じゃあ、帰るよ」ベッドの上の詩織はしばらく沈黙したのち、微かに聞き取れるかどうかの小さな声で「……ん」とだけ応じた。柊也の口元に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。彼は立ち去る間際、
響太朗は、あらかじめ運転手に言い含めていたらしい。空港で詩織を乗せた車は、ホテルではなく、小春が通う特別支援学校へと直行した。再会した小春の瞳には、何も映っていなかった。詩織の記憶では、最後に会った時、その瞳には確かに生気が宿り、豊かな光を取り戻しつつあった。だが、たった半月会わないうちに、彼女はまた心を閉ざしてしまっていた。まるで、義母である百合子が亡くなった直後の、あのうつろな人形のような状態に逆戻りしてしまったようだ。施設の職員によれば、ここ数日の状態は芳しくないという。誰かが話しかけても反応を示さず、一日中ぼんやりと虚空を見つめて過ごしている。症状が重い日には、トイ
向井が去った後、志帆は恐る恐る柊也の顔色を窺った。彼の様子は以前と少しも変わらない。平然として、静かなままだ。食事が進まない志帆に気づいたのか、彼がふと顔を上げる。「口に合わなかったか?」「ううん、そんなことないわ」その何気ない気遣いに、志帆の胸の痞えが少しだけ下りた気がした。食後、柊也はそのまま『エイジア』での会議へ向かうという。「ついでだから」と志帆を実家まで送り届けてくれた。帰宅するなり、美穂が目を丸くして出迎える。「早かったのね。てっきり一日中デートかと」「帰国したばかりだもの、会社が大忙しみたい。朝食の時間を作るだけでも大変だったんじゃないかしら」志帆はそう言
あの頑固な恩師のことだ。直接目の前に置いてやらなければ、薬を飲もうとなんてしないに決まっている。車を降りる際、詩織は運転手の湊に「すぐに戻るから」と一言残し、屋敷の玄関へ向かった。インターホンを押すと、家政婦が顔を出した。詩織の姿を認めると、柔和な笑みを浮かべる。「江崎さま。先生は散歩に出られておりまして、戻られるまで少し掛かるかと。中でお待ちになりますか?」「いえ、これを届けに来ただけですので。先生に、きちんと飲むようにお伝えください」詩織はそう言って、手にした紙袋を渡した。「かしこまりました」用件だけ済ませると、詩織は屋敷に足を踏み入れることなく踵を返した。家政
柊也は運転手を走らせ、アイスを買ってこさせた。だが、志帆はそれを二、三口舐めただけで、意味ありげな視線を柊也に送り続けた。しかし、彼の表情はあまりに平静で、彼女の暗示など微塵も察していないようだ。業を煮やした志帆は、わざとらしく彼の方へ身を寄せた。フェロモンを模した香水の甘い香りが車内に漂う。わざわざ胸元の大きく開いたミニドレスを選び、暑さを口実に上着まで脱ぎ捨てたのだ。その誘惑の意図はあまりに露骨だった。すると突然、柊也が口元に拳を当て、こほん、と咳払いをした。そして、やんわりと志帆の身体を押し戻した。「インフルエンザ気味なんだ。あまり近づかない方がいい。うつると
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