Mag-log in江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
view moreミキは非常に有能なボディーガードだった。柊也が少しでも付け入る隙を与えまいと、四六時中、詩織の傍に張り付いて目を光らせていたのだ。そうして一週間が過ぎたが、柊也が姿を見せることは一度もなかった。ミキもさすがに安心したようだった。「あいつもやっと空気が読めるようになったみたいね。もうちょっかい出してこないなんて」密が差し入れてくれたお菓子をつまみながら、パソコンに向かう詩織に得意げに笑いかける。詩織は画面から少しだけ視線を外し、ミキの手にあるお菓子を見て、何か言いたげに口をつぐんだ。だが、満面の笑みでそれを頬張る親友を見て、結局出かかった言葉をそっと飲み込んだ。午後になると、今度は密が甘いスープのデザートを運んできた。ミキはすっかり丸くなったお腹をさすりながら、詩織に向かって密を絶賛した。「あんたのアシスタント、本当に最高!小腹が空いた絶妙なタイミングでお菓子を持ってきてくれるし、喉が渇いたと思ったら冷たいデザートまで!もう完全に私の心、掴まれちゃったわ!」キンキンに冷えたココナッツミルクを一口飲み、ミキは至福の表情を浮かべた。「やっぱりこういう暑い日は、冷たいものに限るわよねー!」詩織は、自分の手にあるマグカップをぎゅっと握りしめた。……彼女のカップの中身は、温かい飲み物なのだ。本当は、自分だって冷たいデザートを食べたいのに。すると、密が淡々とした口調で容赦なく釘を刺してきた。「日向先生から、『冷たいものは生理痛を重くする』と伺っております」「…………」詩織は無言で視線を逸らし、大人しく温かい飲み物をすすった。その夜、詩織は接待の席にミキを伴うことになった。東華キャピタルの坂崎社長が主催する会食だ。ミキがこういう堅苦しい場を嫌っていることは、詩織もよく知っていた。飛び交う話題は難解なビジネス用語ばかりで、ミキにとっては退屈以外の何物でもないからだ。だから気を遣って、「無理してついて来なくていいよ?」と勧めてみたのだが。「ダメよ!もしその隙にあのクズ也が近づいてきたらどうするの! 私が片時も離れず見張ってなきゃ!」ミキは即座に却下した。「……そんなに、彼のこと嫌い?」詩織はつい、恐る恐る探りを入れてしまった。ミキは親の仇でも見るような顔つきで、語気を強めて言い放った。「私にとっては、一
詩織は彼の手を振り払い、ミキを庇うように言った。「彼女に当たらないでよ」詩織の中で自分の優先順位がミキより低いことなど、柊也はとうの昔に理解していた。それでも、実際に面と向かってこう言われると、さすがに堪えるものがある。「君のことが心配だっただけだ。……少し、過敏になってた」少しだけ傷ついたような、殊勝なトーン。その声色に、詩織はあっさりと絆されてしまった。「そういう意味じゃなくて……」そのやり取りをそばで見ていたミキは、ギリギリと奥歯を噛み締めた。あのクソ男、どこでそんな女狐顔負けのあざといテクニックを覚えてきたわけ!?被害者ぶるんじゃないわよ、胸糞悪い!だが、詩織の健康を第一に考えれば、ここで意地を張るわけにもいかない。ミキは忌々しい気持ちを呑み込み、大人しく消毒と除菌を済ませに向かった。一通り全身を清めてリビングに戻ってくるなり、ミキは堂々と縄張りを主張した。「はい、終わったわよ。用が済んだなら、あんたはもうとっとと帰りなさい!」柊也はテーブルの上のドリアンを片付けながら、冷ややかで、どこか皮肉めいた声で応じた。「宇宙船にでも乗ってきたのか?ずいぶん早い到着だったな」「たまたまC市にいたからよ!」C市からここ江ノ本市までは、車でわずか一時間ほどの距離だ。なるほど、それならこの早さも頷ける。ミキが駆けつければ、詩織から帰るように促されるだろうとは予想していた。ただ、そのタイミングが想定よりもかなり早まってしまっただけだ。内心ではひどく名残惜しかったが、こればかりは潔く引き下がるしかない。「もう一度熱を測ろう。熱が下がっていれば帰るよ」そう言って、柊也は耳式体温計を手に取った。彼の指の腹が耳たぶをかすめた瞬間、せっかく平熱に戻りかけていた詩織の頬が、コントロールを失ったようにカッと熱を帯びる。三十七度三分。微熱の範囲だ。もう心配はない。ずっと張り詰めていた柊也の心が、ようやくふっと軽くなった。彼は再び、甘く穏やかな声で尋ねる。「頭はどう?まだ痛む?」詩織はふるふると首を振った。「だいぶ良くなった」「お腹は?」「もう痛くない」彼女の回復が遅れれば遅れるほど、看病を口実に少しでも長くこの部屋に留まることができる。それでも彼は、一秒でも早く彼女の苦痛が消え去ることを心から
柊也の眉がピクリと跳ねる。「ああ」ためらいも、一瞬の思考さえも挟まない、完全な即答だった。――狂おしいほどに。病院での、あの未遂に終わった曖昧なキスの記憶が、ずっと彼の頭にこびりついて離れなかったのだ。彼女のその無防備な一言は、くすぶっていた導火線に直接火を放つようなものだった。だが、詩織の瞳に小悪魔のような光が走る。「でも、私さっきドリアン食べたばかりよ?あんたがいっちばん嫌いな匂いだけど」わざとらしく言ってのける姿に、からかわれたのだと悟り、柊也は思わず鼻で笑った。見事に彼女の掌の上で転がされ、煽り立てられた熱のやり場がない。確かに、ドリアンの匂いは反吐が出るほど嫌いだ。だが……それがどうした?仮に今、彼女が全身ドリアンまみれだったとしても、ためらわずにその唇を奪ってやる。詩織のしてやったりの表情は、しかし二秒と持たなかった。男の瞳の奥にどす黒い情欲が渦巻いているのを見て、詩織はハッとした。本能が危険を告げ、慌てて逃げ出そうとしたが、もう遅い。完全に獲物をロックオンした捕食者のごとく、彼の動きは容赦なかった。詩織が身を翻すより早く、大きな手が強引にその後頭部をホールドし、有無を言わさずその唇を塞ぐ。「んっ……!」詩織は反射的に唇をぎゅっと結んで抵抗したが、彼の圧倒的な力には到底敵わない。空いた左手で顎を掴まれ、くいっと指先に力を込められると、いとも容易く口内への侵入を許してしまった。容赦のない深い口づけに、詩織の喉から微かに甘い声が漏れる。そのか弱く無防備な響きは、柊也にとって何よりの媚薬だった。もはや理性のブレーキなど効くはずもない。――完全に、火遊びが過ぎた。甘い熱に溶かされ、思考が白く飛んでいく直前。詩織の脳裏をよぎったのは、そんな手遅れな後悔だった。柊也の腕の中にすっぽりと閉じ込められ、詩織の心臓は破裂しそうなほどに早鐘を打っていた。嵐のような激しい口づけは、やがて甘く微熱を帯びたものへと変わっていく。彼女の唇を食むように、執拗に、そしてねっとりと舌を絡ませる。だが、詩織が少しでも逃げようと身をよじると、再び牙を剥くように猛烈なキスが降ってきた。詩織に主導権など欠片もなかった。柊也はもはや、こんな上辺だけの接触では満足できなくなっていた。
詩織は潔く抵抗を諦め、手を洗って食卓についた。もっちりとしたうどんをすすりながら、釘を刺すように柊也に言う。「もう、うちには来ないで。……色々と不都合だから」「食事中は静かに」柊也は短く制した。これ以上、自分の聞きたくない言葉を彼女の口から出させないための、有無を言わせぬ大人の余裕と圧があった。詩織が平らげるのを見計らい、柊也は絶妙な温度の白湯が入ったグラスを差し出した。そして、薬を飲むのを目でしっかりと見張る。「だいぶ良くなったとはいえ、すぐに薬をやめちゃ駄目だ。念のため、あと三回はきちんと飲んで治しきること」詩織には、幼い頃から薬嫌いという困った癖があった。よほど限界に達しない限り薬に頼ろうとせず、少しでも症状が和らぐと、自己判断ですぐに飲むのをやめてしまうのだ。柊也は、彼女のその悪癖をよく知っていた。あれは以前、北の地方へプロジェクトの商談に行った時のことだ。記録的な大雪に見舞われ、二人は凍えるような寒さの中で一晩を明かす羽目になった。その後、詩織はひどい風邪をこじらせ、熱が上がったり下がったりを繰り返して一向に良くならなかった。柊也が問い詰めてようやく、熱が下がった途端に彼女が薬を飲むのをやめ、そのせいで症状がぶり返していたことが発覚したのだ。それ以来、柊也は彼女のこの悪癖をずっと覚えていた。詩織が体調を崩すたびに、きちんと薬を飲み終えるまで彼が必ずそばで見張るようになったのだ。ただ、もともと詩織は健康体で滅多に病気をしないため、彼がそこまで細かく気を配ってくれていることに当時は気がついていなかった。後に胃を悪くした時も、彼の仕事の邪魔になりたくなくて意図的に隠していたくらいだ。だからこそ、詩織は彼が自分のそんな些細な癖まで把握し、別れた今でも当たり前のように覚えていることに、内心ひどく驚き、そして揺さぶられていた。薬は昨日と同じもののはずなのに、今日はやけに苦く感じた。味覚が正常に戻ってきている証拠なのだろう。詩織が思わず顔をしかめたのを見て、柊也はくるりとキッチンへ戻り、湯気を立てる『柚子と生姜の黒糖葛湯』を運んできた。口の中に残る薬の苦味がどうしても耐えがたく、詩織はその甘い誘惑を拒みきれなかった。スプーンを手に取り、少しずつ口へ運ぶ。柚子の爽やかな風味と黒糖のコクのあ
一方、詩織は智也を支えながら、道端で十分近く待って、ようやくタクシーを捕まえることができた。冷たい夜風に吹かれて、智也は少し酔いが醒めたらしい。彼はひどく申し訳なさそうにしている。詩織の力になるどころか、逆に面倒をかけてしまった、と。「これからの会食では、お酒は私が飲むから大丈夫。私の代わりに飲んだりしなくていいのよ。ちゃんと自分で対処できるから」詩織は彼にそう言った。「私がお酒に弱いのはわかってる。でも……それでも君の代わりに飲みたかったんだ。一杯でも私が飲めば、君が飲む分が一杯減るんだって……」その言葉が、深水市の厳しい寒さをふっと和らげてくれた気がした。詩織は、そ
太一は、どうしても結果を出して周囲を見返し、「出来損ない」という嘲笑から逃れたかった。だから、彼はもう一度会場を二周してみたが、やはり収穫はゼロだった。失意に沈んでいた、その時。詩織と智也が、何やらスピーチ原稿について話しているのが聞こえてきた。彼の胸がざわつく。まさか、奴らも注目製品リストに入ったというのか?ありえない。このレベルのサミットで選ばれるのは、ほとんどが内々に決まっているものだ。巨大な後ろ盾があり、トップクラスの資源を背景に持ち、研究開発に金を惜しまず、高給で人材を引き抜けるような、そういう企業。たとえ初期の製品がぱっとしなくても、いくらでも巻き返
そのあまりに無関心な一言に、詩織は怒りを通り越して笑いがこみ上げてきた。彼にはわかっているはずだ。太一がわざとちょっかいを出し、すべてを台無しにしたのだと。それなのに、彼の言い分を信じ、まるで自分こそが「悪人」であるかのように扱う。柊也が、太一のその稚拙なやり口を見抜けないはずがない。ただ、彼はそれを黙認したのだ。太一が自分をからかい、辱めるのを、何度も何度も許し、そして唆してきた。詩織は激しい怒りに駆られた。瞳が潤み、その声は氷のように冷たい。「賀来社長がそこまで気前がいいなんて、嬉しいわ。それなら、2千万円ほどお願いしましょうか」柊也が口を開く前に、太一が我慢で
志帆がそう言う声は、聞いているこちらがうんざりするほど甘ったるい。「私が頼めば、柊也くんは絶対に助けてくれるから」「柊也さんってお姉ちゃんには本当に何でもしてくれるわよね!車も家もポンとプレゼントしちゃうなんて、気前が良すぎるわ!そのうち会社ごとお姉ちゃんのものになっても、私驚かないかも」美穂は心底羨ましそうに言った。「ふふっ、柊也くんは昔から、私には甘いのよ」「ネットでも言うじゃない?男の人が本気で女の人を愛してたら、絶対にお金をかけるって。それだけ柊也さんがお姉ちゃんのことを大切にしてるってことよね」……後で須藤社長に教えてあげなくちゃ。詩織は、心のなかでひとりごちた。
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