LOGIN江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
View More信じられないというように詩織が呆れると、柊也は声を出して笑った。「俺だって神様じゃない、ただの男だぞ。片思いくらいするさ」「そういう意味じゃないわ。当時のあなたの立場や環境なら、好きになったら堂々と追いかけて、告白すればよかったじゃない。わざわざ陰からこっそり見つめるような真似、あなたらしくないわ」そこまで言ってから、詩織はハッとして付け加えた。「でも……それには一つ条件があるわね。相手が成人していること。未成年相手の恋愛は犯罪だもの」柊也は少し考えるような素振りを見せてから、静かに答えた。「俺が彼女に出会った時、彼女はまだ……未成年だったからな」その言葉に、詩織はピタリと動きを止めた。彼女の記憶のタイムラインでは、柊也と初めて出会ったとき、彼女はすでに成人していた。つまり、柊也が「未成年の頃から片思いしていた」相手というのは、間違いなく自分ではない、別の誰かだということになる。どういうわけか、その事実を突きつけられた瞬間、詩織の胸の奥にじわりと苦いものが広がった。誤魔化すように視線を窓の外へ逸らし、彼に弄ばれていた自分の髪の毛を不意に引き抜く。突然空を掴んだ柊也の掌を、冷ややかな空気がすり抜けていった。車内の温度が、急激に下がったような気がした。彼女が身を引けば、彼が距離を詰めてくる。後部座席の片側に、ほとんど寄り添うようにして二人は押し込められた。詩織は顔を背けたまま、感情の読めない平坦な声で告げた。「……もういいわ。あなたの過去の恋愛事情なんて、興味ないから」何年もの付き合いがあるのだ。今の彼女が明らかに機嫌を損ねていることなど、柊也には痛いほど分かっていた。彼は強引に手を伸ばし、背けられた詩織の頬を両手で包み込んで、無理やり自分の方へと向かせた。いつもの気だるげな響きは消え、その双眸には射抜くような真剣な光が宿っている。「一つだけ、はっきりさせておく」低い声が、車内に響いた。「俺は、柏木志帆を愛したことなんて一度もない」「……最初から最後まで、欠片すらな」詩織の抗うような動きが、ピタリと止まる。――その言葉はつい最近、志帆の従妹である美穂の口からも聞かされたものだった。だが、あの時は本気で受け取ろうとはしなかった。「百聞は一見に如かず」と言うではないか。柊也が志帆にどれほ
柊也は眉をひそめた。何がおかしいのか全く見当がつかない。 すると小林は、もったいぶるように後部座席のドアをガチャリと開けてみせた。車内から、聞き慣れた着信音が漏れ聞こえてくる…柊也の足がピタリと止まった。後部座席には、詩織が座っていた。彼女は小首を傾げ、静かにこちらを見つめている。その手のひらには、着信を知らせて画面が点滅するスマートフォンが握られていた。西の空は燃えるような夕霞に染まっていたが、彼女の瞳の奥に宿る柔らかな光に比べれば、どんな美しい夕暮れの色も色褪せて見えた。彼女からこんな穏やかな眼差しを向けられるのは、いったいいつ以来だろうか。校門前を行き交う人々のざわめきも喧騒も、今の柊也には一切届かない。今の彼の世界には、ただ一人、彼女しか存在していなかった。「……乗る車を間違えたんじゃないのか?」詩織は片眉をぴくりと上げ、からかうように返した。「じゃあ、今すぐ降りようか?」柊也の精悍な顔立ちに、余裕たっぷりの甘い笑みが広がる。「もう遅い。ここは一度乗ったら最後、そう簡単には降りられない特等席なんだ」彼はなめらかな動作で車に乗り込み、詩織が外へ逃げる最後の退路を自らの体で完全に塞ぎ込んだ。運転席の小林がエンジンをかけるより早く、後部座席から柊也の低い声が飛んだ。「小林、ドアを全部ロックしろ。蚊一匹たりとも車外に逃がすな。もし逃がしたら、お前の首が飛ぶと思え」「…………」小林は言われた通り、即座にすべてのドアをカチャリとロックした。退路を断たれた詩織は、少し恨めしそうにルームミラー越しに小林を見た。「アイツを睨むなよ。給料を払ってるのは俺なんだから、文句があるなら俺に言え」柊也は背もたれに深く寄りかかりながら、身体の半分を彼女の方へと傾けてくる。その表情は酷く気だるげで、瞳の奥には悪戯っぽい光が揺らめいている。小林がビクビクしながら、ルームミラー越しに詩織の様子を窺う。詩織は呆れたように大きなため息をつきつつ、今度は柊也を横睨みした。「……別に、運転手さんを責めてなんかないわよ」彼女の冷ややかな態度などどこ吹く風で、柊也はすっと指を伸ばし、彼女の耳元にかかる後れ毛をすくい上げた。さらりとした髪の感触を指先で弄びながら、甘く囁く。「俺たち離れ離れになって、これでちょうど336時
京介の痛切な問いかけに対し、詩織の眼差しはどこまでも凪いでいた。感情の波一つ立たない、静かで、そしてどこか残酷なほどに穏やかな瞳だった。「いいえ」少しの間を置いて、彼女は真摯に言葉を紡いだ。「私は誰のことも、待ってなんかいません」それは強がりでも、嘘でもなかった。この数年、詩織だって新しい恋をしようとしなかったわけではない。ミキが口を酸っぱくして言っていたように、過去の呪縛を断ち切り、新たな出会いへと踏み出そうとした時期は確かにあった。実際、彼女の身の回りには好意を寄せてくれる優秀な男性たちもいた。しかし、どういうわけか、いつも最後にほんの少しの『縁』が足りなかったのだ。京介に対する感情も例外ではなかった。かつては確かに彼の優しさに心が揺らいだ瞬間があり、彼となら新しい人生を歩めるかもしれないと思ったことさえあった。けれど――結局は、ボタンの掛け違いのようにすれ違ってしまった。何度かのすれ違いを経験するうちに、彼女は誰かと道が分かれることに慣れてしまったのだ。他愛のない期待を抱くのをやめ、ただ自分のペースで、一歩ずつ前に進むことだけを選んだ。人生という道の上で、すれ違う人々はまるで走馬灯のように現れては消えていく。それでも詩織は、もう二度と誰かのために自分の足を止めることはなかった。それは、柊也に対しても同じはずだった。「でも、君はさっき、明らかに……!」京介は焦燥しきった声で、食い下がるように身を乗り出した。一拍置いて出かかった言葉を飲み込み、何とか別の表現を探り当てる。「……明らかに、彼を気にしていただろう」隣に座っていたからこそ、京介には彼女の微かな変化が痛いほどよく見えていたのだ。最初は柊也のことなど一瞥もしていなかったのに、学長と短い会話を交わした直後から、彼女の視線はどうしようもなく彼を追うようになっていた。「それでも、彼を待っていたんじゃないと言うのか?」悲痛な響きを帯びた追及にも、詩織は静かに首を横に振った。「ええ、待っていません」「……」「正確に言うなら――彼の方が勝手に先回りをして、私の行く先で待ち伏せしているだけです」その毅然とした一言に、京介は息を呑み、完全に言葉を失った。彼が先回りしているだけ。その事実を突きつけられ、
店主と一緒に路地へ戻ったとき、そこにはもう誰の姿もなかった。冷たいコンクリートの上に、詩織のリュックと上着だけがぽつんと取り残されていた。その夜の恐怖は、彼女の心に深い傷を残した。しばらくの間は夜の居残り勉強に出ることもできず、昼間に同じ道を通るときでさえ、言いようのない不安に襲われた。いつも誰かに後ろをつけられているような気がして、何度も振り返る。だが、そこには誰もいない。ただの思い過ごしか、恐怖が作り出した幻覚なのだと自分に言い聞かせるしかなかった。やがて事情を知った京介が、彼女の帰宅に付き添ってくれるようになった。ある日のこと、以前助けを求めた商店の店主に鉢合わせると、並んで歩く二人を見て、店主は「おや、彼氏かい?」と親しげに笑いかけてきた。ちょうどその時、店内にはあの工業高校の制服を着た男子生徒が買い物をしていた。詩織は変に絡まれるのを避けるため、つい「ええ。危ないからって、毎日迎えに来てくれるんです」と話を合わせてしまった。店主は京介に向かって、感心したように何度も頷いてみせた。「……それで、それが賀来社長とどう繋がるのですか?」須藤学長の声が、詩織の意識を現実へと引き戻した。「それが、大いに関係がありましてね」学長は懐かしむように話を続けた。「ある夜、その不良グループが一人の少女を執拗に追い詰めていたところを、賀来君がひとりで叩きのめしたんです」「彼もまだ十八か十九そこらの頃でしょう。八人を相手にたった一人で立ち向かったのだから、当然、無傷とはいかなかった。結局、半月ほど入院する羽目になりましたが、あのアバズレ共も相当こっぴどくやられたようでしてね」「生活指導主任だった私は、学校側の責任として謝罪や警察の対応に奔走しましたよ。それからは関係各所の厳しい監視の下、問題児の指導と周辺住民の安全確保のために、死に物狂いで警備体制を立て直したものです」学長のその言葉を聞いた瞬間、詩織は息を呑んだ。確かに思い返せば、あの事件の直後、学校の周辺には警察の防犯拠点がいくつも新設されていた。あんなに恐ろしかった暗い近道にも、等間隔に明るい街灯が立ち並び、防犯カメラまで設置され、見違えるほど安全な道へと変わったのだ。治安が劇的に改善されたことで、詩織はほどなくして京介の付き添いを断り、再び一人で帰宅す
その瞬間、詩織の脳裏には無数の言葉が駆け巡った。「末長くお幸せに」といった定型的な祝福。あるいは、「お似合いね、一生お互いを縛り合って世間に害を撒き散らさないでね」という皮肉たっぷりの毒舌。けれど結局、彼女は何も言わなかった。祝福の言葉だろうと呪いの言葉だろうと、かつて彼に真剣な想いを捧げた自分を裏切ることになるような気がしたからだ。だから彼女は沈黙を選び、そのまま静かに部屋を出て行った。詩織が去ったあとの部屋で、柊也は一人、黙々とケーキを食べ続けた。半分ほど平らげたところで手を止め、誰に聞かせるでもなく呟く。「……このケーキが、はなむけ代わりってことにしておくか」
目の前に立っていたというのに、彼は志帆の存在を完全に素通りしたのだ。まるで彼の瞳には詩織しか映っておらず、詩織以外の人間など背景にすぎないと言わんばかりに。……せめてもの救いは、振り返った先の柊也が詩織を見ていなかったことだ。「行くぞ。食事だ」柊也の声は淡々としており、その内面を窺い知ることはできない。志帆は従順に頷き、彼の後ろについて歩き出した。だが、去り際についもう一度だけ、詩織のいる方へと視線を投げてしまう。詩織と合流した譲の横顔からは、先ほどの笑みが消えるどころか、喜びが溢れ出しているようだった。距離こそ離れていたが、譲が詩織に向けている眼差し──そこに潜む特別
その一連の光景を、志帆は冷ややかな目で見つめていた。皿の上に載った極上のフォアグラが、急に砂を噛むように味気なく感じられる。詩織は今日一日フル回転で働いていたため、空腹は限界に達していた。譲にメニューを渡され、遠慮なく自分の好きなものを次々とオーダーしていく。その飾らない姿を見て、譲はまたしても彼女への評価を新たにしていた。本当の彼女は、こんなにも自然体で魅力的な女性だったのか。それに引き換え、以前の自分はどうしてあんなにも目を曇らせていたのだろう。「江崎詩織は媚びを売るのが上手い、あざとい女だ」などと。よくよく思い出してみれば、かつての彼女は常に柊也を中心に回
詩織:【ところで、勤務時間中になんでサボってSNSチェックしてるの?】密:【……ドロンします!】……午前中、大会の閉会式に出席した詩織が、江ノ本市への帰路につこうとしていた、その時だった。響太朗の秘書が詩織のもとを訪れ、『G市商工会設立三十周年記念パーティー』への招待状を恭しく差し出したのである。高坂響太朗主催のパーティー。それは、財界関係者ならば誰もが一度は参加を夢見る、垂涎の社交場だ。このチャンスを逃す手はない。詩織は即座にフライトの予定を変更すると、親友のミキに連絡を取り、G市でも指折りのスタイリストを手配してもらった。今夜の宴に、一分の隙もない完璧な装いで臨むた
Ratings
reviewsMore