LOGIN江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
View Moreただ「待つ」という行為がこれほどまでの拷問なのだと、彼女は今生で二度目の実感として味わっていた。一度目は、母である初恵の手術の時だった。一分一秒が、じりじりと身体を焼かれるように過ぎていく。処置室の重い扉を瞬きすら忘れて見つめ続け、きつく唇を噛み締めていたが、熱い涙がとめどなくあふれては視界をぼやけさせた。きつく握り合わせた両手は、氷のように冷え切っている。七年、そして五年。合計十二年にも及ぶ激しい愛憎の絡み合いも、絶対的な「生死」の前では、広大な海に浮かぶ粟粒のようにちっぽけなものでしかなかった。私は一体、何を意地を張っていたのだろう。どんな憎しみも、裏切りも、執着も、死という現実の前では取るに足らないことだ。もう、何も気にしない。過去の精算なんてどうでもいい。彼に生きていてほしい。ただ、きちんと生きていてくれさえすれば、他にはもう何も望まない。......江ノ本市への出張が決まるやいなや、沙羅はミキに連絡を入れ、飲みに行く約束を取り付けていた。出会った瞬間からすっかり意気投合した年齢差のある二人は、顔を合わせるなりおしゃべりが止まらない。ミキはグラスを片手に、この高級クラブ『ラウンジ・ノクターン』にいる男の子たちのレベルが低すぎる、宣材写真の加工詐欺ばっかりだと愚痴をこぼしていた。沙羅は面白そうに笑って尋ねる。「じゃあ、ミキはどんなタイプが好みなの? 今度いい子を探してあげるわよ」「うーん……『顔が良くて、おっきい人』がいいわね」「ん?背が高い人ってこと?」「ううん」ミキは悪戯っぽく笑った。「夜のベッドで頼りになるサイズってことよ」沙羅は一瞬きょとんとした後、お腹を抱えて笑い出した。「あはは!その二つの条件を完璧に満たす優良物件なんて、そうそう転がってないわよ」「だから退屈なのよね」ミキはつまらなそうにため息をついた。「それなら今度、S市にいらっしゃい。私がとびきりいい店で目の保養をさせてあげるから」沙羅はミキのグラスにお酒を注ぎ足しながらウインクした。「やっぱり、お酒の席にはいい男がいないとね。酔い潰れたら優しく介抱してくれるし、いい感じに酔えれば、ベッドで乱れたホルモンバランスだって整えてくれるんだから」二人のそんな赤裸々で際どいガールズトークに、詩織はいつも通り
その時、詩織は役員会議の真っ最中だった。会議室のドアが突然開き、乱入してきた太一の姿に、その場の全員が呆気に取られた。密が、申し訳なさそうに詩織に駆け寄る。「申し訳ありません、詩織さん。お止めしたのですが……! 今すぐ警備員を呼んで連れ出します」しかし、太一はそんな密の言葉など耳に入っていない様子だった。彼の目は真っ赤に充血し、いつも小綺麗にしている服装もひどく乱れている。ただならぬ様子の太一を見て、詩織は密を片手で制した。そして自ら会議室を後にし、太一と二人きりになる。「江崎……」太一は、すがるような、ほとんど懇願に近い声で呼びかけた。「お願いだ、柊也のところへ行ってやってくれないか」詩織が拒絶するのを恐れたのか、彼はすかさず一つの過去を持ち出した。「柊也が……昔、あんたのお母さんに腎臓を提供した恩に免じてさ。頼むから、一度でいいから様子を見に行ってやってくれよ!」目に見えない何かに喉を射抜かれたように、詩織は息を呑んだ。声が出ない。心臓の鼓動すら数秒間止まってしまったかのような錯覚の中、ようやく絞り出した声はひどく震えていた。「……今、なんて言ったの?」「何かの間違いじゃないの? 彼は母に、骨髄を提供してくれただけで……」太一は乱暴に目尻の涙を拭った。「嘘なんかじゃない。あの時、お母さんに移植された腎臓は……柊也のものなんだ。あんたには絶対に知られたくないって、今まで誰にも口外してなかった。俺だって、弁護士の峰岸さんとの話を偶然聞いちゃって知ったんだ」二日前、柊也が遺言書のことで弁護士の峰岸と面会していた時のことだ。太一は本当に偶然、その事実を知ってしまった。正直なところ、太一自身も激しく動揺した。いったいどれほど深く愛していれば、そこまでの自己犠牲を払えるというのか。たまらず本人に尋ねた太一に対し、柊也はどこまでも静かにこう答えたという。『もし詩織がいなかったら、この世界に俺はとっくに存在していない』自分の命は、彼女に救われたものだから。それに比べれば、腎臓の一つなど安いものだ、と。その事実は、凄まじい威力の爆弾となって詩織の心を木端微塵に打ち砕いた。目の前が真っ白になり、長い睫毛が小刻みに震える。目頭が焼け付くように熱くなり、喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に押し殺した。「
ドン、とミキがスマホを置く音が響いた。彼女は不機嫌そうに眉を吊り上げる。「はあ?なんであいつが?二度とあなたにまとわりつかないように、私がきっちり警告しておいたのに」その言葉に、グラスを置こうとした詩織の手が止まった。「警告したって……あなたが彼に?」しまった、という顔をしたミキだったが、どう見ても今さら取り繕える空気ではない。彼女はバツの悪そうな顔で、観念したように白状した。「だって、あの頃のあなた、あいつのせいでだいぶ参ってたじゃない。これ以上あなたに傷ついてほしくなかったから、ほんのチクッと釘を刺しただけよ」「チクッと?」「……わかったわよ。脅したの! これ以上あなたの前に現れて邪魔をするようなら、この私が物理的にボコボコにしてやるってね!」詩織は思わず、呆れたように額を押さえた。どうりで先ほど、彼があんな回りくどく不器用な言い訳をしたわけだ。全てはミキから突きつけられた言葉に縛られていたせいだったのか。だが、詩織にとってさらに予想外だったのは、他でもないあの柊也が、ミキの警告を馬鹿正直に――それも真夜中の冷水に浸かり続けるという、あそこまで異常な形で――聞き入れていたという事実だった。「次からは、あんな無茶は絶対にしないでね」胸が熱くなるのと同時に、詩織はどうしてもミキのことが心配になった。何と言っても、あの柊也は賀来家の人間なのだ。かつては気まぐれ一つで表舞台を意のままに操っていた絶対的な御曹司である。権力も後ろ盾もないミキを社会的に葬ることなど、彼にとっては赤子の手をひねるより容易い。万が一、ミキが報復されでもしたら取り返しがつかない。ミキも詩織の懸念を察していた。「あの時は私もさすがにビビったのよ。でも、あんたの泣きはらした目を思い出したら、もう後先なんて考えていられなくて」そう言って、ミキは苦笑いする。「でも心配しないで。あいつ、一言も反論してこなかったし、私がまくし立てたら今にも泣き出しそうな顔で黙り込んでたから。……もちろん、私があんなに喰ってかかっても許されたのは、全部あんたの存在があるからだってことはわかってるわよ」その辺りの実力差と力関係は、ミキ自身も冷静に理解しているのだ。彼女は詩織の手を取り、ぎゅっと握りしめた。「私はただ、あいつが昔、あんたをあんなに惨めな目に遭わ
「かしこまりました」密は、慣れた様子で頷いた。そこは詩織が普段からよく立ち寄る場所だった。江ノ本市の南山湖。入口にある平面駐車場にスムーズに車を停めると、詩織は一人でドアを開けた。「ついてこなくていいわ。少し歩いたら、すぐ戻るから」江ノ本市の気候は、秋が一番美しい。春のような浮き足立った落ち着きのなさもなく、夏のうだるような熱気もない。もちろん、冬の肌を刺すような凍てつく空気とも無縁だ。湖面を撫でてきた澄んだ秋風が、胸に溜まった鬱々とした思考をすっきりと洗い流してくれる。遊歩道をしばらく歩くうち、残っていたわずかなアルコールの熱も、夜風に完全に持っていかれた。ふと足を止めたとき、詩織ははっと息を呑んだ。無意識のうちに歩き続けていたその場所は、かつて彼女が「あの指輪」を水底へ投げ捨てた、因縁の場所だった。あれほどの痛みを伴った別れから何年も経ち、当時の張り裂けそうな感情など、とうの昔に忘れたつもりでいた。しかし、実際にこの景色を前にすると、まるで昨日のことのように、あの瞬間の記憶が恐ろしいほど鮮明にフラッシュバックしてくる。吸い寄せられるように、詩織は水際へと続く石段を降りていった。身を屈め、静かに波打つ湖面へそっと指先を浸す。秋の湖水は酷く冷たく、指先から骨の髄まで凍りつくような冷気が這い上がってきた。たまらず、彼女はすぐに手を引っ込めた。立ち上がろうとした、その瞬間だった。彼女から一メートルも離れていない水面が突然大きく盛り上がり、ザバァッと激しい水音を立てて、黒い人影が水面から飛び出してきたのだ。「……ッ!」詩織は心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、息を呑んだ。背後にある街灯が周囲を明るく照らしていなければ、間違いなく悲鳴を上げていただろう。バクバクと暴れる心臓を必死に抑えつけ、滴る水から顔を覗かせたその人物に目を凝らす。――そこにあったのは、あまりにも見慣れた男の顔だった。真正面から視線がぶつかり合い、互いに一歩も動けないまま硬直する。柊也の漆黒の瞳が、詩織の顔を食い入るように見つめていた。死に絶えたように静まり返っていた彼の心の湖に、唐突に激しい波が立ち、幾重にも波紋となって広がっていく。愛する女性を前にして、狂おしいほどの感情が爆発しそうになった。だが――次の瞬間。ミキか
詩織は首をかしげた。「招待状はとっくに届いていますけれど、会場がまだ決まっていなかったのですか?」副社長は声を弾ませて説明した。「いえ、そうではなくて。柏木ディレクターが会場のデザインがお気に召さなかったようでして……社長が直々に、プランの練り直しに付き合って現地へ行かれているんですよ」そこまで言うと、彼女の声には隠しきれない羨望の色が混じった。「もう、社長の溺愛ぶりといったら凄いです。まるでドラマに出てくる御曹司そのものですよ」詩織の関心は、そんなのろけ話には微塵もなかった。「ところで、真田さんはいらっしゃいますか?まだ休暇中でしょうか」「え……あ、ご存じないんですか?」副社
詩織はきょとんと周囲を見回した。ほかに誰もいない。間違いなく自分に向けられた言葉だ。彼女はおもむろにスマホを取り出すと、保存してあったある動画を再生し、音量を最大にして突きつけた。『アタマ大丈夫?アタマ大丈夫?ねえ、アタマ大丈夫?』コミカルな音声がロビーに響き渡る。悠人は顔色を変え、詩織への軽蔑をいっそう深めたような目で睨みつけた。詩織は彼が何を思おうが知ったことではないといった風情で、涼しい顔で支払いを済ませ、店を後にした。その一部始終を、少し離れた席から譲が目撃していた。親に強いられた見合いの真っ最中だったが、悠人が詩織に絡んでいるのを見て、咄嗟に助けに入ろうと腰を浮か
詩織を見送った後、宏明が響太朗に尋ねた。「高坂さん、ずいぶんと江崎さんをお気に入りのようで」「ああ。知性と慧眼を兼ね備えている。得難い才能だよ。ところで、彼女の前職は?」「『エイジア』ですよ。もっとも、賀来社長の秘書止まりでしたけどね。飼い殺しもいいとこです」響太朗は一瞬、きょとんとした。「あれほどの人材を、賀来社長はみすみす手放したのか?」「彼も、彼女にそこまでの才覚があるとは思ってなかったんじゃないですか」宏明の推測に、響太朗は首を振った。「いや、私の知る賀来柊也なら、部下の才覚を見抜けないはずがない。そんな節穴なら、『エイジア』は今の地位にいないさ」宏明は少し考え
志帆は慌てて後ろを振り返り、悠人に視線を送った。その目には懇願の色があった。悠人はさらに値を吊り上げるつもりでいたが、志帆のその眼差しを受け止めると、挙げかけた手をゆっくりと膝に戻した。これ以上は追わなかった。結局、その書画は20億円で落札された。隣で見ていた譲も、さすがに舌を巻いた。「柊也のやつ、派手にやりすぎだろ。結納の品だけで40億円だぞ?持参金はさらに跳ね上がるだろうし……お前がそんなにハードル上げたら、俺たちの立つ瀬がないだろうが」目当ての品が二つとも手に入らなかった以上、長居は無用だ。詩織は席を立つと、譲に声をかけた。「坂崎さん、私はこれで失礼します。用事があり
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