Masuk江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。 しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。 結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。 誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。 7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。 だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。 世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。 だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
Lihat lebih banyak「かしこまりました」密は、慣れた様子で頷いた。そこは詩織が普段からよく立ち寄る場所だった。江ノ本市の南山湖。入口にある平面駐車場にスムーズに車を停めると、詩織は一人でドアを開けた。「ついてこなくていいわ。少し歩いたら、すぐ戻るから」江ノ本市の気候は、秋が一番美しい。春のような浮き足立った落ち着きのなさもなく、夏のうだるような熱気もない。もちろん、冬の肌を刺すような凍てつく空気とも無縁だ。湖面を撫でてきた澄んだ秋風が、胸に溜まった鬱々とした思考をすっきりと洗い流してくれる。遊歩道をしばらく歩くうち、残っていたわずかなアルコールの熱も、夜風に完全に持っていかれた。ふと足を止めたとき、詩織ははっと息を呑んだ。無意識のうちに歩き続けていたその場所は、かつて彼女が「あの指輪」を水底へ投げ捨てた、因縁の場所だった。あれほどの痛みを伴った別れから何年も経ち、当時の張り裂けそうな感情など、とうの昔に忘れたつもりでいた。しかし、実際にこの景色を前にすると、まるで昨日のことのように、あの瞬間の記憶が恐ろしいほど鮮明にフラッシュバックしてくる。吸い寄せられるように、詩織は水際へと続く石段を降りていった。身を屈め、静かに波打つ湖面へそっと指先を浸す。秋の湖水は酷く冷たく、指先から骨の髄まで凍りつくような冷気が這い上がってきた。たまらず、彼女はすぐに手を引っ込めた。立ち上がろうとした、その瞬間だった。彼女から一メートルも離れていない水面が突然大きく盛り上がり、ザバァッと激しい水音を立てて、黒い人影が水面から飛び出してきたのだ。「……ッ!」詩織は心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、息を呑んだ。背後にある街灯が周囲を明るく照らしていなければ、間違いなく悲鳴を上げていただろう。バクバクと暴れる心臓を必死に抑えつけ、滴る水から顔を覗かせたその人物に目を凝らす。――そこにあったのは、あまりにも見慣れた男の顔だった。真正面から視線がぶつかり合い、互いに一歩も動けないまま硬直する。柊也の漆黒の瞳が、詩織の顔を食い入るように見つめていた。死に絶えたように静まり返っていた彼の心の湖に、唐突に激しい波が立ち、幾重にも波紋となって広がっていく。愛する女性を前にして、狂おしいほどの感情が爆発しそうになった。だが――次の瞬間。ミキか
翌日、泰造は血相を変えて華栄キャピタルのオフィスへ謝罪に駆け込んだ。しかし対面した詩織は、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。「……河村さん、何か誤解されていませんか?」「いや、その……お恥ずかしい話ですが、私の妻は外の世界の厳しさを知らず、どうにも浅はかなところがありまして。もし彼女が江崎社長に対し、何か無礼な振る舞いや言動をしたのであれば、夫である私から深くお詫び申し上げます。どうか、あの阿呆の戯言など笑って許してやってはいただけないでしょうか」泰造は額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭いながら、必死に取り繕った。詩織はあっさりと答えた。「申し訳ありませんが、河村さん。私は本当に何もしておりません。奥様の発言についても、いちいち気にするつもりはありませんから」本当にただの事実だった。他人の心無い噂話や陰口など、いちいち相手にしていたら、この業界で今の地位まで登り詰めることなどできるはずがない。上に立てば立つほど、視野は広がり、視座は高くなる。そんな些末なことに割く時間など、彼女には一秒たりとも持ち合わせていなかったのだ。泰造は平謝りして帰っていったが、その後も彼の会社のプロジェクトは一向に動かず、各所からの冷遇は続いた。家に帰れば、すべての元凶である優杏が能天気に待ち構えている。怒りの持って行き場を失った泰造が、ついに逆上して彼女にひどい暴力を振るい、夫人たちの集まりへの出席を固く禁じたのは、また別の話である。泰造がオフィスを去った瞬間、詩織の頭からその件は完全に消え去っていた。彼女はとにかく忙しかった。他人のゴシップを楽しむ時間さえ取れないほどに。丸々一週間に及ぶ出張を終え、飛行機が空港に降り立った直後、向井文武からの食事会の誘いが入った。ちょうど彼に相談したい件があった詩織は、そのまま会場へと向かった。到着した頃には、すでに会は始まっていた。顔なじみの面々ばかりだ。向井が詩織を誘ったのには、やはり狙いがあった。グラスを傾けながら、彼が探りを入れてくる。「華栄キャピタルが、『ココロ』の株をすべて手放すという噂は本当ですか?」「ええ。事実です」詩織はあっさりと認めた。その場にいるのは、みな一筋縄ではいかない海千山千の経営者たちばかりだ。誰もが腹の底でそれぞれの思惑を巡らせている。宴もた
彼女が秘書に託した伝言は、短く、そして非情なものだった。『華栄キャピタルは、ココロの全株式を売却する意向です』その言葉を聞いた瞬間、智也の心はすとんと冷えた。唇に浮かんだのは、自嘲の混じった虚しい笑みだけだった。不吉な噂というものは、光よりも速く駆け巡る。半日もしないうちに、ココロの社長夫妻の泥沼劇はネット上を席巻した。一時はSNSのトレンドにまで躍り出、関係者が慌てて火消しに回ったものの、時すでに遅し。勘の鋭いネットユーザーたちは、真理子が「薬を盛って妻の座を射止めた」という後ろ暗い真相を暴き出し、そのスクショは瞬く間にネット中へと拡散されていった。卑劣な手段で今の地位を手に入れた真理子の過去は、一晩で白日の下に晒された。富裕層の夫人たちが集うティーサロンでも、この話題でもちきりだった。口火を切ったのは、河村優杏だ。「信じられませんわ。あの真理子さんが、あんな汚い手を使って正妻の座に収まっていたなんて。あんなに偉そうに江崎詩織を嘲笑っていたくせに、これじゃあ特大のブーメランじゃない」すると、この界隈で顔の利く相馬夫人が、ティーカップを置いて静かに口を開いた。「人間というものは、都合よく高いところから他人を批判したくなるものよ。自分がどうやってそこまで這い上がってきたかも忘れてね。……まあ、誰もが江崎詩織になれるわけではないということかしら」その言葉に、端で聞いていた霜花の表情がぴくりと強張る。優杏が不思議そうに首を傾げた。「その、江崎詩織って、そんなに凄い方なんですの?」部屋の空気が一瞬、奇妙に凍りついた。相馬夫人は意味深な笑みを浮かべ、ただ一言だけ付け加えた。「……今夜にでも、お宅の旦那様に聞いてごらんなさい。私たちよりも、実業界の方々の方が、彼女の本当の姿を熟知しているはずよ」優杏は相馬夫人の残したあの言葉がどうしても頭から離れず、河村泰造(かわむら たいぞう)の帰宅を執拗に待ち構えていた。日付が変わる頃、ようやく玄関の鍵が開く音がした。泰造の足取りはいつになく重く、部屋に入ってきたその表情には隠しようのない焦燥が浮かんでいる。「おかえりなさぁい、あなた」媚びるように縋り付いた優杏だったが、泰造は苛立たしげにその手を振り払った。「よせ、今は構ってる余裕なんてないんだ」「もう、ど
いつものことだった。彼女がどれほど喉を枯らして叫ぼうと、智也からは一切の反応が返ってこない。重苦しく、息が詰まるような冷たい沈黙だけが、彼女を嘲笑うように部屋に満ちていた。その夜、真理子はだだっ広い主寝室のベッドに一人横たわったまま、一睡もできずに朝を迎えた。翌朝、彼女は薄暗いうちから起き出し、埃を被りかけていたキッチンに立った。そして、テーブルに乗り切らないほどの豪勢な朝食を作り上げた。やがて智也と子供が起きてくると、彼女は昨夜の狂態など何事もなかったかのように、そそくさと笑顔を作って歩み寄った。「おはよう。朝ごはん、できてるわよ」だが、母親の顔を見た途端、子供はビクッと体を震わせ、反射的に智也の背中へと隠れてしまった。智也はすかさず子供を庇うように立ち塞がり、氷のように冷え切った視線を真理子へと向けた。「……いらない。一人で食べろ」「そう言わずに。わざわざ早く起きて作ったのよ?二人の大好物ばかりなんだから」真理子は媚びるように声のトーンを上げた。しかし智也はそれ以上取り合おうとせず、冷たく言い放った。「幼稚園に遅れる。先に行く」「待って!じゃあお弁当にするから、車の中で食べて!」真理子は慌てて踵を返し、バタバタとキッチンへ駆け込んだ。タッパーに料理を詰め込み、息を切らしてリビングに戻ってきたとき――そこにはもう、夫と子供の姿はなかった。玄関の扉は、すでに無情にも閉ざされていた。静まり返った部屋の中で、手の中のプラスチック容器がカタカタと震える。真理子はギリッと唇を噛み締めると、朝早くから自分を誤魔化すようにして作り上げた手料理の数々を、そのままゴミ箱へと叩き込んだ。午前十時。真理子がオフィスに到着するなり、秘書が「社長がお呼びです」と声をかけてきた。バッグをデスクに置き、彼女は智也の執務室へと向かった。昨夜の狂乱をまるで引きずっていないかのように、その表情はあくまで落ち着き払っていた。「呼んだ?」短い問いかけに、智也は黙って一枚の書類を彼女の目の前に滑らせた。「これに目を通してくれ」紙の最上段に印字された数文字――『離婚協議書』というタイトルを認識した瞬間、真理子の余裕ぶった仮面はあっけなく崩れ落ちた。直後、執務室から激しい言い争う声が爆発した。怒号と金切り声は分厚いドアや壁をすり抜け、『コ
そのために、密かにプレゼントまで用意していたのに。結局、当日になっても彼からの言葉はなかった。待ちきれなくなった志帆は、プライドをかなぐり捨てて賀来家まで押しかけ、あの電話をかけたのだ。電話越しに不満をぶつけた後、柊也はすぐに出て行くとなだめてくれた。そして実際に彼は出てきてくれた。それで少しは気が晴れたはずだったのに。よりによって、あの女がこの家から出てくるのを目撃してしまうなんて。抑圧された嫉妬と焦りが、再び火を吹いた。柊也の瞳は冷ややかで、感情の色は見えない。だが、そこには強い圧力が潜んでいた。彼は静かに問いかけた。「本当に、父さんに会う気か」
「詩織」と、まるで本当の娘のように名を呼び、自身の人脈を紹介し、大きなプロジェクトに関わらせようとしている。嫉妬するなというほうが無理な話だ。志帆は柊也を見上げて尋ねた。「ご挨拶に行かなくていいの?」柊也は静かに首を横に振る。「よそう。最近、親父は俺のことを良く思ってない。行っても嫌な顔をされるだけだ」「……そう」志帆は気まずそうに頷くしかなかった。先輩たちを見送った詩織は、ようやく自分の帰宅手段を確保しようとスマートフォンを取り出し、アシスタントの密に連絡を入れようとした。だが、電話をかける前に、一台の黒塗りのセンチュリーがしめやかに目の前に停まった。後部座席のド
詩織の全身が、まるで内側から光を放っているようだった。会場のすべての視線が、彼女一人に引き寄せられる。誰もが、彼女を見ていた。ふと振り返ると、柊也がその光景に我を忘れたように見入っている。その横顔を見て、志帆の顔からさっと血の気が引いた。ドレスの脇で垂れ下がっていた手が、ゆっくりと固く握りしめられる。爪が掌に食い込む痛みも感じなかった。この瞬間、自分がひどく滑稽な道化のように思えた。詩織が何を語っているのか、もう一言も耳に入ってこない。志帆はかさついた唇をなんとか動かし、絞り出すように彼の名を呼んだ。「柊也くん……気分が悪いわ。もう、帰りましょう」幸いにも、柊也はす
ただでさえ宇田川京介という強敵の存在に気を揉んでいるというのに、ここに来て篠宮賢までもが参戦してくるとなると、いよいよ頭が痛い事態だ。「久坂さん、ここちょっと問題が……見てもらえます?」智也は完全に上の空だった。スタッフに何度か名を呼ばれて、ようやくハッとして我に返る。作業を終えると、賢がわざわざ下まで見送りに来てくれた。智也が車を回しに行っている間、詩織は賢と少し立ち話をした。途中で賢の方に電話が入り、彼は執務室へ戻ってしまったため、詩織は一人エントランスに残された。ちょうど退勤ラッシュの時間帯だ。渋滞に巻き込まれているのだろう、智也の車はなかなか戻ってこない。
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