「エミリアの部屋を見せてほしいの」 美咲の申し出に、アレックスは一瞬だけ視線を泳がせ、唇をかみしめた。遠くを見つめるその目には、ためらいの色が浮かんでいる。部屋に足を踏み入れることが、エミリアの不在を改めて突きつける苦しみになるのを、彼は知っているのだ。 それでも、彼は覚悟を決めるようにゆっくりと頷き、美咲を手招きした。 二人はリビングの奥へ進み、階段を一段ずつ踏みしめる。手すりには埃が厚く積もっており、長い時間の重さを思わせるものがあった。 エミリアがいなくなってから、この家の時間は止まったままなのだ。 美咲はアレックスの背中を見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じた。失われた日々の痕跡をこの目で確かめたいという期待と、その扉の先に何が待っているのかという不安が入り混じる。 彼女の足取りは自然と慎重になり、空間に漂う寂しさと重さが心に染み渡っていくかのようだった。 二階の突き当たりにある白いドア── アレックスが鍵を開けると、冷たく静謐な空気が流れ出してきた。そこはエミリアが生前、音楽に身を委ねていた静謐な部屋だった。 窓際に置かれた譜面台、壁に立てかけられたチェロケース、そして部屋の中央には、彼女が愛用していたヴァイオリンケースが、主の帰りを待つように置かれている。 床には書きかけの楽譜が散乱し、彼女がここで音と格闘していた痕跡が生々しく残っていた。「警察も一度ここを調べたが、何も持ち出さなかった。事件性はないと判断されたからだ」 アレックスは部屋の入り口で立ち止まり、苦しげに目を伏せた。 ここに入ることは、彼にとってエミリアの不在を突きつけられる苦行なのだ。「入るね……」 美咲は部屋に足を踏み入れた。 かつてこの部屋で、エミリアはどんな思いで楽器を奏でていたのだろう。 華やかな経歴、世界的な名声。しかし、その裏にあったのは、誰にも理解されない深い孤独だったとアレックスは言った。「アレックス。あなたが言っていた手渡した物の手がかりが、ここにあるかもしれないわ」 美咲は散らばった楽譜を一枚ずつ拾い上げた。 モーツァルト、バッハ、ドビュッシー……。どれも難解な曲ばかりだ。書き込みがびっしりとされ、彼女の苦悩が滲んでいる。 だが、これらは演奏家としての記録であり、石場へと繋がる個人的なメッセージではない。 あの日、彼女が石場
最終更新日 : 2025-12-05 続きを読む