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失われた二つの旋律 のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

98 チャプター

共鳴する孤独 ①

「エミリアの部屋を見せてほしいの」 美咲の申し出に、アレックスは一瞬だけ視線を泳がせ、唇をかみしめた。遠くを見つめるその目には、ためらいの色が浮かんでいる。部屋に足を踏み入れることが、エミリアの不在を改めて突きつける苦しみになるのを、彼は知っているのだ。 それでも、彼は覚悟を決めるようにゆっくりと頷き、美咲を手招きした。 二人はリビングの奥へ進み、階段を一段ずつ踏みしめる。手すりには埃が厚く積もっており、長い時間の重さを思わせるものがあった。 エミリアがいなくなってから、この家の時間は止まったままなのだ。 美咲はアレックスの背中を見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じた。失われた日々の痕跡をこの目で確かめたいという期待と、その扉の先に何が待っているのかという不安が入り混じる。 彼女の足取りは自然と慎重になり、空間に漂う寂しさと重さが心に染み渡っていくかのようだった。 二階の突き当たりにある白いドア── アレックスが鍵を開けると、冷たく静謐な空気が流れ出してきた。そこはエミリアが生前、音楽に身を委ねていた静謐な部屋だった。 窓際に置かれた譜面台、壁に立てかけられたチェロケース、そして部屋の中央には、彼女が愛用していたヴァイオリンケースが、主の帰りを待つように置かれている。 床には書きかけの楽譜が散乱し、彼女がここで音と格闘していた痕跡が生々しく残っていた。「警察も一度ここを調べたが、何も持ち出さなかった。事件性はないと判断されたからだ」 アレックスは部屋の入り口で立ち止まり、苦しげに目を伏せた。 ここに入ることは、彼にとってエミリアの不在を突きつけられる苦行なのだ。「入るね……」 美咲は部屋に足を踏み入れた。 かつてこの部屋で、エミリアはどんな思いで楽器を奏でていたのだろう。 華やかな経歴、世界的な名声。しかし、その裏にあったのは、誰にも理解されない深い孤独だったとアレックスは言った。「アレックス。あなたが言っていた手渡した物の手がかりが、ここにあるかもしれないわ」 美咲は散らばった楽譜を一枚ずつ拾い上げた。 モーツァルト、バッハ、ドビュッシー……。どれも難解な曲ばかりだ。書き込みがびっしりとされ、彼女の苦悩が滲んでいる。 だが、これらは演奏家としての記録であり、石場へと繋がる個人的なメッセージではない。 あの日、彼女が石場
last update最終更新日 : 2025-12-05
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共鳴する孤独 ②

──その日、カフェ「アルペジオ」は湿った空気に包まれていた。 窓の外を叩く激しい雨音が、店内に流れる静謐な空気を縁取っている。 私はピアノの前に座り、エミリアの合図を待っていた。 エミリアはヴァイオリンを構え、いつものように軽く目を閉じていたが、その横顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。 連日の演奏会、期待される癒しの歌姫としての役割、そして決して埋まることのない異国での孤独── 彼女の弓が弦に触れ、最初の一音が鳴り響いた瞬間、私はハッとした。(エミリアの心が泣いている……) 音が泣いていたのだ。 今日の曲目はクライスラーの『愛の悲しみ』──だが、彼女が奏でているのは、甘美なセンチメンタリズムではなく、もっと根源的な、身を切り裂くような断絶の叫びだった。 しかし、観客たちはそれには気づかない。「素晴らしいわね」「なんて優雅なのかしら」 客席からは、ため息のような称賛と紅茶をすする音が漏れてくる。彼らはエミリアの技術と雰囲気に酔っているだけで、その奥にある魂の悲鳴には耳を塞いでいるかのようだった。 エミリアの眉間に微かな皺が寄る。 彼女にとって、理解なき賞賛は罵倒よりも冷たい壁なのだ。 演奏が終わり、パラパラと上品な拍手が湧き起こる。 エミリアは人形のような完璧な笑みを浮かべてお辞儀をした。その笑顔が心からのものではないことを、私だけが知っていた。──いや、私だけではなかった。 ふと、エミリアの視線が客席の隅で止まった。 そこには、いつも決まった席に座る、一人の男── 石場和弘だ。 彼は拍手をしていなかった。 カップのコーヒーは冷めきっているのに、口をつけようとしない。 ただ、少し猫背気味の姿勢で虚空を見つめている。その目は焦点が合っておらず、どこか別の世界を見ているようだった。 周囲の客が彼を気味の悪い男と避ける中、エミリアだけが吸い寄せられるように彼を見つめていた。 私は、その時のエミリアの横顔を忘れることができない。 エミリアは、まるで迷子が自分と同じ匂いのする子供を見つけた時のような、驚きと安堵が入り混じった表情をしていたのだ。 休憩時間、エミリアはいつものように控室には戻らず、ヴァイオリンを抱えたままフロアに残った。 そして、ためらうことなく石場のテーブルへと歩み寄った。「……聴こえましたか?」
last update最終更新日 : 2025-12-07
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共鳴する孤独 ③

 そして、失踪する前日の夕暮れ── あの日も、カフェには石場の姿があった。 閉店間際、客足が途絶えた店内で、エミリアは帰り支度をする石場を呼び止めた。「あの……待ってください」 石場が立ち止まり、怪訝そうに振り返る。 エミリアは周囲を気にしながら、ポケットから一枚の紙片を取り出した。 小さく折り畳まれた五線紙の切れ端だ。「これを、あなたに」 石場は困惑したように眉を寄せた。「……これは?」「私からの手紙です」 エミリアは穏やかに微笑んだ。それは、ステージで見せる作り物の笑顔ではなく、春の陽だまりのような、温かく静かな微笑みだった。「言葉では上手く言えないので……音にしました。あなたなら、きっと分かってくれると思うから」 石場は躊躇いながらも、その紙片を受け取った。 彼の手は、まるで壊れ物を扱うように震えていた。 土で汚れた爪と、白く透き通るようなエミリアの指先が一瞬だけ触れ合う。「僕には音楽のことは分からない……」 石場は拒絶するように言ったが、その紙片を決して返そうとはしなかった。「分かりますよ。あなたは誰よりも耳が良いもの」 エミリアはそう言い残すと、私が待つピアノの方へと戻ってきた。 その足取りは何かの重荷を下ろしたかのように軽やかだった。「エミリア、彼に何を渡したんだい?」 私が尋ねると、彼女は悪戯っぽく人差し指を唇に当てた。「秘密。……でもね、アレックス。私、やっと分かったの」「何が?」「私の音楽が、どこへ届くべきなのか。空っぽの拍手喝采のためじゃなくて、たった一人の、震えている誰かのために弾けばいいんだって」 彼女は窓の外、夕闇に消えていく石場の背中を愛おしそうに見つめた。「彼はね、私と同じ迷子なの。出口のない森で、ずっと膝を抱えている。……だから、私が灯りになりたいの」 それが私が聞いた、エミリアの最後の本音だった。***「そんなはずは……」 美咲は手にした紙片を思わず強く握りしめた。呼吸が一瞬止まり、胸の奥で鼓動が早まる。 私が怪物の目だと恐れたあの濁った瞳を、エミリアは自分と同じ迷子の目だと表現している。 あの日、倉庫で私を追い詰めた目は、そんな繊細なものではなかった。あれは飢えた獣の目だ。 エミリアは騙されていたのではないか──そう美咲は否定しようとした。だが震える指先は紙から離
last update最終更新日 : 2025-12-12
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共鳴する孤独 ④

──一体、私は何を見ていたのだろう。「ストーカーだ」「怪物だ」と決めつけ、自分のトラウマを彼に投影し、彼をただの加害者として断罪しようとしていた。 けれど、真実は違った。 彼は孤独なエミリアにとって、唯一の理解者だったのだ。そしてエミリアもまた、彼にとっての光だった。 二人は誰にも理解されない孤独の中で、音だけで繋がっていた。 それは恋愛よりももっと深く、切実な、魂の共鳴だったのだ。「……リサに伝えなきゃ」 美咲は涙を拭い、弾かれたように顔を上げた。 先ほどの電話で、リサは言っていた。『彼の中には怪物がいる』『次は両親が狙われる』と── リサは今、正義感から石場を危険人物と仮定し、ご両親の元へ向かっている。 けれど、もし石場がエミリアの言う通り、不器用で繊細な迷子なのだとしたら…… リサのその警戒こそが、彼を追い詰め、傷つける刃になってしまう。 石場はこれまでずっと、そうやって周囲から「お前は異常だ」「危険だ」と決めつけられ、心を閉ざしてきたのではなかったか。 私たちがしようとしていることは、正義ではない。寄ってたかって、傷ついた人間を崖から突き落とす行為そのものだ。「石場は犯人じゃない。彼は、エミリアが最後に希望を託した相手だったのよ。……このままじゃ、リサまで彼を傷つける側の人間になってしまう」 美咲の声は震えていた。 自分の誤解が原因で、リサが傷つく未来なんて見たくはない。 彼を怪物扱いする誤解の連鎖を止めなければ──「……アレックス。この楽譜、借りていい?」 美咲は声を落とし、相手の反応をうかがうように言った。 アレックスにとってそれがどれほど大切なものかは知っている。手元に残して置きたいはずだ。「私たちが彼を追い詰めたら、エミリアの灯りを消してしまうことになると思うの」 美咲の言葉にアレックスは深く頷いた。「リサが石場の実家の場所を突き止めたわ。私はそこでリサと合流して、これをリサに見せたいの。この楽譜があれば証明できる。彼はエミリアが最後に希望を託した相手だったって」 彼が本当に怪物なのか、それともエミリアが信じた迷子なのか、確かめなきゃいけない。「ああ、構わない。……君に託すよ。彼女が守りたかったものを、僕たちが壊すわけにはいかないからね」 アレックスは迷うことなく頷き、楽譜を美咲に渡した。意外な反
last update最終更新日 : 2025-12-12
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綻びた隠れ家 ①

 美咲との通話を切ったリサは、アクセルをさらに深く踏み込んだ。 流れる景色が灰色に滲んでいく。 美咲を巻き込むわけにはいかない。これは私が終わらせなければならない因縁でもある。 誤った情報を信じ、依頼者を傷つけたあの日から、私はずっと逃げ続けてきた。石場が被害者なのか加害者なのか──その答えを見届けなければならない。 ハンドルを握るリサの脳裏に、妹・由美子の震える声が蘇る。 石場の妹・由美子から聞いた「土倉での虐待」と「兄の死」についての証言── 由美子の証言が事実なら、石場和弘は幼い頃から虐待を受け、人格が壊れるまで追い詰められた被害者であり、同時に危険な加害者に成り得る存在だ。 由美子は「兄の中には怪物がいる」と語った。──だが、本当に彼は危険な人物なのだろうか。 石場は、ただ不器用で、周囲に理解されぬまま孤立していった人間ではないのか。 生まれながらに悪意を宿す者など存在しない。周囲が彼を恐れ、疎外することで、彼を怪物という型に押し込めてしまっただけなのではないか。「怪物」という言葉は、理解できないものを排除するための、あまりに便利なレッテルに過ぎないのかもしれない。 しかし、由美子の切迫した様子は只事ではなかった。 もし石場の中の「何か」が暴走しようとしているなら、真っ先に狙われるのは、彼を歪めた原因である両親だろう。 石場家がひた隠しにしてきた闇は、想像以上に根深い。「……確認しなきゃ」 リサの目的は、両親への警告だけではない。 むしろ、ジャーナリストとしての本能が、あの両親から真実を聞き出すことを求めていた。 石場和弘という人間を歪めた原因が彼らにあるのなら、エミリアの失踪にも彼らの保身が関わっている可能性がある。 車は両親が潜伏するアパートの前に滑り込んだ。 夕暮れが迫り、古びた建物は長い影を落としている。 これが裕福だったはずの家族が選んだ隠れ家──あまりにも寂れている。 リサは階段を上がり、角部屋のインターホンを押した。『……はい』 しばらくして、インターンホン越しに、佐和子の警戒心に満ちた声が応答した。「沢村です。佐和子さん、お話があります」『お引き取りください。私たちの家庭は、本当に何もないのです。何も話すことはありません』 拒絶されることは想定内だ。リサはインターホンに向かって、努めて冷静
last update最終更新日 : 2025-12-08
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綻びた隠れ家 ②

「私には、どうしても普通の家庭とは思えないのです。……由美子さんは言っていました。『兄の中には怪物がいる』と。あなた方も、それを恐れてここへ逃げてきたのではありませんか?」 リサは、これ以上隠しても無駄だと悟らせるために、決定的な言葉を口にした。「土倉のことも聞きました。そして、お兄さんが亡くなった日のことも」 佐和子の表情が凍りついた。 それは、彼女が数十年間、心の奥底に封印し、決して触れようとしなかった「核心」だった。「『普通の家庭』だと言うのなら、なぜ息子さんから逃げているのですか? なぜ、彼と向き合おうとしないのですか?」「それは……あの子が……」 佐和子が言葉に詰まる。「あなた方は、息子さんを……和弘さんを、一度でも救おうとしたのですか?」 リサの問いかけに、佐和子の唇が震える。「救う……? 私たちはただ……」 弁明の言葉を探すように視線を彷徨わせる佐和子を見ていた時、リサはふと気づいた。 佐和子の背後、薄暗い廊下の奥にある和室に、誰かの気配があることに…… 物音はしない。だが澱んだ空気の中に、じっと息を潜めてこちらの様子を窺っている。重苦しい「何か」の存在。 父親だろうか。かつて息子を支配し、今はその影に怯えて隠れている年老いた男……「……ご主人ですか?」 リサは奥に向かって声をかけた。 しかし返事はなかった。影は微動だにせず、ただ沈黙だけが返ってくる。 リサが覗き込もうとした瞬間、佐和子が遮るように声を荒らげた。「もう帰ってください! これ以上は……私たちの家庭は本当に何もないので!」 その声は震えを帯び、言葉の端々がかすれている。肩は強張り、両手は胸の前で固く握りしめられていた。必死に何かを押し返そうとする姿がそこにある。 リサは奥の影から目を離せずにいたが、由美子の強い視線に押し返され、仕方なく後ずさった。 ドアが閉じられる直前、暗がりの中の影がわずかに揺れたように見えた。それが人の動きだったのか、光の錯覚だったのか、確かめる術はない。ただ、そこに佇む男のシルエットからは、生きた人間に宿るはずの気配がまるで感じられず、家そのものに取り憑いた影のように、静止したまま沈んでいた。 あんな状態で、息を潜めてすごさなければならないなんて……。きっと報復に怯えて隠れ住んでいるのだろう。 その姿は、あまりにも惨め
last update最終更新日 : 2025-12-09
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旋律の交錯

 フロントガラスを叩く雨音が次第に強さを増していく。 リサは路肩に車を停めたまま、スマートフォンの画面に表示された「美咲」の文字を見つめていた。 胸の奥に、不意に冷たい不安が広がる──彼女の身に何かが起きたのではないか。 リサは深く息を吸い込み、震える指でコールバックした。 呼び出し音が数回鳴り、やがて通話が繋がる。「……リサ?」 聞こえてきた美咲の声は、リサが予想していたものとは違っていた。そこには怯えや拒絶はなく、どこか憑き物が落ちたような、静かで、それでいて芯の通った声だった。「美咲、よかった。電話に出てくれて。一体、どうしたの?」 リサは急き立てるように言った。「あれから私、アレックスのところ行ってきたの。そうしたら、そこで見つけたのよ」 美咲は落ち着いた調子で答える。「見つけたって?」「エミリアが書いた楽譜よ。アレックスの家で、エミリアの楽譜を見つけたの」「楽譜……?」 リサは思わず繰り返した。楽譜がどうしたのだろう。「リサ、今どこにいるの? この楽譜をリサに見せたいの。あなたが掴んだ『怪物』の正体と、私が見つけた『迷子』の痕跡……。この二つを突き合わせないと、私たちは真実を見誤る気がする」 迷子…… 美咲の口から出た意外な単語に、リサは混乱した。 妹が語った、冷酷な笑みを浮かべる怪物。それとは真逆のイメージだ。「……分かったわ。いつものカフェで落ち合いましょう」 私も美咲に伝えたいことがある。 リサは電話を切り、アクセルを踏み込んだ。 ワイパーが激しく動き、視界を覆う雨を払いのける。 妹の証言と、エミリアの遺した記録── 相反する二つの情報が交差する先に、石場和弘という人間の輪郭が浮かび上がろうとしていた。
last update最終更新日 : 2025-12-12
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矛盾する二つの顔 ①

 カフェの窓ガラスを、雨粒が斜めに叩きつけている。 店内は薄暗く、客の姿はまばらだ。 湿った空気が漂う店内の奥──古びたランプの灯る席で、美咲は待っていた。 美咲はリサの姿を見つけると、小さく手を挙げる。濡れたコートを整えつつ席についたリサを前に、美咲は安堵の息を漏らした。「美咲、顔色は良さそうね。もう大丈夫なの?」 リサは美咲の顔を覗き込んだ。先日の電話での怯えようが嘘のように、今の彼女の瞳には、かつてない強い意志が宿っている。「ええ。もう逃げないって決めたから」 その強さを確かめるように、リサはしばし美咲を見つめた。胸の奥にわずかな安心が広がる一方で、別の疑念がゆっくりと持ち上がる。 あれだけ恐怖に押しつぶされそうだった人間が、短期間でこれほどまで立ち直れるものだろうか。恐怖を超える「何か」を見つけたとでも言うのだろうか。 やがてリサは声を落とし、石場の母・佐和子が暮らすアパートの話を切り出した。 二人の間に一瞬、重たい沈黙が落ちる。「……そう。ご両親は、何も話さなかったのね」 美咲はリサの報告を聞き、言葉を探すように口を開いた。「ええ。佐和子さんは震え上がっていて、全然ダメだった。奥の部屋には、父親だと思うけど、隠れて息を潜めて出てこなかったし」 リサは運ばれてきたコーヒーに口をつけず、カップの縁を指でなぞりながら、アパートでの光景を反芻した。 湿気た畳の匂い、薄暗い廊下、そして閉ざされた襖の向こうから感じた粘着質な視線──「どうしても引っかかることがあってね。顔は見えなかったけど、去り際、カーテンの隙間から彼と目が合った気がしたの。……あれは怯える被害者の目じゃなかった」「え?」「あれは……獲物を品定めするような、冷たく濁った監視者の目よ」 リサの脳裏に、封印していた過去の記憶が不意に蘇った。──五年前の、ある雨の日。 リサが担当した依頼人の女性は、夫からの精神的支配(モラルハラスメント)に苦しんでいた。だが、その夫は地域の顔役であり、誰からも信頼される人格者だった。『主人は、私のためを思って言っているんです。私が至らないから……』 女性はそう言って泣いた。リサは当時、夫の外面の良さと、女性の精神的な不安定さを見て、判断を誤った。『少し神経質になっているだけではないですか?』と、彼女の訴えを軽視してしまったのだ。
last update最終更新日 : 2025-12-10
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矛盾する二つの顔 ②

 リサは身震いを押し殺し、美咲を見据えた。「仮にその人が父親だとするなら、息子が暴走して、自分たちが隠蔽してきた過去の罪が暴かれるのを恐れるのではないかしら」 リサの言葉に美咲は息を呑んだ。 妹・由美子の証言通り、石場和弘という人物は幼少期の虐待で壊れた被害者だ。だが、その加害者である父親は、今もなお健在であり、暗闇の中から何かを画策している──その可能性は十分にある。 監視しているのは、石場だけではない……「エミリアの失踪に、その父親が関与しているとしたら、全て辻褄が合うのよ」 リサの呟きが、重く響く。「……どういうこと?」 美咲は思わず身を乗り出した。瞳がわずかに揺れ、唇が震えている。「石場は不器用で感情のコントロールができない。そんな人間に、警察の捜査すら欺く完璧な証拠隠滅ができると思う?」 リサが美咲を見据える。「確かに……。私を襲った時の彼は、もっと杜撰で感情的だった。獣のように吠えて、ただ追いかけてくるだけで……計画性なんて感じられなかった」 過去の虐待により生まれた攻撃的な人格。それは由美子の証言や美咲の体験と一致する。「でしょう? エミリアの失踪は、あまりにも痕跡がない。遺留品一つ落ちていないのよ。あまりにも不自然だと思わない?」 エミリア失踪の犯人像は、もっと冷静で計画的な人物だ。石場ではない「誰か」の可能性が浮上してくる。 リサは真剣な眼差しで美咲を見つめ、そして続けた。「彼を支配していた父親が、仮に冷酷で世間体を何よりも重んじ、計算高いとしたら?」 美咲の顔から血の気が引いていく。「まさか……。石場さんが犯人じゃなくて、お父さんが……」「まだ推測の域は出ないけどね。でも、可能性は捨てきれないわ」 リサは言葉を切り、厳しい顔で続けた。「そして妹さんの話だけど、石場和弘は、幼少期に父親から凄惨な虐待を受けていた。粗相をするたびに裏庭の土倉に閉じ込められ、暗闇と恐怖に晒され続けたの」 リサは過去に目を向けるように声を落として言った。「土倉……」「そう。そして由美子さんの証言によれば、ある大雨の夜を境に、彼は変わってしまった。何が起きても感情を表に出さない人物にね」 リサはスマートフォンを取り出し、デジタルアーカイブのアプリを立ち上げた。
last update最終更新日 : 2025-12-11
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矛盾する二つの顔 ③

「これを見たら分かるわ」 検索窓に『石場健太』『水難事故』と打ち込む。 数秒のロードの後、二十数年前の地方紙の縮刷版が表示される。「……あったわ」 小さな囲み記事。リサは画面を拡大し、美咲にも見えるようにテーブルの中央に置いた。『悲劇の夏休み 男児、増水した川で転落死』 数十年前の事故記事。兄・健太の死を伝える古い紙面だ。「彼には兄がいたわ。健太という名前の。でも、幼い頃に川で溺れ、亡くなってる。事故死らしいの。由美子さんは、そうは思ってなさそうだったけどね」「お兄さんが……」「記事には、当時八歳だった石場健太くんが、川で足を滑らせて流され、数キロ下流で遺体となって発見された経緯が記されているわ。そして、第一発見者である弟・和弘についての記述もね」 リサは記事の末尾を指差した。『一緒に遊んでいた弟(六歳)が帰宅し、母親に事故を伝えた。駆けつけた消防団員によると、弟は現場の様子を落ち着いた口調で伝えていたという』「……落ち着いた口調?」 美咲の声が震える。「兄が流されたのよ? 普通の子供ならパニックになって泣き叫ぶはずでしょう?」「ええ。でも、彼は冷静だった。妹の由美子さんの証言と一致するわ。その由美子さんがね、葬儀の時に見たそうよ。兄の遺影の前で、石場和弘が肩を震わせて笑っていたのを」「笑っていた……?」 美咲が息を呑む。「ええ。泣き叫ぶ『和弘』の人格が土倉で壊れ、代わりに現れた怪物が、邪魔な存在を排除したのかもしれないってこと。少なくとも妹の由美子さんはそう思ってる。……美咲、あなたの直感は正しかったのよ。倉庫であなたを追ったのは、その怪物かもしれない」 リサの言葉は重かった。「これが記録された事実よ。彼は兄が死ぬのを、ただ見ていた。もし彼に人の心が欠落しているなら、エミリアに対しても同じように、冷徹に処理できたのかもしれない」 幼少期の虐待が生み出した、感情を持たない怪物──それが石場和弘の正体だとするなら、エミリアはその犠牲となった可能性がある。 そして父親は、その怪物を檻に閉じ込めつつ、世間の目を欺くためにあらゆる問題を隠し続けてきた。そう考えることはできないか。 だが、美咲は、それを払いのけるように、ゆっくりと首を横に振った。
last update最終更新日 : 2025-12-13
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