All Chapters of 愛してるなんて言わないで: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

紀田明(きた あきら)に三年も片想いし続けて、告白するたびにその場でフラれてきた。それなのに、十八歳の誕生日になって、なぜか彼は私の想いを受け入れてくれた。その夜、彼のまやかしの優しさに惑わされ、すべてを委ねてしまった。それから一年後、双子を身ごもったが、彼の態度は曖昧なまま。産むのか堕ろすのか、答えはくれなかった。仕方なく独りで病院へ行き、手術を終えて帰ると――個室のソファにだらりと寄りかかる彼が、何気なく呟いていた。「夕恵(ゆえ)か?孕んだから堕ろしたんだ。しばらくヤれなくてさ、マジでつまんないんだ。だがよ、あの女、俺にベタ惚れでさ。子供ができたっても、自分からサクっと処理しやがる。文句も言わねぇから、都合がいいんだろ」明の冷たい言葉は、あたかも刃のように、私の心臓を打ち抜き、その場に釘付けにした。まるで奈落の底に突き落とされ、光など一切ない絶望に飲み込まれるようだった。ドアを押す手がピタリと止まり、血の気が一気に引くのと裏腹に、耳だけがカーッと熱くなった。薄暗く喧しい個室で、明の悪友たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。「なぁ、数日会わないだけで、もうあの小娘に恋しくなったのか?ったく、彼女のどこがいいんだ?」私は深く息を吸い、耳を近づけてじっと聞き耳を立てる。ワイシャツのボタンを二つ外し、ソファにだらりと寄りかかる明から、低く軽い声が断続的に聞こえてきた。その口調は軽薄そのものだった。「お前らわからねぇな。一つ、処女で清潔だから、病気の心配がない。二つ、スタイルがいい。デカパイで顔も可愛いし、脚は長くて白い。最後は、俺にべったり惚れっぱなしで、孕んでも自分で処理する。弄びやすいんだよ」「おいおい、流石は紀田家の若様だぜ、マジでやべーな!どうやってここまで調教したんだ?でもさ、あの女、お前にそこまで惚れっぱなしで、しかも三年も付きまとってるんだぞ?一発当てようって女なんじゃないか?」明は自信満々に手を振り、得意げに言い放った。「ありえない。三年も様子を見てきたんだ。金目当ての女とは根っから違う。夕恵はな、マジで俺に首っ丈なんだ。堕ろすって方もあいつが自分から言い出したんだぜ。孕んだって聞いて、どこのありふれた女みたいに、薬飲むのサボって、子をダシに縋り付いて来るんじゃないかと思った。ついカッとな
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第2話

そうだ、この四年間、明は私を完全に手中にしていたと、そう思った。妊娠がわかった時、ほんの一瞬、嬉しかった。でも、現実を思い知らされた。私の家は貧乏だったから。「金の切れ目が縁の切れ目」って、物心つく前から、両親が金のことで繰り返す喧嘩ばかり聞かされて育ってきた。学費に食費、そして服代……生きるのにも何かにつけて金がかかる。金がなければ、何もできないんだ。それでも、こっそり願っていた。明ももしかしたら……この子を喜んでくれるんじゃないかって。だから、万に一つも可能性がなくたって、この気持ちだけは伝えたいんだ。あの時、明は一瞬、硬直した。じっとこちらを見つめ、眉をひそめ、目にわずかな疑念がよぎた。だが、それは一瞬だけ。すぐに彼は何もなかったようにそっと私を抱き、ソファに寄り添わせた。甘やかすような声で囁いた。「そうか。でも、ずっと薬は飲んでたはずだろ?どうして孕めちゃったんだ?」幸せのど真ん中にいた私は、明の怪しむ口調に微塵も気づかず、軽い調子で答えた。「自分でもよく分かんないの。うっかり飲み忘れちゃったのかも」無意識にお腹を撫でながら、彼の胸にすり寄った。無自覚な期待と幸せを滲ませ、続けて尋ねた。「ねぇ……この子、産んでみない?」明がゴムを嫌がるから、初めての夜から私にピルを飲むように頼んだ。最初は体に悪いからと嫌がった私に、彼は「絶対に大丈夫」と誓い、メリットをいくつも挙げて説得してきた。結局、飴と鞭を使い、ねちねちとせがむ彼に、あの辛そうな顔を見せられて、私はしぶしぶ承知するしかなかった。「ああ、そう?」明の手がぼんやりと私の背中を軽く叩く。彼の考える時の癖だ。「どうしようかな。俺もこの子はもちろん欲しいけど、俺の中では夕恵ちゃんもまだ子供だよ?今は二人きりの時間を楽しんで、夕恵ちゃんをいっぱい甘やかしたいだけなんだ」彼は深刻そうに眉を寄せ、顔を近づけて、いつもの不真面目な笑顔でからかった。「一回堕ろさない?夕恵ちゃん、将来結婚したら、また俺の子供いっぱい産んでくれるよな?あと二、三年は、二人だけで過ごそう、いいだろ?」彼は相変わらずに眉を上げ、口元をニヤリとゆがめて、考え込む私をソファの上で軽くひっくり返し、陽気に覆い被さってきた。子供は堕ろしたくない。彼の言葉に胸がじんと痛んだ。顔を上げ、
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第3話

トイレに駆け込み、スマホを見ると、一通の不在着信があった。明からだった。電話を繋ぐなり、彼の焦燥と苛立ちが怒涛のように押し寄せてきた。「どこさぼってたんだよ?なんでこんなに遅れんだ?」どうやら私が去った後、明の友人がまた同じ話題を蒸し返したらしい。・・・・・・「そういやさ、あの江崎夕恵(えざき ゆえ)を一度見かけたことあるんだけど、マジでスタイルいいな。紀田さん、いい女持ってるよな。飽きたら俺たちにも回してくれよ」友人たちの下品な悪口に、明はわずかに眉をひそめて、「ふざけるな、夕恵は俺の女だ」と叱りつけた。「じゃあ、もうすぐ戻ってくる早瀬雪子(はやせ ゆきこ)さんは、そっちはどうすんだよ?」なぜか友人たちの卑俗な言葉に苛立ちを覚えた明は、思わず目を逸らした。するとふと、夕恵のベッドでの姿が頭に浮かび、口元を緩ませてしまう。はっとすると、あそこはもう硬くなった。落ち着きをなくした明は、太ももの不快感を紛らわすようにズボンを握りしめる。そんな彼を見て、友人はからかうように言った。「そういえば、夕恵が今夜来るって言ったろ?まだ来ないのか?他の金持ちと一緒にどこか行っちゃったんじゃないの?」からかわれて、明はつい携帯を確認してしまう。1時間前の夕恵からの着信を見て、考える間もなく折り返しボタンを押した。・・・・・・「えっと……」どう答えればいいかわからず、ただもごもごと言葉を濁すしかない。この恋愛とも呼べない関係では、明が常に主導権を握っていて、私は彼に依存し、従うことにすっかり慣れきっていた。電話の向こうで、明の我慢の糸がプツンと切れた。「もういい。とにかく家で待ってて」それだけ言うと、彼は一方的に通話を切った。
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第4話  

明が家に帰ると、私はソファで丸くなってぼんやりしている。彼は足音を忍ばせて背後から近づき、突然お姫様抱っこして私を持ち上げた。私はきゃっと声をあげ、思わず明にしっかりとしがみついた。あまりのことに、明は大笑いした。「相変わらず、驚きやすいんだな」私は顔を赤らめ、彼の笑顔に暗かった気持ちが少し和らいだ。顔を彼の肩にうずめると、松のような香りがたちまち鼻腔に広がっていく。「どうしてこんなに遅いの、ずっと待ってたの」ささやくような声に、知らぬ間に甘えがにじんでいる。明は私の泣き腫らした目を見て一瞬戸惑い、続いて私の小さな呟きに胸がじんと温かくなった。柔らかな光に照らされて頬を染める私を見て、彼はふと「結婚したい」という衝動に駆られた。口調を優しく和らげて謝ると、明は私を抱き上げてソファに座らせ、自分の腿の上にまたがらせて、そっと私の瞼の端を拭いながら尋ねる。「どうしたの?目が赤いよ。泣いたの?手術、辛かった?もう泣かないで。明日オークションがあるから、お前にネックレスを買ってあげるよ」そのあまりに優しく愛に満ちた口調に、私は鼻の奥がつんと疼いた。込み上げてくる悔しさに、気がつけば豆粒のような涙がこぼれ落ち、声を詰まらせて言った。「あなたって、本当にひどい」「ああ、その通りだ。俺はひどい男だ。このひどい男が夕恵ちゃんに謝る。可愛い夕恵ちゃんをデートに連れて行くから、もう一度チャンスをくれないか?」私はぽかんとして、涙がまだ目に浮かんだまま、まばたきする明を見上げる。彼はまっすぐな眼差しで私に近づき、涙の向こうに、昔愛したあの少年の面影が揺らいで、私は思わずうなずいてしまった。明は珍しく照れくさそうに、つばを飲み込み、ネクタイを緩めて私の目を避けた。「もういいだろ?ね、味噌汁作ってよ。夕恵ちゃんの手料理、久しぶりだ」甘えるような声でそう言うと、彼はキッチンの入口にだらりと寄りかかり、ツンデレ猫のように私をからかいながら、料理の様子を見守った。やっと味噌汁ができあがると、彼は背後からそっと抱きしめてきた。息がかすかに首筋をかすめ、その指はそわそわと私の肌をさまよった。「夕恵ちゃん、寂しかった……一生こうして抱きしめていたいよ」私の耳が真っ赤になり、顔もじんわり熱くなった。恥ずかしさに、甘えた
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第5話

入口でサッシュをかけ、来場者を迎えていると、人混みの向こうに見覚えのある姿が見えた――オークションに連れて行く約束をしていた明だ。しかし、赤いオートクチュールのドレスをまとった女性が寄り添っている。陶器のように滑らかな首筋に輝くダイヤモンド、細くしなやかな指には明と対になる指輪。二人の雰囲気はあまりにも似通っていて、誰の目にもお似合いのカップルに映るでしょう。これが明のドタキャンの理由ってことか、と一瞬で悟った。袖の中の手が震え、喉が詰まりそうな苦しさが込み上げてくる。涙を必死に堪え、羞恥に駆られるようにサッシュを外し、その場から逃げ出そうとした。すると突然、誰かの叫び声と同時に、私は激しく床に押し倒され、警備員たちに押さえ込まれてしまった。慌てて顔を上げると、明の視線とばったり合ってしまう。彼は眉をひそめているが、あの女性の隣に立ったまま、黙っている。彼女は腕を押さえ、軽く眉をひそめて言う。「ぶつかったよ」「しておりません」私は反射的に言い返すと、彼女は苛立ったように舌打ちをした。すると明が冷たい声で言い放つ。「謝れ」明の肩越しに、彼女が得意げに眉を上げるのを見た瞬間、私はハッと悟った。すべてが仕組まれた罠だ。なんて惨め。なんて滑稽だわ。喉の詰まる苦さを必死でこらえ、できるだけはっきりとした口調で言い張った。「ぶつかってすらおきておりません。謝罪する必要はないと存じます」明は怒りに震えながらしゃがみ込み、低い声で言った。「何をやっている?彼女の一言でお前の人生が終わるってわかってるのか。一生かかっても賠償金を払えないんだぞ!」明が私を詰問しているちょうどその時、彼女がゆっくりと歩み寄ってきた。何も知っているのに、とぼけたふりをして聞く。「明、この人と知り合い?」明は私の視線を避けて、そっけなく答える。「ああ。ただの遊び相手さ。世間知らずでな。後でちゃんと謝罪させるよ」遊び相手、か?自分でも気づかぬうちに、自嘲気味に唇を歪めている。四年間、注ぎ込んだ全ての真心は、まるでゴミ同然。私自身と同じように、道化のようだ。彼女はわずかに眉を上げ、一瞥しただけで、私が取るに足らない存在だと宣言するように。たった一つの表情で、私は完全に打ちのめされた。場内の
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第6話

明はなぜか胸の奥で一瞬、何かがすり抜けるような感覚を覚えた。まるで、大切なものを失いかけているような。私は虚ろな足取りで家に戻り、ベッドに倒れ込んだ。目は乾き切り、一滴の涙もこぼれない。スマホが鳴り続ける。明からのメッセージだ。全て無視し、布団にもぐりこみ、ただぼーっとしている。過去の一幕一幕が浮かんでは消える。明が私の真心を踏みにじったことも、それを見抜けず、何度も彼を信じては傷ついた自分自身も、心底憎かった。・・・・・・その頃、明は雪子と共にオークション会場にいた。彼はためらいもなく札を上げ、会場で最も高価なダイヤの飾り物を雪子のために落札した。出口へ向かう途中、ネックレスコーナーが視界に入り、ちらりと脳裏をかすめたのは、夕恵の腫れあがった目だった。ためらいを見せた後、彼は雪子を待たせ、一人で展示コーナーへ行く。中央に展示されていたのは、最新作のネックレス、「天使の涙」。透き通るような真珠の中に、一粒のルビーがはめられている。案内の店員によれば、このネックレスはフランスの著名な巨匠による手作りで、「永遠の愛」を意味するのだという。明は指先をさすり、何かを考えてほんのりと口元を緩めると、さっさと告げた。「これをくれ」ネックレスを手に、彼はご機嫌で写真を撮り、夕恵に送信する。【夕恵ちゃん、怒るなよ。ネックレスを買ってやった。『永遠の愛』だ。俺に愛の告白した時に言った言葉に似てないか?】しばらく待つが、返事はない。明は眉をひそめ、メッセージの履歴をスクロールして確認する。すると、はたとあることに気がつく。以前は活発だったやり取りが、すでに数日前から完全に途絶えていたのだ。あの電話以来、夕恵からの連絡は一切なく、今送ったメッセージにも返信がない。試しに電話をかけてみるが、応答はない。さっきの出来事を思い返し、明の心に突然、不安が込み上げてきた。雪子のことはそのままに、彼は急いで駐車場へ駆け込み、できる限りの速度で家へと向かった。家は朝出かけた時のままで、何一つ変わっていないように見える。慌てて寝室へ走る。誰もいない。その時、彼の携帯がブーンと震え、一本のメッセージが届いた。【明、別れよう】
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第7話

明は完全に動揺し、すぐに電話をかけた。「おかけになった電話は……」という声が繰り返し、彼がブロックされたことを告げる。「夕恵!」ドアが激しく揺れるほど叩かれた。明は口調を和らげて言った。「出てきてくれ。二人でちゃんと話そう」近所の迷惑を考え、私は仕方なくため息をつき、ベッドから起き上がってドアを開けた。私の姿を見て彼はほっと一息つくと、さっそくポケットから宝石箱を取り出した。子犬がしっぽを振るように差し出しながら、いつも私を怒らせてはご機嫌を取る時の、あの甘えた口調で言う。「ネックレスを買ってきたんだ。もうそんなに怒るなよ、ね?ブロックを解除してくれよ、夕恵ちゃん」私はぼんやりと、明が手にした高価なネックレスを見つめる。目が針で刺されたように痛み、また涙が溢れそうになった。明と付き合ったこの一年、私は幾度となく彼との未来を想像してきた。そして何度も、この一途な真心で、私が金目当ての女とは違うと明に証明し、いつか彼が心を開いて私と共に歩み、世界で一番素敵な贈り物をくれる日が来ると夢見てきた。けれど、初めて明から贈り物を受け取るのが、こんな状況だとは思いもよらなかった。かつて夢見た未来は、全て私の痴れ言に過ぎなかったのだ。深く息を吸い込み、私はゆっくりと首を振る。明の表情が一瞬曇った。「どういう意味だ?」「明、別れよう」明の笑顔が一瞬で引っ込み、不機嫌そうに眉をひそめて、冷たい口調で言い放つ。「夕恵、ふざけるな。いい加減にしろ。ちょっと叱っただけだろ?お前、雪子の身分や背景を知ってるのか?彼女に逆らえると思うな。謝れって言っただけだろ、文句あるか?」彼の言い訳じみた態度と、一切合切が私のためのように装う口調は、一片の皮肉でしかなかった。しかしその冷たい言葉は、私のかよわい自尊心を木っ端みじんにし、残っていた幻想も虚しく打ち砕いた。彼にはまったく理解できていない。わかっていないのだ。私は怒りで彼を押しのけた。「『謝れ』だけですむと思ってるの!?あんたたち金持ちの子弟には逆らえないけど、私にもプライドがあるんだよ!あなたたちのオモチャじゃないの!」「オモチャ扱いじゃない。お前を守るために言ってるんだ!何がそんなに気に入らないのよ」私は顔を上げて彼をまっすぐ見た。「だっ
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第8話

明が去り、家が静まり返ると、私は積もりに積もった感情が爆発した。誰もいない室内で、声を抑えることなく号泣した。長く押し殺してきた悲しみが、ついに堰を切った洪水のように溢れ出る。泣き疲れるまで、ただ涙を流し続けた。いつの間にか、濡れた布団に顔を埋めたまま眠りに落ちていた。再び目を覚ましたとき、母がそっと私の頬に触れている。暗い部屋には月明かりだけが差し込み、母の姿を優しく浮かび上がらせている。母はベッドの縁に座り、私の髪を優しく撫でながら、ささやくように言う。「夕恵、目覚めたか?お父さんがあなたの大好な手料理を作ってくれたのよ。少しだけ食べてみない?」「母さん……」たった一言で、また涙が溢れる。声も涙に濡れて震えている。母は何も言わずに私を抱きしめた。子供の頃から慣れ親しんだその香りが、苦しみで張り詰めた心をほぐしていく。「母さん」頭が真っ白で、ただ何度も母を呼び続ける。子供の頃のように、母は私を胸に抱きしめ、安心させるような口調で言った。「よしよし、泣きたいだけ泣いていいの」しばらくして、私はゆっくりと泣き声を収めた。遅れてやって来た恥ずかしさが、ほんのりと顔を赤らめた。照れくさそうに母に連れられて階下へ向かう途中、窓から家の前に停まった車が見えた。車内の明は闇に溶け込み、顔は見えない。手にしたタバコの火だけが揺れている。私は必死で顔を背け、見ない、聞かない、考えないよう自分に言い聞かせる。食卓には私の大好物ばかりが並び、父母の心配そうな視線がひしひしと感じられた。「父さん、母さん……海外に留学したい」と私はもぐもぐ口を開いた。両親は一瞬驚いた様子だったが、すぐに「そうだね、気分転換にもなるし」と答えてくれた。・・・・・・明は家に帰るにつれ、腹立ちがどんどん大きくなり、ネックレスをゴミ箱に投げ捨てた。友人を呼び出して酒を浴びるように飲み、十分に酔った頃、彼は朦朧とした目でソファにもたれかかった。「俺、間違ってないよな?あれだけ彼女のために気を遣ったのに……ネックレスだって買ったんだ。なんであいつは満足してくれないんだ?雪子の財力があれば、彼女を潰すのは簡単なことだ。たとえ彼女に非がなくても、雪子を怒らせれば、彼女を追い詰める方法はいくらでもある。俺は彼女を守るために言
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第9話

国際線に乗る前に、共通の知人のSNSで、明は今雪子と付き合ってることを知った。彼女は明の腕の中で、はじけるような笑顔を見せている。すると友人からメッセージが届いた。【明とどうしたの?】とさりげなく聞いてくる。【別れたの】と笑いながら返信すると――友人は驚き、【道理で明、最近様子がおかしいと思った。すごく落ち込んでるみたいで、この前酔っ払ってあなたの名前呼んでたよ。本当にやり直さないの?】私は一瞬言葉を失ったが、【うん、海外に行くから】と答えた。その後はメッセージを無視し、スマホの電源を切って搭乗した。ロンドンに着いたばかりの頃は、苦労ばかりが続いた。空港ですぐに財布を無くし、カタコト英語で見当違いの会話を重ね、さんざん迷ったあげく、ようやく学校にたどり着いた。最初はどこにもなじめず、夜ごと両親に電話して泣いた。でもいつからか、自然と慣れていった。一人でいることにも、自分で自分を守ることにも。泣かなくなった。想わなくなった。ただたまに、後ろに長い影がちらりと見えることがある。どうやら、私たちの愛はどちらも遅すぎたようだ。海外生活一年目、明の友人から電話がかかってきた。受話器の向こうでは、ざわめいていた喧噪が次第に静まり、歪んだ電子音の奥で、明の涙声の呟きが聞こえた。「夕恵……俺が悪かった……本当に俺を捨てるのか?」私は息を殺し、電話が切れるまで一言も発せずにいた。あれ以来、明からの連絡は完全になくなり、彼は私の世界から完全に消え去ったかのようだった。二年後、ロンドンの街角で明と再会した。ピアスを外し、昔よく着ていたくたびれたグレーのライダースジャケットから、黒のウールコートに変わっていた。若気が抜け、代わりに深みのある男らしさと、より鋭い眼差しを身に付けている。実はこの間、明についての消息を耳にすることはあった。私が去った直後、彼が住まいを引き払い、二人の間のすべてを捨てさせたこと。雪子と婚約が決まり、まもなく結婚する予定だということ。過去のすべては、今は遠い夢のように感じられる。この二年間、私は一切の恋愛を断ち切り、研究の世界に没頭してきた。指導教授と共に実験室に籠り、学問に打ち込む日々。忙しさに食事を忘れることさえあり、ふと国内での日々を思い返すと、本当に当時の
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第10話

夕恵が去ってからの二年間、その苦しみを本当に知っているのは明だけだった。最初は「誰が誰なしでやっていけないはずがない」と思い込み、夕恵に関わるすべてのものを断ち切るように削除し、ブロックした。部屋を引き払い、思い出の品々をすべて捨てた。友人たちを誘い、北極からスキー、レーシング、パラシュートまで――世界中を飛び回った。友人がSNSに自慢げな内容をアップするのを默認した。夕恵がきっと目にするはずだ。あれほど自分を愛していたのだから、きっと耐えきれずに戻って来ると信じていた。その時こそ、夕恵に分からせてやるつもりだった――彼女がいなくても、自分の生活は何も変わらないのだと。日常生活は相変わらず順調に回っている。心の中では意地になって考えていた――夕恵はいずれ後悔し、自分が彼女のために動いていたことに気づくのだと。しかし待てども待てども、夕恵からの謝罪は来ず、友人から「彼女が海外に行った」という知らせが届いただけだった。その時、明はよくやったな、今回は随分と強情を張っている、と思った。しかし夜が訪れ、闇が広がると、悲しみと孤独がじめついた湿気のように忍び寄り、彼の心にまとわりついて息苦しくさせた。夕恵が去って半年後、明は海外行きの航空券を手配し、遠くから学校の門の前で彼女の姿を一目見た。半年前まで彼の何気ない冗談に頬を染めていたあの娘は、今やこわばった口調で不良を追い払えるほどになっていた。正義感あふれる態度で不良を諭す彼女の姿を見て、彼は足を止めた。心の奥で、少しばかり臆病さと後ろめたさを覚える。二人の始まりは、そもそも彼の下心からだったのだ。明が躊躇している間、紀田家の株は大暴落、経営難に陥り、祖父は倒れ、取締役会は混乱の極みにあった。祖父の厳命により、明は恋愛や享楽を捨て、会社経営と株価安定に奔走するしかなかった。「紀田家の危機が過ぎ去ったら、雪子との婚約を解消し、ロンドンにいる夕恵の元へ駆けつけよう」と、明はそう信じていた。まだ時間はたっぷりある、二人にはきっと長い未来が待っているのだと。髪を短く切り、ピアスも外し、シルエットの決まったオーダーメイドスーツに身を包んだ。大人としての振る舞いを演じながら、雪子を連れて宴会場を渡り歩く日々。明は次第に口数を減らし、表情も固くなっていった。
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