All Chapters of 無香は朔夜に薫る ―妹が婚約者を寝取った夜、私は冷血軍神の「運命の番」に刻まれた―: Chapter 1 - Chapter 10

53 Chapters

第1話 散りゆく約束

 帝都の夜は、春の終わりを惜しむように淡い霞をまとい、華族会館の窓々からこぼれる灯が、磨き抜かれた石畳へ黄金色の帯を落としていた。 正門には艶やかな黒塗りの自動車が並び、その傍らでは飾り金具を輝かせた馬車が静かに主人を待っている。 文明開化の息吹を感じさせる機械の音色と、古き都の雅を残す馬の蹄の音とが一つの夜へ溶け合う景色は、この太正という時代そのものを映しているようでもあった。 大広間へ足を踏み入れると、幾重にも吊るされた水晶のシャンデリアが星空のような光を降らせ、軍服に飾られた勲章は鋭くその輝きを返し、婦人たちの絹のドレスや色鮮やかな訪問着は、円舞曲の旋律に合わせるようにゆるやかな波を描いている。 そして、この場所を満たしているのは光だけではなかった。 薔薇の香水。 菫の化粧香。 白檀を焚き染めた羽織。 沈香を忍ばせた袂。 人は皆、それぞれの歩んできた歳月を、香りという形で身にまとっている。 桐生麗香は、その幾重にも重なる香りへ静かに意識を澄ませ、小さく息を吐いた。 彼女は、生まれつき「契りの香」を持たない。 この会場にいる誰一人として、彼女から運命の香りを感じ取ることはできない。 けれど麗香は、それでも香りを愛していた。 誰もが彼女を「欠陥令嬢」と呼ぼうとも、香りだけは嘘をつかないことを知っていたから。 沈香は沈香として薫り、梅は梅として春を告げ、人の心もまた、言葉より先に香りとなって胸へ届くことを、幼い頃から香道を通して知っていたからである。 今日は、その香りに満ちた夜の中でも、とりわけ特別な一夜だった。 桐生家と九条家。 二つの名門を結ぶ婚約が、今宵正式に発表される。 幼い頃から続いてきた約束が、ようやく形になる夜だった。 鏡へ映る自分の姿を見る。 薄紅色の着物には枝垂れ桜が銀糸で刺繍され、帯留めには小さな真珠が一粒だけ添えられている。 華やかな夜会には慎ましすぎる装いかもしれない。 それでも、亡き母が「品とは飾りではなく、その人の心に宿るものですよ」と
last updateLast Updated : 2026-08-26
Read more

第2話 夜香の契り

 夜会を辞した頃には、帝都を包んでいた霞もいくらか薄れ、春の名残を宿した月明かりが、人影の絶えた石畳へ静かに白い光を落としていた。 彼は黒い外套の襟をわずかに引き寄せながら、華族会館から離れた裏路地を一人歩いていた。 この道は近道ではあるが、夜更けともなれば酔客やならず者が姿を見せることも珍しくない。 それを承知で選んだわけではない。ただ、軍服を脱いだ今夜くらいは、華やかな夜会も、取り繕った笑顔も、腹の内を隠して交わされる賛辞も、すべて遠ざけて静けさの中を歩きたかっただけだった。 その歩みが、不意に止まる。 風向きが変わったのだ。 夜気へ幾つもの匂いが溶け込み、酒臭さと脂のような濁りを帯びた男たちの悪臭が鼻を掠める。 その奥には、怯えを押し殺しながら息を潜める女の気配が、細い糸のようにかすかに漂っていた。 追い詰められた獣だけが放つ、張り詰めた静けさだった。 彼は何も言わず視線を上げる。 細い路地の先では、数人の男が一人の女を煉瓦の壁際へ追い詰め、逃げ道を塞ぐようにゆっくりと距離を詰めていた。 そのうちの一人が腕を伸ばしかけた瞬間、彼は静かに口を開く。「……その女から離れろ」 決して大きな声ではなかった。 それでも、その一言だけで夜気は鋭く張り詰め、男たちは弾かれたように一斉に振り返る。 月明かりの中に立つ黒い影を認めた途端、その顔色は見る間に青ざめていった。「お、おい……」「まさか……」 誰かが震える声を漏らす。 彼は何も言い返さず、一歩だけ前へ出た。 軍人らしい無駄のないその歩みだけで十分だった。男たちは互いの顔を見合わせると、蜘蛛の子を散らすように路地の闇へ逃げ去り、ほどなく辺りには春の夜の静けさだけが戻ってくる。 彼は小さく息を吐き、壁際へ視線を向けた。 こちらを見返す若い女。 怯えた瞳。 震える肩。 けれど、その姿を認めた瞬間には、もはや彼の意識はそれを「誰か」として捉えてはいなかった。 甘い。 胸の奥深くを静かに焼くような、あり得ないほど甘い香りが風に乗って届く。 懐かしい。 しかし、知るはずがない。 初めて触れる香りであるはずなのに、ずっと昔から探し続けていたものへようやく辿り着いたような錯覚が胸を締めつける。 思考が、
last updateLast Updated : 2026-08-26
Read more

第3話 全ての喪失

 それから、どのように着物を整え、どのようにあの屋敷を飛び出したのか、麗香にはほとんど記憶がなかった。 重い扉を押し開けたことも、朝露に濡れた庭を横切ったことも、すべてが薄い靄の向こうにある。 ただ、そこが誰の屋敷なのかを確かめる余裕もなく、一刻も早く逃げなければならないという思いだけに追い立てられ、覚えのある道を無我夢中で辿った。 夜明けの霞の向こうに見慣れた黒塀が現れた時、麗香はようやく、自分が桐生家へ帰り着いたことを知った。 春の朝は静かだった。 庭の枝垂れ桜は昨夜と変わらず淡い花を揺らし、使用人たちは何事もなかったように一日の支度を始めている。 世界は何一つ変わっていない。 変わってしまったのは、自分だけだった。 人目を避けて離れへ戻ると、麗香は障子を閉め、鏡台の前へ座った。 着物の襟をわずかに開けば、白い首筋には鮮やかな印が残されている。 昨夜の出来事は夢ではなかった。 指先で触れると、微かな痛みとともに、温かな腕の感触が蘇った。 額へ落とされた口づけと、耳元で何かを囁いた低い声。 それだけは不思議なほど優しく、思い出すたび、恐怖とは異なる震えが胸の奥を走った。「……忘れなくては」 白粉を重ねても、紅い痕は消えなかった。 白い粉の下から、刻まれた運命だけがいっそう鮮明に浮かび上がる。 せめて香りだけでも紛らわせようと、麗香は香炉へ沈香を焚いた。 細い煙が朝の光へ溶けてゆく。 しかし、馴染んだ香の奥には、まだ昨夜の男の気配が残っていた。 冷たい夜気と、乾いた木と、微かな鉄の匂い。 知らないはずの香りが、なぜか胸を締めつけた。 その時、廊下の向こうで足音が止まった。「昨夜、君はどこにいた?」 障子の外から響いた声に、麗香の手が止まる。 返事を待たずに戸が開き、朝の光を背にした九条慎太郎が立っていた。 その端正な顔には疲労が滲んでいたが、麗香を見る眼差しには、なお彼女を案じる婚約者の色が残されている。 それが、ひどく白々しく思えた。「探したんだ。何も告げずにいなくなるなど――」「……私を裏切って、珠緒とご一緒でしたのに?」 慎太郎の言葉が
last updateLast Updated : 2026-09-01
Read more

第4話 夜会という処刑台

 処分は、その日のうちには下されなかった。  もっとも、それは父の情けではない。  麗香は離れへ閉じ込められ、人との往来を断たれたまま、障子越しに散りゆく春だけを眺めて日々を過ごした。 食事だけが無言で運ばれ、離れには風に揺れる木々の音だけが残された。  庭の枝垂れ桜は、盛りを過ぎた花びらを朝ごとに散らし、春風が吹くたび、淡い薄紅の群れが障子へ影を落としては、そのまま地へ吸い込まれるように消えてゆく。 麗香は鏡台の前へ座り、その景色を眺めながら、首元へそっと指を添えた。  あの夜に刻まれた印は日に日に薄れ、今では鏡へ顔を寄せてようやく分かるほどになっていた。  まるで、あの夜そのものが夢であったかのように。 それでも、香りだけは消えなかった。  沈香を焚けば、磨き込まれた木の香りの奥から、あの人の気配が静かに蘇る。 名も知らない。  顔も、薄暗い月明かりの中で見た輪郭しか思い出せない。  けれど、額へ落とされた口づけと、耳元で囁かれた低い声だけは、春霞のように胸の奥へ残り続けていた。 そんな日々が幾日か過ぎた朝、閉ざされていた障子が、何の前触れもなく開かれた。  春の日差しを背にして立っていたのは、父だった。「支度をしろ。今夜、華族会館で夜会がある」 挨拶もなく告げられた言葉に、麗香は静かに頭を下げる。「九条家と珠緒の婚約が、正式に発表される。桐生家の者として、お前にも出席してもらう」 胸の奥が、微かに軋んだ。  それでも麗香は視線を落とさず、父の言葉を待った。「お前に最後の機会を与える。その夜会で誰か一人にでも選ばれてみせろ」 「……選ばれる、とは」 「妻でも、妾でも構わん。名のある男が、お前を引き取ると申し出れば生かしてやる」 あまりにも冷酷なその言葉に、麗香は一瞬、その意味を理解できなかった。  父はわずかに眉を寄せる。
last updateLast Updated : 2026-09-02
Read more

第5話 冷酷軍閥

 夜会は、なお華やぎの最中にあった。 水晶のシャンデリアは幾千もの光を降らせ、円舞曲は絶えることなく大広間を満たし、色とりどりの衣装をまとった華族たちは、春の終わりに咲き誇る花々のように笑みを交わしている。 その輪の中にありながら、御影朔だけは誰とも言葉を交わそうとはしなかった。 若き陸軍少将。 新政府を支える御影家の若き当主。 戦場では鬼神のごとき采配を振るい、政敵には容赦なく刃を向けることから、帝都では「冷酷軍閥」と囁かれる男である。 今宵、彼がこの夜会へ姿を見せた理由もまた、決して社交を楽しむためではなかった。 御影家は新興華族である。 軍功によって家名を興した以上、旧華族との結びつきを強めなければ、その地位は盤石とは言えない。 そのためには婚姻が必要だった。 家臣たちは皆、今夜こそ朔が伴侶を決めるものと期待している。 朔自身も、それを拒むつもりはなかった。 愛などなくとも構わない。 家のためなら結婚くらい受け入れる。 そう割り切って、この場へ足を運んだのである。 しかし――。 誰一人として、彼が心を動かされる女はいなかった。 香水を重ねた令嬢。 香木を焚き染めた袖。 笑みも、言葉も、立ち居振る舞いも非の打ちどころはない。 それでも、彼女たちから漂う香りは、どこか作られた花のように感じられてならなかった。 朔は人の顔より先に香りを覚える。 香りは偽れない。 怒りも。 嫉妬も。 恐怖も。 欲望も。 戦場では、それだけを頼りに幾度も生死を分けてきた。 だからこそ、磨き上げられた笑顔の奥に隠された打算や虚飾が、香りとなって鼻を掠めるたび、胸の内だけが静かに冷えていく。(……違う) 誰でもいいはずだった。 それでも、ここには彼が求めるものはなかった。
last updateLast Updated : 2026-09-03
Read more

第6話 あなたと行きます

「誰が、俺の女に触れていいと言った?」  低く放たれたその言葉は、決して声を荒らげたものではなかった。  それでも、春風に揺れていた桜の枝さえ動きを止めたように、庭園には重い静寂が落ちた。  御影朔の前で、先ほどまで麗香を連れ去ろうとしていた桐生家の使用人たちは、視線すら上げられずに立ち尽くしていた。 「……御影少将」  和馬がようやく口を開いた。  声には努めて平静を装っているものの、その額には細かな汗が浮かんでいる。 「これは、桐生家の内々の問題でございます。いかに御影家のご当主といえど、他家の家中へ口を挟まれるのは――」 「内々の問題なら、人前で娘を処分すると宣言するものではないな」  朔は振り返りもしなかった。  黒い軍服の背に麗香を庇ったまま、ただ淡々と告げる。  和馬は言葉に詰まり、周囲の華族たちから小さなざわめきが起こった。  冷酷軍閥と恐れられる若き少将が、契りの香すら持たぬ令嬢を庇っている――それだけで、明日の帝都を駆け巡るには十分すぎる噂だった。 「……御影様」  麗香は、目の前の広い背中へ恐る恐る声をかけた。  なぜ、この人は自分を庇うのだろう。  先ほど初めて名を知ったばかりの、帝都中から恐れられる軍人。  その背中に、腕へ抱かれた時のあの夜の温もりが重なる。  けれど麗香は、すぐにその考えを押し殺した。  あの夜の男の顔さえ、自分は知らないのだから。 「……どうして、私などを」  麗香の問いに、朔はようやくこちらを振り返った。  黒い瞳が静かに麗香を見下ろす。  その目には、同情も。  欲望も。  ましてや、一目で恋に落ちた男の熱など、何一つ浮かんでいなかった。 「お前は今夜、この家へ戻れば殺される」  あまりにも端的な言葉に、麗香は息を呑む。 「そして俺には、妻が必要だ」 「……妻?」  周囲のざわめきが、一段大きくなった。  和馬の顔色が変わる。  欄干の上から成り行きを見下ろしていた珠緒も、初めてその柔らかな笑みを消していた。  朔は何事もないように続ける。 「御影家は軍功によって立った家だ。旧華族から見れば、今でも成り上がりに過ぎん。家を盤石にするには、古い家柄との縁が要る」  そう言って、朔は麗香へ目を向けた。 「
last updateLast Updated : 2026-09-04
Read more

第7話 三年だけの妻

 華族会館を離れた自動車の中で、麗香は膝の上に重ねた手をじっと見つめていた。  窓の外では、夜の帝都が後ろへ流れてゆく。  瓦斯灯の明かり。軒を連ねる商店。夜更けだというのに人影の絶えない大通り。見慣れていたはずの景色が、今夜はどこか遠い国のもののように思えた。  もう、桐生家へは帰らない。  その事実だけが、車輪の音に合わせて胸の奥へ沈んでいく。 向かいに座る朔は、窓の外へ目を向けたまま何も言わなかった。  黒い軍服。端正な横顔。華族会館では、ただそこに立っているだけで人々を黙らせていた男。  この人が、今から自分の夫になる。  そう考えても、まだ現実味はなかった。「先ほどの話だが」 不意に朔が口を開いた。「はい」 「これは三年間の婚姻と考えている」 麗香は顔を上げた。「三年……でございますか」 「ああ。その間、お前には御影家の妻でいてもらう。ただし、俺かお前のどちらかが本当の番を見つけた場合は、その時点で終わりだ」 迷いのない言葉だった。「俺はお前に愛情を求めない。お前も、俺に求める必要はない」 あまりにも乾いた約束だった。  けれど麗香は、傷つかなかった。  愛していると囁きながら裏切られるよりも、最初からそこにないものとして扱われるほうが、今の自分にはずっと信じられる。「……承知いたしました」 それだけ答えると、朔もそれ以上は何も言わなかった。  再び車輪の音だけが二人の間を満たす。  やがて自動車は帝都の中心部を抜け、夜の静けさが濃くなり始めた頃、高い黒塀に囲まれた屋敷の前で速度を落とした。 鉄門が静かに開き、自動車は広い敷地へ滑り込んでいく。  奥に見えてきたのは、麗香が想像していた軍閥の屋敷とは少し違う建物だった。  石造りの堂々たる洋館でありながら、左右には瓦屋根の和館が連なり、庭には松と桜が静かに枝を伸ばしている。  正面玄関の灯は柔らかな橙色を帯び、深
last updateLast Updated : 2026-09-05
Read more

第8話 歓迎されない妻

 御影家で迎えた最初の朝、麗香は見慣れない天井をしばらく眺めていた。 厚い帳の隙間から春の光が差し込み、昨夜は闇に沈んでいた象牙色の壁紙を淡く照らしている。窓の外からは小鳥の声が聞こえ、その向こうでは庭師が掃き寄せているのだろう、竹箒の乾いた音が一定の間隔で響いていた。 静かな朝だった。 枕元の小箱へ目を向ける。 その中には、昨夜、朔から渡された離縁状が収められていた。 ――妻にしたからといって、お前のすべてが俺のものになったわけではない。 昨夜の低い声が、もう一度耳の奥で蘇る。 麗香はそっと小箱の蓋を閉じた。 身支度を終えて階下へ降りると、食堂にはすでに朔がいた。 軍服姿で新聞へ目を通している。「おはようございます」「ああ」 相変わらず簡潔な返事だった。 麗香が向かいの席へ腰掛けたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。「兄様」 若い女の声だった。 朔が新聞から目を上げる。「小夜か」 入口に立っていたのは、十六ほどに見える少女だった。 若草色の着物に、白い小花をあしらった帯留め。黒髪は艶やかに結い上げられ、顔立ちは朔とどこか似ている。けれど兄のような鋭さはなく、まだ少女らしい柔らかさが残っていた。 ただし――麗香へ向けられた目には、笑みがなかった。「こちらが?」「ああ」 朔が短く答える。「麗香。妹の小夜だ」 ――妹。 胸の奥で、何かが小さく強張った。 一瞬だけ、珠緒の面影が重なる。 麗香はそれを悟られぬよう、静かに頭を下げた。「初めまして。麗香でございます」 小夜もまた、華族の令嬢らしい申し分のない所作で頭を下げる。「御影小夜と申します」 声も礼儀正しい。 それでも、その距離は明確だった。 小夜は麗香の隣へ座らず、朔の側の席へ腰掛けた。
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第9話 香りは嘘をつかない

 それから麗香と小夜は、使用人たちとともに屋敷の中を探し始めた。 小夜の部屋はもちろん、隣の書斎や客間、廊下の飾り棚まで一つずつ確かめていく。 香箱は小ぶりなものだという。 どこかへ紛れ込んだだけならば、さほど見つけにくい品ではないはずだった。「小夜様。今朝、お部屋を出られる時には、文机の上をご覧になりましたか?」「いいえ。女学校へ遅れそうでしたから、慌ただしく支度をして……」「でしたら、昨夜から今朝までの間に動かされたのですね」 麗香は歩きながら、昨夜からの人の出入りを一つずつ聞いていった。 小夜も初めは硬い声で答えていたが、やがて自分から「あちらの部屋も見てみましょう」と言い出すようになった。 疑いが晴れたわけではない。 それでも、ただ疑われているだけよりはよかった。 何より麗香は、どうしても香箱を見つけたかった。 亡き母の形見を失う痛みならば、自分にも分かる。 踏みにじられた写真の中で、それでも優しく微笑んでいた母の顔が、今も目を閉じれば鮮明に浮かんでくる。 小夜にも、その香箱を開くたびに蘇る母の面影があるのだろう。「……ありませんわね」 小夜がぽつりと漏らした。 探し始めて、もう半刻ほどになる。「まだです。もう少し探してみましょう」 麗香がそう答えた時だった。「小夜様!」 廊下の向こうから、一人の女中が駆けてきた。 息を切らし、その顔には明らかな動揺が浮かんでいる。「どうしたのです?」「香箱が……見つかりましてございます」「本当に!?」 小夜の顔が一瞬にして明るくなる。「どこにありましたの?」「それが……」 女中は言い淀んだ。 そして一度、麗香の顔を窺う。「麗香様のお部屋に」 小夜の表情から、喜びが消え
last updateLast Updated : 2026-09-07
Read more

第10話 もうひとりの妹

「それは――」 見習い女中は、怯えるように唇を震わせた。「……姉から、頼まれたのでございます」「お姉様から?」 麗香が聞き返すと、娘は泣きながら頷いた。「姉は、桐生様のお屋敷で奉公しております。今朝、こちらへ訪ねてきて……どうしても話したいことがあるからと、裏口で少しだけ会いました」 今朝――。 その言葉に、麗香は眉を寄せた。 自分が御影家へ来たのは、昨夜のことだ。 それなのに、夜が明けるや否や、この娘の姉は動いていたことになる。「何を頼まれたのです?」 女中頭の志乃の問いに、娘は俯いた。「麗香様が……御影家の皆様から信用を失うようにしろ、と」 小夜が息を呑む。「それで、母様の香箱を?」「申し訳ございません!」 娘は床へ額がつきそうなほど深く頭を下げた。「小夜様が、あの香箱を何より大切になさっていることは存じておりました。なくなれば必ずお探しになると思って……それを麗香様のお部屋へ隠せば、きっと……」「私が盗んだと思われる、と」「……はい」 掠れた声が落ちた。 麗香は香箱を見る。 黒漆の蓋に描かれた銀の月が、夕暮れの光を受けて淡く浮かんでいた。 もし香りに気づかなければ、御影家へ来た翌日から、義妹の私物を盗んだ女として暮らすことになっていただろう。「姉様も、泣いていました。私に何度も謝って……でも、断れないのだと」 娘が必死に言葉を継ぐ。「なぜですの?」 小夜が問う。 娘はしばらく答えられなかった。 やがて、観念したように口を開く。「父が長く病を患っております」 震える声だった。「薬代がかさんで、暮らしていけ
last updateLast Updated : 2026-09-08
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status