帝都の夜は、春の終わりを惜しむように淡い霞をまとい、華族会館の窓々からこぼれる灯が、磨き抜かれた石畳へ黄金色の帯を落としていた。 正門には艶やかな黒塗りの自動車が並び、その傍らでは飾り金具を輝かせた馬車が静かに主人を待っている。 文明開化の息吹を感じさせる機械の音色と、古き都の雅を残す馬の蹄の音とが一つの夜へ溶け合う景色は、この太正という時代そのものを映しているようでもあった。 大広間へ足を踏み入れると、幾重にも吊るされた水晶のシャンデリアが星空のような光を降らせ、軍服に飾られた勲章は鋭くその輝きを返し、婦人たちの絹のドレスや色鮮やかな訪問着は、円舞曲の旋律に合わせるようにゆるやかな波を描いている。 そして、この場所を満たしているのは光だけではなかった。 薔薇の香水。 菫の化粧香。 白檀を焚き染めた羽織。 沈香を忍ばせた袂。 人は皆、それぞれの歩んできた歳月を、香りという形で身にまとっている。 桐生麗香は、その幾重にも重なる香りへ静かに意識を澄ませ、小さく息を吐いた。 彼女は、生まれつき「契りの香」を持たない。 この会場にいる誰一人として、彼女から運命の香りを感じ取ることはできない。 けれど麗香は、それでも香りを愛していた。 誰もが彼女を「欠陥令嬢」と呼ぼうとも、香りだけは嘘をつかないことを知っていたから。 沈香は沈香として薫り、梅は梅として春を告げ、人の心もまた、言葉より先に香りとなって胸へ届くことを、幼い頃から香道を通して知っていたからである。 今日は、その香りに満ちた夜の中でも、とりわけ特別な一夜だった。 桐生家と九条家。 二つの名門を結ぶ婚約が、今宵正式に発表される。 幼い頃から続いてきた約束が、ようやく形になる夜だった。 鏡へ映る自分の姿を見る。 薄紅色の着物には枝垂れ桜が銀糸で刺繍され、帯留めには小さな真珠が一粒だけ添えられている。 華やかな夜会には慎ましすぎる装いかもしれない。 それでも、亡き母が「品とは飾りではなく、その人の心に宿るものですよ」と
Última actualización : 2026-08-26 Leer más