INICIAR SESIÓN「契りの香」を持たぬ欠陥令嬢――“零香”と蔑まれてきた桐生麗香。唯一の支えだった婚約者を異母妹に奪われ、絶望の夜に出会った名も顔も知らぬ男と、一夜の契りを結んでしまう。 家族からも見放され、命さえ奪われようとした麗香を救ったのは、帝都で「冷酷軍閥」と恐れられる御影朔だった。 生きるため、家のため。二人は三年間限定の契約結婚を結ぶ。 互いに知らない。あの夜、運命に導かれて結ばれた相手が、すぐ隣にいることを――。 香りのない令嬢と愛を信じない軍人が織りなす、太正浪漫×契約結婚×運命の番の物語。
Ver más 帝都の夜は、春の終わりを惜しむように淡い
大広間へ足を踏み入れると、幾重にも吊るされた水晶のシャンデリアが星空のような光を降らせ、軍服に飾られた勲章は鋭くその輝きを返し、婦人たちの絹のドレスや色鮮やかな訪問着は、円舞曲の旋律に合わせるようにゆるやかな波を描いている。
そして、この場所を満たしているのは光だけではなかった。
薔薇の香水。
彼女は、生まれつき「
けれど麗香は、それでも香りを愛していた。
誰もが彼女を「欠陥令嬢」と呼ぼうとも、香りだけは嘘をつかないことを知っていたから。 沈香は沈香として薫り、梅は梅として春を告げ、人の心もまた、言葉より先に香りとなって胸へ届くことを、幼い頃から今日は、その香りに満ちた夜の中でも、とりわけ特別な一夜だった。
桐生家と鏡へ映る自分の姿を見る。
「麗香様。本日は本当にお綺麗でございます」
侍女が嬉しそうに微笑む。
麗香も穏やかに微笑み返した。「ありがとう。あなたのおかげです」
その声は落ち着いていた。
けれど胸の奥では、小鳥が羽ばたくような鼓動が、ずっと鳴り続けている。 今日という日を、どれほど待ち望んだことだろう。母を亡くした日から、桐生家での暮らしは少しずつ変わっていった。
継母が迎えられ、
それでも耐えられたのは、たった一人、自分を変わらず見てくれる人がいたからだった。
『麗香。君には香りなんて関係ない。俺は君だから好きなんだ』
その言葉は、長い冬を越えて咲く
だから今日まで歩いて来られた。
だから、誰よりも今日という日を待ち続けてきた。 彼となら、生きていける。 香りがなくても。 番になれなくても。 愛だけは本物だと信じていた。そう思えたのは、慎太郎だけではない。
珠緒もまた、この婚約を心から祝福してくれていると信じていたからだった。継母が家へ入って以来、姉妹として肩を寄せ合うような日々ばかりではなかった。
それでも珠緒は、麗香の前ではいつも柔らかく微笑み、小さな悩みごとを打ち明けてくる愛らしい妹だった。夜会の支度を整えていた先刻も、帯を締め終えた麗香を見るなり、珠緒は目を輝かせて言った。
『今日は、お姉様が世界で一番お綺麗ですわ。慎太郎様も、きっと
その無邪気な祝福が嬉しくて、麗香は照れながら「ありがとう」と笑い返した。
妹も喜んでくれている。
亡き母が天から見守ってくれている。 そして今日からは、大切な人の隣で歩いていける。 そう信じて疑わなかった。 ほどなくして、一人の使用人が
「麗香様。九条様が控室でお待ちでございます。婚約発表の前に、お二人だけでお話がおありとのことです」
「ええ。すぐ参ります」麗香は小さく頷き、静かな廊下へ足を踏み出した。
大広間から流れてくる円舞曲は少しずつ遠ざかり、磨き抜かれた床を歩く自分の足音だけが、夜の静けさへ細く溶けていく。控室へ近づいた、その時だった。
ふと、甘く濃密な香りが鼻先をかすめる。 花でも香木でもない。 胸の奥をじわりと熱くするような、番を持つ者だけが放つ香。それへ重なるように、小さく息を漏らす声が聞こえた。
麗香は思わず足を止める。 違う部屋なのかもしれない。 そう思おうとしても、その香りは間違いなく、慎太郎が待っているはずの控室の向こうから漂ってくる。胸騒ぎがした。
震える指先で、そっと扉へ触れる。 音を立てぬよう静かに開くと、最初に目へ飛び込んできたのは、床へ落ちた白い手巾だった。幼い日に泣いていた自分へ、慎太郎が差し出してくれたものと同じ刺繍。
その向こうで、一つの小柄な影がゆっくりと振り返る。純白の洋装は肩から滑り落ち、雪のように白い肩と背があらわになっていた。
乱れた髪がその肌へ黒く流れ落ち、細い指先は慎太郎の胸元を頼るように掴んでいる。 つい先ほどまで、自分の幸せを誰より喜んでくれていたはずの妹――珠緒が、慎太郎の腕の中で静かに微笑んでいた。「……あら、お姉様」
珠緒は驚く様子もなく、小さく麗香の名を呼ぶ。
その頬は淡く紅潮し、乱れた襟元を隠そうともしない。——どうして。
その姿を見た瞬間、麗香の胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
今の今まで
——まさか。
——最初から、この光景を私に見せるつもりだったの……?そんな考えが脳裏をよぎる。
信じたくない。 けれど、珠緒の穏やかな微笑みだけは、あまりにも静かで、あまりにも計算され尽くしているように見えた。「……た、珠緒」
ようやく声になったその名は、自分でも驚くほど細く震えていた。
慎太郎が顔色を変える。「麗香、違うんだ。これは――」
何が違うのだろう。
目の前にあるもの以外に、何を信じればよいのだろう。 珠緒は形だけ申し訳なさそうに
「お姉様……ごめんなさい。でも、もうこの方は私を選ばれたの」
その一言で、世界から音が消えた。
円舞曲も。 人々の笑い声も。 夜会の華やぎも。 すべて遠ざかり、耳へ残ったのは、自分の心臓がひび割れるような音だけだった。「麗香、話を聞いてくれ」
慎太郎がこちらに向き直り、何かを取り戻そうとするように一歩踏み出す。
その手が届くよりも早く、麗香は絹の袖をわずかに引いた。幼い日に向けられた優しい眼差しも。
雪の朝に交わした約束も。 未来を語り合いながら幾度となく重ねてきた言葉も。「……失礼いたします」
それだけ言うのが精一杯だった。
麗香は華族会館を飛び出した瞬間、春の夜風が熱を失った頬を鋭く撫でていく。
涙は流れない。 あまりにも悲しみが深すぎると、人は涙さえ忘れてしまうのだと、その時初めて知った。どれほど走ったのだろう。
灯の多い大通りを離れ、人影のない石畳の裏路地へ迷い込んだその時だった。「居たぞ」
「こいつだ」低く押し殺した男たちの声が、闇の向こうから響く。
振り返れば、数人の男たちがゆっくりと路地の入口を塞ぎ、逃げ道を閉ざすように歩み寄ってくる。 その目に宿る光は、獲物を見つけた獣そのものだった。麗香は思わず後ずさる。
しかし背中へ触れたのは、夜気を吸って冷え切った桐生家を訪ねた日の夜、麗香は寝室の窓辺に腰を下ろし、母の遺品である銀の簪を眺めていた。 昼間、父から受け取った桐の箱は、今は化粧台の上に置かれている。長い年月を経てもなお、簪に彫られた桜の花は繊細な輝きを失っておらず、灯火に照らされた銀の花弁は、まるで春の夜に咲く本物の桜のように見えた。 幼い頃、母がこれを髪に挿していた姿を覚えている。けれど、その裏側に紋章が刻まれていることなど、今日まで知らなかった。「……お母様」 麗香は小さく呟き、簪を掌に載せた。 父との対話を思い返せば、胸の奥には今も複雑な思いが残っている。母について何も知らないと言いながら、何かを隠しているようにも見えた父。 幼い頃から、その言葉に逆らうことなど考えもしなかった自分が、今日は初めて、はっきりと己の意思を告げることができた。 それが正しかったのかどうか、麗香にはまだ分からない。「……まだ起きていたのか」 背後から声がして振り返ると、寝間着に着替えた朔が立っていた。「朔様」「簪を見ていたのか」「はい。母のことを、少し思い出しておりました」 朔は麗香の傍らへ歩み寄り、簪へ目を落とした。「今日のことが、気になっているのか」「……はい。お父様に、あのようなことを申し上げたのは初めてでしたから」「後悔しているのか」 麗香は少し考えてから、静かに首を振った。「いいえ。ただ、私にもあのように言える日が来るのだと、不思議な気持ちがいたします」「お前は、何も間違ったことを言っていない」 朔はそう言って、麗香の隣に腰を下ろした。「母親のことを知りたいと願うのは、当然のことだ。それを誰かに許してもらう必要はない」「……ありがとうございます」 麗香は微笑んだ。「朔様がご一緒にいてくださったからこそ、勇気を出せたのだと思います」
桐生家の門をくぐるのは、随分と久しぶりのことだった。 手入れの行き届いた生垣も、玄関へ続く砂利道も、正面の柱に施された古風な装飾も、かつて毎日のように目にしていたものばかりである。 それなのに、今はどこか他人の家を訪ねているような、不思議な心持ちがした。「……大丈夫か」 自動車で隣に座る朔が、静かに尋ねた。「はい。少し、緊張しているだけです」「無理をする必要はない。話したくないことまで、話すことはないからな」「ありがとうございます、朔様」 麗香は微笑み、膝の上で重ねていた手を解いた。 自動車が玄関前に停まると、使用人が出迎えに現れた。「御影少将閣下、奥様。ようこそお越しくださいました」 案内されたのは、屋敷の奥にある応接間だった。 窓辺には季節の花が活けられ、磨き上げられた卓上には、既に茶器が用意されている。 ほどなくして、父の和馬が姿を現した。「……よく来たな」 その声は、記憶にあるものと変わらず硬かった。「お久しぶりでございます、お父様」 麗香が立ち上がって頭を下げると、和馬は短く頷き、続いて朔へ向き直った。「御影少将閣下までお越しとは、恐れ入ります」「妻の母君について話があると聞いた。俺も同席させてもらう」「……左様ですか」 和馬は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべた。「無論、構いません。どうぞ、お掛けください」 茶が運ばれ、使用人が退出すると、応接間には三人だけが残された。「それで、麗香。亡くなった母親のことを調べているそうだな」「はい」「今さら、何を知りたいというのだ。お前も既に嫁いだ身だろう」 予想していた言葉だった。 以前ならば、それだけで口を噤んでいたかもしれない。だが、麗香は父から目を逸らさなかった。「
初夏の朝、御影家の庭には、雨上がりの清々しい光が満ちていた。 夜のうちに降った雨は既に止み、庭石の窪みに残された雫が朝日を受けて輝いている。青々と茂った楓の葉が風に揺れるたび、軒先には涼やかな影が落ち、開け放たれた窓からは、湿り気を帯びた土の匂いが微かに漂ってきた。 麗香は居間の窓辺に腰を下ろし、先日の慈善夜会で知り合った夫人への礼状を認めていた。 あの夜、少女たちの教育について語り合った人々の顔を思い出すと、自然と筆が進んだ。香の強弱や生まれ持った縁に囚われず、一人一人が自らの望む道を歩める世の中にしたいという願いは、まだ漠然としたものでしかなかったが、それでも、こうして新たな縁を結ぶことが、その第一歩になるように思えたのである。「奥様、お手紙が届いております」 志乃が銀盆を手に現れたのは、ちょうど一通を書き終えた頃だった。「ありがとう。どなたからかしら」「それが……桐生様からでございます」 麗香は、差し出された封筒を見て息を止めた。 表には、見覚えのある筆跡で御影麗香と記されている。 父、和馬の字だった。「……お父様から」 麗香は封を切り、中の便箋を広げた。 文面は短かった。 亡き母の遺品について話しておきたいことがあるので、一度桐生家へ来るように。都合のよい日を知らせてほしい、と。 娘の暮らしを案じる言葉も、久方ぶりの便りを詫びる挨拶もない。いかにも父らしい、用件だけを伝える文章だった。 しかし、麗香の目は、ある一節に釘付けになっていた。 ――亡き母の遺品について。 母のことを調べ始めてから、幾つもの手掛かりを辿ってきた。 けれど、母がどのような家に生まれ、なぜ桐生家へ嫁ぐことになったのか、その肝心な部分だけは、今なお深い霧に包まれている。 父ならば、何かを知っているのかもしれない。 そう考える一方で、胸の奥には拭いきれぬ疑念もあった。 なぜ、今になって――。
書斎の扉が閉まっても、和馬はしばらく身じろぎ一つしなかった。 机の上には、先ほどまで調べていた古い書類が広げられている。黄ばんだ紙に並ぶ文字を目で追おうとしても、珠緒の言葉ばかりが頭を離れなかった。 ――お姉様は、亡くなったお母上のことをお調べになっているそうですわね。 まったく、余計なことをする娘だ。 御影家へ嫁ぎ、あの冷血軍神の妻として何不自由なく暮らしているのなら、それで満足していればよいものを。 和馬は苛立たしげに書類を重ね、机の引き出しを開けた。 奥には、古びた封筒が一通収められている。幾度となく手に取ったせいか、端は擦り切れ、紙は黄ばんでいた。 その封筒を目にするたび、和馬は二十数年前の出来事を思い出す。 まだ、桐生家の当主となって間もない頃のことだった。◆ 当時の桐生家は、決して安泰とは言えなかった。 表向きは何不自由ない暮らしを続けていたものの、屋敷の維持費や使用人の給金を工面するため、和馬は幾度となく頭を悩ませていた。 そんな折、ある人物から密かに呼び出しを受けたのである。「桐生君。君に、一つ頼みたいことがある」 男は前置きもなく切り出した。「ある女性を、君の妻として迎えてもらいたい」 和馬は耳を疑った。