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All Chapters of 国籍より遠い距離: Chapter 1 - Chapter 10

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第1章 第1話 旅路

「身売りか……」 飛行機の窓から流れていく雲を眺めながら私は呟いていた。 もちろん、本当に身を売ったわけではない。 働く場所も給料も契約書に書かれていて、その内容を理解したうえで、自分の意思でサインをした。 日本で働けば、故郷のダバオでは得られないほどの給料を受け取ることができる。 それで家族に仕送りができるのだから、これは私自身が選んだことだから。 こうして飛行機の座席に身体を預け窓の外に広がる青い空を眺めていると、どうしても「身売り」という言葉が頭の中から消えてくれない。 膝の上に置いたパスポートを開くと そこには、やや緊張した顔で、それでも無理に笑っている自分の写真が載っている。 パスポートネームには、 Maria Anne Santos――マリア・アン・サントス。 この名前を持ったまま、日本へ行く。 ダバオからマニラへ飛び、マニラから関西国際空港へ向かい、そこからさらに飛行機を乗り継いで、四国の松山へ。 故郷を離れてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。 エンジンの低い音が絶え間なく耳に響いている。 高い空の上にいるという現実が、胸の奥にある不安を少しずつ大きくしていた。 窓の外には白い雲がどこまでも続いている。 その雲の向こうには、私の知らない日本という国がある。 これから暮らす場所。 介護の仕事をする場所。 家族のためにお金を稼がなければならない場所。 そう思うと、父のことを思い出す。 父は以前、観光客を相手にする通訳の仕事をしていた。 外国人と話すことが好きな人で私が子どもの頃には、家に帰ってくると仕事で出会った日本人や韓国人、アメリカ人の話を楽しそうに聞かせてくれていた。 私もいつか父のように、外国の人と話す仕事ができたらいい。そんなことを思ったこともある。 新型コロナウイルスの流行が世界中に広がると、ダバオを訪れる観光客はほとんどいなくなり、父の仕事もなくなった。 家族を養うために、父は慣れない建築現場で働き始めた。 危険な仕事だった。 それでも父は家族の前では弱音を吐かず、疲れて帰ってきても笑っていたし、私たちにはいつも 「大丈夫だ」とだけ。 その父が、私が十九歳のとき建築現場から転落して亡くなった。 あまりにも突然のことで残された母と私、そして三人の兄弟を、これからどうやって
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第1章 第2話 降り立った日本

飛行機を何度も乗り継ぎフィリピンを離れて日付をまたいだころ、私はようやく四国の松山空港に降り立つ。 フィリピンの八月も暑い。 空港の扉を抜けた瞬間に身体へまとわりついてきた日本の蒸し暑さは、これまで経験したことのないものだ。 暑いというより空気そのものが身体に張りついてくるような感覚。 息を吐き水分を口に含む。 これから、ここで暮らす。 そう思ってみてもまだ現実感がない。 空港の手荷物受取所で、自分のスーツケースが出てくるのを待っていると、後ろから声をかけられた。 「あなたも実習生だよね?」 振り返ると、訓練校で見かけたことのある女の子が立っている。 顔は覚えている。 でも、名前までは思い出せない。 日本へ行く準備や家族のことを考えるだけで精いっぱいだった私は、訓練校で一緒だった人たちの名前を覚える余裕さえなかったのだから。 「え、えっと……」 戸惑っている私を見て、その女の子は笑っている。 「私はアンジェリカ。アンジェリカ・クルス。よろしくね」 「マリア・アン・サントス。よろしく」 互いに名乗ると、アンジェリカは私の顔を見ながら、 「私たち、年齢同じくらいかな?」 と言った。 「たぶん」 二人で笑っていた。 それだけの短いやり取りだが、今までの緊張の糸が緩んだ気分だ。 やがてスーツケースが流れてきて、それぞれ荷物を受け取り、空港の出口へ向かう。 私たちを迎えるバスが待っていた。 他の実習生たちと一緒に乗り込むと バスは松山空港を出発。 窓の外には見慣れない日本の街が流れ始めた。 道路を走る車を眺めていると驚きの連続である。 日本車ばかり…。 フィリピンでは日本車は丈夫で長く使える車として人気があり、私の暮らしていたダバオでは日本車を持っていることが一つの豊かさの象徴に見えた。 それが日本では、当たり前のように何台も走っている。 思わず一人で笑ってしまう。 「日本だから、当たり前か……」 すると隣の席から声がした。 「日本車ばかりだ!」 アンジェリカが、子どものように目を丸くして窓の外を見ている。 「私も同じこと思ってた」 「本当?」 「うん」 二人で顔を見合わせて笑った。 ほんの小さな出来事なのだが、知らない国へ一人で来たと思っていた私にとって同じことを考えている人が隣にいることは
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第1章 第3話 眠れぬ夜

東市の研修所に到着したのは、夜もすっかり遅くなった頃。 長い移動を終えたバスが建物の前に停まると、車内に残っていた実習生たちは一斉に立ち上がる。 介護の仕事をする実習生だけではない。 建築や飲食など日本の企業で働く予定の実習生たちも同じバスに乗っている。 国も年齢も、これから就く仕事も違う。それでも今は皆、日本という見知らぬ国で最初の夜を迎えようとしている仲間だ。 係の人に案内されながら、慌ただしくスーツケースをバスから降ろしていく。 長旅で身体は重かったが立ち止まっている余裕はない。自分の荷物を引きずりながら建物の中へ入り、割り当てられた部屋を探した。 二人一部屋。 部屋の名前を確認して扉を開けると、先に入っていたのはアンジェ。 「アンジェ……」 知っている顔を見つけたことで少し肩の力が抜けた。 「同じ部屋だね」 アンジェも笑ってくれた。 初めて訪れた日本、見知らぬ土地。 見知らぬ人ばかりの中で少なくとも一人でも顔を知っている人がいる。それだけのことなのに不思議なくらい安心できた。 それぞれの荷物をベッドの脇に置き黙々と荷解きを始めた。 アンジェは一通り荷物を出すと部屋に備え付けられていたテレビのスイッチを入れると画面には日本の番組が映り出演者たちが早口で話している。 しばらく画面を眺めていたアンジェが、苦笑いを浮かべた。 「日本語、早すぎてわかんないね」 「うん。全然わからない」 二人で笑った。 アンジェの手は止まらなかった。 スーツケースの中から一枚の写真を取り出すとベッドの脇にそっと立てかける。 「両親や兄弟たちだよ」 写真には、皆で肩を寄せ合って笑っている家族が写っている。 「みんな、いい顔してるね」 「うん。私の大事な家族」 アンジェは写真を見ながら誇らしそうに笑っていた。 「兄弟たちもね、他の国で働いてるの。皆でお金を貯めて、両親に家をプレゼントするんだ」 そう話すアンジェの声には、冗談ではない強さがある。 「すごいね」 「絶対にするの。今の家は古いから」 鼻息を荒くしながら話す姿に私は思わず笑った。 日本へ来る理由は人それぞれなのだろう。 私には私の事情がありアンジェにはアンジェの事情がある。 同じバスに乗っていたあの人たちにも、それぞれ日本へ来なければならなかった理由がある。
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第1章 第4話 研修所での生活

研修所での生活は思っていたよりずっと厳しいものだった。 朝六時に起床し、身支度を整えて食堂へ向かう。 朝食のあとは日本語の授業が始まる。ひらがな、カタカナ、簡単な漢字。介護の現場で使う言葉。 「お手伝いさせて頂いてもよろしいですか?」 「痛いところはありますか」 覚えることは山のようにあった。 日本語の授業を担当していたのは、五十代くらいの女性教官だった。皆からは田中教官と呼ばれていた。 眼鏡の奥の目は、いつも真剣で少しの発音の間違いも見逃さない。 「マリアさん、もう一度。『お食事の時間です』」 「おしょーくじの、じかんです……」 「違う。『しょくじ』の『しょ』が伸びてる。もう一度」 正しい発音になるまで何度も、何度も…。 隣でアンジェも同じように苦戦していた。休み時間になると二人でため息をついて、顔を見合わせて笑っていた。 「田中教官、怖いね」 「うん。でも、間違ってることは、ちゃんと教えてくれる」 口ではそう言いながらも正直、心のどこかには苛立ちがある。 なぜここまで厳しくされなければならないのだろう。 仕事先の相手は高齢者、少しぐらいのミスは許されると思う。 それに私たちは、もう大人なのに。 夜、部屋に戻ってからもテキストを開いて復習をしなければならない。 アンジェも同じようにノートに単語を書き写していた。 「マリア、疲れない?」 「疲れる。でも、やらなきゃ…。」 窓の外には、知らない町の明かりが灯っている。 母や兄弟たちはもう寝てるのだろうか。 ダバオでの暮らしを思い出しながら目の前の課題に取り組み始めた。 研修が始まって十日目、私は大きな失敗をしてしまう…。 介護技術の実習で車椅子の利用者役をしていた同期の実習生を移乗させる練習をしていたときだった。手順を間違えてしまった。 支えを誤り、相手を軽く倒しかけてしまい、 「危ない!」 田中教官の声が響いた。すぐに助けに入ってくれたおかげで、大きな怪我にはならなかった。 けれど、その場の空気は一瞬で凍りついた。 「マリアさん、こっちへ」 別室に呼ばれた私は、田中教官の前に立たされた。 「今の危険な結果は何が原因だったか分かる?」 「……手順を、間違えました。」 「それだ
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第1章 第5話 日本人

研修所には、日本人のスタッフも何人かいた。そのほとんどは親切だったが、中には違う人もいる。 清掃を担当していた中年の男性スタッフは私たち実習生とすれ違うたびに、聞こえよがしに舌打ちをした。 ある日、廊下でモップを持って歩いていたその人にぶつかりそうになり慌てて謝ると彼は鼻で笑っていた。 「外国人は、ろくに歩き方も知らないのか」 言葉の意味は正確には分からなかった。でも彼の表情と声のトーンで馬鹿にされていることだけは分かった。 何も言い返せなかった…。 返す日本語がまだわからないからだ。 ただ、頭を下げてその場を離れるしかなかった。 夜、アンジェにその話をすると、彼女は顔をしかめる。 「私も似たようなこと言われたことある。この前、掃除のおばさんに『ちゃんと日本語勉強しなさいよ』って、すごく上から言われた」 「悔しいね」 「うん。悔しい。でも、言い返せない」 私たちは、その悔しさを言葉にすることしかできない。 けれど翌日、廊下で同じ男性スタッフとすれ違ったとき田中教官がその様子を見ていたらしい。 「あなた、実習生に何か言った?」 「いえ、別に」 「もう一度同じことをしたら、上に報告します」 田中教官の毅然とした態度に少しだけ救われた気持ちになれた。 この国には意地悪な人もいるが味方になってくれる人もいる。 そのことを初めて実感した日であった。 研修も後半に差し掛かった頃、実習生の間に亀裂が生まれ始める。 同じ班にいたベトナム人の実習生、ヤンと、フィリピン人の実習生の何人かの間で、些細な言い争いが起きた。きっかけは、日本語の発音練習のペアを誰と組むかという本当に些細なことだ。 「なんでいつも私たちだけ組まされるの」 ヤンの言葉に班にいたフィリピン人の実習生の一人が反発した。 「別に、そっちが嫌だって言ったんでしょ」 小さな言い合いは次第に感情的になっていった。 その場に居合わせながら、どちらの側にもつけず…。 ただ黙って見ていることしかできない。 アンジェは違う。 彼女は間に入り両方をなだめようとし、 「二人とも、落ち着いて。ここで喧嘩しても、何も変わらないよ」 二人は一旦口を閉じたが、空気はぎこちないまま。 その夜、部屋に戻ったアンジェは疲れた顔をしながら、 「疲れたね、ああいうの」 「うん。私、何も
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第1章 第6話 新天地

配属されたのは、松山市郊外にある特別養護老人ホーム。 施設長に案内されたあと、私の教育係になる人物が紹介される。 「彼が、あなたの教育係になります。柴崎さんです」 柴崎と名乗ったその男性は、三十代半ばくらいだろうか。表情に乏しく、挨拶も最低限だ。 「よろしくお願いします」 それだけ言うと、彼はすぐに業務の説明を始めた。淡々とした口調で、必要なことだけを、簡潔に伝えてくる。 初日の業務が終わったあと、同期の実習生、同じ施設でルームメイトのベトナム人、グエンさんがひそひそと耳元で話してきた。 「あの人、なんだか冷たい感じ」 「うん……。あんまり、笑わない」 「私たちのこと、あんまり興味ないのかな」 そう思わずにはいられない。柴崎さんは、必要なこと以外は何も話さない。 私たちが何か聞いても、簡潔に答えるだけで、それ以上の会話は続ける気はないようだ。 日本という国での新しい生活が始まったばかりなのに、また一つ壁にぶつかった気がする…。 配属から一週間ほど経った頃、業務中に失敗をしてしまう。 利用者の食事介助をしている最中、うっかり食器を落としてしまい、破片が飛び散った。慌てて片付けようとする私に、柴崎さんが静かに近づき、 「怪我してない?」 「だ、大丈夫です」 「破片、こっちで片付けるから。あなたは利用者さんの様子を見て」 事務的な口調。私は謝罪の言葉を口にしたが、彼は特に何も言わず、淡々と片付けを終えると、また業務に戻っていく。 その日の夜、寮の部屋でグエンと話しているとき、その出来事を話した。 「怒られなかったの?」 「うん。ただ、片付けてくれただけ」 「変な人だね」 私も同じように思っている。優しいのか厳しいのか、よく分からない人。他の職員は、失敗すれば注意もするし、うまくいけば褒めてもくれる。けれど、柴崎さんはいつも同じ調子で、感情の起伏がまったく見えない。 「なんか、壁があるみたい」 グエンの言葉が妙に納得できた。たしかに壁だなと。 「私たちのこと、実習生としてしか見てないのかもね」 その夜、私は寂しい気持ちを抱いたが、仕方ないと納得するしかなかった。来日当時とは違う。 日本での日々は生活も介護の仕事にも少しずつ慣れてきていた。あの事件が起きるまでは…。
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第1章 第7話 事件

施設での仕事に慣れ始めたある日、私は認知症の利用者、木村さんの入浴介助を担当する。 木村さんは、普段は穏やかな方だ。 けれど、その日は様子が違った…。朝から興奮気味に自宅へ帰らせてと言われている木村さん。私は業務で決められていた入浴にと浴室に案内しようとした瞬間、木村さんは突然大きな声を上げ、私の腕を強く振り払った。「誰だ、お前は! 触るな!」驚いて手を離すと、そのまま平手が飛んできた。 頬に鋭い痛みが走る。私は痛みよりも状況が理解できず呆然と立っていた…。耳鳴りだけがいつまでも鳴り止まない。「木村さん、大丈夫ですか」近くにいた別の職員がすぐに駆けつけてくれたが、木村さんの興奮は収まらず、さらに 混乱した様子で、何度も同じ言葉を繰り返している。「知らない人間に触られたくない! 帰れ!」怖くて何も言えず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。頬の痛みよりも、高齢者とはいえ大声で怒鳴られ叩かれたショック、思考は止まったまま…。木村さんが落ち着いたあと、私は一人、休憩室で座り込んでいると、柴崎さんが入ってくるなり、 「大丈夫?」あの後、私の代わりに入浴介助をしていたのか?額から汗が流れている。 「……はい」 「認知症の方は時々、混乱して自分の身を守ろうとする。あなたが悪いわけじゃない」その言葉は簡潔だったが初めて彼が「大丈夫か」と尋ねてくれたことに、驚いた。「木村さんは、あなたのことを知らない人だと思って怖かったんだと思います。次に会うときは、また落ち着いていると思いますよ」彼はそれだけ言うと、また業務に戻っていく。短いやり取りだが、柴崎さんなりの慰めだろう。起伏を感じない慰めの言葉。入浴介助を交代してくれたのは感謝はするが、今はお礼など言う余裕がなかった。 今まで一生懸命仕事を頑張ってきたと思っていたが、平手打ちはどこか寂しく虚しい気持ちにさせ、その日、休憩室から出ることが出来ない。 突然の暴力行為は私の全てを否定された気持ちにさせている。 「もう、嫌だ…。」 「フィリピンに帰りたい…。」何度も呟きながら涙が止まらなかった。
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第1章 第8話 言葉

平手打ちをされてから、まだ気分は滅入ったままだったが、この日は初めての給料日ということもあり、朝の気持ちは幾分軽かった。近所の郵便局からフィリピンへ送金できると聞いていたので朝からそこへ向かう。 このために日本へ来たのだから初めて手にした給料を家族のために送ることができると思うと、それだけで嬉しい。 訓練校ではATMの操作も勉強していたから大丈夫なはず。 何度か入力を間違えながらも、どうにか送金を終えることができた。 家族の生活費になるようにできるだけ多く送り、自分の口座には日本での生活に必要な分だけを残して郵便局をあとにする。 寮へ戻ると、大事なキャッシュカードやパスポートを部屋に備え付けられている金庫へ。 金庫にはいくつか物を入れている。 ルームメイトのパスポートや通帳も一緒に入っている。 共有金庫だが、お互いに信頼しているからこそ同じ金庫を使っていたし、それまで不安に思ったこともなかった。 数日後の休日、生活費を引き出すために私は再び郵便局へ向かう。 ATMの前に立ちカードを入れて操作を始めたが、何度か間違えてしまう。 画面に赤い文字が表示されているが、漢字ばかりで何が書いてあるのかわからず何度か操作をやり直してみたもののお金を引き出すことができない…。 仕方なく窓口へ行き、片言の日本語で説明しようとしたが、私の言葉も職員の言葉も上手く伝わらず、結局どうすればいいのか分からないまま郵便局をあとにした。 自転車をこぎながら、嫌な考えが頭の中に浮かぶ。 どうしよう……。 寮に戻っても、そのことばかり考えてしまう。金庫には自分のカードもパスポートも入っている。そして同じ金庫にはグエンの大切なものも入っている。 だからこそグエンを疑いたくはなかった。 でもお金を引き出せない理由がわからないままだと、どうしても不安になってしまう。 もしかしたら、お金を盗まれたのではないのだろうか…。 そんな考えが一度浮かぶと、頭から離れなくなった。 グエンに相談すべきか、いや自分で何とかするべきか…。 ルームメイトとの関係が悪くなるのは嫌だったし、もし自分の勘違いだったら、これから同じ部屋で暮らしていくことが気まずくなってしまう。 異国に来たばかりの私にはどうすることもできず追い詰められた今、グエ
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第1章 第9話 誤解

「お金のこと、確認しましょう」そう言うなり、柴崎さんは私を車へ案内した。郵便局へ着くと柴崎さんが窓口で事情を説明してくれた。職員から話を聞いた柴崎さんが、なぜか笑っている。笑える状況ではないのに…。お金を盗まれたかもしれないのに、どうして笑うのだろう。そんな私の表情に気づいたのか、柴崎さんが振り返った。「マリアさん、お金は多分、無事です」「本当ですか?」「はい。マリアさん、暗証番号を三回間違えた記憶はありますか?」ATMの操作にはまだ慣れていなかったし確かに何度か暗証番号を打ち間違えた。「……あります」「やっぱり。日本のATMは、暗証番号を三回間違えるとロックがかかります。たぶん、画面に警告が出ていたんだと思いますが、漢字はまだ全部わかりませんよね」「はい……」「だから大丈夫。お金が盗まれたわけじゃないですから」その瞬間、全身から力が抜けた。よかった。本当に、よかった。その場の椅子に座り込んでしまった。もし本当にお金がなくなっていたら、家族に送ったばかりのお金のことまで心配しなければならなかった。グエンを疑わなければならなくなることも怖かった。今まで胸の中にあった不安が、一気に消えていく。「あはは、不安でしたね。ロック解除の手続きはしておきます」柴崎さんはそう言うと、また窓口へ向かっていった。椅子に座ったまま、その背中をぼんやり眺めていた。しばらくすると柴崎さんが戻るなり、「はい、ロック解除したから操作をしてみて下さい」ATMの前に立ち、カードを入れる。暗証番号を入力し、画面を確認する。すると、今度はちゃんとお金が出てきた。「出た……」思わず声が漏れた。「ありがとうございます!」嬉しくなり無邪気に柴崎さんの手をつかんでいると柴崎さんの顔が真っ赤になっている。
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第1章 第10話 見えない傷

 日本に来て三か月ほど経った頃、施設近くの商店街へ買い物に出かけた。日本での生活にも徐々に慣れてきて、最初の頃のように何をするにも緊張することはなくなっていた。仕事ではまだ失敗することもあったけれど、利用者さんの顔と名前も徐々に覚え、日本語でのやり取りにも慣れ始めていた。商店街には昔からあるような八百屋や魚屋、食堂が並んでいて、必要なものを買い終え、寮へ戻ろうと通りを歩いていた。ふと、八百屋の前に集まっている地域の老人たちの話し声が聞こえてきた。「最近、外国人ばっかり増えたね」通り過ぎようとしたとき、その中の一人が、こちらに聞かせるような声で言い放つ。「施設で働いとる子たちでしょ。何考えとるか分からんし、ちょっと怖いわ」足を止めず、振り返ることもせず、そのまま歩き続けた…。聞こえてきた言葉だけは、背中についてくるように頭から離れない。誰かを傷つけるために日本へ来たわけではない。家族のために働きたくて日本へ来た。仕事も、生活も、日本語も、毎日必死に覚えている。それなのに、私たちは「外国人」というだけで何を考えているか分からない、怖い人たちだと思われてしまう。寮へ戻ってからも気持ちは晴れず、その夜、私はグエンに商店街であったことを話すと、「そんなこと言われたの?」「うん。聞こえるように言ってた」グエンはしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。「私も以前、道を聞こうとしたら無視されたことがあるよ」「グエンも?」「うん。でも、仕方ないのかもしれない。私たちのこと、知らないから」「知らないから……」その言葉を繰り返すと、グエンは頷いた。「知らない人って、怖いんだと思う」何も言えなかった。知らないから怖がられる。では、どうすれば知ってもらえるのだろう…。そんなことを考えながら眠りについた。翌日、施設で柴崎さんに、ついその話をこぼしてしまった。仕事とは関係のない話だったので、言ってから後悔しながらも、「昨日、商店街で、外国人が増えて怖いって言われました」柴崎さんは作業の手を止めたものの、すぐには何も言わず、「……そうですか」それだけだった。拍子抜けだ。前はあんなに話してくれたのに…今日は素っ気ない。「すみません。仕事とは関係ない話でした」「いえ」柴崎さんはそう言い、間を置いてから、「気にしすぎなくていいで
last updateLast Updated : 2026-09-05
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