LOGIN母と三人の兄弟を支えるため、フィリピン・ダバオから技能実習生として日本へやって来た二十歳のマリア。 家族の生活を支えるために選んだ日本での介護の仕事。 施設で彼女を指導する教育係として出会った二人。 最初はただの「実習生」と「教育係」。 年齢も、国籍も、立場も違う。 だからこそ、二人は互いに一定の距離を保とうとする。 一緒に働き、言葉を交わし、相手の優しさや弱さを知るほど、その距離は少しずつ変わっていく。 国籍が違うから遠いのか。 それとも人と人との心なのか。 異国の地で出会った二人が、さまざまな壁を越えながら、人を想うということの意味を探していく。 これは、国籍を越えた恋の物語。
View More「身売りか……」
飛行機の窓から流れていく雲を眺めながら私は呟いていた。 もちろん、本当に身を売ったわけではない。 働く場所も給料も契約書に書かれていて、その内容を理解したうえで、自分の意思でサインをした。 日本で働けば、故郷のダバオでは得られないほどの給料を受け取ることができる。 それで家族に仕送りができるのだから、これは私自身が選んだことだから。 こうして飛行機の座席に身体を預け窓の外に広がる青い空を眺めていると、どうしても「身売り」という言葉が頭の中から消えてくれない。 膝の上に置いたパスポートを開くと そこには、やや緊張した顔で、それでも無理に笑っている自分の写真が載っている。 パスポートネームには、 Maria Anne Santos――マリア・アン・サントス。 この名前を持ったまま、日本へ行く。 ダバオからマニラへ飛び、マニラから関西国際空港へ向かい、そこからさらに飛行機を乗り継いで、四国の松山へ。 故郷を離れてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。 エンジンの低い音が絶え間なく耳に響いている。 高い空の上にいるという現実が、胸の奥にある不安を少しずつ大きくしていた。 窓の外には白い雲がどこまでも続いている。 その雲の向こうには、私の知らない日本という国がある。 これから暮らす場所。 介護の仕事をする場所。 家族のためにお金を稼がなければならない場所。 そう思うと、父のことを思い出す。 父は以前、観光客を相手にする通訳の仕事をしていた。 外国人と話すことが好きな人で私が子どもの頃には、家に帰ってくると仕事で出会った日本人や韓国人、アメリカ人の話を楽しそうに聞かせてくれていた。 私もいつか父のように、外国の人と話す仕事ができたらいい。そんなことを思ったこともある。 新型コロナウイルスの流行が世界中に広がると、ダバオを訪れる観光客はほとんどいなくなり、父の仕事もなくなった。 家族を養うために、父は慣れない建築現場で働き始めた。 危険な仕事だった。 それでも父は家族の前では弱音を吐かず、疲れて帰ってきても笑っていたし、私たちにはいつも 「大丈夫だ」とだけ。 その父が、私が十九歳のとき建築現場から転落して亡くなった。 あまりにも突然のことで残された母と私、そして三人の兄弟を、これからどうやって生きていけば良いのか…。 母と悲しんでいる暇もなく、これからの生活を考えなければならなかった。 私は大学を中退し、父が働いていた建築会社に事務員として就職した。 少しでも家族の役に立ちたいと思って働いたけれど、私の給料だけでは家族全員を支えることはできなかった。母から日本へ行かないかと言われる。 正確には「マリア、日本へ行って稼いできなさい」そう言われた。 母は稼ぎが少ない私を責めていたわけではない。 私だって、それが家族を助けるために必要なことだと分かっている。 だから私は技能実習生になるための訓練校へ入り日本語を勉強し介護の仕事について学び、日本で働くための準備をした。 何度も自分に言い聞かせ、 私が頑張れば母も弟たちも生活を続けていける。 そう考えて契約書にサインをしたつもりだ。 だから後悔してはいけない。 これは自分が選んだことなのだから。 それでも、飛行機の中で「身売りか」という言葉が浮かんでしまう。 「違う……」 誰に言うでもなく、そう呟きながら首をふっていた。 仕送りで家族の生活を守りたい。 それだけで十分だ。 いや、十分なはずだ。 まだ日本語を自由に話せない。 介護の仕事も経験したことがない。 日本という国そのものが初めてで、これからどんな人たちと出会い、どんな生活をすることになるのかも分からない。 不安で押し潰されそうになるが、 もう引き返すことはできない。 窓の外をぼんやりと眺めていると雲の切れ間から遠くに青い海が見える。 あの海のどこか向こう側に故郷がある。 パスポートを閉じ、胸の前で静かに抱えた。 「さよなら、フィリピン……」 声にすると、胸の奥が痛い。 「さよなら、みんな……」 飛行機は何も知らないまま白い雲の上を日本へ向かって進んでいく。 毎月の仕送りすることだけを考えていればいい。 そう思っていた。 まさか、この日本で一人の男性と出会うことになるとは。 このときの私はまだ何も知らない。いつものラーメン屋で柴崎さんとラーメンを食べていた。さっき、グエンの見送りをしてきたばかりだった。空港行きのバス停で手を振る彼女の顔は寂しさよりも安堵に近かった。「ベトナムで結婚して、家族と暮らす」その言葉には迷いがなかった。私にはまだ、そんな迷いのなさが遠い。唐突に、柴崎さんが口を開いた。「明日、休みは予定ある?良かったら家で食事しない?」翌日は柴崎さんの家に招待され手料理をご馳走になる。食べ終えた後、洗い物をお母さんに任せ縁側に座り込むと、隣にすっと柴崎さんが腰を下ろした。台所からは、お母さんがラジオに合わせて歌う伊予弁混じりの鼻歌が微かに聞こえていた。「また何か考えとる顔しよる?」柔らかい声に顔を上げる。相変わらず私の些細な変化に気づく。「べつに、なんでも……」誤魔化そうとしたけれど、急かすでもなく、ただ黙って隣にいてくれた。その沈黙が、かえって言葉を引き出した。「グエンを見送ったでしょう。あれから他人事じゃない気がして。技能実習が終わっても特定技能に変えれば、まだ日本で働ける。でも、その先は……ってずっと考えてます」私にはまだグエンのように迷いなく未来を決めることができていなかった。「その先……か」柴崎さんは繰り返し庭先へ視線を移した。夏の終わりの虫の声が、二人の間の隙間を埋めるように響いている。「マリアさんには松山におってほしいと思うけど、それは僕の勝手な願いやけん。マリアさんはどうしたいん?」「自分でもわからないんです、ただ最近すごく家族に会いたいです…」「うん。家族に会いたい気持ちがマリアさんの願いなら優先したら良いんよ」柴崎さんはそう言って困ったように笑う。本心からの言葉ではないことくらい、すぐに分かる。優しさともどかしさが入り混じったような笑い方が嫌だった。その言葉と表情は私の胸の奥を締めつける。ダバオにいる母や弟たちの顔が浮かぶ。電話越しの声だけでは足りないと感じる夜が、このごろ増えていた。母が編んでくれた古いショールの匂いを時々無性に嗅ぎたくなる。同時に、柴崎さんやお母さんと囲んだ今日のような食卓の温もりも手放したくないほど大切なものになっている自分がいる。二つの故郷を同じだけ愛してしまったことが、こんなにも苦しいなんて知らなかった。「帰るか、残るか……そうやって二つに一つを
突然の涙に狼狽えている柴崎さんとは逆に不思議なくらい冷静な私。「大丈夫です、すみません」そう伝えながらも視線が目の前の景色から離れない。「この場所は…?」「この場所は昔は遊園地があってね、でも僕は船が往来するこの場所を見る方が好きやったんよ」「マリアさんに見せたくてね」「子供の時から変わった子だったんですね」涙を拭き取りながら笑ってしまった。「変わって…るよなあ、たしかに」神妙な顔をして呟いてるのが可笑しくて笑いが止まらない。「柴崎さん」ふいに、私の口から出た。「私もあなたが気になってます、元気がないと私も不安になるけどあなたが元気だと私も嬉しくなります」柴崎さんは何も言わずに私の手を握った、ただそれだけ。側にいるだけの距離が心地よい。私たちは目の前の景色をずっと眺めていた。柴崎さんが私をこの場所に連れて来てくれた。故郷に似た景色を大事な人と見ている。ただ、それだけで私は満ち足りた気持ちになれる。いつか柴崎さんにもダバオの海を見せたい、いや一緒に見ようと思う。今日のように、また手をつないで。帰り道、私は何気に柴崎さんの年齢を聞いた。「僕?25歳だよ」「え!25歳?!35歳くらいかと…」「すみません」「よく言われるんよ…。老けて見えるって」悲しげな後ろ姿が可愛かった、なのでお詫びも含めて、「好きです、そのお顔!」と。今日この人は何回真っ赤なお顔をしたのだろう…。真っ赤なお顔が私は大好きだ。
食べ終わった頃、 「おばちゃん、注文した豚玉出来てる?」 慣れた感じで入ってきた常連客に柴崎さんが反応した。 「あれ?中村か?」 座席から立ち上がり入口へ歩いて行く柴崎さん。 「中村!」 「お?真か?久しぶりだな」 二人は話ながらアーチェリー?を引く仕草をして笑っている。 そして、また店に小柄な眼鏡をした女性が入ってきた。 「ハル、注文出来てたん?」 髪が長くて綺麗な女性。 三人は知り合いのように見える、夫婦かな? 私の方を向き二人が会釈をしてくれた、 「こんにちは…」 椅子から立ち上がり私もお辞儀をする。 女性は私の側まで来て、 「柴崎さんのお友達かな?中村と申します」と丁寧に挨拶をしてくれた。 「マ、マリアです。フィリピンから来ました」 緊張してしまうくらい、綺麗な女性だ…。 「日本語で大丈夫かな?英語教師なので英語なら話せるけど」 「日本語で大丈夫です、はじめまして」 「綺麗な発音ですね」 「ありがとうございます、嬉しいです」 「舞、行くぞ」 「はーい」 去り際に柴崎さんに向かって 「またな真。『また、やろう』」と。 「ではまたね、マリアさん!」 二人が店から出た後、 「ごめんごめん、知り合いが居たから話し込んでしまった…。」 あの男性と話す柴崎さんは雰囲気が変わってみえた。 「お知り合いのご夫婦ですか?」 「うん、あいつらは幼なじみって聞いてる。僕とさっきの中村は弓道の因縁というか…。勝てんかったんよ」 柴崎さんが話し始めたのはハイスクール時代にキュウドウなる日本の武道をしていたらしい。 別のハイスクールに通っていた中村さんもキュウドウ部に入り、二人は大きな大会で最後まで競い合ったらしい。 でも、柴崎さんは一度も中村さんに勝てなかったそうだ。 「中村のやつ、『また、やろう』なんてあの時も…」 私の対面に座っているのに中村さんの話しになると窓の外を見ながら話す。 思い出を振り返ってるのかな? 凄く楽しそうに話す柴崎さんは職場で見せない顔。なんだか可愛い。 「たまにこの店で会って話すんよ」 まだ嬉しそうに話す姿は柴崎さんには大事な友人なのだろう。 私もアンジェに再会したら顔が緩んでしまう。
車内の気まずい雰囲気を壊す様に 「ラーメンより美味しい食べ物があるんよ」 「今日はソレ食べてみん?」 「ソレ?食べてみたいですね」 そんな事言われたら即答だ。 それより…。 私の扱い方が上手になってる気がしたが、食べ物の誘惑にはかなわない。 ソレなる食べ物は、三津浜にあるらしく柴崎さんら松山市民にはソウルフードらしい。 車内でそれはそれは美味しい食べ物で自宅で調理しても再現出来ないそうだ。 想像がつかないが、スープ料理とかか?秘密のレシピでしか作れないのか…。 「到着したぞ~」 ん?店はあるが真横は郊外電車駅前。ただこの駅は無人駅で周りは民家しかない。 「ここですか?」 駅の踏み切り横にあるこの店、店というより民家一体の小さな店だが…。 「僕が子供の時から食べてきたけど、味はこの店が一番やと思うんよ」 「はあ…良い匂い」 未知なる店を開くとソースの焼ける匂いが充満しており、もう胃を刺激しまくっていた。 「なんですか?このお店は…」 「ここはね、三津浜焼きのお店。もう普通のお好み焼きでは物足りなくなるよ」 「へぇっ!」 私はその言葉に喜びを隠せなかったからだ。 「お好み焼きより美味しいお好み焼きですか!」 「うん、まあまずは座ろうよ」 「はい!」 もう注文は決まっている。ラーメンと違い私はお好み焼きにはちょっとうるさい。 お金が無かった時期にYouTubeで見よう見まねでカンサイ風なるお好み焼きを作っていたからだ。 「豚玉で!」 さっさと注文しようとしたが、 「そばはシングル?ダブル?」 と柴崎さんが言う。 「そば?」 「あはは、三津浜焼きは関西風とは違ってそばが入るんよ。最初やしシングルにする?」 「はいっ!では、豚玉シングルでっ!」 注文している私を見て、 「面白いっ」 と笑っている柴崎さん。 いくらでも笑うが良い。 もう胃が、本能が絶対美味しいと言っている。 お店の方は鉄板で丁寧に焼いている、見ているだけで楽しめる。 作り方はシンプルだ、なんでこれが自宅では再現出来ないと言うのだろう。 「どうぞ~」 運ばれてきた三津浜焼きは真ん丸ではなく半月に折られている。 見た目がすでに違う、ソースの上がキラキラしている…。 よくみるとイリコの粉末と青のりだ。 「綺麗…」 「さあ、食べ