国籍より遠い距離

国籍より遠い距離

last updateLast Updated : 2026-08-31
By:  森村征爾Updated just now
Language: Japanese
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母と三人の兄弟を支えるため、フィリピン・ダバオから技能実習生として日本へやって来た二十歳のマリア。 家族の生活を支えるために選んだ日本での介護の仕事。 施設で彼女を指導する教育係として出会った二人。 最初はただの「実習生」と「教育係」。 年齢も、国籍も、立場も違う。 だからこそ、二人は互いに一定の距離を保とうとする。 一緒に働き、言葉を交わし、相手の優しさや弱さを知るほど、その距離は少しずつ変わっていく。 国籍が違うから遠いのか。 それとも人と人との心なのか。 異国の地で出会った二人が、さまざまな壁を越えながら、人を想うということの意味を探していく。 これは、国籍を越えた恋の物語。

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Chapter 1

第1章 第1話 旅路

「身売りか……」

飛行機の窓から流れていく雲を眺めながら私は呟いていた。

もちろん、本当に身を売ったわけではない。

働く場所も給料も契約書に書かれていて、その内容を理解したうえで、自分の意思でサインをした。

日本で働けば、故郷のダバオでは得られないほどの給料を受け取ることができる。

それで家族に仕送りができるのだから、これは私自身が選んだことだから。

こうして飛行機の座席に身体を預け窓の外に広がる青い空を眺めていると、どうしても「身売り」という言葉が頭の中から消えてくれない。

膝の上に置いたパスポートを開くと

そこには、やや緊張した顔で、それでも無理に笑っている自分の写真が載っている。

パスポートネームには、

Maria Anne Santos――マリア・アン・サントス。

この名前を持ったまま、日本へ行く。

ダバオからマニラへ飛び、マニラから関西国際空港へ向かい、そこからさらに飛行機を乗り継いで、四国の松山へ。

故郷を離れてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。

エンジンの低い音が絶え間なく耳に響いている。

高い空の上にいるという現実が、胸の奥にある不安を少しずつ大きくしていた。

窓の外には白い雲がどこまでも続いている。

その雲の向こうには、私の知らない日本という国がある。

これから暮らす場所。

介護の仕事をする場所。

家族のためにお金を稼がなければならない場所。

そう思うと、父のことを思い出す。

父は以前、観光客を相手にする通訳の仕事をしていた。

外国人と話すことが好きな人で私が子どもの頃には、家に帰ってくると仕事で出会った日本人や韓国人、アメリカ人の話を楽しそうに聞かせてくれていた。

私もいつか父のように、外国の人と話す仕事ができたらいい。そんなことを思ったこともある。

新型コロナウイルスの流行が世界中に広がると、ダバオを訪れる観光客はほとんどいなくなり、父の仕事もなくなった。

家族を養うために、父は慣れない建築現場で働き始めた。

危険な仕事だった。

それでも父は家族の前では弱音を吐かず、疲れて帰ってきても笑っていたし、私たちにはいつも

「大丈夫だ」とだけ。

その父が、私が十九歳のとき建築現場から転落して亡くなった。

あまりにも突然のことで残された母と私、そして三人の兄弟を、これからどうやって生きていけば良いのか…。

母と悲しんでいる暇もなく、これからの生活を考えなければならなかった。

私は大学を中退し、父が働いていた建築会社に事務員として就職した。

少しでも家族の役に立ちたいと思って働いたけれど、私の給料だけでは家族全員を支えることはできなかった。母から日本へ行かないかと言われる。

正確には「マリア、日本へ行って稼いできなさい」そう言われた。

母は稼ぎが少ない私を責めていたわけではない。

私だって、それが家族を助けるために必要なことだと分かっている。

だから私は技能実習生になるための訓練校へ入り日本語を勉強し介護の仕事について学び、日本で働くための準備をした。

何度も自分に言い聞かせ、

私が頑張れば母も弟たちも生活を続けていける。

そう考えて契約書にサインをしたつもりだ。

だから後悔してはいけない。

これは自分が選んだことなのだから。

それでも、飛行機の中で「身売りか」という言葉が浮かんでしまう。

「違う……」

誰に言うでもなく、そう呟きながら首をふっていた。

仕送りで家族の生活を守りたい。

それだけで十分だ。

いや、十分なはずだ。

まだ日本語を自由に話せない。

介護の仕事も経験したことがない。

日本という国そのものが初めてで、これからどんな人たちと出会い、どんな生活をすることになるのかも分からない。

不安で押し潰されそうになるが、

もう引き返すことはできない。

窓の外をぼんやりと眺めていると雲の切れ間から遠くに青い海が見える。

あの海のどこか向こう側に故郷がある。

パスポートを閉じ、胸の前で静かに抱えた。

「さよなら、フィリピン……」

声にすると、胸の奥が痛い。

「さよなら、みんな……」

飛行機は何も知らないまま白い雲の上を日本へ向かって進んでいく。

毎月の仕送りすることだけを考えていればいい。

そう思っていた。

まさか、この日本で一人の男性と出会うことになるとは。

このときの私はまだ何も知らない。

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第1章 第1話 旅路
「身売りか……」 飛行機の窓から流れていく雲を眺めながら私は呟いていた。 もちろん、本当に身を売ったわけではない。 働く場所も給料も契約書に書かれていて、その内容を理解したうえで、自分の意思でサインをした。 日本で働けば、故郷のダバオでは得られないほどの給料を受け取ることができる。 それで家族に仕送りができるのだから、これは私自身が選んだことだから。 こうして飛行機の座席に身体を預け窓の外に広がる青い空を眺めていると、どうしても「身売り」という言葉が頭の中から消えてくれない。 膝の上に置いたパスポートを開くと そこには、やや緊張した顔で、それでも無理に笑っている自分の写真が載っている。 パスポートネームには、 Maria Anne Santos――マリア・アン・サントス。 この名前を持ったまま、日本へ行く。 ダバオからマニラへ飛び、マニラから関西国際空港へ向かい、そこからさらに飛行機を乗り継いで、四国の松山へ。 故郷を離れてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。 エンジンの低い音が絶え間なく耳に響いている。 高い空の上にいるという現実が、胸の奥にある不安を少しずつ大きくしていた。 窓の外には白い雲がどこまでも続いている。 その雲の向こうには、私の知らない日本という国がある。 これから暮らす場所。 介護の仕事をする場所。 家族のためにお金を稼がなければならない場所。 そう思うと、父のことを思い出す。 父は以前、観光客を相手にする通訳の仕事をしていた。 外国人と話すことが好きな人で私が子どもの頃には、家に帰ってくると仕事で出会った日本人や韓国人、アメリカ人の話を楽しそうに聞かせてくれていた。 私もいつか父のように、外国の人と話す仕事ができたらいい。そんなことを思ったこともある。 新型コロナウイルスの流行が世界中に広がると、ダバオを訪れる観光客はほとんどいなくなり、父の仕事もなくなった。 家族を養うために、父は慣れない建築現場で働き始めた。 危険な仕事だった。 それでも父は家族の前では弱音を吐かず、疲れて帰ってきても笑っていたし、私たちにはいつも 「大丈夫だ」とだけ。 その父が、私が十九歳のとき建築現場から転落して亡くなった。 あまりにも突然のことで残された母と私、そして三人の兄弟を、これからどうやって
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第1章 第2話 降り立った日本
飛行機を何度も乗り継ぎフィリピンを離れて日付をまたいだころ、私はようやく四国の松山空港に降り立つ。 フィリピンの八月も暑い。 空港の扉を抜けた瞬間に身体へまとわりついてきた日本の蒸し暑さは、これまで経験したことのないものだ。 暑いというより空気そのものが身体に張りついてくるような感覚。 息を吐き水分を口に含む。 これから、ここで暮らす。 そう思ってみてもまだ現実感がない。 空港の手荷物受取所で、自分のスーツケースが出てくるのを待っていると、後ろから声をかけられた。 「あなたも実習生だよね?」 振り返ると、訓練校で見かけたことのある女の子が立っている。 顔は覚えている。 でも、名前までは思い出せない。 日本へ行く準備や家族のことを考えるだけで精いっぱいだった私は、訓練校で一緒だった人たちの名前を覚える余裕さえなかったのだから。 「え、えっと……」 戸惑っている私を見て、その女の子は笑っている。 「私はアンジェリカ。アンジェリカ・クルス。よろしくね」 「マリア・アン・サントス。よろしく」 互いに名乗ると、アンジェリカは私の顔を見ながら、 「私たち、年齢同じくらいかな?」 と言った。 「たぶん」 二人で笑っていた。 それだけの短いやり取りだが、今までの緊張の糸が緩んだ気分だ。 やがてスーツケースが流れてきて、それぞれ荷物を受け取り、空港の出口へ向かう。 私たちを迎えるバスが待っていた。 他の実習生たちと一緒に乗り込むと バスは松山空港を出発。 窓の外には見慣れない日本の街が流れ始めた。 道路を走る車を眺めていると驚きの連続である。 日本車ばかり…。 フィリピンでは日本車は丈夫で長く使える車として人気があり、私の暮らしていたダバオでは日本車を持っていることが一つの豊かさの象徴に見えた。 それが日本では、当たり前のように何台も走っている。 思わず一人で笑ってしまう。 「日本だから、当たり前か……」 すると隣の席から声がした。 「日本車ばかりだ!」 アンジェリカが、子どものように目を丸くして窓の外を見ている。 「私も同じこと思ってた」 「本当?」 「うん」 二人で顔を見合わせて笑った。 ほんの小さな出来事なのだが、知らない国へ一人で来たと思っていた私にとって同じことを考えている人が隣にいることは
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第1章 第3話 眠れぬ夜
東市の研修所に到着したのは、夜もすっかり遅くなった頃。 長い移動を終えたバスが建物の前に停まると、車内に残っていた実習生たちは一斉に立ち上がる。 介護の仕事をする実習生だけではない。 建築や飲食など日本の企業で働く予定の実習生たちも同じバスに乗っている。 国も年齢も、これから就く仕事も違う。それでも今は皆、日本という見知らぬ国で最初の夜を迎えようとしている仲間だ。 係の人に案内されながら、慌ただしくスーツケースをバスから降ろしていく。 長旅で身体は重かったが立ち止まっている余裕はない。自分の荷物を引きずりながら建物の中へ入り、割り当てられた部屋を探した。 二人一部屋。 部屋の名前を確認して扉を開けると、先に入っていたのはアンジェ。 「アンジェ……」 知っている顔を見つけたことで少し肩の力が抜けた。 「同じ部屋だね」 アンジェも笑ってくれた。 初めて訪れた日本、見知らぬ土地。 見知らぬ人ばかりの中で少なくとも一人でも顔を知っている人がいる。それだけのことなのに不思議なくらい安心できた。 それぞれの荷物をベッドの脇に置き黙々と荷解きを始めた。 アンジェは一通り荷物を出すと部屋に備え付けられていたテレビのスイッチを入れると画面には日本の番組が映り出演者たちが早口で話している。 しばらく画面を眺めていたアンジェが、苦笑いを浮かべた。 「日本語、早すぎてわかんないね」 「うん。全然わからない」 二人で笑った。 アンジェの手は止まらなかった。 スーツケースの中から一枚の写真を取り出すとベッドの脇にそっと立てかける。 「両親や兄弟たちだよ」 写真には、皆で肩を寄せ合って笑っている家族が写っている。 「みんな、いい顔してるね」 「うん。私の大事な家族」 アンジェは写真を見ながら誇らしそうに笑っていた。 「兄弟たちもね、他の国で働いてるの。皆でお金を貯めて、両親に家をプレゼントするんだ」 そう話すアンジェの声には、冗談ではない強さがある。 「すごいね」 「絶対にするの。今の家は古いから」 鼻息を荒くしながら話す姿に私は思わず笑った。 日本へ来る理由は人それぞれなのだろう。 私には私の事情がありアンジェにはアンジェの事情がある。 同じバスに乗っていたあの人たちにも、それぞれ日本へ来なければならなかった理由がある。
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