「藤咲さん、また頼めるかしら? このデータの突合と、明日の会議資料の印刷。急ぎなんだけど……」「あ、はい。わかりました。すぐに取りかかります」午後八時、静まり返った営業三課のフロアで、藤咲紬《ふじさき つむぎ》は控えめに微笑みながら先輩社員からの頼みを引き受けた。大きな丸メガネに、ぼっさりとした前髪。体をすっぽり覆うような地味なグレーのカーディガン。それが会社での紬のスタイルだ。社内での評価は「真面目だが要領が悪い、地味なアシスタント」。だが、それこそが彼女の狙いだった。過去の苦い経験から、目立つことは百害あって一利なしと学んだ。だからこそ、能ある鷹は徹底的に爪を隠す。頼まれた雑務をのろのろとこなしているように見せかけつつ、裏では完璧な精度と圧倒的なスピードで片付ける――それが、紬の日常だった。「じゃあ、お先に失礼するわね。よろしく!」先輩社員が去り、フロアにぽつりと一人取り残される。紬はふうっと息を吐くと、丸メガネを少し押し上げた。「さて……チャチャッと終わらせて帰りましょうか」先ほど頼まれた大量のデータファイルを開き、キーボードの上に指を走らせる。パパパパン、と軽快な打鍵音が無人のオフィスに響き渡った。画面上の数式と膨大な数字が、瞬く間に処理されていく。誰にも気づかれない、紬だけの「本気」の時間だった。作業開始からわずか十分。数時間はかかるはずの突合業務を完璧に終わらせ、プリントアウトの指示を出したときだった。「――ずいぶんと素早い手際だな、藤咲」「……っ!?」突然、背後から低く響く掠れた声が聞こえ、紬の背筋に冷たい電流が走った。驚いて振り返ると、そこには一人の男が立っていた。隙のない仕立ての高級スーツに、鋭い切れ長の瞳。彫刻のように整った容姿を持ちながら、氷のような冷徹さを纏う男。大手総合商社『鷹司グループ』の若き次期社長、鷹司葵《たかつかさ あおい》だった。社内の誰もが恐れる最高幹部が、なぜこんな時間に平社員のフロアにいるのか。「た、鷹司副社長……? なぜ、こちらに……」慌てて立ち上がり、頭を下げようとした紬だったが、葵は静かな歩調で距離を詰めてきた。高級なウッディノートの香水の香りが、瞬く間に紬の鼻腔をくすぐる。葵はパソコンの画面に一瞥を投じると、薄い唇の端をわずかに押し上げた。「システム
最後更新 : 2026-09-14 閱讀更多