เข้าสู่ระบบ副社長室の重厚なドアが閉ざされ、施錠される音が静かな部屋に響く。
逃げ場のない『壁ドン』の姿勢のまま、葵の指先が紬の大きな丸メガネをゆっくりと外した。
前髪が払われ、隠していた素顔が露わになる。
「……やっぱりな。メガネはない方がずっといい。こんな綺麗なお前を、他の男どもに見せていたと思うと腹が立つ」
「た、鷹司社長……っ。お願いです、私みたいな平社員が秘書なんて務まりません。元の部署に……」
逃げ出したい一心で吐き出した懇願は、葵の低い嘲笑によってあっさりと打ち砕かれた。
「断る。お前が隠していたあの圧倒的な情報処理能力、国際財務の深い知識……あれを埋もれさせる気はない」
葵の手が紬の腰の後ろに回り、グッと自分の方へと引き寄せた。
隙間なく密着する体。
生地越しに伝わる葵の強い体温と脈打つ鼓動が、紬の全身の肌を泡立たせる。
「今日からお前の仕事は俺のサポート……そして、俺だけにその素顔と才能を捧げることだ。分かったな、紬」
耳元で囁かれた甘い毒のような声に、紬は返事すらできず、ただコクリと頷くのが精いっぱいだった。
――こうして、紬の「専属秘書」としての初日が始まった。
社内での葵は、噂通り冷酷非道で完璧な「鷹司副社長」そのものだった。
分刻みのスケジュールをこなし、役員会では容赦ない指摘で場を凍りつかせる。
その圧倒的なカリスマ性と美貌に、周囲の社員たちは息をのむばかりだった。
紬もまた、過去のトラウマから身につけた「完璧な仕事能力」をフル活用し、葵の指示に完璧に応えていく。
「欧州市場の過去三年のデータ分析、これで合っていますでしょうか」
「……完璧だ。システム部の連中が三日かける仕事を、お前は一時間で終わらせたか」
執務デスクで書類を受け取る際、葵の指先がわざと紬の手に触れる。
紬がビクッと肩を跳ねさせると、葵は周囲に見えない角度で口元をかすかに緩めた。
「手が震えているぞ、紬」
「……っ、気のせいです」
冷徹な仕事モードの裏で、二人きりになると時折見せる甘く危険な距離感。
紬は一日中、心臓が持ちそうにないほどの緊張感に晒されていた。
午後七時。
社内の照明が落ち始め、フロアから人が立ち去っていく。
ようやく一日の業務が終わりを迎えようとしていたその時、外では激しい雷鳴が轟き、猛烈なゲリラ豪雨が降り始めた。
窓を叩きつける激しい雨音。
すごい雨……。電車、止まっていないかな。
不安そうに窓外を見つめる紬の背後から、静かな足音が近づいてくる。
葵は仕立ての良いスーツのジャケットを脱ぎ、シャツの袖を軽く肘までまくり上げていた。
男らしい腕と浮き出る血管に、紬は思わず目を奪われる。
「……今日はもう切り上げる。車で送る」
「えっ? いえ、申し訳ないです! 電車で帰りますから……」
「豪雨で主要な路線は運転見合わせだ。タクシーも捕まらない」
葵は紬の腕を迷いなく掴むと、拒否する隙を与えずに引き寄せた。
「お前を一人で帰す気はない。……俺の専属秘書なんだから、体調管理も俺の仕事だ」
「社長……」
至近距離で見つめ返してくる葵の黒瞳には、昼間以上の深い熱が宿っていた。
断りきれないまま、紬は葵に導かれて地下駐車場へと向かうことになってしまった。
これが、二人の距離をさらに縮める「秘密の夜」の始まりだとは、この時の紬はまだ知る由もなかった――。
「神楽……常務……っ!」耳元に残るツー、ツーという無機質な電子音を聞きながら、紬は受話器を握りしめたまま大きく息を荒げた。社内のセキュリティは完璧なはずだった。葵が配置した専属の警護も、ビルの出入り口を厳重に固めている。それなのに、蓮はまるで手品のように、会社の固定電話へと直接連絡を寄こしてきたのだ。どうして……どうやって私の居場所や電話番号を……。履歴書に記されていた不審な経歴。そして、タイミング良くかかってきた蓮からの電話。これは偶然ではない。蓮は最初から、葵が不在になるこの三日間に合わせて、社内のシステムや書類の隙間に自分の爪痕を残そうとしているのだ。紬は震える手でスマートフォンを取り出し、海外にいる葵へ連絡しようと画面を開いた。けれど――指が止まった。いま葵さんに連絡したら……あんなに心配して出張に行ったのに、余計な焦りを与えてしまうわ。私がしっかりしなきゃ……。葵の重すぎるほどの過保護と愛を知っているからこそ、これくらいのことで遠くの彼を動揺させたくないという思いが、紬の指を躊躇させた。「……まずは、人事部にこの推薦枠の出所をこっそり確認してみよう」自分を落ち着かせるように深呼吸をし、紬はデスクの資料をまとめ直した。その頃、時差のある海外の高級ホテルのスイートルーム。重厚なデスクの前に座る葵は、ノートパソコンに映し出された現地の経済指標からふと顔を上げ、眉間に深いシワを寄せた。現地でのミーティングは順調に進んでいるはずだった。だが、なぜか胸の奥がざわつき、耐えがたいほどの焦燥感が消えない。……紬に、何か起きているのか……?葵は冷徹な自己否定でその感情を押し殺そうとしたが、左手薬指にはめたプラチナの指輪に触れた瞬間、胸の動悸はむしろ激しくなった。まるで、愛しい妻の危機を本能が察知しているかのように。「……すまない。予定を一日前倒しする。明日の午前中の便ですべての交渉を切り上げ、帰国する手配をしろ」スピーカーの向こうに控える秘書に冷徹な声で指示を飛ばすと、葵はスマートフォンを手に取り、紬へとメッセージを打ち始めた。『体調は崩していないか。変な影を感じたら、すぐに警護の者を呼べ。……すぐに帰る』日本の夜。静まり返った本社オフィス。残業を終えた紬が、タクシーではなく葵が手配した専用車へと乗り込もうとしていた
葵が海外出張へ旅立ってから、最初の夜。都心の夜景を一望する広い自邸は、いつも以上にしんと静まり返っていた。「……葵さん、無事にお着きになったかしら」紬はリビングの大きなソファに一人腰掛け、スマートフォンの画面を見つめていた。時刻は夜の十時を回ったところ。時差を考えれば、葵が現地に到着して最初のミーティングに入る頃合いのはずだった。ぽつん、と画面が明るくなり、通知音が入る。『無事に到着した。現地での対応も予定通り進んでいる。……お前の声が聞けなくて寂しいが、今夜はゆっくり休んでくれ。愛している、紬』画面に表示された文字を追うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。冷酷なビジネスマンとしての素顔の裏に隠された、自分だけに向けられる一途で深い愛。『葵さんもお仕事頑張ってください。私も無事に一日を終えました。お会いできるのを楽しみにしています』メッセージを送信し、小さく息を吐いた紬は、ふと自邸の廊下に目を向けた。マンションのフロア全体、そしてエントランスには葵が手配した専属の警護が二十四時間態勢で配置されている。セキュリティシステムも完璧で、本来なら不安を感じる要素など何一つないはずだった。それなのに――昼間に会社の避難階段で感じた、あのスモーキーな香水の残香が、まるで鼻腔の奥にこびりついているかのように離れない。……ただの気のせいよね。考えすぎたら、遠くにいる葵さんに無駄な心配をかけてしまうわ。紬は首を横に振り、自分に言い聞かせるようにしてベッドルームへと向かった。翌朝。秋の冷たい雨が都心の街並みを濡らしていた。黒塗りの専用車で本社へ出社した紬は、いつも通り副社長室のデスクにつき、葵不在の間の日常業務に取りかかっていた。葵がいなくても、秘書としての責任を完璧に果たすこと――それが、今の自分にできる葵への一番の支えだと信じていたからだ。「鷹司秘書、失礼いたします」昼過ぎ、秘書室のドアがノックされ、人事部のスタッフが厚みのあるファイルを手にして入ってきた。「こちら、来期の新規採用に関する最終候補者のデータです。副社長からのご指示で、出張中に鷹司秘書が一次確認をしておくようにとのことでしたが……」「あ、はい。承りました。デスクでお預かりしますね」ファイルを受け取り、書類に目を通し始めた紬。だが、その中の「中途採用者リスト」の
ネット上に流布された「神楽蓮の海外逃亡と不正融資の噂」。それは瞬く間に経済メディアの片隅をざわつかせ、鷹司グループの広報部を一時的に慌てさせたものの、葵の迅速かつ冷徹な法的措置によって、わずか一日足らずでネットの海から綺麗に消し去られた。夕暮れ時の副社長室。窓の外に広がる夕焼けの茜色が、高層ビルのガラス張りの壁を赤く染め上げていた。「……顧問弁護士からの報告は以上か」デスクに座る葵は、分厚いレポートから目を離さず、低い声で確認した。その傍らに立つ広報部長は、冷や汗を拭いながら頭を下げる。「はい。デマの出所となったサーバーは海外のプロキシを経由していましたが、すでに追跡してブロックいたしました。株価への影響も、今のところ軽微に抑えられています」「ご苦労だった。下がっていい」「失礼いたします」静かにドアが閉まり、部屋に二人きりの空間が戻る。葵はゆっくりとペンを置き、マホガニーのデスクに肘をついて、その美しい眉間を指先で揉みほぐした。神楽……。あの男は、ただの攪乱のためにあんな中途半端な噂を流したわけじゃない。……一体、何を狙っている。警察の追手を巧みにかわし、未だに国内のどこかに潜伏しているはずの蓮。表立った大きな仕掛けをあえてせず、水面下で微弱な波紋を広げ続けるその意図が、葵の鋭い警戒心をかえって強く刺激していた。その頃、隣のデスクで資料の整理をしていた紬は、葵のただならぬ気配を察知し、そっと視線を上げた。「葵さん……お疲れ様です。さっきの件、やはり神楽常務の仕業でしょうか……?」紬の声を聞いた瞬間、葵の険しい表情はわずかに和らぎ、アイスブルーの瞳に優しい熱が灯った。葵は立ち上がると、紬のデスクへと歩み寄り、その華奢な肩を優しく引き寄せた。「……心配いらない。あいつがどんなに小細工を弄そうと、お前と俺を引き裂くことなど絶対にできない。……俺を信じろ、紬」「はい……葵さんを、信じています」葵の温もりに触れ、紬は胸の奥のざわめきを静めようとした。けれど、スマートフォンの中に保存されたままの、蓮からの非通知メッセージ――『またすぐ会いに行くからね』という言葉の残響が、どうしても心の片隅から消えずにいた。その夜。一日の激務を終えた二人は、厳重なセキュリティに守られた高層マンションの自邸へと戻っていた。シャワーを浴びてリビ
カーテンの隙間から、柔らかい秋の朝日がリビングルームに差し込んでいた。静まり返った部屋の空気は、昨夜までの張り詰めた緊張感とは打って変わり、心地よい穏やかさに満ちていた。ソファの上。紬は毛布に包まれたまま、目の前でコーヒーを淹れている葵の背中をぼんやりと見つめていた。完璧なスーツ姿ではなく、ラフなシャツを纏った葵の背中は、どこか肩の荷が下りたようにしなやかだった。昨夜、自分の背負ってきた過去のすべてを打ち明け、それを紬に受け入れられたこと。それが葵の心から、どれほどの重圧を拭い去ったのかは想像に難くなかった。「……起きたのか、紬」振り返った葵の顔には、いつもの氷のような冷徹さではなく、どこか柔らかく蕩けるような甘い微笑みが浮かんでいた。葵はマグカップを二つ手に持つと、紬の隣に静かに腰掛け、温かいカップをそっと手渡してくれた。「おはようございます、葵さん……」湯気の向こうから覗く葵の整った顔立ちを眺めながら、紬はカップを両手で包み込んだ。「昨日は……ごめんなさい。勝手にカードを開いたりして……」「いや……あの時は、お前に裏切られるかもしれないという恐怖で視野が狭くなっていた。謝るべきなのは俺だ」葵は紬のカップをサイドテーブルに置くと、彼女の細い指先を自分の大きな掌でしっかりと包み込んだ。ひんやりとしていた指先が、葵の確かな体温でじんわりと温められていく。「お前が俺の過去を知ってもなお、変わらず側にいてくれると言ってくれた。……その事実だけで、俺はもう過去の亡霊に怯える必要はないと分かったんだ」葵の瞳はどこまでも深く、澄み切っていた。秘密を隠し合う必要がなくなった二人の間に、以前よりもさらに強く、透明な信頼の絆が結ばれていた。「はい……これからは、どんなことも一人で抱え込み優しないでくださいね。私も、葵さんの隣で一緒に背負いますから」紬が真っ直ぐに微笑むと、葵は愛おしそうに目を細め、彼女の額に優しく唇を落とした。それは激しい独占欲ではなく、ただひたすらに慈しむような、穏やかで甘い口づけだった。数日後。鷹司グループ本社の副社長室。大きな窓から都心の青空を見渡すデスクで、紬は落ち着いた気持ちで書類のチェックを進めていた。丸メガネの奥の瞳には迷いはなく、秘書としての仕事にもこれまで以上に誇りとやりがいを感じていた。葵さんの
冷たく薄暗いリビングルーム。パソコンのディスプレイに映し出されたままのデータが、青白い光を放っている。葵の腕の中に閉じ込められるようにして、紬は荒い息を整えていた。荒々しかった葵の呼吸も、やがて紬の髪を優しくすくう指先の震えとともに、静かな切なさを帯びていく。「……葵さん」紬が恐る恐る見上げると、冷徹な仮面を完全に剥ぎ取られた葵の美しい顔には、言いようのない疲労と、深く暗い諦めのような色が浮かんでいた。「……見たのか。あのデータのすべてを」低く掠れた声。葵はディスプレイから目を背け、紬の細い手首をそっと握りしめた。その指先は驚くほど冷たかった。「……契約書も、音声ログも……少しだけ見ました。でも、よく分かりませんでした。葵さんが、どうしてあんな裏取引を……」紬の言葉に、葵は自嘲するように微かに唇を歪めた。「数年前、鷹司グループが倒産の危機に瀕した時……当時の経営陣だった父は、会社を救うために海外の闇ファンドから不正な資金を借り入れた。……神楽の父親が裏で糸を引いていた罠とも知らずに」「それじゃあ……あの借金は、葵さんが作ったものじゃなくて……」「あぁ。だが、父が亡くなった時、すべての負債と責任は俺に引き継がれた」葵は紬からわずかに視線を外し、窓の外の暗い夜景を見つめた。その横顔は、あまりにも孤独で、過酷な運命を一人で背負ってきた男の痛みに満ちていた。「神楽が俺を狙うのは、その時の利権と、我が家が失墜する瞬間を奪うためだ。……あいつはあのカードで、お前に『俺が汚れた過去を持つ人間だ』と教え込み、俺から引き離そうとした」「そんな……」すべてを悟った紬の胸が、激しく痛んだ。蓮が仕掛けた罠の本当の意味は、葵を社会的に追い詰めることだけではなく、紬の信頼を揺さぶり、自らその手を離させることだったのだ。「……怖かったか?」葵の低い声が、静寂に響く。「神楽の言う通り、俺は綺麗な人間じゃない。会社を守るためなら、泥を被ることも、冷酷な決断を下すことも厭わない人間だ。……お前が俺を恐れ、逃げ出したくなっても、責めはしない」葵はそう言いながらも、紬の手首を掴む指先には、どうしても離したくないという痛切な執着がこもっていた。紬は迷うことなく、葵の冷たい両手に自分の両手を重ね合わせた。そして、まっすぐに葵のアイスブルーの瞳を見つめ返す。
夜の静けさが漂う鷹司家の自邸。リビングのソファで、紬はパソコンの画面を見つめながら激しく息を潜めていた。葵は書斎で深夜の海外ミーティング中。今が、あの銀色のICカードの中身を確認する絶好のチャンスだった。ごめんなさい、葵さん……。でも、私はあなたの隠している真実が知りたいの。震える指先でカードを専用のリーダーに挿入し、解析プログラムを起動させる。画面のプログレスバーがゆっくりと進み、やがて暗号化されたフォルダのロックが解除された。そこに表示されていたのは、数年前に交わされた裏取引の契約書データと、鷹司グループが極秘裏に進めていた買収計画の音声ログだった。これは……一体……?ファイルを開き、音声ログを再生しようとしたその瞬間――。「……何を観ている」背後から掛けられた、心臓が凍りつくような冷徹な声。「ひっ……!」紬が慌ててパソコンを閉じようと手を伸ばした瞬間よりも早く、背後から伸びてきた長身の影が紬の身体を覆い尽くし、冷たく細い指先がディスプレイの端を押さえた。そこに立っていたのは、漆黒のスーツを纏った葵だった。完璧なスタイリングの髪がわずかに乱れ、そのアイスブルーの瞳には、怒りよりも遥かに深い「絶望と狂気の熱」が宿っていた。「あ……葵さん……これは……その……っ」振り向くこともできず、紬の声が激しく震える。葵は無言のまま画面に表示されたデータのタイトルに目を留めると、その整った涼やかな顔立ちから一切の血の気が引いていくのが分かった。「……神楽から渡されたか」低く、押し殺したような葵の声。その響きには、怒り子ではなく、一番大切な人間に裏切られたかもしれないという耐えがたい恐怖と、激しい嫉妬が渦巻いていた。「違うんです……! 私はただ、神楽常務の言葉に惑わされて……葵さんが何か苦しんでいるなら、力になりたかっただけで……っ!」振り返り、必死に弁解しようとする紬の細い両肩を、葵の強靭な両手がしっかりと掴み、力任せに自分の方へと引き寄せた。「力になりたいだと……?」葵の黒瞳が、痛々しいほどに赤く充血していた。冷酷な完璧主義者として知られる副社長が、今、崩れ落ちそうなほどの脆さと激しい執着を露にしている。「俺が過去にどんな冷酷な手段を使おうと、お前を守るためなら悪魔にだって魂を売る。……だが、お前が他の男の仕掛けた罠にか







