イーサンが出ていって間もなく、シルヴィアがSNSを更新した。
【「食べたい」って言っただけなのに、翌朝にはテーブルに並んでた。こんなあからさまな優しさを、見せびらかさずにはいられない】
――添えられていた写真には、私のダイニングテーブルに並んでいたのとまったく同じ、メープルシロップのパンケーキ。
そのパンケーキを、作ったのはイーサンの家のシェフ。
もともと彼はパンケーキなんて作らなかった。
でも、私が好きだって言ったから、イーサンがわざわざ教えさせたのだ。
そして、彼はかつてこう言っていた。
「このパンケーキは、お前のためだけに作らせた」――と。
私はスマホの画面をそっと閉じて、溢れそうな涙を静かにぬぐった。
視線を移すと、床では家政婦が、イーサンが投げつけたパンケーキの破片を懸命に掃除していた。
メープルシロップが絨毯に染み込み、何をしても取れないようだった。
「もう、いいのよ、片付けなくていい。そのまま捨ててください」
その絨毯は、以前イーサンがプレゼントしてくれたものだった。
でも、もう――いらなかった。
それをきっかけに、私は部屋中を見渡した。
イーサンからもらったもの。
指輪も、香水も、クッションも――全部。
ひとつ残らずまとめて、箱に詰めて、全部捨てた。
パンケーキも、あの言葉も、プレゼントも――
結局どれも、彼の気まぐれで投げ与えられた、どうでもいい「もの」にすぎなかった。
その日から、イーサンからの連絡は一切なかった。
以前なら、冷戦が始まっても、いつも先に折れて連絡するのは私だった。
けど、今回は違う。
私は、彼のSNSをブロックし、電話番号も着信拒否にした。
家のパスコードも変更して、家政婦には「もうイーサンを中に入れないで」とはっきり伝えた。
ちょうどその頃、アヴァから「気分転換しない?」と聞かれた。
私は出張中の両親に電話をかけて、「アヴァと一緒に北極に行って、オーロラを見に行く」と伝えた。
夏休みが終わるまでそのまま滞在して、そこから直接大学に行くつもりだった。
――そうすれば、イーサンと再会する可能性は限りなくゼロになる。
スーツケースを引いて玄関を出たそのとき、ちょうどイーサンの母親と鉢合わせた。
彼女はいつも私にとても優しくしてくれていた。
だから、私とイーサンがすでに絶縁状態だということは、まだ知らない。
私は笑顔を作って、丁寧に挨拶した。
すると、彼女は私がスーツケースを引いていることに、まったく驚いた様子もなく聞いてきた。
「え?ひとり?イーサンは一緒じゃないの?迎えに来てくれるって言ってたけど。
あなたたち、若いうちにたくさん旅行しておいたほうがいいわよ。今回のスイス旅行、イーサンがあなたを連れていくって言ってたから、私すごく応援してたの」
私は表情を崩さずに相槌を打ったけれど、心の中には疑問が渦巻いていた。
確かに――以前、私たちは「いつか一緒にスイスに行こう」と話していたことがある。
でも、イーサンは「遠すぎてめんどくさい」と、結局あの時は流された。
なのに、今さら……?
今の私たちの関係で、どうやって一緒に旅行なんて行けるの?
その疑問の答えは、思ったよりも早く、目の前に現れた。
空港で――イーサンと鉢合わせた。
彼の隣には、シルヴィアがいた。
彼は当然のようにシルヴィアの荷物を持っていて、まるで恋人に尽くすように、気遣いながら並んで歩いていた。
ふと、昔のことを思い出す。
私が疲れて「バッグ、持ってくれない?」と頼んだとき――
イーサンは「自分のことは自分でやれ」と言い放った。
「お前のバッグ、男っぽさがないから嫌だ」
そう言って、絶対に背負ってくれなかった。
――なるほど。
大切に思う相手には、そういうことを気にせずできるんだ。
私は深く息を吸って、静かに頭を振った。
イーサンのことを頭から追い出そうと、何度も深呼吸した。
アヴァは少し早めに空港に着いていて、すでに搭乗ゲートで待ってくれていた。
でも、保安検査に向かう通路は同じ方向。
私はイーサンに気づかれないように、少し距離を取って彼らの後ろを歩いた。
……イーサンは、どこか上の空だった。
スマホをいじりながら、ずっと何かを操作していて、何度も発信しようとしては失敗していた。
隣でシルヴィアが何か話しかけても、気づいていない様子だった。
搭乗ゲートに到着すると、彼らはそのまま先へと歩き去っていった。
私はそこでアヴァと合流――
その瞬間、スマホが突然鳴った。表示されたのは、見知らぬ番号。
怪訝に思いながら出ると、受話口の向こうから怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「……シンシア、何日も連絡ないのはいいとして、なんで俺をブロックしてんの?
お前、そんなに短気だったっけ?
そのまま一生ブロックしてみろよ。どうせ大学行っても俺がいなきゃ誰にも相手にされないんだぞ」
明らかに、イーサンの声だった。
怒りを押し殺しているようなトーンに、いつもの「俺様」な威圧感が混じっていた。
だけど、私は口を閉ざした。
……「もう大学変えた」なんて、言えるはずがない。
「……もういい。今から搭乗だから。さっさとブロック解除しとけよ。俺、これから海外行くんだ。数日間は連絡できないから」
イーサンの勝手な言い草に、思わず罵声を吐きそうになったけど――
私は無言で電話を切った。
ふと目をやると、少し離れた場所でイーサンが怒りに任せてスマホを振り回し、まるで他人の端末をぶん投げそうな勢いだった。
私はアヴァの手をぎゅっと握り、何も言わず、そのまま搭乗口へ向かって歩き出した。