「奥様、金庫から離婚届をお持ちしました」
結婚5周年の記念日、レストランの個室で、秘書は離婚届を鹿乃の前に差し出した。
5年前、小笹社長と奥様が婚姻届を提出したあの日、
小笹社長は誠意を示すため、自ら離婚協議書を用意し署名し、それを金庫にしまった。
「もし自分が浮気したら、いつでもこの離婚届にサインしていい」
それが彼の約束だった。
鹿乃は迷いなく署名した。
そして、向かい側の空席を見つめ、寂しげに目を伏せた。
「この離婚届を小川弁護士に渡して。それから、ホテルをひとつ予約して、結婚式場の準備を進めておいて」
秘書は一瞬固まった後、おずおずと聞いた。
「新郎新婦のお名前は、どなたに......?」
「小笹伸と、木暮深雪に」
沈黙が数秒流れた。
木暮深雪。それは、小笹社長の初恋の相手だ。
秘書は唇を噛みしめ、声を震わせてなお問いかけた。
「奥様、結婚式は何日後に?」
鹿乃はゆっくりと窓の外に視線を向けた。
1時間続いた青い花火が、ようやく燃え尽きて空に一行の文字を残して消えていく。
『小笹伸&新川鹿乃、結婚5周年おめでとう』
視線を戻して、唇をそっと結ぶ。
「7日後に。それと、その日のノルウェー行きの航空券を一枚取っておいて」
「ノルウェー......ですか?」
秘書は驚き、ためらいながらも言葉を続けた。
「奥様......本当にそれでいいのですか?もう一度、よくお考えに......」
5年前、結婚届を出したあの日。
小笹社長が用意した離婚協議書のほかに、ノルウェーに住む彼女の両親から小笹社長に課せられた条件があった。
娘がこの結婚で傷つき、ひとりで実家に戻ることになった時には、
伸は一生、ノルウェーの地を踏むことを許されない。
それはつまり、伸が二度と彼女に近づくことも、やり直す機会も与えられないことを意味していた。
「考え直すつもりはないわ」
鹿乃はゆっくりと首を振った。
7日後、
それはちょうど、彼女の誕生日だった。
彼女はその日、伸のもとを離れノルウェーへ行く。
そしてその日に、彼と深雪の結婚式を用意してやるつもりだった。
二人を祝福して、自分は姿を消す。
秘書が出ていった後、鹿乃のスマホがふいに振動した。
画面に通知が浮かび上がる。
それは、伸が会社の公式アカウントから投稿したものだった。
一面の青い花火の写真。
そして彼女へのメンション付きで、
『鹿乃、結婚5周年おめでとう。永遠に君を愛してる』
投稿からわずか数十秒で、コメント欄は999+に達した。
「羨ましい......!林能城の今夜の花火、やっぱり小笹社長が奥様のために打ち上げたんだ!」
「結婚して5年......毎年こんなに堂々と愛をアピールするなんて......」
「去年、小笹社長が全身麻酔の手術を終えて病室に戻った時、まだ完全に意識が戻ってない状態で奥様を見て真っ先に言った言葉は『君は胃が弱いんだから、ちゃんと昼ご飯食べたか?』だったって......看護師さんたち、泣いちゃったって聞いたのよ......」
そのコメントの中に、伸が返信した一言があった。
『鹿乃は俺の妻だ。彼女を愛し、甘やかし、守り抜き、平穏無事な人生を送らせてやることが、夫である俺の責任だ』
その返信の下は、羨望の叫びで埋め尽くされた。
だが、その羨望の対象である鹿乃は、今。
ただ無表情に目の前の空席を見つめていた。
確かに、二人の間には愛があった。
7年間付き合って、一度も喧嘩などしたことがなかった。
伸は、金も、名誉も、愛も、すべて彼女に注いでくれた。
けれど、ひと月前。
伸が出張に出ていたその夜。
鹿乃は、彼の裏切りを知った。
その夜、伸から送られてきたボイスメッセージ。
再生すると、聞き慣れない女の声が流れてきた。
「帰国して六ヶ月、ちょっと指を動かしただけで彼はもう私のもの」
「今夜、彼が私のために用意した青い花火。青は好きじゃないから、無駄にしないように、あなたたちの結婚記念日の時までとってあげる」
その時はまだ、その女性が誰なのかわからなかった。
だが、2週間前のパーティー。
伸は、その女を連れて現れた。
「遠い親戚の従妹」だと紹介しながら。
木暮深雪。
華奢で整った顔に、無邪気な笑顔を浮かべて、鹿乃に手を振った。
「こんにちは!帰国して半年ちょっと経つけど、ようやく義姉さんに会えましたね」
その声を聞いた瞬間、
あの夜のボイスメッセージが脳内でよみがえる。
あまりの衝撃に、何も考えられなくなった。
パーティーを早々に抜け出し、夜遅く。
伸が帰宅したその時。
鹿乃のスマホに、また見知らぬ番号からメッセージが届いた。
「今夜の屋上、最高だったよ。興奮しすぎて我慢できなくて、元カレの体に爪痕いっぱいつけちゃった♡」
「でもさ、やっぱり私の元カレはすごいよね。あの腰の動き......電動マシーンかと思ったよ」
酔いつぶれてベッドに倒れている伸。
開いたシャツのボタンの隙間から覗く胸元に、無数の赤い引っ掻き傷。
そして彼が着ている白いシャツは、
去年の結婚記念日に彼女が特注したペアシャツの男性用だった。
襟元には、彼女が一針一針縫った「Husband」の刺繍。
そのシャツを受け取った夜。
伸は感極まったように彼女の手を握り、こう約束した。
『このシャツを着るたび、他の女には絶対近づかないって、自分に言い聞かせる。俺は君だけを想うから』
けれど今、その「Husband」の刺繍の上には、艶やかな赤い口紅の跡が残っていた。
そして今日——5周年の結婚記念日。
彼女はレストランに先に着いていた。
しかし、5分経っても彼は来ない。
その時、彼から電話が入った。
「今サプライズを用意してるんだ。一緒に食事できなくてごめん。先に一人で花火を見てて」
電話はそれだけで切られた。
2分後、彼から送られてきた写真。
そこに映っていたのは、
深雪と共に、キャンドルディナーを楽しんでいる伸の姿。
花とワインに囲まれ、甘くロマンチックな空間。
今頃、SNSに投稿された「永遠に愛してる」のメッセージも、
深雪の膝枕に甘えながら打ったものなのだろうか。
Palawakin