幸也は離婚届を受け取り、私が署名した箇所を一瞥した。そしてそれを無造作に私の肩に叩きつけるように押し当てた。
「桜お嬢さんは医学なんかじゃなくて、金融を学ぶべきだったな」
彼は身を屈め、冷たい目で見下ろしながら言う。
「離婚して、俺の家の財産をどれだけ持って行こうってんだ?」
その言葉に私は一瞬固まり、唇をぎゅっと結んだ。小さな声で答える。
「お金なんて欲しいと思ったことはないわ」
幸也は鷹のように鋭い目つきで冷たく私を見据え、薄い唇に邪悪な笑みを浮かべた。
「桜、お前って女は、目的のためなら手段を選ばないやつだな」
「自分の汚い小細工で、うちに居座ろうって腹なんだろう?結局、お前の家が潰れそうだから、俺の家を頼るしかないんじゃないのか?
どうだ、そうだろ?お前みたいな、俺が落ちぶれるや否や、すぐに他の男に乗り換えるような女が、自分で苦しい生活を許すはずがないだろう?」
その侮辱的な言葉に、体が震えるのを止められなかった。
幸也は冷たい目のまま背を向け、去ろうとする。その背中を遮るように私は腕を広げた。
「あなた、白崎が好きなんでしょ?なら、私は身を引くわ。財産なんて一銭もいらないって誓約書でも書いてみせる!」
「そうだな、俺は彼女が好きだ」
幸也の目には険が宿り、口元に笑みを浮かべた。
「だから、俺は彼女を華やかに迎え入れるつもりだ。俺の妻としてな」
彼は踵を返して部屋を出て行き、ドアが乱暴に閉まる音が響いた。
私は離婚届を拾い上げ、ただ苦い思いだけが胸に残る。
しばらくすると電話が鳴った。受け取ると、母の泣き声が聞こえてきた。
「お父さんが倒れて、病院に運ばれたよ!」
急いで病院に駆けつけると、母の口から告げられたのは、父が重病であること、そして家が破産する寸前だという事実だった。
私はふと、幸也の言葉を思い出した。
「離婚して、俺の家の財産をどれだけ持って行こうってんだ?」
なるほど、幸也はとうの昔に私の家が破産寸前だと知っていたんだ。
母は私の腕を掴み、救いを求めるような目で強く揺さぶった。
「桜、幸也にお金を頼んでちょうだい。お金さえあれば、お父さんの会社も立て直せるのよ。桜は彼の妻なんだから、断るはずないでしょ?」
「彼は私のことなんて大嫌いなのよ」
唇を歪め、虚ろな笑みを浮かべながら言う。
「どうしてそんな私にお金をくれると思うの?」
すると、母は私の顔を平手で叩いた。
「じゃあ、あんたは父さんが死ぬのを見てるつもり!?なんて役立たずなの!」
唇が震え、母を見上げる。その瞬間、寒気が全身を貫いた。
この人は、私を娘ではなく、ただの金づるとしか思っていないんだ――そんな確信が胸を締め付ける。母の視線から、私の感情など一切考慮されていないことが明白だった。
彼女は私をただの金のなる木として扱い続けるのだ。
当初、幸也の家が窮地に陥ったときのことだ。城之内蓮(じょうのうち れん)がどこからか私の住所を嗅ぎつけて現れた。そして、私の母が映った不倫現場の映像をちらつかせながら、こう持ちかけてきた。
「俺と三日間、公海のクルーズで遊ぼう。その代わり、この映像はなかったことにしてやる」
さらに彼は続けた。
「もし神崎を捨ててくれるなら、大金を用意して彼の家の借金を返済してやるよ」
そのころ、幸也は奔走する日々に疲れ果て、私はただ見守るしかできずにいた。
「彼の助けになるなら、誤解されたって構わない」
そう思った私は、城之内の金を受け取り、それを幸也の家の穴埋めに使った。
だが、彼を傷つけるために放った言葉もまた、重い代償となった。
それから再び幸也と関わることになるとは、夢にも思わなかった。
ある日、幸也の病床に伏せる父親が私を呼び出したのだ。
彼は私に、幸也と結婚してほしいと頼んだ。私の事情も、神崎家を助けたことも知っていると話しながら。
そのとき私は断った。
だが翌日、母は勝手に幸也の家から多額の結納金を受け取っていた。そして幸也は、父親から命を懸けて迫られ、渋々私との結婚を承諾したのだ。
それからというもの、彼は私を憎むようになった――心底、徹底的に。
病室を出て、痛み止めの薬を飲み込んだ私の目に、病衣を身にまとった女性の姿が映った。
色白の肌に、丸く大きな瞳。整った顔立ちにスラリとした体型――白崎美羽。
幸也が今愛している女性であり、かつて私の親友だった人だ。
私は視線を逸らし、その場を離れようとした。
「佐々木さん」
白崎が声をかけてくる。
薄笑いを浮かべながら私の前に立ちはだかり、優越感に浸った声で言う。
「佐々木家もついに終わりね。あなたもついに落ちるところまで落ちたわけだ。薬なんて飲んで……病気にでもなったの?」
「災難続きね」
そう言いながら、彼女は嘲笑を浮かべた。
私は彼女を冷たく睨みつけ、ただ一言。
「消えなさい」
だが白崎は意に介さない様子で、肩をすくめながら続ける。
「本当に哀れね。幸也に捨てられたくせに、まだ彼の家にしがみついてるなんて」
その目には得意げな光が浮かぶ。
「知ってる?最近、幸也はずっと私のそばにいてくれるの。体調を気遣ってくれてね」
私は唇を固く閉ざし、言葉を抑えた。
「彼の奥さんの座を奪いたいんでしょ?
そうなら、彼に直接離婚を頼めばいい」
白崎の目が細くなる。
「もしかして、まだ彼があんたを愛してるとでも思ってる?」
彼女は笑い出す。
「なんて甘い考えなの?
彼が離婚しないのはただの報復よ。
そのうち彼は飽きて、あんたなんてゴミ同然になるでしょうね」
彼女はさらに私に顔を近づけ、不敵な笑みを浮かべながらささやいた。
「ああ、それから、彼はあんたに一度も触れたことないんでしょ?」
その言葉に、私の手が一瞬震えた。
顔を上げて彼女を見据える。冷たい目で。
「どうしてだか知ってる?」
白崎は私の頬を爪でなぞるように触れ、続けた。
「だって彼はあんたを汚いと思ってるもの。当時、神崎家の借金を返した金......城之内さんからもらったやつでしょ?」
「もういい加減にして。言いたいことを言ったら、さっさと消えなさい!」
私は彼女の手を払いのけた。その拍子に、白崎の体は勢いよく地面に倒れ込んだ。