「プレゼントは、売った。
服は、しまった」
葉月が一言ずつ発すると、晴樹の顔色がみるみる蒼くなった。
「俺に怒ってるのか?」
葉月は黙ったまま何も言わなかった。
晴樹はほかのクローゼットを開け、そこで葉月がまとめたスーツケースを見つけた。
すると急に、肩の力がすーっと抜けたようだった。
「もうすぐ新居に引っ越すんだから、服をしまっておくのはむしろちょうどいいだろう。荷物はそのまま持っていけるし。
プレゼントは、売れたものは仕方ない。今度もっといいものを買ってあげるよ。古くなったし、処分しても問題ない」
葉月の手を握りながら、彼の声は急に低く沈んだ。後悔の色がにじんでいた。
「葉月、ごめん……どうしても気が動転していて、不注意で君を傷つけてしまった」
葉月は彼の顔をただじっと見つめたが、胸の内にはまったく揺れがなかった。
夜になり、晴樹はベッドのそばに座り込んで彼女に声をかけた。
「葉月、君が眠るまでここにいる。そうじゃないと安心できないから」
五年間、葉月はいつも隣に晴樹がいるのを当たり前と思ってきた。
その当たり前を壊すのに、晴樹は一ヶ月もかからなかった。
深夜一時、ようやく眠気が訪れかけたところで、晴樹が突然呼びかけた。
「葉月?」
彼女は反射的に目を開ける。
スマホの光が晴樹の顔を浮かび上がらせ、不安そうな色がにじんでいた。
葉月はまた目を閉じた。
「葉月?」
今度は晴樹の言葉が途切れたまま、彼女は返事をしなかった。
晴樹はぱっと立ち上がり、わざと足音を小さくしながら寝室を後にした。
「おとなしくしてて……すぐ戻るからな」
ドアがそっと閉まる。
葉月は朦朧としながら、過去の記憶をたどった。
付き合って四年目、突然の交通事故で骨折したとき、晴樹は仕事を全部放り出し、徹夜で付きっきりで看病してくれた。
彼女が「寝なきゃだめだよ」と説得しても、「君が辛いときに俺が気づいてあげられなかったら後悔する」と聞き入れなかった。
だが今、同じ彼が、自分のそばにいることすら苦痛そうに感じている。
しかも、葉月はもう彼を必要としていないと思った。
翌朝、再び雨が降り始めた。
葉月が寝室から出ると、晴樹が駆け寄ってきた。
彼はずぶ濡れのまま、胸元から朝ごはんを差し出す。
「濡れてなくてよかった。君の好きな店の肉まんを買ってきたんだ。帰ってくるまでに時間かかって、冷めたらおいしくないと思って急いで戻ってきた」
葉月は受け取ると、肉まんがまだ温かいのを感じた。
確かにお腹は空いていたので、彼女は断りもしなかった。
晴樹はキッチンへ向かい、葉月にはミルクを、寧音にはお茶を用意して運んできた。
寧音は向かい合って座り、写真を一枚葉月に見せてきた。
街灯に映る雨のなかで、晴樹の傘は大きく寧音側に傾く。黒いコートに包まれた彼女は、雨にぬれることなくぴったりと守られていた。
写真の片隅には、葉月が最も好きだったあの朝食店が写っていた。
葉月が顔を上げると、寧音は自分の手に持ったお茶を笑顔で見せた。
「肉まん、おいしい?」
あの店まで往復二時間。晴樹はこれまで何度もお使いを頼まれて走った。
ただし、今回はついでだということが、葉月にははっきり伝わった。
葉月は肉まんを最後の一口まで味わってから答えた。「おいしいわね」
寧音の笑顔は少し曇った。
葉月はミルクを一気に飲み干した。
その後の二日間、晴樹は突如として葉月に手厚く世話を焼き始めた。
朝早く起きて朝食を買ってきたり、昼夜の食事を毎回変えて用意したりした。
ただし、その気遣いのすべてに寧音が絡んでいた。
葉月のスマホには、新たに何枚か写真が届いた。
結婚式まで、あと五日。
晴樹からメッセージが届く。
【葉月、有休を取る手配をした。迎えに行くから、結婚写真の撮影に行こう】
葉月はカウントダウンカレンダーをちらりと見た。結婚写真の文字が赤く目立っている。
かつてはこれを心から楽しみにしていたはずなのに、今では彼女はすっかり忘れてしまっていた。
葉月はペンを手に取り、また一日を斜線で消した。
結婚式はいらない。結婚写真も撮るつもりはない。
もう今日で決着をつけよう。
晴樹とはきれいに別れるのだ。