Chapter: 九十九の願い事⑧ ♢♢♢ 佐加江を置いて祠へ逃げ込んだ青藍は屋敷まで走り、黒い大きな門を閉めた。そして、庭先にしゃがみ、真っ赤な顔を膝に埋めている。「鬼殿、今日の逢い引きは楽しかったようだの」 こちらの世でも天狐と青藍はお隣同士だ。御殿の二階の縁で毛つくろいをしていた天狐が、笑いながら青藍の元へとふわっと飛び降りてくる。「逢い引きなど、していません」 「生娘みたいにそんなに顔を赤くして、どうしたんだ」「昨日は佐加江が私のことを覚えている事に驚いてしまって、あのような態度を」「あれは酷かったぞ。佐加江も悲しそうな顔をしておった」「佐加江にまた、求婚されました」「およおよ。ずいぶんと情熱的だの、佐加江は」 佐加江の部屋から昨晩、持ち帰ってしまったノートを返そうと出かけたつもりだった。が、そんなことすっかり忘れていた。 懐からノートを取り出した青藍は、昨晩から暗記してしまいそうなほど何度も読み返た佐加江の九十九の願い事を見つめていた。「――それに何の問題がある」「私は鬼です」「それでも良いのだろう。佐加江に紋を刻んだのは、鬼殿ではないか」 「あれは……、佐加江の行く末を案じたからです。あの村で、甲は神事と名を借りた儀式を」「昔と変わらず佐加江は可愛いのう。鬼殿がめとらぬのなら、我がご相伴に預ろう。うなじを噛まなければ、何をしてもよかろ」「おやめください、天狐様」「見るからに、佐加江は助平そうだ。あの腰つきが……、ウヒヒ。我から離れられない身体にしてしまおうか」 桐生の時のように、天狐の股座から精気がみなぎっていた。煽られているだけだと分かっていながら、怒りに震えそうになる青藍を思い留めさせるように耳とうが太くなる。耳たぶに開いた穴が押し広げられる痛みに大きく息を吐き出し、青藍は気持ちを落ち着かせた。「ただ、ここには番になりたいとは書いて
Terakhir Diperbarui: 2025-05-06
Chapter: 九十九の願い事⑦ (眠い……)翌日、太郎は休みだった。 午睡の時間、なかなか寝付けない園児に添い寝をしていた佐加江は、昨夜あまり眠れず、油断すると一緒に寝入ってしまいそうだった。と、園児がカーテンの隙間を凝視していた。その視線をたどっていくと、角が見えたような気がした佐加江の眠気は、一気に吹き飛んだ。(何やってるの?!) 青藍だ。隠れているつもりなのかもしれないがカーテンに影も写っているし、隙間から覗く目が佐加江を見つめている。「怖……」 教室内にいる誰かにバレていないか心配であたりを見回したが、添い寝をしていた園児は眠りにつき、テーブルで作業をする二人の先生は気づいていないようだった。 どこかへ行け、と手を払うが何を勘違いしたのか、青藍は手を振り返してくる。(違う、そうじゃない) 園児に布団を掛けた佐加江は、青藍を無視して先生たちの作業に合流した。 クリスマス会の演目の桃太郎のお面作り。まだ先だが、芋掘りやら何やらとこれから忙しくなるのを見越して、今から作業を進めていた。「佐加江先生は鬼のお面、切り取って」「了解です。これ、怖すぎじゃないですか?」「だよね。私もそう思う」「もっと優しい顔してるのに……」 佐加江は切り取った面を本物にぜひ見てもらおうと、顔に当て振り返る。 牙がむき出しになった、赤鬼の顔。佐加江の緩くカールする癖っ毛と鬼の面があいまって、小人鬼の出来上がりだ。 窓からずっと覗き込んでいた青藍の顔が固まった。が、青藍と同じように今にも泣き出しそうな顔をした園児もひとりーー。「あ……」 口がへの字になり、次第に目が真っ赤になる。みるみる間もなく涙が溢れ、大声で泣き出してしまった。「佐加江先生」 「すいません! ごめんね、先生だよ。ってか、このお面、怖すぎですから」 面をテーブルに置き、園児を抱き上げると青藍の姿はなくなっていた。
Terakhir Diperbarui: 2025-05-05
Chapter: 九十九の願い事⑥ 「おじさん。今日、疲れちゃったから先に寝るね。夕飯の片付けは、明日の朝するから」 「それくらいはやっておくよ、おやすみ」 「おやすみなさい」 気がつくと、佐加江は鬼治稲荷の境内に倒れていた。夢ではないことを証明するかのように、手には狐の面が握られていた。 (あれが、あの世なのかな) 風呂でうなじを触ったが確かに腫れは引いていて、鏡に写してみても何も映らなかった。 「青藍が僕のこと忘れてたら、番になる約束してたって意味ないじゃん」 古民家の奥まったところにある自室へ向かい、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。せっかく青藍と再会できたと言うのに、佐加江には不安しかない。敷いた布団に寝転んで、表紙に『青藍と会ったらしたい事リスト』と書いたノートを眺めながら佐加江は唇を尖らせ、ゴロゴロと転げ回っていた。 「痛いな、自分」 こんな身体ではと、いつもニコニコ笑っているようにした。 『結婚したいなら相手の胃袋を掴め』と引っ越してきてから読んだ女性向けHow to本を鵜呑みにして、熱心に料理にも取り組んだ。冬には村長をはじめとする猟友会のメンバーと山へ入って、狩った獲物を山から下ろす手伝いもした。血が苦手で、目の前でさばかれる命に卒倒しながらもどこでも生きて行けるようにと、その光景を見続けていた。 「どこに向かって僕は頑張ってたんだ」 魂が減ると言われただけあり、佐加江はいつの間にか深い眠りに落ちていた。 どれだけ時間が経ったのか、佐加江は背中をすーっと撫でられる感覚に目を覚ます。 (……夢?) 触れたのは、長い髪。 息が触れるほどの距離で背中を眺めている青藍に、目を固くつむった佐加江は動
Terakhir Diperbarui: 2025-05-04
Chapter: 九十九の願い事⑤ 「佐加江です。……僕のこと、覚えていませんか」 「ーー覚えがありません」 「鬼殿、佐加江だぞ。忘れたのか」 「鬼君の嫁?」 「佐加江をめとったら、閻魔殿も安泰じゃ。こんな機会ないぞ。人間の甲など、うちの桐生と佐加江くらいしか、もうおらんからの。な、桐生」 「なっ、じゃねぇから!話が見えねぇよ。 俺にも事情を説明しろよ」 「知りませぬ」 青藍は名前を聞いても、眉ひとつ動かさない。それどころか、佐加江を見ようともしなかった。 踵を返して行ってしまった青藍に面を返しそびれた佐加江は、追いかけて良いものか分からず立ちつくしていた。 「あの子、佐加江君って言うの? 生身の人間じゃん。なんでここにいるの」 「桐生、お前は少し黙っていろ」 「青藍は僕のこと、覚えてないんだ……」 仔狐たちが青藍の子ではないことは分かった。が、いつも楽天的な佐加江も、さすがにこれにはシュンとしてしまっている。 「気にやむでない。鬼は悪しき思い出ばかりを集める悲しいあやかしゆえ……。しかし、そのうなじの紋は間違いなく鬼殿のものだ。安心しろ」 「紋?」 「責任は取らせよう」 狐が目を細めて見ていたうなじに触れると、ミミズ腫れのようになっていた。それは首筋から肩甲骨まで広がっていて、まるでそこに血管が通っているかのようにドクドクしている。 「なに、これ……」 いつもは、こんな風になっていない。佐加江は、身体がこれ以上普通ではなくなる事に戸惑い、蒼白した。 「じき、その腫れは治まるだろう」
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Chapter: 九十九の願い事④ーーまだ、死にたくない! 地面に叩きつけられると思った瞬間、フワッと体が浮いた。 おそるおそる目を開けると、すぐ近くに男の顔があった。どうやら佐加江は、力強い両腕に抱き抱えられていたようだ。 (やっぱり青藍だっ!) 男の額に瘤のような物が膨れ上がり、それはみるみるうちにニョキニョキと伸びていく。 「鬼の角って、出し入れ自由なんだ……」 男を見つめる先には佐加江が普段、見たことのない世界が広がっていた。 昼と夜の境のような群青色した逢魔が時の空の色。土が踏みならされたどこまでも続く大通りには赤い提灯が吊るされ、その先の広場では、特別ゲストの弁財天の琵琶の音色に合わせて踊る人魂の盆踊り。ヌエが突然、ヒョーヒョーと鳴けば、恵比寿が抱えていた鯛が驚いて跳ね上がり、なんと書いてあるのか分からない看板がある緑色の建物から出てきたのは、ヒンドゥーの破壊神、シヴァ――。 佐加江は、トンと地面に降ろされた。 足元にあった花を踏んでしまい、スニーカーを履いているはずの足の裏がムズムズした。佐加江が退けると、それはモソモソと移動して商店の裏へと隠れてしまった。 「青藍、結婚しちゃったんだ……」 ここがどこか、と言うことよりも青藍とおぼしき男の事を「父様」と呼ぶ仔狐がいることに、佐加江はショックを受けていた。 「天狐、この野郎! 離せよっ」 突風が吹き、提灯が激しく揺れる。天から声が聞こえ、朱の隈取りでもしたかのような目力の強い、大きくて真っ白な狐が突如として風に乗って姿を現した。口元にはレジ袋を握りしめた男性を咥えている。 「離せ……ッてば!」 「仰せのままに」 狐は男性の身体をパッと離した。地面との距離はそこそこある。まともに落ちたら擦り傷では済まないと思った佐加江が走り出そうとすると、やはりふわっと浮き上がった身体が、静かに着地した。 「……つか、いきなり離すな!もっと優しく扱え」 「鬼殿、申し訳なかった。子守りは苦しゅうなかったか」 「慣れておりますゆえ。桐生が捕まったようで何よりでした」 「ああ。都会の花街をそぞろ歩きしておった。イケオジに化けて、ラブホテルなるところの休憩へ誘ったら一発よ」 「ば、ばっかじゃねぇの! 最初から天狐だって気付いてたしっ。俺、てっきりデートに誘われたのかと思って……コ
Terakhir Diperbarui: 2025-05-02
Chapter: 九十九の願い事③「お先に失礼します!」 終業時間を少し過ぎ、リュックを背負った佐加江は保育園を後にした。自転車で走り出すと夕暮れ時の風が肌寒いくらいだ。 鬼治村へ入る細い一本道は途中、小さな山を貫いたようになっている。光を遮るように木々がうっそうと生い茂り、昼間でも薄暗い。削られた山肌は苔むし、そこだけ温度が違った。 その中ほどあたりに、立派な門柱がある。村の神事の際、他所者に邪魔されないよう閉鎖するためのものらしいが、今では過疎を理由に執り行われなくなったと聞いている。そこさえ抜ければ視界はひらけ、のどかな田園風景が広がっていた。 「今日こそ、青藍に逢えるかな」 朝、手を合わせた鬼治稲荷の前で自転車を止めた。春には桜が美しいこの境内が、今も昔も佐加江のお気に入りの場所だった。 幼い日の約束を胸に、引っ越してきて二年と少し。すぐにまた逢えるのだろうと心躍らせていたが、佐加江は今だ青藍に会えていない。 オメガと聞いて放心していたある日、ふと「青藍と結婚できるじゃん!」と霧が晴れたように自身の運命を楽天的に捉えた。鬼治で就職することに躊躇がなかったのも、そんな下心からだ。が、ここへきて佐加江の人生設計に暗雲が立ち込めたように思う。 あの頃、確かにここで青藍に会っていた。「結婚してください」と佐加江は青藍に何度もプロポーズした。が、いま考えると恥ずかしくて仕方がない上に、肝心な青藍の顔が思い出せない。 月のような青みを帯びた白髪の長い髪と一角、耳たぶには大きな輪っかの真鍮の耳とう――。 それくらいしか佐加江は、記憶に留めていなかった。漠然と自分は青藍と結婚するものだと思い込んで、この歳まで来てしまった。客観的に見て少々、痛い人間だと自覚もある。 「幻だったら、どうしよう」 夢見る夢子ちゃんか、あるいは記憶違いも考えられた。 思えば小さい頃は、いろいろな不思議な者が見えていた。 教室の隅にたたずむクラスメイトではない女の子や深夜の金縛りの後にやって来るテケテケ、帰りが遅くなった夕暮れ時の通学路で子供たちを見下ろし、「ぼぼぼぼ」と低い変な声で笑っている大きな大きな八尺様ーー。 それらをいつからか、めっきり見なくなった。もしかしたら大人になり、あやかしが見えなくなったのかもと目を引ん剥いたり、細めたりしながら仕事終わりにここをうろつくのが、佐加江の日課だった。
Terakhir Diperbarui: 2025-05-01