Chapter: 第90話「湖底の翠玉」 セリュオスたちが予期せぬ戦闘を切り抜けた後、湖はまるで何事もなかったかのように静まり返っていた。 風は穏やかで、霧も薄れ、戦いの痕跡だけがそこに残っている。 水面は鈍い緑色を映し、|漣《さざなみ》ひとつ立たない。 だが、その静けさは安らぎではない。 むしろ、重く、張りつめた沈黙だった。 セリュオスは湖畔に立ち、視線を落とす。 濁った水の奥は相変わらず何も語らない。 底が見えるわけもなく、深さもわからない。 どれほど覗き込んでも、そこにあるのは濁った闇だけだ。 その中で、セリュオスの首元の首飾りは光を放ち続けていた。 |蛍晶《けいしょう》鉱石が淡く、確かに輝きながら、変わらず湖の中心を指し示している。 その光は、戦闘の間も、森の異変の中でも、一度たりとも揺らぐことはなかった。「……やっぱり、潜るしかないんだよな」 セリュオスは誰に言うでもなく|呟《つぶや》いた。 幾度と確認しようとも、道標がブレることはない。 翠玉はこの湖の底に沈んでいる。 それだけは疑いようのない事実だった。「でもよ、旦那。湖の中は何も見えなかったんだろォ?」 ガドルが腕を組みながら、湖を|睨《にら》みつけている。 その拳は無意識に握り締めているのか、不甲斐なさを感じているのか、強く力が込められていた。「こんなに濁りきっちまってよ。どんだけ深い底なんだろうなァ」 「底がわからなくても、どんなに深くても、俺はやるしかない」 セリュオスは迷いなく言った。 |外套《がいとう》を外し、肩から滑らせて地面に置く。 次いで剣を岸に寝かせた。「セリュオス……」 エレージアの声が僅かに揺れていた。 彼女でさえも不安に感じているのが伝わってくる。「手探りでも何でもいいから……翠玉を取ってくる。俺が、取って来なければならないんだ」 セリュオスは仲間たちを振り返る。 それは、強がりではなかった。 使命感でも、義務感でもなく、確かな覚悟だった。 自分が行かなければ、これ以上前に進むことはできないのだから。「だからってさ、あまり無理はするんじゃないよ。アンタが戻ってこないと……アタイらが、不安になるからね」 それは霧の民の戦士長としてではなく、セリュオスの一人の仲間として
Last Updated: 2026-09-16
Chapter: 第89話「静かな怒り」 静かだった湖畔の空気が、唐突に騒がしくなった。 草木の影が一斉に揺れると、次の瞬間、矢と刃が同時に飛来する。「――伏せろッ!」 セリュオスの声が響くより早く、風を切る音が連続した。 狙いは散らされてはいたが、そのすべてが仲間たちの急所を外さない位置にあった。 ほんの一瞬でもセリュオスの声掛けが遅れていれば、誰かが倒れていたかもしれない。 仲間たちはそれぞれ回避や防御を選択し、金属のぶつかり合う甲高い音や地面に矢が突き刺さる音が立て続けに鳴った。 攻撃の出所から敵の姿を捉えたと思った瞬間には、すでに別の位置から次の一撃が放たれていた。 隠れた刺客たちは、一ヶ所から一斉に攻撃を仕掛けているわけではなかった。 先に攻撃した者たちが攻められる前に、次の攻撃を仕掛けてくる。 さらには、決して正面からは攻めてこないという徹底ぶりだった。「……コソコソと隠れてないで、姿を見せなよ!」 レバザが|歯噛《はが》みし、霧を周囲に展開した。 白濁した霧が湖畔一帯を覆い、視界を塗り潰していく。 だが、刺客たちが霧に捕らわれることはない。 霧の縁を滑るように移動し、まるで霧に捕らわれない道筋を知っているかのようにすり抜けていく。 巨樹の根元、岩の陰、茂みの盛り上がり。 地形そのものと一体化するように、その姿を消しては死角を探しての攻撃を繰り返す。「……霧で見えにくくなっていても、この辺りの地形を完全に把握しているとでも言うのかしら?」 エレージアが首を傾げながら|呟《つぶや》いた。 敵は予めセリュオスたちがここに来ることを知っていて、この地を戦場として選んだということだろうか。「くっ、ちょこまかしやがってェ!」 ガドルが前衛の刺客たちの前に出る。 その鋼の拳が|唸《うな》りを上げ、地面へと|叩《たた》き込んだ。 凄まじい|轟音《ごうおん》が鳴り響き、地表が砕けると、衝撃が波のように広がっていった。 だが、刺客たちは紙一重で跳び退き、目ぼしい被害は与えられない。 むしろ、その瞬間を待っていたかのように、別方向から飛来した矢がガドルの肩を|掠《かす》めた。「――チィッ!」 頑丈な身体に切り傷が生まれ、赤い色が|滲《にじ》み出す。 致命傷というわけではないが、確実に削
Last Updated: 2026-09-09
Chapter: 第88話「見えない湖底」 巨大な湖は、相変わらず沈黙を守っていた。 岸辺に立つ一行の影が水面に|歪《ゆが》んで映る。 水面は鈍く揺れ、ただ重たそうに波打っている。 まるで湖底に沈んでいるものを、意図的に隠しているかのように。「……要するに、その翠玉ってヤツが、この濁った水の底で眠ってるってわけだよなァ……」 ガドルが湖を見下ろしながら言った。 何か策がないか考えている様子だったが、結局答えは出なかったらしく、すぐに頭を|掻《か》いて諦めていた。 不透明な湖水はあまりにも汚く、底はおろか、水深すら見当がつかず、どこまで続いているのかもわからない。 水面の奥に視線を凝らすほど、得体の知れない不安だけが募っていく。「よりにもよって、この汚さだからね……でも、アタイらは翠玉を手に入れる必要があると」 レバザが顔を|顰《しか》め、鼻を押さえる。 湿った風が吹く度、湖特有の|澱《よど》んだ匂いが漂ってきた。「で、誰が潜るんだい?」 レバザの言葉に、セリュオスは腕を組んで仲間たちを見渡す。 すると、仲間たちの間に沈黙が落ちた。 それぞれが無意識のうちに、湖からもセリュオスからも視線を逸らす。「……正直に言いますが、僕は……泳げません!」 最初に声を上げたのは、シエルハだった。 少し身を縮めながら、申し訳なさそうに手を挙げている。 そう言い切った声は張り詰めた空気の中で、妙に響いた。「水に入ること自体が苦手なんです……。それに……こんな濁った湖ではさすがに溺れてしまいます……」 「樹上の民は、汚水に入る文化はない」 次に淡々と言ったのはアシリィだ。 そこに迷いはなかった。 彼女は湖を|一瞥《いちべつ》しただけで、すぐに視線を戻す。 種族としての決まりではありつつも、個人的にも拒絶していそうだった。「あっしら地を這う民は、その、水が苦手だからよォ……自分の身長より深い水に入っちまうと、身体が言うこと聞かなくなっちまうんだァ。情けねぇ話だと思うんだがなァ……」 ガドルが視線を泳がせながら告げる。 だが、誰もガドルの言葉を笑うようなことはしない。 それが冗談ではないことを全員が理解していた。「私は別に入ってもいいと思ってたんだけど……なぜか、この湖が……私を拒絶するのよね」
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 第87話「火を灯す順番」 オルデリウスの導きの光は、霧の中を縫うように西へと伸びていた。 樹上の民の祭壇から遠ざかっていくにつれて、周囲の空気は目に見えて変わっていった。 湿り気を帯びて重くなった霧が、セリュオスたちに襲い掛かってきたのだ。 まるで魔物のように牙を剥いてきた。 霧の民であるレバザがいなければ、一苦労していたことだろう。 なぜ霧が牙を剥いてきたのか、その理由はすぐにわかった。 セリュオスたちは、自然にできた森とは明らかに異なる大地に足を踏み入れたのだ。「……ここは……アタイら霧の民の先祖様方が眠ってる……大墳墓かい」 足を止めたレバザが低く息を吐くように|呟《つぶや》いた。 その声は霧に吸い込まれ、すぐに消えていく。「大墳墓……ほぼ山だな」 墓所というよりも、完全に山だった。 そう思いつつも、気を緩めるようなことはしなかった。 ここは生者のための場所ではない。 踏み込むこと自体が何かを侵しているような感覚が、肌の奥にまで染み込んでくるのだ。「私たち樹上の民でさえ、観測を阻まれた聖域」 地面は硬く、石畳の名残のようなものが霧の下に埋もれていた。 ところどころに朽ちかけた石柱や、用途のわからない構造物の断片が突き出ている。「普段なら、アタイらでも滅多に近づくことがない禁域なんだけどねぇ」 霧の民にとって、この地は先祖を悼む聖域であると同時に、安易に立ち入ることを禁じられた場所なのだろう。「生きてる霧の民が、ほとんど近づかねぇ理由も……わかる気がするなァ。ここはなんだか、不気味すぎる」 ガドルが無意識に下を向いている。 いつもの軽口は鳴りを潜め、その声には僅かな緊張が混じっていた。 視界が数十歩先までしか利かない濃い霧の中心に――異様な存在感を放つ何かが、確かに鎮座しているのを感じ取った。「……あれは……なんだ?」 セリュオスの視線が、自然とそこに引き寄せられる。 近づくセリュオスたちの目に入ってきたのは、自然の岩とは明らかに異なる造形物だった。 壁面には風化した彫刻が連なり、長い年月で削られながらも、その形を保っているように見えた。 人とも獣ともつかぬ像が並び、奇怪な紋様が刻まれている。 誰が、いつ、何のために刻んだのか。 それを知る者はなく、ただ無
Last Updated: 2026-08-26
Chapter: 第86話「残り二つの在り処」 樹上の民が守ってきた祭壇の周囲では、木々の葉擦れが低く、一定のリズムで続いていた。 それは祈りにも聞こえるようでいて、警告のようでもあった。 祭壇の中央に立つアシリィは、周囲の空気に一切|呑《の》まれることなく、|凛《りん》と背筋を伸ばしている。 覚悟の決まったセリュオスではあったが、次の問題はこれからどこに向かえばいいかだった。「それで、湖底に眠る翠玉の位置だけど……」 アシリィの一言で、セリュオスたちの意識は一斉に引き寄せられた。 勇者であるセリュオスはもちろん、一行がその視線をアシリィに集中させていた。 彼女が大切な情報を告げようとしている。 誰もがそう感じていた。「……実はわからない」 一瞬、すべての音が止んだように錯覚するほどの間が落ちた。 アシリィの言葉の意味を|咀嚼《そしゃく》するより先に、感情が先行する。 |呆気《あっけ》に取られたような沈黙がしばらく続いた後、誰かが小さく|溜息《ためいき》をついた。 アシリィに調子を狂わされるのは、これで何度目だろうか。 セリュオスは内心で苦笑しながらも、すぐに表情を引き締めた。「つまり、探すことも含めて試練だと?」 セリュオスの問いに、アシリィは一切|躊躇《ためら》うことなく|頷《うなず》く。「長がそう言っていた」 「アシリィはその長に言われて、ここに来たのか?」 「そうとも言えるし、そうではないとも言える」 曖昧すぎてわからない。 結局、どっちなんだ。 まあ、いずれにせよ、アシリィが樹上の民の長に話を聞いたうえで、セリュオスたちの前に現れたことは確かだろう。「でもよォ、何かヒントくらいねえとなァ……」 ガドルが眉を|顰《ひそ》めながら、低く|唸《うな》るように言った。「ない」 だが、アシリィはきっぱりと言い切る。 その声音に情はなく、ただ事実だけが乗せられていた。「じゃあどうするってんだ、旦那ァ? 闇雲に探すわけにもいかねえし……」 「頼みの綱が切れてるなら、アタイらはこれからどうしたらいいんだい?」 ガドルが半ば投げやりに声を上げたと思いきや、その次はレバザだった。 次々に漏れる声は、先の見通せない不安を示していた。 場所すら定かではない湖の底を手がかりなしに探せ
Last Updated: 2026-08-19
Chapter: 第85話「樹上の民が守りし祭壇」 戦いが終わった後、静かな夜を過ごしたセリュオスたちは、霧の民の拠点の入り口の門の下に集まっていた。 その時間は思いのほかゆったりと流れ、一行は最後の一人がそこに現れるのを今か今かと待ち続けていた。 不思議な体験の余熱はまだ残っているが、休んでばかりはいられない。 セリュオスたちはこの世界の魔王を倒さなければならないのだ。 そんなセリュオスたちの心を知ってか知らずか、周囲の空気は澄み渡っていた。 なかなか姿を見せない仲間の一人に心をかき乱され、そんなに時間は経っていないはずなのに、数時間も待たされている気分だった。 だが、一行の不安を拭う用に、一定のリズムを刻んだ足音が彼らのもとに近づいてきた。 また一緒に旅立てることを期待しながら、セリュオスたちは彼女を待ち続ける。「レバザの姐御ォ」 最初に沈黙を破ったのは、ガドルだ。 「その恰好、旦那について行くってことで……いいんだよなァ?」 レバザはガドルをチラッと見てから、僅かに口角を上げた。 「ああ、勇者に気づかせてもらったからね。でも、その前に……」 一度息を吸ってから、彼女は口を開いた。「シル=ネムの親玉である魔王ドライシュトラにも、ひと言くらい文句を言ってやらないと、気が済まないだろ?」 すると、ガドルが喉を鳴らしながら、小さく笑った。 「ハハ……本調子に戻ったみてぇで、何よりだァ」 少し後ろで聞いていたエレージアは、視線を逸らしたまま、ほんの一瞬だけ表情を曇らせる。 「……でも、無理はしないで頂戴。あなたが現実に戻って来れたのは、ほとんど奇跡みたいなものなのよ」 「それも、わかってるさね。勇者がいなかったら、今アタイはここにいない。迷惑かけた分、アンタたちの力になるつもりだよ」 レバザはあっさりと答える。「それは心強いな」 セリュオスの言葉に|嘘《うそ》はなかった。 エレージアも納得したように|頷《うなず》き、ついに一行は霧の民の拠点を出発することになった。 シエルハだけは最後まで名残惜しそうにしていたが、まだ若いのだから、今後も訪れる機会はあるだろう。 拠点を離れてから、勇者一行の足取りは自然と|揃《そろ》っていた。 セリュオスを筆頭に、エレージア、ガドル、シエルハ、レバザ、そしてアシリィ。
Last Updated: 2026-08-12