Chapter: 第84話「霧の民の戦士長」 シル=ネムが幻霧によって生み出した戦場は、白だけではなく、黒、紫、深緑――様々な色で包まれていた。 それは怒りや恐怖、後悔、誇りといった、シル=ネムのものとは異なる誰かの感情から形成されているようだった。 幾重にも折り重なった感情が霧となり、戦場に渦巻いている。 その中にはきっと、レバザのものも含まれているのだろう。 霧は視界を|歪《ゆが》ませ、距離感を狂わせる。 世界の音は反響し、足音すら信用できない。 だが、その中心には一人の揺るがぬ背中があった。「……勇者! そっちは任せたからね!」 レバザがシル=ネムと斬り結ぶ。 その背は、今まで幸福な夢に浸かっていた者とは思えないほど|逞《たくま》しかった。「わかってる! 俺たちが自分自身に負けるわけにはいかない!」 セリュオスたちの目の前にいるのは、確かにこれまで霧の民を導いてきた戦士長のレバザだった。 幾つもの霧が、彼女の周囲で荒れている。 対峙するシル=ネムは巨鎌を作り出し、レバザの斧槍に対応している。 セリュオスにできることは、彼女を信じて自身の幻影に勝つことだけだ。「あっしも、いいとこ見せてやんなきゃなァ!」 ガドルが豪快に笑いながら、自身の幻影を殴り飛ばす。 「ガドル!」 だが、即座にエレージアの鋭い声が飛んだ。「調子に乗るのは止めなさい! 幻に釣られたら、足元を|掬《すく》われるわよ!」 「へいへい! わかってますよォ!」 注意されながらも、ガドルの陽気さは変わらない。 鋼の拳を構えながら、立ち上がった自身の幻影へと突っ込んでいく。「……偽物の割に、強くないか?」 セリュオスが感じたように、自身の幻影は単なる偽物ではなかった。 武器がぶつかり合うたび、精神に干渉してくるのだ。 体内からこちらを|蝕《むしば》もうとしてくる。「……っ、ちくしょう……!」 最初に止まったのは、ガドルの足だった。 その隙を狙うように、ガドルの幻影が一気に距離を詰める。「だから、調子に乗るなって言ったでしょう!」 間一髪、エレージアがガドルを守っていた。 その後、ガドルはエレージアが生み出した魔力の流れによって、その頭を|叩《たた》かれていた。「姐さん! 助かったぜェ!」 エレー
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第83話「レバザの戦い」 夢の世界はいつも同じ光を湛えていた。 霧のない青い色が空を満たし、森は静かに呼吸している。 木々の影が揺れ、風は心地よい温度を保ったまま吹き抜けていく。 だが、そこは変化のない完成された世界。 レバザの背後には、夫のバンダと息子のジグが立っている。 いつも同じ姿で、いつも同じ笑顔で。「レバザ。ここで、一緒に暮らそう。もう戦わなくていい。君だけが苦しまなくていいんだ」 バンダが穏やかに呼びかける。 その声はレバザが戦場で心を擦り切らせていた夜、何度も支えとなった響きではあったが、セリュオスが現れてから疑問は確信に変わった。 レバザが二人から離れようとすると、その手をジグが掴む。 「お母さん、嫌だよ……。離れたくない」 その手には精一杯の力が込められており、レバザを引き止める。 今にも泣き出しそうな表情は何度も見たことがあった。 子どもらしく|我儘《わがまま》を言ってくる時と何も違いはなかった。 レバザは無意識のうちに息を詰めていた。 抱き締めれば確かにそこにいると感じられるし、腕の中には温もりがあり、鼓動があり、命の重さもある。 幸福な世界は夢のようでありながらも、本物としか思えないほど精巧だった。 だが、レバザはもう目を逸らすことができなかった。 この世界は動くことはないし、時間が進むこともない。 別れも、成長も、後悔も存在しない。 そして、何よりも。 ここに居続けたら、自分は何者でもなくなってしまうだろう。 役目を持たず、戦わず、選ばず、責任を負わなくていい。 それがどれほど甘い罠だったのか、レバザは気づいてしまったのだ。「……ごめんよ」 なんとか絞り出したレバザの声が震える。 涙を堪えながらも、二人に語りかける。「アタイは……アンタたちと、いつまでも一緒に居たい」 その言葉にバンダの目が見開かれ、ジグの顔がぱっと明るくなった。 その瞬間、セリュオスが一歩踏み出そうとする。「レバザ……!」 だが、レバザはセリュオスを見ることなく、片手を上げて制する。 今はセリュオスの言葉が必要なわけではなかった。 自身の選択、その答えを出すための時間だったのだ。「それでも……それでもね、アタイはもう……ここには、もう戻れない」
Last Updated: 2026-07-29
Chapter: 第82話「背中を押す勇者」 霧のない空。 澄み切った青がどこまでも高く広がり、雲は薄く、穏やかに流れていた。 霧による重苦しさは一切なく、胸いっぱいに息を吸い込めば、肺の奥まで幸せが満ちていくような錯覚すら覚えるほどだ。 淡い光に満ちた豊かな森の中で、レバザは立っていた。 その両脇には夫のバンダと、息子のジグがいる。 二人はごく自然に彼女の傍にいて、肩に触れ、手を取り、その多幸感を確かめ合うように笑顔で|溢《あふ》れていた。「お母さん、見て! あっちの木に実がなってるよ!」 ジグの声は弾んでいた。 バンダは息子の元気な姿を見て、優しく微笑む。「ジグ、後で取りに行こうか。お母さんはまだ少し調子が悪いみたいだからね。レバザ、大丈夫かい? しばらくゆっくりして、落ち着いてからでいいからね」 「ああ、わかってるよ」 その温かい言葉に、レバザの胸が静かに満たされる。 家族の笑い声がそよ風に溶け、葉擦れの音と混じり合う。 ここには戦いもないし、恐怖を感じることもない。 失う不安さえ、ここには存在しなかった。 この世界でずっと過ごしていきたい。 そう思いかけた、そのときだった。 ぱちぱちと、拍手の音が森の空気を裂いた。 一度だけでなく、何度も高い音が響く。 祝福するようでいて、どこか距離を測るような奇妙な間合いに、レバザは反射的に身構えた。 警戒しているバンダがジグを後ろに下がらせ、レバザの背後に下がる。「……誰だい」 レバザは重々しい声で問いかけた。 すると、それは木々の影からゆっくりと姿を現した。 霧のような淡い色の|外套《がいとう》を|纏《まと》った何者か。 輪郭は確かにそこにあるはずなのに、焦点を当てようとすると、なぜか曖昧になってしまう。 もちろん、顔立ちも判然としない。 男とも女とも、老いているのか若いのかさえ断定できなかった。 だが、その声だけは異様なほど落ち着いているのがわかる。「――素晴らしい、光景ですねぇ」 感嘆するように、だが感情を乗せすぎることなく、その存在は言った。 レバザは斧槍を構えながら、再び誰何する。「名前も知らないやつと世間話をする気はないよ。こっちはアンタが何者かって聞いてるんだ」 レバザの視線は鋭かった。 すると、外套の
Last Updated: 2026-07-22
Chapter: 第81話「与えられた幸福」 遺跡の探索を終えて、セリュオスたちは霧の民の拠点に戻ってきた。 結局、『シル=ネム』という名前以上に目ぼしい成果を得ることはできなかった。 今夜の霧は、前夜とは比べものにならないほど静かだった。 霧の民の拠点を包む白は柔らかく、音を吸い込み、自然に発生する微かな音さえ遠くへ溶かしていく。 空気は冷えているはずなのにどこか温く感じられ、まるで時間そのものが足踏みをしているかのようだった。 仲間たちにも言えない悩みを抱えつつも、レバザは今夜も確かに眠りについたはずだった。 セリュオスたちとは別々の寝床で、毛布を胸元まで引き寄せて目を閉じた。 思考の騒めきも確かに闇に沈んだ、はずだった。 だが、レバザが目を開けた瞬間、世界は切り替わっていた。 そこに霧はなく、冷えた空気も、湿った土の匂いも存在しない。 代わりに|鼻腔《びくう》を満たしたのは、懐かしい|竈《かまど》の煙の匂いだった。 レバザがゆっくりと視線を巡らせると、そこはかつて《《レバザたち》》が暮らしていた住居だった。 壁に残る、子どもがぶつかって欠けたような跡。 低くて、何度も頭を打った天井。 竈の横に積まれた薪の並び方まで記憶の中のままだった。 足元の土間は冷たく、息を吸えば、微かに混じる薬草の匂いがあった。 あまりにも現実的で、夢だと断じるには具体的すぎた。「……そんな、はずが……」 レバザの|掠《かす》れた声が部屋の中に溶けた。 胸の奥で嫌な予感と、抑えることのできない期待が同時に膨らんでいく。 理性によって封じ込めようとするが、現実を否定できるわけがなかった。 そのときだった。「レバザ。急にぼうっとして、どうしたんだい?」 また聞き覚えのある声が聞こえた。 心臓が強く脈打ち、恐る恐る振り向く。 やはり、夫のバンダだった。 今回は霧でぼやけていないし、|歪《ゆが》んでもいなかった。 少し日に焼けた肌も、|髭《ひげ》の濃さも、記憶のままの姿でそこに立っている。 薪を抱え、少し困ったように笑みを浮かべていた。 その仕草は、生前と何一つ違わない。「……バンダ……なんで、また?」 喉がひくりと鳴った。 名前を呼ぶだけで胸の奥が痛み出す。 そうだ、きっとこれは夢に違いな
Last Updated: 2026-07-14
Chapter: 第80話「霧と夢と幻と」 地を這う民の街を出て、2日ほど歩いて|辿《たど》り着いた霧の民の拠点は、山の内部に溶け込むように存在していた。 岩肌を穿ち、洞を広げ、その空間すべてを霧で隠すことで外界と隔離している集落。 それが、霧の民が住まう土地だった。 人工物でありながら、どこか自然の一部のようでもある。 天井も壁も、明確な輪郭を把握することは、霧の民ではないセリュオスには難しい。 視界は常に白く揺れ、ただでさえ足元すらも曖昧で、初めて訪れる者には距離感すら掴めないのだ。 さらには、この拠点内に立ち込める霧は一様ではなかった。 淡い乳白色のもの、薄青く冷たく感じるもの、光を反射して|煌《きら》めくもの。 それらが幾層にも重なり合い、ゆっくりと流れ、時折形を変えていく。 呼吸をするたび、肺の奥にまで冷たく柔らかな感触が染み込んでくるようだった。「ここが、アタイら霧の民の拠点さね」 先頭を歩いていたレバザが振り返り、そう告げた。 声は落ち着いており、どこか柔らかさを帯びている。 かつて、セリュオスを拒むように|尖《とが》っていた表情は、今は鳴りを潜めていた。 むしろ、確かな信頼が|滲《にじ》んでいるように見える。 森の民との|諍《いさか》いを乗り越え、共に地を這う民の|隧道《ずいどう》を旅し、時間を分け合った結果だろうか。「色とりどりの霧か……。しかも、かなり視界が悪いな」 セリュオスが率直に言うと、レバザは肩を|竦《すく》めた。「慣れれば、すぐに気にならなくなるよ。それに、この霧はアタイらを守ってくれる砦にもなってるからね。目を凝らせば、ちゃんと仲間たちの姿も見えるだろ?」 レバザは集落の内部を示すように腕を軽く振る。 彼女に言われたとおりに、その先をジッと見つめていると、霧越しに点々と浮かぶ住居の灯りのようなものが見えてきた。 その周りには、作業を終えてくつろぐ人々の気配を感じ、器具を片付ける金属音、低く交わされる談笑さえも聞こえてくる。 子どもたちの小さな笑い声が、霧に溶け、輪郭を失いながら耳に届く。 どれもが、確かに日常の音だった。 かつて、森の民と対立していた頃は、この拠点には張り詰めた空気が漂っていたことだろう。 いつ侵略されるかわからない恐怖に、疑念と警戒。 だが今は、穏
Last Updated: 2026-07-08
Chapter: 第79話「暗躍する者」 ラウシュとの激闘から一段落して、封印遺跡を離れたセリュオスたちは、再び地中に戻り、地を這う民の街に|辿《たど》り着いた。 空はなく、地上からの風は届かずとも、皆がディリダの安否を心配し、彼女の到着を待ち望んでいた。「……戻って来れたな」 セリュオスが周囲をゆっくりと見回しながら|呟《つぶや》いた。 剣を背負いつつも、自然と肩の力が抜けていくのがわかった。 この街にいると、自然と心が落ち着くような感覚があるのだ。「全部、旦那のおかげだなァ」 ガドルは短く答える。 だが、実際にラウシュを倒したのはガドルであり、セリュオスではない。 鼓舞の力はその背中を押したかもしれないが、それでもガドル自身が殻を破らなければ、勝つことはできなかっただろう。「アンタはホント、バカね」 「ディリダ? あっしが、バカって……?」 その反応を見る限り、やはりガドルは気づいていないみたいだが、ディリダの言うとおりだとセリュオスも思ったのだ。 それからほどなくして、村の奥から一人の年配の男が姿を現した。 白くなった|髭《ひげ》を|撫《な》でながら、慎重な足取りで近づいてくる。「グレヘン老かァ」 「……久しいな、ガドル。それで、ディリダは無事なのか?」 グレヘンと呼ばれた男はこの街の代表なのだろうか。 見た目に反して、彼の鋭い眼差しがジッとガドルを捉えていた。「もちろん、あたしなら無事に決まってるでしょ」 ガドルの代わりに答えたのは、ディリダだった。 どう伝えようか迷っているガドルの一歩前に出て、胸を張る。「ガドルが、あのガドルが、あたしを助け出してくれたのよ!」 その言葉に、周りに集まっていた村人たちの間から|安堵《あんど》の息が漏れる。 ガドルとディリダの距離がほんの僅かだが、以前よりも近づいていることに、セリュオスは気づいた。「そうか。あの後は、この街も何事もなかった。ガドル。よく、やってくれたな」 グレヘン老はそう告げると、それ以上は何も言わなかった。 それだけで一気にざわめきが広がり、周囲の住居から次々と住民たちが顔を覗かせた。 誰かが酒を持ってきて、誰かが食べ物を持ってくる。 それは街を救った英雄を迎えるというよりも、長く留守にしていた隣人が、無事に帰っ
Last Updated: 2026-06-30