Chapter: 第105話 【佐伯視点】一生傍に居て欲しい 分かりやすく動揺して、俺と指輪を交互に見て、頭を抱える。「一日中、それ付けたまま過ごしてた。 歯磨いて、着替えて、車で俺の隣に座って、普通に喋って、笑って」「……じゃあさ、IKEA行ったのも……?」「逆に聞くけど。何のために行ったと思ってた?」「え、えっと……普通に、デート……?」 内心でため息をついて、その額を小突かずにはいられなかった。「ほんとバカ。同棲の下見以外に、何があるんだよ」 小瀧の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。「……ねえ、佐伯。ちゃんと……言葉で、伝えてほしいんだけど」 潤んだ大きな瞳で、真正面から見つめられる。 逃げ場のない視線だった。 理屈も計算も一切通じない、感情だけの要求。 それを拒めるほど、俺は冷酷じゃない。「……分かった」 短く答えて、床に片膝をつく。 視線を向けると、小瀧の呼吸が一瞬止まったのが分かった。 ベッドに腰掛ける小瀧の手を取り、指輪を嵌めた薬指に、静かに唇を落とす。 誓いは、演出じゃない。 必要な言葉を、必要なだけ使う場だ。「俺の人生をかけて、全てを捧げてでも。南緒を幸せにするって誓う。南緒なしの人生は考えられない。……ずっと、俺の隣で笑っててほしい」 言い切る前から、小瀧の涙腺は決壊していた。 溜めていた涙が、堰を切ったように零れ落ちる。「俺の家に、灯りをともして待っててくれるって言ったじゃん。だから、大学を出るまで、ここで一緒に暮らそう。卒業して、ある程度仕事したら……フランスに来て。俺と、結婚してほしい」 当然、頷くと思っていた。 けれど最初に返ってきたのは、不安に塗れた言葉だった。「……ねぇ、本当に……お、俺でいいの……? うるさいし、バカだし……っ。お釣りの計算できないし、カップラーメンもレンジで温めちゃうし……」 自覚は、あるらしい。 少なくなる出し方の計算が出来ずに、財布に溜まり続ける小銭。 カップラーメンを作る時、お湯がないからと水を入れて電子レンジに突っ込んで、飛び散った青い閃光にパニックを起こしていたこともあった。「いいよ。そういうの、俺の人生と無縁すぎて、逆に面白いし」 理解不能な行動を、平然と繰り出してくる。 怒りながらも、どこかで楽しんでいる自分がいるのも事実だった。 あり得ないことが、あり得る。 小瀧はいつも、それ
Last Updated: 2026-06-25
Chapter: 第104話 【佐伯視点】答え合わせ「し、新婚旅行? 待って、何の話? 飛躍しすぎじゃない?」「は? どうせそのうち行くに決まってんだから、飛躍はしてないだろ」 小瀧が盛大に咽せた。咳き込みながら目尻に涙を溜め、非難の色を隠しもしない視線を向けてくる。 なぜそんな反応になるのかが分からない。 行くことが前提の話をしただけだ。予定の確認ですらない。事実の提示だ。「そ、そういうのってさぁ、ロマンチックなレストランとか予約して、プロポーズして、指輪嵌めてから二人で考える事だから! てか、フランスの人ってめちゃくちゃ熱烈なプロポーズとかするもんなんじゃないの? この前テレビで見たもん、見てるこっちが恥ずかしくなるようなあっちぃ事言ってんの!」 情報量が多い。 しかも論点が散らかっている。さすがFラン。 ロマンチック、レストラン、テレビ、フランス人。 どれも意思決定には不要な要素だ。「うわ、めんどくせ……俺がそういう事すんの好きじゃねぇって分かるだろ、普通」 感情を盛り上げる儀式に価値を感じないのは、今に始まったことじゃない。 それを「普通」と言っていいかは知らないが、少なくとも小瀧は理解しているはずだと思っていた。「佐伯の好き嫌いなんか聞いてねーし! あー、もう。とにかく、佐伯は順序がおかしいってば」 順序。 その単語が出てきた時点で、また小瀧基準の話かと思った。「いつか妻にしてくれるんですよね?」と聞いてきたのは向こうだ。 だから「パスポートを作れ」と言った。「嫁に貰ってやってもいい」とも言った。 指輪も受け取った。 そして、今も身につけている。 それでも足りないらしい。 レストランという舞台装置と、感情過多な台詞と、外野から仕入れた「フランス人像」が揃って、ようやく正しい順序になるようだ。 理解はできないが、把握はした。 頭の出来は良くないのに、そういう余計な情報だけは記憶に残る。その選別基準の歪さが、少しだけ興味深かった。 こちらは合意と事実で進める。向こうは雰囲気と感情で納得したい。 噛み合わない理由を考えるのは無駄。そう結論づけて、俺は家に帰った。*** 上着をハンガーにかけ、ベッドに腰を下ろした瞬間だった。 小瀧は迷いも躊躇もなく、当然の動作みたいに俺の脚に跨ってくる。 身体が崩れないように腰に手を添えると、小瀧
Last Updated: 2026-06-25
Chapter: 第103話 【佐伯視点】翌朝の違和感 翌朝は、小瀧の反応を確認するため、いつもより少しだけ早く起きてコーヒーを飲んでいた。 待ち構える、というほど大袈裟でもないが、状況確認のための準備だ。 片手でスマホを操作していると、寝室から小瀧が出て来た。 左手の薬指には、当然のように婚約指輪を嵌めたまま。 ただ、想像していた反応がない。 歓声でも、抗議でも、何かしらのリアクションがあると思っていたが、それがない。 小瀧はそのまま洗面所へ行き、歯ブラシを咥え、寝癖頭のまま目を擦っている。 一瞬だけ、まさか気付いていないのか、という考えが頭を掠めた。しかし、流石にそれはないだろうと即座に否定する。それでも視線が外せず、無意識に凝視していた。 何も言わない理由は何だ。恥ずかしいのか? それとも、もう「パスポートを作れ」とも言われたし、「はいはい、指輪ね」と処理済みなのか。 大抵のことは予測の範囲内なのに、この沈黙だけは判断材料が足りなかった。 まあ、ノーリアクションでも別にいいか。話は早い方がいい。 お互い大学とバイトで時間は限られている。小瀧が了承している前提なら、今からIKEAに行って、最低限、同棲に必要なベッドだけは決めたい。「あと20分で出る」「はぁ!?鬼!恋人がお洒落する時間もくれないなんて!」「別にお洒落なんかしなくてもいいだろ、その顔面なら」 事実を言っただけなのに。 なぜか小瀧はそれを悪意として受け取ったらしく、「悪魔」だの何だの、歯ブラシを咥えたまま一方的に罵ってくる。 どこをどう誤解したのか分からない。 ただ単に、思っていることをそのまま口にしただけだ。 服装も髪型も関係ない。 俺から見れば小瀧は「普通に」整っている。 というか、変にお洒落なんかして欲しくないのが本音だった。 芸能人みたいに綺麗とか、可愛いとかではないにしろ、コイツには人の目を惹きつける華がある。 文句を垂れ流しながらも、結局俺のクローゼットからカーディガンを引っ張り出して黙って羽織っている。 さっきまで怒っていたくせに、この行動は変わらない。 こいつは俺の匂いというか、俺のものに包まれている状態が好きなんだろう。恋人になる前からそうだ。 俺の匂いを香水と勘違いして好きだのなんだの言ってきたこともあった。もはや習性だ。 そう考えると、人間という
Last Updated: 2026-06-24
Chapter: 第102話 【佐伯視点】母性と愛情 俺を産んだ人の顔も、声もほとんど思い出せないのに。 異常だ。未熟だ。 それでも――永久に手に入れられないと分かっているから。 五歳の誕生日の夜に、それを突きつけられたから。 小瀧に、必死で母性と愛情を求めてしまう。「……は、ぁっ……奥、それ以上だめ……!」 涙声で言われても、止めることが出来ない。 熱くて、絡みついて、蕩けさせるような快感と、もう二度と手に入らない「何か」を埋めて欲しい衝動。 激しくは動かさずに、そっと小瀧の下腹部に触れながら、限界まで自身を奥へ奥へと沈める。 罪悪感を感じながらも、歯止めが効かない。「苦しいよな……ごめん、ごめん、南緒……っ」 毎回毎回、これの繰り返し。 小瀧はまさか、俺がそんな歪んだ気持ちで身体を打ちつけているなんて思いもしないだろう。「は、ぁっ……澄人、気持ちい……?」「うん。すげぇ気持ちいい。……安心する。もう少しこのままでも良い?」「ん……いいよ……」「南緒のことも、ちゃんと気持ち良くするから」 打ち明ける勇気もない。 ただただ、体の内側で腫れ上がって、破れそうに膨らんで。 自分がどんな顔をしているのかも分からない。 けど、小瀧はいつも、俺の心の奥を見透かすみたいに言うのだ。 「……澄人のこと、俺の身体で慰められるなら、嬉しい……」 小瀧に受け止めてもらえることで、満たされるのを繰り返していた。 ハグも、キスも、セックスも。どれも確かに愛情を伝えるための手段。 けれど今夜だけは、それよりもずっと明確に、「言葉」で伝えたいことがあった。「……愛してる」 多分、付き合ってから初めて口にした言葉だった。 ずっと言わなかったのは、言葉にしてしまえば、羽よりも軽くなって、どこかへ飛んでいってしまいそうな気がしていたからだ。「……うん、俺も……っ」 そう返す小瀧の顔が、驚くほど素直で、心から嬉しそうで。 体を震わせながら首元にしがみついて、すべてを預けてくる姿を見て、はっきりと思った。 ――ああ、やっぱり、一生離してやれない。 事が終わると、小瀧は俺の腕の中で力を抜き、ゆっくりと呼吸を整えていた。 背中に回した手で、一定のリズムで撫でる。 汗と体温と、混じり合った匂いが、まだはっきりと残っている。 小瀧は何も言わず、俺の胸に額を押しつけてきた
Last Updated: 2026-06-23
Chapter: 第101話 【佐伯視点】小瀧に求めるもの 週末の勤務を乗り越え、小瀧がうちへ泊まりに来た。 一緒にシャワーを浴びて、バスタブに浸かりながら、いつまでも途切れることなく小瀧はお喋りに夢中だった。 後ろから軽く顎を掴んで振り向かせ、軽くキスをすると急に大人しくなる。 うなじに、濡れた襟足が水を含んで張り付いているのが目に入る。そこへ唇を寄せると、小瀧は「くすぐったい」と声を上げて笑った。 そういう、無防備な反応ひとつひとつが、いちいち構いたくなる理由のひとつだった。 風呂から上がると、小瀧は俺の部屋着を、もはや当然のような顔で着込む。 袖が長くて、何度もまくり直しながら、野菜がたっぷりと入った寄せ鍋を作ってくれた。「お前、いい加減自分の服置いておけよ。料理しにくいだろ」「え? ……ヤダ。あったかいんだもん。これでいいの」 理由をつけているつもりなんだろうが、俺からすれば分かりやすすぎる。 恋人の服を着ていたい。それだけの話なのに、わざわざもっともらしい言い訳を足す。 付き合う前から変わらない。こういうところでだけ、妙に意地を張る。 それが照れだと分かっているから、こちらも敢えて突っ込まない。「佐伯、ラップ取って。届かない」「はいはい」 背後から身体を密着させるようにして取ってやると、分かりやすく恥ずかしがる。耳まで真っ赤だ。 そのついでに耳朶を軽く食むと、またぎゃあぎゃあ言いながら、あっちに行けと言わんばかり軽いパンチを背中に寄越す。 その反応が見たいだけ。 小瀧が届かないと分かっていて、わざと届かない位置にいつも置いていた。*** 夕飯を済ませて、小瀧が料理をしてくれた分、食器洗いは俺が担当した。 キッチンから戻ると、小瀧はテレビをぼんやり眺めていて、眠気を誤魔化すようにあくびを噛み殺しながら、俺が戻るのを待っていた。 膝を抱えている手首をそっと掴む。 それだけで、何を求めているかは伝わったらしい。 小瀧は何も言わずに立ち上がり、そのまま寝室へ引かれていく。 抵抗はない。むしろ、当然の流れだと理解している顔をしている。 ベッドの前まで来ると、小瀧は自分から腰を下ろした。 一瞬だけこちらを見る視線が、すぐに逸れる。「まだ、恥ずかしい?」「……うん」 何度も体を重ねてきたというのに、こちらが少し甘い空気を纏わせるだけで、分
Last Updated: 2026-06-22
Chapter: 第100話 【佐伯視点】指輪を買った日 十二月の銀座は、街そのものがクリスマスを祝福しているようだった。 通り沿いの街路樹は、葉を落とした代わりに無数のイルミネーションで光を纏っている。 日が落ち切る前から灯り始めたそれらは、ビルのガラスやショーウィンドウに反射して、歩道を歩く人々を光で縁取っていた。 大学で五限の講義を終え、今日はバイトもない。 小瀧は遅番だと言っていたから、会う予定もなかった。意図的にそうしたわけじゃないけれど、今日は一人で動く必要があった。 人の流れに逆らいながら、足は自然と目的地へ向かう。 見えてきたのは、カルティエのロゴ。 リニューアルしたばかりだという建物は、白を基調とした外観で、クリスマスに向けた控えめな装飾が施されていた。 ここに来る理由は、明確だった。 曖昧にしていい工程じゃないし、先延ばしにする意味もない。 店内に足を踏み入れた途端、外のざわめきも、車の音も遮断され、空気は澄んだものに変わった。 店内の空間設計は無駄がなく、時間の流れすら別物のように感じられた。「いらっしゃいませ」 柔らかい声に、俺は一度だけ頷く。余計な言葉は要らない。「婚約指輪を探しています」 それだけ言えば十分だった。 店員の表情が一瞬で切り替わるのを、冷静に観察する。 案内されたのは、店内の最奥。ガラスケースの前で、店員は慣れた手つきで指輪を並べていく。 どれも美しいデザインだと思ったし、どれを選んでも正解に見える。だからこそ、選ぶ理由が重要だった。「こちらはカルティエの定番、ソリテールです。一粒ダイヤはラウンド・ブリリアントカットを施しており、最も存在感のあるコレクションです」 その説明の通り、目を見張るほどのダイヤは確かに美しい輝きを放っていた。ケースの中でも一際鮮烈で、視線を集める。ただ、それは俺にとっては露骨なデザインに感じられた。 日常に溶け込むというより、ダイヤの大きさが「特別」を主張しすぎている。 俺は小さく首を振った。「もう少し、柔らかい印象のものはありますか。シンプルなもので、気品や調和をイメージさせるような」 店員は一瞬だけ考え、別のケースを開けた。「でしたら……こちらは本来、結婚指輪なのですが。いかがでしょうか、バレリーナと申します」 オフホワイトのベルベット素材で出来たトレーに置かれたその指輪を見た
Last Updated: 2026-06-21
Chapter: 最終話――アメリカ・ボストン。凍てつくような冬の厳しい空気と、歴史の重みを湛えた古き良き伝統が同居するこの街で、俺たちは古い煉瓦造りのアパルトマンの一室に身を寄せ合って暮らしはじめた。重い格子の窓の外では、夕暮れ時の淡い琥珀色の光が、白樺の街路樹の影を長く斜めに伸ばしている。隙間風を防ぐための古いサッシのあわいから、時折ひゅっと忍び込んでくる風は肌を刺すほどに冷たい。けれど、一歩この部屋の境界を跨げば、そこはスチームヒーターの放つ頼もしい熱気と、俺たちがここで積み重ねてきた愛おしい日々の匂いで満ちていた。珈琲の残り香、微かに残る花の葉の青さ、そして洗いたてのファブリック。 玄関のドアを開けた瞬間、「あぁ、自分たちの家に帰ってきた」と、身体の芯から安堵の溜息を漏らせるようになったのはいつからだろう。それが、冴と俺の関係が幼馴染、恋人、婚約者という名前を経て――名実ともに「家族」になったことを何よりも雄弁に物語っている気がした。ふたりでこの街に引っ越して間もない頃、慣れない英語で店員とやり取りしながら選んだ、シェードの形が丸みを帯びている間接照明。そこから零れる柔らかな飴色の光が、リビングの琥珀色のフローリングの上に、まるでふたりの記憶の残像を映し出すかのように、ゆらゆらと穏やかな影を落としていた。今日は自宅のリビングを解放して開いているフラワーアレンジメント教室で、個人レッスンをつけている小学生の男の子のレッスンの日だった。 数ヶ月前、開講して間もない頃は、それこそ文字通り閑古鳥が鳴いていた。異国の地で、実績もない日本人の男が始める教室だ、当然と言えば当然だった。けれど……冴が築いてくれた現地の人脈や、根気強く通ってくれた最初の生徒さんの口コミが、少しずつ、けれど確実に街の細い路地を伝うように広がっていった。 今では週に五日間、午後のクラスはどの年代も満席になるほどの人気ぶりだ。 おそらく、本物の日本の華道の家系に生まれ、その技術を基礎に持っているという事実が、この街の芸術を愛する人々にとって一種のエキゾチックなブランドになっているのだと思う。 けれど、俺は「香月」というその歴史ある姓を、ここでは極力伏せるようにしていた。それは自分が看板の重みに頼らず、この異郷の地で、自分の腕一本で生活をしていく上での覚悟の証明でもあった。そして何より、もうあの伝統という
Last Updated: 2026-06-25
Chapter: 第104話 新婚旅行編⑩ 「待って、苑真のプレゼント……」 「後でいいだろう」 「でも、冴も幸せになれるって、苑真が」 そう言うと、冴はちょっとだけ苛立った顔で苑真の紙袋を俺に渡してくれた。 ムードは満天だったのに、申し訳なさもある。けど、その……店を出る前に苑真に耳打ちされたのだ。 "冴と初夜を迎える前に必ず開けてね" 最初はその言葉の意味こそわからなかった。なんかいやらしいものでも入っていたら、と思うけれど、あの苑真が空港の荷物検査もあるのにそこまでして、茶化すようなものを入れ込むとも思えない。 紙袋をそっと開くと、中に入っていたのは透けるオーガンジーで出来た、目を見張るような―― 「…………ウエディングヴェール?」 そう。花嫁が、新郎にキスの前にそっと持ち上げて貰う結婚式のあれだ。 ぽかん、として両手の中にふわりと揺れるそれを見つめて、息をのむ。俺、男なんだけど、とかいうより何より、そこに刺繍された繊細なレースが、苑真からの友情を物語っていた。 「これ……」 「どうしたんだ」 冴が少し身を乗り出して、俺の手元を覗き込む。 「四葉のクローバーと……」 指先でそっとなぞりながら、刺繍を辿っていく。白い糸で縫い取られた細やかな模様たちが、オーガンジーの上にひっそりと息づいていた。 「マートル……花嫁が持つハーブで、真実の愛、って意味で。白いバラは、純粋な愛と新しい始まり。スズランは……幸福の再来、かな。それから、こっちはオレンジブロッサム。永遠の愛と多幸、だ」 言葉にするたびに、じわりと目の奥が熱くなっていく。 「全部、俺たちへの……」 最後まで言えなかった。喉が、うまく動かない。 苑真のやつ。あんな顔して、あんな口ぶりのくせに。玲央と笑いながら騒ぎ立てていたくせに、こんなものを――たった四人の、誰にも知られない小さな結婚式のために、こんなに細やかなものを用意していたのか。 ヴェールを持つ手が、微かに震えた。 冴が何も言わずに、俺の隣でそれを見ていた。 「……苑真らしい」 やがて、冴がぽつりと言った。批評でも皮肉でもなく、ただ、そのままの事実として。その声が、思いのほかやわらかかったから、俺はますます泣きそうになった。 冴が俺の手からヴェールを受け取り、そっと被せてくれる。 薄い生地が視界に落ちてくる瞬間、世界がひとつ、遠くなった。
Last Updated: 2026-06-24
Chapter: 第103話 新婚旅行編⑨「……一緒に来てほしい、ついて来てくれるか。美森」「うん」俺は小さく笑って、彼の目を見つめ返した。「行くよ。どこへでも」返事は一言、ただそれだけだった。これからの人生を決める約束にしては、あまりにも短く、あまりにも呆気ないやり取り。けれど、冴がどこの国へ行くか、何を学ぶかよりも、冴の隣に俺がいるということの方が、俺にとっては最初から当たり前の、世界のルールのようなものだったから。「ありがとう。……本当に」冴の手が伸びてきて、俺の後頭部を包み込むようにして、ゆっくりと自分のほうへ引き寄せた。 請われるままに彼の肩に額を預けると、仕立てのいいスーツの生地が、夜気の残りでほんの少しひんやりと冷たくなっている。けれど、そのすぐ奥にある彼の体温は、驚くほどにあたたかくて、鼓動が静かに波打っているのが伝わってきた。「……お前に、ずっと苦労をかけている気がしていたから。正直自信がなかった」「してないよ」「している。しかも、俺の勝手に付き合わせてばかりだ」「俺が好きで付き合ってるんだから、そんなの苦労って言わない」冴はしばらく何も言わなかった。返事の代わりに、俺の髪を撫でる大きな手が、愛おしさを確かめるようにゆっくりと動く。窓の外では、コペンハーゲンの夜がまだ静かに、美しく続いていた。 今日、この異国の地で俺たちは結婚して、帰国して生活が落ち着いたら、今度はふたりでアメリカへ行く準備を始める。そう考えると、人生というものは思ったよりもずっと、誰かの指先ひとつで、劇的に動いていくものだなと思った。でも、目の前にいる人、隣で体温を分け合ってくれる人が変わらないなら、それだけでいい。「はぁ……っ、冴……」俺が小さく息を吐き出すと、冴の手が俺の顎に触れ、ゆっくりと顔を持ち上げさせた。 自然と、視線が至近距離で交錯する。冴の瞳の奥に、いつになく熱く、深い光が灯っているのが見えた。ネクタイを外した彼の鎖骨のあたりから、微かに香る男らしい匂いが、鼻を掠めて部屋の中にふわりと広がる。「美森」名前を呼ぶ声が、いつの間にか熱を帯びて低くなっていた。 冴の顔が近づき、お互いの吐息が触れ合うほどの距離になる。彼の唇が、俺の唇に優しく求めるように重ねられた。一度、二度、角度を変えて深く貪るようなキスが交わされるたび、ソファの上の空気が一気に甘く、濃密なものへと変貌してい
Last Updated: 2026-06-23
Chapter: 第102話 新婚旅行編⑧ ホテルへ戻る道は、冴と二人きりで静かに歩いた。 先ほどまでいたレストランの横を流れる運河の前で、玲央と苑真とは別れたからだ。 「明日また、容赦なく観光に連れ回してやるからな」 「美森たちに構いすぎるな。少しはふたりきりにしてやれ」 玲央が少し呆れたようにたしなめている。そんなふたりの賑やかな掛け合いが、コペンハーゲンの冷たい夜の街に溶けて遠ざかっていく。 それを背中で聞きながら、俺たちは街灯に照らされた石畳の道を、互いの歩調を合わせるようにゆっくりと進んだ。石畳の継ぎ目を踏むたびに、靴底から微かな振動が足へと伝わってくる。 運河沿いに立ち並ぶ建物の窓から漏れる橙色の光が、濡れた石の上に幾つもの小さな水溜まりのような反射を作っていた。人の声はもうどこにも聞こえない。聞こえるのは、自分たちの息の白さと、遠くの水面がかすかに波打つ音だけだった。 不意に、冴の手が自然な動作で俺の指先を掠め、そのまま包み込むようにして手を繋ぐ。 「冴?」 「もう、婚姻関係になったんだ。それに、この国だったら誰にも白い目で見られない。香月の家だとか、後堂のブランドだとか。そういうしがらみがなく、過ごせるだろう?」 「……うん、そうだね」 冴の声は静かで、言い訳でも確認でもなく、ただ事実を口にしているような響きだった。俺は彼女の横顔をちらりと見た。街灯の光の中で、冴は正面を向いたまま、どこか遠くを見ているようだった。 あの後も、俺たちはお互いの実家と何も連絡を取っていない。 たまに、俺は雲雀兄さんから、冴は嶺さんから近況報告のような便りが届くことこそあれど、それ以上深入りしないというか、過度な接触はしないようにしていた。二つの家の間にある、言葉にならない距離感を、俺たちはまだどう扱えばいいのか、答えを出せずにいる。それでも今夜くらいは、そのことを考えずにいてもいいだろうと思った。 本当だったら、お互いの家族に囲まれて、それこそあの日の結納のように、たくさんの人の祝福を受けることこそが「家にとって」の幸せなのかもしれない。けれど、たった四人しかいない結婚式だったとしても、冴と俺は十分に満たされていた。 (……いつか、冴のお母さんの墓前でも、すべてを報告しなくちゃ。きっと冴自身も、胸のどこかでそれを考えているはずだ) その思いが脳
Last Updated: 2026-06-22
Chapter: 第101話 新婚旅行編⑦ 「え……? アメリカの、大学院?」 驚きを隠しきれず、思わず冴の横顔を凝視する。 アメリカ。確かに目指しているとは言っていたけれど、有言実行するなんて、俺は一度も相談されていない――。 俺の動揺を察したのか、冴は少しだけ眉を下げ、目を細めた。 「美森、まだ話していなかったな」 「……本当だよ。俺、何も聞いてないんだけど」 少しだけ声が尖ってしまったかもしれない。 驚きと、ほんの少しの寂しさが胸を掠める。 冴は俺の左手をテーブルの下でそっと包み込み、耳元で低く囁いた。 「すまない。隠すつもりはなかったんだ。ホテルに戻ったら、詳しく話す」 その真摯な瞳に見つめられると、それ以上は何も言えなくなる。けれど、向かいの席のツッコミ担当がそれを逃すはずがなかった。 「おいおい新婚初日から重大な密約かよ! 報連相がなってないぞ、旦那さん!」「やめろ、茶化すな」 玲央がニヤニヤしながらすかさず突っ込んでくる。さらに苑真が、大袈裟に両手を頬に当てて悲鳴をあげた。 「え〜! 冴もアメリカ行っちゃうの!? 玲央と二人でニューヨーカー気取り? ずるい、俺も混ぜてよ! ベルリンで一人ぼっちにされたら、寂しくて死んじゃう!」 「お前は寂しがりのウサギか。つーかアメリカのどこだよ、国が広すぎるわ!」 玲央が間髪入れずに叩くと、冴は淡々と答えた。 「玲央の声は州を跨いでも届きそうだな」 「なにそれ、わざわざデンマークに来てまで俺のこと馬鹿にすんの!?」 声を揃えて突っ込む玲央と苑真の姿に、胸の奥のモヤモヤが一瞬で吹き飛んでいく。 冴がアメリカに行く。その事実にはまだ驚いているけれど、冴が自分の未来を、そして俺たちの未来をどう描いているのか、後でじっくり聞けばいい。 場所が変わっても、俺たちはそれぞれ違う空の下で生きていても、こうして集まれば一瞬で高校時代のあの距離に戻れる。その絶対的な安心感が、今の俺にはたまらなく愛おしかった。 『Her er vores klassiske æbletærte, serveret med hjemmelavet vaniljeis.』 (当店自慢のリンゴタルトと、自家製バニラアイスクリーム添えでございます) デザートに運ばれてきたのは、リンゴのタルトにバニラアイスクリーム。薄切りにされたリンゴが、まるで大輪
Last Updated: 2026-06-21
Chapter: 第100話 新婚旅行編⑥運河沿いに続く、歴史を感じさせる石畳の路地。その一角にひっそりと佇む小さなレストランが、挙式を終えた今夜の俺たち四人の目的地だった。テーブルのあちこちで揺れるロウソクの灯りが、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。窓の外に目をやれば、夜のコペンハーゲンが静かに息づいていて、水面に街の灯が映ってきらきらと揺れていた。六月のデンマークは驚くほど日が長くて、時計の針が九時を過ぎていても、空の端には絵の具を薄く溶かしたような残照がまだしがみついている。その不思議な薄明かりが、俺たちの特別な夜を祝福してくれているようだった。「じゃじゃーん! どうよこの店! 俺のオシャレセンサーとリサーチ能力が奇跡の融合を果たした結果がこれよ。褒めていいぞ、二人とも!」メニューを広げながら、苑真がさっそく両手を広げて大袈裟に胸を張った。高校時代から変わらない、調子のいいおちゃらけた口調だ。 すかさず、隣に座る玲央から鋭いツッコミが飛ぶ。「はいはい、ネットのレビュー星四つ半だったって、スマホ見せながらドヤ顔してたの知ってるから。自分で足使って開拓したみたいに言うな」「えー、いいじゃん別に! プロセスの違いなんて些細なことだよ。大事なのは結果!」相変わらずの二人のやり取りに、俺は思わず頬が緩む。「さすが苑真、仕事が早いのは本当にありがたいよ」俺が苦笑交じりに感心していると、隣に座る冴が静かにワインリストを閉じた。「美森、飲めるか?」覗き込むような冴の低い声と視線に、胸が小さく跳ねる。普段、お酒は飲まない。冴と暮らしてからだって、お互いの誕生日にちょこっと嗜む程度だった。「うん、今日くらいは」指輪のはまった冴の大きな手が、ウェイターにスマートに合図を送る。その一連の動作の格好良さに、未だに少しだけ照れてしまう。「あ、美森がデレてる。見せつけてくれるじゃーん」「そ、そんなつもりは……」「いいんだぜ? 久しぶりの再会なんだし。もっとイチャイチャしてんの見せつけても」乾杯のグラスが運ばれてくるのを待つ間も、テーブルの上は賑やかだった。「いやーしかし、まさかこんな北欧の地で再集合するとはな。ニューヨークから飛行機乗ってきた甲斐があったわ」玲央がしみじみと呟くと、苑真がチッチッチ、と大袈裟に指を振った。「甘いね玲央。ベルリンからの愛の距離に比べたら、ニューヨークなん
Last Updated: 2026-06-20
Chapter: 【番外編⑩】今日もあなたの隣で *** 記者会見から数ヶ月、嵐のような日々を乗り越えた先には、驚くほど穏やかで温かな日常が待っていた。 「フォトグラファーの浅野です。本日は宜しくお願い致します」 カメラバッグを背負い動きやすいラフな出で立ちの透利さんは、いつもの星空を見上げる時とは少し違う、柔らかな表情で施設に足を踏み入れた。 今日は俺の勤務先である乳児院に、仕事……撮影カメラマンとしてやって来ている。 「わー! 本物だ、おっきいカメラかっこいい~」 「みせてみせて! 私も写真撮りたい!」 ホールでおままごとをしていた子どもたちが、振り向いた先で挨拶をしていた透利さんに一斉に駆け寄る。 「透利さん、来てくれたんですね」 背中でおんぶしている赤ちゃんを優しくあやすように揺らしながら歩み寄ると、透利さんはカメラのレンズ越しに、とろけるような笑顔を向けた。 「珠依、お疲れ様」 「ごめんなさい。みんな、三日前からこんな調子で……テンションが高くて」 「謝ることじゃないよ。こんなに大歓迎されて、嬉しい以外のなにものでもない」 彼の足元では、幼稚園に通う年中・年長組の子どもたちが「それ、どうやって撮るの!」「星とか撮る人なんでしょ!」と、矢継ぎ早に質問を投げかけている。 透利さんは膝を折り、子どもたちと同じ目線まで沈み込むと、楽しそうにレンズの仕組みを教えていた。 今回の依頼は、建て替えを終えた乳児院のホームページを一新するためだ。本来は、児相と連携して身寄りのない子供たちを預かる場所。けれど、それだけでなく一時預かりや園庭解放など、地域に開かれた施設としての魅力を伝え、「可哀想な子供達が生活している場所」というマイナスイメージを少しでも払拭したい――というのが目的だ。 ホームページに載せる施設や職員紹介の写真を撮影するにあたって、会議でのカメラマン選定の話題になると、職員たちの視線が自然と俺に集まり、断りきれず透利さんに打診したところ……人を撮るのが苦手だと言っていたのにも関わらず、透利さんは二つ返事で快諾してくれた。俺が透利さんと正式なパートナーシップを結んでいることを伝えてからは、腫れ物に触るようだった雰囲気もどこか丸くなって、あたたかく受け入れてもらっている。 本来なら、透利さんの事務所では人物に関する撮影は引き受けていない。だ
Last Updated: 2026-07-27
Chapter: 【番外編⑨】再会と抱擁の先 本来なら翌日の昼前に帰宅するはずだった透利さんが、『今から行く』という短いメッセージを送って実家に現れたのは、夜七時を過ぎた頃だった。 突然の前倒しに、お義母さんと透花さんは「もう、あの子ったら!」と呆れ顔だったけれど、お義父さんだけは「来ると思っていたよ」と、どこか嬉しげに笑みを浮かべていた。「透利の支払いで、うな重の特上を五人前頼んでおいたぞ」 お義父さんが事もなげにそう言い放つと、お義母さんと透花さんは顔を見合わせて、またしてもお腹を抱えて大爆笑した。「まぁ、それにしても。あれだけ男前な会見なら、マスコミももうこれ以上は騒ぎ立てないでしょう」 透花さんの言葉に、帰宅して早々に同じ食卓についた透利さんは深く息を吐いた。「……弁護士と、かなり考え抜いて文面は作ったから。まぁ、最後が質疑応答で多少なりとも空気が和らいだのは、結果として良かったかな」 透利さんはお茶を一口すすると、会見の疲れがどっと出たのか、深い溜息をついた。 あの会見の後半、記者たちから「お相手の方」についての質問が飛んでいたことを思い出す。出会いや、プロポーズの言葉について――そんな少しだけ砕けた質問に対し、透利さんは「それは答えられません」と毅然と断ることもあれば、俺との初対面の印象や、俺のどこを尊敬しているのかという問いには、何の淀みもなく、心からの言葉で答えていた。「……あー、腹いっぱい。父さん、晩酌は明日の夜付き合うのでもいい?」 「構わないよ。珠依くんの晩酌がないのは寂しいがね」 お義父さんの冗談めいた返答に、透利さんは「久し振りに会う息子より気に入ってないか?」と毒づきつつも、急かすように俺の手首を引いて立ち上がった。その強引な力に、俺は少しだけたじろぐ。 部屋を出ようとすると、キッチンからデザートの柿を運んできた透花さんが、がしっと透利さんの腕を掴んで制止した。「あんた、ちょっと目が血走ってるわよ。珠依くんに無理させたら駄目だからね?」 「はぁ!? つーかそういうの、親の前で言うなよ……!」 「うるさいわねー、男子高校生みたいにソワソワしててダサいから言ってんのよ。いいから、今日はアタシが和室で寝るから。どうぞ久しぶりの再会を熱く分かち合ってね」 ウフフ、とわざとらしく微笑む透花さんに、透利さんは顔を真っ赤にして『行こう』と俺の手を引っ張り、逃
Last Updated: 2026-07-26
Chapter: 【番外編⑧】透利さんの記者会見 透利さんの実家にお世話になってから、五日が経過した。マスコミ各社を集めての記者会見は予定通り開かれ、その様子は複数の主要テレビ局で生放送されることになった。 透花さん、お義母さん、お義父さんと共にテレビの前のソファーに並び、俺たちは固唾をのんでその様子を見守る。『フォトグラファーの浅野氏、アウティングに関する記者会見を予定』 ――数日前からネットニュースはこの件一色で、世間の関心は想像以上に高いようだ。 SNSは極力見ないようにしていたけれど、ニュースアプリのコメント欄が瞬く間に五千件を超えていた、と透花さんが溜息まじりにボヤいていたのを思い出す。 会見予定時刻ぴったりに、黒のスーツを纏った透利さんが現れた。その背後には、弁護士らしき人物が控えている。 代理人を前に立てず、自分自身の言葉で語ることを選ぶあたり、いかにも彼らしい決断だった。『それでは只今より、浅野透利氏によるマスコミ各社へのアウティングに関する記者会見を始めます。本日、司会進行を務めさせていただきますのは……』 長机の前に座り、静かに前を見据える透利さんに、一斉に無数のフラッシュが焚かれる。 普段は星空を追いかけるためにカメラを握っているはずのパートナーが、今はカメラを向けられる側として座っている――その光景は、見ていてひどく不思議で、胸が締め付けられるような感覚だった。『本日は、ご多忙の折、わたくしのためにお時間を割いていただき、誠にありがとうございます。本来であればこのような形でお騒がせするつもりはございませんでしたが、自身の言葉で事実をお伝えしたく、本日の場を設けさせていただきました』 透利さんの落ち着いた挨拶を聞いて、隣に座る透花さんの目がすっと鋭く細められた。『今回の週刊誌による一連のアウティング行為について、私の見解を述べさせていただきます。まず、各社より届いておりました質問状につきましてですが、当初、わたくしはこれらのプライバシーに関わる事項について回答する意思はございませんでした。私という人間は公の場で活動しておりますが、自身の恋愛や、誰を愛するかということは、私人として等しく守られるべき領域であるという強い認識を持っていたためです。 また、先日の報道では「保育施設」との記載がございましたが、これについては明確に訂正させていただきます。私とパートナーシップ制
Last Updated: 2026-07-25
Chapter: 【番外編⑦】会えない時間『珠依の顔も見たい。……もっとちゃんと映してよ』 透利さんのその言い方は、甘えるようでいて、どこか有無を言わせない強制力があった。 焦らすつもりなんてなかったけれど、自分の顔を直接レンズに晒すのは、いつまで経っても気恥ずかしい。 パートナーとして過ごす日々、透利さんが出張先からビデオ通話をせがむのはいつものことだ。 そしてその結末が、最終的にお互いのあられもない姿を画面越しにさらけ出すことになるのを、俺はよく知っている。(……今日は、絶対にダメだ。絶対に!) ここは透利さんの実家なのだ。一応ドアには鍵をかけているとはいえ、自分の心の中にいる理性が『今は、絶対にしてはいけない』と必死に警鐘を鳴らしていた。 そんな俺の緊張など露知らず、インカメに切り替わった俺の顔を見るなり、透利さんの意地悪な笑みが炸裂する。『……何でそんなに、顔が赤くなってるの?』 「そ、れは……ちょっと、部屋が暑いだけです」 『エアコンついてるはずだけど。ほら、入口のところにリモコンあったでしょ?』 「あっ……本当だ。ちょっとつけてきますね」 逃げるようにベッドから降り、リモコンの元へ歩みを進める。 火照る顔を冷たい空気で誤魔化そうと深く息を吐いたけれど、その不自然な動作一つで、透利さんは俺の動揺をすべて見透かしていた。『珠依……もうちょっと下、映してよ』 「だ、だめ。今日はその手には乗りませんから」 『ええっ? 何か、俺がいつも悪いことをさせてるみたいな言い方だな』 「実際、いつもそうじゃないですか。今日は絶対にダメ……」 言っているそばから、画面越しの透利さんの逞しい裸体に目を奪われる。 タオルがはらりと落ちた先、ズボンの布地がわずかに持ち上がっているのに気づき、心臓が大きく跳ねた。思わず息を呑んだ俺の様子を見て、透利さんはくくっと喉の奥で笑いを漏らす。『もしかして、ベッドの残り香だけで感じちゃった?』 「ち、ちがいます。全然平気……」 『俺は全然平気じゃない。早く会いたいし、触りたい。出張なら我慢もできるけど……今回は自分から距離を置く選択をしたせいかな。一日会えないだけで、すげー欲求不満だよ』 ストレートすぎる言葉にたじろぎ、慌ててスマホのボリュームを下げた。 廊下を挟んだ向こうには透花さんの部屋があるのだ。音漏れには細心の注意を払わなけれ
Last Updated: 2026-07-24
Chapter: 【番外編⑥】愛する人の家族「私たちはね、珠依くんにそんなふうに遠慮させるために、わざわざここに呼んだわけじゃないわ」 頭を垂れる俺の肩に、お義母さんがそっと手を添えてくれる。 その瞳には、これまでの苦悩を察するような切なさと、それ以上に深く包み込むような温かな慈愛が宿っていた。 「大事な息子が選んだパートナーが、心ない人たちにさらし者にされて、黙って指をくわえて見ているなんて……そんなこと、親としてできるわけがないでしょう? 今はまず、私たちができることとして、珠依くんが心から落ち着ける日々を過ごさせてあげたいの。お仕事のほうは、ちゃんと休みの手配はついているのかしら?」 「は、はい……。今まで年休をあまり使っていなかったので、残りをすべて消化するということで施設長とも話がついています」 「なら安心ね。万が一、ここまでパパラッチが嗅ぎつけてきたとしても、門のところで父さんがしっかり追い払うから。なんならアタシだって、熊手やシャベルを片手に、庭の番人として追い払ってあげるわよ!」 「母さん、それはさすがに野蛮すぎるわよ」 透花さんが苦笑して宥める横で、お義母さんは膝の上で小さく拳を握りしめている。 その姿には、透利さんと俺を守ろうとする強固な意志が表れていた。 「だって、許せないんだもの。こんなに痩せちゃって……! もう、本当に透利も透利だわ。『珠依くんを必ず守る』って、あんなに真っ直ぐな顔で私たちに誓ったくせに!」 お義母さんの溢れる憤りを聞き、胸が熱くなるのを抑えられない。 そんな中、向かいに座るお義父さんが、ふと穏やかな視線を俺に向けてきた。目が合うと、深々と目尻を下げて優しく微笑まれる。 「私も同じ気持ちだよ。記者がうろつくようなら、ホースで水を撒いて追い返してやろうかと思っていたんだ」 「ちょっと、父さんまで何言ってるのよ……。そんなことしたら、『過激な実父』なんて書かれてニュースになっちゃうわよ」 透花さんの二度目のツッコミにも、お義父さんはいたって真剣な表情を崩さない。 「異常だって? なんとでも言えばいいさ。守りたいもののために汚名を着るくらい、親なら当然の覚悟だ。世間がどんなに息子たちの幸せを面白おかしく書き立てたとしても、ここには変わらない生活と、家族の愛がある」 お義父さんは胸ポケットから一枚の紙をスッと取り出し、俺と透花
Last Updated: 2026-07-23
Chapter: 【番外編⑤】透利さんの実家で あの後、俺は周囲の喧騒を避けるように、透利さんの実家へと身を寄せることになった。 これからの一週間、慣れない環境に身を置くことへの緊張で、自然と顔が強張ってしまう。「珠依くん、お待たせ。さぁさぁ、早く乗って」 ちょうど長期休暇中だった透花さんが迎えに現れたのは、真っ赤な外車のオープンカーだった。 初夏の風を切るエンジン音が、閑静な住宅街でひときわ異彩を放っている。パパラッチの影に怯え、じめじめと湿っぽく沈んでいた俺の気分を吹き飛ばすように、透花さんは「アタシは何を書かれたって平気よ」と快活に笑い、アクセルを軽く煽った。「うわっ、透花さん、スピード!」 「大丈夫大丈夫、法定速度はちゃんと守ってるから! あっ、でもシートベルトはしっかり締めておいてね? あたし、トロトロ走る車はガンガン追い越していくタイプだから」 「う、あ、はいっ……宜しくお願いします」 俺が命を預ける思いでいつもより数段強くシートベルトを締め直すと、透花さんはサングラスの奥でいたずらっぽく目を細める。蛇行するように細い道を抜け、パパラッチの追跡を撒くように何度も鋭いハンドル操作を繰り返してから、高速道路の流入路へと一気に躍り出た。***「珠依くん、久しぶり。長距離移動でお疲れでしょう? さあ、ゆっくりしてね」 目的地に到着すると、玄関先にはお義母さんとお義父さんが温かな笑顔で待っていた。 久方ぶりの再会に、強張っていた胸の奥がふわりと緩む。車を降りて改めて見上げた透利さんの実家は、俺の想像を遥かに超えた邸宅だった。(……これ、本当に家、なのか……?) 重厚な門構えからして、俺の知る「一般家庭」の定義とは一線を画している。 整備された庭園の奥には、周囲の景観を圧倒するような、広大な平屋の屋根が横たわっていた。 ぽかんと開いてしまいそうな口を必死に閉じ、圧倒されるような思いでその佇まいを見つめ続けた。「こっちが透利の部屋よ。帰省のたびに片付けはしていたみたいだから、珠依くんの個室として使ってね。記者会見が終わったら、透利もこちらに戻ってくる予定だし……アイツが来る前に、こっそり卒業アルバムでもチェックしておいたら?」 透花さんにそう茶化されると、俺は「そんな!」と慌てて手を振って否定する。 けれど、内側では好奇心が疼いていた。学生時代の透利さん。知らない頃の彼を、
Last Updated: 2026-07-22