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五慈あおい
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Nobela ni 五慈あおい

死ぬほど大嫌いな幼馴染と、政略結婚することになりました。

死ぬほど大嫌いな幼馴染と、政略結婚することになりました。

全寮制男子校・鳳里学園で生徒会長を務める後堂冴(攻め)と、副会長の香月美森(受け)。 幼馴染で名家の跡取り同士の二人は、そのカリスマ性と美貌から、一般生徒たちからの羨望の的だった。 美森に幼少期から片想いを寄せる冴は、気を引くために幼等部の頃から意地悪し続けた結果、美森は冴のことが「死ぬほど大嫌い」になってしまう。 そんなある日、犬猿の仲であるは、父親たちから「政略結婚」を強制されて……? 不器用でクールな「十年越しの執着」を拗らせる俺様会長×強気毒舌美人副会長の熟成系&愛憎ドロドロのラブストーリー。
Basahin
Chapter: 第95話 新婚旅行編①
【――同棲開始・プロポーズから数年後】 美森との二人暮らしが始まってから、早三度目の春が巡ってきた。 この小さなアパートでの生活にも、いつの間にかすっかり馴染んだ。慣れない環境に振り回されて熱を出したり、体調を崩したりすることも、めっきり少なくなった。 俺の塾講師のアルバイトと、美森のフラワーアレンジメントの非常勤講師。互いの稼ぎを合わせても、いまだに贅沢な暮らしとはとても言えない。それでも慎ましく、節約を重ねるこの日々の中で、俺たちはいつしか「ささやかな幸せ」を言葉にしなくても自然と共有できるようになっていた。 ふと思い立って、自分の預金通帳と一緒に、引き出しの奥から眠っていたもう一冊の通帳を取り出す。 早くに亡くなった母の遺産。あの切迫した逃亡生活のただ中で、一度はすべてを下ろして使おうとしたお金だ。その後、美森に「もうそのお金には手を付けないで」と静かに諭され、少しずつ、少しずつ預け直したものだった。 いつか俺にやりたいことができた時のために、と彼は言う。自分のことよりも、俺の未来を先に考えてくれるその優しさに、改めて美森らしさを感じてしまう。(……本当なら、このお金は、あいつの幸せのためにこそ使いたい) そう心の中で呟いて、俺は静かに通帳を閉じた。「冴、電話鳴ってるよ」 「あぁ、玲央だと思う。……ちょっと向こうで話してくる」 向こう、と言ってもそれほど広い部屋でもないので、扉を閉めたところで声が完全に消えるわけではない。それでも、なんとなく美森にはまだ聴かせたくなくて、俺は出来るだけ声をひそめながら通話ボタンをタップした。 「おぉー、冴。元気してたか? ごめんな、そっちはもう夜遅いのに」 「時差があるんだから仕方ないだろ。そっちこそ、うまくやってるのか」 「あぁ、毎日楽しくやってるよ。インスタやってんのに、お前全然見てくれてないじゃん」 「生憎、そういうのを覗きたいと思ったことが一度もない。……美森はちゃんとチェックしてるみたいだけどな」 玲央は今、ニューヨークでMBAの取得を目指して留学中だ。先にドイツへ渡った苑真の後を追うように、大西洋を越えていった。親父さんの跡を継ぐことを見据えれば、自然な選択ではある。その明るさの裏に親との軋轢を抱えていた時期もあったが、高校を出てからは少しずつ折り合いをつけ、今はうま
Huling Na-update: 2026-06-15
Chapter: 第94話 君へのプロポーズ
美森は人生で初めての「節約」にも凝り始めた。遠くの店まで自転車を走らせる。俺が仕事から帰ったとき、少しでも食べ応えを感じられるようにと、安価な食材を工夫して献立を考えてくれる。 キッチンに立つ背中は、それまで見たどんな姿よりも真っ直ぐで、一生懸命だった。「あーっ! 冴、見てよ。芽が出てきた」 ベランダで育て始めたサラダ菜に、慈しむように水をやる姿。 サロンの仲間に感化されて「今度は糠床を育ててみたい」なんて照れ臭そうに語る横顔。 そのどれもが、今までにないくらい愛らしかった。 これ以上の愛情がこの世にあるなんて、俺には思えない。 自分の飯を一食抜いてでも、帰り道に一輪の花を買ってやりたい。 美森がショーケースの前で足を止めていた、あの好物を買ってやりたい。 一刻も早く、もっと余裕のある暮らしをさせてやりたいと焦る一方で、俺はこの静かでささやかな平穏を、何よりも尊く感じていた。 世間が求める豊かさとは違うかもしれない。 けれど、この狭い部屋の中で、俺と美森は、間違いなく満ち足りていた。 ……ただ、一つを除いて。「美森」「ん? どうしたの」 カレーの皿を洗い終えた俺は、畳の上にぺたんと座る美森の正面に腰を下ろした。 窓の外では、春を待つ静かな夜風がそよいでいる。「話がある」 俺の真剣な声に、美森は居住まいを正すと、少し緊張した面持ちで「なに?」と首を傾けた。「……俺たちがまだガキだった頃。お前は『ずっと大好きだったら、結婚と同じことだよ』と言ったよな」「それ……まだ覚えてたの?」 少しだけ照れたように、はにかむ。 その柔らかな微笑みを、俺はもう二度と逃したくないと、失いたくないと思いながら見つめていた。「……俺は、この国で法的に認められないからといって、妥協したくない。お前と本当に籍を入れたいんだ。海外へ行って、夫婦として正式に結婚したい。……要するに、実生活のすべてにおいて、お前と分かちがたく結ばれたいと思ってる」 俺は鞄から小さな箱を取り出すと、それを開き、美森へと向けた。慎ましいアパートの照明の下で、白く、強く、純粋な光を放つプラチナの輪。 これを手渡せるようになるまで、随分と遠回りをしてしまった。 かつての金銭感覚なら、一日の小遣いで買えたかもしれない指輪。 けれど、自分の力で働いて用意し
Huling Na-update: 2026-06-14
Chapter: 第93話 暗い時間をぬけて
ただ、暗い部屋の隅で膝を抱え、嵐が過ぎ去るのを待つ小鳥のように、ひっそりと息を潜めていただけ。 そのあまりに静かで献身的な絶望こそが、傍にいる俺の心を、どんな叫び声よりも激しく揺さぶり続けていた。 一方で、黒瀬と羽鳥は、謝罪の一つもないまま海外の兄弟校へ「留学」という名の逃げ道を辿った。 彼らの親も、愛息の人生に「誘拐」や「窃盗、盗撮」といった噂が付くのを恐れたのだろう。 最後に俺が黒瀬と顔を合わせて話したのは、祈里さんたちと四者で話し合いを終えた後。学園の生徒会室でのことだった。『……失礼します。私に話があると、お聞きしたのですが』『とりあえず座れ。……単刀直入に訊く。お前が俺の後を継ぐ意思があるかどうか知りたい』『……今、そのようなことを悠長に話していられる余裕がおありで?』『ない。お前の顔を見るくらいなら、美森の傍にいる時間を一秒でも多くしたいくらいだ。……けれど、いずれにせよ次に生徒たちから指名されているのはお前だ。名前が挙がっているうちは候補として検討しなければならない。お前の意思確認も含めてな』 次期生徒会長に選任されていたものの、美森の心を完全に手に入れることは出来ないと悟った黒瀬は、その打診を断った上で、生徒会室を出て行った。 そんなやりとりから一ヶ月もしないうち――学園を去った黒瀬には、どんな謝罪も、愛の言葉も届かない自覚があったらしい。 俺への恨み言ひとつ言わず、どこか心は別の場所にあるかのような表情だった。 そうして、黒瀬との婚約は、後堂家が違約金を肩代わりすることで清算された。 美森の父・祈里さんは、精神的な失調を理由に当主の座を退き、今は長男の百合さんと、次男の雲雀さんが、傾きかけた香月家を立て直そうと奔走している。 そして、俺の父親は――。 祈里さんの執着的な愛を満たすべく、毎日その入院先を訪れ、病棟で献身的な看病に明け暮れているという。 祈里さんは記憶が乖離する症状があり、日によっては自分を高校生だと思い込んで父に甘えることもあるらしい。 自分に子供がいること、もう十数年の時が経っていることを理解することは、難しいようだった。 心を病んだものの、片時も離れない恋人を手に入れた……それは、ある意味彼の求めていた「究極の愛」が叶ったのかもしれない。 父はこれまでの埋め合わせをする
Huling Na-update: 2026-06-13
Chapter: 第92話 そして僕たちの未来
「……祈里、二人で話そう」まるで壊れた人形のように抱えられ、よろめきながら奥へと去っていく父さんの後ろ姿。俺は、その頼りなく細くなった背中が、重苦しい闇の奥へと吸い込まれていくのを、ただ静かに見送っていた。自分の腕に残る、父さんがつけた痣の熱。肌が焼き切れるようなその感覚を、俺はもう一度だけ強く噛み締める。この痛み、そして紫色の痣は、あまりにも歪で凄惨な結末――俺たちに向けられた、あまりに冷酷な|餞別《せんべつ》となってしまった。「美森」冴の低く、静かな声が、凍りついていた俺の意識を現実へと引き戻す。広い香月の応接間には、もう誰もいない。父親たちの罵声も、張り巡らされていた監視の目も、家柄という名の分厚い鎖も、今はもうどこにもない。その事実が不意に胸を突き上げ、俺は溢れ出す涙を止める術を失った。「…………冴……っ」冴の胸元に顔を埋め、その首筋に必死にしがみつく。「……っ、お前がどんなものより愛おしい」冴は心から、ほんとうに心から込み上げる想いを、言葉で紡ぐようにして言った。二度と離すまいと、爪が食い込み、指先が白くなるほどそのシャツを掴み、喉を鳴らして泣く。冴の体温。肌の匂い。力強く、逃がさないとばかりに俺を抱き返すその腕の感触。そのすべてが、どれほど世界が敵に回ろうとも、これだけは嘘ではないという真実の愛として俺を包み込んでくれる。何もかもが引き裂かれた果てに、ようやく辿り着いた静寂。俺たちの未来がどうなるのかは分からない。けれど、今こうして冴の心音を聴いていることだけが、俺にとっては何にも代えがたい幸福だった。***【 side:後堂冴 - 数年後 - 】「ただいま」 三月の中旬。冬の肌寒さがしぶとく残る時期、俺は古びたアパートのドアノブを回した。 一歩踏み込めば、そこには一気に春を先取りしたようなあたたかい空気が満ちている。 キッチンに立っていた美森は、湯気の上がった鍋をかき混ぜながら、柔らかな表情で顔を上げた。「おかえり、冴」 その朗らかな顔を見るだけで、外の世界で張り詰めていた胸の奥がふっと緩むのを感じる。 マフラーとコートをハンガーにかけると、吊戸棚から皿を取ろうとする美森の背後から手を伸ばした。「ほら」 代わりにとって手渡すと、「ありがとう」と穏やかな声が返ってくる。 鞄から空の弁当箱を
Huling Na-update: 2026-06-12
Chapter: 第91話 祈里と嶺
「嶺……お前の息子だろ、どうにかしろ!」 そのか細い、泣き声のような叫びに、冴の父は顔を歪めた。「お前が、俺への愛を示すために、永久に愛し続けると言った。……子供同士を結婚させて、家同士を繋ぎ、生涯俺たちが繋がる『印』を残すと言った……っ! お前の妻……あの役に立たない“孕み袋”の代わりに、俺が三人も種を植え付けさせられた。大金を払って違法な遺伝子操作までして、女が産まれるように調整もした……! その結果が、このザマだ」 その告白に、俺は血の気が引くのを感じた。 俺が生まれてきた理由さえも、父親同士の歪んだ愛を繋ぎ止めるための「道具」でしかなかったと、突き付けられたから。「お前は金に目がくらんで黒瀬と羽鳥の息子をあてがったが、それすら今、縋ることはできない。……お前は後継者を持てず、香月には金も齎されない。なあ、……この状況で、お前はどうやって、俺に死ぬまで愛してるって、結びつきが解けないって示してくれるんだ!?」 父の叫びが、豪奢な応接間の空気を切り裂く。 家門の断絶。愛の破綻。築き上げてきたすべてが砂の城のように崩れ去っていく中で、父さんは虚空を見つめ、ひきつった笑い声を漏らした。その瞳にはもはや理性の光はなく、ただ真っ黒な執着だけが、瞳を濡らしている。「俺を死ぬまで愛すと言ったよな 」 父さんは笑いながら、冴の父の胸ぐらを掴み、その端正な顔に自分の顔を近づけた。「……祈里、落ち着いて」 慈しむような、けれどどこか冷めた声で宥める。その声が、心のなかに火をつけたようだった。 父さんの指が、冴の父さんの首筋に食い込み、血管が浮き上がる。その形相は、かつての冷静な当主としての面影を完全に失っていた。「俺のことを本当に愛してるなら……今すぐここで死ね。俺の目の前で。お前の命が尽きる瞬間、その瞳に俺だけを映して死ね! 俺のためなら命なんか惜しくないってことを、今、その喉を掻き切って証明してみせろよ!」 狂気に満ちた叫び。父さんはテーブルの上にあったペーパーナイフを掴んだ。 自分への愛を信じられない不安を、相手の死でしか埋められない――それは、あまりにも歪で、あまりにも純粋な深淵だった。 冴は、自分の父親の首を絞めるようにしてネクタイを引っ張って発狂する俺の父と、その狂気を憐れみの混じった眼差しで見つめ続ける自分の父を、静かに見つめ
Huling Na-update: 2026-06-11
Chapter: 第90話 親子同士の対話
海辺で引き裂かれてから、空白の二週間。 俺は父さんの制止を振り切り、痣だらけの身体を軋ませて階段を駆け降りた。 玄関ホールには、苦虫を噛み潰したような顔の冴の父と、その横で、凍てつくような静寂を纏った冴が立っていた。「折り入ってお話ししたいことがあります。――当事者、四人で」 冴の声は、逃避行の時よりも低く、そして重い。 案内を待つこともなく、彼は迷いのない足取りで応接間へと踏み込む。扉が閉まり、室内には刺すような沈黙が満ちると、俺の隣に座った冴はテーブルの下で、震える俺の手を力強く握りしめた。「羽鳥の実家、その裏金問題と不透明な資金源をすべて洗い出しました。後堂があの一族と縁を結ぶメリットは皆無です。……ですから俺たちは婚約を正式に破棄した。そして祈里さん。あなたが選んだ黒瀬に関しても、それ以上に致命的な『毒』があります」 父は鼻で笑い、優雅に脚を組み替える。 冴は射抜くような視線を真っ直ぐに父へ向け、淡々と話し出した。「黒瀬宗近の息子……宗佑が、全てを俺に吐きました。真の目的は、香月の解体と乗っ取りだ。美森との結婚を皮切りに、百合さんと雲雀さんにも罠を仕掛け、内部から香月を食い破る。……そして、黒瀬の父親の最終的な標的は、他でもない、あなた自身だ」 父の喉が、ひくりと大きく鳴った。 「あの一族は、かつてあなたが彼らを切り捨て、屈辱を与えたことを片時も忘れていない。すべてを奪い、尊厳を剥ぎ取り、息子の宗佑が美森にそうしたように……あなた自身を捕らえ、足の立たない檻で飼い殺すこと。それが彼らの描いた復讐の全容だ」 応接間に、父の浅く、狂ったような呼吸音だけが響く。 かつての恋敵からの歪んだ執着を突きつけられ、父の瞳は焦点の定まらないまま虚空を彷徨い始めた。「……それで、君は一体どうしたい? また美森と君が結婚すれば気が済むのか。ならば、そうすればいい。香月だって、黒瀬という泥舟より、後堂という盤石な盾を選ぶだけのこと」 形勢不利と見るや、即座に息子を「盾」として差し出そうとする父さんの浅ましさ。 冴は握る手にさらなる力を込め、宣告を突き立てた。「ああ、俺たちは結婚する。だが、この婚姻は一切、世間に公表しない。香月と後堂の繋がりを誇示するパーティーも、醜悪なビジネスの提携も、すべてこの俺が拒絶する。そして――」 冴の声が、
Huling Na-update: 2026-06-10
バ先のダウナー男子に、気付けば毎日溶かされています。

バ先のダウナー男子に、気付けば毎日溶かされています。

人生初のアルバイトで、憧れのアイスクリーム店の店員として働くことになった小瀧南緒(こたきなお)。 しかし、そこで小瀧の指導係になったのは、やる気なし・面倒くさがり・しかも超意地悪な同い年の佐伯澄人(さえきすみと)だった。 お互いにいがみ合いながらも、佐伯は何だかんだと仕事を教えてくれて、勤務初日から距離も近くて……? 好きな子にだけ押しが強めの口悪ダウナー攻め×翻弄されまくりの愛され平凡受けの物語。
Basahin
Chapter: 第94話 大好きなバ先
この時間帯は本来休みのはずなのに、高橋くんと橋本くんがわざわざ店に顔を出してくれていて。 女子バイトの子たちも、花束を抱えて「おかえり小瀧くん!」と口々に言ってくれる。 その空気があまりにもあたたかくて、胸が詰まりそうになった。 ひと通り挨拶を終えると、俺と佐伯は店長と本部のお偉いさんに呼ばれて、奥の個室へと通された。「……小瀧くん。本当に、いいんだね?」 慎重な声色。俺は一度、深く息を吸ってから頷いた。「はい。その……確かに怖い思いはしましたけど。俺の対応の仕方も、今思えばもっとやりようがあったのかなって考えることもあって」 言葉を選びながら、ゆっくり続ける。「それに、このお店に嫌な噂が流れるのも嫌で。俺は……前みたいに、みんなで楽しく働きたいんです。できるだけ、日常に早く戻りたい」 言い切った瞬間、少しだけ心臓が強く脈打った。 隣を見ると、佐伯はまだ納得しきれない表情をしていた。 それでも口を挟まず、俺の意思を尊重してくれているのが分かる。 店としての対応や今後の方針を改めて話し合い、結果的に被害届は取り下げることになった。 但し――加害者の二人は、今回の件だけではなく、これまでの余罪を追及され、今も勾留されていると説明された。 外から見て狙いを定め、閉店後に店員の親切心に漬け込み、脅して暴力を振るい、防犯カメラを破壊して逃げる……というのを繰り返していたらしい、店長が、こぼしていた。 治療や入院にかかった分の費用は加害者に請求され、さらに店側からもお見舞金が支払われて――正直、十分すぎるほどの補償だった。 個室を出る時、少しだけ肩の力が抜けた。 橋本くんも、表向きは元気そうにしていたけれど。 あの出来事のあと、ひどく自分を責めて、短い期間とはいえ眠れなくなり、バイト中に突然泣き出してしまうこともあったと、人づてに聞いた。 でも、今も隣にちゃんと高橋がいる。 何も言わなくても、その距離感や視線のやり取りを見れば、支え合っているのが分かった。 だから、俺も佐伯も、あえて何も言わなかった。「……じゃあ、無理のない範囲で、今日からお願いね。重いものは佐伯くんにお願いして。それから――」 店長の言葉を遮るように、佐伯が静かに立ち上がった。「すみません、店長。俺から、ひとつお願いがあるんですけど」 手にし
Huling Na-update: 2026-06-15
Chapter: 第93話 寄り添う心
夜は、同じベッドに並んで、キスを一回だけ。 横向きになると眩暈がするから、腕枕はしばらくお預けだった。 それだけが少し寂しかったけれど、不思議と「孤独」を感じることは一度もなかった。 佐伯が、いつもそばに居てくれたから。 でも眠った後、俺は、あの日と同じ夢を繰り返し見ることがあった。 掴まれる感触。怒鳴り声。 床に倒れた時の、身体が追いつかない衝撃。 断片的なのに、目が覚めた瞬間、心臓が喉まで跳ね上がって、息ができなくなる。「南緒」「――っ、やめて、離して! 触んないで!」「南緒、大丈夫だから。俺のこと見て、目ぇ合わせて」「こっち来ないで……っ」 どんなに疲れていても、真夜中でも、佐伯は必ず目を覚ました。 状況を聞こうとはしない。理由も探らない。 ただ、背中に手を置いて、一定のリズムで撫でてくれる。「夢だから。……ここは、俺の家だよ。今は、俺と南緒しか居ない。誰も入れない。だから大丈夫、安心して」 そう言いながら、何度も、何度も。 俺の呼吸が整うまで、離れずに抱きしめてくれた。 日によっては、お粥すら喉を通らない日もあった。 急に眩暈がして、ベッドから降りただけでしゃがみ込んでしまうこともある。 時間をかけて作ってくれたものを、一時間も経たずに吐いてしまった日もあった。 それでも佐伯は、嫌な顔ひとつしなかった。「……薬だけ、取ってくるから待ってて」 そう言って、額に手を当てて熱を確かめて、 俺の身体を最優先にしてくれた。 ――けど。 日中、ひとりで居るとインターフォンの音だけで、 どうしようもなくパニックを起こした日もあった。『ただいま、保険の営業でこちらのマンションを周らせて頂いているのですが――』 ベッドからそっと降りて、パネルのスピーカー越しに聞こえてきた低い男性の声が、店での出来事を甦らせた。 鍵を壊されて、ドアが開いたらどうしよう。 無理やり、押し入ってくるかもしれない。 距離を詰められて、腕を掴まれて、また――。 気づいたら、スマホを握りしめていた。 画面を開く手が震えて、文字を打つのにも時間がかかる。 《すみと》 《誰かきてこわい》 《はやく帰ってきて》 それだけ送るのに、何度も打ち直した。 午後の講義を全部休んで、佐伯は帰ってきてくれた。
Huling Na-update: 2026-06-14
Chapter: 第92話 ふたりの家
無事に退院して、そのまま俺は佐伯の部屋に身を寄せることになった。 母さんと何度か話し合って決めたことで、俺の部屋はベッドも小さくて動線も悪いし、日中は佐伯が大学に通うことを考えると、何かあった時すぐに対応できる方がいい――そういう、現実的で優しい判断だった。 玄関を開けた瞬間、ほんの少しだけ懐かしい匂いがして、同時に胸の奥がふわっと温かくなる。 何度も来ていたはずなのに、「これからここで過ごす」という意識が加わるだけで、見える景色が変わるのが不思議だった。 部屋に案内されて、すぐに佐伯がしてくれたことに気づく。 ベッドの位置が変わっていて、動かなくても手が届く範囲に、水、薬、リモコン、スマホの充電器。 椅子の位置も、立ち上がらなくていいように微妙に寄せられている。 ……全部、俺のためだ。 考えるまでもなく伝わってきて、喉の奥が少しだけ熱くなる。 期間限定とはいえ、ちょっとした同棲みたいで。 体はまだ万全じゃないのに、心だけが先に浮き立ってしまって、隠しきれない嬉しさがじわじわと滲んだ。 だって、これから二週間。毎日、佐伯の隣にいられる。「飯は俺が作るからやんなくていい。掃除もするな。とにかく動くな。ここにある物以外で欲しいのがあったら、いつでもいいから俺を呼ぶこと。分かった?」 畳みかけるような指示は、口調こそ淡々としているのに、全部が心配から来ているのが分かる。 まるで主治医の先生みたいで、思わず小さく笑ってしまった。「はーい……」 返事をしながら顔を上げると、佐伯がベッドの横に腰を下ろす。 その瞬間、ふっと細く長い息を吐いた。 張り詰めていたものが、ようやく少しだけ緩んだみたいに。 でも、その瞳はまだ曇っていた。 後悔と、不安と、悲しさが、静かに居座っているのが分かってしまって――俺は自然と手を伸ばして、その手を握った。「……佐伯、色々してくれてありがとう」 その一言が、合図だったみたいだった。 佐伯は何も言わずに、俺の肩に顔を埋める。 体重がそっと預けられて、吐息が首元にかかる。 そして、押し殺すみたいな小さな声で、ぽつりと零した。「今はこんなことしか出来ないから」 弱音なんて、普段ほとんど見せない人なのに。 それだけで、どれほど追い詰められていたのかが伝わってきて、胸がぎゅ
Huling Na-update: 2026-06-13
Chapter: 第91話 母さんへのカミングアウト
佐伯の視線が、俺の手に落ちる。「佐伯が来てくれたから……橋本くんも、高橋も、なんとか無事だった。それだけで、十分だよ」 少し間を置いて、続けた。「……だから、自分で自分を殴るみたいに、責め続けるのは、もうやめて」 その瞬間、佐伯の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。 息を詰めたみたいに、目を伏せる。 それから、掴まれた袖の上に、そっと自分の手を重ねた。 その直後、控えめなノックの音がして、母さんが病室に戻ってきた。 佐伯は、床頭台の上に置かれた治療と退院計画の紙へ、そっと視線を落とす。「……叔母さん、退院準備の件って、もう南緒さんには――」 母さんは小さく頷いた。「ええ。さっきまで、ちょうどその話をしていて……」 そのやり取りの間、佐伯は俺の方を見なかった。 代わりに、静かに近づいて、俺の膝の上に小さな花束を置く。 淡い色合いの花。 派手ではないけれど、病室の白にやさしく映える。「……」 お見舞い、なんだろう。 けれど花瓶には、すでに昨日の花が活けてある。 ありがたさと同時に、申し訳なさが胸に溜まっていく。 言葉にしようか迷っているうちに、佐伯が母さんの方をまっすぐに見た。 背筋は自然に伸び、逃げも飾りもない。「俺が」 一拍置いて、はっきりと。「南緒さんの、身の回りの世話をするのは……ダメですか?」 空気が、少しだけ張り詰めた。 母さんが戸惑ったように視線を彷徨わせる。「佐伯くんのことは、もちろん信用しているけど……あなたも、まだ大学生でしょう? 息子の友達に、そこまでさせるなんて、申し訳なくて出来ないわ」 その言葉が終わる前に、佐伯は深く、静かに頭を下げた。「……すみません」 勢いのある動作ではない。 けれど、迷いのない、覚悟を伴った動きだった。 俺も母さんも言葉を失い、その姿から目を逸らせない。 頭を下げたまま、佐伯は続ける。「俺と南緒さんは、ただのバイト先の友人関係じゃありません」 そこでようやく、顔を上げた。「……恋人同士です。俺は南緒さんを、心の底から好きで、側に居たいんです。心配で……今は、片時も離れたくないんです」 その声は驚くほど静かだった。 けれど、逃げ場を一切残さない、真っ直ぐな言葉だった。「お願いします。南緒さんの看病を、俺にさせてください」 佐
Huling Na-update: 2026-06-12
Chapter: 第90話 病院のベッドで
目が覚めたら、白い天井があって、ベッドの上だった。 あの後の記憶は、ほとんど残っていない。 救急車に乗ったことも、病院に運ばれたことも、断片的なイメージがぼんやりと浮かぶだけだった。 実家から新幹線で慌てて駆けつけたらしい母さんが、ぽつぽつと状況を教えてくれた。 俺はあの時、後頭部と首を強く打ちつけたことで脳震盪を起こし、さらに頸椎を捻挫していたらしい。 吐き気が出たのは、毛細血管に傷がついたことが原因だという診たてだった。 幸い、命に関わるような大事には至らなかった。 けれど、あと二センチずれていたら、目の神経が傷ついていた可能性もある、と医師に言われたそうだ。 退院後も、自宅で二週間ほどは安静にしていなければならない、とも。「……佐伯くんがね」 母さんは、少し言いづらそうに視線を落とした。「おとといの夜、すぐに電話をくれて。ここに着くまでも、着いてからも、何度も謝られたわ」 その声には、ためらいが混じっていた。「『リーダーとして指示した自分が悪い、助けに行くのが間に合わなかった自分のせいだ』って……謝罪と、その言葉ばっかり、繰り返して」 母さんにとっても、その時の佐伯の様子は強く印象に残ったらしい。 小さくため息をつき、肩を落とす。 佐伯は、悪くないのに。 誰よりも早く動いて、誰よりも守ろうとしてくれたのに。 それでも佐伯は、自分を責め続けていたらしい。 母さんがどれだけ「あなたのせいじゃない」と否定しても、頑なだったと聞かされて、胸の奥がきゅっと縮んだ。「……大学には事情を説明してあるから、しばらく休むとして」 母さんは、話題を切り替えるように続けた。「本当は、実家に連れて帰りたいところなんだけど……先生が言うには、負担になるから、長距離の移動はしちゃいけないらしいのよ」 少し困ったように、眉を下げる。「でも、私もこれ以上仕事を休めないし、父さんと今は一緒にいる理緒も……すごく不安がってるから……」 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。 自分のことで、家族にまで負担をかけている。それが、どうしようもなく申し訳ない。 俺は、できるだけ明るく見えるように、母さんに笑顔を向けた。「俺は平気だから。もう帰って、理緒の側にいてあげて? 自分の部屋で、大人しくしてるからさ。また具合が悪くなったら、タクシ
Huling Na-update: 2026-06-11
Chapter: 第89話 朦朧とする意識
「ち、違う。全然大丈夫だから。それより、橋本くんの方が……怖かったでしょ」 橋本くんは下唇を噛みしめながら、何度も首を横に振る。「でも……小瀧さんが、守ってくれたから……」 その一言で、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。 本当に、良かった。心の底から、そう思う。 けれど、隣で高橋が、苦しそうな表情のまま言った。「……唯を守ってくれて、ありがとう」 その言葉が、どうしようもなく胸に刺さる。 俺は慌てて笑顔を作った。 守れたのか、守れていなかったのか――分からない。 だって、俺の目の前で、橋本くんが身体を弄られたのは、紛れもない事実なのだから。「……橋本くんが連れて行かれなくて、本当に良かったよ。親切心につけ込んでくる、ああいう卑怯な奴っているからさ。今度から気をつけなきゃね。それより今日の夜シフト、女の子たちがいなくて本当に良かっ――」 言い切る前に。 横から、両手をぎゅっと包み込まれた。 思わず言葉を失って、二度、ゆっくり瞬きをする。 顔を上げると、佐伯が俺をじっと見つめていた。「もう喋んな」 静かな声だった。 目を逸らさず、冗談も混じらない、真剣な表情。「……手、震えてる。怖かったんだろ。あんなの、怖くて当たり前だ。隠すなって」 その一言で、初めて気づいた。 自分の手が、指先が、小刻みに震えていること。 肩も、呼吸も、全部がまだ緊張したままだったこと。「あ……」 喉が詰まって、それ以上言葉が出てこない。 顔を上げることも、できなかった。 そのタイミングで、警察官が事情を聞きたいと、橋本くんと高橋を呼びに来る。 二人は何度もこちらを振り返りながら、廊下へ出ていった。 バックヤードに残ったのは、俺と佐伯だけ。 ドアが閉まる音。 外の喧騒が一枚の壁を隔てたみたいに、少し遠のく。 その瞬間、佐伯は何も言わず、一歩近づいて――ぐっと、俺を引き寄せた。 胸に顔が埋まる。 腕が回されて、逃げ場のないほど近く、包み込まれる。 心の底から心配されているのが、その動作だけで痛いほど伝わってきた。 眉の寄せ方も、視線の揺れも、俺から一瞬たりとも離れない必死さも。 それを感じるほど、申し訳なさが込み上げてくる。 安心させたくて、口を開こうとした。 「平気だよ」とだけ、言えばいいはずだった。
Huling Na-update: 2026-06-10
元彼に「赤ちゃんが欲しい」と言われて、タオルをお腹に詰めてたら振られましたが、有名フォトグラファーの彼に愛されています♡

元彼に「赤ちゃんが欲しい」と言われて、タオルをお腹に詰めてたら振られましたが、有名フォトグラファーの彼に愛されています♡

カウンセラーとして働く珠依(しゅい)は、長年連れ添った同性の恋人から『やっぱ赤ちゃんって可愛いよな。あーあ、珠依が子供産めれば、俺たち完璧だったのにな』と告げられる。

 その言葉に影響され、バスタオルをお腹に詰め「妊婦の真似事」をしていた姿を彼に見つかり、別れを切りだされてしまう。 

心身ともに限界を迎えた珠依は休職し、カウンセラーとしての理性で自分の異常性を理解しながらも、現実逃避のために赤ちゃんの人形を相手に育児の真似事を始める。 そんなある日、赤ちゃんを抱いて外出中、自転車に乗った男性・浅野と衝突事故を起こしてしまう。 そこで差し出されたのは彼の「とんでもない優しさ」で……。
Basahin
Chapter: 第41話 恋人同士でするコト
浅野さんと俺が想いを通わせ合ってから、一ヶ月。 相変わらず仕事が忙しい彼は、一週間前から山形県の奥地へ撮影に出かけている。 そして、今夜はようやく、待ちに待った帰宅の日。俺は彼の大好物リストから豆腐ハンバーグを選び、種からこねて和風だしの餡まで手作りして、その帰りを今か今かと待ち構えていた。 「遅くなってすみません!」 駐車場から走ってきたのか、浅野さんは息を切らせて雪崩れ込むように入ってきた。 スリッパを履いて出迎えようとした俺に、彼はそれより早く歩み寄り、背中をぎゅっと強く抱き寄せる。 「浅野さん、おかえりなさい」 そう言っても返事はない。ただ俺の肩口に顔を埋め、深く、深く呼吸を繰り返している。 「な、何してるんですか……」 「吸ってます。はぁー……長かった。やっと、帰ってきたって感じがします」 ぽけーっとしたまま至近距離にある彼の顔を見つめる。数日ぶりの再会もあって、思わず見惚れてしまった。 匂いなんて言われて、『俺、まだお風呂に入ってないです』と慌てると、浅野さんはいつものマウンテンパーカーを脱ぎ捨て、目の前で長袖Tシャツの裾に手をかけた。 「なら、一緒に入ります? 風呂」 「へっ!? や、あの……それは……!」 真っ赤になって両手をぶんぶん振る俺に、浅野さんはふっと笑みをこぼして『どうしてダメなの?』と悪戯っぽく尋ねてくる。 良いとか、ダメとか以前の問題だ。そもそもまだ一緒にお風呂に入ったことなんてないし、キス以上のことだって未だ――。 そこまで考えて、ふと服を脱ぎかけた浅野さんの左手首が目に入った。 手首をぐるりと覆うように貼られた湿布。俺は思わず『えっ』と声を漏らす。 「浅野さん、それ……」 「あぁ、撮影中に山道で足を滑らせちゃって。大丈夫ですよ、折れてはいないですから」 「でも、ちゃんと病院にっ――」 「大丈夫。先に風呂入らせてください。……後から来てくれるの、待ってますね」 浅野さんは顔を火照らせている俺を見て『冗談ですよ』と笑いながら洗面所へ消えていった。 湿布の白さが痛々しかったけれど、いつ怪我をしたんだろう。羽黒山に行くと言っていた四日目か、それより前なのか。 連絡は取り合っていたのに、俺には一言も教えてくれなかった。きっと、心配させたくなかったのだろ
Huling Na-update: 2026-06-15
Chapter: 第40話 こんなにも愛おしい
「珠依さんの……そういうどこまでも人に寄り添う優しさが好きです。そのくせ自分には厳しくて、完璧主義なところも、そんな自分を分かっているのに、変えられない不器用さも……全部」 空の色がゆっくりと海に溶けていく中、砂浜に伸びる二人の影が、ひとつに重なっていく。 自分でも、もっと楽に生きていけたらと思うほど面倒な性格をしているのに、それをそのまま受け止めて貰えるのは、やっぱり嬉しい以外の何物でもなかった。「今まで酷い目にあった珠依さんを助けたいとか、同情だとか、そんなんじゃない。今はあなたという存在そのものが愛おしくて、大切にしたい」「……こんな、何もできないのに?」「ほら、またそうやって自分を下げる。でも、いいですよ。珠依さんが何度そう言っても、俺はあなたの好きなところを何倍にもして返しますから。あなたが本当の感情をさらけ出してくれるまで、言葉の出し惜しみは絶対にしないって、もう決めてるんです」 浅野さんの大きな両手が、そっと俺の頬を包み込んだ。 ただ触れているだけなのに、人の掌がこれほどまでに温かくて、嬉しくて、切ないものだなんて、今まで知らなかった。 早霧の愛が俺を引っ張っていくような強くて激しいものだとしたら、浅野さんの愛は、後ろから抱き寄せて受け止めてくれるよな、静かな愛だと思った。 期待と不安で揺れる俺の瞳を、浅野さんは逃がさないようにじっと覗き込み、心の奥底に響くような声で告げる。「珠依さんがいるだけで毎日が温かくて、世界がこんなに輝くなら……俺は、ずっとあなたにそばにいてほしい。その言葉にずっと寄りかかって居たい。何より、俺はあなたが笑顔で過ごす日々を、一番近くで見守らせてほしいんです」「…………」 今日、二度目の涙が溢れた。けれど今度は、凍えていた心が解けていくような、震えるほど幸せな涙。 俺は浅野さんのシャツの胸元をぎゅっと掴み、祈るような心地で、心からの願いを口にする。「俺も……浅野さん、あなたのことが好きです。ずっと、隣にいたいです……」 俺の告白を飲み込むように、浅野さんがふっと顔を近づけた。吐息が肌に触れる距離で止まり、彼は愛おしそうに目を細める。「……あなたのことは、絶対に俺が幸せにします」 掠れた声が鼓膜を震わせた直後、吸い寄せられるように唇が重なった。 最初は、羽が触れるような、確かめるよう
Huling Na-update: 2026-06-13
Chapter: 第39話 やさしい色と音
◇◇◇ ドライブを経て辿り着いたのは、写真集で見たままの砂浜。 車を降りた瞬間、潮騒の音が鼓膜を優しく撫でる。 目の前に広がっていたのは、普段見慣れた燃えるような夕焼けではなく、淡い真珠の母貝を透かしたような世界だった。 空は柔らかな薄ピンクから、溶け残った水彩絵の具のような水色へと緩やかにグラデーションを描き、その境界線はどこまでも曖昧だ。 浅野さんは、霞くんを抱いた俺の隣を、付かず離れずの距離で歩き出す。「……本当に、写真と同じですね」 「今の季節のこの時間は、色合いが一番優しく見えるんです」 砂浜に一歩踏み出すたび、押し寄せる波の縁は空の色を反射して、まるで光るレースのように砂を洗っていた。 あの写真集に綴られていた寂しい詩とは違い、今のこの景色には、体温のような温かさが混じっている。「珠依さん、足元気をつけて」 浅野さんがさりげなく俺の腕を支える。その大きな掌から伝わる確かな体温。 俺が抱っこ紐に手を添えて霞くんを抱き直すと、彼は足を止め、海を見つめたままふっと目を細めた。「……俺ね、中学の時に祖父から譲ってもらったカメラがきっかけで、写真を好きになったんです。けど、『人物』は撮ってもいまひとつで。何年やっても賞ひとつとれないし、センスも才能もないんだって、ずっと思っていました」 寄せては返す波の音に混じって、その独白は淡々と空に溶けた。「そのくせ、『人物』の写真を誰かに認めてほしくて必死で……。心からの感想をもらうより、一目でわかる『賞』っていう社会的な名誉を求めたんです。大学を卒業する前も、まさにこの場所で、カメラそのものを続けるかどうか悩んでいました。未来も明日も見えないような、しんどい気持ちのまま」 薄いピンクと水色が混じり合う空の下、横顔は、写真集のあの頁に描かれていた孤独な影を、今もどこかに宿しているように見える。「だから、星空と風景専門になったんです。要するに逃げたって言うか。人を撮る才能はないって分かったから、勝てる土俵に降りた……みたいな」 自嘲気味に笑う彼の背中が、どこか小さく見える。俺は霞くんを抱き直すと、ゆっくりと呼吸を整えた。 彼の言葉の裏側にある痛みを、静かに紐解いてあげたい。そんな一心だった。「……浅野さん」 呼びかけると、彼は少しだけ肩を揺らして、こちらを振り返った。
Huling Na-update: 2026-06-12
Chapter: 第38話 エオリアン・ハープ
「一番、人に見られたくない一枚だったんですけど……けじめのつもりで載せたんです。星を撮り始める前の、ただ途方に暮れていた頃の自分が撮った海岸の写真です」 そう言って、彼は俺の頬に伝う涙を、大きな親指でそっと拭った。 その指先が熱くて、俺はまた視界を滲ませる。 浅野さんの声は、波音のように穏やかに俺の心に染み渡る。彼の過去に何があったのかは聞けない。けれど、その痛みのようなものに寄り添いたいと思った。「……俺も、この海を見てみたいな」 「えっ?」 「浅野さんが今まで見てきたものと同じものを、共有してみたいなって思いました」 俺が真っ直ぐにそう伝えると、浅野さんは目元を拭っていた指を止め、呆気に取られたように瞬きを繰り返した。 まさかそんな言葉を返されるとは思っていなかったのか、彼は少しだけ唇を尖らせ、困ったように、けれど今日一番の柔らかな熱を帯びた瞳で俺を見つめた。「……珠依さん、本当に……」 そう言って、彼は照れくさそうに前髪をかき上げた。「この海、ここからだと車で二時間くらいかかるんですけど……。霞くんも連れて、行きますか? ちょうど今の季節、夕暮れ時ならこの写真に近い色が見られるはずです」 「い、今からですか……?」 「珠依さんが、怖くなければ。……すみません、急なことを言って」 正直、どこか後ろめたい気持ちになった。 仕事もせず、隠れるようにして過ぎていく毎日。そんな自分が、眩しくて綺麗な時間を受け取ってもいいんだろうか。浅野さんに長距離の運転をさせて、明日の仕事に響いたらどうしよう――。 ひとりで理由をこねて足踏みしている俺の心を透かしたように、浅野さんは優しく笑った。「俺が見せてあげたいんです。それに、一人で眺めていたあの景色を、珠依さんと一緒に塗り替えられるなら、そんなに嬉しいことはないですから」 浅野さんはそう言うと、膝の上で開いたままの写真集を、大切な宝物を仕舞うようにそっと閉じる。 止まったままだったはずの時計が、浅野さんの刻むリズムに重なって、少しずつ、けれど確かに新しい時を刻み始めている気がした。「じゃあ、準備しましょうか。……あ、少し肌寒くなるかもしれないから、薄手の上着も持っていきましょう」 浅野さんはそう言うと、手際よく自分のカメラバッグを引き寄せた。その迷いのない動きを見ていると、俺の
Huling Na-update: 2026-06-11
Chapter: 第37話 淡い真珠の空の色
浅野さんの家で過ごして、一ヶ月が過ぎた。 買い物を終えて帰宅した俺の気配を察して、仕事部屋から浅野さんがひょっこりと顔を覗かせる。「ただいま戻りました」 「おかえりなさい。……え、それ、めっちゃ重かったんじゃないですか? 言ってくれれば、俺も一緒に――」 「だめですよ、浅野さんはお仕事中ですから。日差しもそんなに強くなかったですし、平気です」 重い買い物袋を提げる俺を見かねて、浅野さんは「交代しましょう」と甲斐甲斐しく手を貸してくれた。 ベビーベッドの中では、霞くんがメリーを見上げるように仰向けになっている。 最近になってようやく、俺は霞くんを「浅野さんとお留守番」させて、一人で外出できるようになった。マンションから徒歩五分、鶴ヶ峰駅のすぐそばにあるこじんまりとしたスーパーまで。そんな些細な距離でも、今の自分にとっては確かな前進だった。 キッチンでエコバッグから食材を取り出していた浅野さんが、ふと手を止める。 そして、何かに打たれたような表情で一冊の本を手に取ると、驚きを隠せない様子で俺に視線を向けた。「しゅ、珠依さん。これ――」 「今日が発売日って聞いていたので。スーパーの隣の本屋さんで、買ってきちゃいました」 それは、浅野さんの新作写真集。 いつもの星空をテーマにしたものとは違い、彼が学生時代にフィルムカメラで撮り溜めてきた「記憶」を、一冊の物語のように編み上げた作品だ。発売前から、若者の間でそのエモさが話題になり、空気をそのまま閉じ込めたような瑞々しいきらめきは、老若男女問わず高い評判を呼んでいた。「……わざわざ買いに行ってくれたんですか?」 浅野さんはそう言って、耳の付け根を少しだけ赤く染めた。「はいっ。表紙もすごく素敵です。浅野さんの優しい視線がそのまま写ってるみたいで」 正直な感想を伝えると、浅野さんは照れくさそうに視線を泳がせ、それからふっ、と柔らかく目を細めた。 甘い沈黙がキッチンに流れる。浅野さんは写真集をカウンターに置くと、一歩、俺との距離を詰めてきた。「献本があるから、珠依さんにならいくらでもあげるのに」 「でも、それじゃあ意味がないというか……。微々たる力ですけど、売り上げに貢献したいんです」 「じゃあ、宛名入りでサインします。ここに」 そう言って、浅野さんはキッチンカウンターで写真
Huling Na-update: 2026-06-10
Chapter: 第36話 素直な身体
浅野さんの誠実さは、救いであると同時に、俺にとっては残酷な「壁」でもある。彼は俺を傷つけないよう、性的な視線を徹底的に排除して接してくれている。それは至極全うな優しさだ。 けれど、今の俺が求めているのは、その清廉潔白な優しさの「先」にあるものだとしたら。(……浅野さんに、性的な目で見てほしいと思ってる? 保護対象としてじゃなく、人として、欲情してほしい……?) その結論に辿り着いた瞬間、あまりの浅ましさに手が震えそうになった。 助けてもらい、住まわせてもらい、生活の全てを支えてもらっている身で。 彼に対して、「欲情してほしい」と願うなんて。 「そんなことを考えてはいけない」と脳に命令を下すことは、皮肉にも脳に対して「そのことを常に監視せよ」と指示を出しているのと同じだ。禁止すればするほど、そのイメージは解像度を増してしまう。 彼は、どんなふうにキスをするんだろう。どんなふうに囁いて、どんな角度で首を傾けて――。 そこまで考えた瞬間、じわ、と中心が熱く濡れる感覚がした。 慌てて布団の中で自分の腹部へ手を滑らせると、下着が微かに湿っているのが指先に伝わる。「う、うそっ……」 こんなことは初めてだった。自ら触れたわけでもないのに、思考の断片だけで身体が反応し、分泌液が溢れている。 俺は心臓の鼓動を抑えながら、浅野さんの腕を慎重に、壊れ物を動かすようにして退けた。音を立てないよう寝室を抜け出し、這うようにしてクローゼットから予備の下着を引っ張り出す。 けれど、立ち止まっている間にも、熱は引くどころか拍動を増していくばかりだった。(仕事をやめてから、自分からしたいなんて一度も思わなかったのに……っ) 彼が目を覚ます前に、この疼きを鎮めなければならない。俺はリビングのティッシュをひっつかみ、ソファーの座面に背を預けるようにして床にへなへなと座り込んだ。 浅野さんに欲情してもらうどころか、俺が、浅野さんに欲情してしまっている。 「ちゅく」と小さな粘着音が、静まり返ったリビングに場違いに響く。熱い吐息を押し殺しながら、指先で微かな刺激を与え続ける。 ふと横を見ると、そこには浅野さんが帰宅直後に脱ぎ捨てたパーカーが置かれていた。俺はもう、自責の念すら放り出し、それを手繰り寄せて胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。 好き。
Huling Na-update: 2026-06-09
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