Chapter: 第三章 第30話 離宮の刺客 一匹の鼠が、暗闇の中を走っていた。 逃げていた。 何から逃げているのかは分からない。 ただ―― 背後から近づいてくる足音だけは、 本能で理解していた。 一定の間隔で響く足音。 コツ。 コツ。 コツ。 鼠は腐りかけた木箱の陰へ身を隠した。 乾いた穀物の匂い。 冷たい石壁。 罠の張り巡らされた地下保管庫。 そこは、鼠が生きるには決して恵まれた場所ではなかった。 それでもアッシュ・マウスは、 そこで生き延びていた。 小さな鼻を動かし、餌の匂いを探す。 だが――動けなかった。 白い靴が、目の前で止まったからだ。「……見つけました」 優しい声だった。 鼠が顔を上げる。 そこにいたのは、聖女マリアだった。 マリアはゆっくりとしゃがみ込む。 銀色の瞳が、鼠を見つめていた。「怖がらなくても大丈夫ですよ」 その声には、慈愛すらあった。 鼠は逃げようとする。 だが、その瞬間。 床に淡い黄金の理紋が広がった。 鼠の身体が、小さく震える。 逃げることができない。 マリアは微笑んだ。「あなたを別の存在へ変えるつもりはありません」 黄金の文字列が、鼠の周囲へ浮かび上がる。【個体情報】【種族】アッシュ・マウス【生存能力】旺盛【環境適応】S マリアは静かに確認する。 目の前にいるのは、特別な力を持たない小さな魔物。 戦う力もない。 人を殺す牙もない。 けれど―― それでいい。「あなたに必要なのは、戦う力ではありません」 マリアの指先が、鼠へ伸びる。「生き残る力です」 そっと頭を撫でる。 鼠は怯えたまま動かない。「あなたなら……うってつけですわ」 マリアの銀色の瞳が細められる。「あなたには、もっと生きやすい場所を教えてあげます」 そして、静かに告げた。「アルカディア離宮の地下で」 理紋が、ゆっくりと回転を始める。「誰にも気づかれず」 一つ。「誰にも疑われず」 二つ。「ただ、増え続けなさい」 三つ。 黄金の文字列が組み替えられる。【繁殖固定】 その瞬間。 アッシュ・マウスの身体を、淡い光が包み込んだ。 しかし―― 何も起こらなかった。 姿は変わらない。 異形にもならない。 特別な能力が発現することもない。 ただ一つ。 可能性だけが刻まれた。 この個体が持
Huling Na-update: 2026-09-14
Chapter: 第29話 現在へ戻る 王立学園・地下書庫。 巨大な光の書物が、ゆっくりと閉じていく。 パタン――。 その音とともに、過去の景色が霧のように消えていった。 図書塔。 学術祭。 月が落ちる夜。 すべてが一冊の記録となり、本へ還っていく。 やがて光は収束し、地下書庫の静寂だけが残った。 クラリッサは小さく息を吐く。「……これが、原記録」「世界そのものが覚えていたのね」 アルトリウスの告白。 マリアの微笑み。 そして、封印された真実。 静かな灯りと紙の香り。 現実へ戻ってきたのだ。 すると、エルネストが口を開いた。「いや、終わってはいない」 彼は机の上の資料へ視線を落とす。「ようやく始まった」 その言葉に、クラリッサも頷いた。 そうだ。 これは回想ではない。 調査だったのだ。 失われた過去を取り戻し、未来を変えるための。 すると、ジュリアンが手帳を閉じる。「姉上」「はい」「一つだけ、確信したことがあります」 彼は静かに言った。「断罪は偶然ではありません」「……ええ」「今も姉上を苦しめています」 クラリッサの胸が冷たくなる。(そうね、終わっていない……。) すると、エルネストが資料をまとめ始めた。「ここからは対策だ。 過去は変えられない。だが、未来は変えられる」 未来。 かつては、そう思えなかった。 断罪され、追放される運命。 奪われた未来。 だが、今は違う。(私は知っている)(運命は固定されているわけじゃない)(書き換えられる) その瞬間――。 地下書庫の空気が、わずかに震えた。 本棚に刻まれた古代文字が淡く発光し、クラリッサの視界に文字列が浮かぶ。【新規ルート解放】 クラリッサが目を見開く。「……新規ルート?」 すると、エルネストも表示を見る。「何だ?」 新たな文字が浮かび上がった。【第二王子エルネスト】【王国再建計画:開始】【推奨期間:百二十日】【成功条件:未来の固定阻止】【失敗条件:アナスタシス・コード未共鳴】 すると、ジュリアンが少し笑った。「姉上らしいですね」「え?」「今すぐにでも研究を始めそうです」 クラリッサも思わず笑った。「そうかもしれないわね」 すると、エルネストが少し口元を緩める。「離宮で青薔薇を咲かせるのも悪くない」「殿下も研究がお好き
Huling Na-update: 2026-09-13
Chapter: 第28話 理紋、崩れる 地下保管庫は、重苦しい静寂に包まれていた。 ルシアンの記録を映し終えた《記録保全帳》は静かに閉じられ、 その表紙だけが淡く銀色の光を帯びている。 「何故だ。 過去の記憶見ているはずなのに、まったく覚えがない」 現代のエルネストが口元に手をあてる。 アナスタシス・コードが、突如として激しく明滅する。 薄桃色の理紋が床いっぱいに広がり、 空中へ幾重もの古代文字が浮かび上がった。「まだ、記憶が残っています」 ◆ 低い共鳴音が、地下空間を震わせる。「ごきげんよう、皆様」 優雅な一礼とともに、彼女は姿を現した。 純白の衣装に艶やかな銀髪。 柔らかな微笑み。 マリアだった。 その姿だけを見れば、慈愛に満ちた聖女そのものだ。 しかし、クラリッサには見えていた。 その足元に浮かぶ、黄金の文字が。 エルネストが一歩前へ出る。「その理紋を解析させてもらう。《アナライズ》」 マリアは穏やかに微笑んだ。「どうぞ、ご自由に。 両殿下のお力を、お見せください」 エルネストの理紋が蒼く輝く。 幾重もの術式陣が展開し、複雑な理紋が黄金の術式へ絡みついた。「構造を開示せよ」 黄金文字が浮かび上がる。【ファタリス・シール】【第二段階 試験運用】 エルネストが静かに息を吐いた。「……やはり段階式か」 マリアは微笑んだままだ。「解析がお早いですね」「第一段階では認識誘導。 第二段階では理紋への固定、か」 ジュリアンが息を呑む。(第二段階……) つまり、術式そのものが進化している。 マリアは黄金の理紋へ視線を向けた。「おわかりですか? 理紋が定義する真実へ、人が固定されるのです」 エルネストは解析式をさらに展開した。【試験範囲 王立学園】 【維持条件 固定点保持】 ジュリアンが目を見開く。「固定点……?」 エルネストは黄金の術式を睨んだ。「なるほど。術者自身が中心か」 マリアは否定しなかった。「その通りです。 術者が固定点から離れれば、術式は維持できません」 エルネストの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。「弱点を話すとはな」「構いません」 マリアは穏やかだった。「近づける方がいらっしゃるなら」 ルシアンが声を上げる。「兄上、僕もやります」 エルネストが振り返る。「王家の理紋に《共
Huling Na-update: 2026-09-12
Chapter: 第27話 封印された記憶 地下保管庫を包む静寂の中、誰もすぐには動けなかった。 古びた『王立学園・記録保全帳』は閉じられたまま、 机の中央に置かれている。 その一冊だけで、この国の歴史そのものが揺らぎ始めていた。「国家規模で真実を固定する理紋……」 エルネストが低く呟く。「もし本当に存在するなら、歴史書も、人の記憶も、 証言さえ信用できなくなる」「だからこそ」 ジュリアンは保全帳へ視線を落とした。「改変される前の記録だけを、切り離して保管したのでしょう」 クラリッサは静かに頷く。 その瞬間だった。 パラリ。 保全帳がひとりでに開いた。 誰も触れていない。 銀色の光が頁の奥から滲み出す。「これは……」 エルネストは右手をかざした。「《アナライズ》」 青白い理紋が本を包み込む。【古代理紋術式】【共鳴履歴:解除】【閲覧権限:保護対象確認】「記憶映像ではない」 エルネストが静かに言う。「これは当時の公文書を保存した術式だ」「つまり……」「誰にも改竄される前の記録ということだ」 ◇ 銀色の光が部屋を満たす。 そこへ、一枚の文書が映し出された。【王国極秘文書 第七号】【閲覧資格:王家・アルベリオン家当主】 クラリッサは息を呑む。「極秘文書……」 ゆっくりと文字が浮かび上がる。『第一王妃逝去に伴い、 第一王子ルシアン殿下の王位継承権は凍結する』『これは本人の資質によるものではない』『王国の安定を最優先とするための臨時措置である』 静寂が流れた。 続いて、次の一文が現れる。『王位継承権は将来的に復権可能』 エルネストが目を見開く。「……復権?」 ジュリアンも驚きを隠せない。「そんな記録は、現在の歴史書にはありません」 さらに頁がめくられる。『第一王子は王位継承権を第三位へと繰り下げ、 第二王妃セリーヌの庇護下に入る』 ルシアンが小さく呟く。「……この記録が残っていたなら、僕は随分危うい立場にいた」 エルネストは静かに目を閉じた。「だから父上は、王位継承に慎重になられていたのか……」 さらに最後の文書が現れる。【第一王妃 遺言】 部屋の空気が張り詰める。 美しい筆跡だった。『我が子を争いへ巻き込まないでください。 王位より命を。 地位より優しさを あの子が笑って生きられる
Huling Na-update: 2026-09-11
Chapter: 第26話 封印された保管庫 王立学園・地下資料室。 レティシアの記録が消えると、室内には重い沈黙だけが残った。 誰も、すぐには口を開かなかった。 やがてジュリアンが静かに立ち上がり、一つの鍵を机の上へ置く。 黒鉄で造られた重厚な鍵。 柄には、現在の王家では使われていない古い理紋が刻まれていた。「姉上」「昨夜、文書管理局の保管庫から見つかりました」 クラリッサは鍵を手に取る。 見た目以上に重く、冷え切った鉄の感触が掌へ伝わった。「保管庫の鍵……?」「はい。しかも閲覧禁止区域のものです」 エルネストが眉を寄せる。「管理局に、そのような区画があるとは聞いたことがない」「存在そのものが秘匿されています」 ジュリアンは鍵を見つめる。「現在の王家では認証できないほど古い権限で封じられています」 室内の空気が張り詰めた。 クラリッサは静かに頷く。「……確かめましょう」 ◇ 三人は地下通路を進む。 人気のない石造りの廊下。 壁に埋め込まれた魔導灯だけが淡く道を照らしている。 やがて、一枚の巨大な石扉が姿を現した。 幾重にも重なる封印理紋。 長い年月、誰一人として開かなかったことが伝わってくる。「ここです」 ジュリアンが鍵を差し込む。 ゆっくりと回す。 ――ガチャリ。 重い音が地下へ響いた。 石扉が軋みながら開き、閉ざされていた空気が静かに流れ出す。 部屋は意外なほど狭かった。 棚も数えるほどしかない。 その中央に、一冊だけ本が置かれていた。「……これだけ?」 クラリッサが思わず呟く。 エルネストも目を細めた。「封印するには、あまりにも厳重すぎる」「つまり、それだけ価値のある記録ということです」 ジュリアンは慎重に本を持ち上げた。 革表紙には金色の文字が刻まれている。『王立学園・記録保全帳』「保全帳……」 クラリッサはゆっくりとページを開く。 乾いた紙の音が静寂に響いた。 歴代卒業生。 研究成果。 功績。 学園の歴史が几帳面に記録されている。 だが、一ページだけ異様だった。「……え?」 一人分の記録だけが黒く塗り潰されている。『クラリッサ・ド・アルベリオン』「私……?」 胸の奥が僅かに疼く。 何かを思い出せそうで、思い出せない。 無意識に胸元へ手を添える。 だが、そこに眠る《アナスタシ
Huling Na-update: 2026-09-10
Chapter: 第25話 ジュリアンの反証 後編 ルシアンの言葉が途切れた、その瞬間だった。 クラリッサは胸の奥が、かすかに熱を帯びるのを感じた。 思わず胸元へ手を当てる。 封じられたはずの《アナスタシス・コード》が、 鼓動のように一度だけ震えたのだ。 ほんの一瞬。 それだけで反応は消えた。 だが、その微かな脈動だけで十分だった。(……月が落ちる夜に理紋を封じられても、 《アナスタシス・コード》は私へ何かを伝えようとしていたのね) 視界の端が白く霞み、すぐに元へ戻る。 その異変に気付いた者はいなかった。「クラリッサ嬢?」 ルシアンが不思議そうに覗き込む。「顔色が優れませんね」「い、いえ……大丈夫です」 微笑んでみせるものの、胸のざわめきは消えない。 遺跡で見せた剣士の姿。 夕暮れの演習場で見せた寂しげな横顔。 そして今、誰よりも早く世界の異変を感じ取っている。(やっぱり、ルシアン殿下は……) そう考えかけた、その時だった。 図書塔の静けさを破るように、外から歓声が響いてくる。「マリア様!」「こちらです!」「少しだけ、お話を!」 窓の外では、多くの生徒が一人の少女を取り囲んでいた。 ジュリアンは静かに資料を閉じた。「……確認してきます」「私も行くわ」 クラリッサが頷くと、四人は図書塔を後にし、中庭へ向かった。 ◇ 初夏の陽射しが石畳を照らしていた。 中庭には多くの生徒が集まり、その中心にはマリアが立っている。 白銀の髪が風に揺れ、穏やかな笑みが周囲を包んでいた。「皆様のお力があったからこそです」 控えめな言葉に、生徒たちは嬉しそうに頷く。「マリア様!」「ありがとうございます!」「さすが聖女様です!」 次々と飛び交う賞賛。 だが、その光景にクラリッサは違和感を覚えた。 誰も疑わない。 誰も異なる言葉を口にしない。 まるで全員が同じ台本を読んでいるかのようだった。 隣でジュリアンが小さく呟く。「……やはり」 その瞬間、クラリッサの視界が揺らぐ。 マリアの足元に、黄金色の文字列が浮かび上がった。【ファタリス・シール】【第一段階検証成功】 誰にも見えないまま、世界を固定する力だけが静かに広がっていく。 クラリッサは思わず一歩後ずさった。「クラリッサ様?」 マリアが優しく声を掛ける。「ごきげんよう」 慈愛に満ちた笑
Huling Na-update: 2026-09-09
Chapter: 勝つためではなく 城壁の上。 ヒマリは、崩れた防壁の向こうを見つめていた。 黒い流れが、王都へ入り込んでいる。 無数の黒い蟻の群れ。 それは生き物の群れというより、 巨大な意思を持った災害のようだった。「ヒマリ、蟻とは言え魔物であれば、浄化は有効ではないか?」 フェルマーが問いかける。 ヒマリは錫杖を握ったまま答えた。「やっている。でも……おかしい」 白い光が広がる。 蟻の群れへ触れた瞬間、何匹かが霧のように消滅した。 しかし、消えた数よりも、増える数の方が圧倒的に多い。「蟻でしょう? 本来なら単純な生物のはずなのに……」 ヒマリは眉を寄せた。「欲望が、絞れない」「あの一匹ごとに自分の意思があるとでも?」「信じられないけど――」 白い光の中で、黒い蟻の群れが蠢いている。「飢え、恐怖、逃げたいという本能 ……いくつもの感情が絡み合っている」 一瞬、ヒマリは言葉を失った。「まるで……人間みたい」「厄介ですね」 フェルマーの魔導眼鏡に、複雑な術式が流れていく。「ですが、一定の効果はあります」 彼は蟻の群れを見つめた。「弱った個体は、結界に触れることで消滅しています」「追い出せる?」「一匹ずつなら可能でしょう」 フェルマーは間を置いた。 そして、城壁の下を見る。 黒い波が、石畳を覆っていた。「ですが……問題は数です」 ヒマリは錫杖を握り直した。 再び浄化術式を展開する。 白い光が壁となり、蟻の群れを押し戻した。 しかし、光の外側では別の群れが進み続けている。 終わりが見えない。「クルス」『見えている』「どうすれば止まる?」 返事はすぐには来なかった。 わずかな沈黙。 どこか遠くで悲鳴が上がった。『……魔王城のコアへ直接干渉するしかない』「コアは、私が取り込んだはずじゃないの?」『その後の問題だ』 クルスの声が低くなる。『ヒマリが取り込んだ部分とは別に、魔王城に残されたシステムがある……。 それが今、完全自律稼働している』 一拍。『僕の演算すら、押されている』 ヒマリは遠くを見る。 夜空の向こう。 黒い外壁を持つ魔王城。 一斉砲撃を終えた無数の砲塔が、今も静かに動いている。(次は、どこを撃つ?) 城壁か。 市街地か。 それとも――。「ヒマリ様!」 兵士が駆け寄ってき
Huling Na-update: 2026-09-14
Chapter: 侵入した暗殺部隊 城壁が、悲鳴を上げた。 夜の王都に、巨大な破砕音が響き渡る。 ガゴォォォォン――。 魔王城の砲塔から放たれた重射撃が、 王都西区画の結界を正面から打ち砕いた。 白い防壁が大きく揺らぎ、その直後。 積み上げられていた石造りの城壁が、耐えきれずに崩れ落ちた。 粉塵が夜空へ舞い上がる。 砕けた石が雨のように降り注ぎ、 城壁上にいた兵士たちが叫び声を上げる。「城壁が――!」「崩れるぞ! 退け! 退けぇ!!」 長い年月をかけて築かれた王都の防壁が、 わずか一撃で穴を開けられる。 ヒマリは、とっさに身を伏せた。 爆風が吹き抜ける。 耳鳴りが響き、粉塵で視界が白く染まった。 それでも、彼女はすぐに立ち上がった。「クルス……もっと射角をずらして。城壁への被害が大きすぎる」『無茶を言うな! 砲門がいくつあると思っている!?』 クルスの声にも焦りが混じっていた。『こちらの干渉を防ぐために、魔王城は一斉射撃へ切り替えている。 攻撃予測そのものを再演算する必要がある』「つまり……一度射角をずらしただけで 魔王城が対応しているってこと?」 ヒマリの表情が険しくなる。 ただ暴走しているだけではない。 こちらの行動に合わせて、変化している。「フェルマー!」「ああ、無事だ」 すぐに返事が返ってきた。「王都全体に広げたとはいえ、私の結界が一撃で破られるとは――」 ヒマリは周囲を確認する。 崩れた城壁からは煙が立ち上り、 その向こうには、ぽっかりと夜の闇が広がっていた。(城壁が……抜けた) 胸の奥が冷たくなる。 それは単なる防壁の破壊ではない。 王都へ続く道が、開いたということだった。 ◆ その穴を、影が抜けた。 十一人。 全員が黒い外套に身を包み、気配を極限まで消している。 城壁崩壊による混乱と、舞い上がる粉塵。 逃げ惑う兵士たち。 暗殺者たちにとって、侵入するにはこれ以上ない好機だった。「今だ」 先頭の男が、低く呟く。「ヒマリは城壁上にいる。混乱に乗じて接近する」 影たちは一斉に動いた。 無駄のない足運び。 互いの距離を完璧に保った連携。 彼らは訓練された暗殺者だった。 ジギスムントが最後に残した切り札。 北部都市群での失敗し、最後機会を狙っていた。 全員が理解していた。
Huling Na-update: 2026-09-13
Chapter: ジギスムント廃嫡 サンドランド王宮の空気は、張り詰めていた。 誰一人として声を荒げない。 それなのに――沈黙そのものが怒鳴っているようだった。 長机の上に広げられた地図。 北部都市群。 王都ブリュード。 そして、赤く引かれた海路図。 老いたサンドランド王サムールは、机に置かれた報告書を見下ろしていた。 その目はまだ砂漠の王のものだった。「……失敗したか」 低い声。 側近たちが息を呑む。 北部都市群との独占契約交渉。 ロンデル公子擁立工作。 すべて――失敗。 都市群はヒマリ女王を支持。 油田の権益を明け渡し、海路は確保とあるが、 本来の成果とは程遠い。 さらに、ロンデル公子アレクシスがそのまま王都へ合流。 すべてがジギスムントの報告と異なる。「ジギスムントは?」 側近が言い淀む。「……戦争継続の構えです。 すでに第一軍を従え、王都に進軍中」 空気が重くなる。 老王は静かに目を閉じた。「止まれぬか」 誰に向けた言葉でもなかった。 王だからこそ分かる。 一度、前に進むしかない王になった者は。 止まれない。 壊れるまで。 その時だった、扉が乱暴に開く。 伝令が飛び込んできた。「陛下!!」 顔色が悪い。 息も荒い。「申し上げます!!」 伝令は、震える声で告げた。「北部都市でのヒマリ女王暗殺――失敗!!」「……何だと?」老王の声が初めて揺れた。「そんな命は出しておらん」 場が凍った。 誰も言葉を発しなかった。 老王だけが、静かに立ち上がる。「……呼び戻せ」「陛下?」「進軍中のジギスムントを呼び戻すのだ!」 声は低い。 だが、怒りが滲んでいた。「今すぐ行け」「は、はい!」 側近たちが慌ただしく動き出す。 だが。 その時。 別の伝令が飛び込んできた。「陛下!! 北部都市群ネリィ副主席より抗議通達が!!」 巻物を差し出す。 老王が目を通す。 一行。 二行。 その顔から、感情が消えた。 静かに巻物を閉じる。「女王暗殺未遂の証拠を握られ、 飛行魔物による船団焼き討ちまで匂わせてきている…… 白々しく、開かれた貿易などと」 誰かが、ごくりと息を呑む。「陛下……?」 老王はゆっくりと言った。「サンドランドは、本日をもって政治中立を宣言する」 ざわめき。「へ、陛下!?
Huling Na-update: 2026-09-12
Chapter: 王都封鎖 王都の空気は、重かった。 秋の風は吹き抜ける、だが冷たいだけではない。 何か、湿ったものが混じっている。 王都ブリュード西区画。 城壁の上に立つヒマリは、ゆっくりと遠眼鏡を下ろした。 嫌な感じがする。 昨日より確実に――魔王城が、近い。 もちろん距離が変わるはずはない。 けれど、そう思ってしまうほど、存在感が増していた。 黒い外壁。 空へ突き出した無数の砲塔。 沈黙した巨大建造物。 今はヒマリの制御下にある――はずだった。「……また動いてる」 小さく呟く。 魔王城外壁の砲塔が、ゆっくり角度を変えていた。 ギギ……ギギギ…… 鈍い音。 誰も操作していない。 命令も出していない。 まるで、何かを探しているみたいに。「昨日より稼働数が増えている」 隣でフェルマーが言った。 銀縁眼鏡の奥で、魔法術式が高速回転している。 だが、その顔色は悪い。「砲台に魔物反応は?」「ありません」 即答。 そして。「……それが、一番おかしい」 ヒマリは眉を寄せた。「魔王城内部の魔力流が変質しています」「変質?」「本来、魔王城はヒマリの浄化魔力を基準に最適化されている」「今は、クルスが代わってくれているけど」「内部で別系統の演算処理の痕跡が見える」 嫌な沈黙。「人間の感情波形に酷似した魔力反応です」 ヒマリの胸が、小さくざわついた。「……感情?」「痛み。憎悪。恐怖」 フェルマーは低く続ける。「特に、救済を求める感情への異常執着が見える」 その瞬間。 胸の奥で声がした。『ヒマリ』「クルス?」 静かな声。 魔王城コアを司るヒマリとの融合体。『君が救った人たちを覚えてる?』 ヒマリは目を瞬いた。 戦災孤児。 遺体を抱き、泣いていた母親。 家族を失った兵士。 ロンデルの助けを求めた人々。 全部、覚えている。『浄化した穢れは、本当に消えていたと思う?』 呼吸が止まった。「……どういう意味?」『人間の感情は複雑すぎる』 クルスの声が重くなる。『苦痛を取り除いても、苦しんだ記憶までは消えない』 ヒマリは魔王城を見た。 巨大な黒い城。 おかしなくらい、魔物の気配が感じられない。(まさか……)『魔王城が、学習している』 ぞわり、と背筋が冷える。『救済されなかった痛みを』 そ
Huling Na-update: 2026-09-11
Chapter: フェルマーとの再会 ~ ヒマリの新たな問い 王都ブリュード 黄昏時。 王都ブリュードの上空へ、ドラムの影がゆっくりと差しかかった。 戦場の危機を救って以来、 飛行魔物は民衆の味方だと認知されつつあった。 城門の兵士たちが驚いたように夕闇に染まる空を見上げる。「ヒマリ様だ!」「お戻りになられた!」 歓声が広がる。 ドラムは王城の中庭へ静かに降り立った。 翼をたたむと、ヒマリたちはゆっくりと地面へ降りる。 そのまま王城の執務室へ向かった。 ◆ 侍女が扉を軽く叩く。「どうぞ」 フェルマーの落ち着いた声が返ってくる。 扉が開かれると、 机へ向かっていたフェルマーが、ゆっくり顔を上げる。 ヒマリ。 ノリス。 そして、アレクシス。 三人の姿を見た瞬間、その表情がわずかに和らいだ。「……無事で何よりだ」 静かな一言だった。 だが、その言葉には本心からの安堵が込められていた。「ただいま」 ヒマリが笑う。「それから――」 胸に抱えていた黒い木箱を差し出した。「早速だけど、これ。 アレクシスの義眼と義手、作れる?」 フェルマーは両手で受け取ると、すぐには蓋を開けなかった。 重さを確かめるように静かに持ち上げ、魔力の流れへ意識を向ける。 やがて、小さく頷いた。「……保存処理は完璧だな」 木箱へ優しく手を添える。「これなら魔術的な再接合も十分可能でしょう」 ヒマリの表情がぱっと明るくなる。「本当?」「ええ」 フェルマーは穏やかに微笑んだ。「アレクシス公子ほどの魔力量があれば、 義眼も義手も限りなく本来の身体に近づけられます」 アレクシスは思わず息をのむ。 失ったものを取り戻せるかもしれない。 その希望だけで胸が熱くなった。「……よろしくお願いします」 深々と頭を下げた。 するとフェルマーの眼差しが静かに鋭さを帯びた。「礼は女王陛下に言いなさい」 一拍置いて続ける。「私は、あなたのことを亡国の公子としか思っていません。 ジギスムントに捕らわれたままであったら、 廃嫡して別の王を立てる道もあった」 その口調は厳しかったが アレクシスが無事に戻ったからこそ出て来る言葉でもあった。「ヒマリ女王には、言葉では言い尽くせない感謝があります」 そして真っ直ぐフェルマーを見つめる。「その恩に報いるため
Huling Na-update: 2026-09-09
Chapter: 出発の朝 翌週の正午。 北部都市群の中央医療院へ戻ったペトラは、 そのまま執務室へ向かった。 部屋には、すでにヒマリとノリスが待っていた。 窓の外では港が活気づき、荷役の掛け声が潮風に乗って響いている。 ペトラは二人の前まで歩くと、何も言わず黒塗りの木箱を机へ置いた。 鈍い音が室内に響く。「……これは」「約束の品だ」 ペトラは短く答えた。「ジギスムントは交渉に応じた」 ヒマリは静かに木箱へ手を添える。 重い。 その重さが、この箱に収められたものの意味を物語っていた。(これが……) アレクシス公子の右腕と右目。 ジギスムントが最後まで切り札として握り続けていたもの。 ヒマリは蓋へ手をかけかけて、そっと手を離した。 ここで確かめるものではない。 フェルマーへ託すべきものだ。「私が行っても、ジギスムントは会ってくれなかったでしょう。 ……ありがとう」 自然と頭が下がる。 だがペトラは苦笑して首を振った。「礼を言われることじゃない」 一拍置いて続ける。「北部都市群の信用を守っただけだ」 その言葉に、ヒマリは小さく笑った。 商人らしい答えだった。 ペトラは椅子へ腰を下ろし、改めてヒマリを見る。「一つ聞く」「うん」「海路開放。本当に実行するつもりか」 真剣な問いだった。「もちろん」 ヒマリは迷わず頷く。「短期的には損をする」「分かってる」「空路の利用料も減り、サンドランドは再び力をつけるだろう」「それも分かってる」 それでも表情は変わらない。 窓の外では、船が港を埋め、人々が忙しく荷を運んでいる。「でもね」 静かな声で続けた。「富は独占するより循環した方が、最後はもっと大きくなると思う」 ペトラは黙って耳を傾ける。「一つの港だけが栄えるより、町と町が繋がった方がいい。 物流が増えれば、人も技術も文化も動く」「その結果、誰か一人じゃなく、みんなが豊かになれる」 ネリィなら数字で証明してくれるだろう。 ヒマリは、その未来の景色を信じていた。「戦争で奪うより、交易で増やした方がいい」 その一言に、ペトラは静かに息を吐く。「……商人としては反論できん。――儲かる話だからな」 苦笑が漏れる。 ヒマリも笑った。「これから王都に戻って、正式な交渉団を派遣するわ。 一度に送れる飛
Huling Na-update: 2026-09-08