Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《12》『――帝都を病が襲ったとき、多くの呪術師も死んでいる。そのせいか、呪いがとける事態があちこちで頻発している。お前の不能も低能な呪いの一種だったってことだよ』 病だとばかり思っていた柚子葉の不能は父侯爵に恨みを抱いていた者による呪いだったのだ。父親ではなく息子に不能の呪いをかけたのは、これ以上子孫を残させないためだろうか……真相が判明したところで自分に呪いをかけた人間がのうのうと生きているとは思えない。呪術師同様すでに鬼籍に入っているだろう。 柚子葉はいまさら考えたところで埒が明かないと思考を手放し、隣で横になっている妻へ視線を向ける。「ゆずにい?」 「もう、君の義兄じゃないだろ」 「……ゆずは、さん」 「まだまだ他人行儀だな、ゆすら」 「だってゆずにいはゆずにいで……!?」 「舌、出して」 「――ン」 ちいさな寝台がみしりと軋む。舌を絡ませるしっとりとした口づけを経て、ふたりは互いの服を脱がしあう。監禁していたときのように、柚子葉は山桜桃を丁寧に愛撫していく。「はぁ……ゆずは、さん」 「僕だけの天女。もう羽衣もないから逃げられないね。これからも手放さないよ」 「あつい、あついよぉ……早く、ゆずにぃ、挿入れてっ」 「まったく、せっかちだなあ」 くすくす笑いながら柚子葉は山桜桃の愛液が滴る蜜口へ自身の昂りを押し当てていく。 繋がることなどできないと、そう思っていた――けれど。「あぁ……っ! ゆずにぃのが、わたしの、なかで……!」 「こうされるの、好きでしょう?」 「すき、すきっ、気持ち、いいっ――……ひゃ、あっ、あんっ!」 パンパンと腰を打ち付けながら愛する女性を絶頂させられるようになって、柚子葉は心の底からしあわせを感じでいた。 快楽に溺れる山桜桃もまた、柚子葉の想いに応えるように言葉を紡ぐ。「ひとつになれて、うれしい」 「……こらっ! なかに出すぞ」 「は、はい……っ~~~!」 ふたりのあいだに子どもができたら。 女児ならまた、羽衣を持つ天神の娘がいると狙われるかもしれない。そのときはそのとき、悪いやつはやっつけるのみだと柚子葉は心に決めている。山梅桃が襲撃されたときに銃で容赦なく殺したように。 けれど、いまはまだこの腕に天女を閉じ込めて、ふたりの時間を満喫したい。
Last Updated: 2025-08-20
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《11》 * * * 「あのとき早まらなければ僕がかの国の栄華を手にしていたかもしれない」 「莫迦なことをおっしゃらないで」 反乱軍による革命は帝の暗殺後、第一皇子によって制圧され、志半ばで終了した。温厚な第一皇子は父帝が武力ですべてを解決しようとしたことで起こった反乱に心を痛め、巻き込まれた民間人だけでなく、革命を引き起こした首謀者たちにも恩情を見せた。反乱軍に所属していた華族にはそれぞれに処分が通達され、空我柚子葉も帝都にある侯爵家の土地を国へ渡すことと帝都追放の処分を受けた。処刑されずに済んだのは柚子葉自身が帝を直接害した人間でなかったからだ。革命時に柚子葉が浴びた返り血は魔術鑑定によって帝のものではなく別人のものだと判明した。そこには真相を知りたいという第三皇子於環の協力もあったため、柚子葉は於環にあたまがあがらない。 帝が血眼になって探し求めていた天神の娘については帝の死によってなかったことにされた。そもそも山桜桃の存在を知る皇族が於環以外いないのだから、いまになって明かす必要もない。 空我家の娘は死んだものとして扱われ、かの国に羽衣を持つ天女の存在は北大陸伝来のお伽噺として書物に記されることとなる。 だが、それに納得しなかった第二皇子が第一皇子と対立、緊迫した状況に陥るなか、帝都に厄介な病が流行り、ふたりとも帰らぬ人となってしまった。 結局、第一皇子の施政は一年ももたなかったのである。玉座は瞬く間に第三皇子於環のもとへと転がり込んだ。「……結果的に於環がいまのかの国の最高権力者、帝だものな」 天女の羽衣を肉体的に奪った於環はいまも独り身のまま、かの国の頂点に君臨している。そろそろ妃を迎えろとの声も出ているが、彼は聞く耳を持たないのだとか。複数の妃を侍らせ、異国の地から奪ってきた女も囲いながら、いもしない天女伝説に溺れた父帝の陰惨な最期を見ているからそう簡単には結婚できないのだろうと世間では囁かれている。あながち間違いではない。「於環さまにもいい女性(ひと)が現れるといいですね」 「――だな」 あの革命からもうすぐ一年が経過する。帝都を追放された柚子葉は山
Last Updated: 2025-08-19
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《10》 * * *「ゆずにぃ、ゆずにい……」「ああ、ゆすら……君の肌は柔らかくて、とても美味しい」「はずかしい、です……ああっ」「見られて感じるなんて、淫らな天女さまだ」 繰り返される丹念な愛撫と接吻で、山桜桃はぐずぐずに蕩けている。いままで拘束していた鎖ははずれ、自由になった腕は全裸の義兄の背中を必死になってつかもうとしていた。 地下牢のなかの寝台で、はだかの山桜桃と柚子葉が肌を重ねている。於環はふたりの濃密な行為を意識しないようにしていたが、ふたりの熱量が上がっていくにつれ、自然と身体は疼いていた。天女とはこんなにも淫らで美しい生き物だったのかと、最初に抱いた男が栄華を得るという伝承もあながち間違いではないのかもしれないと……神秘的な愛の交歓にすっかり酔わされてしまう。「もう、もういってしまいますぅう――いくのっ、ゆずにぃさまぁ――……ッ!」 監禁している間に柚子葉は義妹をずいぶん調教したらしい。互いの身体に溺れていく背徳的な光景を見せられながら、於環はぽつりと呟く。「そろそろ交代するか?」「待ってくれ。彼女をあと三回絶頂させる」「ぇ……!?」 柚子葉の片方の指は山桜桃の秘処を探っている。口ではちうちうと出ない乳を吸い、残された手で胸を揉みしだく。快楽を受け入れて甘く鳴く彼女は涙をこぼしながら身体をびくんびくんと震わせる。何度も彼の手と口で全身を愛でられて、ふれただけで快楽を拾い上げる山桜桃の淫靡な姿は宙に舞う天女だからか、それとも愛する義兄にふれられているからか。 於環は自分の下半身がずっしりと重たく、いきり勃っていることを痛感する。だが、柚子葉の下半身はうんともすんともいわない。ほんとうに反応しないのだなと於環は愛撫に夢中な柚子葉を憐れむように見つめる。勃起できないことを柚子葉は義妹に邪な想いを抱いた罰だと思っているようだがそれだけではない気がする。強いて言えば第三者による
Last Updated: 2025-08-18
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《9》 ゆずにい、と舌足らずな呼び方を改めて、山桜桃は於環の前で淋しそうに微笑む。「ゆずにいは、不能のご病気なのです……だからわたしの羽衣をけして奪えません」 山桜桃の羽衣を丹念に仕立てていても、彼の身体は微塵も反応しなかった。山桜桃が美しく淫らになっていくのを悔しそうに見つめている義兄は、ほんとうは真っ先に抱きたいと思っていたはずだ。 だからといって命乞いのために父親よりも年上の帝に義妹を捧げられるほど、鬼畜でもない。親族を悉く殺され、自分だけ取り残された彼にとっての唯一の希望が男を知らない天神の娘で自分の異母妹でもある山桜桃の存在だったのだから。「……そういうことか」 「一部の皇族が持つ魔術のなかには、感覚を共有させるものがあると聞きました。だから……羽衣を渡す代償として、僕にその身体を貸して欲しい」 「そのようなことが可能なのですか」 驚く山桜桃に、於環は軽く首を振る。「完全な感覚共有ではないが一時的にだが俺の身体で得る情報を第三者へ転写する魔術は存在している」 「じゃあ……!」 「そこまでしてお前たちはひとつに繋がりたいのか? 神の怒りを一身に受けることになっても?」 於環の言葉に柚子葉が驚き山桜桃を見つめる。彼女は恥ずかしそうにはにかんで、自分の気持ちを改めて口にする。「――わたしは、ゆずにいをお慕いしております」 「あぁ、ゆすら……僕の一方的な恋情ではなかったのだね」 「そうじゃなければ、羽衣をおとなしく仕立てられなんか、しません! ゆずにいさま……あなたが抱くことのできない身体だと理解しても、いつかこの先を致したいという気持ちは止められませんでした」 「ゆすら」 かの国の神々は近親相姦を是としていない。堅九里が口にしていたように血の繋がりを持つ男女がまぐあえば、怒りを買うと忌み嫌うのが常識だろう。 だが、柚子葉は自身が不能であるだけで、義妹を抱きたいと心の底から想っているし、彼女もまた同じ気持ちだ。 たとえ神々を敵にまわしても、互いに愛し合いたいと、かの国の神々の代理人である帝の息子
Last Updated: 2025-08-12
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《8》 * * * 反政府軍の会合が頻繁に行われるようになると、自然と柚子葉の訪れが減るようになった。外の世界では帝が狙われる暗殺未遂事件が起こっており、革命間近だと囁かれているのだが、囚われている山桜桃が知ることはなかった。だが、目の前にいる青年はそう思っていないのだろう。「見つけた。天神の娘」 「あなたは、だれ?」 この邸周辺には古語魔術による結界が張られているため、常人が山桜桃の囚われている場所を把握するのは困難だと柚子葉は言っていたが、彼は何事もなかったかのように地下牢へ降りてきて、鍵を開ける。「俺は於環(おだまき)だ」 「オダマキ?」 「またの名を、於環(オウワ)」 「――第三皇子!?」 ごくり、と山梅桃が唾を飲むのと、こくり、と於環が首を縦に振ったのは同時だった。 拘束していた鎖を無言で外し、於環は山梅桃の名を確認するように呼ぶ。「空我、山梅桃……俺の父がお前を望んでいる」 「……存じております」 柚子葉は山梅桃を帝に差し出すつもりだったのだろうか。目の前のあまりにも従順な彼女の反応に、於環は顔を歪ませる。「お前はそれで良いのか」 「そのためにここで羽衣を仕立てていたのでしょう。帝に羽衣を差し出せば、ゆずにい……義兄の生命は助かるとききましたので」 山梅桃は諦観しながら応える。ここにいない義兄のため、健気にも純潔を差し出すことも厭わないと。 だが、柚子葉はそのことで疑心暗鬼に陥っているようにも感じられた。素直に羽衣を仕立てた義妹を渡すだけで、帝が反政府軍の上層部にいる彼を赦すとはとうてい思えないからだ。「そんなに義兄が好きか」 「ええ」 頬を朱色に染めて儚げに微笑む山桜桃を見て、於環の心がざわつく。薄い夜着を纏った彼女の身体の線は透けており、美しい形をした乳房が丸見えだ。長い鎖を巻いた手首は自重のせいか赤い痕が残っている。何があっても起こっても、義兄は彼女を手放しそうにない執着心と矛盾する彼女の姿に於環は困惑する。「だって、ゆずに
Last Updated: 2025-08-11
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《7》 * * * 天神の娘の所在が明らかになったと帝の三番目の息子、於環(おだまき)のもとに届いたのは、山桜桃が襲撃されて十日ほど経った頃のことだった。 彼女は空我本邸の地下で義兄の柚子葉が張った結界に保護されているという。「結界ねぇ」 そのようなまやかしでかの国の玉座を守護しつづけている皇族を騙せるとでも思ったのだろうか。だとしたら愚かだ。兄上がわざと見逃しているようにしか思えない。 じゃらじゃらと耳障りな音を立てながら於環は反芻する。 天神の娘が持つという羽衣はかの国の権力者を惑わす危険なものだという。過去に山桜桃の母が北大陸の内乱を引き起こしたように。けっきょく彼女は帝が羽衣を奪ったが、後継を産めなかったからと空我侯爵に押し付けてしまった。まさかそこで新たな天神の娘を産み落とすとは考えもしなかったのだろう。安直な父帝らしいと於環は苦笑する。「於環様、組織の上層部にいる空我柚子葉は義妹である山桜桃の羽衣を奪うことなく、掌中におさめております。これはいったい」 「あの男か。父は娘を渡せば生命まではとらないと口にしていたが、十中八九葬るだろうな」 そもそも於環は山桜桃という天神の娘を知らない。父帝は天神の娘など羽衣を奪わぬ限り国を揺るがす悪女でしかないと罵っているが、ほんとうにそうなのだろうか。「それより……父は母親だけでなく娘の純潔も奪おうとしているのか。俺はそっちの方がおぞましい」 皇位に執着している父を見ていると政変も致し方なしと思う時点で自分は彼と袂を分かつ運命にあるのだろうと於環はため息をつく。 だから皇城の片隅で、父から危険分子扱いされて監視つきで囚われているわけだが……すでにその監視、堅九里(かたくり)も於環の配下に覆っている。 じゃらじゃら、趣味の悪い白金の枷が手首を戒めている。本気になればこのような玩具、すぐにでもはずせるが、於環がいま動けば実の息子だろうが父帝から粛清の対象として処刑されかねない。 ――それでもいい加減話のわかる堅九里に見つめられながらのこの監禁生活には飽きていた。「だからといっ
Last Updated: 2025-08-06
Chapter: epilogue 言葉のわからない国の、ちいさな教会で、手毬は真っ白なウェディングドレスを着た。 出国時に菊花が用意してくれたシンプルなドレスは、亡き父である雪之丞が娘のためにと密かに用意させていたものだという。父親の記憶などほとんど覚えていない手毬だったが、ドレスを着て鏡の前で自分の姿を映した際に「ユキノジョーの、おじさん?」と驚いたような声をあげていた。 自由は自前のアッシュグレーのスーツにその辺に生えていた生花(ハーブ)のコサージュというシンプルな出で立ちだったが、白衣姿ばかり見ていた手毬には新鮮に映ったらしく、「ジユウ、かっこいい!」と大喜びしていた。「手毬もキレイだよ。ようやく、あのときの約束を果たせるな」 「ん。覚えていなくて、ごめんなさい」 「無理に思い出す必要はないよ。俺が覚えている」 教会に参列者はひとりもいない。ふたりの結婚を見ていたのは年老いた牧師だけ。 けれど、ふたりは満足だった。 壁を飾る色とりどりのステンドグラスは花をモチーフにしており、ユリやバラだけでなく、ガーベラ(雛菊)やスピラエア(小手毬)の花もある。小手毬の花だね、と自由が手毬に教えると、彼女は「しろいはななの、花言葉は“努力”……なんだか自由みたいなお花ね」と意外なことを口にした。 太陽の柔らかな陽射しを受けて微笑む手毬を見ていると、交通事故で死にかけたあのときのことが嘘みたいだ。「手毬が……小手毬だった頃、ジユウおにいちゃんのお嫁さんになる! って言ってくれたんだ」 「ジユウ、おにいちゃん?」 「俺たちははじめ、兄妹みたいな関係だったから。でも、いまは違う」 「いまは?」 兄妹だと口にしたら、彼女を混乱させてしまうだろう。 自由は優しい嘘をつきつづける。手毬の記憶が戻ってしまったら、すべてが水の泡になってしまうかもしれないけれど。 いまは、まだ。「ああ。いまの俺は、ひとりの女性として、手毬を愛しているよ」 そう言って、彼は手毬を抱き締め、キスをする――…… * * * 誰にも祝福されない結婚式を終えたふたりは、そのまま宿泊先ですべてをさらけだして、肌を重ねあって、ぬくもりをわかちあった。 唇をふれあわせて、互いの舌を絡めあわせて、わざといやらしい音を立てて、劣情を掻き立てる。 自由にふれられると
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: chapter,4 + 14 + * * * 戸籍から亜桜小手毬という名前が消えたため、彼女は「手毬」に名を改めた。 自由も「サダヨシ」ではなく「ジユウ」と彼女の前で名乗っている。兄妹であることは黙ったまま、自分たちは幼い頃から結婚を約束した恋人同士だと教えると、手毬は素直に納得し、それ以上問いただすこともなくなった。「じゃあ、ジユウ……さん?」 「そうだよ、手毬」 だが、たまに自由が彼女のことを小手毬と呼んでしまうため、「あたし、テマリ? コデマリじゃなくて?」と不安そうな声をあげることがあった。 そんなときは「コデマリっていうのはむかしの、小さいときの呼び名だったから……」と自由は淋しそうに微笑うのだ。 ふたりのもどかしいやりとりを見守っていた菊花は、彼女を諭す。 「貴女はもう小さな子どもじゃない。ジユウとふたりで新しい名前で生きていくの」 そう言われて以来、彼女は自分のことを受け入れ、「テマリ」と呼ぶようになった。 菊花を自分の本当の母親であることを知らない手毬だったが、彼女の言葉は不思議と乾いた土に染み渡る水のように素直に飲み込める。そのことを自由に伝えると「彼女は悪いひとじゃないけど、深く関わらなくていい」と窘められてしまった。 もしかしたら嫉妬、だろうか。手毬は首を傾げつつも、自由が嫌がるのならと、自ら菊花に近づくことをやめた。 陸奥と加藤木は地域医療センターへ戻ることになり、手毬のケアは自由ひとりで行うことになった。 ようやく彼は念願の彼女の担当医になれたのだ。 菊花が管理している施設で手毬は自由とふたりで過ごしながら、体力を回復させていく。 ときどき淫らな夢を見ておかしくなりそうになったけれど、自由にそのことを告白して以来、彼が毎晩気持ちいいことを教えてくれるようになった。 口づけだけでは物足りないと、火照った身体を曝け出して、自由を困らせることもたびたびあった。過去に包帯で拘束されたり目隠しされたりという奇抜な行為を教えられていた彼女は、それが愛し合う上でふつうのことだと認識していたからだ。記憶は消えたはずなのに、ふれられると思い出してしまうのは、薬による後遺症で身体が快楽を忘れられずにいるだけかもしれない。それでも自由にふれられることは彼女にとって極上の体験になっている。「手毬は俺だけのものだからな」 「うん」
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: chapter,4 + 13 + ――全身麻酔から覚醒した小手毬だったが、彼女は自分のことと、自由に関する記憶を失っていた。「麻酔の副作用で稀に意識障害を起こすことがある。一時的なものだと思うが、無理に思い出させると頭痛を引き起こす。交通事故の後遺症は寛解しているはずだが……精神的な要因の方がおおきいかもしれないな」 「せいしんてき、よおいん?」 「ああ。頭が痛いとか、そういうことは?」 「ないよ、いまのところは」 冷静に分析する陸奥と、なぜか彼になついている小手毬。 彼女は白衣姿の陸奥を見て「あっ、ミチノク!」と嬉しそうな顔をした。交通事故から覚醒した直後の、どこか幼さの残るたどたどしいしゃべり方をしている。 自由は苛立たしそうにふたりを見つめる。なぜ、小手毬は俺のことを忘れて、陸奥のことを覚えているんだ? どうしてここにきて、小手毬が自分のこと、俺のこと、約束のことを忘れてしまったんだ? 自由は絶望よりも先に怒りで手が震えていた。「サダヨシ」 「母さん」 「彼女は生まれ変わったのよ。これから新しい土地で、ふたりで生きていくのでしょう?」 「でも」 自由はこんな結末を望んでいなかった。 幼い頃から約束をした小手毬と、幸せになるのだと思っていたのに、彼女は記憶を失っている。 戸惑う自由の姿は、まるで迷子になった子どものようだ。 陸奥の前でにこにこと会話をする小手毬だったが、自由と視線を会わせ、不安そうに瞳を潤ませた。「お、覚えてなくて……ごめん、なさい」 あなたのことを覚えていなくてごめんなさい。そう言って、小手毬は自由の震える手を握る。 あたたかい、生きている、ぬくもりを持った、手が、自由にふれる。 自由は彼女に手を取られた瞬間、瞳から涙をこぼしていた。 「お、俺のほうこそごめん。小手毬のせいじゃ、ない……俺は、隣でお前が生きていてくれれば、そ、それだけでいいんだよぉお……っ」 だから、そばにいて。 もう、その身体をほかの男にふれさせない
Last Updated: 2026-05-22
Chapter: chapter,3 + 12 + 陸奥が施した全身麻酔によって仮死状態にされた小手毬は雨龍によって死亡手続きをとられ、他のスタッフに気づかれる前に蘇生措置を開始、茜里第二病院から外へ出された。自由によって亜桜菊花が管理している施設へ運ばれた小手毬は、離れの部屋で眠らされている。 ピンクのカーテンに猫脚の学習デスク、カントリー調の家具が並べられたこの部屋は、まるで子供部屋のような雰囲気があった。その片隅に、小手毬が眠る医療用ベッドが置かれている。 静脈から点滴された麻酔の効果は通常三時間ほど。いまはまだ自力呼吸をするのが難しいため、小手毬の顔には酸素吸入器がつけられている。 自由はこんこんと眠りつづける彼女の横顔を飽きることなく見つめていた。シーツからこぼれるふわふわの髪を撫でながら。 交通事故から奇跡の生還を遂げたときは、傍にいられなかったけれど。 今度こそ、彼女が目を覚ましたときに……「小手毬……俺と一緒に来てくれると言ってくれて、ありがとう」 自由は瀬尾を殺し、小手毬の処女を奪った。小手毬の死を偽らせた後、誘拐し、悪人になった。 亜桜小手毬という名前はもう使えないが、自分の母親のように名を変え姿を隠して生きつづけることは可能だ。もう“女神”の“器”として“諸神信仰”を盲信する人間たちに調教されることも追われることもない。 死にたがりの彼女に「亜桜小手毬は死んだんだよ」と教えたらどんな顔をするのだろう。彼女のことだから、新しい名前を名乗ることになっても、住む場所を変えることになってもきっと、自由の傍にいて笑ってくれる。そう思いたい。「たとえ“女神”に罰せられるとしても、俺は小手毬を守るからな」 母の雛菊は菊花と名を変え、なに食わぬ顔をして生き延びていた。すでに“女神”の“器”としての仕事をやり遂げた彼女は、諸見里の家に戻ることもなく、結婚することは叶わなかったが愛する雪之丞の傍にいることを選んだ。小手毬も母親のように自由に囲われて、監禁されても喜びそうな気がするが、自由は幼い頃にした約束を果たしたいから、この国から脱出することを決める。 きょうだい同士でも法的に結婚することが可能な国があるという。そこ
Last Updated: 2026-05-21
Chapter: chapter,4 + 11 + 茜里病院から車で一時間ほどの場所に、その施設はあった。 かつて桜庭雪之丞が私財を投じて建造させたという石造りの養護福祉施設。俗にいう高級路線の高齢者施設、老人ホームである。 だが、そこで悠々自適に暮らしているのは老人ばかりではない。離れには若年向けのスペースがあり、会員制の保養所として開放されている。「この施設も、桜庭雪之丞が残した“隠し遺産”なのか?」 「そうよ。名義は別のひとが持っているけれど、あたくしが管理一般を任されているの」 亜桜菊花と名乗った女性は、周囲をきょろきょろ見回す陸奥を興味深そうに観察している。交通事故で瀕死の状態だった小手毬を救った麻酔科医は、彼女が抱えていた闇を知り、この騒動に巻き込まれてしまった可哀想なひとだ。幸い、“諸神信仰”のために“女神”を利用し金を巻き上げる宗教団体に目をつけられることはなかったようだし、取引次第ではこちらの味方でいつづけてくれるだろう。息子と娘が想いあっている限り。 亜桜雛菊という、戸籍上は死んでいる小手毬の母は雪之丞のちからで新たな名を手に入れ、世間から隔離されたまま彼に囲われることになった。雪之丞の死によって自由になった菊花は、“女神”の“器”となる宿命を持つ娘の行方を調べ、彼女が亜桜家にいた頃の自分と同じ道を辿ろうとしていることに危惧を抱く。 雪之丞が生きていれば小手毬が“器”として覚醒する必要はなかったが、彼の死によって彼女は新たな医療行為――調教を受けることになってしまった。 交通事故で女性としての機能を止めてしまった彼女は、瀬尾の手で淫らな“女神”となるよう洗脳されていく。“審判の日”に権力者と契りを結び、“器”としての本領を発揮するそのために。密かに“諸神”の加護を求める男たちを、菊花は調べあげる。そのなかの有力候補に、雪之丞や雛菊とも縁のある茜里病院の後継者、赤根雨龍がいた。 菊花は雨龍に近づき、彼を見極めようとした。 それとほぼ同時期に、“彼”が現れた。地域医療センターの職を辞し、姿を消した実の息子――諸見里自由が。『匿ってくれませんか、母さん?』 彼がこの場所をつきとめられたのはきっと、蘭子の協力があっ
Last Updated: 2026-05-20
Chapter: chapter,4 + 10 +「バレたらどうするつもり?」 「バレても彼らは黙って指を咥えているしかないの。なんのために大金を病院側は出してると思う?」 「……口止め料」 「せいか~い」 あえて茶化すように言葉を紡ぐ加藤木の図々しさに天はがっくりと頭を垂れる。 彼女は部外者でありながら、いや、部外者だからこそ、ここまで自ら手を汚すことなくやりきったのだ。これが天だったら、亜桜菊花と手を組むなど考えもしなかっただろう。「母は娘の幸せを願ってる。たとえそれがこの土地で禁忌と呼ばれる兄妹同士の恋愛であっても」 「加藤木先生はそのことについてどう思っているんだ?」 「菊花自身、一度は雛菊という名前で嫁に出たが異父弟である雪之丞との大恋愛をしている。ふたりの関係が公になることはなかったが、雪之丞は生涯菊花という女を囲い続けた……それもまた愛の形なのでは?」 はぐらかさないで、と言おうとして、天は泣き笑いの表情を浮かべる加藤木を前に硬直する。「ジユウくんはすべてを擲ってでもコデマリちゃんを手に入れようと動いた。彼女もまた、それに応えた。この先ふたりが待ち受けているものが何かはわからない。わたしも知らないし、知る必要はないと思うんです。ただ、わたしはジユウくんの危険なまでの一途な姿を応援したかった」 「それだけ?」 「コデマリちゃんがずっと彼を想い続けている姿も見ていた。ふたりを阻む障壁を壊したかった。だけどその結果、ナラシノ先生の復讐は叶わなかったわね」 「……私はいいんだよ。亜桜小手毬が死んだのなら赤根一族が血眼になることもないから」 いちどは小手毬を自由から引き離すことが叶った。想定外の交通事故で。 だが、その結果、自由は小手毬を救おうと、道を違えた。それは諸見里の家を棄てるという彼なりの選択だったのかもしれない。 あの家は過去に“女神”に去られて没落した。“女神”は赤根一族の“冬”で彼女の異父弟である桜庭雪之丞に加護を与えた。諸見里と赤根は表面上仲良くしながらも水面下では確執を抱いていた。天は“女神”の“落とし子”である自由に興味を持った。けれど彼の傍には“女神”が“器”にしようとしている小手毬もいた。
Last Updated: 2026-05-19
Chapter: ~誓いの海に千の蓮咲く~ 2 * * * 「桜の花が咲いたら、結婚式を挙げよう」 「え?」 かの国へ行ったら見てみたいと言っていた道花だったが、あいにく時季が外れていたため目にすることが叶わなかった彼女に、九十九は言いだしたのだ。「誰の?」 「おれたちの」 きょとんとした表情の道花の艶やかな口唇を指先で撫でながら、九十九は囁く。「それまでに帝都を建て直し、おれは今度こそ民草の前できみを紹介する。人魚の女王の娘としてではない、珊瑚蓮を咲かせた精霊として。|姓《かばね》を持たぬマジュミチカ……彼女こそ、おれとともにかの国を栄華へ導く女神である、と」 「ちょっとそれ言いすぎだよ! 真名は大切なひとにしか教えられないんだからただのミチカでいいの」 「……そう、か。そうだったな」 「そうだよ。あたしだって、ハクトのこと、外では陛下って呼んでるでしょう?」 「じゃあ、おれがきみをマジュって呼ぶのも本来はいけないことなのか?」 「いけなくはないけど……えっと、那沙によると、女王に呪われたマジュミチカがあたしの真名で、それを神殿名に書き換えたのがロタシュミチカなのはハクトも知ってるよね。呪いが解けたことで、真名のちからも復活したから、マジュミチカって名前は本来、結婚式や葬式のときくらいしか使われなくなるわけ。人前で名乗ることはできないけど、愛称としてのマジュなら問題ないから大丈夫だよ、たぶん」 「はあ」 九十九が道花を見初めたことがきっかけで人魚の女王に真名を呪われる羽目に陥った少女は、国祖神ナターシャに真名の代わりとなる神殿名を与えられた後、引き続き道に咲く花という俗称で呼ばれることになった。 呪われる以前からミチカという通称が定着していた彼女にとって、いまも初恋の思い出を引きずってマジュと呼びつづける九十九は、複雑そうな表情を浮かべている。「まぁ、みんなは面倒くさいからミチカって呼んでたけど……あたしがあなたをハクトと呼ぶように、ふたりきりのときだけなら別に構わないからね。っていうか嬉しいから!」 「……ほんとうか?」 「うん。たったひとりの愛しいひとだけに呼ばれる愛称だも……んっ!」 素直に九十九の言葉に頷けば、嬉しそうに瞳を輝かせた彼に紅色の唇を塞がれ、道花の息がとまる。「――っ」 「……誓蓮に帰すのが惜しいな」 「それとこ
Last Updated: 2025-12-05
Chapter: epilogue ~誓いの海に千の蓮咲く~ 1 窓から見えたのは一面の桜色。季節はずれな色彩が、強烈な潮の香りとともに活のもとへと届けられる。 これは、伝説の珊瑚蓮の花? 誓蓮の海からかの国へと、根茎を伸ばしてきてくれたのか? そうか――全身全霊をかけて舞った神謡に、海神が応えてくれたのだな。 息を切らせてその場へしゃがみこむ。もはや自分がすべきことは何もない。このまま神へ生命を捧げて息子たちの元へ向かうのだろう。そんなことを思った矢先。 「母上!」 「……仙哉?」 死んだと報された息子の、変わらぬ姿。 いや、変わらないわけではない。隣に美しい女性を連れている。「おまえ」 「慈流と申します」 ぺこりと優雅に礼をする女性は、あのときの人魚の花嫁。けれど、初めて目にした時よりも剣呑な雰囲気はなく、柔らかい。「僕の、大切なひとなんだ。母上」 ――だから彼女の心臓を食べないで! 人魚の手をきつく握りしめた仙哉は呆気にとられた表情の活に訴える。この息子はほんとうに自分が人魚の心臓を食べて若返ろうとしていると心配していたのだろう。だが、いまさら若返ったところで哉登が戻ってくるわけでもない。それに。「仙哉……莫迦なことを言うでない」 ――息子の大切なひとを食べるなど、妾にはできぬ。 その言葉に、仙哉は目をまるくして、破顔した。 そんな息子の安堵した表情を見て、いままでの悪夢はほんとうに終わったのだなと、活の瞳に涙が浮かぶ。 窓の向こうには、珊瑚蓮の花が咲き乱れている。栄華を讃える桜色の花が。 * * * 「道花がセイレーンに戻るって言うなんて思わなかったわ」 「だって那沙を送り届けなくちゃいけないし、涼鳴さんや神殿のみんなに挨拶しないと」 ――珊瑚蓮の花が咲いて一ヶ月。 秋から冬に向かうかの国を後に、那沙と道花は真珠島行きの船に乗っている。九十九は道花にここにいて欲しいと懇願したが、道花はそれをやんわりと断り、那沙とともにいったん故郷へ戻ることを選んだのだ。「ただ単に寒いのが苦手なんでしょ、道花は」 「そういう那沙だって帝都にいる間ずっと厚着してたじゃない!」 セイレーンの海域から飛び出し、かの国まで根を張り茎を伸ばし幾千もの花を咲かせた珊瑚蓮の姿はいまも健在だ。だが、差し迫る寒さが影響しているのか、さすがに帝都まで伸びていた花は落ちている
Last Updated: 2025-12-04
Chapter: ~神謡に舞姫は開花を願う~ 9「仙哉、さま……?」 「義弟(ゆうりん)から貴女が花嫁じゃないと知って、心底安心しました。これでも僕は狗飼の人間です、多少の不思議だったら目を瞑ります。まぁ、今回自分が犯してしまった罪の深さに目を瞑ることはできませんが……」 たしかに彼は闇鬼に憑かれる弱い心を持っていた、だからオリヴィエに利用され、幽鬼にさせられ、他人を傷つけた……けれど、自我を取り戻した彼は、その事実を否定することなく、まるごと受け止めて、それでいてカイジールに伝えようとしている。 自分が心の裡に抱く、ひとつの気持ちを。「慈流どの。初めてお逢いしたときから、僕は……」 「知ってます」 カイジールは顔を真っ赤にした仙哉の前でくすりと笑う。ああ、まだ自分は笑える。女王陛下が海の泡に消えてしまったというのに。まだ自分は生きている。オリヴィエの名を継いで彼女のために消えるために女性になったというのに。笑ってしまう。 けれど悔やんでばかりでは何も進まない。幽鬼であったことを受け止めカイジールに想いを伝えた仙哉のように、自分も動きださなくては。「ボクは、いままで男だったんですよ」 「知ってます。人魚って、そういうものでしょう?」 慌てて返せば仙哉は飄々とした表情で言葉を紡ぐ。もはや種族が違うから、なんて理由で想いを諦めることはできないのだと。「……考えさせて」 いまはまだ、彼に是とも否とも言えない。「勿論ですよ。ただ、僕がこの気持ちを伝えるのを待てなかっただけですから」 朗らかに笑う仙哉を見て、カイジールはこくりと頷く。 オリヴィエとバルトはたしかに愛し合っていた。だから道花がいる。たとえ彼女が生まれたことで愛が破綻してしまったとしても、ふたりの間には確かに種族を越えた愛が在ったのだ。 もう、セイレーンという国はない。人魚が国を統治する女王も必要ないのだ。残された人魚は人間と共存の道を探っていくしかない。 カイジールにとって、仙哉の告白は、戸惑いと高揚に満ちている。さっきまでは、セイレーンに戻って穏やかに暮らせればそれでいいと思ったけれど、このままかの国で仙哉が死ぬまで傍にいるのも悪くない気がしてきた。どうせ人魚の寿命は長いのだ、女王陛下を偲んで海に暮らすのは老後にとっておいてもいい。 そう考えて、カイジールはもっと考えてみようと決める。人魚と人間の共存につい
Last Updated: 2025-11-28
Chapter: ~神謡に舞姫は開花を願う~ 8 「……僕は?」 ふたつみっつと花開いていた珊瑚蓮は、気づけば数えられないほどの花をいちめんに咲かせていた。海の紺碧に桜色の蓮花が浮かび上がり、夢のような情景を描き出す。「兄上!」 仙哉の声に気づいた悠凛がパッと顔を輝かせ、駈けていく。カイジールは幽鬼となった彼が自我を取り戻した奇跡に呆然とし、視線を海へ落とす。「まさか……女王陛下」 貴女は仙哉を殺したと、そう言っていたのに。彼の自我は死んでなんかいなかった。珊瑚蓮の開花とともに、彼は蘇って、笑顔を咲かせている。 同時に静まり返っていた神殿が、ざわめきを取り戻す。仙哉の生還が、国祖の狗たちにも伝わったのだ。「――貴女は、どこまで悪役になりきれないのです」 これだけ暴れておいて、結局自分が明確な殺意を持って手にかけたのは九十八代神皇帝ただひとり。彼女に振り回されるように現れた鬼神も、最後には自分の不利を悟って冥穴のなかへ帰ってしまった。悪しきモノを問答無用で浄化する桜色の珊瑚蓮が咲いたから。 パシャ、と水が跳ねる音とともに、カイジールの耳元に甲高い笑い声が谺する。『だって、愛していたんですもの』 ただひとり、長い人魚の一生のなかで愛した人間。誰よりも彼のことを考えた。彼が愛した土地、ひと、世界を壊してでも、彼さえいればいいと思った。 けれどそれは間違いだった。オリヴィエは最後まで気づかずにいたのか、それとも気づかないふりを通していたのか…… カイジールは咲き誇る珊瑚蓮の花にそっと触れ、淋しそうに微笑う。「冥穴からやってきたボクのことは、消してくれないのかな」 「消えたかったんですか?」 「まさか。もともと人魚は異形なんだ。だからこういう事態に陥ったら消えても文句は言えないなぁと思っただけ」 背後で聞こえるのは晩餐の席で甘く囁いた青年の声。彼は男人魚だったときからカイジールのことだけをじっと眼で追っていた。自我を失わずに済んだのは、自分のことを想っていてくれたから、なのかもしれない。「でも、そしたら僕は泣いてしまいますよ」 珊瑚蓮の茎をかきわけて、仙哉がカイジールの前へ現れる。幽鬼となったときの記憶が抜けているからか、まだどこか夢を見ているような状態なのかもしれない。だから、素直に気持ちをぶつけてくる。どうせ、夢だから。「……女性になった貴女は、もっと綺麗ですね」
Last Updated: 2025-11-21
Chapter: ~神謡に舞姫は開花を願う~ 7 * * * 「なんなのよこの海水は!」 オリヴィエは困惑していた。人魚である自分に従順だった海が、いまになって反乱を起こしている。それもこれも、珊瑚蓮の精霊のせいだとわかっているから苛立たしい。「どうやら、形勢逆転のようだな」 ニヤニヤした表情でかつて愛したひとはオリヴィエに迫る。バルトの声に負けるものかとオリヴィエは甲高い声で言い返す。「そんなはずないわ、あたくしのちからが人間どもに劣るわけ……」 「ごめん、人間じゃないんだ」 波とともに現れた尾びれに、オリヴィエは声を荒げる。その声は、自分が封じたはずの、カイジールだったから。「カイジール?」 「ごきげんよう、女王陛下。ふふ、驚いた?」 男人魚だったはずのカイジールが、妖艶な女人魚に変わっている。これは、どういうこと?「革命の時間だよ」 その言葉に、オリヴィエの表情が固まる。「ボクが次のオリヴィエになる。海神サマとナターシャ神の加護を手に入れてね」 「ありえないわ、海神も国神も、すでに与えるだけのちからなど持っていないのにどうやって手に入れるのよ」 「奪うのさ。貴女から」 朗らかに応えてカイジールは魔術陣を描く。バルトたちとの戦いで疲弊していたからか、オリヴィエはあっさりとカイジールの術に嵌った。 きつい潮風が周囲を舞う。地面を這うように植物の深緑の根や茎が縦横無尽に伸びている。この光景をオリヴィエは何度も見たことがある。自分の死期が迫っている。イヤだ、まだ死にたくない。珊瑚蓮の花が咲いたらどっちにしろオリヴィエは一度消滅する。カイジールが革命を起こすまでもなく、オリヴィエがいなくなるのは決まっているのに……「ボクは、貴女をこんな風に逝かせたくない」 それだけのためにカイジールは自分がオリヴィエになろうとしているのだと、きっぱり告げる。 焦燥にかられるオリヴィエを憐れむようにカイジールが見つめている。その状況に息を飲んで見守るバルトと悠凛。そしてオリヴィエから離れた場所でじっと虚空を見つめている仙哉。抜け殻のように身動きすることもなくその場に佇んでいる姿から、すでに鬼神は仙哉から抜け出しているようだ。分が悪いとわかったらすぐに逃げるこの役立たず、と毒づくオリヴィエにも無反応な仙哉はすでに自分を主と認識すらしていない。それもこれも珊瑚蓮の精霊が邪魔をしたからだ。あ
Last Updated: 2025-11-18
Chapter: ~神謡に舞姫は開花を願う~ 6 * * * 「……んとに神サマってのはやることなすこと極端だな」 だが、那沙にちからを返したおかげで九十九は自分で道花を救える手立てを得ることができた。まずは檻のなかで自分を傷つけつづける彼女を止めることを考えなくては。 さきほどよりも潮の匂いがきつくなってきている。那沙が海水を降らせたからだろうか。いや、それだけではない気がする。まるで海神が動きだしたかのような……「これも、珊瑚蓮の精霊が起こしたのか?」 檻のなかから『海』のちからで浄化を試みつづける道花によって、周囲の海が活性化されて生き物のように動きだしている? 樹上から見下ろせば、地面にまで海水が流れ込んできている……いや、海水だけではない。緑色の、太い植物の茎のようなものが、あちこちで蠢いている。手のひらよりもおおきな葉は、池に浮かぶ蓮を彷彿させる。書物でしか見聞きしたことのなかった植物が、九十九の前へ現れる。 ――珊瑚蓮だ。 セイレーンの海域でしか確認されていない世界を司る大樹が、かの国を侵食するかのように葉や根を伸ばしてこちらへ向かっている。 九十九は檻のなかでちからを暴発しつづける道花へ叫ぶ。「止めろ! 止めてくれ!」 銀色の閃光が九十九へ牙を向ける。だが悪しきモノに憑かれていない九十九にその浄化の閃光は効果がない。九十九は道花が囚われた檻を壊そうと手を突っ込み、詠唱する。 パキっと小気味良い音と同時に、九十九は檻のなかへ倒れこむように飛び込む。九十九に押し倒される形になった道花がギョっとした表情で、詠唱を止める。 無言のまま、ふたりは見つめ合う。 九十九は道花の火照った身体をぎゅっと抱きしめ、治癒術を施す。『地』の加護によって道花のなかで暴れていた闇鬼が凍りつき粉砕し、穴が開いていた記憶が一気に戻ってくる。 「……ハクト、だ」 道花の声が、九十九に届く。 「遅くなった」 「助けてなんて、言ってない」 自分でどうにかできると思っていた。けれど、ひとりで闇鬼をやっつけることは最後までできなかった。結局、彼を頼ってしまった。 それが、情けなくて悔しい。 けれど九十九は笑っている。「おれが助けたかったんだ」 「でも」 「マジュミチカ」 真名を囁かれ、道花の動きがぴたりと止まる。 「珊瑚蓮が、呼んでいる」 道花のちからに
Last Updated: 2025-11-12
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 18 + 神になりきれない人間は恋をすると神力を増強するが、恋に破れるとその反動でちからを喪う。かつての清雅は桜蜜を出す水兎と恋に溺れ、彼女が忽然と姿を消したことに耐えられず人間としての姿を失ってしまった。もともと亡き集落の土地神である夜澄の場合はそのような制約が存在しない。それに、雨鷺は知らなかったが彼は竜糸の竜神よりも神威の高い雷神であるため、裏緋寒の乙女を奪ったところで至高神は咎めなかったのだ。「桜月夜の人間と裏緋寒の乙女の恋が禁忌、というのは聞いていました」 「だけど恋する気持ちは止められないですよね」 現在の裏緋寒の乙女として召喚された朱華はいま、雷神夜澄の花嫁として雲桜の集落を再建させようと必死になっている。 そして彼女の幼馴染で表緋寒であった九重が、覚醒した竜頭の愛玩花嫁として傍にいる。 この結末を至高神はひとまず是としているらしい。ずっと大陸を脅かしていた鬼神を冥穴へ封じ込めたふたりが心に決めたのだ、さすがに野暮なことはしないだろう。「あたしの場合は夜澄が雷神さまだったから素直に受け入れられたけど、雨鷺さんは」 「あの頃の至高神はもっと幼い子どもだったのよ」 恋を知らない少女に恋をさせ、その恋を取り上げて喜ぶようなところがあった。 けれど水兎の方が上手だった。恋する気持ちの強さを神に見せつけた。 だが、清雅はそのことを知ることもなく、人間としての姿を保てなくなったのだ。「さすがに申し訳ないと思ったのかしらね。今度は前世の記憶を残したまま転生させて、もう一度恋をしろ、ですって」 「それで?」 「朱華さまも見たでしょう?」 裏緋寒の乙女の侍女の座を得た雨鷺は桜月夜の守人と顔を合わせ、確信する。「事情を知る夜澄に気づかれたわ。兎の生まれ変わり、って」 「だけど二百年前なら夜澄は雲桜の土地神さまだったはずです。どうして桜月夜に彼がいたの?」 「それはね、そのとき鬼の襲来が竜糸の地で起こっていたの。術者がいなくなってしまったうえに、弟神の竜頭が眠ってしまったから仕方なく人手不足の神官の重要な地位を手伝っていたの」 だから照吏のような女性も桜月夜の守人として仕えていたのだと雨鷺は説明する。自分の時は侍女などいなかったのだ、照吏がいてくれたから辛うじて裏緋寒の乙女として竜糸の集落を守護するため淫らな試練にも耐
Last Updated: 2025-08-08
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 17 + 慟哭にも似た狼の遠吠えが北方から聞こえる。 自分と恋したことで死なせてしまったか弱き兎は雨にとけて、竜神と入れ替わるように湖の底で眠ってしまった。 残された男は桜月夜の守人としての役目を放棄し、竜糸から姿を消した。「さいしょから任務を放棄して水兎ちゃんを連れ去っていけば良かったのに」 不安定な竜糸の土地を治めるため、覚醒した竜頭は竜神として結界を張り直す。 この地に残った神官たちは大地震で崩れた神殿を建て直し、ひとびとを呼び戻した。照吏以外いちどは離れていた女性神官、巫女たちも竜神に仕えるべくふたたび集ってきた。 取り急ぎ、巫女たちのなかから次の裏緋寒の乙女が選ばれることになるだろう。その際に竜神が若い娘よりも熟女が好きだと公言したのは意外だったが…… それでも気まぐれな至高神は、また恋を知らない兎をどこかから召喚するのだろうか。「あんがい照吏が竜頭に見初められたりして」 「ありえない。僕は熟女趣味の竜神からすれば圏外だ。神官として神殿に呼ばれただけでそもそも桜月夜の守人になることもなかったんだぞ」 どこか遠くを見つめている夜澄の前で照吏は苦笑する。 至高神はなぜ水兎と清雅の恋を認めなかったのだろう。禁忌だからというその言葉だけでは語り切れない謎がいまも残されている。 だが、竜神が覚醒したことで過去に姿を消した表裏の緋寒桜の存在はすっかり忘れ去られていた。「咲き誇る桜だけでなく、枯れる桜もあるのが常だ」 「水兎ちゃんは枯れたわけじゃない。散ったんだよ」 夜澄とどこかかみ合わない会話をしながら、照吏は心の中で祈ることしかできないのだ。 ――自ら至高神に自白して消えてしまった彼女と、それを知らされて心を壊した彼の恋が、報われたものであることを。 * * * 雪深い蒼き谷にかつて存在していた廃集落で語り継がれた伝承を思い出し、雨鷺(うさぎ)は腑に落ちる。 桜月夜と裏緋寒の恋は禁忌だと、至高神は神殿の人間に伝えていた。裏緋寒の乙
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 16 + 激しい雨が降り注ぐなか、轟音が鳴り響く。神の怒りを彷彿させるひどい揺れが竜糸の土地を襲った。 地鳴りの音で目を覚ました清雅は隣ですやすや眠っていたはずの愛すべき女性の姿が忽然と消えていることに気づき、愕然とする。「水兎?」 落雷と地震で神殿内部がボロボロと崩壊していく。神官たちは無事なのだろうか。ほかの桜月夜は……?「何をぼぉっとしている! 逃げろ!」 「照吏?」 「――裏緋寒の乙女が裏切ったんだ。だから神々が怒って……」 「莫迦な! 水兎はついさきまでここにいたんだ! 俺と一緒に……」 何が起こっているのか理解できないまま、照吏に連れ出されて清雅は神殿の外へ出る。 そこには夜澄と、銀髪の美丈夫がむすっとした表情で清雅を見つめていた。『我の花嫁を寝取ったのはお主か』 その一言で清雅は確信する。「竜神――竜頭」 『いかにも』 清雅が水兎の純潔を奪ったことで、神々が過剰反応しているのだと竜頭は機嫌悪そうに告げる。 夜澄がいままでのことを説明してくれたのだろう、竜頭はうんざりした表情を見せながら清雅たちを見つめる。『周りがうるさくてどうにも眠れぬ。我が竜糸に表裏の緋寒桜は咲いておらず代理神も不在となれば、仕方なしに起き上がるしかない……』 そして、悔しいがな、と面倒くさそうに吐き捨てて竜頭はひょいと手をかざす。 一瞬にして地鳴りが止み、ぐわんぐわんと揺れていた地面が静まり返った。 だが、激しい雨は変わらず降り続いており、叩きつけるように桜月夜の守人たちを濡らしていく。 清雅は竜頭の言葉を反芻しながらぽつりと呟く。「表裏の緋寒桜が咲いていない……?」 冥界の邪神が表緋寒の代理神を乗っ取り殺めてしまったのは記憶に新しい。だが、裏緋寒の乙女である水兎のことまでまるで存在していないかのように口にする竜頭に清雅は首を傾げる。ほんのついさっきまで寝台で睦み合っていた彼女が、いない? 竜頭は清雅の途方に暮れた表情を前に呆れているようだった。
Last Updated: 2025-08-06
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 15 + とても幸せだった。 恋しいと想ったひとに愛を返されて、水兎は満足した。 たとえこの先、何があっても起こっても――……。『覚悟は決めたかえ?』 脳裡に囁かれて、水兎は夢から醒める。 清雅に抱かれ、心の底から結ばれて、水兎は竜神の愛玩花嫁の資格を失った。 その代償が何かは、もう理解している。「――はい、至高神さま」 恋を知らないまま召喚された裏緋寒の乙女は至高神に選ばれたにも関わらず、神嫁になることを拒んだ。 けして結ばれてはならぬと言われた桜月夜の守人と恋に堕ちたから。 水兎は哀れみの目を向けて来る至高神に、にっこりと微笑む。「恋する気持ちを教えていただき、ありがとうございました」 自分はこの恋に殉じる。だから竜神さまの花嫁にはなれない。 神罰に怯えるかと思えば、開き直ってそう応えた水兎の姿に至高神は目をまるくした。『ほんに、人間(ヒト)は愚かで面白いのう』 至高神の言葉とともに水兎の身体が宙に浮かぶ。清雅は腕のなかからちいさな水兎が姿を消そうとしているというのに、すやすやと安心しきった表情で眠っている。「……清雅さん、ごめんなさい」 そして、愛してくれてありがとう。 水兎が彼の額に口づけをすると、ちいさな花が咲く。「さよなら」 水兎は至高神の手を取り、竜神が眠る湖のうえへ転移する。 眠りつづけている竜神はこの地に悪しきモノたちが蔓延っていても起きようとしない。 臆病な竜神を叩き起こすため、至高神は禁忌を犯した裏緋寒の乙女を生贄にすることにした。 表緋寒の代理神はすでに冥界からやってきた邪神に生命を奪われ、いまは空位になっている。残された裏緋寒の乙女ももはや不要の存在である。なぜなら竜糸の緋寒桜は表と裏が揃わなければ意味がないのだから。『それがお主の落とし前のつけかたかえ』 「清雅さんは認めないと思いますけど」 『永き年月を過ごす桜月夜の守
Last Updated: 2025-08-05
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 14 + 清雅からの口づけを受けた水兎は感じたことのない気持ちよさに腰を抜かしていた。胸や秘芽など何度も唇で愛撫されたのに、けして自分の唇にふれることはなかった彼の舌は、とても甘い。もしかしたらこれが神々を悦ばせる桜蜜の味なのかもしれない。神聖なるものだけが味わえる甘露を狼神の末裔である彼から直に与えられたことで、水兎もまた味覚を得ることができたのだろう。「んっ、もっと、もっと…………っ」 「水兎。まさか桜蜜の味がわかるようになったのか?」 「甘くて、美味しいの。清雅の唾液……」 「俺の唾液よりも水兎が気持ち良くなって分泌させる桜蜜の方が甘いぞ?」 「ああん」 一糸まとわぬ姿で身体を寝台のうえに縫い付けられた水兎は清雅の愛撫を受けながら口づけに溺れている。何度も絶頂を味わわされて潤みきった瞳はほんものの兎のように色を赤くしていた。その姿にもっと啼かせたいと清雅が下半身を押しつけて来る。蜜に濡れた白い神衣に隠された彼の分身はすっかり勃ちあがっており、水兎の秘芽にふれていた。「あ……これ」 「挿入れるぞ――!」 「ン――……ッ!」 神衣を押し上げ、褌からはみ出した一物を蜜口にあてられたかと思えば、すぐに蜜壁を擦りたてながら最奥へ侵入してくる。太くて硬く熱いものが一息に挿入され、息が詰まりそうになるが、さんざん可愛がられた水兎の身体は待ちわびていたかのように収斂し、ひくひくと痙攣する。「あぁ、ぁぁっ……」 「痛いか?」 「へいき、です……あぁっ、清雅さん……口吸いして」 「……ああ」 純潔を散らしたばかりの乙女が淫らに接吻をねだる姿に清雅もまたごくりと唾を鳴らす。水兎と繋がってしまったという罪悪感よりも、ようやく手に入れられたという安心感の方が強かった。清雅はゆっくりと腰を動かしながら水兎の唇を啄みつづける。「んっ、はっ、あんっ」 「いいぞ……上手だ」 「清雅さん、に、調教された身体です……からっ!」 喘ぎながら気持ちをぶつけてくる水兎に、清雅が腰を振って応える。すっかり彼の形にされた膣内を何度も何度も抉られて、水兎は無意識のうちに桜蜜を全身の穴という穴から放出させる。甘い香りに酔いそうになりながら、ふたりはひとつになって言葉の応酬を続ける。「神々が放っておかないだけある……裏緋寒の乙女」 「あ、あぁっ!」 「このまま俺がぜんぶ喰らっ
Last Updated: 2025-08-04
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 13 + 水兎は恋を知らない。恋を知らない彼女は貴重な桜蜜を生み出す獲物として神々に望まれ裏緋寒の乙女になった。 裏緋寒の乙女は桜蜜を迸らせる愛玩花嫁となることで神と番う運命を決められており、神殿に仕える桜月夜の守人の手で淫らな調教を受けおんなになる。 ゆえに身体だけを桜月夜に任せる裏緋寒の乙女は官能に溺れていくことでこれが恋なのではないかと勘違いすることがある。 現に彼女も清雅の手で開発されていくにつれて、彼を心の底から受け入れていた。「蒼き谷の狼神さまは雪深き場所でしずかに土地を守護されていると聞きます。その末裔である清雅さんが土地神となる資格を有しながら桜月夜の守人として竜糸の地にいるのは至高神のせいでしょう? 守人が裏緋寒の乙女と恋することを一方的に禁じている理由もわからないのによく素直に従えますよね?」 「な」 「土地神よりも権威のある国造りの姐神が気まぐれに命じているようにも思えます。だってわたしはもう、清雅さんのことしか考えられない。竜糸の竜神様にこの身を捧げなくてはいけないと心の奥では理解していても、もう……」 縋るような水兎の瞳を前に清雅は何も言えなくなる。彼女が裏緋寒の乙女に選ばれなければきっと出逢うことはなかったであろうちいさな兎。狼神の血がか弱い獲物を求めているからなのか、いままでの裏緋寒の乙女とは異なる果敢なげな姿に目が離せなかった。それでいて凛とした、覚悟を決めた賢しい姿に惹かれていた。 彼女はずっと格闘していたのだろう。桜月夜の守人とのあいだで恋愛感情を抱くことは禁忌だと知って。眠れる竜神にその身を捧げるためだけに淫らな調教を恋しいひとに施されて。「冥界の悪しき小さき神々に嬲られる恐怖を目の当たりにして、痛感しました。早く抱いてください」 「だ、だが」 切羽詰まった表情の水兎を見ると、どこかやけっぱちになっているようにも見える。彼女の望み通り自分が純潔を奪うと、冥界の神々は引き下がるだろうが気難しい竜神が彼女を花嫁として受け入れるとは到底思えない。一夫多妻を悦ぶ物好きな神や寛容な神がいないわけではないが旧くから土地に棲まう神々は基本的に”つがい
Last Updated: 2025-07-31