Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 11 + 神殿の控室で水兎は眠っていた。はずだった。 それなのにいま、彼女の身体は宙に浮いている。いや、神殿内でいちばんおおきな巨木のてっぺんから吊るされているのだ。 着ていた巫女装束はぬるぬるとした蔦によって乱され、上半身を隠す布はほとんど剥がされていた。「ヤダ、なに、これ……」 身動きのとれない状態で、うねうねと蠢く蔦に身体をまさぐられ、水兎は悲鳴をあげる。「ミト!」 「せ、い……が。た、すけて」 「いま行く!」 高いところからの声など聞こえないだろうに、当然のように清雅は頷いて、囚われた水兎のもとへ飛翔する。 神術を扱う神官たちは常人と異なり、空だって容易く飛べるのだ。 だが、意志を持つ蔦に阻まれ、水兎の傍には近づけないようだ。「そんな」 「冥界の邪神が乙女を求めている。おとなしくしろ」 びりっ、びりっと巫女装束を剥ぎとられ、ついには一糸まとわぬ姿にされた水兎は自分の前に現れた男を見て絶望する。「どうして表緋寒が」 「桜月夜が悪い。代理の神に印をつけさせるなど言い出すから」 その言葉に水兎は目をまるくする。表緋寒は竜神の代理神だ。きっと自分が裏緋寒の乙女を抱かされるのだと勘違いして――その隙を闇鬼に喰われたのだ。「代理の神、ってそういうことじゃ……」 「残念だが裏緋寒が奪われようが竜頭は動かぬ。これからお前は邪神の供物になるのだからな」 表緋寒の姿を奪った邪神の宣告と同時に、神殿を囲っていた雨がぱたりとやむ。 すでに冥穴から悪しきモノたちが集っている。このまま目の前で水兎を嬲り、犯し、冥界へと連れ去るのだろう。「ひ、っ」 「なぁに、桜月夜からたっぷり性戯を教わったのだろう? 邪神の精を胎に受けた桜蜜はどんな味になるかのう?」 「やめろ」 身動きのとれない水兎に覆いかぶさろうとする邪神の前に鋭い刃が差し出される。 蔦で覆われていた障壁を剣で切り裂いた清雅はそのまま水兎の身体を抱き留める。
Last Updated: 2025-07-29
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 10 +「裏緋寒の乙女を竜神に捧げる前に、代理の神に印をつけさせると」 「そうです。冥界の神々が動き出す前に、乙女は生娘ではないと知らしめる必要があります」 「代理となる神の精を胎に放ち、桜蜜の神力を制限するのか」 「彼女を護るためなら、致し方ありません」 桜月夜の守人である清雅が表緋寒の代理神にきっぱりと言い切る姿を、夜澄は面白そうに見つめている。 いままで至高神に言われるがまま裏緋寒の調教をしてきた狼神の末裔が初めて希ったのだ。かつての夜澄のように。 かの国を守護する至高神の姿は確認できないが、彼女もまた遠くからこの光景を覗き込んでいるはずだ。「――至高神との盟約を忘れてはおらぬな……ならばよい。よけいな感情など持たぬことだ」 現在の表緋寒は竜頭の代理神としての依代として生かされている男で、機械的な反応しかしない。 表情豊かな水兎が裏緋寒の乙女だから、その対となる表緋寒は寡黙な存在になると至高神が選んだのだろうと神官たちは噂していた。 だが、竜神とのやりとりを受け取るだけのちからはあり、自我と呼べるものがなくとも竜糸の集落では重宝されている。「それより、冥穴から雑魚が湧きだしておる。裏緋寒をひとりにして平気か」 「ここは結界で守られています。問題ないです」 「そうかな」 ふん、と鼻を鳴らして表緋寒は嘲笑う。ぞわぞわとした空気に、夜澄が慌てて術式を放つが、すでに表緋寒の姿はかき消えていた。「闇鬼だ」 「嘘だろ、結界が張ってあるのに!」 「あれは表緋寒じゃない。あれ自身が冥界の邪神だ」 あの表緋寒がそう簡単に喰われるとは思わなかった。それだけ奴らは桜蜜を欲しているのだろう。 やられた、と呟く照吏に呆然とする清雅。それを見て夜澄が発破をかける。「清雅! 早く裏緋寒の元へ!」 「あ、ああ」 結界を破られているとなると、どこから悪しきモノが入り込んでいてもおかしくはない。神殿のなかとはいえ安全な場所は存在しない。 竜神が傷ついたときのことを思い出し、清雅は
Last Updated: 2025-07-28
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 9 + 「僕がほんとうに男神なら、とっくに彼女を自分のモノにしていたのだから」 「それって、どういうこと?」 水兎の鈴の鳴るような声に、照吏と清雅がぎょっとした顔をする。 自分の身柄が冥界に棲まう悪しき神々に狙われているというところからぼんやりと覚醒していた水兎は、照吏の言葉で完全に意識を持ち上げた。 心を通じ合わせない限り覚醒しないだろうという竜神。裏緋寒の乙女の心など必要ないと水兎から溢れる桜蜜を狙う冥界の神々。自分の身体を淫らに調教するだけして竜神に捧げようとする桜月夜の守人……けれど年長者である夜澄は役目を放棄し、照吏と清雅に押しつけた。そして照吏は自らの手を使わず清雅に水兎の調教を任せている。どこか一線を引いた照吏の態度に違和感を抱いていた水兎はその言葉ですべてを悟ってしまう。「照吏は、男じゃない?」 「至高神に選ばれる桜月夜の守人が男性神官であるとは誰も言っていないよ」 それが答えだとでも言いたそうに照吏はぶっきらぼうに言い返す。「夜澄は番を決めた元蛇神だ。それゆえ裏緋寒の乙女の調教に手を出すことは基本的にない。僕は男としての機能を持たない中世的な存在ゆえ、至高神から乙女の心と体を見守るよう命じられている。そうなると狼神の末裔である清雅が君を物理的に育てる役割につくのは必然なんだ」 「……そう、だったのですか」 「ああ。このまま竜神に捧げられるよう乙女の魅力を最大限に引き上げ、桜蜜をいつでも分泌できるように調教することで湖に眠る竜神をその気にさせるのが桜月夜の、俺の仕事だが、冥界の神々に気づかれたことで事情が変わった」 「わたしを生贄にして湖へ沈めるの?」 水兎の言葉に清雅がぎょとする。慌てて照吏が声をかける。「どうしてそうなるかな。そんなことはさせないさ」 「でも、生贄として乙女を捧げれば竜神のちからは表緋寒の代理神の元へ届くのでしょう?」 「それは……最終手段だ」 「?」 清雅のどこか言いよどむ姿に水兎は首を傾げる。もともと生贄として家族のために神殿に出向いた水兎からすればいままで生か
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 8 + 「抵抗できないのをいいことにやりたい放題だね」 「照吏」 水兎を淫らな姿で吊るして桜蜜を分泌させるため失神するまで執拗に攻め立てた清雅はするりと侵入してきた照吏を見て、獣のようにぎらついていた瞳を和らげる。「いくら君が求めたところで彼女は裏緋寒の乙女だ。夜澄も言ってたじゃないか、情が移るような調教はするなって」 「これでもひどくしている」 「過去の乙女たちと比べたらぜんぜんぬるい」 「……まあ、三人の男にやられるよりマシか」 吊るしていた縄を切り、清雅は水兎の身体を抱き留める。桜蜜の香りに包まれた乙女は清雅の腕のなかでふるりと身を震わせたが、そのまますぅっと眠りについてしまった。どこまでも警戒心のない娘である。「愛玩花嫁なんて呼ばれてはいるものの、けっきょくは桜蜜でどろどろのぐちゃぐちゃにした乙女を神が貪り喰らい、強引に子を孕ませるんだ。それを思えば生ぬるいよ」 「……何が言いたい」 むすっとした表情の清雅を面白そうに見つめて照吏はぽつりと呟く。「桜蜜を欲しているのは竜神だけじゃない。冥穴の向こう側が騒がしい」 「何」 「裏緋寒の乙女が選ばれたと向こうに気づかれたと考えていい。数年は問題ないと思ったが、いまの状況だとどうなるかわからん」 「竜糸では鬼の襲来があったばかりだぞ? それなのにまた奴らが押し寄せて来るだと?」 「狙いは桜蜜の分泌をはじめた裏緋寒の乙女だ。竜神に捧げる前に処女を奪われたらたまったもんじゃない」 「……照吏」 冥穴の向こうにも神を名乗る者はいる。人間嫌いの死神をはじめ、常識の通じない鬼神に邪神など。彼らが桜蜜を狙って水兎を花嫁にしようと画策してもおかしくはないと、照吏はうそぶく。「それを考えると、湖に眠る竜神さまを手っ取り早く起こした方がこの土地にとってはいいんじゃないかな」 「だが、竜頭は」 「そうだな。いまの裏緋寒の乙女を捧げたところで、完全覚醒はしない」 きっぱりと口にする照吏は、清雅の腕のなかで眠る水兎を愛おしそうに見つめる。
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 7 + この竜糸の集落に棲まう竜神には代々”竜頭(りゅうず)”という名前がつけられていた。竜の頭、という名前の竜神は不完全であるがゆえの蔑称ともとられるが神々は大陸に棲まう土地神のなかで唯一幼い竜神をたいそう可愛がっていた。 集落に点在する土地神たちは不老不死の至高神と異なり、各々が寿命を持っているため、寿命が尽きる前に後継者を迎える準備が必要になる。それは代替わりの儀と呼ばれ、数百年に一度とも、数千年に一度ともいわれている。代替わりの儀は至高神のもとで行われ、小さき神が産み落とされる。その方法は集落に棲まう神々によって異なり、竜糸の場合は裏緋寒の乙女と契り神の子を孕ませることなのだという。「将来的には竜頭との間に子――小竜神を作る可能性もある。それが裏緋寒の乙女だ」 「ん」 説明を受けながら身体をしめ縄のようなもので拘束された水兎は顔を赤らめながら清雅の手で高いところへ吊るしあげられる。 着ていた巫女装束の結び目を解かれ、胸元が露出する。神殿の神聖な空気が肌を撫でていく。スース―する感覚とムズムズする感覚に襲われて、水兎はパクパクと口をひらく。「あっ……せい、がさん」 「清雅でいい。苦しいか?」 「いえ……そうじゃ、なくて」 媚薬を盛られたわけでもないのに、清雅に身体をふれられると官能が揺さぶられて自分の身体の奥から甘い香りが漂うような錯覚に陥る。これが桜蜜の香りだと指摘されて初めて、水兎は自分の身体が快楽に染められることで起こる反応だと悟った。神が悦ぶ桜蜜の香りに、水兎まで酔いそうになる。「神の子を宿すことは身体にたいそうな負荷がかかる。それを和らげるためにも、桜蜜は有効だ」 「でも、だからって……」 「吊るしたのはこうすればどこから桜蜜が分泌されるかわかるからだ。胸からも香っているが、やはり下の方が香りが濃いな」 「あぁん!」 下履きを脱がされ、清雅の手で秘処をまさぐられ、水兎は苦しそうに声をあげる。すでにびしょびしょに濡れている秘密の花園は男を知らないとは思えないほど妖艶に濡れて芳醇な香りを放っている。初回の身体検査で絶頂を教えられ、初めて桜蜜を出したと
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 外伝 水底に沈む兎の顛末 + 6 + 水兎の身の回りの世話を行うのは照吏の役目になった。本来なら神殿から侍女をつけるらしいが、先の戦いで神殿に鬼が侵入し、多くの巫女が里に返されたのだという。巫女たちは神殿の守りの要であり、悪しきモノを倒す役目を持つが、憑かれやすいという欠点がある。「ごめんね、いま神殿にいる女人は君をふくめて二人しかいないんだ」 「はあ」 どおりで神殿内ですれ違う人間が男性神官しかいなかったわけだ。それに、水兎のような年代の若い人間の姿も少ない。桜月夜の守人と呼ばれる三人は水兎の知る男性のなかでは若い方だがそれでも二十代前半から後半くらいで自分よりは年上に見える。 照吏の説明によると、鬼との戦いで疲弊した彼女たちを至高神が休息させるよう神殿に伝え、その代案としてすこし早めに裏緋寒の乙女を召喚するよう命じたのだという。「……だから召喚状が届いたとき、うちの親は驚いたのかしら」 「至高神が裏緋寒の乙女を指名するのは基本的に二十歳を過ぎてからとされているからね」 十八の誕生日を迎えたばかりの水兎は成人はしているものの、一部ではまだ子ども扱いされる年代でもある。これは国の最高学府を卒業する年齢が十八歳だからとされている。学校に通ったことのない雨鷺からすればあまり年齢制限に意味はないように思うが、法的に結婚が認められるという意味では目安になるため、就学していない女性の結婚適齢期も二十歳あたりに設定されていた。「それってやっぱり身体が成熟していることも関係しているの?」 「まぁ、神の花嫁になるってことはそれだけ求められるものもおおきいから」 桜蜜のことだろう。体液そのものは幼くても出すことができるが、女性の悦びを引き出されることで分泌される蜜の方が神にとってみれば望ましいのである。水兎はこの先自分の身体が作り変えられていくことに身震いをする。それを見て照吏はぽつりと呟く。「竜神様は成熟した女人が好きなんだ。すぐに君が召されることはないだろうけど、そのぶん清雅くんの手で処女調教を受けることになる。僕はそれを手助けするけど、何もかもイヤになったらそのときは神殿の奥にある湖に飛び込むんだ」 「湖に
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《4》 山桜桃と柚子葉の父は侯爵位を持ちながら国に仕える軍部のなかでも特別な任務につく第零部隊の長官である。山桜桃の母は北の大地が制圧された際に戦利品として連れてこられた現地の若い女性のうちのひとりだ。もともと巫女としての能力が高かった彼女はかの国の帝に捧げられたというが、一年後に柚子葉の父に下賜された。栄華を与える天神の娘を手放した帝を愚かだと嘆く者もいたが、彼女が帝を怒らせる予言をしたからだとか、子を為せない石女だから皇城から追い出されたのだという噂が定着したことで事態は鎮静した。むしろ子を為すことのない羽衣を奪われた娘を下げ渡された柚子葉の父に同情の目が向いたのである。「きみの母上は帝によって羽衣を奪われ、役目を終えたと判断されて僕の父の公妾となった。だが、ゆすら、君が生まれた……皇家から石女だと蔑まれた彼女から、羽衣を持つ次の天神の娘が」 「帝にはお伝えしていなかったの?」 「ゆすらの存在はごく一部の空我の人間にしか知られていないよ。ずっと別邸で暮らしていたのはきみが妾腹の娘だからという理由もあったけれど、外部に秘匿しておくためだったんだから」 「で、でもそんなことできるわけない」 「そうだね。現に漏れてしまった。だから帝は激昂した。父は弁解する暇も与えられることなく粛清された。そこから軍部で内乱が起きた。帝に従う者と反発する者のあいだでいまも外は緊張状態に陥っている」 「……え」 「天神の娘がいるから国が乱れるのだという過激な思想を持つ一部の人間がきみを害そうとしたんだよ。そのなかにはたぶん、僕の母親も含まれている」 「わたしがいたから、お父さまが死んだ、と」 「その母上も帝に粛清されたけどね」 よけいなことをするなと、帝は侯爵家の人間を次々に粛清していった。 むしろ柚子葉が生き残っている方が不思議なくらいだ。「それじゃあゆずにいは?」 「僕に向かって帝は言ったんだ、『天神の娘を殺してはならぬ、羽衣をよこせ』と。そうすれば生命までは奪わないから、と」 そして別邸へ山桜桃を迎えに行ったところで、あの襲撃と遭遇したのだ。あのとき彼女が犯されていたら、と思うと柚子葉は恐ろしくなった。「……じゃあ、わたしを牢に閉じ込めたのは命乞いのため?」 「ひどいなあ。きみを生け贄に生き延びようなんて僕がそういう悪人に見える?」 「だって、わた
Last Updated: 2025-07-29
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《3》 * * * レエスの緞帳(カーテン)で飾られた天蓋つきの寝台で瞳を閉じて横になっていた山桜桃は、柚子葉に揺り起こされて、ゆっくりと瞼をあげる。「動けるか?」 どこかで衣類を調達してきたのだろう、濃紺のシャツ姿の柚子葉が山桜桃に問う。 こくりと頷いて、立ち上がる。けれど、身体はまだふらついている。見かねた柚子葉は山桜桃の肩を抱きかかえ、ゆっくりと歩き出す。 裸足のまま、寝室を出る。ぬるりとした冷たい感触が、足元を浚う。 廊下は、血の海だった。山桜桃の知る兵隊のような使用人たちが、重なるように動かなくなっている。 山桜桃はおおきな瞳を更におおきくして、廊下の惨状を見つめ、凍りつく。「この邸の使用人は、皆、殺されてしまったんだ……」 信じたくなかった。けれど頭の片隅でその可能性を考えていた。だから山桜桃は柚子葉の言葉に反論せずに黙ってその光景を漆黒の眼の中に焼き付ける。「わたしの、せい、でしょ?」 蒼褪めた表情で、柚子葉を見上げ、山桜桃は確認をとるように、口をひらく。 自分がここにいてはいけない人間であることを、知っていながら、知らないふりをつづけて別邸で暮らしていた山桜桃は、いまになって起こってしまった現実に、戸惑いを隠せない。 柚子葉は黙ったまま山桜桃の肩を抱く手に力を込めて、滑りそうな螺旋階段を一歩一歩、くだっていく。「そうだね……ゆすらがこの場所にいるから。だけど、僕はきみを手放せない」 そして――ごめんね、と微笑む義兄に連れていかれたのは、薄暗い地下牢だった。 * * * かつて。 かの国の北端に位置する大陸に、春を喚ぶ天女が舞い降りたのだという。冬将軍を追い払い、凍りついた大地を溶かし、緑を芽吹かせ、人々が暮らすことのできる土地を築いたという天女が。「天神の娘とは、その天女の末裔のこと。天女の末裔は栄華を与える羽衣を持っている。俺の父親は帝から北の大地の戦功を讃えられ、天神の娘であったきみの母親を下賜された」 「知ってる。そして生まれたのが、あたしでしょう?」 「ああ。羽衣のことは」 「初耳……お母さまは何も言わないで死んじゃったから」 「そうか」 惨劇が起きた場所からすこしはなれた本邸の地下に、山桜桃は囚われていた。義兄が山桜桃を地下牢に閉じ込めたのは、ほかの人間に奪われないためだと
Last Updated: 2025-07-28
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《2》 山桜桃の部屋には似合わない、空の薬莢が床の上に転がっていた。「殺したんでしょ?」 「……ああするしかなかった」 意識が薄れていくなかで聞いた銃声は、何度嗅いでも慣れることのない硝煙の匂いは、山桜桃を狙った侵入者を殺めるために響いたもの。気づいてはいたが、つい、柚子葉を責めるような口調になってしまった。「そうしないと、ゆすらも殺されていただろうから……」 苦しそうな柚子葉の声をきいて、山桜桃はそれ以上問いただせなくなる。使用人たちはどうなったのか、ふだん離れて暮らしている義兄が時宜(タイミング)よく現れたのはなぜか、どうして自分が殺されそうになったのか、男が口にしていた天神の娘とはどういうことなのか……柚子葉なら、知っているのだろうか? 黙りこんだ山桜桃を、柚子葉は抱き上げて寝台の上へ横たわらせる。ゆっくり休めということだろう。 山桜桃は敷布の上へ裸体を横たえた状態のまま、夜着をかけようとしている柚子葉の困ったような顔をうかがう。「ゆすら……頼むからもうちょっと、警戒心を持てよ」 もう成人したのだからと苦笑しながら、柚子葉は山桜桃の身体に夜着をかけ、上掛けを手渡し部屋から立ち去ろうとする。 「待って……!」 夜着をはだけさせ、山桜桃は起き上がり、柚子葉の腕を咄嗟に掴み、自分の方へ引寄せる。どこにそんな力が残っていたのか、油断していた柚子葉は呆気なく均衡(バランス)を崩し、山桜桃を巻き込みながらふかふかの寝台の上へ身体を沈ませる。 真っ白な敷布に新たな皺が刻まれていく。 「……ゆす、ら?」 至近距離で見つめられ、柚子葉は自分が彼女を組み敷いた状態でいるというのに、動けなくなる。 山桜桃は陶器のような肌を義兄に見せたまま、すこしだけ顔を赤らめて、身体を震わせる。 「ひとりに、しないで」 その瞬間、柚子葉は瞳を潤ませ訴える異母妹を抱きしめていた。 ひとりにしないでと懇願する山桜桃を見て、いままで抑えていた何かが、堰を切って溢れ出してしまう。おそるおそる、少女の素肌に手を伸ばし、抵抗しない唇に、自らの指を伝わせる。 唇から喘ぐような吐息が零れ落ち、柚子葉の指先を柔らかく湿らせる。その指で鎖骨をなぞると、くすぐったそうに身をよじらせ、困ったように微笑を返す。そのまま、指先を膨らみかけの胸元へ滑らせて、肌の熱さにハッとする
Last Updated: 2025-07-20
Chapter: スピンオフ 天女は反逆者―義兄―の腕のなか《1》 悲鳴をあげる間もなく、男の太い指が少女の細い首に巻きついていく。どうにか逃げようともがくが、別の男に両腕を掴まれ、土の上へ押し倒され。「悪わりいな、お前さんに恨みはねぇんだが、死んでもらうよ」 両手両足を拘束され、いたぶられるように呼吸を遮られ、着ているものを脱がされていく。息ができない。感じたことのない恥辱と溺れたときのような苦しさを伴って、意識は霞んでいく。「もう抗わないのか? もっと楽しませてやろうと思ったのに」 「どうせ殺しちまうんだ、最後に俺たちで可愛がってやろうじゃねえか。惜しいと思わないか? こんなに別嬪なのに」 少女が着ていた襦袢はすでに血と泥で汚れ、ところどころが破れ、胸元も露になっている。絶望に満ちた虚ろな瞳を見せる黒髪の少女の哀れな姿は、陵辱したい男たちの欲情を加速させる。 「恨むなら、天神の娘であることを恨むんだな」 更に首を絞めつけ、双眸を白濁させ、ビクッと身体を仰け反らせた少女から、纏っていた衣をすべて剥ぎ取ろうと男が柔肌へ手を触れようとした瞬間。 「ゆすら!」 少女にとって馴染みの、声と。 立て続けに銃声が。 響き渡り、やがて静かになる。 甘い柑橘系の香りを漂わせながら、白い五弁の花々が混迷の夜闇を切り開くように舞い落ちていく。 殺されかけ、気を失った少女の身体の上へ。 そして、硝煙の匂いを漂わせる青年の頭上へ。 浄化するように。 同化するように。 天から散りゆく花弁はくるりくるくるまわりながら容赦なく血に塗れた世界を染め上げていく。 ――それはさながら、まわりはじめた運命の環のよう、で。 * * * 暦の上では春とはいえ、帝都の山深い場所にある空我(くが)侯爵の別邸は肌寒い。 天蓋つきの寝台の上で、山桜桃(ゆすら)は弱々しく息を吐く。「……ゆずにい?」 悪い夢を見ていた気がする。それも、とてつもなく悪い夢を。「ゆすら、気がついたか」 「なんでここにいるの……?」 本邸で衣食住をしているはずの異母兄――義兄が、早朝から山桜桃の目の前で心配そうな顔をしている。ふだん彼女に仕えている侍女の姿が見当たらない。これはどういうことだろう。 起き上がろうとして、山桜桃は違和感に気づく。上掛けの肌触りが異なる。 ずきん、と身体が痛みを訴える。あちこちに刻まれた鬱血した痕
Last Updated: 2025-07-17
Chapter: 終章 天女、帰還 + 3 + もう、天神の娘である桜桃を狙う人間はいないはずなのに、小環は相変わらず彼女の傍にいてくれる。将来を誓い合ったわけでもないのに、始祖神の末裔である次代の神皇と至高神に血を分けられた天女が愛し合い結ばれるのは自然の帰結だからとカイムの民は桜桃と小環が一緒にいる姿を心の底から嬉しそうにして見守っている。四季や柚葉のように求婚こそしてないが、小環も考えてはいるのだろう。現に、小環は彼女の傍にいる。 周囲の人間にあれこれ口出しされるのは正直、煩わしく思う時もある。けれど、周囲の反応も含めて、桜桃にとって小環は運命のひとなのだと、痛感する。 そして自分もまた、そんな彼に強く惹かれ、離れがたく思っているのも事実。「……ありがとう、傍にいてくれて」 同じ部屋で同じ時を過ごし、同じ出来事に立ち向かった同志。カイムの民が歌う神謡のように、睦みあい結ばれる未来がその先にあるのかはまだわからないけれど。「お望みでなくても、ずっと傍にいてやるよ」「それはあたしが天女だから?」「それもある」 柚葉だったらそんなことないよって真っ先に言うだろうに、小環は莫迦正直に応えてしまう。その素直なところは、桜桃は実は嫌いではない。「じゃあ、ほかにも理由があるの?」 意地悪そうに問い詰める桜桃に困ったように顔を向けた小環は、わかってるくせに、と小声で呟いてから、桜桃の耳朶を燻らせる甘い囁きを言葉に乗せて、彼女に反論させないよう唇を重ねてくる。 許した覚えはないのに、最近の小環はこうして戯れに愛を囁くのだ。「……小環のいじわる」 桜桃は頬を膨らませながら、呆れたように言葉を返す。小環は知ってる、と笑いながら彼女の髪を、やさしく撫ぜようとするが、どこからともなくやってきた突風に煽られて、上手に掬えない。桜桃もその花散らしの風に驚き、上空で繰り広げられている花びらの乱舞に目を瞠る。 それはまるで、四季の彩りに魅せられた神々が、その血統に連なるふたりが仲睦まじく寄り添う姿を嫉妬するかのよう。「なんか、四季
Last Updated: 2025-07-11
Chapter: 終章 天女、帰還 + 2 + ずっと、呼びたくて、呼べなかった名前。 桂也乃は神嫁御渡で神に贄として四季との思い出を捧げてしまったかのように、あれ以降、四季の名を口にすることはなくなってしまった。忘れてしまったのかもしれない。けれど、彼女はこの先も季節が廻る喜びを、夫となるひととともに分かち合うことで、彼を偲ぶのだろう。 雁もまた、四季との記憶を忘れていた。たぶん、最後にふたつ名で暗示をかけられたのだろう。解いてあげようかと小環が尋ねても、彼女は逆さ斎がしたことだから、そのままにしてあげて、と首を横に振ったのである。微笑みながら。 式神だったかすみは、椎斎にある逆井本家に引き取られていった。彼女を養っていた鬼造の人間の多くが憲兵によって帝都へ連行されてしまったからだ。 鬼造みぞれは帝都の親戚のもとで新たな生活を始めている。だが、妹のあられはこの地に残り、恋人の雹衛の故郷である『雪』に身を寄せ、彼と穏やかな暮らしを手に入れた。「……しっかりしていたなぁ、かすみさん」 今後は神職に携わって、四季が頼りにしてくれた自分のちからをこの土地のために役立てたいのだと、桜桃たちに決意を見せてくれた十三歳の少女を思い出し、溜め息をつく。 それに比べて自分は、何もできていない。春を呼ぶことはできたけど、それだって自分ひとりのちからではない。四季や桂也乃や小環が水面下で動いてくれたから、自分も羽衣を選びとって空を翔けることが叶ったのだから。 幼い頃から傍にいてくれた異母兄はもう桜桃を慰めてくれない。彼の強すぎる想いに恐怖し拒んだのは自分だが、それに絶望して死を選んだのは彼なのだから、桜桃は悪くないんだと周りの人間は言ってくれたけれど…… がさり。 腰を下ろした足先で盛りを迎えた満天星躑躅どうだんつつじの白い花木が左右に揺れた音で、桜桃は我に却る。「ここにいたのか」 湾が忘れ物でも取りに来たのだろうか。いや、違う。桜桃は顔を赤らめる。「……小環」 あたしが選んだ羽衣。天女の伴侶となる資格を持つ時の花……神皇の蕾を持つひと。 相変わらず、女装のボレロ姿のままで、何
Last Updated: 2025-07-10