秘密を抱える天真爛漫な少女に襲い掛かる未来の見えない嵐の先にあるのは、少年王の執愛か、溺愛か。 これは南の国の女王の娘で人魚の娘でもあるヒロイン道花(ミチカ)が、誓約で隣国で少年王に嫁ぐはずが彼を暗殺するため身代わりの花嫁になった従兄の侍女に扮して敵国に渡ったことで動き出す運命の悪戯系恋愛ファンタジー!
View More雲ひとつない真っ青な空の下で、鼻孔をくすぐる潮風に、極彩色の花々は躍る。打ち寄せる波の音はふだんと変わらず穏やかで、とても母国が滅んでしまったとは思えないほど。
――けれど、オリヴィエは連れていかれた。かの国の、野蛮な狗どもによって。
女王を奪われたこの土地を守護していた国祖神だった少女は、憎しみに満ちた鋭い視線を少年へ向ける。武装と呼ぶには上品でありながら防御に長けた薄い金属の衣を纏った少年は、だぼだぼの女物の衣を引きずって歩く砂まみれの彼女に気づき、かつての名を呼ぶ。声がわりする前の、すこし掠れた甘い声で。
「そなたが、那多沙(なたしゃ)だったものか」
海を間に挟んだ隣国の若き王は、神の名をたどたどしく呼び、傲慢に見下ろす。
「だから、何?」
セイレーン王朝のナターシャ神。
たしかに自分はそう呼ばれ、崇められていた。けれどいまの自分は、目の前の少年に国祖神としてのちからを奪われ、この土地に執着しているだけの、神と呼ぶにはあまりに弱々しい存在だ。 女王を奪われ、国を守護するだけのちからも失ったことで姿形も幼女のようにちいさくなってしまった。それもこれも、目の前にいる漆黒の、まだ十三歳のこの少年のせい。「強くて美しかった宝石神も、砕けばただの砂か」
つまらなそうに呟きながら、少年は国を奪われた神へ、名を与える。それは、自分が彼女を使役するための、束縛するための名。
「ならば、那沙(なずな)と呼ぼう」
――そなたはこれより我がかの国の土地神として、旧誓蓮(せいれん)が統治していた迎果諸島(げいかしょとう)内の七島(しちとう)を守護させる。
「……それが、あんたがあたしを生かした理由?」
那沙が海のように青い双眸を驚いたように見ひらくと、少年王は那沙の前で深く頷き、淋しそうに笑う。
「おれはこの美しい場所を破壊したいわけではない。国が変わったからといって、彼らの生活を脅かすことだけは、したくないんだ」
「……あんた、九十八(きゅうじゅうはち)の息子よね。なんでそんなに真面目なの」愚王と名高いかの国の前(さき)の統治者の名を口にする那沙に、少年は苦笑する。
「たしかに、父王がしたことはそなたたちにとって赦される出来事ではなかっただろう。だが、それゆえにそなたたちが選択した行為を、我が国は認められなかった」
「だから? 先に仕掛けてきたのはあんたたちでしょう? オリヴィエは友好的に対応していたのに」 「父は納得できなかっただけだ。央浬絵(おりえ)どののことを諦めることが」 「よく言うわ」ふん、と鼻を鳴らして那沙は少年の闇のように黒い瞳を睨みつける。けれど、十歳に満たない幼女の恰好では、ただの癇癪にしか見えない。
ざざざ、と無邪気な波音が内耳をくすぐる。那沙は莫迦みたいと心のなかで毒づきながら、やけっぱちの笑顔を返す。「――賀陽成佳国(かやなりのかのくに)、第九十九代|神皇帝(しんのうてい)。旧セイレーンの国祖ナターシャは、兄神たる始祖神佳国(よしくに)の妹神として、迎果七島における守護を行うことを約束します」
神々が交わす誓約は絶対のもの。けして破られるものであってはならない。
突然の誓いに少年王は一瞬ぽかんと口を開け、素直に従属の意思を告げた神をじっと見据える。――騙せない、か?
那沙は黙り込んでしまった少年の応えをじっと待つ。自分には護らなければならないものがある、だから彼に命じられる前に、自分から誓約を提案した。
「おかしなことを言う。神々の誓約は絶対だが、おれと那沙が誓いを交わしたところで何になる」
くくくと笑って少年は那沙の砂だらけの波打つ銀の髪に触れ、残念そうに声を発する。
「おれは、神の系譜に連なりはしているが、神そのものではない。だからその誓約は、そなたが一方的におれを欺きたいがために言霊に乗せたのだろう?」
あっさりと企みを露見され、那沙のあたまのなかが真っ白になる。九十八の息子だから莫迦で考えなしに違いないと思っていたのが間違いだった。那沙はちっと可愛らしい舌打ちをして言い返す。
「ならば! 九十九の御世のあいだ、あたしは迎果七島の土地神としてこのセイレーンを守護する!」
神には人間に負けない長い寿命がある。目の前にいる少年が死ぬまでという誓約なら、彼だって頷かざるおえない。
現に少年王は、呆気にとられた表情をしたものの、すぐに真顔で承諾した。 「……いいだろう。その誓約、受けて立つ」空から見下ろすと海の果てを迎えてくれるそこは葡萄の房のように虹色の宝玉が集い島を成しているという。真珠(パール)、翠玉(エメラルド)、紅玉(ルビー)、黄玉(トパーズ)、青玉(サファイア)、藍玉(アクアマリン)、碧玉(ジャスパー)……なかでも七つの宝石が大地を成したという伝説を持つ華やかな島国はセイレーンと呼ばれ、珊瑚礁に囲まれた迎果諸島の七つの島には海神の眷属である人魚の女王が君臨し、宝石神ナターシャによって守護されていた。 だが、王朝は五年前の夏に滅んだ。 セイレーンの北隣に位置する賀陽成佳国(かやなりのかのくに)、通称”かの国”が女王オリヴィエを神皇帝暗殺の罪で捕え、連行し、国祖神ナターシャのちからを奪ってしまったからだ。 当時のかの国は第九十八代神皇帝によって統治されていた。だが、オリヴィエが怒りのあまり彼を殺してしまったために、九十八の息子である九十九が即位、隣国セイレーンの女王を捕え、国祖であるナターシャ神のちからを奪い自国の領土へ変えてしまったのだ。 とはいえ、九十九はもともとセイレーンに暮らしていた人間を誰ひとりとして傷つけることはなかったし、消滅させられるはずの国祖神ナターシャを那沙という名の土地神として迎果七島を統治したため、悪い評判は立っていない。もともとセイレーンに暮らす民の先祖はかの国にルーツを持つ者が多いため、女王不在となったことで呆気なく併合は受け入れられてしまったのだ。むしろ先代の九十八の息子とは思えないという好評価ばかりが目立っている。「だけど血は争えないのは事実なのよね」 むっつりした表情の那沙に、少女は首を傾げる。「どうして?」 「どうしてって、道花(みちか)。どうしてもよ。あんたは実際にあの男を見てないからわからないでしょうけど……」 呆れたように応える土地神に、道花は困った表情で言い返す。「悪い人ではないのでしょう?」 「民を大事にするという点は、反吐がでるほど素晴らしいヮ」 「彼女を死罪にすることだってできるのに幽閉しているだけだし」 あっさり言いのける道花に、貴女の母親でしょうにと思わず突っ込みたくなる那沙だったが、その言葉を口にするのは禁じられているのであえて突き放すように応えを返す。「……それはセイレーンの民の感情も配慮したからでしょうね。領土にした迎果七島は天然資源が点在する宝の
――ちゃぷん。 吸い込まれるように那沙の身体は海に溶け、消えていく。 その場に残された少年は、場違いな潮騒に苛立ちを見せながらも、ほぅと息をつく。「……まずは、取引成立か」 「誓蓮の国祖神は誓約と口にしましたね」 かつて国神だった那沙が負け惜しみのように呟きながら消えたのを見送った少年は、入れ替わりに現れた全身黒づくめの青年を見て深く頷く。真っ青な海と極彩色の花々で彩られた島に突如現れた黒い点は染みのようだなとぼんやり考えながら、白服姿の少年は口をひらく。「――木陰(こかげ)、どう思う?」 「九十九(つくも)さまが妃に望まれる誓蓮の姫君は、そうとう神々に嫌われているようですね」 西陽に照らされながらも眩しさを感じさせることなくにこやかに返してくる木陰を前に、九十九はうんざりした表情で言い返す。「だが、おれが手に入れたいのは央浬絵どのではない」 「存じております」 木陰の反応を確認した九十九は「それゆえあの神も抵抗しているのだろうな」とため息をつく。「……とりあえず、手はずは整えた。あの様子では、那沙もすべてを承諾したわけではなさそうだが……まずはいったん帝都に戻るか」 「内乱の飛び火は避けたいですものね」 「余計なことは口にするな」 姿は消えているが、土地に縛られた神の存在はその名の通り神出鬼没である。自国にとって不利な発言は心のなかに留めておくべきだと九十九は忠告する。だが、木陰は気にすることなく言葉を続ける。「五年後、国王の座を追われました、なんて言えませんもんね」 「うるさい!」 九十九はいちいち癪にさわる言い方をする木陰を怒鳴りながら、大股歩きで前へ進んでいく。 ――五年で蹴りをつける。彼女を手に入れるために。 いますぐにでも連れていきたいのが本音だ。けれど、この状況で連れて行ったところで心を通わせることは難しいだろう。帝都に戻ればそれ以外の問題も積載しているのだ、何も知らない彼女を危険に晒すような真似はしたくない。
「……いいだろう。その誓約、受けて立つ」 国を奪われた神は、消滅するのがこの世界の理。けれど那沙は名を奪われただけだし、国に暮らす民に危害を与えられたわけでもない。那沙の直感が、この少年はよき統治者であろうことを認めている。ならば、いまだけ彼にこのセイレーンを任せてもいいのでは? ――オリヴィエは悔しがるかもしれない。けれど、いまのあたしがひとりでかの国に立ち向かうことは無謀だもの。 土地神となるとは、すなわちこの迎果七島に封じられるということ。国造りの祖神であればかの国に乗り込んで反撃することもできたが、ちからと名を奪われ土地に縛られた状態となったいま、那沙ひとりでは女王を助けることは叶わない。 ――あの子なら、彼女を救えるかもしれない。けれど、リョーメイたちを巻き込んでまでいま動くのは危険だ…… 黙って考え込んでしまった那沙を興味深そうに見つめていた少年は、ぽつりと呟く。「ならば我は那沙を産み落としたかの海に誓おう。誓蓮王朝の崩壊を最低限に、民草の生活に変化を与えぬことを……だが」 凪いだ海のように淡々とした少年の声が玲瓏と響く。那沙はハッとして顔をあげる。「我もまた、愚王の息子であることに変わりはない。そなたが秘しておる珊瑚蓮(さんごはす)の精霊を近いうちにいただくことになろうぞ」 「な……!」 那沙は勝ち誇ったように笑う少年王の前で、顔を真っ赤に染める。「央浬絵どのの娘を、我が妃に」 「……知っていたの?」 「父王は騙せても、おれは騙せぬぞ、海神(わだつみ)に忘れ去られた末娘よ」 自分に投げかけられた侮辱にも等しい俗称に眉をひそめながら、那沙は反論する。「でも、あの子は十二歳になったばかり。初潮もまだなのに結婚だなんて早すぎる」 「すぐにではない。最低でも五年は待ってやる。そうだな……おれが数えで十八歳になったら、その娘を迎えに行こう」 一方的な宣言に那沙は顔を顰めるものの、彼の五年という月日に一縷の望みを見つける。「わかっ
雲ひとつない真っ青な空の下で、鼻孔をくすぐる潮風に、極彩色の花々は躍る。打ち寄せる波の音はふだんと変わらず穏やかで、とても母国が滅んでしまったとは思えないほど。 ――けれど、オリヴィエは連れていかれた。かの国の、野蛮な狗どもによって。 女王を奪われたこの土地を守護していた国祖神だった少女は、憎しみに満ちた鋭い視線を少年へ向ける。武装と呼ぶには上品でありながら防御に長けた薄い金属の衣を纏った少年は、だぼだぼの女物の衣を引きずって歩く砂まみれの彼女に気づき、かつての名を呼ぶ。声がわりする前の、すこし掠れた甘い声で。「そなたが、那多沙(なたしゃ)だったものか」 海を間に挟んだ隣国の若き王は、神の名をたどたどしく呼び、傲慢に見下ろす。「だから、何?」 セイレーン王朝のナターシャ神。 たしかに自分はそう呼ばれ、崇められていた。けれどいまの自分は、目の前の少年に国祖神としてのちからを奪われ、この土地に執着しているだけの、神と呼ぶにはあまりに弱々しい存在だ。 女王を奪われ、国を守護するだけのちからも失ったことで姿形も幼女のようにちいさくなってしまった。それもこれも、目の前にいる漆黒の、まだ十三歳のこの少年のせい。「強くて美しかった宝石神も、砕けばただの砂か」 つまらなそうに呟きながら、少年は国を奪われた神へ、名を与える。それは、自分が彼女を使役するための、束縛するための名。「ならば、那沙(なずな)と呼ぼう」 ――そなたはこれより我がかの国の土地神として、旧誓蓮(せいれん)が統治していた迎果諸島(げいかしょとう)内の七島(しちとう)を守護させる。「……それが、あんたがあたしを生かした理由?」 那沙が海のように青い双眸を驚いたように見ひらくと、少年王は那沙の前で深く頷き、淋しそうに笑う。「おれはこの美しい場所を破壊したいわけではない。国が変わったからといって、彼らの生活を脅かすことだけは、したくないんだ」 「……あんた、九十八(きゅうじゅうはち)の息子よね。なんでそんなに真面目なの」 愚王と名高いかの国の前(さき)の統治者の名を口にする那沙に、少年は苦笑する。「たしかに、父王がしたことはそなたたちにとって赦される出来事ではなかっただろう。だが、それゆえにそなたたちが選択した行為を、我が国は認められなかった」 「だから? 先に仕掛けてきたの
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