神様の愛玩花嫁として召喚されたのは、幼い頃に禁忌を犯した少女だった。 神嫁は天を統べる至高神によって選ばれ、迎えが来るまでは番人とともに慎ましく暮らしている。だが、幽鬼との激闘の末に長い眠りについてしまった竜糸の竜神の花嫁に選ばれた朱華(はねず)は、強い加護のちからを持っていなかった。しかも、彼女の記憶は番人の手で改竄されていた。 朱華は過去の記憶を取り戻すため、眠れる竜神の花嫁となるため桜月夜の三人と行動することに。 だけど知らなかった、花嫁修業がこんなに淫らなものだなんて……! 神々に愛された罪深き少女が最後に選ぶのは? これは、幻想的な和風異世界で繰り拡げられる神と人間と鬼とが織りなす恋の物語。
Lihat lebih banyak白い桜の花びらが風に舞い、視界を遮断する。
沈みゆく西陽のあかいひかりがその光景に加わり、周囲は真紅に燃え上がる。 桜の甘い芳香にむせながら、幼い少女は傷ついたちいさな蛇を掌のうえにそっと乗せて言葉を紡ぐ。「Eyaitemka hum pak pak――恢復せよ、小さき雷土(いかづち)の神の御子(こ)よ」
――蛇は竜神さまの御遣いだから、殺してはいけないの。
亡き母が子守唄のように口にしてくれた神謡(ユーカラ)が、脳裡で甦る。
とっさに声にだした呪文が正しかったか、少女に自信はない。
けれど、目の前でいまにも息絶えそうなちいさな白い蛇を見た瞬間、はやく助けないと間に合わないと判断したから、少女は土地神が与えてくれた加護のちからを発動していた。それは、白い山桜に囲まれた集落、雲桜(くもざくら)に暮らす『雲』の部族だけが持つ古(いにしえ)民族が残した神謡の断片。
集落では滅多やたらと使ってはいけないと戒められているけれど、いまは危急を要する時だからと少女は思いなおし、ぴくりともしない蛇にちからを注ぎつづける。 おとなに見つかったらたかだか蛇にそのようなちからを使うものではないと叱られ、座敷牢で数日罰せられる。そうはわかっていても少女はやめられなかった。――おねがい、起きて!
この、ちいさな蛇の命をたすけたい。
もう、自分の前で死んでいく姿を、見たくない。 病に倒れた母を治癒術で救えなかったあの時みたいに悲しい思いをしたくない。 それが単なる自己満足でしかないことはわかっているけれど……山裾を西陽が照らしあげていく。
真っ白な桜の花は血のようにあかくくれないに染まっていく。空に浮かぶ雲とともに。 そして、ふたたびの桜吹雪が少女を襲う。 これ以上、呪文を唱えてはいけないとでもいいたそうに、花神の強烈な風が、吹き荒れる。 それでも少女は言葉を紡ぐ。必死になって祈りを捧ぐ。 ひとつに束ねていた長い髪は風に巻き上げられ、身にまとっている白藤色の袿の裾もひらひらと揺らめく蝶のように空を泳ぐ。いつ身体が吹き飛んでもおかしくない状態が、拷問のようにつづく。禍々しいほどに鮮やかな、深緋色の時間が過ぎていく。すでに太陽は地平線の彼方へと姿を消し、入れ替わるように夜の世界を支配する黄金色の月が、喉を枯らした少女の頭上で輝きはじめている。
時間にすれば一刻にも満たない。なのにとてつもなく長く感じてしまうのは、ちからを使っていたからだろう。少女は言葉を止め、空に浮かんだ満月に目を瞠る。 その瞬間、変化が訪れた。禍々しい夕焼けの炎が、静謐な夜に消火されたかのように。 「……あ」 掌のうえで動かなくなっていたはずの小蛇が、身じろぎする。かたく閉じられた瞳がうっすらと開き、驚いたように少女を見上げている。 天空に輝く月とおなじ、黄金色の双眸の、ちいさな白い蛇だった。* * * 自分はいまは亡き雲桜で生まれた紅雲の娘。『雲(フレ・ニソル)』の強い癒しのちからを持っていたが、十年前に一匹の白い蛇に甦生術を施したため、花神である茜桜が御遣いの帰蝶とともに張り巡らせていた結界を綻ばせ、幽鬼の侵入を許してしまったのだ。 結果、雲桜は滅んだ。朱華に強大な『雲』のちからを与えた花神と帰蝶も死に、集落の人間も多くが幽鬼と闇鬼の手に堕ちた。幼かった朱華は茜桜によって守護されていたが、禁術を使ったことで起こった悲劇の原因が彼女にあると悟った父に、殺されそうになった。 ――お前は花神さまの寵愛を良いことにっ……! 氷の剣の切っ先を心の臓目がけて襲ってきた父。言い訳は叶わなかった。 あのとき、死ぬことができれば、こんなに苦しい思いはしなかったはず。 それなのに、死んだのは父だった。怯えた朱華が無意識に術を発して氷剣を一瞬で砕き、その破片を父に降らせてしまったから。血に濡れた父を前に、朱華は絶叫した。 甦生術をつかうことは、もうできなかった。 「あたしは、おとうさんを殺した……」 「そんなことはないよ。自分の生命が危機にさらされていたんだ……本能的に防衛しただけなんだよ」 そのとき傍にいてくれたのが、旅の途中でこの騒ぎに巻き込まれた未晩という青年だった。彼は『雲』とは異なるちからで、雲桜を滅ぼした幽鬼の王を斃した。その方法は、自分の身体のなかに、闇鬼として閉じ込めるという、神の加護を持つものからすれば考えられないもの。 そして彼は朱華におまじないをしてくれた。おそろしい夢を見ないおまじない。 それでも朱華のなかにはちいさな闇鬼が潜んでいた。未晩はぜんぶ自分が代わってあげると言ってくれたけど、すべてが浄化されることはなかった。禁術を発動したことで集落ひとつを滅ぼすきっかけを生み、結果的に父を殺してしまった朱華は、未晩のおかげで生きつづけることはできたが、罪悪感という名の闇鬼に囚われたままだったのだ。 逃げるように雲桜を離れた朱華は未晩とともに竜糸に落ち着いた。何事もなかったかのように診療所を開き、ふたり
懐かしい匂いがする。診療所の裏庭で育てられた香草の、爽やかで落ち着く香り。 朱華はゆっくりと瞼を持ちあげ、目の前で心配そうに顔を覗き込む未晩と視線を絡ませ合う。「師匠?」 「おはよう、朱華」 布団から抱きあげられてそのまま額へ口づけを受ける。いつもと同じ、穏やかな朝のはじまり。 ――なんだか、悪い夢を見ていたような気がする。 けれど朱華はそれを覚えていない。未晩はいつもと代わり映えのしない薄荷色の衣を纏い、朱華の代わりに麦飯と青菜の汁を準備している。いつもと同じ、質素な食事。「……いただきます」 両手を合わせて食事をはじめる朱華を、未晩は慈愛を込めた眼差しで見つめている。「師匠は、食べないの?」 「もう食べた」 だからいまはいらないと言って、朱華の隣で横になる。問答無用の膝枕だ。「師匠、あたしまだ食事中なんですけど……」 「気にするな」 いえ、気になります。と思わず言おうとして、違和感に気づく。 ――師匠って、こんな喋り方してたっけ? つきん、つきんと頭の片隅で痛みが生じる。まるで何か大切なことを忘れているかのよう。「それより師匠、診察の準備は」 「今日は休診だ。そんなことより朱華、朝飯食ったら準備を始めるぞ」 「……準備?」「忘れちゃいないだろう? 明日、お前の誕生日。花残月の朔日に、オレとお前は夫婦神となるのだ。華燭の儀を神殿で執り行うため、邪魔な竜神どもを追いだすんだよ」 ぶっ、と青菜の汁を勢いよく吹き出す朱華に、未晩が首を傾げる。「そ、そんな罰当たりな……師匠、本気で?」 「無論。朱華がこれ以上苦しまないためだ。わからぬのなら、教えてやろう」 カタン、と卓に乗せられていた食事がひっくり返る。座っていたはずの朱華の身体もひっくり返って、その上に未晩がのしかかっている。「師匠?」 「オレだけの朱華。おまじないをしてあ
「たしかに朱華はいただいた」 竜頭に前を遮られていたはずの未晩は瞬間的に夜澄を殴り、その隙に朱華を自分の胸へと抱え込む。水に濡れたままの朱華は「……うぅ」と苦しそうに身じろぎしている。玉虫色の髪は烏の濡羽色のように色濃く艶めき、青味がかった白い肌は氷のような透明感を魅せていた。 彼女はこんなにも美しかっただろうか。夜澄は自分たちが窮地に追い込まれているというのについ、朱華が未晩の腕で悶えながら身体をしならせる姿に目を奪われ、そんな自分に腹を立ててしまう。なぜあのとき素直に口にしなかったのだろう、自分は彼女に命を救われたあのときから、ずっと彼女を想いつづけていたということを。 彼女が未晩と結婚の約束をしていたという事実や、竜頭の神嫁に選ばれたという事実が、夜澄の恋心に鍵をかけていた。けれど、記憶を戻すと決意し、自分を求めた朱華に応えた瞬間、その封じは瓦解した。 「あけはな」 彼女は未だ、記憶の真実に苦しんでいるのだろうか。未晩の姿を見て幻術に惑わされて自分を突き放した彼女は。だからといって未晩の術で記憶を塗り替えていたときのように、偽りの記憶で彼女を縛りつけるのは赦されることではない。「おぬし、わしの裏緋寒をどうするつもりだ?」 黙って事態を見つめていた竜頭は、夜澄が未晩を攻撃しようにも朱華にまで危害を与えかねないと判断して佇んでいるのを見て、声を荒げる。「いつ、貴様の神嫁になったんだ? これはオレのものだ」 未晩はくだらないと一笑し、朱華の頬へ指を這わせる。長い爪が、朱華の頬を切り裂き、真っ赤な血を滴らせる。その血を掬って口に含むと、嬉しそうに未晩は頷く。 「神々の花嫁というのなら、オレが鬼神になってやるよ。ならば至高神とやらも別に文句は言わねえだろう?」 幽鬼の王は、自分こそが幽鬼の神だと豪語し、朱華の髪に唇を落とす。夜澄はその光景を見ていられなくてふいと顔を背けてしまう。たしかに、いまの状態では自分は未晩に敵わない。 だが、未晩の方は朱華を手元に取り戻せたことで満足したのか、す
「竜頭」 夜澄が名を呼ぶと、竜神は意識を失ったまま漂っている朱華を彼の方へ飛ばし、ふんと鼻息で返事する。ゆっくりと落下していく朱華の身体を抱きかかえ、夜澄はホッと安堵の息をつく。 そして竜神は変化する。世にも美しい黒檀色の長い髪に涼やかな一重の榛色の瞳を持つ青年へ。竜糸の『雨(ルヤンペアッテ)』の民の祖であるとされる色彩を纏った神は、煩わしそうに周囲を一瞥し、未晩へ向けて言葉を発する。「月の影のなりそこないがついに幽鬼に堕ちたのか」 「堕ちるも何も。オレはこの身体を飼いならしていただけだ。あのときの復讐をするために」 「それでわざわざ眠っていた我を起こしたのか。酔狂な奴め」 ふん、とつまらなそうに息をつくと、竜頭はぼそりと呟く。「颯月(そうげつ)。おぬし何をやっておるのだ?」 すると湖の上空にぽっかりと穴があき、さきほどまで至高神と対峙していた颯月が氷辻とともに落ちてくる。水面へ激突する寸前に氷辻が浮遊の詠唱をしたためふたりは何事もなかったかのように竜頭のもとへやってきた。「自分でも理解できません」 何がどうしてこんなことになったのかわからないまま、今度は竜頭に召喚されてしまった。瞳の色は元に戻っているが、至高神が施した祝福がいつまた発動するかはわからない。しかもその効用が何かもきく間もなく、至高神は姿を消してしまった。 だが、目の前の状況を見ればそう文句も言っていられない。竜頭が目覚め、幽鬼に堕ちた未晩が破壊のために狂気をむきだしにしている。すでに氷辻は理解したのか、里桜の隣に立って結界強化の詠唱をはじめている。「まあよい。母神の気まぐれはいつものこと。おぬしは里桜(りお)と竜糸を守護(まも)るために、いつものように動けば問題ない。その辺の瘴気を一掃しておけ」 竜頭はそれだけ言って、颯月を放り出す。颯月は真っ先に里桜の元へ飛び込み、結界を破ろうとする瘴気の塊を風で削りはじめる。 颯月と氷辻が戦力に加わったことで落ち着いたのか、竜頭は朱華が心配で動けなくなっている夜澄の前で雷を落とす。 「―
朱華をめぐる夜澄と未晩の争いは互いに攻撃を仕掛けてはかわすの繰り返しになっていた。だが、幽鬼の方が持久力は上だった。やがて、息を切らしはじめた夜澄に幽鬼の瞳が意地悪く煌めく。そのときを待っていたかのように身に溜めていた瘴気を放出し、ニタリと嗤う。「人間に身をやつしてはいるが、前よりしぶとくなったようだな……だが、これで終わりだ!」 「くっ」 未晩の体内で増幅されていた瘴気が夜澄目がけて飛び出していく。黒い靄のようなものが一気に押し寄せ、夜澄の身体を蝕もうと喰らいついてくる。赤い血がひとすじ、ふたすじと流れ、やがて夜澄の姿すら確認できなくなる。 「もう終わりか?」 「Chinot sephumi tauna tara, yupke rera――牙を剥けよ、烈しき風!」 瘴気に埋もれた夜澄の凛とした声が響き渡る。 そしてその声に応じるように、別の声がこだまする。 「Shirwen nitnei noshki chituye ――暴風の魔よ、真中より斬り裂け」 「……チッ。神殿の奴ら、気づきやがったか」 舌打ちをする未晩の背後から、兎に変化した雨鷺と里桜、そして術を放った星河が駆けつける。瘴気に埋もれていた夜澄は星河の術によって突破口を見つけ、勢いよく跳躍する。 「夜澄! 無事ね?」 「当り前だろ! それより、里桜(りお)、水兎、清雅! 結界張れ、結界!」 興奮しているからか夜澄はふたつ名で里桜を呼び、雨鷺と星河のこともかつての同朋の名で無意識に指示を出していた。たとえ人間に身をやつしていようが、彼が本気になれば、里桜ひとりでは敵わない。ましてやふたつ名で縛られてしまえばもはや従うしかない。「わ、わかったわ!」 「無駄だよ、表緋寒の逆さ斎」 ふふふ、と嗤う未晩は彼らが結界を張ろうがまったく問題ないと言いたそうに大事に腕に抱えた朱華を窓の外へと放り投げる。「な」 その先は、竜神が眠る湖。
「嘘よ!」 どちらに向けて告げたのか、いまいち理解に苦しむ夜澄と未晩は、朱華の言葉のつづきを逃すまいと耳を欹てる。菫色の双眸は、深い紫のままだ。「あたしがいま、手に入れた記憶は、真っ赤な嘘。そうよね?」 「そうだよ朱華。忌わしい蛇神が朱華を自分のモノにするために仕組んだ罠さ。ほんとうの記憶は、オレが与えただろう?」 「何を莫迦なことを! お前がほんとうのことを知りたいと口にしたから、俺は……」 「夜澄、ごめんなさい。こんなことをしたあたしが裏緋寒の乙女だなんて、間違っている。こんな記憶なら、知らなきゃよかった。神嫁になんか、なれるわけないよ。師匠、怒ってる?」 「怒ってるわけないだろ? 朱華はただ、神々に翻弄されただけさ。まったく、神に逆らう逆さ斎からすれば、許せないことだがな」 未晩の禍々しい瞳を見ても、朱華は恐怖を感じることなく素直に口を開いている。彼はもうお前の師匠じゃない、お前の故郷を滅ぼした幽鬼なんだ、騙されるな……! そう叫びたくても、朱華が夜澄を見たときの、沈みきった紫色の瞳が、自分を拒絶しているようで、何も言えなくなってしまう。「師匠、お願い、夜澄を殺さないで。あたしは竜神さまの花嫁にはならないから。ううん、なれないから。里桜さまと一緒に竜神さまを起こしたら、師匠のところに帰るから」 「それじゃあ、結婚のはなしも、受け入れてくれるんだな?」 うふふ、と微笑みながら全裸の朱華は未晩の言葉に頷く。 「ずっと前から、約束していたもの。あたしは、あなたのモノ、だって」 血まみれの衣姿でいる未晩に駆け寄り、恍惚とした表情で朱華は彼の胸に飛び込む。未晩が唱えた幻を呼ぶ術式が展開され、開いたばかりの薄紅色の桜の花びらが、周囲に舞い散り、ふたりを隠す。「朱華(あけはな)!」 生み出された美しい桜の花びらは、高温で焼かれたかのように真っ黒に焦げ、灰になって降り積もる間もなく溶けていく。未晩に抱きかかえられた朱華は夜澄の絶叫に顔を上げるも、雑音を耳にしたかのように顔を背け、ふたたび未晩を見つめる。禍々しくも美しい
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