手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した
「気になるのは……」 エレナが口を開き、眉を少し寄せながら思案深げな表情を浮かべた。「グリモナ村の村長グレタ、そして女性戦士レイナよ。この二人が何の目的でリノアについて尋ねてきたのかがはっきりしない。クラウディアさんは注意するようにって、警告してくれてるけど……」 エレナが警戒して言った。「グレタとレイナってどんな人たちなんだろう」 リノアは手紙を見つめながら、小さく呟いた。「トラン、見張りをしていたなら、この二人に会っているんじゃないの?」 エレナの問いかけに、トランはすぐに答えた。「もちろん、会ってるよ」 トランは得意げな口調で答えた。「その人たちは昨日の夕方に村に来たんだ。グレタって人はクラウディア様より老けていて、レイナって人は背の高い女の人。様子は普通じゃなかったよ」 トランは見張りの時の光景を思い出しながら語った。「普通じゃなかったって、どういうこと?」 エレナが眉をひそめ、慎重に問いかけた。「何ていうか……言葉では上手く説明できないんだけど、あの二人は何かを隠しているように感じたんだよね」 トランが自信なさげに言った。「もしかして……昨日、道ですれ違った二人のことかも」 リノアがハッとした様子で目を見開いて言った。「そう言われてみれば……。きっと、あの二人だわ。あの二人で間違いないと思う。あの時は、ただの旅人だと思ってたけど」 エレナもその場面を思い返し、真剣な表情になった。 部屋に緊張感が漂う。 トランの言葉とリノアたちの記憶が繋がり、グレタとレイナが単なる訪問者ではないことをリノアたちに確信させた。 グレタたちが何を目的としているのか、その意図が見えてこないまま、不安が増幅していく。「その二人がグレタとレイナなら、グレタとは直接、会話を交わしてる……」 リノアは記憶をたどりながら、慎重に言葉を選んだ。「でもあの人たちってリノアのことを、リノアだと気づいてなかったよね」 エレナは真剣な表情で言葉を発した。「私やシオンのことを人伝に聞いて知ったってことなのかな」 リノアは手紙から目を離し、少し考え込むように言った。「付き添いの女性、レイナは殆ど口を開かなかったわね。あまり私たちには関心がなさそうだった。意識を常に森の奥に飛ばしていたし」 エレナも記憶をたどりながら言葉を発した。 レイナか。
「だけど、どうして私の能力や龍の涙のことを知っているんだろう」 そう言って、リノアは深く息を吸い込んで、そして続けた。「シオンが亡くなったことまで知ってるなんて……。グリモナの村と交流はあるけど、そこまで密接な関係でもないのに……。何か目的があって、私たちに近づいてきたとしか思えない」「確かにね」 エレナはリノアの言葉に同調し、真剣な表情で話し始めた。「グレタの態度には何か違和感があった。穏やかに話していたけど、視線が鋭くて、私たちの話を探っているような感じだった」「随分と森のことを心配している様子を見せていたのに、その言葉の裏に別の意図があったってことか……」 リノアは表情を曇らせながら言った。「まだ分からないけど、その可能性もあると思う。私たちがどこまでのことを知っているのかを探っていたとかね」 エレナは冷静さを保ちながら慎重に言葉を紡ぎ、少し間を置いて、さらに続けた。「いずれにしても目的が分かるまでは注意しないとね。クラウディアさんが言うには、他の名家たちも龍の涙を狙っているってことだし」 エレナとリノアの間に漂う空気が、一層引き締まった。「そうだね……」 リノアは息を整えながら、視線を手紙に戻した。 グレタの動向は気にしなければならない。だけど、レイナの様子も気になる。 レイナの森の奥に意識を向ける態度は一見、無関心に見えた。だけど、あの人は何かを隠している。 もっと深い何か別の計画があってもおかしくはない……。「何だか大人って汚いよね。裏表があってさ。やな感じ」 トランが少し不機嫌そうにぼそりと呟いた。 トランは少し口を閉ざした後、視線をリノアたちに向けた。その目には、何かを確かめたいという切実な思いが宿っている。「ねえ、リノアたち、ラヴィナのところに行っちゃうの?」「うん。私が村に留まれば村に争いを呼び込むことになるしね」 リノアが言った。「そんなことないよ。戻って来てよ」 トランが不安そうに言うと、リノアはトランの方を向いて微笑んだ。「行かなければならないし、クラウディアさんも旅立って欲しいと思ってるから……」 そう言って、リノアは視線を遠くに向けた。「そうかもしれないけど、きっとクラウディア様はリノアを逃がそうとしているのだと思うよ。村に居たら危ないから。何か、そんな気がするんだ」 トランの表
森は呼吸しているかのように穏やかな気配を放っている。もう今日は誰も襲っては来ないだろう。 リノアは疲れ果てたトランが眠りにつく様子を見つめた。無邪気な寝顔をしている。日に焼けた頬とほんのりと紅潮した鼻が愛らしさを引き立てている。 トランは今日、クラウディアから託された手紙をしっかりと抱え、森の中を一人で歩いて来た。夕方以降という危険な時間帯にもかかわらず、怯むことはなかった。トランは役目を果たそうと必死だったのだ。 トランが必死に任務を遂行する姿を想像すると、胸に込み上げてくるものがある。きっとトランに無理をさせている。 クラウディアさんがトランに手紙を託したのは、彼に困難を経験させ、成長の機会を与えたいという願いが込められていたからに違いない。 それだけ村の置かれている状況が深刻なのだろう。だからこそ、クラウディアさんはトランにあえてこの役目を任せ、未来に繋がる力を育てようとしたのだ。「乗り越えなければならない壁……か……」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、もう一度トランの寝顔を見つめた。 きっとトランは、この経験を通じて、より逞しく成長する。 リノアはトランの髪を軽く整えると、そっとその場を離れて机に向かった。 星見の丘での出来事をクラウディアさんに伝えなければならない。 研究所内はインクや薬草、埃の香りで満たされている。落ち着きのある空間だ。 リノアは書きかけの手紙に目を落として、再び手を動かした。 この辺りの村民ではない、見知らぬ人たちが古木の根元で鉱石を掘っていたこと。その人物が「生命の欠片ではない」と口にして悔しがっていたこと。掘り出した光る水晶のような鉱石を使った際、周囲の草花が枯れたことやシカが荒れ狂った様子。そして、シオンと繋がりがありそうなラヴィナに会いに行くこと。 これらの事実をリノアは淡々とした筆致で書き留めていった。 ふと目を上げると、机の上にシオンの持ち物が散乱していることに気づいた。ガラスの瓶や星の紋章が刻まれた道具箱、そして獣を撃退した際に触れたペンダントと同じ種類の鉱石……。──この鉱石はペンダントと同じ効果を発揮することはなかった。おそらく加工されたペンダントには何らかの特殊な技術が使われている……。シオンの研究の結晶なのかもしれない。 ペンダントが光を放った際に現れたビジョンの記憶がリ
あの幼かった日のことが想い出される。 あの日、リノアは広場の端に一人で佇み、父や母と楽しんでいる友人たちを眺めていた。 子どもたちは駆け回り、大人たちは屋台で買った食べ物を手に笑い合う。誰もが笑顔で楽しそうに言葉を交わしていた。 しかし、そんな賑やかな光景を目の前にしながらも、リノアの心はどこか遠く離れていた。 俯いたままのリノアを気に留める人はいない。リノアには村人たちの笑い声が遠い世界の出来事のように感じられた。 ひと息ついて、リノアは広場をそっと見渡した。けれど、笑い合う人々の中でリノアの視線に気づいてくれる者は誰もいない。 リノアは広場の賑わいから目を背け、再び地面に視線を落とした。足元の小石をつま先で転がし、手をぎゅっと握りしめる。 どうして私だけ…… 佇んでいた時、どこからともなく足音が聞こえた。誰かが駆け寄って来る。「リノア、これあげる」 見上げると、そこには兄のシオンが立っていた。手には笛が握られている。 戸惑いながら笛を受け取ると、シオンはそのまま何も言わずに、広場の向こうへ立ち去った。 私はただ、その背中を呆然と見つめた。 シオンに手渡されたのは、緻密な彫刻が施されたヴィーンウッドで作られた笛だった。その木目は滑らかで美しく、手の中に優しい感触を残した。 ◇ 夜風が頬を撫で、現実へと引き戻されたリノアはシオンに貰った笛を眺めた。木の温もりが肌から胸の奥にじんわりと伝わってくる。この感覚は、あの日、初めて笛に触れた時と同じものだ。 ほんの少し前まで父と母と手を繋ぎ、皆と同じように満面の笑みで広場の中心ではしゃぎ回っていた。その幸せは永遠に続くものだと信じていたのに…… 突然すぎる別れが、その幸せを容赦なく奪い去っていった。 心にぽっかりと空いた穴は埋める術もなく、ただひっそりとそこに居座り続けているばかり。 シオンは、そんな私を元気づける為に母から受け継いだ大切な笛を譲ってくれたのだ。 あの頃のシオンは多くを語らず、不器用で自分の優しさを言葉にすることが苦手な人だった。でも、その無骨な優しさこそが、私には何よりも愛おしく感じられる。 私の心はあの日、壊れてしまった。それを誰かに話すことも、共有することもできず、ただ日々の中で飲み込んで
リノアは幼い頃、初めて自然の声を聞いた。それは母親と一緒に森を訪れた日のことだった。森の奥深く、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む場所で、リノアの母はリノアの手を引きながら歩いていた。「リノア、ここで少し待っていて。お母さんが戻るまで動かないでね」 母の声は優しかったが、どこか切迫した響きを帯びていた。母はリノアを太古から存在するオークの木の根元に座らせ、膝に手を置いて微笑んだ。「お母さん、どこに行くの?」 リノアが尋ねると、母は首を振って答えた。「すぐ戻るから、ここで待っていて。約束だよ」 そう言って、母はリノアに背を向け、木々の間へ消えていった。背中が遠ざかるにつれ、リノアの小さな胸に不安の波が寄せ始めた。 リノアはその言葉を守り、静かに待ち続けた。 太陽が少しずつ傾き、森に長い影が伸び始める。オークの木の根はごつごつしており、苔の柔らかな感触が彼女の手をくすぐった。 鳥のさえずりが遠くに聞こえ、心地よく感じる。しかし母が戻って来ないことで、リノアの心の中に不安の感情が芽生え始めた。「お母さん、どこ?」 リノアが小さな声でつぶやく。 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、リノアは周囲を見回した。森は静かで、ただ風が木々を揺らす音だけが響いている。母の気配はない。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がり、母が消えた方向へ駆け出そうとした。その瞬間、耳元で声が響いた。 「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 驚いたリノアは足を止め、辺りを見回した。「誰?」 姿が見えない。風の音と川のせせらぎなど、自然の音だけが聞こえる。 聞いたことのない声だ。だけど温かくて、どこか懐かしい響きがする。「もう少しだけ、ここにいて」 声が再び森に響き渡った。姿は見えないが、確かにそこにいる。リノアは目を細めて周囲を見回したが、やはり何も見つけることはできなかった。「どうして? お母さんのところに行きたい」 リノアが訴えると、声は静かに答えた。「ここにいたら安全だから。僕たちが君を守ってあげる。お母さんも心配しなくて良いよ」 その言葉にリノアは不思議な安心感を覚え、彼女は再びオークの根元に座り込んだ。 目の前には小さな川が流れ、水面が陽光を反射してキラキラと輝いている。 リノアは手を伸ばし、水にそっと触れた。ひ
「何、あれ?」 リノアは立ち上がって、目を凝らした。 何が起きているのか分からず、リノアは遠くに見える孔雀のように美しく燃える炎を見つめていた。 火の粉が空高く舞い上がる。やがて、その一部が森の木に飛び移ると、次から次へと炎が燃え広がり、見渡す限り一面の炎となった。 木々の隙間から熱風が吹き込んでくる。周辺の木々が一つ、また一つと炎に包まれ、リオナの逃げ道を狭めていく。 炎と煙の壁がそびえ立ち、それらがゆっくりと近づいてくる……。「熱いよ……」 リノアは動くことができなかった。煙で息が苦しくなり、熱が肌を焼く。恐怖が彼女の心を支配した。「お母さん……助けて……」 小さな声で呟くが、誰も助けに来てくれない。「お母さん……」 諦めそうになった瞬間、再びあの声が聞こえた。「大丈夫だよ、リノア。僕たちがいるから」 突然、強風が吹き荒れ、炎が龍のように渦を巻いて上空へ舞い上がった。 空が暗くなり、大粒の雨が大地を叩く。「あっ、雨だ!」 まるで自然がリノアを守るかのように雨が彼女を包み込んだ。 炎が消え、煙が薄れていく。濡れた髪が頬に張り付き、リノアはその場に呆然と立ち尽くした。「リノア、僕たちを感じて。僕たちもリノアと共にあるから。その気持ちを忘れないで」 声が優しく心に響いた。 リノアは心の中でその言葉を繰り返し、そして言葉を発した。「うん、わかった」「でも気をつけて。僕たちの声が届かなくなる時が来るかもしれないから」 風がリノアの髪を撫で、そっと飛び去った。 リノアは母の言いつけの通り、母が戻って来るのを待ち続けた。しかし太陽が沈み、森が闇に包まれても母が戻って来ることはなかった。「どこに行ったんだろう……」 リノアは膝を抱え、オークの木にもたれかかった。リノアの呟きは風に溶け、自然の音だけが静かに寄り添った。
リノアの人生は、あの森の火災から大きく変わった。彼女は自然と深く結びついていた幼少期の記憶を胸に日々を過ごしていた。 木の窓から差し込む陽光がリノアの小さな部屋を優しく照らし出す。 村の外れに立つこの家は、母と暮らした思い出深い場所だ。今はリノア一人で住んでいる。 壁に掛かった古びた織物や床に散らばる干し草の匂いが、過去の記憶を静かに呼び起こす。だが、その記憶はいつも途中で途切れてしまっていた。母が森で消えたあの日の情景で、いつも止まってしまうのだ。 母が森で消えたあの日の記憶は、いつも霞がかかったように曖昧だ。その記憶の断片に触れるたび、まるで目の前に現れる扉が突然閉じられるように、心の奥底で何かが引き裂かれる。 あの母の柔らかな笑顔と森の風の香り——そこから先を思い出そうとすると、心の中に冷たい静寂が広がってくる。 リノアはベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。 朝の光が村の屋根を金色に染め、遠くからは井戸端の笑い声と手押し車のきしむ音が聞こえる。風に乗って運ばれてくるパンを焼く香ばしい匂いが、リノアの記憶をさらに揺さぶった。しかし、それでも「今」と「過去」の間に横たわる深い溝を埋めることはできない。 リノアは水瓶から水を汲み取り、その冷たさを喉で感じた。喉を滑る水の感触が森の奥を流れる小川の冷たさを思い出させる。 リノアは目を閉じて、その味に一瞬だけ母の笑顔を重ねた。 今日もまた、村での一日が始まる。 リノアは麻の服を身にまとい、手早く髪を後ろで束ねた。母親がいた頃は、いつも小さな手鏡を使ってリノアの髪を整えてくれた。その微笑みと優しい手の感触は今でも忘れることができない。しかし今はもう、そのような贅沢は許されない。 リノアは部屋の隅に置かれた籠を手に取り、扉を開けて外へ出た。 森に囲まれた小さな集落は、木々の緑に包まれ、家々は自然の一部となって息づいている。苔むした屋根は雨と時の流れを物語り、壁を這う蔦が生命の逞しさを表していた。 村人たちはそれぞれの朝の仕事に取りかかっている。 鍛冶屋のカイルが炉の火を赤々と燃やし、その煙が空の青に溶け込んでいる。その光景の先には、杖を頼りに歩く年老いたクラウディアと、いつものように馬の手綱をさばくレオの姿が見える。レオの手際はすっかり板についているようだ。 皆がそれぞれの役割を果たし、
あの幼かった日のことが想い出される。 あの日、リノアは広場の端に一人で佇み、父や母と楽しんでいる友人たちを眺めていた。 子どもたちは駆け回り、大人たちは屋台で買った食べ物を手に笑い合う。誰もが笑顔で楽しそうに言葉を交わしていた。 しかし、そんな賑やかな光景を目の前にしながらも、リノアの心はどこか遠く離れていた。 俯いたままのリノアを気に留める人はいない。リノアには村人たちの笑い声が遠い世界の出来事のように感じられた。 ひと息ついて、リノアは広場をそっと見渡した。けれど、笑い合う人々の中でリノアの視線に気づいてくれる者は誰もいない。 リノアは広場の賑わいから目を背け、再び地面に視線を落とした。足元の小石をつま先で転がし、手をぎゅっと握りしめる。 どうして私だけ…… 佇んでいた時、どこからともなく足音が聞こえた。誰かが駆け寄って来る。「リノア、これあげる」 見上げると、そこには兄のシオンが立っていた。手には笛が握られている。 戸惑いながら笛を受け取ると、シオンはそのまま何も言わずに、広場の向こうへ立ち去った。 私はただ、その背中を呆然と見つめた。 シオンに手渡されたのは、緻密な彫刻が施されたヴィーンウッドで作られた笛だった。その木目は滑らかで美しく、手の中に優しい感触を残した。 ◇ 夜風が頬を撫で、現実へと引き戻されたリノアはシオンに貰った笛を眺めた。木の温もりが肌から胸の奥にじんわりと伝わってくる。この感覚は、あの日、初めて笛に触れた時と同じものだ。 ほんの少し前まで父と母と手を繋ぎ、皆と同じように満面の笑みで広場の中心ではしゃぎ回っていた。その幸せは永遠に続くものだと信じていたのに…… 突然すぎる別れが、その幸せを容赦なく奪い去っていった。 心にぽっかりと空いた穴は埋める術もなく、ただひっそりとそこに居座り続けているばかり。 シオンは、そんな私を元気づける為に母から受け継いだ大切な笛を譲ってくれたのだ。 あの頃のシオンは多くを語らず、不器用で自分の優しさを言葉にすることが苦手な人だった。でも、その無骨な優しさこそが、私には何よりも愛おしく感じられる。 私の心はあの日、壊れてしまった。それを誰かに話すことも、共有することもできず、ただ日々の中で飲み込んで
森は呼吸しているかのように穏やかな気配を放っている。もう今日は誰も襲っては来ないだろう。 リノアは疲れ果てたトランが眠りにつく様子を見つめた。無邪気な寝顔をしている。日に焼けた頬とほんのりと紅潮した鼻が愛らしさを引き立てている。 トランは今日、クラウディアから託された手紙をしっかりと抱え、森の中を一人で歩いて来た。夕方以降という危険な時間帯にもかかわらず、怯むことはなかった。トランは役目を果たそうと必死だったのだ。 トランが必死に任務を遂行する姿を想像すると、胸に込み上げてくるものがある。きっとトランに無理をさせている。 クラウディアさんがトランに手紙を託したのは、彼に困難を経験させ、成長の機会を与えたいという願いが込められていたからに違いない。 それだけ村の置かれている状況が深刻なのだろう。だからこそ、クラウディアさんはトランにあえてこの役目を任せ、未来に繋がる力を育てようとしたのだ。「乗り越えなければならない壁……か……」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、もう一度トランの寝顔を見つめた。 きっとトランは、この経験を通じて、より逞しく成長する。 リノアはトランの髪を軽く整えると、そっとその場を離れて机に向かった。 星見の丘での出来事をクラウディアさんに伝えなければならない。 研究所内はインクや薬草、埃の香りで満たされている。落ち着きのある空間だ。 リノアは書きかけの手紙に目を落として、再び手を動かした。 この辺りの村民ではない、見知らぬ人たちが古木の根元で鉱石を掘っていたこと。その人物が「生命の欠片ではない」と口にして悔しがっていたこと。掘り出した光る水晶のような鉱石を使った際、周囲の草花が枯れたことやシカが荒れ狂った様子。そして、シオンと繋がりがありそうなラヴィナに会いに行くこと。 これらの事実をリノアは淡々とした筆致で書き留めていった。 ふと目を上げると、机の上にシオンの持ち物が散乱していることに気づいた。ガラスの瓶や星の紋章が刻まれた道具箱、そして獣を撃退した際に触れたペンダントと同じ種類の鉱石……。──この鉱石はペンダントと同じ効果を発揮することはなかった。おそらく加工されたペンダントには何らかの特殊な技術が使われている……。シオンの研究の結晶なのかもしれない。 ペンダントが光を放った際に現れたビジョンの記憶がリ
「だけど、どうして私の能力や龍の涙のことを知っているんだろう」 そう言って、リノアは深く息を吸い込んで、そして続けた。「シオンが亡くなったことまで知ってるなんて……。グリモナの村と交流はあるけど、そこまで密接な関係でもないのに……。何か目的があって、私たちに近づいてきたとしか思えない」「確かにね」 エレナはリノアの言葉に同調し、真剣な表情で話し始めた。「グレタの態度には何か違和感があった。穏やかに話していたけど、視線が鋭くて、私たちの話を探っているような感じだった」「随分と森のことを心配している様子を見せていたのに、その言葉の裏に別の意図があったってことか……」 リノアは表情を曇らせながら言った。「まだ分からないけど、その可能性もあると思う。私たちがどこまでのことを知っているのかを探っていたとかね」 エレナは冷静さを保ちながら慎重に言葉を紡ぎ、少し間を置いて、さらに続けた。「いずれにしても目的が分かるまでは注意しないとね。クラウディアさんが言うには、他の名家たちも龍の涙を狙っているってことだし」 エレナとリノアの間に漂う空気が、一層引き締まった。「そうだね……」 リノアは息を整えながら、視線を手紙に戻した。 グレタの動向は気にしなければならない。だけど、レイナの様子も気になる。 レイナの森の奥に意識を向ける態度は一見、無関心に見えた。だけど、あの人は何かを隠している。 もっと深い何か別の計画があってもおかしくはない……。「何だか大人って汚いよね。裏表があってさ。やな感じ」 トランが少し不機嫌そうにぼそりと呟いた。 トランは少し口を閉ざした後、視線をリノアたちに向けた。その目には、何かを確かめたいという切実な思いが宿っている。「ねえ、リノアたち、ラヴィナのところに行っちゃうの?」「うん。私が村に留まれば村に争いを呼び込むことになるしね」 リノアが言った。「そんなことないよ。戻って来てよ」 トランが不安そうに言うと、リノアはトランの方を向いて微笑んだ。「行かなければならないし、クラウディアさんも旅立って欲しいと思ってるから……」 そう言って、リノアは視線を遠くに向けた。「そうかもしれないけど、きっとクラウディア様はリノアを逃がそうとしているのだと思うよ。村に居たら危ないから。何か、そんな気がするんだ」 トランの表
「気になるのは……」 エレナが口を開き、眉を少し寄せながら思案深げな表情を浮かべた。「グリモナ村の村長グレタ、そして女性戦士レイナよ。この二人が何の目的でリノアについて尋ねてきたのかがはっきりしない。クラウディアさんは注意するようにって、警告してくれてるけど……」 エレナが警戒して言った。「グレタとレイナってどんな人たちなんだろう」 リノアは手紙を見つめながら、小さく呟いた。「トラン、見張りをしていたなら、この二人に会っているんじゃないの?」 エレナの問いかけに、トランはすぐに答えた。「もちろん、会ってるよ」 トランは得意げな口調で答えた。「その人たちは昨日の夕方に村に来たんだ。グレタって人はクラウディア様より老けていて、レイナって人は背の高い女の人。様子は普通じゃなかったよ」 トランは見張りの時の光景を思い出しながら語った。「普通じゃなかったって、どういうこと?」 エレナが眉をひそめ、慎重に問いかけた。「何ていうか……言葉では上手く説明できないんだけど、あの二人は何かを隠しているように感じたんだよね」 トランが自信なさげに言った。「もしかして……昨日、道ですれ違った二人のことかも」 リノアがハッとした様子で目を見開いて言った。「そう言われてみれば……。きっと、あの二人だわ。あの二人で間違いないと思う。あの時は、ただの旅人だと思ってたけど」 エレナもその場面を思い返し、真剣な表情になった。 部屋に緊張感が漂う。 トランの言葉とリノアたちの記憶が繋がり、グレタとレイナが単なる訪問者ではないことをリノアたちに確信させた。 グレタたちが何を目的としているのか、その意図が見えてこないまま、不安が増幅していく。「その二人がグレタとレイナなら、グレタとは直接、会話を交わしてる……」 リノアは記憶をたどりながら、慎重に言葉を選んだ。「でもあの人たちってリノアのことを、リノアだと気づいてなかったよね」 エレナは真剣な表情で言葉を発した。「私やシオンのことを人伝に聞いて知ったってことなのかな」 リノアは手紙から目を離し、少し考え込むように言った。「付き添いの女性、レイナは殆ど口を開かなかったわね。あまり私たちには関心がなさそうだった。意識を常に森の奥に飛ばしていたし」 エレナも記憶をたどりながら言葉を発した。 レイナか。
手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した
「でもさ、あのシカなんで消えたの?」 トランが問いかけるように口を開いた。 その瞳には驚きとほんの少しの不安が混じっている。 リノアはヴェールライトのペンダントに視線を落としながら、答えを探るように考え込んだ。 森そのものが姿を変えた存在—— あの存在と対峙した時に私の心に芽生えた感情。それは恐怖ではなく、森が私に語りかけ、包み込むような不思議な感覚だった。「もしかしたら……森そのものが怒りや悲しみを、あのシカの形を借りて表現していたのかも。それが鎮められたから、霧と共に消えていったんじゃないかな」「えっ、あれってシカじゃないの?」 トランが不思議そうな顔でリノアを見つめる。「違うと思う……」 リノアは少し戸惑いながらもそう答えた。その表情には完全な自信があるわけではない。しかし自分の直感を信じようとする姿勢が感じられる。「私も何となくだけど、殺してはいけない気がした」 エレナの瞳には、どこか遠くを見るような思索の色が浮かんでいた。「森そのものが、私たちに何かを伝えようとしたのだと思う」 リノアの声には不思議な重みがあり、トランとエレナは無意識のうちに聞き入った。 トランは一瞬、口を開きかけたが、言葉が見つからないようで、すぐに口をつぐんだ。 室内に静寂が訪れる。「何だか、よく分かんないや」 トランがぽつりと呟いた。 リノアはトランに微笑みかけ、トランの混乱を受け止めた。「ああ、そうだ。クラウディア様から手紙を預かっていたんだった。リノアに渡してって」 トランが慌てた様子でポケットから紙を取り出した。それを受け取ったリノアは、クラウディアの文字が綴られた手紙に目を通す。 紙の表面には、独特の筆跡でこう書かれていた。リノアへ 星詠みとしての力を真に目覚めさせた時、あなたは龍の涙を完全に使いこなす資格を得るでしょう。 この龍の涙が秘める力は人類にとって必要不可欠なものです。しかし、その力を軽々しく扱ってはいけません。使い方を誤れば、その力は必ず破滅への道を開きます。 龍の涙の存在は決して知られてはならない。知られたら必ず奪いに来る者が現れます。その危険を忘れてはなりません。 グリモナ村の村長グレタ、そして付き添いの女性戦士を名乗るレイナ。この者たちが村にやって来ました。 グレタはリノアについて色々と詮索してきまし
「リノア、それってペンダントについている鉱石と同じものじゃない?」 そう言って、エレナがペンダントを床から拾い上げて手に取り、鉱石の横に並べて見比べた。「ほら、ペンダントは加工してあるけど、同じものだと思うよ」 エレナの言葉にリノアはペンダントに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。 輝きや質感は異なる。しかし根底にある力の種類が一致しているように感じる。「シオン、これをどこで手に入れたんだろう?」 リノアがぽつりと呟く。 この鉱石はこの付近で採れるものではない。「さっき、ラヴィナって言ってたけど、ラヴィナって誰?」 エレナがトランに問いかけた。「他の村に住んでる人だよ。鉱石にめちゃくちゃ詳しくてさ。シオンもその人から鉱石のことを聞いたんじゃないかな」 トランの声には好奇心と年下ならではの無邪気さが表れている。トランは見張り役として村の内外をよく知っている人物だ。「リノア、ラヴィナって誰か知ってる?」 エレナがリノアに問いかける。「ううん、聞いたことない」 村外の話を聞くことは殆どない。知っているのは外部と交流のある人くらいだ。「そっか。シオンが交流していたのなら、悪い人ではなさそうね。だけど、どうして、こんなものを手に入れようと思ったんだろ。ただ珍しいからという簡単な理由じゃないはず」「私もそう思う。鉱石とは言え、いたずらに破壊する人じゃないし」 ペンダントは加工してある。恐らく、シオン自らの手によるものだ。「シオンは全てのものに生命が宿っていると考える人だった。シオンはこの鉱石を手に入れ、そして加工する必要があった。ということじゃないかな」 エレナの言葉に、部屋の空気が少し張り詰める。「何かもっと大きな理由……」 リノアが呟くように言った。 獣の怒りを鎮めたこの鉱石が、ただの装飾品や珍品ではないことは明らかだ。「ラヴィナと会って、この鉱石について話を聞く必要がありそうね。その人なら、シオンが何を考え、この鉱石をどんな目的で入手し、加工したのか、手がかりが掴めるかもしれない」 エレナの言葉が静かに部屋に響く。 リノアはエレナの推測を心に刻みながら、ペンダントにそっと触れた。──ヴェールライトが私をどこかに導こうとしている……。 リノアは目を閉じて、心の中で輝きを放つ光を想像した。──このヴェールライトは、この
リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込
「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震