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秋月 友希
秋月 友希
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Romans de 秋月 友希

娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い

娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い

一条財閥の継承者であることを隠し、無職の主夫として暮らす俺。野心家の妻・絵里香は俺を見下し、間男の樹と不倫にふける。娘の誕生日すら蔑ろにされた時、俺の忍耐は限界を超えた。 愚かな妻に離婚を突きつけた俺は、一条財閥の「真の王」として覚醒する。義妹・凜と共に、最愛の母を謀殺した黒幕である白鷺銀行、そして絵里香と樹を巨額融資という甘い罠へ誘い込む。 何も知らない元妻たちが俺を嘲笑うパーティー会場。真っ白なスポットライトが無職の元夫であるはずの俺を照らし出した瞬間——彼らの傲慢な笑みは凍りつく。 容赦なき復讐の狂宴の幕開け。だが俺たちはまだ知らない。その先に、母の死にまつわる底知れぬ闇が待っていることを。
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Chapter: 暴かれた黒幕
 タブレットの画面に表示された男の顔。 白髪交じりのオールバックに仕立ての良いスーツ。表向きは「黒川グループ」という健全な投資会社の代表理事を務める男、黒川龍臣(くろかわりゅうしん)。 だが、その裏の顔は政財界の暗部と深く癒着し、邪魔者を物理的に排除する清掃屋を束ねる、真の巨大な悪だった。「……母さんは、やはり事故で死んだわけではなかった」 隼人の声が広大なリビングの空気を重く沈ませる。 凜が手元の資料をめくり、無駄のない動作で事実を並べ立てた。「はい。数年前、一条の地方支社を視察中だったお母様は、白鷺銀行の副頭取と黒川商会による、数百億円規模のマネーロンダリングの証拠を掴みました。それが現在彼らが絵里香たちを隠れ蓑にして進めている『未来湾岸総合開発』の初期投資金です」「それを隠蔽するため、母さんの車のブレーキに細工をし、崖から転落させたのか……」 隼人の手に込められた強い力により、タブレットの硬質なプラスチックが軋む音が鳴った。彼の視線は画面に釘付けになったまま、瞬きひとつしない。「しかも黒川商会は、警察の上層部や政治家にも太いパイプを持っています」 凜が眉間を寄せ、険しい表情で続けた。「彼らの手口は極めて狡猾です。私が裏ルートで集めた証拠や、廃倉庫街で確保した情報提供者の証言を警察に持ち込んだとしても、上層部の圧力で揉み消される可能性が高い。下手に法で裁こうとすれば、彼らは即座に清掃屋を放ち、私たちや結衣ちゃんを標的にするでしょう」 これが隼人の前に立ちはだかる新たな、そして最大の壁だった。 ただの浮気妻と間男への復讐劇ではない。相手は法すらも自分たちの都合の良いように捻じ曲げる、裏社会を牛耳る強大なシンジケートだ。正面からぶつかれば、愛する娘を危険に晒すことになる。「……法で裁けないのなら、法が及ばない場所で完全に息の根を止めるまでだ」 隼人はタブレットをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。 彼の背中から発せられる威圧感は、かつてないほど濃密だった。「奴らの力の源泉は金と裏のネットワークだ。ならば、そのすべてを一条の経済力という盤上で搾り取り、二度と這い上がれない、どん底へ突き落とす」「兄さん、具体的にはどのように動きますか。あの間男・宝生樹は既にエリカ・パートナーズの資金を抜き取り、海外へ逃亡する準備を完了させていま
Dernière mise à jour: 2026-07-15
Chapter: 冷ややかな王
「一条が用意した、底なしの地獄の入り口だ」 その言葉を最後に、無機質な電子音だけを残して通話が切れた。 華やかな音楽と乾杯の声が飛び交う祝賀会場の隅で、絵里香はスマートフォンを耳に当てたまま、完全に硬直していた。(何よそれ……。数百億円規模の土壌改良費? 絶対に回収不可能な負債?) 隼人の感情の抜け落ちた声が、呪いのように耳の奥で響き続ける。 一瞬、背筋を這い上がった悪寒に、絵里香は手元のシャンパングラスを取り落としそうになった。だが、彼女はすぐに頭を振り、その恐怖を強引に振り払った。「ば、馬鹿みたい! あいつ、私に出し抜かれたのが悔しくて、あんな見え透いたハッタリを口走ったのよ!」 絵里香は自らの都合の良いように解釈し、無理やり勝ち誇った笑みを浮かべ直した。「無職のヒモだったくせに、一条のトップになった途端に偉そうな口を叩いて。……でも、ちょっとだけ確認しておいた方がいいわね」 一抹の不安を消し去るため、絵里香は足早に会場を見回し、樹の姿を探した。 エントランスへ向かう廊下の隅で、樹が焦った様子でスマートフォンを操作しているのを見つけて駆け寄る。「樹くん! ちょっと、あの持ち出したデータの『最終条項』ってやつを確認したいんだけど!」 絵里香が肩を叩くと、樹は一瞬全身を硬直させ、慌ててスマートフォンの画面を隠した。「……えっ? 最終条項?」「そうよ。さっき隼人に電話したら、開発予定地に有害物質が埋まっていて、数百億の追加費用がかかるなんて負け惜しみを言ってきたの。念のため、元のデータを確認して!」 絵里香の言葉を聞いた瞬間、樹の額から滝のような冷や汗が吹き出した。(一条隼人に電話しただと!? この馬鹿女、自ら『黒川のハッカーを使ってデータを盗んだ』ことを話したんじゃないだろうな。もしそうなら、もう一条の追跡班が動いているに違いない……!) データの最終条項に罠があるかどうかなど、今の樹にはどうでもよかった。 一条が事態を完全に把握している以上、この会場に一条の制圧部隊や警察が踏み込んでくるのは時間の問題だ。あと数分で自分の海外口座への全額送金が完了する。それさえ終われば、こんな泥船の会社も、絵里香という寄生先も、すべて用済みだ。「……絵里香さん」 樹は極度の焦燥を必死に押し隠し、いつもの完璧な営業スマイルを顔に貼り付けた。
Dernière mise à jour: 2026-07-14
Chapter: 砂の城からの電話
 祝賀会の喧騒が響く中、絵里香はスマートフォンを耳に当て、意地悪に唇を歪めた。『……何の用だ』 数回のコールの後、電話口から隼人の声が響いた。 背後に風の音が聞こえる。どこか屋外にいるようだが、絵里香にとってそんなことはどうでもよかった。「ふふっ、ずいぶんと不機嫌な声ね。一条の会長様ともあろうお方が、元妻からの電話に怯えているの?」 絵里香は手元のシャンパングラスを揺らしながら、これ見よがしな高い声で笑った。『要件がないなら切る』「待ちなさいよ! 教えてあげるわ。今、私たちは超高級ホテルで盛大な祝賀会を開いているの。……あんたたちが水面下で進めていた『未来湾岸総合開発』の権利、私たちがそっくりそのまま奪ってやったわよ!」 絵里香の言葉は、まるで自分が世界の覇者になったかのような絶対的な優越感に満ちていた。「黒川商会から百億円の融資も引き出したわ! これでエリカ・パートナーズは一条グループを完全に超えたの。あんたなんて、もう用済みよ! せいぜい、私が業界のトップに立つ姿を地べたから見上げてなさい!」 一方的に勝ち誇る絵里香。 だが、通話の向こう側にいる隼人は、微塵も動揺を見せなかった。 廃倉庫街の暗闇に佇み、情報提供者を安全な場所へ移送する手配を終えたばかりの隼人は、絵里香の薄っぺらい挑発を滑稽な道化を眺めるような瞳で聞き流していた。『……黒川商会から百億円、か』「そうよ! 悔しいでしょうね。あのダサい主夫ごっこから一条のトップに成り上がったと思ったら、私にあっさりと足元をすくわれたんだから!」『俺の会社からデータを奪ったと言ったな。……それは、お前が自ら黒川商会のネットワークを使って引き出したものか?』 隼人の静かな問いかけ。 それはただの確認ではなく、誘導尋問だった。「ふん。私が直接手を下すわけないじゃない。私の最高のパートナーである樹くんが、黒川商会の凄腕ハッカーたちを使って、あんたの会社のメインサーバーから根こそぎ奪い取ってくれたのよ!」 絵里香は自慢げに間男の手柄をペラペラと喋り続ける。 その言葉の裏にある致命的な事実に、隼人は一瞬で気づいた。 黒川商会という裏社会の組織が、ただの中小企業であるエリカ・パートナーズのために、そこまで便宜を図るはずがない。 彼らの本当の狙いは一条の乗っ取りではなく、別にある。『……
Dernière mise à jour: 2026-07-13
Chapter: 狂乱の宴
 一条隼人が母の死に直結する真の黒幕の名前を掴み、その重苦しい殺気に身を沈めていた、まさにその頃—— 彼らから遠く離れた京都市内の超高級ホテルでは、エリカ・パートナーズが主催する華やかな『超大型プロジェクト獲得祝賀会』が盛大に開かれていた。「皆様! 本日は我が社の輝かしい未来への門出に立ち会っていただき、誠にありがとうございます!」 特設ステージの上で、最高級のブランドドレスに身を包んだ絵里香が、高らかに声を響かせた。 黒川商会から引き出した百億円という莫大な資金。それを背景に、彼女はかつての一条の商業パーティーを模倣するかのような、派手で中身のない宴を強行していたのだ。 会場には高額なギャラで雇われたインフルエンサーたちや、利権の匂いを嗅ぎつけて集まった二流の投資家たちがひしめき合っている。 そして最前列のVIPテーブルには、白鷺銀行の副頭取が上機嫌でグラスを傾けていた。「この『未来湾岸総合開発』のプロジェクトを完遂した暁には、エリカ・パートナーズは間違いなく業界のトップに君臨します。……一条グループ? ええ、もはや過去の遺物ですわ。これからは私たちが、この街の経済を牽引していくのです!」 絵里香がこれ見よがしに宣言すると、会場からまばらな拍手と歓声が沸き起こった。 彼女は自分が世界の女王になったと完全に信じ切っている。自社の全株式と全財産を担保に差し出したことなど、その傲慢な脳内からは完全に消去されていた。「素晴らしいスピーチでしたよ、絵里香さん」 ステージから降りた絵里香に、樹が完璧な営業スマイルでシャンパングラスを手渡した。「ありがとう、樹くん! これも全部あなたのおかげよ。見て、あの副頭取の顔! 完全に私たちに頭が上がらないみたいじゃない!」 絵里香は有頂天になってグラスを打ち鳴らす。 だが、彼女の目を真っ直ぐに見つめる樹の内心は、極めて冷静で打算に満ちていた。(これでいい。絵里香が派手に目立てば目立つほど、一条と警察の目は、すべてこの女に向く。……俺は今夜の宴が終わる頃に、すべての資金の送金を完了させて高飛びするだけだ) 彼らが互いを騙し合いながら勝利の美酒に酔いしれている、まさにその時——               *** ——一条財閥・地方支社。 彼らが乱痴気騒ぎを繰り広げているホテルの外、静まり返った執務室
Dernière mise à jour: 2026-07-13
Chapter: 水面下の闇と刺客
 深夜二十二時。京都市外れに位置する、潮の匂いが混じる廃倉庫街の第三ブロック。 街灯すらまばらなその暗がりに、一台の黒塗りのバンが停まっていた。「あんたたち一条の人間じゃないのか!? 俺を保護してくれる約束はどうなったんだ!」 バンの前でアスファルトに這いつくばり、悲痛な叫びを上げているのは、白鷺銀行の元融資担当の男だ。 彼は数年前、隼人の母の死に関わる不審な資金移動——黒川商会と副頭取の癒着を証明できる唯一の生き証人であり、凜が水面下で接触を図っていた情報提供者だ。 彼をこの廃倉庫街へ呼び出したのは一条ではない。黒川商会が一条の動きを察知し、先手を打って一条の名を騙り、彼を確実な死地へ誘い出したのだ。「悪いな。俺たちの偽のメッセージとも気づかずに、ホイホイ尻尾を振ってやってくるからこういう目に遭うんだよ。一条に泣きつく前に、お前の口を永遠に塞ぐのが俺たちの仕事だ」 男を見下ろすのは、黒川商会が差し向けた裏社会の清掃屋。筋骨隆々の三人の男たちが鉄パイプや特殊警棒を手に、残酷な笑みを浮かべていた。「海に沈む前に、その頭の中にある余計な記憶を、全部この鉄パイプで綺麗に叩き出してやる」「や、やめてくれ……!」 絶望に顔を歪める情報提供者の頭上へ、男の一人が鉄パイプを容赦なく振り下ろした。 鈍い破砕音が響く——はずだった。「——随分と荒っぽい清掃だな」 金属同士が激しく衝突する甲高い音が、夜の廃倉庫街に響き渡る。「な、何だてめぇは!?」 振り下ろされた鉄パイプは、情報提供者の頭を砕く寸前で、暗闇から音もなく現れた男の腕によって完璧に受け止められていた。 ただ受け止めたのではない。男がワイシャツの袖をまくり上げた腕に巻きつけていたのは、一条の警備部隊が使用する防刃・対衝撃用の特殊ケブラー繊維だった。「……てめぇ、一条の犬か! 一人で俺たちを止められるとでも思ってんのか!」 清掃屋の男が怒声と共に、再び鉄パイプを大振りに振り回す。 だが、次の瞬間。 暗闇から現れた男——隼人の身体が常人には目で追えない速度で沈み込んだ。 鉄パイプが空を切った直後、隼人は男の懐へ滑り込むと同時に、鍛え抜かれた拳を男の鳩尾へと的確に叩き込んだ。 大柄な男がカエルが潰れたような呻き声を上げ、白目を剥いてアスファルトへ崩れ落ちる。「なっ……こいつ、ただの警
Dernière mise à jour: 2026-07-12
Chapter: 後戻りできない契約
「ここにサインと実印をいただければ、黒川商会からの追加融資百億円が、即座にエリカ・パートナーズの口座へ振り込まれます。……ただし、条項にある通り、あなたの会社の全株式と、代表者個人の全資産が担保となりますが」 翌日の昼下がり。エリカ・パートナーズの広大な社長室には、仕立ての良いスーツを着た黒川商会の幹部が座り、分厚い契約書をテーブルへ滑らせていた。 裏社会の金特有の、血の匂いがこびりついたような異様な重圧感。並の経営者であれば、その異常な担保条件を見た瞬間にペンを置くだろう。 だが、絵里香は全く躊躇しなかった。 彼女の脳内は、昨夜手に入れた一条の極秘データによって、すでに業界の頂点に立ったという強烈な全能感で完全に麻痺していた。「問題ないわ。一条のプロジェクトを横取りして利権を独占すれば、百億なんて一ヶ月で返せるはした金よ。……ほら、これでいいんでしょ?」 絵里香は勝ち誇った笑みを浮かべ、万年筆を手に取ると、契約書の署名欄に迷いなく『桐島絵里香』と書き入れた。 そして己の全存在を売り渡す実印を、乾いた音を立てて強く押し付ける。 それは彼女自身が、自らの首を絞める縄を限界まできつく結び上げた瞬間だった。「ご契約、確かに承りました。桐島社長の今後のご活躍を期待しておりますよ」 黒川商会の幹部は契約書をアタッシュケースに収め、爬虫類のような冷たい笑みを浮かべて社長室を後にした。「見た!? 百億円よ、樹くん! これで私は完全に一条を超えたのよ!」「ええ、お見事です、絵里香さん」 絵里香はインターネットバンキングの画面に表示された莫大な桁数の残高を見て、狂ったように高笑いを上げた。その横で、樹もまた完璧な営業スマイルを浮かべ、彼女を称賛する。 だが、樹の内心は全く異なっていた。(……よし。これで黒川商会の狙い通り、この女にすべての借金を背負わせることに成功した。あとは俺が海外へ飛ぶだけだ。一条の報復も、借金の取り立ても、すべてはこの愚かな女一人が被ることになる) 絵里香は自分が世界の女王になったと信じて疑わず、樹はそんな彼女を完璧な使い捨ての盾として見下している。 二人の愚か者は、互いに相手を出し抜いたと錯覚したまま、すでに足元から崩れ落ちている砂の城で勝利の美酒に酔いしれていた。               *** 同時刻—— 一条
Dernière mise à jour: 2026-07-11
失われた二つの旋律

失われた二つの旋律

朝のカフェで心地よい旋律を奏でていた一人の音楽家が、ある日、突然行方不明になった。地元の人々にとっても大変な驚きであり、彼女の音楽がもたらす静かな朝のひと時を愛していたカフェの常連客たちは混乱し、心配の声を上げた。 この事件を追うのは主人公、石場。家族から虐待と監禁をされた過去を持つ。石場は記憶の断片を追いながら、事件の謎を解き明かすために尽力する。しかし、そこにフリージャーナリストのリサと音楽家の知人である美咲が現れ、疑惑の目を向けられる。 果たして石場は無実を証明できるのか、それとも彼自身が事件の鍵を握る存在なのだろうか? 真実が明らかになる時、最後に石場が見る光景はどのようなものなのだろうか。
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Chapter: エピローグ 雨上がりの旋律
 石場は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちていた。 呆然と座り込む彼の手から、カラン、と乾いた音がして何かが床に落ちた。 それは、赤錆の浮いた古びた鉄の鍵だった。 リサの視線がその鍵に釘付けになる。 独特な形状。普通の玄関の鍵ではない。──土倉の鍵だ。「……美咲」 リサは震える声で呼びかけた。 警察には通報した。もうすぐサイレンが聞こえてくるだろう。 だが、待っていてはいけない気がした。 石場は言った。『彼女も連れて行ってあげた』と。 もし、エミリアがまだ生きていて、暗闇の中で助けを待っているとしたら……「行きましょう。……迎えに」 リサは床に落ちた鍵を拾い上げた。 冷たい金属の感触が、掌に痛いほど食い込む。 手遅れだとしても、彼女を一人で、あの冷たい場所に置き去りにはできない。 二人は動かなくなった石場と、眠るような両親を背に、雨音が弱まり始めた夜の外へと駆け出した。 * 外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。 激しかった風が止み、世界は湿った静寂に包まれている。 リサと美咲は泥に足を取られながら、洋館の裏手へと回った。 闇の中に浮かび上がる土倉は雨に濡れて黒々と光り、巨大な生き物がうずくまっているように見える。 リサは震える手で鍵穴に鍵を差し込んだ。 ジャリッ、と錆びついた金属が擦れる音がして鍵が回る。 重い鉄の扉が、呻き声を上げるようにゆっくりと開いていく。 中から吐き出されたのは、ひやりとする冷気と、古い土の匂い── そして──完全なる静寂だった。 リサは懐中電灯のスイッチを入れると、光を闇の奥へと向けた。 光の帯が埃っぽい空気を切り裂き、床を這う。 古びた農具、積み上げられた木箱。 そして、その奥まった一角に──彼女はいた。「……あっ」 美咲が息を呑み、その場に崩れ落ちる。 エミリアは壁にもたれるようにして座っていた。 愛用のヴァイオリンを胸に抱き、目を閉じたまま……。 その表情は苦悶に歪んでいるわけでも、恐怖に強張っているわけでもなかった。 石場の言葉通り、穏やかで安らかな寝顔だ。 まるで、演奏会のあとに心地よい疲れの中で微睡んでいるかのように── だが、その肌は白く透き通り、生気というものが感じられなかった。彼女はもう、この世界の住人ではない。「……エミリア」
Dernière mise à jour: 2026-01-08
Chapter: 永遠の眠り ③
 石場の目が、ふと遠くを見るように細められた。懐かしむような、けれど、どこか悲しげな目─「彼女の音は痛かった……」 石場は独り言のように呟いた。「彼女はずっと、心の中で悲鳴を上げていた。世界がうるさすぎると泣いていたんだ。……だから、彼女も連れて行ってあげたんだ。誰にも邪魔されない、あの静かな場所にね」 その言葉に美咲の手から力が抜けた。 バサリと音を立てて、楽譜が床に落ちる。 静かな場所…… まさか、さっき鍵がかかっていた、あの土倉のことだろうか? 美咲の脳裏に、雨に打たれる白い土倉の映像がフラッシュバックする。彼はあそこにエミリアを……「そんな……っ」 美咲はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。 救いたかったからこそ。 誰よりも共鳴していたからこそ。 彼女の苦しみを取り除く手段として、彼は彼女の時間を止めたのだ。『Kへの手紙』 その旋律は生者へのメッセージではなかった。死者へのレクイエムだったのだ。 激しさを増した雨風が、窓ガラスを叩きつける。その残酷な真実を、天が肯定するかのように── 突如、窓の外で強烈な雷光が走った。 寝室の窓が一瞬、真昼のように白く染まる。 遅れて、建物そのものが悲鳴を上げるような衝撃と爆音が炸裂した。 彼が作り上げていた完璧な静寂の世界に、暴力的な現実の音が侵入する。 その暴力的な音が、石場の鼓膜を叩いた瞬間── 石場の身体がビクリと跳ねた。 彼の顔から、先ほどまでの穏やかな救済者の表情が剥がれ落ちる。 代わりに浮かんだのは、怯えきった子供の顔── 夢遊病から覚めたように、彼の視線が急速に焦点を結び始める。 彼は荒い息を吐きながら、自分の手を見つめ、そして恐る恐る目の前のベッドを見た。 そこには動かない両親── 眠っているのではない。明らかに死んでいる物体として……「……あ……あ……?」 石場は後ずさり、喉の奥から獣のような呻き声を漏らした。 理解できない── なぜ、二人が死んでいるのか。 どうして、自分がここに立っているのか…… だが、否定しようとする彼の意識を嘲笑うかのように、指先が感触を思い出していた。 首を絞めた時の抵抗。 喉仏が潰れる感触。 次第に失われていく体温。 それは彼自身の記憶ではない。彼の中に潜む誰かが行った、残酷な救済の記録だ。
Dernière mise à jour: 2026-01-08
Chapter: 永遠の眠り ②
 彼は直立したまま、身じろぎもせず、ただじっと眠る両親を見下ろしている。 逆光の中で浮かび上がったそのシルエットは、影だけがそこに取り残されたように頼りなく、どこか不気味だ。 その背中は、世界から切り離された子どものように小さい。「石場……さん?」 美咲が震える声で呼びかけた。 石場は錆びついた機械のようにぎこちなく首を巡らせ、二人へ視線を向けた。 懐中電灯の光がその顔を照らし出す。 過去に向けられた、あの凍りつくような視線── その記憶が、反射的に美咲の脳裏をよぎった。 光に浮かんだ石場の表情に、美咲は息を呑む。 その瞳は焦点を失い、まるで遠いどこかを彷徨っているかのように虚ろだった。 そこには感情の影が一切なく、ただ深い混乱と、呆然とした空白だけが漂っている。 あの夜、追いかけてきた時の石場とはまるで別人だ。あの時は目に意志が宿っていた。怒りとも執着ともつかない、こちらを射抜くような視線── だが、今の石場には、その色が一片も残っていない。 魂だけが、どこか別の場所に置いていかれたかのように…… 目の前の石場は、自分が知っている人間の輪郭だけを残した、別の何かに見える。 美咲は思わず一歩後ずさった。「……動かないんだ」 石場は独り言のように呟き、再び視線をベッドに戻した。 その声は震えている。「声をかけても、揺すっても二人が動かない……」 そう言って、石場は自分の両手を見つめた。 そこには何も握られていない。血もついていない。 だが、彼は本能的に悟ったのだろう。 自分が何かをしてしまったことを、記憶にない空白の時間の中で、自分の中の誰かが、この静寂を作り出したことを……「……石場さん、あなたがやったの?」 リサが問う。 石場は虚ろな目で首を横に振ろうとした。だが、動きは途中で止まった。「……やっと眠ったんだ。父さんも母さんも、ずっと何かに怯えていたから、僕が楽にしてあげたんだよ」 美咲の思考が一瞬、白く途切れる。 楽にしてあげた? その言葉の意味を理解したくなかったが、目の前の現実は残酷だった。 石場は殺意を持って彼らを殺したのではない。泣き止まない赤子をあやすように、怯える両親を永遠の静寂というゆりかごへ送ったのだ。 それが彼なりの、歪んだ救済──「エミリアにも、同じことをしたの?」 リサ
Dernière mise à jour: 2025-12-31
Chapter: 永遠の眠り ①
 指先から伝わる木の冷たさが、これから目にする光景の温度を予感させる。──ギィィ…… 軋む音とともに、扉がわずかに隙間をつくり、闇がゆっくりと裂けていく。 そこに広がっていたのは、戦慄するほどの惨状でも、血の海でもなかった。 奇妙なほど穏やかで、静謐な光景──「あっ……」 美咲の口から、吐息のような声が漏れた。 部屋の中央に置かれた大きなダブルベッド。 そこに、二人の人物が横たわっていた。 一人は佐和子。もう一人は、おそらく──この人が石場の父…… 二人は白のシーツに包まれ、肩まで丁寧に羽毛布団を掛けられて並べられている。 まるで眠っているだけのように、息づかいすら感じさせない静けさで── 枕の位置も、布団の襟元も、几帳面なほど整えられていた。 常夜灯の淡いオレンジ色の光が、二人の顔を優しく照らしている。 父と思しき男の顔からは、石場の妹が語っていた威圧感や険しさの影が消えていた。母の顔からも、長年の苦労が刻んだ皺が薄らいで見える。 二人は長い旅の果てにようやく辿り着いた安らぎの宿で、深い眠りへと沈んでいるようだった。 部屋には倒れた家具がなく、争いの痕跡は見当たらない。ただ、圧倒的な静けさだけが満ちている。「よかった……」 美咲が、へなへなと崩れ落ちそうになるのを堪えて囁いた。安堵の涙が瞳に滲む。「寝ているだけみたいね」 美咲が、すがるような響きを含んだ声で囁いた。 石場は、ただ両親を休ませたかっただけだったのだ。 美咲は胸を撫で下ろし、ベッドへ歩み寄ろうとした。 だが、リサは動かなかった。 入り口で立ち尽くしたまま、ベッド上の二人を見据えている。「美咲、ちょっと待って」 リサの張りつめた声が、美咲の足を止めた。 美咲が振り返る。「リサ?」「……静かすぎない?」 リサの言葉に胸がざわつく。 だが夜であれば、静まり返っていてもおかしくはないはず…… いや、そうじゃない。 美咲も違和感に気づき、ベッド上の二人を見据えた。 二人の胸が上下していない。 寝息ひとつ立てていないのではないかと思えるほどに…… まるで、そこだけ時間が凍りついたかのような、完全なる静止画。 美咲が口元を両手で覆い、よろめくように後ずさる。「嘘……どうして……」 二人に外傷はない。首を絞められた痕も、争った形跡も…… 
Dernière mise à jour: 2025-12-26
Chapter: 静寂の館 ③
 リサと美咲は廊下の奥へと進んだ。 一階のリビングルーム── ドアは開け放たれ、暗闇がぽっかりと口を開けている。 リサは懐中電灯の光を横薙ぎに走らせた。 広い部屋には革張りのソファとローテーブルが置かれているだけで、そこには誰もいない。テレビの黒い画面は沈黙を映し返し、主人を失った家具たちが長い影を床へ落としているだけだった。 ダイニング、キッチン、バスルーム── 二人は一階の部屋を順に確かめていったが、どこも同じだった。 物音一つしない。空気が止まっているかのような静けさだけが漂っている。 まるで、この家の住人が跡形もなく消えてしまったかのように……「下にはいないようね……」 リサの視線がホールの中央にある階段へと吸い寄せられた。 闇に沈む二階── その踊り場の奥から、微かな光が漏れているのが見えた。 美咲もそれに気づき、息を呑む。 頼りなく揺れるその光は、暗闇の中でひっそりと脈打ちながら、見る者の注意を静かに引き寄せてくるようだった。 リサは銃を構えるように懐中電灯を握り直し、そっと階段の一段目へと足をかける。 ギッ…… 古びた木板が重みに耐えかねて悲鳴のような音を立てた。その小さな音が静まり返った家の中で不釣り合いなほど大きく響く。 美咲が思わずリサの服の裾をつまんだ。 その震える指先が、彼女の緊張を雄弁に伝えている。 リサは一度足を止め、上の様子を伺った。 反応はない。誰も出てこない。 二階から漏れるあの揺らぐ光は、相変わらず弱々しく脈打ちながら、暗闇の奥へと二人を誘うように瞬いていた。 手すりに触れると、指先に埃がついた。清掃が行き届いているように見えて、やはりこの家はどこか死んでいる。 二階の廊下に辿り着くと、光の出所がはっきりした。 廊下の突き当たりにある部屋──主寝室だ。 その重厚なドアが、わずかに指一本分ほど開いている。 そこから漏れるオレンジ色の常夜灯の明かりが、暗い廊下に一本の線を引いていた。 リサは振り返らずに、小さく囁く。「大丈夫。ゆっくり行くから」 そう言い聞かせるように、もう一段、また一段と足を運ぶ。 二階の踊り場が近づくにつれ、光の揺らぎがわずかに強くなった気がした。 まるで、誰かがその向こうで動いたかのように…… リサの心臓が早鐘を打つ。 あそこにいる。 石場も、
Dernière mise à jour: 2025-12-25
Chapter: 静寂の館 ②
「石場さん、いらっしゃいますか?」 リサの鋭い呼び声が、高い天井の玄関ホールに反響する。 だが、返ってきたのは沈黙だけだった。 空気はひどく冷え、どこか淀んでいる。 人の気配がまるで感じられず、ここが本当に、つい先ほどまで誰かが暮らしていた家なのか疑わしくなるほどだった。 まるで、何年も前に時間が止まった廃屋へ足を踏み入れたかのような感覚── リサは無意識に拳を握りしめた。 石場本人か、あるいはその両親のどちらかが危険な状態にある可能性は十分にある。だが、それと同時に、この家のどこかに危険そのものが潜んでいる可能性も否定できない。──行かなければならない。 それは頭では分かっている。けれど、敷居の向こうに広がる静寂は、“これ以上、足を踏み入れるな”と告げる見えない壁のようだった。 胸の奥がざわつき、足がわずかにすくむ。 一歩踏み出すだけのことが、どうしてこんなにも重いのか…… そんな自分への苛立ちと、正体の見えない恐怖が入り混じる。 もし中で何かが起きていたら── 今まさに誰かが助けを求めているのかもしれない。この沈黙は、ただの静けさではなく異変の証なのかもしれないのだ。 リサは玄関へ視線を戻した。 退路は確保できている。 何かあれば美咲を連れて外へ飛び出せるだろう。 リサは小さく息を吐き、決意を固めた。 リサはポケットから小型の懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。 光の先に何が潜んでいるのか、確かめる覚悟を固めようとするかのように、光の先端をゆっくりと暗闇の奥へと向ける。 揺れた光の輪が壁を滑り、掛けられた風景画の影がゆっくりと伸びていく。 その歪んだ影が、静まり返った空間の不穏さをいっそう際立たせた。 磨き上げられたフローリングの床、壁に掛けられた古風な風景画、そして二階へと続く優美な曲線を描く階段── すべてが整然としていて、荒らされた形跡は見当たらない。それがかえって不気味でもある。 リサが一歩踏み出し、家の中へ足を入れようとしたその瞬間、美咲が足元を指差して囁いた。「リサ、見て……。靴がある」 上がり框の手前に、革靴が一足だけ揃えて置かれている。 石場の両親が履くような靴ではない。石場のものだろう。「ご両親のは……?」 美咲が不安げに周囲を見渡した。 他の靴は見当たらない。 靴のまま奥へ連れ
Dernière mise à jour: 2025-12-24
水鏡の星詠

水鏡の星詠

 幼い頃、森で過ごし、自然との深い結びつきを感じていたリノア。しかし成長と共に、その感覚が薄れていった。ある日、最愛の兄、シオンが不慮の事故で亡くなり、リノアの世界が一変する。遺されたのは一本の木彫りの笛と星空に隠された秘密を読み解く「星詠みの力」だった。リノアはシオンの恋人エレナと共に彼の遺志を継ぐ決意をする。  星空の下、水鏡に映る真実を求め、龍の涙の謎を追う。その過程で自然の多様性に気づくリノアとエレナ。  希望と危険が交錯する中、彼女たちは霧の中で何を見つけ、何を失うのか? 星が導く運命の冒険が今、動き出す。
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Chapter: 水鏡の彼方へ
 一方、その喧騒から遠く離れた場所── 東の空が白み始め、夜の帳がゆっくりと上がろうとしていた。 朝陽が空を黄金色に染め上げ、漂う霧を晴らしていく。その光の中に、二つの影があった。 リノアとエレナだ。 彼女たちはすでに新たな旅路へと足を踏み出していた。 だが、リノアはふと足を止め、何度も後ろを振り返った。遠く霞むアークセリアの方角を、不安げな瞳で見つめる。「……エレナ、さっきの」 リノアが口ごもる。脳裏に焼き付いているのは、森ですれ違ったあの奇妙な白仮面の集団だ。彼らが向かった先は、間違いなくアークセリアだった。「あの白仮面の人たち……すごく嫌な感じがした。ただの旅人には見えなかった」 星詠みとしての直感が、ざわざわと胸を騒がせている。 しかし、エレナは困ったように眉を下げ、首を横に振った。「気にはなるけど、彼らが何者かも分からないわ。それに──」 エレナは、二人が来た道を振り返る。そこはもう、容易には戻れない険しい道のりであり、引き返す手段は失われていた。「今から戻る手段はない。私たちにできることは、もう前に進むことだけよ」「……うん、そうだね」 リノアは唇を噛み締め、頷いた。 正体も目的も分からない集団のために、シオンの遺志を放棄して立ち止まるわけにはいかない。あの胸騒ぎが杞憂であることを祈るしかなかった。 リノアは胸元のペンダントをぎゅっと握りしめる。掌に伝わる冷たいヴェールライトの感触だけが、今の彼女を支える確かな指針だった。『進め、リノア』 シオンの声が聞こえた気がした。その声はもう、悲しみの残響ではない。未来を指し示す道標だ。「リノア、行くわよ」 前を歩くエレナが振り返り、朝陽の中で微笑んだ。その頼もしい姿に、リノアは強く頷き返す。「うん、行こう」 戻れないのなら、行くしかない。この道の先に、全ての答えがあると信じて。 リノアは一度だけ振り返り、遠く霞む故郷の方角を見つめた。 シオンが守りたかったもの。そして、父と母の生存── この広い世界のどこかで、二人が待っているかもしれない。その可能性が、リノアの足に新たな力を宿らせていく。 リノアは顔を上げ、前を向いた。「待っていて。必ず、見つけ出すから」 その瞳には、不安を振り払うような強い光が宿っていた。リノアの誓いが風に溶け、高く澄んだ空へと吸い込ま
Dernière mise à jour: 2026-01-29
Chapter: 風の止む刻 ②
「他に敵はいないようだな」 そう言って、カリスは剣へと歩み寄った。 広場の騒然とした空気の中で、カリスだけが異質な静けさを纏っている。 カリスが広場に姿を現すと、ヴィクターは彼女を見るなり肩の力を抜いて、安堵の息を漏らした。──女性剣士、カリス。 カリスはグリモア村の村長であるグレタに付き添って旅を続けている。ミリアとテオの仲間でもあり、ヴィクターとは過去に行動を共にした仲だ。 アリシアとセラは突然現れた彼女の鮮やかな剣技に感嘆しつつも、警戒を怠らなかった。敵である術者を倒してくれたとは言え、アリシアとセラにとっては、カリスは見知らぬ人物だ。 剣を投げて敵を倒したカリスの背後で、セラとアリシアは互いに視線を交わし、周囲の状況を慎重に探った。 カリスは壁に突き刺さった剣を抜き取ると、今度は地面に倒れ込んだ術者たちに視線を移した。 瓦礫の隙間に倒れた術者二人は、すでに動く気配もなく、顔色は青白くなり、微かな息も感じられない。その身体は力なく横たわり、指先すら動かさず、すでに命の灯が消えてしまったことは明らかだった。 騒然とした空気が落ち着きを見せる中、ようやく肩の力を抜くことができたテオが、カリスのもとへ歩み寄る。「来てくれて助かったよ」 テオが素直に礼を述べた。「他の術者たちはグレタ様が処理したはずだ。もう心配しなくていい」 カリスは安堵の表情を浮かべるテオに、そう告げた。 広場に漂っていた緊張が少しずつほどけていく。しばらく余韻に浸っていたテオは、ふとミリアの方へ視線を向けると、少し興奮した面持ちで声をかけた。「さっきの戦いだけどさ。空中に紋様を描いて、バリアを張るって……。あんなこともできたのか、知らなかったよ」 テオの驚きに、ミリアは目を伏せて微笑む。「実は、さっき術師たちが広場に描いた紋様を観察していたら、ある法則があることが分かって……。自分が知っていた砂紋占術の知識と組み合わせてみたの。こう描けばバリアができるはずだって」 そう言って、ミリアはゆっくりと右手を持ち上げると、空気中に見えない絵筆で線を描くように腕を滑らかに動かしてみせた。「砂の上に紋様を描く時と同じ要領で良いみたい」 描き終えると、両手をそっと合わせ、描いた紋様を包み込むように掌を重ねる。その瞬間、空間に淡い光がふわりと集まり、紋様がかすかに浮かび
Dernière mise à jour: 2025-10-17
Chapter: 風の止む刻 ①
 ミリアは仲間たちに視線を送り、小さな声で「よかった……」と呟くと、ほんの一瞬だけ涙ぐみながらも、嬉しさに頬を染めた。 広場の地面に刻まれた紋様が淡く揺れている。消え入りそうで儚い揺らぎだ。ミリアが仕掛けた細工は確かに広場の紋様を変質させたのだ。 動きを止める術者たち──宙に浮かんだまま、アリシアたちを凝視している。 その瞳に宿るのは、冷たい怒り── 辺りには歓喜の余韻が広がっている。しかし、その安堵のひと時は一息で掻き消された。──場の雰囲気が一変する。 術者の一人が荒々しく呪具を振りかざすと、新たな呪文を紡ぎ始めた。 風が止み、光が沈み、その場の空間が一瞬で重くなる。「……来るぞ!」 テオが叫んだ。 空間が震え、空気が押し潰されるような感覚が走る。「何してんだ! ミリア、下がれ!」 テオが叫ぶ。 しかし、ミリアは動かない。 仲間たちが反射的に建物の影へ身を潜める中、ミリアだけが一人、広場に佇んでいる。 ミリアは術者たちを見据えたまま、一歩、また一歩、前へと踏み出していった。 そのうち、術者の呪文が完成すると、重く淀んだ空間が張り詰めた糸が切れるように、びしりと音を立てて震えた。 宙に浮かぶ術者の掌から、淡い青白い光が渦を巻いて溢れ出す。 その光はみるみるうちに膨張し、閃光と共に激しい衝撃波が広場全体を駆け抜けた。 地面が激しく波打ち、砂埃が爆風に巻き上げられて空へと舞う。建物の窓ガラスが一斉に砕け散り、鋭い破片が光を反射しながら宙を舞った。広場のあちこちで鈍い衝突音が響く。 圧倒的な空気の奔流── 耳をつんざく轟音が広場一帯を揺るがす中、ミリアは両手を前に掲げ、素早く紋様を空中に描いていた。 指先が走るたび、ミリアの周囲に淡い光が浮かび上がる。光はやがて膜のように広がり、見えない壁となって衝撃波を遮った。 ミリアの髪とマントが風に巻き込まれて激しく翻る。ミリアは身体が一瞬浮かぶような感覚に襲われた。 顔に当たる風が頬を刺し、砂埃が目元をかすめていく。息を吸い込もうとするたび、喉の奥がひりついた。──呼吸ができない。 心臓が胸の内で乱打し、鼓動が早鐘のように胸の奥で響き渡る。 それでも、ミリアは動じなかった。 術者たちの姿を光の向こうに捉えたまま、目を逸らさない。 そのとき——広場とは異なる場所、闇に包まれ
Dernière mise à jour: 2025-10-15
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑭
 ヴィクターが合図を送ると、仲間たちはすぐに広場の端へ散り、すぐに身を低くした。 導火線に火がつき、焦げた煙の匂いが辺り一帯を満たす。 じりじりとした導火線の音が響き、空気が張り詰めるような緊張の中、アリシアたちは息を潜めてその瞬間を待った。 やがて鈍い爆音が轟き、木の根元が激しく揺れた。土と焦げた木の匂いが一気に押し寄せ、毒の流れが一瞬だけ止まる。 爆煙が立ちこめる中、白仮面の術者たちが一様に動きを止めた。煙の向こうで、彼らの姿がぼんやりと揺らぎ、一瞬だけ戸惑う姿を見せる。「くそ……、あれだけの爆薬でも倒しきれないなんて……」 ヴィクターは唇を強く噛みしめ、眉間に深い皺を寄せた。肩はわずかに震え、拳を握った手をぶるぶると膝の上で押し潰している。 ヴィクターの瞳が爆煙の向こうの大樹をじっと睨みつけて離さない。 爆風と煙が広場全体に広がる中、しばしの静寂が訪れた。 術者たちの視線が広場の中心へと向けられている。術者たちは状況を把握しようと周囲を見渡した後、広場の隅に目を遣った。そこには、たった今、ヴィクターが爆破した大樹がある。 噴出する毒の量が減ったとは言え、まだ毒は出続けていた。これだけの大樹を破壊するには、火薬が足りなかったのだろう。完全には破壊し尽くすことはできなかったようだ。 すぐに気を取り直した術者たちは、互いに合図を送るように身振りを交わした後、呪文の詠唱を再び始めた。爆煙が広がる中、煙を押し返そうと詠唱を強めていく。 彼らは複雑な印を次々と結びながら、再び紋様の効果を得ようと集中し続けた。 その光景をミリアは指先を震わせながら、じっと見つめていた。 広場に施した細工が本当に上手くいくのだろうか。もし術者たちが描いた紋様の効果が半減しなかったら……。そう思うと、不安で仕方がなかった。 仮に解読が誤っているなら、きっと、あの大樹は紋様の効果で再び復活してしまうだろう。 それでは意味がなくなってしまう。 だが、術者たちの様子が徐々に変わっていくのがはっきりと分かった。彼らは紋様に向かって呪文を唱え続けるものの、思うような効果が得られず、次第に苛立ちを見せ始めた。 術者たちはアリシアの温かみを帯びた上昇気流に抗うことができなかったのだ。 次第に術者たちの動きに焦りが混じり始める。 仮面越しにも伝わる苛立ち。表情こそ窺え
Dernière mise à jour: 2025-10-14
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑬
 倒れていた町民たちの髪や服の裾を、そよ風が優しく撫でている。ふわりと髪が浮かび上がり、町民たちの服の裾をそっと揺らした。 アリシアは目を開けて、周囲の状況を確認した。 渦巻く風が広場を覆っていた毒と冷気を空高く舞い上げている。紋様が赤く輝き、喰い花の根が苦しげに震えているのが見えた。 しかし、まだ安心するのは早い。白い仮面を被った術者たちは動きを速め、広場の毒を留めようと力を増している。 今、ここに居るのは複数存在する敵のうち、二人しかいない。ヴィクターやテオ、そしてミリアが動き回っているが、仮にあの二人を倒したとしても、おそらく毒は出続けるだろう。 アリシアは空を見上げた。 白仮面たちが両手を空へと掲げ、懸命に紋様に魔力を注いでいる。仮面の奥の表情を伺うことはできないが、肩が小刻みに震え、衣の裾が不規則に揺れている。吹き荒れる風に抗っているのが、こちらにも伝わってくるかのようだ。 アリシアは、ふとミリアの動きに目を止めた。「一体、ミリアは何をしているのだろう?」 ミリアが広場の中央に跪き、白仮面たちが描いた複雑な紋様に目を凝らしている。 ミリアは砂紋占術師だ。ミリアは、その文様を解読しようとしているのかもしれない。 吹き上がる上昇気流の中、ミリアが指先を伸ばして、紋様の線の端に触れた。 指でほんの少し線を崩したり、瓦礫の破片を使って一部を覆い隠したりと、手作業で紋様の流れに微細な変化をもたらしていく。 ミリアの動きは慎重だ。まるで盤上に並ぶ魔法の駒を一手ずつ動かす頭脳戦のような、息詰まる静けさに包まれている。その指先は、運命を左右する一歩を選び取る賢者そのものだった。 きっとミスが許されない状況なのだろう。少しでも手順を間違えれば、勝負の流れは一気に敵へと傾いてしまう。ミリアにとって、ここは読み合いと決断の舞台なのだ。 ミリアは一つ一つの動作に細心の注意を払っている。 一方、ヴィクターはテオのように喰い花を切りつけることはせず、広場を取り囲む樹々をじっと観察していた。 ヴィクターは木工職人だ。何か意味があるに違いない。 ヴィクターの視線は一本一本の幹をたどり、やがて一本の大樹へと向けられた。──まさか、あれが喰い花の大元となる樹……? 他の木々とは異なり、異彩な雰囲気を放っている。 捻じれ曲がった幹は、まるで幾つもの蔦
Dernière mise à jour: 2025-10-13
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑫
「私が何とかしなければ……」 アリシアは震える声で呟いた。──セラの鉱石では、もう追いつかない。 喰い花の中心から噴き上がった毒の霧が、まるで生き物のように広場を覆い尽くしていく。 黒紫色の波がゆっくりと、しかし確実に地面を這い、逃げ場のない壁となって町民たちを包囲していった。空気は重く淀み、喉を刺すような痛みと共に、視界がじわじわと霞んでいく。 逃げ場のない障壁、複雑に絡み合う蔦── 誰かが転び、誰かが叫び、誰かが泣き崩れる。──このままでは、全員が毒に侵されてしまう。 アリシアはゆっくりと身体を起こし、ふらつく足で前に進んだ。胸元にしっかりと鉱石を抱きしめたまま── 倒れている町民たちが目に入り、アリシアの肩を小さく震わせた。過去の記憶が脳裏をよぎり、思わず立ち止まりそうになる。 幼い頃、アリシアは戦争の中で多くの苦しみを目の当たりにした。 瓦礫の中で倒れていた人たちの姿、助けを求めて差し伸べられた手、途方に暮れた表情。それらは今でもアリシアの記憶に深く刻まれている。 あの時の私には何もできなかった。その無力さが今も胸の奥を締め付ける。──私が皆を救わなければ。 そんな思いがアリシアの胸の内に湧き起こった。 アリシアは必死に前を向こうと、唇を固く結んだ。目の前の現実から目を逸らすことはできない。「アリシア、どこに行くの?」 セラの声が背後から届いた。 しかしアリシアには、その声が聞こえなかった。意識のすべてが、目の前で倒れている町民たちに注がれている。セラの声は遠くで風にかき消されるように薄れていき、アリシアの世界から切り離された。 今のアリシアには、助けを求める町民たち以外のすべてが霞んで見えている。 心の奥で動揺が渦巻く中、自分にできること──それだけを何度も胸の中で繰り返し思い描いていた。 今、ここでじっとしていても、状況は何も変わらない。自分が動かなければ、誰も救えない── そんな思いを込めながら、アリシアは崩れた瓦礫と倒れた人々の間を進んで行った。──絶対に誰も失わせない。 胸の奥でそう強く願い、アリシアは今、自分にできることを必死で考えた。 アリシアの手のひらに包まれた鉱石がアリシアの想いと共鳴するように、じんわりと温もりを帯び始める。 鉱石の奥に微かな光── 淡い輝きがアリシアの周囲を包み始め、
Dernière mise à jour: 2025-10-12
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