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秋月 友希
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Novels by 秋月 友希

水鏡の星詠

水鏡の星詠

 幼い頃、森で過ごし、自然との深い結びつきを感じていたリノア。しかし成長と共に、その感覚が薄れていった。ある日、最愛の兄、シオンが不慮の事故で亡くなり、リノアの世界が一変する。遺されたのは一本の木彫りの笛と星空に隠された秘密を読み解く「星詠みの力」だった。リノアはシオンの恋人エレナと共に彼の遺志を継ぐ決意をする。  星空の下、水鏡に映る真実を求め、龍の涙の謎を追う。その過程で自然の多様性に気づくリノアとエレナ。  希望と危険が交錯する中、彼女たちは霧の中で何を見つけ、何を失うのか? 星が導く運命の冒険が今、動き出す。
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Chapter: 境界を越えた者たち ④
「エリオ、あなたは変わったわね。でも目元だけは変わってない」クラウディアはエリオの顔を見つめながら、遠い記憶の断片を繋ぎ合わせようとした。幼い頃の少年──ゾディア・ノヴァの影で遊ぶ、あの無邪気な足取りが、今のエリオの穏やかな歩みに重なる。「昔、あなたの母親──サフィアが薬草の仕分け場で働いていた頃、よくあなたを連れて来ていた。あの頃は、まだ戦の気配も遠くてね。あなたは棚の影からじっとこちらを見ていた。物静かだけど、目だけはよく動いていた。何かを見て、何かを考える。そんな子だった」エリオは少し照れたように肩をすくめ、軽く頭を掻いた。当時、幼かったエリオはクラウディアのことをよく覚えていない。それでも、クラウディアの語る言葉が胸の奥に微かな熱を灯した。その隣で穏やかな笑みを湛えて座っていたナディア。クラウディアの言葉に視線をわずかに揺らす。 その揺れは、過去と現在の狭間に立つ者だけが持つ葛藤の表れだった。ナディアもまた、エリオの過去を知らないわけではない。まだエリオがゾディア・ノヴァにいた頃。エリオが、どのような場所に身を置き、どのような命令に従っていたか──断片的ながら耳にしていた。だが、目の前にいるエリオは、その頃の彼とは違う。今のエリオは自分の意志で歩いている。意味も分からないまま、誰かに命じられたからと行動を取る彼ではない。過去を語られる度に、エリオがそこからどれほど遠くへ来たかを思い知らされる。そして、自分がその歩みに並んでいることが、どれほどの意味を持つかも──ナディアは誇らしげに微笑むと、足を一歩、踏み出した。黒衣の裾が軽やかに揺れる。「ナディアです。初めまして。クラウディアさん」クラウディアが頷く。抑揚を抑えたナディアの声は、どこか信頼を誘う響きがあった。クラウディアは改めてナディアの顔を見つめた。振舞いも、視線の動きも、訓練された兵士のそれではなかった。だが、そこには確かに何かを越えてきた者の気配があった。「あなたはゾディア・ノヴァの出じゃないね」クラウディアは穏やかに微笑んだ。ナディアは少しだけ目を伏せた。その様子を見て、再びクラウディアが口を開いた。「元々は普通の暮らしをしていたんだろ。戦や命令とは無縁の、穏やかな日々を」「……エリオと出会ってから、いろいろありました」それだけを言って、ナディアはそ
Last Updated: 2025-09-12
Chapter: 境界を越えた者たち ③
「それは大変だったね。よく、ここまで来た」 そう言って、クラウディアはエリオの顔を見つめた。 エリオという名に、過去の一場面が水面下からゆっくりと浮かび上がってくる。 やはりそうだ。このエリオは私の知るエリオで間違いない。「君は……サフィアの子どもじゃないか。あんたの親は薬草の仕分け場で働いていたはず。どおりで……聞き覚えのある名前だと思ったよ」 クラウディアは目を細めて、少しだけ息を吐いた。「実はね、私もゾディア・ノヴァから離れた者の一人なんだよ」 それは過去を語るというより、エリオの言葉に応えるような語りだった。「戦乱のあと、この村に身を置くようになった。頼まれてね──この地を守る役目を」 エリオが顔を上げる。クラウディアは椅子の背にもたれたまま、窓の外に目を向けた。「最初は戸惑ったけどね。でも、ここでなら、少しは静かに生きられると思った。当時の監視の目は今ほど厳しくはなかったから、それが可能だったのよ」 霧がまだ残っている。その向こうに、かつての戦場も、組織の影も、すべてが沈んでいるように見える。「さっき、“逃げて来た”と言ったね。でも、それは違う。貴方は生きるために、その道を選んだんだ。それは逃げじゃない。正しい選択だ」 クラウディアはそう言って、今度はナディアに目を向けた。「その子のことが、大事なんだろ?」 エリオが頷く。「一緒に歩いていく。貴方は、そう決めたんだね」 クラウディアは目を細めた。 言葉にしない想いが、クラウディアの表情の奥に沈んでいる。それは、かつて誰かを守ろうとした者だけが持つ、痛みを知る者の想いだった。「誰かと道を共に歩むってのは、ただ隣に立つってことじゃない。その人の痛みを背負う覚悟があるかどうか──それが試されるんだよ。まして貴方たちのように、追われる身であればなおさらだ。だけど──それでも共に歩むと決めたなら、それは強さだ」 クラウディアの言葉が部屋に落ちた後、しばらくの間、誰も口を開かなかった。 言葉の重みが、二人の胸に深く沈んでいく。「はい。僕たちは共に歩いていきます。どんなことがあっても」 エリオとナディアは、ゆっくりと息を吸って前を見据えた。 その声に迷いはない。 逃げるためではなく、選ぶためにここにいる──だからこそ、二人は今、ここにいるのだ。 クラウディアが深く頷
Last Updated: 2025-09-11
Chapter: 境界を越えた者たち ②
「通してちょうだい、ハーヴェイ」 ハーヴェイが頷き、踵を返して去ると、ほどなくして二人の人物が現れた。 そこに立っていたのは、長身の青年エリオと黒衣の女性ナディア。しかしエリオの顔を見ても、クラウディアの心はすぐには反応しなかった。かつての少年の面影が時の流れに埋もれていたからだ。 青年が一歩踏み出し、穏やかな声で言った。「クラウディアさんですか? 私はエリオと言います。そして、こちらがナディアです」 エリオの微笑みは礼儀正しく、しかし、どこか遠いものがあった。クラウディアを覚えている様子はない。 クラウディアは目を細めて、エリオを観察した。エリオの声、立ち振る舞い、その瞳の奥に、確かにあの少年の影がちらついている。だが、クラウディアはそれを口には出さなかった。 クラウディアは椅子に腰を下ろすと、二人に向かって手で座るよう促した。 エリオは軽く頭を下げ、ナディアもそれに倣って一礼する。二人は並んで腰を下ろした。 クラウディアは二人の所作を見て、ここまで何かを背負ってやって来たことを感じ取った。穏やかでありながらも、どことなく緊張を孕んでいる。「直接、アークセリアに向かうものかと思っていたよ」 そう言って、クラウディアは笑みを浮かべた。 その言葉に特別な色はない。だが、クラウディアは何気ない会話の流れを装いながら、エリオの表情の揺れを拾おうとした。 エリオがどう応じるか。それを確かめたかったのだ。 エリオとナディアの名はイオの手紙に記されていた。そして、エリオに関しては遠い記憶として、クラウディアの胸に残っている。 セリカ=ノクトゥム時代──まだ幼かった少年が薬草の仕分け場の隅に座っていた姿。エリオは親の手元をじっと見つめていた。 今、目の前にいる青年が本当に、あのエリオなのか。クラウディアは確信を持てずにいた。「クラウディアさんがおっしゃるように、僕たちは直接、アークセリアへ向かうつもりでした。カデルという人物から手紙が届いたのですが、本当に行って良いのか少し不安で……決してカデルを疑っているわけではないのですが……」 エリオの言葉は途中で途切れた。 慎重に言葉を選びながらも、内心の揺らぎが隠しきれていない。 カデル──情報屋として知られる男。 色々ときな臭いところはあるが、根は真っすぐな人間だ。「その手紙には何と?」
Last Updated: 2025-09-11
Chapter: 境界を越えた者たち ①
 イオから手紙が届いてから数日後、クラウディアは村の集会所の奥で荷物をまとめていた。 早朝の霧が村を包む中、クラウディアはアークセリアへ向かう準備を進めていた。 地図、薬草、古い記録書など──アークセリアへ向かうために必要なもの、そしてエクレシアに入るために必要なものは整えてある。 決断は、すでにその身に根を張っていた。迷いはない。 扉が軋む音が響き、クラウディアは手を止めた。振り返ると、村人の一人、老いたハーヴェイが息を切らせて立っていた。 ハーヴェイは見張り役の一人だ。いつもはトランとミラなど若い人が見張り役をしている。しかし状況が状況だけに、村人たちも協力をしなければならない。そこでハーヴェイが自ら見張り役を買って出たのだ。「それくらいなら、わしにもできる」と言って。「村長、村の外から二人の旅人が来ています。エリオ、そしてナディアと名乗る者たちです。集会所で待つように伝えましたが、お会いになりますか?」 ハーヴェイの報告を聞いた瞬間、クラウディアの胸の奥にイオの手紙の一節が蘇った。 そこに記されていた名──エリオとナディア。その二人のことだ。 エリオ──その名に遠い記憶がざわめく。 ゾディア・ノヴァの前身であるセリカ=ノクトゥム時代、幼かった少年の一人にエリオがいた。その姿が脳裏に浮かぶ。 時の流れは速く、今となっては姿も声も変わっているはずだ。それでも、その名を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしさが疼いた。 あのエリオが、どうしてここに?  イオの手紙には、彼らの名が“来るべき者たち”として名を連ねていた。だが、そこには詳しい事情は書かれていなかった。ただ、急ぎ会うべきだと──それだけが強調されていた。 ゾディア・ノヴァから逃れることは通常あり得ない。私は戦乱後の混乱に乗じて組織から離れることができたが、エリオは違うはずだ。 ゾディア・ノヴァは一度標的を定めた者を決して逃さない。その名を記録に刻んだ瞬間から追跡が始まる。 逃亡は許されず、忘却も存在しない。彼らの網は広く、静かに、確実に迫ってくる。標的がどこに潜もうと、どれほど時が経とうと──組織は必ず追い詰める。 それがゾディア・ノヴァのやり方だ。 それを知っているクラウディアにとって、エリオの存在は懐かしさと同時に説明のつかない違和感を伴っていた。 エリオはどうやってここま
Last Updated: 2025-09-10
Chapter: ひとつの道 ⑦
 リノアは目を伏せ、記憶の奥を探るように言葉を紡ぎ始める。「湖の畔に立ってたの。水面は鏡みたいに静かで、星が沈んでるみたいに見えた。その向こうに、誰かがいたの。湖の反対側──遠くに、ぼんやりと人影が見えていて……でも、顔は見えなかった。声も届かなかった。ただ、ずっとこっちを見てる気がして……水面越しに、目が合ってるような感覚だった」 エレナは息を呑んだ。 術が見せたものにしては、あまりに繊細だ。「その湖……水鏡って呼ばれてた気がする。星を映す鏡。記憶を映す鏡。でも私が見ていたのは……星じゃなくて、過去だった」 エレナはリノアに寄り添うように、そっと頷いた。「最初から、その夢を見てたの?」 リノアはすぐには答えなかった。 瞳を伏せたまま、記憶の奥を探るように言葉を選び、そして、ゆっくりと口を開いた。「最初は違ってた。夕暮れの森。空が赤くて、煙が立ち上ってて……木々が燃えてた」 リノアの声が震えている。「火の中で幼い私が叫んでいた。目の前で、父と母が誰かに連れて行かれるのを見ていたのに、私はその場から動けなかったの。その場に取り残されて、炎が迫ってくるのをただ見ているしかなくて……。焼ける感覚まで、はっきりあった」 リノアの瞳が揺れている。 それは敵が見せた幻術の記憶──術がリノアの記憶の奥に眠っていた“未完の痛み”を引きずり出したのだ。「でも……エレナの声が聞こえた瞬間、全てが壊れた。炎も、煙も、叫びも──全部……霧みたいに消えていった。気づいたら、私は水鏡の湖の畔に立ってたの」 そう言って、リノアは目を伏せた。 エレナはそっとリノアの肩に手を添えた。「その湖は、あなたの記憶の底にある場所。敵はそこに入り込んで、リノアを取り込もうとしたの。でも戻ってきてくれた。星が沈んでいても、水鏡は割れなかった」 リノアは目を閉じて、深く息を吸い込む。「……あの湖に、もう一度行ける気がする。今度は幻じゃなくて、自分の足で」 その言葉が場の空気を変え、張り詰めていた気配がほどけていく。もはや術の残響は一かけらも存在しない。
Last Updated: 2025-09-09
Chapter: ひとつの道 ⑥
 エレナはリノアの額に額を寄せ、震える唇で囁いた。 呼吸は浅く、胸の奥から押し出されるように言葉が漏れる。「お願い……戻ってきて、リノア」 エレナの声は、張り詰めた感情の糸が今にも途切れてしまいそうなほどに震えていた。焦りと願いが込められた言葉が、ひとつずつ吐息に混じってこぼれていく。 喉の奥で震える声は、まるで過去と現在を繋ぎ止めようとする細い橋のようだった。 エレナの目はリノアを捉えたまま離さない。その瞳には、祈りにも似た切実さが宿っている。 指先に力が入り、握った手がわずかに汗ばんでいく。──届いてほしい。 ただ、それだけを願った。 その時、リノアの胸に沈んでいた一枚の羽根が砕け、粉のように散った。 リノアの瞳が揺れ、涙が一筋、頬を伝う。 それは閉ざされていた心がようやく動き出した証だった。──リノアが目を覚まし始めている。 リノアの指がわずかに動き、エレナの手を握り返した。 リノアの瞳の奥に、微かな光が灯る。それは術の闇に覆われながらも、消えずに残っていたリノア自身の意志だった。 リノアが何かを話そうとするが、言葉にならない。けれど、その動きには意味があった。 リノアは戻ろうとしているのだ。自分自身の力で、闇の底から。 エレナはその手を離さず、リノアを見つめて、ゆっくりと頷いた。 もう呼びかける必要はない。 リノアの瞳が、確かにエレナを捉えていた。 その奥に、かつての温もりが、ゆっくりと戻ってきているのが分かる。「エレナ……」 その声は細く、風に消えそうなほどだった。だけど、その響きには確かな重みが感じられる。 術に囚われていた時間のすべてを、言葉の一滴に込めたような──そんな声だった。 紛れもなく、リノアの声──誰にも操られてはいない。 エレナは返事をしなかった。ただ、リノアの手を握りしめたまま、目を伏せて息を整える。 胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく感覚── 風が場の空気を一新するように流れた。  羽の軌道が乱れ、残された数枚が宙に留まり、沈むことなく揺れている。まるで次の命令を失ったかのように。 リノアの瞳が、ゆっくりと焦点を結び始める。 その奥に、まだ痛みは残っている。けれど沈黙だけではない。何かが、リノアの中で動き出している。「……ここは……」 リノアが掠れた声で問いか
Last Updated: 2025-09-09
失われた二つの旋律

失われた二つの旋律

朝のカフェで心地よい旋律を奏でていた一人の音楽家が、ある日、突然行方不明になった。地元の人々にとっても大変な驚きであり、彼女の音楽がもたらす静かな朝のひと時を愛していたカフェの常連客たちは混乱し、心配の声を上げた。 この事件を追うのは主人公、石場。家族から虐待と監禁をされた過去を持つ。石場は記憶の断片を追いながら、事件の謎を解き明かすために尽力する。しかし、そこにフリージャーナリストのリサと音楽家の知人である美咲が現れ、疑惑の目を向けられる。 果たして石場は無実を証明できるのか、それとも彼自身が事件の鍵を握る存在なのだろうか? 真実が明らかになる時、最後に石場が見る光景はどのようなものなのだろうか。
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Chapter: 沈黙の前奏 ②
 リサは美咲とカフェで別れる間際、ふと思い出して美咲に尋ねた。「そう言えば、電話で『エミリアを山に呼び出した人が分かった』って言っていたけど、エミリアと常連客の会話の内容を知ってるの?」 写真を見る限り、アレックスと二人との間には距離があった。アレックスには二人の会話は聞こえていないはずだ。「ううん。そこまでは知らないけど」 美咲に悪びれた素振りは見られない。美咲はそのように感じたから、その内容を私に伝えただけなのだ。 やはり、男は前日にエミリアと会話を交わしただけだ。美咲は呼び出した事実を掴んではいない。 バイアスが掛かった状態で常連客を怪しんだ結果、「前日にエミリアと会話を交わした」という事実が、美咲の脳内で「山に呼び出した」と間違った情報に変換されたのだ。 情報というのは、人を介したら、たちまち湾曲されてしまう。その人の想いが情報に影響を与えてしまうからだ。気づいたら事実とかけ離れたものになっている。困ったことに当の本人は、そのことに気づきもしない。 思い込みには注意しなければ……。 リサの脳裏に苦い経験が蘇る。 かつて友人が持ち込んだ情報を鵜呑みにし、確信を持って行動に移したことがあった。その情報が合っているのか、それとも間違っているのか確かめもせずに……。情報源が信頼の置ける友人だったことで、私の目は曇ってしまっていた。 その結果、私は大きなミスを犯してしまうことになる。それまで時間を掛けて築き上げてきた情報が根底から覆され、全てが崩れ落ちた瞬間だった。 その時の痛みは、未だ心の奥底に深く刻み込まれている。 現時点で、はっきり言えることは、常連客が失踪に関与したかどうか全く分かっていないということだ。 美咲の見解も合っているのかもしれない。しかし私は自分で見聞きした情報を信じたいと思う。実際に足を運んで情報を集め、一つ一つ確認するのがベストだ。 さて、これからどうするか。 リサは深呼吸し、頭を整理した。 常連客に直接会って話を聞きたいところだが、さすがにそういう訳にはいかない。仮に犯人だった場合、相手を警戒させてしまい、その後の調査に支障をきたすことになる。最悪は危害を加えられるかもしれない。 まずは、その日、その場所にいた人から聞き込みをするのが良いだろう。「美咲、私、今からカフェに行って、例の常連客のことを聞いて
Last Updated: 2025-09-12
Chapter: 沈黙の前奏
 二人はざわめきの絶えないカフェの隅に腰を下ろし、周囲の視線を気にしつつ、言葉を選ぶように会話を始めた。「美咲、エミリアを山に呼び出した人って誰だったの?」「それが、あの日、私たちが山で目撃した人のことらしいの。いたでしょ、怪しい人」 美咲が身を乗り出すように言った。 リサはあの日のことを思い出した。数多くいる人の中、他の人たちとは明らかに異なる動きをしていた人物。異なる道を選んで歩き、木の根元や草むらを覗き込んでいた怪しい男……。「それって誰からの情報?」「アレックス・ヴァンダーヴィルトよ。いつもカフェでエミリアと一緒に演奏しているピアニスト。あの怪しい男、店の常連客だってことが分かったの。演奏が終わった後、エミリアに近づいて行って話しかけたんだって」 アレックスはエミリアとは長い付き合いだった。情報源としては信頼できる。しかし……。「別に話をするくらいなら、おかしくはないと思うけど……」 あの店は格式が高い店ではない。演奏後に客と会話を交わすことなんてよくある話だ。「そこなんだけどさ」 美咲は身を乗り出して小声で話し始めた。「話しかけたのは、その日が初めてなんだって。いつもは演奏が終わったら食事をし始めるのに、その日に限って、何故かエミリアに話しかけてるの。あまり人と会話を交わしたがらない人らしいよ」 美咲は言い終えると、今度はバッグから一枚の写真を取り出した。「実はね。リサを呼び出したのは、これを見せたかったからなの」 リサはテーブルに置かれた写真をじっと見つめた。「ほんとだ。この人……山で見た人だ」 アレックスの背後で、男がエミリアと話をしている。「私たちが山で見たあの男が、失踪する前日にエミリアに話しかけていたなんて、偶然だとは思えないでしょ。それに見て、このエミリアの表情」 そう言って、美咲はエミリアを指さした。「どう? 怖がっているように見えない?」 リサはしばらく黙って写真を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。「そう見えなくもないかな」 エミリアがぎこちなく笑い、男から距離を取るように少し身を引いている。曇りのある笑い方だ。「リサ、どう思う?」「うーん……確かに怪しいとは思うけど、まだ根拠が薄いかな」 リサは首を傾けながら答えた。 前日に話しかけたというだけで、美咲は“山に呼び出した人物”と決めつけ
Last Updated: 2025-09-12
Chapter: 告げられなかった別れ ②
 まずはエミリアの投稿から調べてみよう。 リサはエミリアのInstagramにアクセスした。アレックスとの関係が分かればしめたものだ。 美しい風景や楽器を演奏するエミリアの華やかな姿が掲載されている。リサはそれぞれの写真に添えられたキャプション、そしてコメントを注意深く読んでいった。 しかし、エミリアが悩んでいる様子は特に見受けられなかった。彼女の言動も、ファンや知人の書き込みも、疑念を抱かせるようなものは一切ない。 次にリサは、エミリアのXにアクセスした。 日常の些細な出来事や感じたことが書いてある。興味深いのは、ある日を境に投稿が途絶えていたことだ。「最後の投稿の日付……。目撃証言があった日と一致している」 掲載された幾つかの写真の風景は見覚えのあるものだった。ついこの前、美咲と一緒に行った山の風景だ。「エミリアは確かに山に行っている」 写真は風景写真ばかりだった。誰かと一緒に写っている写真は見当たらない。 一人で来たのだろうか。しかし、エミリアにはファンがいる。ファン以外の人、例えばアレックスと一緒に写ることはしないのではないか。 幾ら親しい間柄とは言え、表向きにはアレックスは一緒に演奏を共にする音楽仲間の一人だ。少なくとも、ファンはそう思っている。ファンとは嫉妬深い生き物だ。その人たちを悪戯に傷つけるような真似をするとは思えない。「失踪のカギとなるような書き込みや写真はなし。しかし山に行ったのは事実。目撃情報は間違ってはいない」 リサは調べて分かったことを手帳に記載していった。 時間を確認しようと、携帯電話に手を伸ばした時、美咲からメールが届いていることに気付いた。メールの件名は『至急連絡を』だった。リサはすぐにメールを開いた。 メールの内容はこうだった。《エミリアが失踪する前日にエミリアと話をしていた人物を見つけたの。とにかく直接話がしたいから、メールを見たらすぐに連絡して》 一体何だろう。と訝しく思いながら、リサはすぐに美咲に電話をかけた。電話が繋がるまでの間、リサの心臓は小刻みに高鳴った。「美咲、メール見たよ。何が分かったの?」 リサは逸る気持ちを抑えながら尋ねた。「エミリアを山に呼び出した人が分かったの。今から会えない?」 美咲の声は緊張に満ちていた。 リサは一瞬、言葉を失った。 本当だろうか? そんな
Last Updated: 2025-09-10
Chapter: 告げられなかった別れ ①
 店を出て美咲と別れると、リサは自宅に戻って、すぐにパソコンを立ち上げた。 部屋のレイアウトはシンプルにしてあり、整然としたデスクの上にはノートパソコン、その隣に数冊の参考書と手帳だけが置かれてある。「しばらく休息できると思ったんだけどな」 リサは、ある都市でフリージャーナリストとして働いていた。しかし家庭の事情で、この町に戻ることになったのだ。何の因果か地元のトラブルに首を突っ込むことになるとは思いもしなかったが……。 何もすることがないよりはましだろうと割り切るしかない。 美咲には悪いが、今回のエミリアの失踪は、よくある田舎の失踪だ。大方、喧嘩別れでもしたのだろう。美咲が言っていたように山で目撃したあの男は確かに変わった人物かもしれない。しかし、それだけで犯人扱いをするのは幾ら何でも無理がある。 エミリアに思い入れがあるから仕方がないとはいえ、美咲は少々、冷静さを欠いているところがある。だけど、エミリアを知らない私なら冷静な判断を下すことができる。私には何のバイアスも掛かっていない。 そもそも、どうしてエミリアはあの山に行ったのか。まずはここから探っていかなければならない。 町を離れる前に、もう一度、あの山の景色が見たかった。とするのも良いが、目撃情報は日が暮れてからだ。幾ら日本が安全な国だからと言っても、そのような時間にまで若い女性が一人で山に居続けるだろうか。普通は景色を楽しんだ後に家に帰るのではないか。 その時間まで山にいた理由は何だろう……。──誰かと落ち合っていた── もしそうならば、その人物は男性……。女性なら、そのような場所では会うことはない。そして、恐らくは知人。顔見知りであるはずだ。 今のところ、それに該当するのは、いつもエミリアと一緒に演奏をしていたピアニストのアレックスだ。「アレックスか……」 だけど、アレックスと会っていたならば、アレックスも目撃されていないとおかしい。 他に引っ掛かるのは、『誰にも何も告げずに姿を消した』という点だ。普通なら仲の良かった人に何か一言くらいは告げるはず。 エミリアとアレックスとの間で何かトラブルが起きたのだろうか……。 もし、そうならばアレックスに何も言わずに町を出て行ったことの説明はつく。 しかし…… これだけでは他の友人たちに何も告げずに町を出た理由までは説明がつ
Last Updated: 2025-09-10
Chapter: ラナンキュラスの微笑み ②
「エミリアがどこに行ったのか、本当に謎ね」 リサは美咲の瞳をまっすぐに見つめた。「確かに。仕事は私生活そのものといった感じで順調だったし、プライベートも特におかしなことは何も聞かなかったからね」「エミリアと仲が良かったとは言っても、美咲でも知らないことがあったのかもよ。人ってあまり深いところまで話さないじゃない」「そうかなあ。エミリアは隠すような性格ではないと思うけど」 しばらくして、注文した料理が運ばれてきた。 二人の前に並べられた料理は、湯気と香りが立つ小さな祝祭のようだった。彩り豊かな料理が、沈んでいた心にそっと灯りをともすように、二人の笑顔を引き出していく。「あの山に行ったのは、私たちのように調査しに行った人ばかりではないと思う。殆どの人が心配したり、好奇心で探していると思うけど、中には違う目的で行った人もいる」「というと?」 美咲の言葉にリサが首をかしげる。すると、美咲はテーブルから少し身を乗り出して声を低くして続けた。「よく言うじゃない。犯人は現場に現れるって。もしかしたら、エミリアに何かした人が現場の様子を見に来たのかもしれない。と言っても、あの怪しい男がそうだと言っているわけじゃないけどさ」 美咲は笑みを浮かべた後、一瞬だけ視線を落とした。しかし、その笑みの裏には確信が見て取れる。「やけに、あの男に拘るんだね」 美咲はフリージャーナリストである私に、あの男について調べろと言っているのだ。「そりゃ、会社でもおかしな行動ばかり取っていた人だもの。実際に変だったでしょ」「まあ、そうだけど」 リサは美咲の強引さに、少しうんざりしながらも季節の野菜サンドを手に取って、一口食べた。 新鮮な野菜と香ばしいパンの香りがリサの鼻腔をくすぐる。リサは目を閉じてその味を楽しんだ。 味を堪能したリサは、ゆっくりと目を開けて美咲に視線を戻す。すると、待っていたかのように美咲が再び話し始めた。「リサは他にも怪しいと思ってる人いる?」「怪しいというか、アレックスはどうなんだろうと思って。エミリアとは一番親しい仲だったわけでしょ」「アレックス? それはないと思うよ」 美咲はくすっと笑いながら、肩の力を抜いたように言った。「アレックスはエミリアの後を追って日本にまで来たんだし、あの二人は深い絆で結ばれてる。そんな彼がエミリアに恐ろしいこ
Last Updated: 2025-09-08
Chapter: ラナンキュラスの微笑み ①
「それにしてもあの人、何してたんだろうね」 美咲は陽射しの中で髪を揺らしながら、リサに聞いた。「うーん、わからないけど、ちょっと怪しかったよね。あの視線といい、隠れるようにしてたし」 リサが答え、肩をすくめた。 美咲はクスクスと笑いながら、「確かに。でも、あれだけ挙動不審だったら誰だって怪しいって思うよね」と言った。「もしかして私たちが彼を怖がらせちゃったのかもよ」 美咲の発言を受けて、リサは即座に返した。 二人で少し高い位置から男を眺めていたのだ。彼が警戒するのも無理はない。「何もしてないなら、堂々としていれば良いのに」「まあ、確かにそうだけど……」「相手には悪いけど、怪しいと思えるものには疑いの気持ちを持たないと」 美咲の考え方にはジャーナリストとしては共感できる。しかし慎重にしなければ相手を傷つけかねない。無実の人を精神的に追いやるかもしれないのだ。 リサと美咲は食事を摂るため、近くの小さなレストランに入ることにした。風が心地よく吹き抜け、木々の間から差し込む日差しが二人の心を温かく包み込む。 レストランの名前は『緑の小道』。美咲が良く利用する店だ。 木製のドアを開けると、店内の照明は温かく、木の香りが漂っていた。テーブルには手作りのクロスが敷かれ、花瓶には季節の花が活けられている。色とりどりのチューリップ、フレッシュなスズラン、そして鮮やかなラナンキュラスが春の息吹を感じさせた。 二人は窓際の席に腰を下ろし、メニューを開いた。「この店、すごく可愛らしいね」 そう言って、リサが周囲を見回した。「自然の中で食事をするのも良いけど、たまにはこういう雰囲気の店も良いかと思って」「私がこの町に住んでいた時は、この店はなかったよね。まだ離れて三年くらいしか経ってないのに、店がいくつもオープンしていてビックリする」 リサが笑顔を見せて言った。「そうでしょ? この店は特に私のお気に入りなの。料理も美味しいし、雰囲気も素敵だからね。リサにぜひ来てもらいたかったんだ」「この町も成長しているのか……。まさか、こんなに変わるなんて思ってもみなかった」 リサは感慨深げに言った。「うん、少しずつだけど賑やかになってる。あ、見て、このスイーツ美味しそう!」 二人はメニューを開きながら、笑い声を交えつつ楽しく会話を続けた。 心地よい雰囲気
Last Updated: 2025-09-08
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