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秋月 友希
秋月 友希
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Novels by 秋月 友希

水鏡の星詠

水鏡の星詠

 幼い頃、森で過ごし、自然との深い結びつきを感じていたリノア。しかし成長と共に、その感覚が薄れていった。ある日、最愛の兄、シオンが不慮の事故で亡くなり、リノアの世界が一変する。遺されたのは一本の木彫りの笛と星空に隠された秘密を読み解く「星詠みの力」だった。リノアはシオンの恋人エレナと共に彼の遺志を継ぐ決意をする。  星空の下、水鏡に映る真実を求め、龍の涙の謎を追う。その過程で自然の多様性に気づくリノアとエレナ。  希望と危険が交錯する中、彼女たちは霧の中で何を見つけ、何を失うのか? 星が導く運命の冒険が今、動き出す。
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Chapter: 風の止む刻 ②
「他に敵はいないようだな」 そう言って、カリスは剣へと歩み寄った。 広場の騒然とした空気の中で、カリスだけが異質な静けさを纏っている。 カリスが広場に姿を現すと、ヴィクターは彼女を見るなり肩の力を抜いて、安堵の息を漏らした。──女性剣士、カリス。 カリスはグリモア村の村長であるグレタに付き添って旅を続けている。ミリアとテオの仲間でもあり、ヴィクターとは過去に行動を共にした仲だ。 アリシアとセラは突然現れた彼女の鮮やかな剣技に感嘆しつつも、警戒を怠らなかった。敵である術者を倒してくれたとは言え、アリシアとセラにとっては、カリスは見知らぬ人物だ。 剣を投げて敵を倒したカリスの背後で、セラとアリシアは互いに視線を交わし、周囲の状況を慎重に探った。 カリスは壁に突き刺さった剣を抜き取ると、今度は地面に倒れ込んだ術者たちに視線を移した。 瓦礫の隙間に倒れた術者二人は、すでに動く気配もなく、顔色は青白くなり、微かな息も感じられない。その身体は力なく横たわり、指先すら動かさず、すでに命の灯が消えてしまったことは明らかだった。 騒然とした空気が落ち着きを見せる中、ようやく肩の力を抜くことができたテオが、カリスのもとへ歩み寄る。「来てくれて助かったよ」 テオが素直に礼を述べた。「他の術者たちはグレタ様が処理したはずだ。もう心配しなくていい」 カリスは安堵の表情を浮かべるテオに、そう告げた。 広場に漂っていた緊張が少しずつほどけていく。しばらく余韻に浸っていたテオは、ふとミリアの方へ視線を向けると、少し興奮した面持ちで声をかけた。「さっきの戦いだけどさ。空中に紋様を描いて、バリアを張るって……。あんなこともできたのか、知らなかったよ」 テオの驚きに、ミリアは目を伏せて微笑む。「実は、さっき術師たちが広場に描いた紋様を観察していたら、ある法則があることが分かって……。自分が知っていた砂紋占術の知識と組み合わせてみたの。こう描けばバリアができるはずだって」 そう言って、ミリアはゆっくりと右手を持ち上げると、空気中に見えない絵筆で線を描くように腕を滑らかに動かしてみせた。「砂の上に紋様を描く時と同じ要領で良いみたい」 描き終えると、両手をそっと合わせ、描いた紋様を包み込むように掌を重ねる。その瞬間、空間に淡い光がふわりと集まり、紋様がかすかに浮かび
Last Updated: 2025-10-17
Chapter: 風の止む刻 ①
 ミリアは仲間たちに視線を送り、小さな声で「よかった……」と呟くと、ほんの一瞬だけ涙ぐみながらも、嬉しさに頬を染めた。 広場の地面に刻まれた紋様が淡く揺れている。消え入りそうで儚い揺らぎだ。ミリアが仕掛けた細工は確かに広場の紋様を変質させたのだ。 動きを止める術者たち──宙に浮かんだまま、アリシアたちを凝視している。 その瞳に宿るのは、冷たい怒り── 辺りには歓喜の余韻が広がっている。しかし、その安堵のひと時は一息で掻き消された。──場の雰囲気が一変する。 術者の一人が荒々しく呪具を振りかざすと、新たな呪文を紡ぎ始めた。 風が止み、光が沈み、その場の空間が一瞬で重くなる。「……来るぞ!」 テオが叫んだ。 空間が震え、空気が押し潰されるような感覚が走る。「何してんだ! ミリア、下がれ!」 テオが叫ぶ。 しかし、ミリアは動かない。 仲間たちが反射的に建物の影へ身を潜める中、ミリアだけが一人、広場に佇んでいる。 ミリアは術者たちを見据えたまま、一歩、また一歩、前へと踏み出していった。 そのうち、術者の呪文が完成すると、重く淀んだ空間が張り詰めた糸が切れるように、びしりと音を立てて震えた。 宙に浮かぶ術者の掌から、淡い青白い光が渦を巻いて溢れ出す。 その光はみるみるうちに膨張し、閃光と共に激しい衝撃波が広場全体を駆け抜けた。 地面が激しく波打ち、砂埃が爆風に巻き上げられて空へと舞う。建物の窓ガラスが一斉に砕け散り、鋭い破片が光を反射しながら宙を舞った。広場のあちこちで鈍い衝突音が響く。 圧倒的な空気の奔流── 耳をつんざく轟音が広場一帯を揺るがす中、ミリアは両手を前に掲げ、素早く紋様を空中に描いていた。 指先が走るたび、ミリアの周囲に淡い光が浮かび上がる。光はやがて膜のように広がり、見えない壁となって衝撃波を遮った。 ミリアの髪とマントが風に巻き込まれて激しく翻る。ミリアは身体が一瞬浮かぶような感覚に襲われた。 顔に当たる風が頬を刺し、砂埃が目元をかすめていく。息を吸い込もうとするたび、喉の奥がひりついた。──呼吸ができない。 心臓が胸の内で乱打し、鼓動が早鐘のように胸の奥で響き渡る。 それでも、ミリアは動じなかった。 術者たちの姿を光の向こうに捉えたまま、目を逸らさない。 そのとき——広場とは異なる場所、闇に包まれ
Last Updated: 2025-10-15
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑭
 ヴィクターが合図を送ると、仲間たちはすぐに広場の端へ散り、すぐに身を低くした。 導火線に火がつき、焦げた煙の匂いが辺り一帯を満たす。 じりじりとした導火線の音が響き、空気が張り詰めるような緊張の中、アリシアたちは息を潜めてその瞬間を待った。 やがて鈍い爆音が轟き、木の根元が激しく揺れた。土と焦げた木の匂いが一気に押し寄せ、毒の流れが一瞬だけ止まる。 爆煙が立ちこめる中、白仮面の術者たちが一様に動きを止めた。煙の向こうで、彼らの姿がぼんやりと揺らぎ、一瞬だけ戸惑う姿を見せる。「くそ……、あれだけの爆薬でも倒しきれないなんて……」 ヴィクターは唇を強く噛みしめ、眉間に深い皺を寄せた。肩はわずかに震え、拳を握った手をぶるぶると膝の上で押し潰している。 ヴィクターの瞳が爆煙の向こうの大樹をじっと睨みつけて離さない。 爆風と煙が広場全体に広がる中、しばしの静寂が訪れた。 術者たちの視線が広場の中心へと向けられている。術者たちは状況を把握しようと周囲を見渡した後、広場の隅に目を遣った。そこには、たった今、ヴィクターが爆破した大樹がある。 噴出する毒の量が減ったとは言え、まだ毒は出続けていた。これだけの大樹を破壊するには、火薬が足りなかったのだろう。完全には破壊し尽くすことはできなかったようだ。 すぐに気を取り直した術者たちは、互いに合図を送るように身振りを交わした後、呪文の詠唱を再び始めた。爆煙が広がる中、煙を押し返そうと詠唱を強めていく。 彼らは複雑な印を次々と結びながら、再び紋様の効果を得ようと集中し続けた。 その光景をミリアは指先を震わせながら、じっと見つめていた。 広場に施した細工が本当に上手くいくのだろうか。もし術者たちが描いた紋様の効果が半減しなかったら……。そう思うと、不安で仕方がなかった。 仮に解読が誤っているなら、きっと、あの大樹は紋様の効果で再び復活してしまうだろう。 それでは意味がなくなってしまう。 だが、術者たちの様子が徐々に変わっていくのがはっきりと分かった。彼らは紋様に向かって呪文を唱え続けるものの、思うような効果が得られず、次第に苛立ちを見せ始めた。 術者たちはアリシアの温かみを帯びた上昇気流に抗うことができなかったのだ。 次第に術者たちの動きに焦りが混じり始める。 仮面越しにも伝わる苛立ち。表情こそ窺え
Last Updated: 2025-10-14
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑬
 倒れていた町民たちの髪や服の裾を、そよ風が優しく撫でている。ふわりと髪が浮かび上がり、町民たちの服の裾をそっと揺らした。 アリシアは目を開けて、周囲の状況を確認した。 渦巻く風が広場を覆っていた毒と冷気を空高く舞い上げている。紋様が赤く輝き、喰い花の根が苦しげに震えているのが見えた。 しかし、まだ安心するのは早い。白い仮面を被った術者たちは動きを速め、広場の毒を留めようと力を増している。 今、ここに居るのは複数存在する敵のうち、二人しかいない。ヴィクターやテオ、そしてミリアが動き回っているが、仮にあの二人を倒したとしても、おそらく毒は出続けるだろう。 アリシアは空を見上げた。 白仮面たちが両手を空へと掲げ、懸命に紋様に魔力を注いでいる。仮面の奥の表情を伺うことはできないが、肩が小刻みに震え、衣の裾が不規則に揺れている。吹き荒れる風に抗っているのが、こちらにも伝わってくるかのようだ。 アリシアは、ふとミリアの動きに目を止めた。「一体、ミリアは何をしているのだろう?」 ミリアが広場の中央に跪き、白仮面たちが描いた複雑な紋様に目を凝らしている。 ミリアは砂紋占術師だ。ミリアは、その文様を解読しようとしているのかもしれない。 吹き上がる上昇気流の中、ミリアが指先を伸ばして、紋様の線の端に触れた。 指でほんの少し線を崩したり、瓦礫の破片を使って一部を覆い隠したりと、手作業で紋様の流れに微細な変化をもたらしていく。 ミリアの動きは慎重だ。まるで盤上に並ぶ魔法の駒を一手ずつ動かす頭脳戦のような、息詰まる静けさに包まれている。その指先は、運命を左右する一歩を選び取る賢者そのものだった。 きっとミスが許されない状況なのだろう。少しでも手順を間違えれば、勝負の流れは一気に敵へと傾いてしまう。ミリアにとって、ここは読み合いと決断の舞台なのだ。 ミリアは一つ一つの動作に細心の注意を払っている。 一方、ヴィクターはテオのように喰い花を切りつけることはせず、広場を取り囲む樹々をじっと観察していた。 ヴィクターは木工職人だ。何か意味があるに違いない。 ヴィクターの視線は一本一本の幹をたどり、やがて一本の大樹へと向けられた。──まさか、あれが喰い花の大元となる樹……? 他の木々とは異なり、異彩な雰囲気を放っている。 捻じれ曲がった幹は、まるで幾つもの蔦
Last Updated: 2025-10-13
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑫
「私が何とかしなければ……」 アリシアは震える声で呟いた。──セラの鉱石では、もう追いつかない。 喰い花の中心から噴き上がった毒の霧が、まるで生き物のように広場を覆い尽くしていく。 黒紫色の波がゆっくりと、しかし確実に地面を這い、逃げ場のない壁となって町民たちを包囲していった。空気は重く淀み、喉を刺すような痛みと共に、視界がじわじわと霞んでいく。 逃げ場のない障壁、複雑に絡み合う蔦── 誰かが転び、誰かが叫び、誰かが泣き崩れる。──このままでは、全員が毒に侵されてしまう。 アリシアはゆっくりと身体を起こし、ふらつく足で前に進んだ。胸元にしっかりと鉱石を抱きしめたまま── 倒れている町民たちが目に入り、アリシアの肩を小さく震わせた。過去の記憶が脳裏をよぎり、思わず立ち止まりそうになる。 幼い頃、アリシアは戦争の中で多くの苦しみを目の当たりにした。 瓦礫の中で倒れていた人たちの姿、助けを求めて差し伸べられた手、途方に暮れた表情。それらは今でもアリシアの記憶に深く刻まれている。 あの時の私には何もできなかった。その無力さが今も胸の奥を締め付ける。──私が皆を救わなければ。 そんな思いがアリシアの胸の内に湧き起こった。 アリシアは必死に前を向こうと、唇を固く結んだ。目の前の現実から目を逸らすことはできない。「アリシア、どこに行くの?」 セラの声が背後から届いた。 しかしアリシアには、その声が聞こえなかった。意識のすべてが、目の前で倒れている町民たちに注がれている。セラの声は遠くで風にかき消されるように薄れていき、アリシアの世界から切り離された。 今のアリシアには、助けを求める町民たち以外のすべてが霞んで見えている。 心の奥で動揺が渦巻く中、自分にできること──それだけを何度も胸の中で繰り返し思い描いていた。 今、ここでじっとしていても、状況は何も変わらない。自分が動かなければ、誰も救えない── そんな思いを込めながら、アリシアは崩れた瓦礫と倒れた人々の間を進んで行った。──絶対に誰も失わせない。 胸の奥でそう強く願い、アリシアは今、自分にできることを必死で考えた。 アリシアの手のひらに包まれた鉱石がアリシアの想いと共鳴するように、じんわりと温もりを帯び始める。 鉱石の奥に微かな光── 淡い輝きがアリシアの周囲を包み始め、
Last Updated: 2025-10-12
Chapter: 優雅なる毒の前触れ ⑪
 前が見えない。真っ白な光の中、アリシアはその場に立ち尽くしていた。 耳鳴りの余韻が静かに漂い、世界から色も形も奪われてしまったかのようだった。自分の呼吸だけが頼りなく胸の奥で響き、何も見えない恐怖が全身を包み込む。 どこか遠くから聞こえる誰かの叫び声。そして瓦礫の崩れる音── そのすべてが私を現実へと引き戻した。 アリシアは周囲の動向を把握しようと辺りを見渡した。その時、アリシアの耳に不気味な音が届いた。 地面の裂け目から、何かがずるずると這い出してくるような、低く湿った音── 白光が徐々に薄れていく中、アリシアはその物体を捉えようと目を凝らした。 うっすらと広場の景色が戻り始める。すると、視界の端には黒紫の蔓が蠢き、ゆっくりと広場へ広がっていく様子がはっきりと目に映った。 その異様な光景に思わず視線を逸らした時、アリシアは心臓が凍りつくような恐怖を覚えた。──喰い花だ。 とうとう喰い花が動き始めた。 広場の中央に咲いた異形の花は、夜の闇が具現化したかのように、不気味な存在感を放っている。幾重にもねじれた花弁が互いに絡み合い、不規則にうねりながら伸びている。 息をのむような沈黙—— 誰一人として、その光景を前に声を発することができなかった。空気は凍り付き、ただ花がゆっくりと花弁を開いていく音だけが、異様に大きく広場に響き渡る。 アリシアは息をのみながらその様子を見つめた。 花が開くにつれて、広場全体に奇妙な冷気が広がっていく。耳鳴りの余韻とともに、不安な心がじわじわと胸を締め付けていった。 周囲の人たちも、息を潜めて花の動きを見守っている。 ひりつくほどの緊張の中、人々の喉元に言葉も叫びも貼り付いたまま、誰も言葉を発することなく、その場の様子をじっと見つめていた。 やがて、花弁の奥がゆっくりと脈動し始めると、纏わりつくかのような重い毒霧が花弁から吐き出された。地を這いながら広場全体へと広がっていく。「毒だ! 下がれ!」 ヴィクターの叫びが響く。 咄嗟に仲間たちが、その場から離れた。しかし動くことのできない町民は、そうはいかない。町民の一人が咳き込み、別の者が目を押さえ、悲鳴を上げた。 セラは広場の空気が急速に濁っていくのに気づき、とっさに胸元に手を遣ると、空に両手を掲げた。 それはエアリス鉱と薬草を細かく砕いて作った粉
Last Updated: 2025-10-11
失われた二つの旋律

失われた二つの旋律

朝のカフェで心地よい旋律を奏でていた一人の音楽家が、ある日、突然行方不明になった。地元の人々にとっても大変な驚きであり、彼女の音楽がもたらす静かな朝のひと時を愛していたカフェの常連客たちは混乱し、心配の声を上げた。 この事件を追うのは主人公、石場。家族から虐待と監禁をされた過去を持つ。石場は記憶の断片を追いながら、事件の謎を解き明かすために尽力する。しかし、そこにフリージャーナリストのリサと音楽家の知人である美咲が現れ、疑惑の目を向けられる。 果たして石場は無実を証明できるのか、それとも彼自身が事件の鍵を握る存在なのだろうか? 真実が明らかになる時、最後に石場が見る光景はどのようなものなのだろうか。
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Chapter: 観察する男 ①
──まるでストーカーだな。 石場は自分の行動に笑みを浮かべた。 しかし、これは自分の無実を証明するためには仕方のないことだ。私は悪いことは何もしていない。 美咲によってかけられた疑惑を晴らすためには、こうして彼女の行動を見極めるしかないのだ。 石場は細心の注意を払いながら、美咲が何か決定的な証拠を残さないか、連日、観察を続けた。 特に大きな進展もないまま、淡々と日々が流れていく。 そんな日々が続く中、ある日、石場は美咲が友人らしき人物とカフェで会話をしているのを目撃した。美咲がいつも利用している店だ。 気付かれないように近づいてカフェの隅に座ると、石場は二人の会話に、そっと耳を傾けた。 どこの店のケーキが美味しいとか、安かったとか、誰々が何をした。何を言った。など、どうでも良い中身のない会話が続く。 石場は思わずため息をつき、椅子にもたれかかった。 くだらない雑談を垂れ流すだけの時間に一体、何の意味があるのか。よくもまあ飽きずに話していられるものだ。 まるで苦行のようだと感じていると、ついに美咲が石場について話し始めた。 美咲の声のトーンがわずかに低くなる。「ねえ、石場って、知ってる?」──やっと始まったか。これが聞きたかったんだ。 耳が自然と会話に向かい、視線は伏せたまま、意識だけが鋭く研ぎ澄まされる。 石場は身構えるように全身を強張らせた。無意識に背筋が伸び、膝の上で握り締めた手に力がこもる。 実は期待より不安の方が遥かに大きい。 今まで散々、あらぬ噂を立てられたこともあって、自分の話題に触れられる度に自然と身構えるようになった。良い話であった試しはない。まして今回は悪意のある内容であることが確定している。 その予感が石場の内面を揺らし、鼓動を高鳴らせた。「美咲、石場がどうしたの? 何か問題でも?」 友人が心配そうに美咲の顔をうかがった。 美咲が戸惑った表情を浮かべている。 短い沈黙が流れた後、やがて、美咲は本音を漏らすように小声で答えた。「実は……。同僚に石場のことを聞いたら、何か不気味な感じがしてきて……。あまり深入りしない方が良いんじゃないかと」──どういうことだ。同僚だと? どうして、こいつの同僚が私のことを知っているんだ。 思いがけない美咲の発言に思考が一瞬止まる。 同僚──その一語が石場の中に眠
Last Updated: 2025-10-20
Chapter: 見落とされた名前
「ふざけやがって!」 震える手を膝の上で押さえつけながら、石場は画面を睨みつけた。 白百合は私について“エミリアの失踪に関与している”と仄めかす記事を書き、まるで私が犯人であるかのような扱いをしている。その無責任な主張に激しい憤りがこみ上げてくる。 石場は拳を握り締め、そのまま拳を机に叩きつけようとした。しかし、すぐに思い直し、その寸前で手を止めた。 感情的になっても何も得はしない。それよりも白百合が何者で、何故あのようなことを書いたのかを知る方が先決だ。 石場はパソコンに向かい、白百合に関する情報を検索し始めた。ありとあらゆる可能性を考慮してキーワードを叩き込んでいく。 白百合と名乗る人物のSNSやブログには、数えきれないほどの写真と記事が並んでいた。その中には、彼女の私生活を垣間見せるような投稿も含まれている。 石場はひとつひとつの投稿を注意深く見ていくうちに、ふと、ある一文に目を奪われた。 そこには白百合が友人と一緒に写っている写真があり、コメント欄には「美咲、いつもありがとう!」と書かれてあった。 その投稿は友人からのものだ。「美咲……。これが白百合の本名か……」 石場は画面を見つめながら呟いた。 人気のあるブログらしく、白百合の投稿には多くのコメントが寄せられている。彼女はそれらに返信していたが、すべてに応じているわけではない。「素敵ですね」「行ってみたいです」といった一般的な反応には、絵文字だけで返すこともあれば、まったく反応がないこともある。しかし、その一方で、あるコメントには丁寧な言葉で返してあった。 その選別に明確な基準は見えない。気まぐれな性格なのか、少なくとも几帳面とは言い難い。──自分の名前が書かれているとも知らずに……馬鹿な奴だ。 石場は美咲の写真を眺め続けた。 この顔、どこかで見たことがある。 思い出そうと記憶を辿っていくが、中々、思い出すことができない。 最近、見たわけではなさそうだ。見たとしても何年も前の話だろう。 一体、どこで……。 石場は椅子に身を乗り出し、画面に顔を近づけた。指先が無意識にマウスを握りしめる。 喉元まで来ているのに、言葉が出てこない。 私の行動範囲は限られている。カフェに行くか、町を歩くか──せいぜいそれくらいなものだ。 エミリアがいた頃は、音楽を聴きに出かけるこ
Last Updated: 2025-10-18
Chapter: 目撃者 ③
「石場さんって大人しくしている時もあったけど、そういう時でも油断ができない人だったんですよ。人の行動を逐一チェックしていて、何かあったらすぐに上司に報告しに行く人だったから。『あいつがこんなことを言ってましたよ』とか言って……。本当に嫌な奴でした」 彩香さんの表情を見る限り、心の底から石場を嫌っていることが伝わってくる。「そういう陰湿的なところもあったね。あいつは仕事ができないくせに、上司がいる前では、ここぞとばかりに偉そうな態度で説教し始めたりするんだ。あれを見た人は説教されている人が本当にミスを犯した無能だと思うんじゃないかな。上司なんて職員の仕事ぶりを見ているようで見ていないから、石場のことを優秀だと思っていたかもしれないよ」 と松田が言った。「何人かの人が石場の問題行動を上司に話したみたいなんだけど、石場を擁護してばかりで話にならなかったって。それでバカバカしくなって退職していった人たちが何人もいる。私も何度、辞めようと思ったか……」 彩香の指先がカップの縁をなぞるように動き、口元には笑みともため息ともつかない歪みが浮かんでいる。 その沈黙が、何よりも彼女の記憶の苦さを物語っていた。「鬱になって会社に来れなくなった人も含めたら、辞めた人はかなりの数になるだろうね。取引先も嫌がって仕事もかなり減ったし」 松田が彩香の言葉に付け加えた。 石場のような人間が好き勝手にできるのは、その環境を作っている人たちがいるからだ。彩香さんや松田さんのように石場に反発する人たちばかりだったら、被害は最小限で済んだはずなのに……。 その後も、二人は石場の言動や職場の空気について、具体的な出来事を交えながら話してくれた。美咲は耳を傾けながら、自分が感じていた違和感の正体が次第に明らかになっていくのを感じた。 言葉にできなかったものが、少しずつ形になっていく。 やがて会話が一段落したところで、美咲は静かに口を開いた。「松田さん、彩香さん。今日は本当にありがとうございました。お二人から大切なお話を聞かせていただいて、いろいろと考えることができました」「美咲さん、気をつけて下さい。石場は何をするのか分からないので」 彩香は不安そうに美咲の顔を見つめた。「石場は感情的になりやすいし、予測不能な行動を取るからね。あいつを追うのは慎重にした方が良いと思うよ」
Last Updated: 2025-10-12
Chapter: 目撃者 ②
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」と、彼女は申し訳なさそうに言いながら席に着き、「こんにちは。佐藤彩香です」と私に軽く会釈をした。 彼女は私が退職した後に入社した人だ。「こんにちは、彩香さん。私は美咲と言います。渡辺美咲です。今日は来てくださってありがとうございます」 そう言って、私は微笑んだ。 初めて会うのに、どこか懐かしいような気がする。彼女の雰囲気が、そう思わせるのかもしれない。「今日、佐藤さんを呼んだのは訳があるんだ。美咲さんがね、石場について訊きたいって言うから、僕も色々と話してたところだったんだけど、石場についてなら、佐藤さんの方が詳しいでしょ? だから来てもらったんだ」 松田はそう言ってから、美咲の方へ視線を向けた。「佐藤さんがね、石場が山にいたところを実際に見たんだって」 松田が真剣な表情で言った。「えっ、それって、いつ頃の話ですか」 美咲は驚いて問い返した。 彩香は少し戸惑いながらも話を始めた。「確か、最後にエミリアが目撃された日の夜だったと思います。今、付き合っている人と夜景を見るために、展望台に行った帰り道、ベンチで寝ている石場を見たんです」「本当ですか?」 こんなに早く、目撃者を見つけることができるなんて……。だけど驚きもするが、あの石場なら、こんなものだろうとも思う。あの男が計画的に行動を取ることができるはずがない。 しかし、複雑な心境だ。犯人が分かったかもしれないという期待の反面、エミリアが被害に遭ったかもしれないといった不安な心が押し寄せてくる。「暗くて良く見えなかったけど、あれは絶対、石場です。お酒を飲んでいたのではないかと思います。近くに缶ビールが転がっていたので」 どうして石場がそんなところに……。「そこで寝ていただけですか? 近くにエミリアはいました?」「エミリアって、あのヴァイオリン弾きの人ですよね。その人なら、いませんでしたよ。石場が一人で寝ていただけです」 美咲の頭の中で糸が少しずつ繋がっていく。エミリアが失踪した日の夜に、その場にいたなんて、もう石場が犯人と決まったようなものだ。「何らかの犯行に及んだ後なのかもしれないですね」 彩香が呟くように言った。 考えたくはない。だけど、もうそれしか……。エミリアを襲った後、満足して眠ったのかもしれない。「うん。あいつならやりかねない
Last Updated: 2025-10-05
Chapter: 目撃者 ①
 美咲は元同僚から、あの男について話を聞くため、カフェに向かった。 カフェの一角で美咲を待っていたのは松田だ。彼は石場と同じ部署で働いていたことがある。彼なら何か知っているのではないかと思い、連絡を取った。 松田は美咲を見るなり、穏やかな笑みを浮かべた。「久しぶりだね、美咲さん。元気そうで何より」「お久しぶりです、松田さん。あれっ、もう一人の方は?」「少し遅れるってさ。で、今日はどうしたの、突然、石場のことを訊きたいとか言ってさ。石場って、あの石場でしょ。どうして、あんな奴のことを知りたいわけ?」 あの男は石場というのか。「実は、その人がエミリアの失踪に関与しているのではないかと疑っていて……。知らべてみると、かなり怪しいんですよね」 美咲が、これまでの経緯を簡潔に説明すると、松田は深く頷いた。「疑いたくなる気持ちは良く分かるよ。あいつは確かに変だったからね。営業先にも散々、迷惑をかけてたし……。突然、その場から居なくなって、全く別の場所で見つかるとかさ。普通、有り得る? 有り得ないでしょ? しかも、そんな状況でも、あいつは平然としていたからね。持ち場を離れて遊んでいてもバレないと思ったんだろうけどさ。舐めてるよね。あいつは基本的に自分のことしか考えていない。他人の功績を自分のものにすることもよくあったし、嘘ばかりつくし。だから成長しないんだよ。新人でも知っている仕事内容なのに、あいつは知らなかった。実際にやってもできなかったからね。とにかく卑怯。どうにもならないよ」 松田の石場への怒りがひしひしと伝わってくる。「そんな人が同じ部署に居たら迷惑ですね。退職者が相次ぐのも仕方がないと思う」 石場が原因で何人もの人が退職したと聞いている。「仕事ができないのは別に構わないんだよ。みんなが退職したのはそれが理由じゃない。あいつはすぐに感情的になって、他人を攻撃するところがあった。他人に対して高圧的に振る舞って偉そうにしていたからね。特に女性に対しては本当に酷い態度を取ってた。上司が居る時と居ない時とでは態度が全然違っていた」 立場の弱い人に対して高圧的に振る舞うか……。自分に自信のない証拠だと思う。本当に実力があるのなら堂々としていられる。「それは確かに一緒に働くのは難しいですね」「あいつは自分の過ちを認めることは決してなかった。常に無反省で
Last Updated: 2025-10-01
Chapter: 届かない声 ②
「エミリアはどこか静かな場所で休息を取っているのかもしれないね。あのように見えても、エミリアには繊細なところがあったから。一人になりたい時だってあるだろうし……」 たぶんエミリアが華やかな舞台を捨てて田舎に来たのは、周囲からの期待に押しつぶされそうになったからだ。だから休息している可能性はある。アレックスに何も告げずに出て行った理由までは分からないけど……。「もっと早く、私がエミリアに寄り添っていたら、こんなことには……。あの頃は仕事に追われていて、心に余裕がなかった。自分のことしか見ていなかったんだ。それがずっと、心に引っかかってる。後悔してるよ」 アレックスは視線を遠くに投げたまま、言葉を探すように口を動かした。肩がわずかに落ち、背中に影が差している。 エミリアがアレックスに何も言わなかったのは、きっと、アレックスに心配させたくなかったからだ。エミリアには、そういった側面があった。「アレックス。誰にだって自分のことで手一杯になることはあるよ。アレックスが悪いわけじゃない。今からでも遅くはないと思う。エミリアを見つけて、エミリアの思いを共有すれば良いんだから」 そう言って、美咲はそっとアレックスの手に触れた。「そうだね。まずはエミリアを見つける方が先だね。落ち込んではいられない」 アレックスは希望を感じたのか、少しだけ笑みを浮かべた。 アレックスの表情がほのかに明るさを帯びたことに、美咲は胸を撫で下ろした。しかし、その安堵の裏で美咲の心は複雑な思いに揺れていた。 エミリアが無事であるという希望と、もし何か悪いことが起きていたらという不安が交錯する。 本当にエミリアは無事なのだろうか。どこかで助けを待っているのではないか。 そんな思いが頭をよぎる中、アレックスの手を握る美咲の手には、言葉にできない温もりとざわめきが混じり合っていた。 美咲はしばらくアレックスの瞳を見つめた後、そっと微笑みながら言った。「アレックス、もし何か思い出したり、話したくなったら、いつでも連絡してね」「ありがとう、美咲。君の言葉が心の支えになるよ」 アレックスは感謝の意を込めて微笑みで返した。しかし、その笑みはどこかぎこちないものだった。「じゃあ、私、そろそろ行くね。また何かあったら連絡するから。アレックスも思い出したことがあったら連絡して」「うん、そうす
Last Updated: 2025-09-21
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