All Chapters of 離婚後、私は世界一の富豪の孫娘になった: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話 馬上のふたり

「そうそう、たぶんそういうことなんじゃない?でもさ、社長がアシスタントと付き合うなんてね……。もし相手を選ぶなら、三井さんみたいな家柄の人じゃないと、やっぱり釣り合わないでしょ」「……」林は入口のそばに立ったまま、聞きたくもない社員たちの噂話を耳にしていた。手は気づかぬうちに、ぎゅっと握りしめられている。胸の内には言いようのない苦味が渦巻いていた。目の奥には、重く沈んだ影が落ちていた。その頃、鈴と仁は社内を一通り回り、会社の運営状況を把握し終えていた。「どう?鈴。MTグループとの提携、考えはまとまった?」そう訊かれ、鈴はにやりと眉を上げた。「考えるもなにもないわよ。身内の利は外に出さないって決まってる。もう、話は決まりね」仁は満足そうに頷いた。「いい返事だ。じゃあ、明日には両社の担当を動かして、契約の段取りに入ろう」「さすが仁さん、話が早いわね」鈴は笑いながら、軽く肩をすくめた。ふたりはそのまま廊下を並んで歩きながら、仁がふと立ち止まり、顔を向ける。「仕事もひと段落ついたし、ちょっと気分転換に出かけないか?」「……え?どこか行くの?」鈴が目をぱちくりさせると、仁は唇の端を持ち上げて言った。「覚えてるよ。君、子どもの頃、馬が大好きだったろ。――馬場に行ってみるか?」その言葉に、鈴は驚いたように目を見開いた。「えっ、まだ覚えてたの?うん……たしかに、最近は全然乗ってないけど、そう言われるとちょっと乗りたくなってきた。行こうか!」「よし、決まりだ」仁はためらうことなく車を出し、そのまま鈴を馬場へと連れて行った。平日の午後。馬場には客の姿もまばらだった。二人が入口に立つと、すぐにスタッフが駆け寄ってきた。「田中様、三井様、いらっしゃいませ!」鈴は驚いた。初めて来る場所のはずなのに、まるで常連のように名前を呼ばれたのだ。仁は軽く頷きながら、スタッフに声をかけた。「……あの白馬を用意してくれ」指示を受けて、まもなく一頭の白馬が引かれてくる。堂々とした姿に、鈴の瞳が輝いた。「わぁ……すっごく綺麗な馬!」仁は馬の手綱を受け取り、鈴の前に差し出した。「乗ってみる?」まるで言葉を理解しているかのように、白馬は静かに膝を折った。「この馬、ほんとに賢い
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第272話 影のボス

翔平はただ一言、「……自分で行け」と言い捨てた。真央は唇を噛みしめ、すぐに反論できず、仕方なく彼の後ろについて歩いていく。しばらくして、ふたりの前に姿を現したのは、約束していた古川社長だった。「いやあ、お待たせしました、安田社長!渋滞に巻き込まれてしまって」翔平は仕事のスイッチが入ったのか、すぐに穏やかな表情になり、落ち着いた声で手を差し出す。「とんでもないです。お越しいただきありがとうございます。古川社長が乗馬好きとお聞きして、今日はぜひ馬上でのご活躍を拝見できればと思いまして」「いやいや、安田社長こそ、お上手だと伺ってますよ。今日はお手柔らかにお願いします」ふたりは談笑しながら馬場の方へと歩いていった。真央は乗馬に興味がなく、ひとり休憩所で過ごすことにした。「すみません、ジュースひとつお願い」スタッフに声をかけ、ゆったりとソファに腰を下ろす。ふと目を上げて、馬場の方へ視線をやると――その瞬間、彼女の表情が固まった。すっと立ち上がり、目を見開く。視線の先、馬に乗っているのは――三井鈴だった。「……なんで、あの女がここにいるのよ?」真央の目には、あからさまな憎悪が宿る。すぐに翔平の姿を探すと、幸いにも彼は鈴と逆側の位置にいる。ひとまず安心する。けれど、気を緩める暇もなく、隣の男の存在に気づいた。――あの男……誰?そのとき、テーブルにジュースを置いたスタッフが小さく声をかけた。「お嬢様、お待たせしました」真央はすぐさまスタッフを呼び止めた。「ちょっと待って」ポケットから万札を数枚取り出し、無造作にスタッフの手に握らせながら、遠くの男性を指差す。「あの男、誰?」スタッフは視線を辿りながら、少し困ったような笑みを浮かべて答えた。「あの方は……当店のオーナー、田中社長です」「……オーナー?」真央の顔に驚きが走る。三井鈴が、こんな場所のオーナーと親しくしてるなんて――これはとんでもないネタだ。「名前は?」「申し訳ありません、それはお答えできません」スタッフの答えに、それ以上は聞き出せないと判断した真央は、手を振って彼を下がらせた。けれど、視線は一点――鈴から決して離れない。――全部……あの女の仕掛けた罠だったくせに……無意識に自分の頬に触
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第273章 その手には乗らない

古川は何度もうなずいた。「安田社長とお仕事の打ち合わせで来たついでに、少し馬にでも乗ろうかと思いまして。田中社長もご一緒にいかがです?」だが、仁は即座に断った。「申し訳ないですが、あまり都合がよくなくて」古川はその言葉の裏をすぐに察し、隣の鈴にちらりと目をやってから、にやりと笑った。「なるほど、了解です。では、またの機会にゆっくりご一緒させてください」軽く頭を下げてから、古川は場を離れた。「安田社長、我々も――」「……いや、古川社長」と翔平は言葉を遮った。「今回の取引は、ここまでということで」古川は目を丸くした。「え?安田社長、ついさっきは前向きにと――」「さっきはさっきです」あまりにも無情な切り捨て方に、古川は困惑を隠せなかったが、相手が安田グループでは強く出ることもできず、くぐもった声で「……失礼しました」とだけ言い残して立ち去っていった。翔平はその場を動かずに、ただひたすら鈴の方を見つめていた。その視線は熱を帯びていて、彼女を無言のまま焼き尽くしそうなほどだった。鈴もその視線に気づき、眉をひそめて顔を上げる。視線が交差する。その瞬間、翔平の脳裏にあの記憶がよみがえった――あの日、二人がこの馬場でライバルとして対峙したときのこと。プロジェクトを懸けて、同じ馬に跨り、全力で競い合った。鈴の馬上の姿が、いまでも脳裏に焼き付いて離れない。「鈴、久々に一緒に乗らないか?」静かな誘いを投げた翔平だったが――「結構です、安田さん。興味がありませんので」あっさりと返されたその言葉に、翔平の表情が一瞬で険しくなる。そこへ、真央がやってきた。にこやかとも、皮肉とも取れるような微妙な笑みを浮かべて、鈴を見つめた。「まあ、奇遇ね。鈴さんもいらしてたの?」その口調は妙に丁寧で、まるで先日の一件などなかったかのように振る舞っていた。鈴は少し驚いたように目を見開く。「真央さんも、乗馬に?」真央は軽く頷き、「でもね、一人で乗ってもつまらないから、ちょっと勝負でもどうかしら?」と笑ってみせた。鈴はきっぱりと首を振る。「すみません、そういうのは興味ないので」それでも真央は笑顔を崩さない。「ふうん……興味がないのか、それとも怖いのかしら?前のことがトラウマになって
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第274話 暴れた白馬

「いい気になるなよ……今日こそ、あの女に思い知らせてやる!」真央が怒気を込めて言い放った。翔平は眉をひそめ、無言のまま彼女の腕を掴んだ。「お前、まさか何かやったのか?」真央がまだ返事をする前に、厩舎の奥から突然、鋭い悲鳴が響いた。「きゃっ——!」鈴だった。彼女は白馬に餌を与えようとしていただけだったのに、その馬がまるで突然スイッチが入ったように暴れ出し、一直線に鈴の方へ突っ込んできた。その勢いに、鈴は一瞬体が固まり、逃げるタイミングを完全に失った。その瞬間、仁がすかさず彼女を庇い、抱きかかえるようにして地面へ倒れ込んだ。「危ない!」白馬は激しくいななき、ロープを力任せに引きちぎろうとしていた。その異様な様子に、鈴はすぐに異変を察した。「仁さん、この子、いつもと違う……」「……ああ、シロはこんな風に暴れたりしない。おとなしい子だったのに」仁が言い終えるより早く、翔平が駆け込んできた。「鈴、大丈夫か?」だがその後ろから続いてきた真央を見た白馬が、まるで見た瞬間に何かを思い出したかのように、ロープを引きちぎり、柱に体当たりした。「気をつけろ!」仁が鈴を庇いながら叫ぶ。白馬はついに繋がれていたロープを断ち切り、怒りに満ちた勢いで真央へと突進していった。「いやああっ!やめて!来ないで!!」真央は悲鳴を上げながら逃げ出したが、足元がもつれ、地面に転がり落ちた。次の瞬間――ドスッという鈍い音とともに、馬の蹄が彼女の背中に叩きつけられた。「……ぎゃっ!」苦痛に顔をゆがめる真央。だが白馬の興奮は止まらない。執拗に何度も、彼女の背中や肩、太腿を踏みつけた。「シロ!やめろ!」仁の叫びも届かない。ようやく駆けつけたスタッフが複数人がかりで白馬を押さえ、ようやく真央を救い出すことができた。だが真央はすでに意識を失っていた。「急いで救急車を!」仁が声を張った。鈴は一歩、白馬に近づいた。すると不思議なことに、それまで荒れていた白馬の呼吸が徐々に落ち着き、静かに鼻を鳴らした。「……やっぱり、おかしい……」鈴は白馬の瞳を覗き込みながら、確信を深める。翔平が険しい顔をしながら彼女のもとに来た。「……怪我はないか?」鈴は不思議そうな顔で見上げた。「安田さん…
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第275話 鈴、ごめん

「この三井鈴って女、うちと本当に相性最悪ね。私たちが一体何したっていうのよ?どうして毎回、こんな目に遭わなきゃならないの!真央、安心しなさい。この件、絶対にあの女から説明を聞いてやる……あなたがこんな重傷を負ったのは、あの馬場のせいでもあるわね」真央は目を光らせて言った。「お母さん、あの馬場のオーナーって、三井鈴の男よ。あの二人、グルだわ」「ふざけた話ね!安田家を舐めてんの?」美咲は目を真っ赤にしながら怒りを露わにした。真央はたった一人の娘だ。それがこんな仕打ちを受けるなんて、黙っていられるはずがない。美咲はそのまま玄関へ向かい、靴を履こうとした。だがその時、玄関には翔平が立ちはだかっていた。美咲は鼻で笑う。「翔平、あなたも聞いたでしょ?全部あの女、三井鈴の仕業よ。今回は絶対に許しちゃダメだからね」だが翔平は冷ややかに唇をつり上げた。「伯母さん、自分の娘のこと、本当に分かってる?」「……何のこと?」美咲は眉をひそめる。翔平はあっさりと言い放った。「俺、その場にいたんだ」美咲はギクリとし、思わず声を荒げた。「翔平、あんたまさかまだあの女をかばうつもり?こんなに真央を傷つけて、前だってお母さんと妹を散々苦しめたのに、それでもあの女の味方をするの?」その言葉は、三年前の記憶を一気に呼び覚ました。――結婚なんて、ただの形式。家の都合で娶った女なんて、黙っていればそれでいいと思っていた。だが鈴は、その三年もの間、妻としての務めを完璧に果たした。どんなに母にいびられても、妹に陰口を叩かれても、一言も文句を言わず、ただ静かに耐えていた。彼女がどれほどの想いで、あの日々を過ごしていたか、当時の翔平には、まるで見えていなかった。そして今、離婚してはじめて気づいたのだ。自分は、どれだけ残酷だったのかを。「伯母さん、はっきり言うけど、今日の件は鈴に全く関係ない。もし文句言うつもりなら、俺に言ってるのと同じだよ。……それと、伯父さんたちの家にはもう一円も出さないからな」美咲はその言葉に顔を青ざめさせた。指を震わせ、口を開くものの、言葉が出てこない。「翔平……あんた、騙されてるのよ……あの女に……」「伯母さん、これ以上は言わない。あとは自分でよく考えてくれ」翔平はそれだけ言
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第276話 順番

その言葉には、どうしようもない無力さがにじんでいた。けれど、言葉では埋められないものも、確かにある。鈴はほんの少し眉を上げ、口元にうっすらと笑みを浮かべた。「間違えたのは安田さんじゃないでしょう?なんで安田さんが謝るの?」翔平はかすかに首を振って言った。「この謝罪は……昔の俺からの言葉なんだ」「もう、やめてよ」鈴はぴしゃりと言って、視線を少し離れたところにいる美咲へと向けた。「この件、私は徹底的に追及させてもらうから」「わかった。どんな決断でも、俺は君の味方だ」翔平の言葉は、はっきりとした意思表示だった。その瞬間、美咲の顔色が変わる。「翔平……まさか、あんた、この女と一緒になって真央を追い詰めるつもり?真央はあなたの従姉妹よ!」「皆大人だ。自分のやったことには責任を取るべきだと思うよ」「でも真央は、今病院で寝てるのよ!?一体何をしたっていうのよ!」美咲は声を荒げた。「いい?あの子には誰ひとり指一本触れさせないから!」鈴の顔に、余計な感情は一切浮かんでいなかった。「私たちは何もしないわ。ただ……警察が何かするかもしれないけどね」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、制服姿の警官が二人、病室の入り口に現れた。「通報を受けて来ました。馬場での騒ぎについて伺いたいのですが、安田真央さんはどちらに?」美咲の目が見開かれる。「何よ、あなたたち……何をするつもりなの?」先頭の警官が一歩前に出て、懐から警察手帳を取り出す。「こちら、私の警察手帳です。安田真央さんはどちらに?法に基づいて、任意でのご同行をお願いします」「……頭が……痛い……なに言ってるのか、さっぱり……」美咲は額を押さえて、よろめいた。鈴は思わずため息をついた。――その演技、さすがに無理があるでしょ。けれど、もうどうにもならない。警察は来た。証拠もある。真央が何を言おうと、もはや逃げ道なんてないのだ。鈴は欠伸をひとつして、待っていた仁のもとへ歩み寄った。「仁さん、帰ろっか」仁は黙って上着を脱いで、彼女の肩にそっと掛けた。「外、冷えてる。風邪引くなよ」そのまま、ふたりは病室をあとにした。その背中を、翔平が見逃すはずもなかった。「俺が送る」背後から手を伸ばし、鈴の手首をぐっ
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第277話 彼を騙したくない

仁は冷ややかに鼻で笑い、ひとつひとつ、言葉を区切るように吐き出した。「だったら見てみようじゃないか。どっちが先で、どっちが後かをな」翔平の目に、一瞬疑いの色が浮かぶ。「……何が言いたい?」仁は一切濁さず、真っ直ぐに言った。「もう三年だ。十分だろ。今回は、絶対に鈴を譲るつもりはない」その言葉はひとつひとつ、くっきりと耳に届いた。鈴は目を上げて彼を見つめる。どこかで、大切な何かを見落としていたような気がした。翔平はその言葉に鼻で笑い、嘲るように口を歪めた。「お前が?ここが誰の庭か分かってんのか?」仁は少しも動じず、淡々と答える。「昔なら、たしかに安田家だったかもな。でも今も、そしてこれからも――試してみればいい」空気に緊張が走る。火花が散る寸前だ。翔平は軽く頷き、どこか楽しげに笑った。「いいね……久しぶりに、こんなに血が騒ぐ相手だよ。俺は今まで、一度も負けたことがないんだ。鈴は、俺がもらう。田中、お前には身の程を思い知らせてやるよ」仁は口の端を吊り上げる。「言うねぇ。でもそれは……君にその力があるなら、の話だな」言い終わると、ふたりの視線が同時に鈴へと向かう。翔平が先に口を開いた。「鈴、俺と一緒に来い」仁は何も言わない。選ぶのは彼女だと、全てを託すように視線だけを向けた。鈴は静かに口を開く。「……安田さん、私はモノじゃない。生きてる人間よ。たしかに、昔は……ほんの少しだけ、あなたに気持ちがあったかもしれない。でも今は、もう全部……擦り減って、消えてしまったの」そう言って、彼女は仁のほうを見た。言葉はなかったけれど、彼にはそれだけで十分だった。無理強いはしたくない。あの頃の、冗談半分の約束を、自分だけが信じていたのかもしれない。仁は目を伏せて、感情を隠すように小さく息を吐いた。けれど次の瞬間。鈴が一歩、彼のほうへと歩み寄る。そして小さく、でもしっかりとした声で言った。「仁さん……帰ろう?」仁がゆっくりと顔を上げる。その瞳には、かすかに光が差していた。彼女の瞳の奥に、自分の姿が映っている。いつの間にか――後ろをついてきていた小さな女の子は、こんなにも強く、頼もしくなっていた。そして、自分もまた。彼女に、取り返しの
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第278話 思いがけない出来事

仁は前を見据えたまま、両手でしっかりとハンドルを握っていた。その表情には感情の波ひとつ見せず、内側で高ぶるものを必死に抑えているようだった。「自分の気持ちに、正直でいればいい。たとえ君の中で、私が一生兄貴のままだとしても構わない。無理に好きにならなくていい。やりたくないことを、やる必要なんてない」鈴は思った。この世界で、自分を一番理解してくれているのは彼だと。この想いを裏切りたくなかった。だからこそ――自分も、少しだけ勇気を出してみようか。そんな気がしていた。「……うん、わかった。仁さん」その返事に、仁はほっとしたように微笑んだ。「……明日、シンガポールのプロジェクトの担当者を帝都に呼ぶよ。契約、進めよう」話が突然ビジネスに切り替わり、鈴は一瞬遅れて反応した。「……あ、うん!じゃあ仁さん、これからもよろしくね!」翌日。朝早く、MTグループの代表が帝都グループに到着した。午前10時。両社の責任者たちが契約書にサインを交わす。「田中さん、これで私たちの会社も、ある意味『一つの家族』ですね。これからもお互い、助け合いましょう」鈴は笑顔でそう言った。仁は彼女を見つめながら、少しだけ冗談めかして答える。「もちろん。三井さん。シンガポールのプロジェクトは長期になるし、資金もかなり必要です。一度、現地を一緒に見に行くのもいいかもしれませんね」その言葉に、鈴はすぐに頷いた。「来週なら行けますよ。もうアシスタントに日程は押さえてもらってますし。田中さんの予定、大丈夫ですか?」仁は少し考えてから、静かに答えた。「……たぶん、大丈夫だと思います」視線が合い、ふたりは自然と笑みを交わした。オフィスを出ると、鈴はふいに口を開いた。「仁さん、今さらだけど……真面目な顔、けっこうカッコいいんだね」「鈴、お世辞がうまくなったな。でも……ちゃんと仕事はしろよ?」「はいはい」鈴は元気よく頷くと、自ら彼を一階まで見送った。ビルの前まで来たところで、仁がふと立ち止まる。「ここでいいよ。もう帰りな」「……うん。それじゃ、また来週!」鈴は手を振りながら、笑顔で見送る。その瞬間だった。彼女の視線はずっと仁に向けられていて、横から迫ってくる車にはまったく気づいていなか
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第279話 殺人の可能性

仁の目がすっと鋭くなり、鈴に「動くな」と目で合図を送ると、彼はゆっくりと車の運転席へと歩み寄った。運転席には、病衣を着た痩せた女性がもたれかかっていた。額から血を流し、意識はなく、体はぐったりとしている。仁がそっとドアを開け、身をかがめて彼女の顔を覗き込む。「……あいつか」鈴もその顔を見て、思わず息を呑んだ。「安田真央……」その瞬間、頭の中にひとつの想像がよぎる。――まさか、私を……殺すつもりだったの?ぽつりと呟いた言葉が、空気を重くする。事故じゃない。これは、明らかに――故意だ。恐怖が、背筋を駆け上がる。もしさっき仁がいなかったら。もし彼が、あの瞬間、私をかばってくれなかったら……。考えるだけで、足元がすくむ。仁はすべてを察して、彼女の前に立ちはだかった。その手が、そっと鈴の肩に触れる。「大丈夫。私がいる」そのひと言で、鈴の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。すぐに警察、消防、救急隊が現場に到着。現場には黄色い規制線が張られ、騒然とした空気が包み込む。事故が起きたのは帝都の敷地内。鈴は責任者として、警察署で事情聴取を受けることになった。その間ずっと、仁は彼女のそばを離れなかった。すべてが終わった後。ふと鈴が彼の腕を見ると、スーツの袖口が赤く染まっていた。「えっ、仁さん……腕、血が……!」鈴は驚いて、彼の腕を取る。仁は平然とした顔で首を振った。「大したことないよ。ちょっと擦りむいただけだから」「どこがよ!こんなに皮が剥けてるじゃない!病院行くよ!」仁は一瞬、口を開いて何か言いかけたが――鈴の真剣な表情に心が揺らぎ、黙ってそのまま彼女に付き添われた。「先生、この人の傷を診てもらえますか?」病院に着き、鈴は受付でそう伝えると、しばらくして男性医師が現れた。眼鏡をクイッと上げながら、仁の腕にある小さな傷を見ていた医師は、一瞬何かを言いかけ、ふと顔を上げた。その瞬間、目が大きく見開かれる。「……えっ?」咄嗟に口を開こうとした医師に、仁がさりげなく人差し指を立て、目配せで「黙って」と示す。医師はすぐに察したようで、にやりと笑う。「うーん、これは……意外と深いねぇ。お姉さん、彼氏の手当て、ちゃんと見てあげてね」鈴はそ
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第280話 ずっと気にしてた鈴ちゃん

そんなふうに紹介されて、鈴は慌てて挨拶をした。「こんにちは、藤原さん」拓海はにっこり笑いながら言う。「いいね、仁くん。でもさ、その傷、そこまでひどくないよね?緊急外来に来るなんて。何か大変なことでもあったのかって、びっくりしちゃうよ」鈴は仁の無事を聞いて、ようやく胸を撫で下ろした。「大事なくてよかったです。藤原さん、ありがとうございます」拓海はガーゼとヨードを持ってきて、手早く処置を始めた。「たいしたことないよ。次は気をつけて、転ばないようにね」処置が終わると、鈴の方を見て告げた。「はい、終わり。三井さん、窓口でお会計お願いね」「わかりました」鈴が外に出ていく。拓海は遠ざかる彼女の背中を目で追いながら、茶化すように言った。「仁くん、俺の記憶が正しければ――彼女って、君がずっと気にしてた『鈴ちゃん』じゃなかったっけ?」まるで大ニュースを仕入れたかのように、得意げな顔。「いやあ、君さ、恋愛経験なさすぎ。そりゃ、何年追っても進展ないよ。恋愛って、そういうもんじゃないから」仁は軽く咳払いしてから、素直に尋ねた。「アドバイス、あるなら聞いてみたい」まさかの謙虚発言。これは歴史的瞬間だった。拓海の目が大きく見開かれる。「うそだろ……これがあの有名な田中仁?」口元にいたずらっぽい笑みを浮かべて、言葉を続ける。「ま、任せといて。まず、恋愛ってのはさ、ちゃんと心を込めて接するのが大事。でも、ちょっとくらい女性の同情心をくすぐるのも、悪くないんだよ。それに彼女、君のこと……結構気にかけてると思うけどな。だから、もう一押し。さっさと彼女落として、俺らにもご祝儀の準備させてくれよ!」「……」病院を出た頃には、仁の腕には包帯が巻かれていた。もともとはちょっとした切り傷だったが、拓海は「これだけじゃ足りない」などと言い出し、わざわざ包帯まで巻いたのだ。仁はやりすぎだと苦笑したが、鈴に止められてしまう。「仁さん、この傷、まだ処置したばかりなんだから、触らないでね。帰ったらなるべく水にも濡らさないで、仕事もできるだけアシスタントに任せて」仁の手が止まった。不思議と包帯が、悪くないものに思えてきた。「わかった。君の言うとおりにするよ」そのとき、遠くからサイレンの音が聞こえてきた
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