あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した  のすべてのチャプター: チャプター 961 - チャプター 970

971 チャプター

第961話

二人が彼の方へ目を向けた。ただ弘次が静かに彼を見つめているだけだった。「まずは処方を出せ」家庭医としてもう何年も診てもらってはいるが、そこまで親しいわけではなくても、互いに知らぬ仲ではない。弘次の言葉を聞いたその医者はしばし沈黙した後に口を開いた。「余計なことを言うつもりはありませんが、先ほど私が言ったことを聞いていましたよね?彼女は病気じゃないんです。そんな彼女に薬を出せだなんて......飲ませたらかえって問題が起きますよ」弘次は冷ややかに彼を見据えた。「心の病気だと言ったな?だったら心の病に効く薬を出せ」「それは...... 心の病気に効く薬なんて、私に処方できるはずがないでしょう」そばにいた澪音は目の前のやり取りにすっかり呆気にとられていた。彼女はずっと弘次が弥生のことをとても気にかけていると思っていた。なのに、医者が心の病だから薬を飲ませられないと言った矢先に、なおも薬を出せと迫るとは一体どういうことなのか。「先生はすでに霧島さんのことを......」「お前に口を挟む権利があるのか?」だがその言葉は最後まで言い終える前に、鋭く遮られた。弘次の目が冷たく澪音を射抜いた。「ここはもうお前の出る幕じゃない。出ていけ」澪音は弥生のことが心配で仕方なかった。たった一言余計なことを言っただけで、弘次に部屋から追い出されそうになるとは思ってもいなかった。唇を噛みしめ、悔しさを覚えた。医者がきちんと状況を説明していたのに、弘次はそれを無視した。まるで弥生を害そうとしているではないか。このところ弥生は澪音に優しくしてくれていた。その思いもあって彼女は思わず庇おうとしたが、そのとき医者が言った。「分かりました。薬を出しましょう」「先生!」澪音は思わず目を大きく見開いた。「だって先生がさっき......」「黒田さんの言葉が聞こえなかったのか?薬を出せと言われたんだ」澪音は言葉を失った。先ほどまでは弘次が狂っているとしか思えなかったが、今はこの医者まで狂ってしまったように見える。弘次は素人だから仕方ないとしても、医者までどうして......しかし彼女に発言権はなく、ただ医者が薬を処方するのを見届けるしかなかった。そして医者は顔を上げ、澪音に言った。「彼女をゆっくり休
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第962話

「先生、さっきのは......わざとじゃなかったんです」「分かってる。お前も心配して、焦っていただけだろう。次はもう少し機転を利かせろ」「でも先生、弥生さんはどうすれば?」澪音は手にしたビタミン剤の瓶を見つめ、苦しげな顔をした。「先生のお話では心の病気なんですよね。ビタミンを飲んでも治らないじゃないですか」「その通りだ」内山先生は真剣な表情で答えた。「だからこれは一時しのぎにしかならない。本当は黒田さんを説得して、心理カウンセラーに診せる方が良い。心のしこりを解いてやるんだ。ただな、今の問題が解決しない限り、カウンセラーを呼んでも効果は薄いだろう。彼女の状態は、私の想像以上に深刻だ」澪音もその深刻さを感じ取れないはずがなかった。自分にできるのは、弘次を説得することくらいだと理解した。「分かりました。私、できる限り頑張ります」内山先生は彼女の肩を軽く叩いた。「点滴もしないといけない。今は体がかなり弱っている」「じゃあ、私も手伝います」その後二人で病室に戻り、弥生に点滴を打った。血管を探していると、内山先生は弥生が前回よりもさらに痩せていることに気づき、思わず眉をひそめた。黙々と処置を済ませた後、内山先生は弘次に向かって言った。「しばらく休ませてください。少しすれば目を覚まします。命に別状はありませんが」弘次は無表情のまま「ありがとう」とだけ返した。内山先生は何か言いかけたが、結局は飲み込んだ。弥生が目を覚ましたのは午後だった。少し持ち直したのか、あるいは点滴のおかげか、顔色もいくらか良くなっていた。目を開けた弥生が最初に見たのは枕元に座っている弘次だった。視線が合った瞬間、彼女は反射的に再び目を閉じてしまった。弥生が目を覚ましたと気づき、声をかけようとした弘次は絶句した。彼女の拒絶の態度は喉をきつく締めつけられるように苦しく、胸の奥を小さな刃物でじわじわと削られていくような痛みだった。一思いに突き刺されるのではなく、永遠に続く拷問のように。弘次は喉を動かし、苦い声を絞り出した。「......目が覚めたか?喉は渇いてないか?水を持ってこようか?」だが目を閉じたままの弥生はまるでさっき目を開けたことすら幻だったかのように、微動だにしない。先ほどの彼の暴走を見て、もう関わりた
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第963話

弥生の言葉に弘次は一瞬固まった。数秒後、ようやく反応を見せ、口元にわずかな笑みを浮かべた。「なるほど、トイレに行きたかったんだな。......でも今は力が出ないだろう?俺が抱えていこうか?」「......私が同意すると思うの?」その言葉に、弘次の瞳がまた陰を帯びた。「そうだな......君が承知するはずない。じゃあ、誰か他の者を呼んでくる」そう言うと、今度は弥生を気遣ってか、弘次はすぐに部屋を出て行った。長く我慢して辛くならないように。彼が出ていった後、弥生はようやくベッドから起き上がった。そのとき、手に鋭い痛みを感じ、ふと見下ろすと手首に針の痕が残っているのに気づく。弥生は眉をひそめた。先ほどはただ体がひどく重く、何が起きているのかも分からないまま意識を失ったのだ。きっと倒れたところを澪音が見つけ、弘次や医者を呼んで点滴を受けさせたのだろう。そこまで考えると、もうそれ以上深く思い悩むのはやめた。ただ体は相変わらずだるく、手の痛みは大したことがなくても、全身に力が入らず起き上がるだけで大変だった。そのとき、慌ただしい足音が近づいてきた。一人の女中が駆け込んできて、弥生の前に膝をついた。「霧島さん、お靴をお履きください」そう言って手早く靴を履かせ、さらにベッドから支えて立たせてくれた。「行きましょう、霧島さん。ご案内します」弥生はもう体力が残っておらず、同性の侍女に支えられるのなら拒む理由はなかった。「ありがとう」戻ってくると、体がかなり楽になり、ベッドに横たわったときには澪音も戻ってきていた。弥生が目を覚ましているのを見て、澪音は目を輝かせた。「霧島さん、やっと目を覚ましてくださったんですね!」その姿を見て、弥生はようやく少し安心した表情を浮かべた。「戻ってきたね」侍女は弥生の視線が澪音に釘づけになるのを見て、この場に自分の居場所はないと悟り、軽く会釈して部屋を出て行った。周囲に誰もいなくなると、澪音はすぐに身を寄せて声をかけた。「霧島さん、どうですか?少しは楽になりました?」先ほどと比べれば、弥生の体調はたしかに良くなっていた。彼女は小さく頷いた。「ええ」その答えを聞いて、澪音は大きく息をついた。「よかった......先生の薬が効かな
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第964話

弥生が再び横になって休むのを確認すると澪音はようやく部屋を出た。弘次は外を離れず、弥生に会いたくないと言われたため、ずっと外で待っていた。物音を聞きつけ、彼は澪音の方へ視線を向けた。その黒い瞳は冷えきっていて、もはや以前のような柔らかさはなかった。その変貌に澪音は驚き、同時に恐怖を覚えたが、それでも勇気を振り絞って口を開いた。「霧島さんは目を覚まされてから、もう一度眠られました」「うん」短く返事をした後、弘次は淡々と尋ねた。「状態はどうだ?」澪音は頷いた。「見たところ落ち着いています。ただ、それは内山先生が点滴を打ってくださったおかげです。先生のお話では、点滴で一時的に体は持ち直すけれど、長い目で見れば、弥生さんが普通の生活に戻らなければ......」そこまで言って、澪音は口をつぐんだ。弘次ほどの人なら察するはずだと思ったからだ。だが、理解しても受け止めてはいないようだった。次の言葉に、澪音は凍りついた。「僕に指図しているのか?」澪音の顔色が変わった。「私は雇われている身です。黒田さんに指図なんてできません。ただ、内山先生の言葉をそのままお伝えしただけです」「そうか......あいつにそう言えと仕込まれたのか?」「いいえ、内山先生はただ......」「お前も内山先生と同じ考えか?彼女は心の病気だと?」そう問われ、澪音は思わず口にしてしまった。「......違うんですか?」あまりに自然なその反応に、弘次は言葉を失った。彼の沈黙を見て、澪音の方は逆に勇気づけられたようで、強く言い切った。「黒田さん、本当に弥生さんを大切に思うなら、この時期こそ専門の医者に診てもらうべきです。将来もし弥生さんに取り返しのつかないことが起きたら、その時に後悔しても遅いと思います。たとえ耳障りでも、これが現実です」そう言い終えると、澪音は彼の反応を見ようともせず、そのまま背を向けて去って行った。残された弘次は、表情を凍りつかせたまま立ち尽くした。弥生の部屋の前に長く立ち続け、入ることもせず、去ることもせず、ただ沈黙していた。少し離れた場所で、友作が静かにその姿を見つめていた。経緯はすべて承知している。灯りに照らされる弘次の背は高く、だが孤独に沈み、影は冷たく長く伸びていた。表
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第965話

これは、弘次の母親が亡くなって以来、友作が彼の前で初めて死という言葉を口にした瞬間だった。しかも、それは弥生についてだった。二人とも弘次にとって大切な女性だ。そのうち母親はすでに亡くなっている。もし弥生まで何かあったら......刹那、弘次の瞳が鋭く変わり、友作を射抜くように睨んだ。「......今、なんと言った?」その恐ろしい眼差しに対しても、友作は平然としていた。「弘次さん。食事を取らず、点滴だけで霧島さんがどれだけ持つと思いますか?」「一か月?人は飲まず食わずでどれくらい生きられるのか、正確なデータがあるのかどうかも分かりませんね」そう言いながら、友作は弘次の目の前でスマホを取り出し、調べようとした。「やめろ!」弘次はついに堪えきれず声を荒らげ、振り切るように部屋を出て行った。残された友作は、怒りに駆られて去る背中を淡々と見送り、それからゆっくりとスマホをしまった。彼に忠告しても無駄だと分かっていた。だからこそ今は、これから起こり得ることを大げさに言って聞かせるしかない。たとえ弘次の母親の死を引き合いに出して彼を刺激してしまったとしても......それでも、弥生に本当に何かが起きた後で後悔させるよりはましだ。人が死んでしまえば、二度と戻らないのだから。弘次は書斎にこもり、八時間近くも独りで過ごしていた。途中、食事を運んでも何の反応もない。心配した使用人が友作に尋ねに来た。友作は答えた。「弘次さんは気分が沈むと、一人で静かに過ごしたがる......放っておけ」そう言われ、使用人たちはそれ以上書斎のことを気にしなかった。食事を一度抜いたくらいでは、人は死なない。彼らが本当に悩んでいるのは、もう一人の方だった。弥生は食べないのではなく、食べても吐いてしまうのだ。それは彼女自身の問題だが、弘次はそう考えない。使用人たちが弥生の口に合うものを用意できないからだと弘次は思うのだ。そのため、料理人たちは頭を抱えていた。いくら工夫して美味しいものを作っても、弥生は結局口にできない。彼らはこれは弥生のせいではないと分かっていても、結局心のどこかで責任を彼女に押し付けてしまう。すべての源は彼女にあるのだから。澪音はその話を耳にしたとき、怒りで気が
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第966話

でも、様子を見ているうちに、状況は見えるほど単純ではないと澪音が気づいた。弥生は何かの理由でここに留まらざるを得ないだけで、実際には弘次を愛してはいない。確かに弥生は留まっている。だが、その心はすでに不調をきたしていた。それでも澪音は彼女がここを離れるという可能性を一度も考えたことがなかった。おそらく心の奥底で、弘次が絶対に手放さないと信じ込んでいたからだ。今、友作に指摘されて初めて、もしかしたら弥生は去ることができると気づかされた。もし去ることができたら、彼女の心のしこりも解けるのかもしれない。そう考えたとき、澪音の胸には新しい使命が増えていた。これまでは弘次を説得して心理医に診せることだけが役目だった。だが今はさらに弘次を説得して、弥生を自由にさせることも加わった。そう思った矢先、友作がまるで心を読んだかのように口を開いた。「自分で弘次さんを説得できるなんて思わないことだ。逆効果になるぞ」澪音は驚いて身を震わせた。自分の心を見透かされていたからだ。だが、彼の言葉は正しかった。自分はただの使用人。出しゃばれば逆に弥生を傷つける結果になりかねない。自分にできるのは彼女を慰めることしかないのだ。もし弘次が心理医を呼んでくれないなら、自分がオンラインで相談すればいい。「分かりました。私はこれで」部屋に戻ると、弥生はまだ眠っていた。澪音はそっと上着をかけ直し、スマホを取り出してオンライン相談を始めた。今の若い世代で心を病む人は多い。澪音の同級生も卒業して間もない頃に重圧でうつになり、自殺未遂をしたことがある。その噂が広がったとき、クラス中が不安に包まれた。澪音も「自分もいずれおかしくなるのでは」と怯え、念のため当時の心理医の連絡先を保存しておいた。幸い、自分はその後うまく気持ちをコントロールすることができて、使うことはなかった。まさか今になって本当に役立つとは思わなかった。澪音は挨拶を送り、弥生の現状を伝えた。ちょうど手が空いていたのか、「連れてきて対面で診たい」という返信はすぐ送ってきた。困った......この心理医は国内いるから、面談なんて不可能だ。事情を説明すると、相手も理解を示してくれた。相談をした結果、まずはオンラインで始め、効果が見られなければ、その時に対面
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第967話

最初、澪音は自分の耳を疑った。弘次が本当に弥生に心理医を呼ぶことを許した?彼女はしばし呆然とし、それから確かめるように聞いた。「今......何とおっしゃいました?」あまりにも信じがたく、もう一度確認したかったのだ。その言葉に、弘次の冷ややかな視線が鋭く彼女を射抜いた。澪音は驚き、すぐに言った。「すぐに手配します!」そうして部屋を飛び出し、ちょうど角にいた友作を見つけて、このことを伝えた。「黒田さんがようやく霧島さんに心理医を呼ぶのを許しました!」澪音にとっては間違いなく朗報だった。だが、友作の顔には喜びの色は一切浮かばなかった。まるでそれが良い知らせではないとでも言うかのような表情が浮かんでいる。その様子を見て、澪音の笑みも次第に消えていった。「友作さん?これって良いことじゃないんですか?どうして全然嬉しそうじゃないんです?」自分が余計なことをしてしまったのだろうかという不安が胸をよぎる。友作は淡々とした目で彼女を見た。「俺はいつもこういう調子だ......医者を呼んでくれ」それだけ言って澪音を追いやった。心理医が到着したとき、弥生はまだ眠っていた。弘次は起こさせず、目が覚めるまで待とうと指示した。往診自体が手間なのに、さらに患者に待たされるなど心理医は不快になった。だが、すぐそばにいた弘次の部下が口を開いた。「今回は出張費用は三倍で計算させていただきますね」その一言で心理医の顔色は一変した。三倍の報酬なら、数時間待たされても構わない。およそ一時間後、弥生が目を覚ますと、ようやく呼ばれて診察が始まった。心理医の名前は渡辺遥人だ。彼は部屋に入ると、まず周囲を観察した。昼間だというのにカーテンは閉め切られ、明かりは室内の照明だけ。黄昏のような暗さが漂っている。患者はソファに座っていた。顔立ちは整っているが、あまりに痩せて顎は尖り、薄い衣服の下の身体は弱々しく、頼りなさげだった。伏せた瞳は生気に乏しく、今にも崩れてしまいそうな印象があった。傍らには女中姿の若い女性が立っていた。さらにスーツを着た男が一人。表情は冷ややかで、明らかに支配者の風格を漂わせている。一目で、この家の主人だと分かった。遥人は軽く挨拶をした。「こんにちは」弘次は
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第968話

弥生を見知らぬ男と二人きりにさせるなんて、しかもどれだけ時間がかかるかも分からない。弘次にとって、そんなこと到底安心できるはずがなかった。まして弥生は今とても弱っている。もしまた気を失ってしまっても、外にいる自分たちは気づけないかもしれないのだ。遥人は、その瞳にある警戒をすぐに読み取った。親族や近しい人がそういう態度を見せるのは珍しいことではない。彼も何度も経験してきた。しかし、これが彼の仕事である以上、退くことはできない。相手の不安を感じ取った遥人は、穏やかに言った。「ご安心ください。私は十数年の経験がありますので。患者の安全だけは保証できます」弘次は薄い唇を引き結んだ。保証の言葉を聞いても、完全に安心した様子はなかった。最後に、彼は相手をじっと見据えて言った。「......ちょっと、二人で話してもいいか?」遥人は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。「もちろんです」こうして遥人は弘次と共に部屋を出て行った。澪音は不安そうに二人を見送り、弥生の方を振り返った。彼女は目を覚ましてからずっとソファに寄りかかり、何の反応も示さない。果たして、心理医の診察はうまくいくのだろうか?やがて二分ほど経ち、心理医が戻ってきた。彼は入ってくると、まず澪音に一瞥をくれた。視線を交わした澪音は、心得て部屋を出た。弘次ですら同席を許されなかったのだから、自分が残れるはずもない。澪音は廊下に出ながら、心の中で首を傾げた。さっきまであんなに警戒していたのに、弘次は心理医を呼び止めて一体何を話したのだろう?だが、それは自分の考えるべきことではない。外にはすでに弘次と友作が待っていた。澪音は挨拶をしたが、弘次は心ここにあらずの様子で、返事すらなかった。ただ心理医に診てもらっているだけなのに、三人の顔色はまるで手術室の前に立つ家族のように暗い。時間がことさら遅く感じられる。弘次は黙って立ち尽くし、澪音は手を強く握りしめ、唇を噛んで固くこわばっていた。そんな中で唯一、友作だけは淡々としていた。どんな結果になろうとも、すでに覚悟を決めているかのように見える。長い沈黙を破るように、室内から物音がした。三人が反射的に顔を上げたその瞬間、扉が開いた。友作は思わず腕時計に目を落とした。入ってか
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第969話

診察の費用について触れられると、遥人も確かに気まずさを覚えた。診療代でさえ、相手は何倍も支払っているのだ。金をもらえば仕事をするしかない。弘次の冷たい視線を前に、遥人は仕方なく言った。「では、もう一度試してみましょう」部屋に入る前に、ふと思いついたように尋ねた。「ただ、彼女の心を少しでも開かせるために、何か興味を持っていることがあれば教えていただけませんか?」「興味を持っていること?」澪音は不思議そうな表情を浮かべ、独り言のように言った。「私、こんなに長い間霧島さんと一緒に過ごしてきましたけど、霧島さんが何かに興味を示したことなんて見たことがありません。黒田さんはご存じですか?」彼女は無防備に弘次へ視線を向け、そっと問いかけた。しかし返ってきたのは、弘次の沈黙だった。友作が視線を上げて弘次を一瞥し、唇の端にかすかな嘲笑を浮かべた。今の霧島さんが興味を抱くことといえば、ここから出ること、もしくはあの人物に関することくらいだろう。だが、そのどちらも弘次が口にするはずはない。案の定、長い沈黙の後で弘次は遥人に向かって言った。「分からない」隣の澪音は、まるで何も理解していない様子で驚きの声を上げた。「えっ?黒田さん、霧島さんが何に興味を持っているかご存じないんですか?本当に何にも興味がないんですか?」彼女の言葉に気に障ったのか、その直後、弘次は冷ややかな目を上げて彼女を一瞥した。得体の知れない寒気を覚え、彼女は口をつぐみ、それ以上言えなかった。遥人はこの人たちの事情を詳しく知らないが、どう見ても雰囲気がおかしいことだけは感じ取れた。患者本人が何に興味を持っているか他の者が分からないのは普通だが、いつもそばにいる男まで知らないのか?遥人は唇を噛み、真剣に思索を巡らせた。もしかすると、弥生の発作と関係があるのではないか。だが......どうにも違和感が拭えない。「黒田さん、一つ質問があります。素直に答えていただきたいです」「言え」その声色は決して穏やかとはいえなかった。遥人はそれを感じ取ったが、患者のために腹を括るしかなかった。「彼女とは、どういう関係ですか?」「それが診断に関係あるのか?」遥人はうなずいた。「本来なら関係ないはずです。ですが......彼女の
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第970話

およそ三分ほどじっと観察したあと、遥人はついに口を開いた。「霧島さん、そんなふうに座っていて疲れませんか?」彼女の座り方はどこか奇妙だった。確かにソファに凭れてはいるが長時間同じ姿勢を続けるのは苦しいはずだ。案の定、その問いかけにも弥生は興味を示さず、ただ淡く一瞥をくれただけで口を開かなかった。遥人は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。「あなたが興味を持つ話題があります。聞いてみませんか?」だが、この言葉でも彼女の注意を引くことはできなかった。そこで思い切って切り込んだ。「ここから出たいと思いませんか?」そう尋ねたとき、遥人は彼女の顔の微細な変化を逃すまいと、真剣に観察した。すると、その言葉に弥生の表情がわずかに揺らぎ、しっかりと彼を見返した。その反応に、遥人はようやく自分の推測が当たったと感じた。おそらく、これこそが病気の核心なのだろう。眼鏡を押し上げ、心なしか気持ちが軽くなった。「霧島さん、もし本当にここから出たいのなら、僕が手を貸せるかもしれません」ようやく弥生は真剣に彼を見つめた。「助けるって、どうやって?」それが、彼女がこの部屋で初めて発した言葉だった。その声は柔らかく、しかし力がなく、息を切らしながら絞り出すようで、病がすでに身体を脅かしているのが明らかだった。こうした患者に接すると、遥人はいつも胸が痛み、無力感に苛まれた。「どうすればいいのですか?」彼は患者との信頼関係を早く築こうと努めた。弥生は静かに彼を見つめ続けた。どう助けてほしいのか、自分でも分からない。その瞳には迷いが宿っていた。「分からない」「分からない?」遥人は突破口を見つけたかのように問い返した。「どうしてです?心の中に何か思いはあるでしょう?」「あるわ」弥生は強くうなずいた。「それは、どんな思いですか?」そう問うと、ようやく少し心を開いたはずの弥生は、また口を閉ざしてしまった。遥人は急かさず、辛抱強く待った。しかしいつまで経っても返事はなく、彼は言葉を添えた。「もし難しければ、少しだけでも話してみませんか?無理なら別の方法を考えましょう」だが弥生は首を振った。「いいわ。君には無理。出ていって」心の内を少しでも触れられると、彼女は再び拒絶を示した。先ほどま
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