All Chapters of こんにちは、隣人さん!: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「愛奈ちゃん、ママが用意したお部屋、気に入った?」大学を卒業した後、うちのママが私、水木愛奈(みずき あいな)にマンションを一部屋買ってくれた。メゾネットタイプの間取りは確かにすごく気に入っている。ただ、どうも防音がイマイチみたいだ。毎晩、隣の部屋の物音が丸聞こえなのだ。こっちは徹夜で仕事の追い込みをかけてクタクタだというのに、やっと家に帰ってきてもこんな仕打ちを受けないといけない。我慢できない。まったくもって我慢の限界だ。「失礼しまーす、水道の点検でーす」私はボイスチェンジャーを使っておっさんの声に変え、ドアをノックする。誰かがドアを開けに出てくる気配がしたら、すぐに逃げる。しかし、しばらく静かになっても、またすぐに元通りだ。本当に、隣の住人は発情期の犬かなにかの生まれ変わりなんじゃないかと疑ってしまう。騒音公害には本気で耐えられない。馬車馬のように働いて、夜のこの時間だけが唯一静かに過ごせる時間なのに。「失礼しまーす、ガスの点検でーす」私は再び同じ手を使った。そっちがいつまで耐えられるか、見てやろう。今度はよほど焦れたのか、相手はそのままドアを開けた。私はドアスコープ越しに、真夜中に寝もしない精力絶倫男をこっそり覗き見た。おや、ちゃんと服を着てドアを開けた。案外、恥じらいはあるらしい。上品そうな顔立ちで、金縁の眼鏡までかけている。見た目に反して、やることはエグい。ドアが閉まった途端、またあいう声が響き始めた。この男、大したものだ。部屋から出てくるところなんて、ほとんど見たことがないのに。いっそ、ドアの前でコンドームでも売ってやろうか。そしたら彼のおかげで一儲けできるかもしれない。この精力男には感服する。この手まで通じないとは、さすがに予想外だった。仕方なく、私はママにテレビ電話をかけて愚痴をこぼすことにした。「ママ、この部屋すごく良いんだけど、隣に精力オバケが住んでる」電話の向こうで、ママは困惑した。「精力オバケ?」「そう。一日中ひっきりなしにやってるの。私、もうノイローゼになりそう。信じられないなら聞いてみてよ」私はこの機に乗じて大げさに嘆いてみせた。この部屋の内装が、ずっと前から気に入らなかったのだ。しめしめ、これを口実にリフォームしてもら
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第2話

どう考えてもおかしい。しかし、注意喚起くらいはしてもいいだろう。翌日、私は自宅のドアに飾られた蓮の花の飾りと、「欲望抑制」とデカデカと書かれたステッカーを見た。我ながら満足のいく出来だ。ママが手配したリフォーム業者がすぐにやって来た。ちょうど私も地方へ短期出張に出るところだった。私は業者に、急いで住みたいからと工期を早めるよう念を押し、追加料金を払って徹夜で作業を進めてもらった。あの精力オバケには散々騒音を聞かされたのだ。こちらも「ささやかな贈り物」を返して、お互い様ということにしないと。私は呆然とした。誰か説明してほしい。なぜあの精力オバケが、依頼人の席に座っているのか。うちのアニメ会社が提携する声優が、まさか彼だったとは。あり得ない。幸い、彼が私の正体を知らないことだ。もし知られたら、うちの部署のこの案件はまたパーになってしまうだろう。「こんにちは。山下彰人(やました あきと)です」さすがは声優。自己紹介の声ですら、気だるげで優しく、魅力を帯びていて聞き惚れてしまう。山下彰人。国内では有名な声優だが、公の場には一切姿を見せない。多くの人々が、彼は不細工だから顔を出せないのではないかと噂している。しかし、もしその連中が彼の容姿を目の当たりにしたら、絶対にそんな言葉は二度と口にできないはずだ。彼が公の場に出ないのは賢明な判断だ。もし人気が出すぎたら、うちのような会社が彼と提携できるチャンスは、まず回ってこなかっただろう。道理で、彼の恋人もあれだけ性欲の強い彼に付き合っていられるわけだ。もし私が彼女なら、毎日彼を家に隠して独り占めする。ルックスは抜群、声も極上、おまけに性格も悪くなさそうだ。なにしろ、うちの会社が提示するこれほど無茶苦茶な契約条件を呑める人間はそうそういない。高田(たかだ)主任は、どうせ私が恥をかくだろうと高を括って、私をサインさせに向かわせたに違いない。それなのに、彼は契約書にさっと目を通しただけですぐにサインした。収益配分は3対7。目標再生数に達して初めて残金が支払われ、おまけにこちらの制作スケジュールは保証しない。こんな条件に反論ひとつせず、ゴネるそぶりも見せない。こんな神様みたいなクライアントは、千載一遇だ。契約書を抱えて本社
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第3話

彼の様子に驚き、私は慌てて背後を振り返った。誰もいない。ふと、最近読んだミステリー小説のことが頭をよぎる。まさか、彼は何かに取り憑かれているのではないか。私が困惑した顔をすると、男はさらに怯えた様子を見せた。あの精力オバケぶりだ。きっと、やりすぎて衰弱したところを悪霊に狙われたのだ。でなければ、これほど長い間ひと言も発しない理由がない。今はひとまず逃げるが吉だろうか。私たちが互いに顔を見合わせていた、その時だった。どこからともなく、真っ白な子猫が一匹現れた。優雅な足取りでこちらへ歩いてくる。目の前の180センチ超えの大男が、その場にへなへなと崩れ落ちた。今度は一体なんだというのか。わけがわからないまま、私もとりあえず膝をついた。山下は子猫を抱きしめ、それはもう、こちらが気の毒になるほど泣きじゃくっている。私は呆気に取られた。つまり、彼が黙り込んでいたのは、泣きすぎて声がガラガラになっていたかららしい。あの美声がこんなことになっては、契約破棄を考えたくなるレベルだ。あれだけ大騒ぎして、てっきり自殺でもするのかと思えば、ただ飼い猫が脱走して気が気でなかっただけとは。山下が、ひどく掠れた声で尋ねてきた。「なんで、ここに」私は頭を掻きながら答えた。「私、お向かいの部屋なんです。ちょうど出張から戻ってきたところで」とにかく無事だったなら、もう退散しよう。こんな無様な姿は、そっとしておくべきだ。私は彼に会釈だけして、自室に戻った。ママが手配した業者の仕事は早く、一週間ちょっとで全部屋の防音工事が完了した。私は会社のゲーム事業部に所属しており、ある人気キャラクターのシナリオとセリフを担当している。山下との契約締結後、会社はすぐにキャラクターのティザーPVを公開した。しかし、待っていたのは予想していたような賞賛ではなかった。私の脚本が盗作だという疑惑が、瞬く間にSNSのトレンドを駆け上がったのだ。まだ新品の匂いが残る部屋で、私は呆然としていた。私が、盗作?いつそんなことを私自身が一番知らない。その時、ドアをノックする音がした。ドアを開けると、例の子猫を抱いた山下が、じっと私を見つめて立っていた。彼も、あのトレンドを見たのだろう。私は彼を部屋
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第4話

私は心の中でフィギュアに哀悼を捧げた。我が子よ、あなた一体の犠牲で私の名声が守られるなら、安いものだ。以前の会社に送った応募メールを掘り出した。案の定、重複している設定やプロットはこのメールの中に見つかった。応募した当時は私の企画案を鼻で笑っていたくせに。今になって臆面もなく盗用している。山下は実に頼りになる。彼はフィギュア代を弁償すると言って聞かないばかりか、私の上司にも連絡を取り、さらには完璧な証拠のリストまでまとめてくれた。会社の広報も督促されたのだろう。意地を見せたのか、珍しく真剣に潔白を証明する声明を出し、逆に相手の会社を盗作で訴え返した。高田主任が、嫌味たっぷりに社内グループチャットに書き込んだ。【もうすぐうちのゲームの新キャラのベータテストが始まる。苦労もできないコネ入社組は、とっとと辞めたらどうだ】みんなの共通の成果なのに、問題が起きてもあなたは解決策を考えようともしない。私が解決したら、今度は嫌味三昧だ。まあ、仕方ない。向こうの方が役職が上なのだから。本当に使えない。私も心の中で不満を漏らすことしかできない。今回、確かに私の原稿が問題の発端だったのは事実だ。しかし、なぜ彼は本物のコネ入社を私のチームに寄こしたのだろうか。私と山下がレコーディングスタジオに着くと、眼鏡をかけた内気そうな青年がすでに待機していた。彼はかいがいしく山下さんにお茶を出し、上着を預かり、椅子を引くなどしている。随分と従順なコネ入社だ。山下は風邪気味で、ここ数日ほど調子が良くない。収録がなかなか期待したレベルに達しないのを見て、私は提案した。「今日の収録はここまでにしましょうか」しかしその時、例のコネ入社が「ダメです」と強く言い張り、「もう一度お願いします」と繰り返し続けた。確かにスケジュールは逼迫しているが、それにしても彼は執拗に急かし続ける。まるで、是が非でも山下をスタジオに引き留めたいかのようだ。普段と違うことが起きる時は、必ず裏がある。私はトイレに行くふりをして、廊下の窓から外を覗き見た。とんでもないことだ。こんな辺鄙なスタジオの下に、あれほど多くの車が停まっているのを初めて見た。うじゃうじゃと、大勢の人間がいる。私はスタジオに戻り、山下にスマホを見るよう合図した
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第5話

「探すだけ無駄ですよ。彼はもう帰りました」「水木!どの面下げてそんな真似を……外のマスコミを呼ぶのに、いくらかかったと思ってるんだ!」目の前の男は激昂し、唾を飛ばしながら喚いている。いつも通りの内気そうな様子は微塵もない。「もう彼は帰ったんです。今更そんなことを言っても無駄でしょう」私は激昂する男を無視し、颯爽と鞄を掴んでその場を後にした。私の背後で、男が去っていく姿を睨みつけながら、陰鬱に歯噛みするのが分かった。「……その気なら、こっちにも考えがあるぞ」【速報!女性ゲームデザイナー、会社幹部と二股か】【悲報!女性ゲームデザイナー、現実世界で声優相手に「妄想女」プレイか】翌日、山下の写真は、やはりトレンドの上位に晒された。とある暴露系アカウントが、私と会社の幹部の関係を匂わせる記事を投稿したのだ。以前の盗作疑惑も相まって、世論は一気に燃え上がった。さらには、私が高級車から降りてくるところを捉えた写真まで出回った。傍らには中年男性が写っており、私に媚びへつらうような笑みを浮かべている。SNSでは、多くのコメントが寄せられた。【前の盗作疑惑が晴れた時も信じてなかった。大卒の新人が、あんな刺さるキャラ設定を書けるわけない】【この女、またどっかの可哀想な『パパ』に業績を貢がせたんだろうな】【あの男、知ってる。上場企業の『高木グループ』の社長だろ。あんな大物まで手玉に取るとは。女は稼ぐのが楽でいいよな】【そもそもネトゲ業界に女は向いてない。奴らは男のロマンが分かってない】別の暴露アカウントは、私と山下がスタジオにいる写真を公開した。私が山下さんに水を渡しているところだったが、距離が近いため、まるでキスをしているかのように見える。私はそこそこスタイルには自信がある。ごく普通のオフィスウェアを着ていただけだが、ネットではさらに好き勝手な憶測が飛び交った。【このスタイルはヤバい。そりゃ男もイチコロだわ】【言っちゃ悪いが、こういう『お姫様』は稼ぐのが早い。ちょっと色目を使えば、男たちがこぞってリソースを差し出すんだから】【聞いた?この女が書いたキャラ、山下本人をモデルにしてるらしい。で、今度は本物までゲットかよ】【リアル妄想女、ここに爆誕だな】【スレチだが、山下様まじでイケメン】
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第6話

彼らが部屋に入った後も、私は玄関のドアを開けたまま左右を見回した。しかし、私に掴みかかってくるはずの「彼女」の姿はどこにもない。まさか、私との一件が原因で、このの精力オバケは彼女にフラれてしまったのだろうか。だとしたら、髪も乾かさずに「愛娘」を連れて乗り込んできたのは、私に説明を求めるためだ。「ドアの前で、まだ何してるんですか」大きい方と小さい方は、すっかりこの部屋に馴染んだ様子で、勝手にソファに腰を下ろしている。子猫のくりくりとした瞳は、まるで私を射抜くようだ。「ママを返して」と顔に書いてある。「あの、山下さん。この件は私がちゃんと解決しますから。彼女さんのところへも、私が直接謝罪に伺います。絶対に、私が意図して仕組んだことじゃないんです」彼は少し戸惑ったように、髪を拭いていた手を止め、何やら考え込んでいる。もしかして、誠意が足りなかっただろうか。「なら、今すぐ彼女さんに電話してください。私が今すぐ、全部説明しますから」男の困惑は、さらに深まったようだった。私は恐る恐る尋ねた。「それとも、何かご希望の条件が……できる限り、応じます」男は心底不思議そうな顔で口を開いた。「いや……俺、いつから彼女ができたんだろうって考えてたんです。ここ最近で会った女性って、あなたしか思い浮かばないんだけど」え。これは、気まずすぎる。では、毎晩聞こえていたあの声は何だったというのか。まさか、私の幻聴?しかし、ドアに貼った「欲望抑制」の蓮の花はまだそのまま残っている。今度は、私が黙り込む番だった。だとしたら、この精力オバケは一体何を喘いでいたのだ。私の脳裏に、ある不吉な可能性が浮かんだ。まさか、相手は男……?精力オバケは、床のカーペットを引っ掻いている子猫を抱き上げ、毛並みを撫でながら私に尋ねた。「どうして、俺に彼女がいると思ったんですか」変身できる薬があるなら、今すぐ私を猫に変えてほしい。このカーペットを代わりに引っ掻かせてくれ。こんな修羅場では、猫は口がきけなくて本当に幸運だ。「なんとなく……彼女がいそうなオーラが出てたので」まさか、「あなたのあいう声が聞こえてました」なんて言えるはずがない。当の本人はまったく顔を赤らめていないのに、私の顔ばかりが熱を持って火照って
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第7話

私は家に帰り、優雅に家を破壊している白猫を眺めながら、新品のカーテンに静かに哀悼を捧げた。よその子だ。叩くわけにもいかない。もうこの家はダメかもしれない。スマホを開くと、案の定、私が出した声明など誰も意に介していない。相変わらず、私への罵詈雑言が溢れている。弁護士を通じて警告書を送付しても、この馬鹿騒ぎは収まらなかった。そちらが恥知らずなら、こちらもまともな手段で応じる必要はない。私が「資本」だか「裏口入社」だか、好き勝手言ってくれる。それなら、本当の「裏口」というものを見せてあげよう。高木さんがこの件を黙って見過ごすはずがないことは分かっている。ならば、高田主任という恥知らずをどう引きずり下ろすか、じっくり考えるまでだ。私は白猫を部屋に閉じ込めると、すぐにタクシーで会社の事業部へと向かった。あのコネ入社の男は、案の定まだそこにいた。私はボイスレコーダーを起動させると、ヒステリックに喚き散らすふりをして、事業部長の元へ説明を求めて怒鳴り込んだ。その男――高田主任は、悠然とコーヒーを一口すすると、急ぐでもなくカップをかき混ぜた。「人に知られたくなければ、初めからやらねばいい。火のない所に煙は立たないと言うだろう。水木くん、君も自分の素行を少し反省してみたらどうだね」コネ入社の男も、傍らで猫なで声を出した。「水木さん、あんたスタイル良いんだから、男が変な気起こすのも仕方ないですよ。今後は気をつければいいじゃないですか。ネットでちょっと叩かれたって、肉が減るわけでもありませんし」「私のスタイルが良いのが悪いって言うの?まるで私が悪いみたいに。ふざけないで!証拠だって改ざんされてるのに!」私が発狂するのを見て、周りの社員までもが同調し始めた。「まあまあ、彼の言うことにも一理あるよ、水木くん。火のない所に煙は……」「あなたが火元だとでも言うの?今日は、誰が私の写真をネットに流したのか、それを聞きに来た!」私は、のんびりとコーヒーを飲んでいたクソ上司からカップをひったくり、そのままコネ入社の眼鏡男にぶちまけた。上司はさすがに事態が収拾不能になりそうだと見て、慌てて「損して得取れだ」とか「大物は小事にこだわらないものだ」とか、私に事を荒立てるなとくだらない説教を垂れ始めた。「私の情熱は
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第8話

ママはからかうように言った。「本当に、さっさと家業を継ぎに戻ってくればいいのに。高木さんも大歓迎よ。で、どういう風の吹き回し?コネに頼る気になったわけ?」「向こうがコネで私を潰そうとしてきたから。だったら、こっちも隠すのをやめて、手札を見せてやろうと思って」「もういいでしょ、ママ。私はこれから、鬱憤を晴らして、堂々と生きていくんだから」電話を切り、私は踵を返して再び会社へと足を踏み入れた。あの連中はまだ腹を抱えて笑い転げている。いいだろう、今日は気が済むまで笑わせてやる。私が戻ってきたのを見て、まずコネ入社の男が口を開いた。「あれ、辞めたんじゃなかったのか?何しに戻ってきた?」「あなたたちに出て行ってもらうために戻ってきたの。ここ、私の会社になったから」「おや、さっき転んだ拍子に、頭でも打っておかしくなったのか」「スマホを見てみなさい。たった今、この事業部は私の名義になったから」彼らは侮蔑的な表情でスマホを手に取り、次の瞬間、恐怖に引きつった顔で私を見上げた。「そんな、あり得ない……」「あり得なくなんかない。あなたが言ったんでしょ?私は『コネ入社』だって。あなたたち、クビよ」さっきまで猫を被っていた高田主任が、今度は本気で泣き始めた。「頼む、クビにしないでくれ!私には養うべき家族が……この会社をクビになったら、生きていけないんだ!」「だったら、教えてくれる?誰が私の写真をマスコミに売ったのか」さっきまで野次馬だった同僚たちは、一斉にうつむいて死んだふりをしている。高田主任は口ごもり、何も言わない。一方、隣のコネ入社の男は、何を企んでいるのか、不気味なほど静かだ。スマホに誰かからメッセージが届いたらしい。彼は、得意げに顔を上げた。「このアマ。クビにするなら勝手にしろ。後でどうなっても知らねえぞ」高田主任は、彼の自信ありげな様子を見て、どこか安堵したような表情を浮かべた。荷物を抱えて去っていく二人を見送りながら、私は思う。一体、次は何を仕掛けてくるつもりだろうか。直人が準備していたことって、まさか記者会見だったとは。家に帰り、一息つこうとテレビをつけた途端、そこにはビシッとスーツを着こなした男が映っていた。彼は壇上に立ち、集まった記者たちの集中砲火を浴びている。
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第9話

弘人が、しつこく粘着質な性格であることは分かっている。あんな男に惚れた時点で、私の目は腐っていたのだ。私はきっぱりと電話を切り、もう相手にするのはやめた。例のコネ入社男と高田主任が、私の名誉を貶めようと執拗に攻撃してきた裏にも、やはり弘人がいたらしい。それが奴の切り札のつもりだろうが、私を屈服させるには至らない。実家にも、この一件は当然伝わっていた。ネット上の動画は、大方削除されたようだ。しかし、未だに多くの人々が「どうせバックに誰かいるんだろ」といった内容のコメントを残している。あんな動画の何が面白くて、これほど拡散されるのか、本気で理解に苦しむ。くだらない。だが、私にはどうしても知りたいことがあった。私のお見合い相手、高木さんが「『男はクズばかり』という偏見を、きっと覆してくれる」とまで言った「いい男」……櫻井直人が、この事態を前にどう動くのか。その時、ドアの向こうからカリカリと引っ掻く音がした。ドアを開けると、そこには子猫のシロがいた。背中にはチョコレートが括り付けられ、首からは小さなメモがぶら下がっている。私はシロを抱き上げ、首からメモを外した。広げると、そこには直人の整った文字が並んでいた。【今、あなたが男性には会いたくないだろうことは分かっています。でも、シロ(子猫)は女の子です。あなたのそばにいさせてほしい。明日の朝、一緒に警察署へ行きましょう。あなたの尊厳がそんなことで微塵も傷つかない。あなたは俺が知る中で最も勇敢で、最も愛されるべき女性です。初めてL国の街で会った時から、そう確信しています。チョコレートでも食べて、元気を出してください。シロがきっと君を癒してくれます】子猫は私の腕をくんくんと嗅いだ。甘い匂いのする、柔らかくて可愛い子猫。チョコレートの重みで、その瞳は涙で潤んでいるように見えた。「シロ、あなたは正直ね……仕方ない、あなたのお父さん、ギリギリ合格ってことにしてあげる」可哀想に、ぬいぐるみ代わりに差し出された子猫を抱きしめて、私はその夜、久しぶりにぐっすりと眠った。翌日、私たちは警察署へ行き、被害届を提出した。署の警官は、私の元恋人の名前を聞いた途端、目を光らせた。「その情報、間違いありませんね?赤木弘人、男、29歳。国内にいた頃の本籍はS県H市……彼との
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第10話

ネット上では、私に関するデマが依然として飛び交っていた。幸い、罪を償うべき人間は皆、牢獄へと入った。弘人が死刑執行前に私との面会を要求した。直人が付き添ってくれた。彼はガラス越しに私を見つめている。「水木愛奈……!化けて出てやるからな。あれだけお前に尽くしてやったのに、笑わせる。結局、お前のせいで俺はこうなった。俺がお前に何をした!」「弘人。本当の優しさっていうのは、誰に対しても平等で、偏執的でも極端でもないものよ。あなたが私を監禁していたあの時、私たちの間に本物の愛なんてなくて、あなたの異常な支配欲しかなかったって、とっくに気づいてた……来世はもう、人間に生まれ変わらない方がいい。どうせあなたには、理解できないでしょうけど」直人が傍らで付け加えた。「安心して。腕のいい坊主に頼んで、『冥福』を祈らせてやる」私たちの会社のゲームは、無事にリリースされた。例の一件のおかげで、このゲームの知名度は空前絶後のものとなっていた。警察からは、私と会社に対して公式に感謝状が贈られた。一時は、騒ぎを聞きつけた野次馬や、好奇心で集まったプレイヤーたちでサーバーが何度もダウンするほどだった。高木さんは儲かって笑いが止まらない様子だし、直人が担当したキャラクターは話題性も二次創作の数もぶっちぎりのトップだった。ふと、直人が見せたあの写真を思い出す。あの頃、私はまだL国に留学中で、物乞いをしている小さな男の子を見かけた。可哀想に思って、彼にお金を渡し、パンを買いに連れて行ったのだ。けれど、弘人はそれを許さず、私に激怒した。「世の中は危険だ」とか「お人好しすぎる」とか。私は「子供相手にヤキモチ妬いてるの?」なんてからかったが。今思えば、全ての前兆はあの頃からあったのだ。私と直人が結婚したその夜、私はついに、ずっと抱いていた疑問を口にした。「直人。私が引っ越してきたばかりの頃、毎晩あんな声を出して……何をしていたの?」直人は少しお酒が入っていて、しばらくうーんと考えた後、言った。「ああ……発声練習と、あと筋トレ。あの時期、ちょうど情熱的なシーンのある仕事が入ってて、その『勉強』を」「へえ、『勉強』。その成果は、どうだったの」直人の瞳から、酔いの気配がすっと消えた。彼は突然、私を横抱きに抱え上げる
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