白い壁に囲まれた診察室は、消毒液の匂いが鼻をつき、どこか無機質で冷たい空気を漂わせていた。蛍光灯の光が眩しく、壁に映る自分の影がやけに薄く見えた。机の向こうで、医師がカルテをめくる音がカサカサと響く。眼鏡の奥の目が細まり、低く落ち着いた声が告げた。 「おめでとうございます。橘さん、妊娠されていますよ」 その一言が、まるで重い石を水面に投じたように、私の心に波紋を広げた。世界の輪郭がぐにゃりと歪み、時間が一瞬止まった気がした。耳鳴りがして、頭の中が白く霞む。 ――私の中に、命が宿っている。 「……え」 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。反射的に指先でお腹をそっと押さえてみる。だが、そこにはまだ何の変化も感じられない。ただ、心臓の鼓動がやけに速くなり、全身を血が駆け巡る感覚だけがリアルだった。胸の奥で、喜びと不安がせめぎ合う。 「週数としては、まだ初期段階です。順調に育っていますが、これから気をつけることは多いですよ」 医師は淡々と説明を続けた。栄養バランス、適度な運動、アルコールやカフェインの制限、体を冷やさないための注意……。言葉の一つ一つは頭に入ってくるのに、心はどこか別の場所を漂っていた。まるで現実から一歩離れた、夢のような空間にいるかのようだった。 ――私が、母親になる? 白い部屋の中で、ふと母の面影が浮かんだ。七年前、交通事故で突然この世を去った母。いつも穏やかに微笑み、私の髪を撫でてくれたあの温かい手。事故の日の朝、最後に交わした何気ない会話――「美咲、今日も元気でね」。その声が、今も胸の奥で鮮やかに響く。母の笑顔を思い出すたび、涙腺が緩むのを抑えきれなかった。 診察室を出ると、病院の廊下は人の足音と話し声でざわめいていた。看護師の呼び出しアナウンス、患者の家族のひそひそ話、車椅子の軋む音。それらが雑踏のように混ざり合い、耳に遠く響く。私はただ、自分の靴音だけを頼りに歩いていた。頭の中は「命」という言葉で埋め尽くされ、他の音はまるで海の底から聞こえるようにくぐもっていた。 *** 病院の玄関を出ると、12月の冷たい風が頬を刺した。吐いた息が白く舞い、夜空に溶けていく。街はクリスマス前の華やぎに包まれ、ガラス張りのビルには色とりどりのイルミネーションが映り込んでいた。通り過ぎるカップルの笑い声や、子どもが母親にねだる声が
Last Updated : 2025-09-22 Read more