港市の人間なら誰もが知っている。この街一の大富豪、今井瑛翔(いまい えいと)が度を越した愛妻家だということを。その妻である私・竹内詩織(たけうち しおり)は、一時期、誰もが羨む存在だった。けれど、岡本紗希(おかもと さき)という女が現れて、私は初めて思い知ったのだ。どれだけ深く愛してくれる人でも、心変わりはするものなのだと。私にバレるのを恐れた彼は、紗希を川沿いの郊外にある別荘に隠し、私の目の届かない場所で、彼女をとことん甘やかしていた。だが、私の前にだけは決して彼女を出すことはせず、情事の後にはいつも、冷たい声でこう警告していたという。「もしこのことを詩織にバラしたら、君のいい御身分もそこまでだ」しかし、その女はそう素直ではなかった。彼女は瑛翔の寵愛を盾に、毎日私に当てつけのような真似をしてきた。紗希の存在は、彼がもはや私だけを愛してくれた頃の瑛翔ではないのだと、絶えず私に突きつけてくる。それならば、私は彼の選択を尊重し、永遠に彼の前から姿を消そう。……別荘を出てから、私はあてもなく街を彷徨い、家に帰り着いたのは深夜だった。家政婦の加代ばあやが、いつものように漢方薬の入ったお椀を私の前に差し出した。ふわりと漂う血の匂い。その嗅ぎ慣れた香りに、私は呆然と物思いに耽っていた。瑛翔と結婚してから、私たちにはずっと子供がいなかった。病院で検査した結果、私の子宮に問題があり、妊娠しにくい体だと分かったのだ。その事実を知った私は涙に暮れる日々を送り、そんな私を見かねた瑛翔は、国中の名医を探し回ってくれた。そしてついに、彼は地元で非常に名高い漢方の老大家に巡り会った。その医師曰く、男性の指先の血を副薬にすれば、女性の子宮の疾患を和らげることができるという。この民間療法を知ってから、彼はいつでも副薬が採れるようにと、ほとんど肌身離さず小さなナイフを持ち歩いていた。この数年で、彼の指先はナイフの傷で見る影もなくなっていた。このことのために、彼はピアニストになるという夢さえ諦めたのだ。彼の指先の血で煎じられたその薬を、私は五年も飲み続けてきた。てっきり彼は、私たちの間に子供ができるようにと、私の体を一日でも早く良くしたかったのだと思っていた。まさか、これほどの代償を払ってまで、彼がただ私に自分の子を永
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