海外に出て七年、十二歳の娘は今や世界に名を轟かす天才ピアニストになっていた。どんなに難しい曲でも、彼女の指先を通せば美しい音楽へと変わる。けれど、ただ一曲の平凡な子守唄だけは、何度リクエストされても決して弾こうとしない。もしそれを弾いてしまったら、あの男をまた許してしまいそうで怖かったから。だからこそ、あの男が巨匠の手作りのピアノを抱えてやって来て、娘に子守唄を弾いてほしいと頼んだとき。娘はただ静かに首を振る。「おじさん、私、その曲は弾けないよ」渡辺千明(わたなべ ちあき)は目が赤くなり、娘の手を無理やりピアノの鍵盤へ置いた。「そんなはずないだろ、安珠(あんじゅ)は天才ピアニストなんだろ?ピアノが欲しいってずっと言ってただろ?パパが買ってやったんだ。これからは、何でも欲しいものはパパに言え。パパが全部叶えてやる」安珠は冷たく右手を引っ込める。「いらないよ、おじさん。もう自分で稼いでピアノぐらい買えるから。そのピアノはあなたの娘さんにあげて」千明は氷の底に突き落とされたみたいに絶望し、安珠を力任せに抱きしめる。「安珠、何を言ってるんだ?あなたはパパの唯一の娘なんだ」安珠は不思議そうに言う。「でも、おじさんは言ったよね?おばさんの娘だけがあなたの子どもにふさわしいって。あなたが私に約束したピアノを、結局あの子にあげちゃったんじゃないの?」そう言って、安珠はどうでもよさそうに笑う。「いいんだよ、おじさん。おばさんが好きなら、その娘を育てればいい。私にはママがいれば十分だから」千明の胸の中に、複雑な感情が渦巻く。来る前にどんな態度を取られるか想像していたが、娘の拒絶がここまで強いとは思いもしなかった。彼は知らない。私と娘が、これまでに何度も彼にチャンスを与えてきたことを。それでも彼は、何ひとつ応えなかった。千明と結婚した五年間、彼には自分が実は渡辺家の御曹司だと打ち明ける無数のチャンスがあった。それでも彼は、いつも黙ったままだった。娘が「パパにピアノを聴かせたい」と言うたび、彼は貧しいふりをしてはぐらかした。「いいよ。でもパパは今お金がないんだ。お金を稼いだら大きなピアノを買ってやるからな」五年間、私は毎日、娘を連れて広場で露店を出して大道芸をして暮らした。彼はその様子を冷たい目
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